機関誌 ごんずい 49号![]() |
| 海に向かって祈る左から吉井水俣市長、 大島前環境庁長官、福島県知事、 岩垂環境庁長官。(96年5月) |
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| お知らせ看板 |
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| 国の積極的関与が訴えられた(93年3月) |
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| 徐々に自由な発言が可能になっていった |
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| 患者連盟・連合主催慰霊式での吉井市長(94年5月) |
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| 水俣病を語る川本輝夫さん |
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| 魂に祈る火のまつり |
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| 石仏を埋め立て地に置くための調印式 |
align="right">山田忠昭
>はじめに
「もやい直しって何なんだ、きちんと捉えようとすると、定義しようがないじゃないか」。
もやい直しをテーマに社会調査を進めようと集まった、私たち社会ネットワーク研究会では、この標語なのか施策なのか、何ともつかみどころのない表現にいささかうんざりし始めています。「もやいは重要だけど、直しは必要ないって言う人も居るようですよ」「いや、人間社会いたるところ、もやい直しの題材ばかりではないかという意見もあります」。はたしてこんな状況で、社会調査などできるのでしょうか。
ともかく、この場でもやい直しとは何か考えても益々混乱しそうです。ここでは、この表現がどこからどのように生まれてきたのか、その背景らしきものをなぞってみることにします。
>地域社会の状況変化を集約
ご承知のように、「もやい直し」の表現が公式に用いられたのは、一九九四年五月一日の第三回水俣病犠牲者慰霊式における、吉井正澄水俣市長の式辞に於いてです。吉井はこの年の二月に市長に当選したばかりでした。この第三回慰霊式には、これまで参加を拒んでいたチッソ水俣病患者連盟、水俣病患者連合、水俣病互助会の三団体が初めて参加しており、また吉井市長が行政の長として初めて水俣病問題に陳謝を表明したのでした。
吉井がその式辞を、「今日の日を市民皆が心を寄せ合うもやい直しの始まりの日といたします」と締めくくったのには、こういう状況があずかっていたのです。結論めいたことを先に述べるなら、「もやい直し」とは、水俣病問題に対する地域社会の状況変化を集約させた、一つの政治的表現だといえるでしょう。
なぜ政治的表現であるかは、吉井市長の著書『離礁』を読むと良く分かります。この本は、吉井が市長就任後、水俣病問題の政治的解決にどのような関わりを持ったかが記録されています。吉井はここで、水俣病問題の解決を加害者−被害者の当事者間にとどめず、地域の再生・振興の名目で国の支援を強くもとめました。その主張は、水俣病は患者だけでなく、水俣に住む誰もに対立と反目の混乱をもたらした。 地域住民も何らかの被害を受けており、こうした疲弊した内面社会の修復を図らなければ、水俣病問題の解決にはならないというものです。この主張に基づいて国からもたらされた一つの支援策が、「もやい直しセンター」の建設でした。
地域も被害者であるとする吉井市長の政治的信念には、とりあえず触れないことにします。ただ、こうした表現が発言可能であるところに、水俣病問題に対する地域社会の状況変化をうかがうことができます。少なくとも水俣病問題の幕引きであるとの反発に至らないところに、「もやい直し」の表現の妙とともに、何かが大きく変化してきたことを認めざる得ないでしょう。
>もやい直し前史
これは一つの私見にしかすぎませんが、水俣市において「水俣病を克服した新たな出発」が本格的に意識されるのは、七七年から始まった水俣湾ヘドロ処理事業を一つの契機としていると思います。それは、ヘドロ処理事業が市民の目に見える形で実施された初めての水俣病対策事業だったからです。 しかも、水俣湾の環境再生と、埋め立てによって生じる広大な跡地の活用という、大きな期待を抱かせたのです。もちろん、その安全性に疑問を抱いた患者団体から工事差止仮処分申請がなされたりして、緊迫した状況に変わりはありませんでした。しかし、このヘドロ処理事業を契機に、地元水俣市では「環境復元・新生水俣」を目標に、新しい地域イメージの確立を目指した様々な計画策定が取り組まれるのです。
八四年一二月、水俣青年会議所は『活力ある明日のみなまたへ向けて』と題した活動報告書をまとめます。「観光からの水俣づくり」のビジョンを提案したこの報告書は、これまでタブーとされた水俣病問題について、水俣づくりには避けて通れない課題であるとの認識を、曲がりなりにも示しました。
一方、この年水俣市では、国土庁のモデル事業を受け、「花と緑の快適なまちづくりマスタープラン」の策定に取り組んでいます。これは市民参加での快適環境づくりを目指したものですが、水俣市の行政計画書としては初めて、水俣病問題の歴史的経緯を整理しました。一九八六年度には熊本県が「公害防止事業埋立地活用策基本構想」の策定に取り掛かり、水俣湾の環境復元後の方向検討に入ります。翌八七年度には、「公害防止事業埋立地活用策可能性調査」にも着手しています。
また、この年には運輸省第四港湾建設局や熊本県・水俣市の合同で、「水俣港マリン・タウン・プロジェクト調査報告書」も策定されました。ここには、海洋リゾート基地としての水俣港の整備方針が示されています。この他にも市では、「水俣市大学計画に関する調査報告書」や「水俣コミュニティマート計画」、「水俣シーアイ計画」がとりくまれました。
さらに、八八年度には建設省のモデル事業である「水俣市中心市街地再生計画調査報告書」が、八九年度には国土庁のモデル事業である「あいとやすらぎの環境モデル都市みなまた:水俣地域個性形成推進プログラム」が、そして九一年度には、環境庁のモデル事業としての「水俣地域における環境再生・創造ビジョン」が取り組まれます。
このようにわずか一〇年足らずの間に、各省庁のモデル事業を中心に次々と計画づくりが取り組まれているのです。人口三万人足らずの地方都市には、きわめて異例のことといえます。こうした「計画」づくりには県内外の様々な有識者が関わることが多く、これらの有識者によって、外からの視点による水俣づくりへの提案がなされていきました。この外からの刺激が、すくみ状態にあった地域社会をゆっくりと変化させていく原動力になったものと思われます。そしてこの原動力を形にしていったのが「環境創造みなまた推進事業」でした。
>環境創造みなまた推進事業
八六・八七年度と埋立地の活用策を検討した熊本県は、公害防止事業の完成を一年後に控えた八九年四月、企画開発部内に企画課水俣振興推進室を設置しました。そして、七月に「水俣湾埋立地及び周辺地域開発整備具体化構想」を発表し、環境センターや親水緑地、竹林園、水俣病資料館、メモリアルタワーなどの公園や施設整備を進めながら、九二年度に環境復元を記念した国際イベントを開催するという事業方針が示されます。これが、翌年から取り組まれる「環境創造みなまた推進事業」のベースとなるわけです。
まず、九〇年八月、事業の第一弾として「みなまた一〇〇〇〇人コンサート」が開催されました。しかしこれには、水俣病患者の緒方正人が「水俣病意志の書」を持って痛烈に批判します。その結果細川知事は、歌舞音曲の類は今後この地ではいっさいやらないと宣言するのです。このことは、事業推進にあたっていた水俣振興推進室のメンバーに大きな方向転換を迫ったようです。関係者から聞いた話では、これまで水俣病問題に正面から向き合っていなかった地域の状況をどのようにして変えていくか、真剣に検討したとのことです。そして、具体的に地域に降りていくために「地区別・団体別意見交換会」などをとおして、表だっては相変わらず声を大にして言えない水俣病問題の状況把握を、一つひとつ直接に聞いて回ることから始めていきました。その中には、患者団体や支援団体など、これまでは行政がタブーとしていたところも含まれています。
こうして「推進事業」は、市民一人ひとりが、水俣病の問題は市民全体の課題であることを認識しあうため、数々のイベントに取り組んでいくのです。たとえばそれは、九三年度の「水俣の福祉を考える市民の集い」や「水俣病市民講座」、「環境再生フォーラム」。九四年度の「水俣病と水俣の明日を語りあう青年の夕べ」や「水俣の再生を考える市民の集い〜そろそろもやい直しば始めんば」、「火のまつり」。九五年度の「水俣の海に唄う」、「実生の森づくり」といった具合に展開されます。こうしたイベントに次ぐイベントのなかで、市民が人前で水俣病のことを話せるという、もやい直しの状況づくりが進められていったのです。
>おわりに
とはいえ、もやい直しの「状況づくり」と「もやい直し」とは違います。市民の日常生活レベルでどのようなもやい直しが進んできたのか、やはり基本はここにあるでしょう。しかも、水俣市はその『第三次総合計画』(九六年三月)において、「もやい直し」を行政施策として位置づけているのです。また、「もやい直しセンター」も二館建設されました。具体的にどのような成果があがっているのか、市行政は早晩その真価が問われるものと思います。その際、問題はあくまでも市民レベルでどのように受け止められているかです。私たち社会ネットワーク研究会では、「環境汚染地域の地域再生のあり方」を検討するため、このもやい直しの実態把握を目指して、まずは市民意識調査から始めようと考えています。
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| 水俣病患者の県庁前座り込みも、長期に続いた |
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| 火のまつりの準備作業。少しずつ水俣病が身近になっていく |
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| 水俣病犠牲者を思い続けるために作られたメモリアル |
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| 沢山の子ども達が、水俣を訪れ始めている |
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| 資源ゴミは20種類に分別される |
align="right">吉永利夫
水俣病事件の歴史を紐解けば、いつの節目にも「補償金」が登場している。見舞金契約、漁業補償、患者補償など挙げていけばきりがない。その補償額は被害の実態とはいつも程遠く、補償総額の算定は水俣病事件全体をめぐる、その当時の政治的な関心の高低によっている。そして水俣病事件が「公害による健康破壊」といった単なる医学的問題などではなく、政府にとっては紛れもなく「現代社会の裂け目」であった。
裂け目は、漁師や被害者、市民といった個別の人間の苦痛を無視して拡大し続けてきた。人々の苦痛を和らげ、現代社会の裂け目を修復しようと、政府からお金だけが配られ続けている。しかし、私達もまた、お金以外に何がなければいけないのかを知らない。
今、「水俣のもやい直し」を考え、水俣がどのように変わったとき、それが見えてくるのかを想像したい。
>被害者からの呼びかけ
長く闘いつづけてきた未認定患者は、二六〇万円の和解金で苦渋の涙を飲んだ。その引き換えに、水俣と芦北地域は「もやい直しの」ための施設や、イベントのための資金を得ることができた。そこでは「紛争の終息」を前提として、「もやい」の精神による「被害者からの呼びかけ」がなされた。
>知らない、語らない人々
一九九六年から二〇〇五年を計画期間として立てられた水俣市総合計画は「水俣病の教訓を生かしながら、水俣市民であることに自信と誇りを持てるまちづくり」を謳っている。美しい海と山と川に囲まれ、近代の象徴としてのチッソを歌い上げてきた多くの水俣市民の誇りと自信は、水俣病事件の出現で長く打ち消されて来た。
例えば「テレビや新聞の報道は、補償金のために座り込みや裁判を続ける被害者ばかりを映し出す」「水俣から一歩足を踏み出せば『あの水俣から来たの?』と、冷たい視線で聞かれる」「オレ達も被害者なんだと、正面切って言えないもどかしさがつきまとう」などなど、市民の想いは揺れ続けてきた。そしていつしか水俣市民は水俣病から遠ざかり、知らない、語らない人々になってしまった。
>恐くない水俣病へ
「もやい直し」の呼びかけに応じようとした市民も居た。そうした市民は「水俣病を知らない私」と、向き合うことになった。そしてこの数年間に六億円をかけて市立水俣病資料館が建設され、水俣病患者の話を聞くための市民講座が開かれた。水俣病の写真展や、患者と障害者が一緒になってのコンサートも頻繁に開かれた。そして水俣病事件は子供達へ伝えるための教材や、市民への水俣病講座として「もやい」進められてきた。それはとりもなおさず市民にとって、近くて恐い水俣病から、近くても恐くない水俣病へと転換したことである。
>自分に問う
「知ろうとしなかった私」は、逃げ続けた私でもある。何から逃げ続けたのかを、市民自らが、自分自身に聞いてみる必要がある。
全ての水俣病被害者がそうであるわけでないが、常人の苦しみを越えて生きて来た人々のエネルギーを、信じてみたくもなる。患者の中でもほんのわずかな人々ではあるが、そうした人の存在もある。例えば水俣病資料館で自らの体験と想いを語るある語り部は、患者家族であることを隠し続け、長く水俣病から逃げ続けてきた自分を晒しながらも、更に「親類の胎児性患者とは、家では遊んでいたけれど、水俣の町では出会わないようにしていたことを、本人にやっと言えるようになった」と、自分を更に深く明らかにしていた。
また、多くの家族・親類を水俣病で失ったある水俣病被害者は、少しばかり立場が異なれば、チッソと同じ様に殺す側に回っていたに違いない自分の存在を問うてさえいる。
>易しくはない
「もやいは、出会いから始まる」と、もやい直しセンターが、様々な企画で人々を集めている。まさか、もやい直しセンターが作られたことで人々がそこに集まり、もやい直しが進むと安易に考える人もおるまい。一方で「水俣病被害者の苦しみを知らないヤツはだめ」「行政は責任も取らず、信じられない」「行政に任せて、もやい直しができるはずもない」と、さじを投げるのもたやすい。
様々な要因によって失われた人と人との関係修復や、まちの将来を考えることなど、そう容易なことではない。まして、自分自身を問うことなど、困難と言わざるを得ない。
>石に刻む
さて、私達の考える水俣の「もやい直し」を、被害者の想いや、自分自身を問い始めている、市民の人々の想いを拠り所にしながら、具体的で人々に分かりやすい形で、考えて見ることはできないだろうか。まずは水俣がこんな風に変わったら、水俣でこんなことが起きたら「もやい直し」進んでいると、水俣の市民が自信を持って宣言できることを想像してみたい。水俣市の人口三二〇〇〇人。例年の慰霊式への参加者四〜五〇〇人。火のまつりへの参加者三〜四〇〇人が現状の参加者数。
まずは、水俣市主催の慰霊式に、三〇〇〇人の市民が参列した時。慰霊式の行われるメモリアルには、行政への反発もあり物故者の名前があまり集まらないと聞く。沖縄の戦争犠牲者は、石の碑にその名前が記されている。では、全ての水俣病被害物故者の名前が、メモリアルに納められたとき。名前を名乗ることさえ恥とする、汚名病との意識が取り払われ、物故者の実名が石に刻まれたとき。
水俣湾埋立地で行われる火のまつりに、市民一五〇〇人が参加したとき。社会科の勉強で水俣を訪れる子ども達は、資料館の見学を中心に増加している。こうした子ども達が、資料館の展示を見て帰るだけではなく、水俣の町で出会う全ての市民に、自由に水俣病の質問ができたとき。それでも市民からは苦情ではなく、歓迎の言葉が聞かれるようになったとき。その子ども達に、水俣に住むほとんどの人々が、自分の体験を話してやれるようになったとき。
チッソの水俣工場を中心にして、水俣のまち全体が近代や生命、環境や共生や差別を考えることのできる、いわばフィールドミュージアム化されたとき。
どれもが、決して非現実的なことだとは思えない。一部は、その努力も始まっている。必要なのは、想像したことを実現さえたいという強い意志と、豊かな想像力と、ネットワークだけ。
>水俣の自治がはじまるか
水俣がまち全体で自信を持ち始めている。一度は苦海を経験し、もうひとつのこの世を生きてきた人々が持つ、大きな存在感に支えられ、自分に正直にそして自由に発言し、失敗を恐れない市民の増加で、チッソの城下町と言われてきたこの町で、もやい直しと自治は始まるに違いない。