

> 「歴史」と言った途端に、地域で暮らしていた人々の影は消え、社会的に大きな影響のあった事件や力を持った人々の記録になってしまう。では、歴史に書き込まれていない人々の存在は、世の中や私たちの暮らしに何の意味も与えていないのだろうか?
「水俣病は終わっていない」という表現がある。水俣病を一つの事柄とすれば、終わったこと、終わらないこと、終わったり終わらなかったりで捉えられないこと、そうした位相をもっている。例えば水俣病の語り部は、名前のある自分の子供、親、兄弟姉妹、村人、自分自身の生(なま)の事実を語っている。水俣病の全てはここに始まる。だがしかし、この集合が水俣病事件ではない。歴史や書き言葉は事実を均質化し、時間と社会空間に閉じこめるものだ。ごんずいの前号で嘉田由紀子さんは、「“三人称”では語れない」「嚮ツ人の顔が見えるようにする」と博物館の基本スタンスを示している。
語り部の多くは死を物語っている。死は逆説的に生を表現するものだから、生への強烈な希求がなければ、語り部は成立しない。水俣病にしても、沖縄戦にしても、原爆にしても、不本意な死を迎えた人々が、語り部たちの後ろにいることは疑いの余地がない。つまり語り部は死者の物語りをする人々と言ってよい。何故これらの死者は、生きている人をして語らせるのか。
インタビュアー 吉永利夫
>【現役漁師である杉本栄子さんの語りはいつも新しい。さっきまで船の上に立ってイリコを獲っていた話はもちろん、四〇年前の村の話すら聞くたびに新しい。栄子さんの語りは、いつも祈りに繋がっている】
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| 杉本さんが生まれ育った茂道 |
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| 大関山山の神さん。漁師が海の幸をそなえる |
私たちは茂道で生きらんばならんし、水俣で生きらんばならん。今、語り部になったつは、水俣病を目ん前に見てきた。そして私は、小さな小さな我が家のことを見つめてきて、やっぱ、人として生きてきたっだなーて。茂道部落で大人としてはじめて、母が病気になった。部落中が騒然となったし、恐怖だったしな。私が家ん中を語るって言ったときに、ここらあたりが足元。私たちは、ぎりぎりで生きてきた。健康な人たちに、わかってもらうのは無理かもしれんばってん。気づいたとき分かろうとすっとじゃ遅すぎっとですよね。
企業優先ちゅうとも話すばってん、人として家族を、一日一日を本当に大切にして来たから、私は語り部ができる人間だと、そしこなんですよ。私たちはあんまり沢山見つめずに、人として、家族の中の一番具合の悪か人を中心にしてきたから。だからこそ、語られる部分のあっと。「おかげさま」っていうのを、いつでも持っていたから。自然とつきあって生きてきたからだと思う。
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| シロゴ漁の一こま |
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| 海の幸フェアでの杉本水産。息子のお嫁さんたち |
なーんちゅう言えばよかっかなー。身内は身内どうしで、本当の気持ちを知ってもらいたい。もうしゃべらんっちよかばってん、水俣の人に知ってもらいたい。そして「そげんじゃったんなー。おっどんな、なーんも知らんじゃった。色々じゃったばってん、やっぱたまがってしもうてな」ちゅうなこつが、水俣ん人から出てくるのは、何十年先じゃろか。そっちん方がかえって、不安になってしまう。
今までに五回、火のまつりをやった。六一歳になったし、六回目を迎えるにあたって、魂って何だろう。これで良かっかな。人に説明でっくかなー。説明できんでも一所懸命やってよかっかなーって。火のまつりを、死ぬまでやり続けたいと。続けるにあたって、何も肩書きのない私の祈りで通じてもらえるとやろか。しっかりそれを見つめてみたい。
いろいろ考えて、続けられるかなーって思ったとき、自分がふらつけばどうもできない。そして自然と人を見つめた時、石垣に行ってみよう。西表に行ってみよう。竹富に行ってみようって思った。そして家族と離れて、水俣病と私を体験したいっていうのかな。うぬぼれないために。私が迷ったのは、肩書きのない私で祈りが通ずっとやろかと。それを見てみたい、そしこですよ。水俣病があるからこそ真剣に考える問題ですね。
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| 雄さんとシロゴの手入れ |
生きてる。本当に「生きてる」ちゅうことは、口では説明できん。生かされてる自分ちゅうとに気づくからこそ、火のまつりも続けたいんですよ。
語り部で語ることと私の祈りは、「生かされている自分を毎日見る」ところで繋がってると思うとな。これはもう、毎日完全に見させてもらいます。だから元気な人たちが大漁貧乏しているのを見て、まちっとゆったりみれば良かとに、力ばそげん入れんで良かとに、つっぱらんで良かとにっち思うけどな。そっで聞きに来れば教えるが、聞きに来ないじゃないですか。一人一人の生き方があって、みんなそれに自分ちゅうとを大切に、知っととじゃなって、思わんばつらいじゃないですか。気づいた人が気づいたしこ、受けとってくれればいいと。語り部で先生にはなりたくない。突き当たった人があれば、それなりに受けとってもらって、健康な人たちがつまづいた時にでも、来てもらえばいい。そしこです。
もう、ここまで来てしまえばですけど、我が家は一番具合の悪か母中心にやってきたからこそ、今があっとです。そしてマスコミからも隠された中で、部落に閉じこもったなかで、「生きる」ではなく、今日死ぬならば、今日何ばしとかんばんか考えよった。私たちは、短かーか単位で過ごしてきたっですよ。そこらあたりの時間ちゅうとば「水俣の人は、ほんなこつ知っとらっとやろかねー」と思うときのあっと。人っていうのはいっぱい居らんと寂しい。だからいじめられる人も、いつか分かってくれらすまで、やっぱりこらえんばね。いじめた人にもおってもらわんば。
水俣病の詳しかこつを知っとんなる代役は、いっぱい居ると思うんですよ。ばってん大事な部分の、しっかり抜けとっとじゃなかろうかっち、いつも不安ですね。患者さんとか、水俣の人は知ってるはずなんですよ。だからしゃべるよりも、一所懸命生きろうかっていう気持ちも分かりますよ。水俣が受けた、めいっぱいの恐怖の中で、語られん人の気持ちも分かるしな。
時間に追われたり人にもまれたりする人たちは、自分とは違うだろうな。その人たちが急ぎすぎてふり返ったときに、「あーこげんした生活もあっとじゃなー」っち、思ってくるればなって。そしこですね。それを聞いてもらえれば、よか。
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| 火のまつり:水俣の海に生き、死んでいったものたちへの祈り。毎年秋に行われている |
やっぱ悔しさとかいじめられたこつも、言わんばならんこつもあっとやもんなー。市民の人たちや全国の人たちが、私たちの話しば聞いたっちゃ、私たちの話が分かってもらえるのは苦労した人、壁にぶち当たっている人たちやもんな。そん人たちは「アーこげんした生き方もあっとかいな」と、理解せられるばってんな。
何を求めてここまで私たちに会いに来てくれらっとか。帰ってから、どげん使おうっちしとらっとやろかっち。じゃばってん、聞きにくる人はですね、聞きにくる人は求めて来とらっとですから、聞かっとですよ。
資料館とか、語らせるようとせらる人が、ほんなこて語り部の気持ちば、知っとらっとやろか。それは市のため、行政のため、いろいろな為だと思う。ほんなこつ、この人たちはおっどんがしゃべるっちことば、どんくらい知っとらっとやろか。不安がいっぱいくる時があるですね。
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>杉本栄子(すぎもと えいこ) ]一九三九年生まれ 茂道の網元の一人娘として、三歳の頃から漁を教えられる。 一九五九年夏、母トシさん水俣病で入院し、以来一五年間村の中でいじめられ孤立させられる。 この年の一二月雄さんと結婚し、五人の男の子を授かる。 六九年六月水俣病第一次訴訟原告団に加わる。 七月、父進さん水俣病で他界。 七〇年頃には、夫婦で入退院を繰り返す。 七四年茂道の自宅に、栄子食堂を開店。この年水俣病に認定される。 八〇年頃から三年間の入院生活。 一九九五年から、水俣市立水俣病資料館で語り部として話すようになる。 家族総出で不知火海のイリコ漁に出ている。 栄子さんたちは「村の中で、誰を信じていいのか分からないほど、いじめられて来た」。 しかし、亡くなったお父さんは「つらかことは、他んもんにはさせるなぞ!」と戒めた。 栄子さんの語りの力強さは、「様々なものを自然から与えられたこととして感謝して生きる」のさりの精神にある。 |