機関誌 ごんずい 53号(1999年7月25日発行)

目次
ごんずい53号特集 水俣病研究−今、何が問題なのか
    医学は水俣病で何をしたか/宇井純
    熊本大学水俣病シンポジウムから
    水俣病医学研究の新しい動きより/神沢聡

記事:
    投稿 川辺川にダムはいらない/高橋ユリカ
    ごんずいインタビュー第6回/岩崎巧

医学は水俣病で何をしたか   宇井純

水俣病研究

 四〇年をこえる水俣病の歴史の中で、医学は水俣病にどのように作用したかを考えるとき、その功罪は相半ばするか、ことによるとマイナスの作用が大きくプラスを打ち消しているとさえ考えることがある。

>発見当初、医学の出発点があった

 水俣病が発見されたごく初期、全く未知の災厄として医学がそれに直面した時には、たしかに素直に現実と取り組み、そこから共通の症状を抽出した。あるいは水俣市の医師会が病気がみつかる前のカルテをさかのぼって調べ直し、その場しのぎにいいかげんに他の病名をつけていた死亡診断書を、恥をしのんで取り消し、そこから水俣奇病という新しい病名をつかみ出した。そこにはたしかに医学の出発点があったといってよい。それは初期の水俣病に直面した医師たちの人間性の反映でもあったろう。
 その後に困難な原因研究がつづく。ここでも症状から中毒の原因物質を推定し、そして疑われた原因物質によって起こる症状とを比較するために、患者の症状は注意深く観察された。但し対象は激症患者に限られていて、その周辺に多数存在していた軽症、中程度症状の患者はほとんど対象にされなかった。おそらく手がまわらなかったというのが正直なところであったろう。

補償処理委員会会場の宇井氏
補償処理委員会会場の宇井氏。
撮影/塩田武史

集中砲火を浴びた熊大研究班

 原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた一九五九年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。このため研究班の姿勢は防衛的、閉鎖的になり、患者の認定についても、批判をおそれて限定的、保守的になる。私が水俣病関係者を調べた結論としては、ほぼこの時期で医学の役割はマイナスに転化したようである。一九六〇年代に入ると、熊本大学の研究班の中でも、明らかに水俣病を厄介物あつかいする空気を見せる者があった。その中でごく少数の医師が、原田正純氏のように患者から学ぼうとする。熊本大学医学部研究班が、東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会に屈服し、チッソから金をもらって代表団をローマの国際神経学会に送ったのは一九六一年であり、六四年にそれまでの研究をまとめたいわゆる赤本(熊本大学医学部水俣病研究班「水俣病−有機水銀中毒に関する研究−」・編集部注)が用意された段階では、水俣病を否定する医学界本流と熊大医学部の手打ち式は完了していたと見てよい。この赤本にはチッソから費用が出ていることが明記されている。水俣病は終わったとして新しい患者を出さないことも、意識的にとられた方針であろう。一九六三年当時、胎児性患者の認定は例外的なものであることがしきりに強調されていたのを覚えている。

補償処理委員会の水俣視察
補償処理委員会の水俣視察(1969年)

 この間医学界主流にあった東京大学医学部を中心として作られた田宮委員会は、水俣病つぶしの有力な手段であり、日本化学工業協会とチッソから研究費をもらっていたが、表に出ないもくろみは、米国の公衆衛生院(NIH)から熊大へ支給された三万ドルの研究費をねらったらしいことが、複数の関係者の証言で裏づけられる。もみ消しだけで十分犯罪的である上に、横取りまで考えていたとなるとおそろしい話である。ただ田宮委員会の副産物として、周辺で研究に従事していた椿助教授(六五年新潟大学神経内科教授に赴任・編集部注)が水虫薬によるメチル水銀中毒の症状を観察していて、それがのちに第二水俣病の診断に役立ったという事実があった。

 日本医学会会頭、東大名誉教授田宮猛雄を委員長とし、公衆衛生学教授勝沼晴雄を幹事長とした田宮委員会と対立するということは、いわば日本医学界全体を敵とすることを意味する。こうして孤立した熊大医学部としては、水俣病の病像をすでに文献記載があって誰も文句のつけられないハンター・ラッセル症候群に限定しておくことが有利であった。新しい症状などをつけ加えたら、ますます学会から袋だたきにあうであろう。そのころ新しい症状であるイタイイタイ病に対して、カドミウムなどという新しい病原物質を提案した富山の荻野昇医師がどんなに学会でたたかれたか、それは一つの教訓であった。熊大医学部が防衛的姿勢をとるのには、そういう社会的な背景があった。

 六〇年代前半、医学界主流からは攻撃され、厚生省からの研究費も断たれた熊大医学部がそれでも水俣病の研究をつづけられたのは、医局講座制という強固な閉鎖社会で外からの圧力をはね返したことと、ちょうどこの時期に旧制から新制への博士号取得制度の切り換えがあり、旧制での博士号を開業医が取得するには当時の相場では三〇万円の現金を出身教室におさめると、その金で実験研究をして博士論文を教室が用意してくれるという、いわば学位の売買がひそかに広く行われ、各研究室が自前の研究費を持っていたために研究がつづけられたのであった。つまり当時私たち若い世代の研究者が大学の旧弊として批判した講座制の閉鎖性がむしろプラスに作用したし、学位の売買など常識からいっても論外なことが水俣病の研究を支えたという皮肉なことが起こった。

>認定問題に苦しめられる

>認定問題に苦しめられる

>椿教授の果たした役割

 一九六五年に第二水俣病が発見されると、あらためて医学の能力が問われることになった。新潟における症状の抽出と患者の発見には、水俣の経験は参考にはなったが、水銀濃度の高い重症の症状であり、中程度以下の症状は新潟では独自に洗い出された。この時期診断の中心になった椿忠雄には、自分が新しい未知の問題に直面しているという意識はあったらしい。当時知り合った一介の東大助手にすぎない私にも、謙虚に意見を求めたことや、当時新潟水俣病問題の研究班を新潟大学の研究者だけで結成しようとした医学部教授会に対して、県の北野衛生部長が水俣の経験をもつ班員を加えて独占を破ったことを許容した事実からもそれは推察される。

 しかしこのような病気に対する謙虚な姿勢は長くはつづかず、のちに椿は新潟水俣病の第二次訴訟で、昭和電工側から最重要証人と期待されるほど、水俣病に対して限定的な立場をとり、水俣病の認定制度を維持しようとする環境庁の理論的支柱となった。この変貌の理由について椿はほとんど語っていないが、私にはほぼ推察がつく。

宇井氏ら、国連環境会議に参加

宇井氏ら、国連環境会議に参加(1972年)。
撮影/塩田武史

 椿はこのあとスモン病の原因研究に参加しその原因がキノホルムであることを発見する。一般に医師が新しい病気を発見するのは、一万人のうちで一人に一生一度に起こるぐらい幸運なことだといわれる。椿は新潟水俣病とスモンの二つの病気の原因を発見した、いわば日本の医師として最高の名誉を得るに値する功績をあげたことになる。この功績が椿に専門性を強調する傲慢への道を開いたといえよう。二つの発見はいずれも問題がかなりの程度まで煮詰まって来て、誰が発見者になるかは時間の問題であり、しかも発見したことを発表するには決断が必要であって、決断のための勇気を迫られるのは事実だから、椿が自信満々になることも無理はないが、患者の運動を「このままでは国益にかかわる」などと、日本国を背負ったつもりで考えるのは、やはり椿が国家鎮護の大学である東大出身だからであろうか。

>導入科学技術としての医学の性格

 こうして第二水俣病の発見後しばらくは患者の側を向いた医学は、間もなくふたたび患者を選別する管理の学問にもどってしまった。口では政治的中立、客観的科学性を唱えながら実際には権力の手先として動き、若干のおこぼれを期待する日本の科学技術の一つの典型となっているものである。これは日本の科学技術が日本の社会の中で自発的に発展したものでなく、外部から体制によって導入された歴史をひきずっているためであり、そこから脱出するためには意識した努力が必要であることを教えている。水俣病の政治的解決まで、水俣病の認定制度を必死に守りつづけて来た医学は、権力の手先であるが故に専門性を強調し、そのことがまた医学の停滞のもとになって来たのであった。

 成功のあとが独善にならないかという教訓は、技術のあらゆる側面にあてはまる。そして、技術が常に制度の中で作られて来たことの自覚が、それにたずさわる人間にとって重要であることを、水俣病における医学の役割が教えてくれる。医学もまた技術の一つとして、決して価値中立ではない。その時代の価値体系に依存していることを忘れて、水俣病の医学は社会に対して権威を主張したのであった。しかも水俣病を研究すると称して多額の血税を浪費し、学位などの栄誉を得た。すべてを自費でまかないながら独自の研究をつづけて来た市民グループを前にして、水俣病を食い物にした医学者は少しは恥を感ずるべきだろう。

 もちろんすべての医師がこのように行動したわけではない。少数ではあったが、現実と患者から出発しようとした医師が存在した。そしてそこから派生して土呂久のヒ素中毒に取り組んだグループは、今アジアヒ素ネットワークとして、アジアの各地で水資源の開発によって生じた地下水によるヒ素中毒に対して取り組んでいる。この地下水汚染は、その規模の大きさと現在進行中であることで、特にアジアでは深刻な問題になっている。ガンジス河下流のインドとバングラデシュでの被害者の数は百万を以て数えることになろう。南部タイやモンゴル、中国の貴州省など、万の桁の患者が存在する。こうした新しい病気に取り組むグループが水俣病の研究から出発したことは評価されるべき事実である。

>訴訟での検診内容の検証

>訴訟での検診内容の検証。
撮影/塩田武史

 こういう例外を考えに入れても、なお水俣病において医学が果たした役割はむしろマイナスが多かったことを関係者が素直に認め、失敗を二度繰り返さないためには何をなすべきか、出発点にもどって考えなければならない。誤ちを認めることがなければ、今後も誤ちは繰り返されるであろう。なにしろそれは日本の導入科学技術という体質的な性格から来たものであり、またそれに対する体制からの圧力、誘いかけは常に存在するものであるから。

ういじゅん/一九三二年、東京都に生まれる。五六年東京大学工学部応用化学科卒業。六〇年より水俣現地を訪れ先駆的調査を行う。東大自主講座「公害原論」の主宰などの活動を経て、八六年より沖縄大学教授。九六年には沖縄環境ネットワークを設立。著書に「公害の政治学」(三省堂)、「合本・公害原論」(亜紀書房)などがある。

熊本大学水俣病シンポジウムから

 昨年春と秋に、熊本大学で水俣病シンポジウム「水俣病問題−過去・現在・未来−」および「外から見た水俣病の医学−現状と評価」が開催された。特に後者は、最近の医学研究の動きも受けて、水俣病研究を振り返り「自己批判」も含めた意見が交わされた。発言を拾うことによって今何が問題なのかを探りたい。
 川本輝夫(チッソ水俣病患者連盟委員長・当時)、宮澤信雄(水俣病研究会)、有馬澄雄(「水俣病−20年の研究と今日の課題−」編集)、高峰武(ジャーナリスト)の四氏をパネリストに、四人の発言の後会場も含めて自由討論という形式で進められた。

 まず、全員の一致する水俣病の医学についての評価は、人類の教訓として活かせるような研究を何ら成し得てこなかったというものである。つまり、水俣病のような未知で大規模な健康被害が発生したのなら、徹底した住民検診を行うのが科学としての医学の方法論であるはずなのに、それがなされなかった。そのため、あらゆる議論の基礎となる初期のデータが欠落し、どこまで汚染が広がっていたのかということさえ分からないし、WHO(世界保健機構)が世界中のメチル水銀中毒に関する知見をまとめた基準文書には日本よりもイラクなど外国の事例の研究が引用されている。

 このような事態を生じさせたのは、補償に直結した認定問題に他ならない。ここで、科学者個人以前の問題として、予算措置をして研究を推進しなかった行政の責任が大きいという意見と、それに対して、「行政に取り込まれてしまった」学者の罪は大きいにしても、(患者側に立った)自分たちも含めて日本の科学の資質が問題だったという意見が出された。

第2回水俣病シンポジウム

1998年11月に熊本大学で行われた第2回水俣病シンポジウム。
写真提供/毎日新聞社
 最近の新しい動きも絡んで学問上の見解の相違がある。科学なのだから以前の論文を訂正するということがあってよい。しかし、このシンポジウムの参加者も同質的で、本当はそれではいけないという指摘のように、実は論争にはなっていない。さらに、結局国際的な学会の場で議論するしかないのではないかという指摘があった。二〇〇一年に水俣で開催されることが最近決定した水銀国際会議の意味は大きいと言えるだろう。

 さて、浴野成生熊本大学教授やその調査チームの人たちは、水俣病の疫学研究が専門ではなく、学生時代から関わってきた水俣病問題への責任を果たすためボランティア的に取り組んでいるというのが実状である。これまで貢献度の低かった日本の水俣病研究を、「水俣病の経験を世界に伝える」という掛け声に恥ずかしくないように進めていくためには、行政−ここでは環境庁になるだろうが−がその必要性を認識しきちんと態勢を作っていくことが必要ではないだろうか。(神沢)

第6回 ごんずいインタビュー 岩崎 巧

岩崎 巧 (いわさき たくみ)1934年、葦北郡津奈木町に生まれる。25歳の時に水俣に移り住み、29歳で水俣漁協の組合員になる。98年6月1日、水俣市漁業協同組合組合長に就任。99年5月、組合加入希望者に門戸を開くと同時に厳密な資格審査を行い、基準を満たさない組合員を降格することを決め、水俣病にほうんろうされ続けてきた組合の組織再建に力を注いでいる。

−水俣漁協の変革が注目されています。これからの漁協が目指すものは何ですか?
第一の目標にやっていることは、組合員をその気にさせるということです。そうしながら、徐々に組合全体を変えていきたいと思っています。
例えば、養殖など派手な部分ばかりに気を取られて、本当に漁師としてするべき事を忘れてしまっていたのではなかったかと感じています。今までの漁協は補償金の配分で対立を繰り返し、漁師としての自分たちを見失っていたように思います。先の方ばかりを見ずに、足元から変えていこうと考えています。

水俣の海を再生させることは自分たちの生活を守ることにほかなりません。短期的なメリットは少なくても、漁をして生活をする、漁師としての原点と言いますか、本当はどうあるべきかを見直す時期に来たと思っています。

−今、水俣の海はどの様な状態ですか。これからどうしていきますか?
干潟には砂浜と岩場と二通りあるが、水俣にはきれいな砂場がありません。この丸島でも三〇年ぐらい前までは、アサリ貝が百キロでんとれるような、いい砂浜がありました。私は子孫に残す海を再生したいと考えています。

大阪のコンサルタントに海底調査をしてもらって、この海にはどんな藻が適しているか見てもらいました。稚魚を育てるには、自然の力を借りないことにはどうにもなりません。人工の力ではかないません。藻場が必要なんです。どうすれば海藻の生える環境を取り戻せるか、模索しているところです。

これまで得てきた補償金の代償として、崩壊した海が残ってしまっています。本当の海を取り戻す責任があると思うのです。自分のこととしてじゃなく、子孫に対して、未来に対しての責任です。

−組合員に対する教育の取り組みはどの様なことをされていますか?
例えば、自然保護については国からも厳しく言われますので、財源のない中から投資をするためには、組合員にも十分な理解をしてもらわなければなりません。トップの考えだけでは続きません。何を計画しても、組合員がついていかないと成功しない、足が地に着いていないと実らないんですよ。まずは、こうあるべきだを役員に認識してもらって、それから組合員に浸透させていこうという考えです。

先におこなった海底調査も、専門家に同行して、自分たちの目で漁場の現況を確かめました。その中から、自分たちの成すべき事を見つけだし、組合全体に広げていけるようになるには五年かかるか一〇年かかるかわかりませんが、絶対芽が出ると思っています。

また、組合として話を受けるときに、決してトップだけでは聞かないということを実践しています。それは、長年独断的に運営されてきた組合はなかなか足並みの揃わないことが多くあるからです。一人の知恵は一人分、みんなでアイデアを出し合えば、それだけいい知恵が浮かびます。これも時間がかかると思いますが、建設的な発言はどんどん受け入れて、活発な組合にしていきたいと考えています。

−具体的な事業についてお聞かせください。
月に一回は漁の定休日を作ろうということ。資源保護のためですが、組合員が休んでも一般の人がその分取り尽くしてしまっては何にもならないです。組合員の資格審査というのも、実は船を持って漁をする人は一般の人も含めて全員組合員になりなさい、というのが目標なんです。門戸は開放する、しかし、資格は厳しく負担や義務も応分に負うてもらおうという考えです。

また、組合員の不安としてあるのが、食卓からの魚離れですね。魚はもっと身近に、安く手に入るということをアピールしたい、魚に興味をいだいてもらいたいということから、朝市を考えています。これはぜひ実現させたいです。漁協と市とで共催して、釣り大会を計画したり、魚料理教室を開いて地元の高校生に魚に親しんでもらったり、いろいろ考えていますよ。

−水俣湾、不知火海に対する思いや夢をお聞かせください。
私は水俣の隣の津奈木の生まれで、家は木材業をやっておりました。まあ小さいときから船や海には親しんではいたんですが、家業の倒産を期に自分の好きなことをやろうと、二五歳の頃、水俣に来て漁師になりました。

海は大きな資源でしょう。その中で夢は無限とあるんですよ。海には洋々としたものがあります。自分の才覚一つでなんとでも成すことができる。漁師のそんなところに惹かれたんでしょうね。

(聞き手/小里アリサ 構成/林田緑)

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