機関誌 ごんずい 54号>目次
特集 茂道―杉本肇さんと歩いた一日……・ 2水俣で生まれ暮らしてきた人々のことを「土の人」、
水俣を訪れ、また去っていく人々のことを「風の人」、と呼んだ人がいた。
私たちのように水俣に惹かれ、住み着いてしまった人々のことを、
風が雨を呼びその雨が土に染み込んでいくように「水の人」と呼ぶ。
そして水俣に生まれ、水俣を離れ、たなびく雲のように戻ってきた人を、「雲の人」と呼ぶ。
茂道は熊本県最南端の、小さな漁村だ。
昭和三〇年代に栽培が始まった、甘夏みかんの果樹園に囲まれ、
小さな川が村の中心を流れ下る。
海の中に清水が湧き、
昔は、その小さな入江に大きな茂道松が、影を作って魚を呼んでいたという。
杉本肇さんは、水俣病患者の家庭に生まれた。
水俣病と水俣が「イヤでイヤで」、一度は水俣を出たことのある「雲の人」だ。
都会で始めたのは、デザイナーという最先端の仕事だった。
そして帰って来た水俣で、雲と風を読む漁師をやっている。
肇さんと一緒に、茂道を歩いてみた一日の記録。
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| 茂道を囲む海と山 |
イヤー涙もんでしたね。二〇年目に親友から初めて聞かされたんです。中学校の時の私は、転校生が来ると最初にイジメて、殴ってたんです。その転校生が今では一番の親友なんですけど、小学校の五年生の頃には、「アー、こいつは、水俣病の家庭で、突っ張っとかんとやられてしまうけん、先に人をイジメとっとやな」って、解っていたってですもんね、その友達がですね。イヤーすっごいうれしかったですね。「エー、そこまで解っていてくれてたんかー」ってですね。
もう、水俣病の家族だっていうのが、イヤでイヤでですね。おふくろが裁判やったりしてたんですけど、「もう、目立ってくるんな。静かにしとってくれんな」って、心の中で思っとったですね。
男ばっかり五人兄弟で、一番上の長男ですから、「ちゃんとせんといかん」って、けっこう緊張しとったでしょうね。朝の五時頃起されて漁に行くとですが、「何で、小学校の五年生が、五時に起きなきゃいけんねんだー!」って、叫んでましたね、ほとんど。眠いじゃないですか、あの年頃は。小学生って眠いでしょう、とっても。でも良くやってましたね。
高校生の頃はおやじもおふくろも、入院ばかりしてましたから漁にはいかなかったんですけど、とにかく水俣がイヤでイヤで、どこかへ出て行くことばっかり考えてましたね。
もう、カバンひとつで出て行きました。でもとにかく剣道部の先生が「石の上にも三年」って、あれですよ。三年は辛抱しようって、魚屋さんで三年は一生懸命やってました。マグロの何十キロのものを捌くんです。今でもできますよ。
二五才のときが大きな転機でしたね。魚屋さんの後にデザインの会社に入って、営業をやってたんです。で、営業って顔を覚えてもらうのが、まずは仕事の入口じゃないですか。あるデパートの部長さんの所に営業に行った時だったんですが、その部長さんが「なに、水俣? おれも昔は活動をやってたんだよ。水俣ならがんばれよっ」って言ってくれてですね。その後に独立して、自分でデザイン事務所を始めたんですけど、そこでも「あのー、水俣の杉本ですが」って言うと、「アッ、水俣の。ハイハイ」って、覚えてくれていてですね。それで「エッいいじゃん。水俣のおかげで覚えてもらって、水俣もなかなかじゃん」って、思えたんです。そこが始まりだったですね。
独立しても営業してると、接待とかが多くてですね。客を飲み屋とかで接待もするわけですよ。で、船の操縦はできましたから、熱海にあったある会社に頼まれて別荘に行ってですね、魚を釣ったりさせて、釣った魚を捌いて食べさせるんですよ。これが評判が良くって、「杉本君、本当に良かったよー」ってですね、これが本当にうれしそうにするんですよ。
でも、これって、船で魚を獲って、船の上で飯をかき込んで、一日海の上で過ごすって、「こんなの、おれたちゃ昔っからやってんじゃねーかー」って、すごいうれしかったですね。そして茂道にすごく帰りたくなって、なんか水俣が良くてですね。子供がアトピーになったりして、「水俣に帰りたい」って、カミさんに話したら「いいよ」って言ってくれてですね。それで帰って来ましたね。
もうそりゃー、最初は死ぬかと思いましたよ。都会の暮らしに慣れてしまって、身体がまったく動かないから、もう一日船の上に居れば、身体がもうぐったりして、ドテーって寝てしまってたですね、最初は。でもその疲れって、気持ちのいいー、疲れですよね。明日のことなんか全然考えないで、「今日疲れたから、今寝る!」って感じで、いいですねー。
春のチリメンジャコの時期は、朝の四時か五時頃から沖に行ってですね、夕方まで何度も何度も網を入れるんです。母親が全体の親方で、おやじと一番下の弟が両方の船を操って、僕はアルバイトみたいなもんですけど、網を入れる係りですね。イヤー、もう一年間の稼ぎの六割以上はこの一〜二ヶ月で働いてしまいますから、もう船の上で寝てますね。
おふくろにとっちゃーいつまでも子供でしょうからね。僕なんか。何が嫌って、実家は港の上の高い所にあるじゃないですか。網の仕事とかしてると、そこからおふくろが叫ぶんですよ。「ハジメー!まんま、食うたっかー!」「ハジメー!早よーせんば仕事にならんぞー!」って、ですね。これがまた、漁師の親方ですから、声が大きくてですね。まっこってー、恥ずかしかっですよ、これが。茂道はちょうどすり鉢のようになってるじゃないですか、これが。村じゅうー響くとですよ。「あー、かあちゃん、やめてくれー。俺は四〇ぞーもう。まこてーほっといてくれー」ってですね。
(聞き取り・構成/吉永利夫)
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水俣の磯の海辺に行けば、そこかしこに小さな巻貝がいる。
こちらでは「ビナ」と言う。
ちょっとにがくて焼酎のつまみにとても合う。
そのビナを、手押しの一輪車いっぱいに採ってくるおじいさんがいると聞いて、お話を聞いてきた。
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「昔から、よく採りに行っていたんですか」
「もう最近ですたい。会社辞めて、イワシ網も行かんごてなって、体のためによかですもんね。その前は暇がなかもんじゃっで」
よく採るようになったのは最近だとは言え、ビナ採りの習慣があったればこそである。その土地であまりにも当たり前のことは、話してくれないものなのだ。
「だいたい、好きなもんじゃっで、山とか浜が。この前は、ワラビとかツワ(ツワブキ)とか採りに行ったですよ。それもまたおもしろかですな。行き過ぎやもんで、『行くな』って家内が言うばってん、『なあ言うとか』って行っとる、はっはっは」
その昔、ビナというのは茂道の人にとってどういうものだったのだろう。
「なんちゅえばよかかなあ。ま、おやつじゃよなあ。お酒の塩気によかっち、やっぱり好きな人は言わすもんなあ。今日はなんか食いたいなあち思えば、なら採りに行こかちゅうごたふうで。カキ打ちは毎日行きよった、冬は。ビナはたまにやっぱり行きよりました。水俣病のはやる前ですよな、水俣病はやってからはもう…」
やはり、水俣病と共に暮らしてきた地域なのだ。
「当時は、貝はほとんど口が開いてしもうとったもんな。今は、カキのきれーいについとっと。やっぱり、海のきれいになったばいなあ」
と、お連れ合いのトシ子さんは話される。
カキもそうだが、ビナも夏はあまり食べない。
「夏ビナは、絶対子どもにゃ食わすんなっち言いますもんな。ビナ食わせれば、水ば飲むでしょうが。大人は、お茶とかお酒とか飲むでよかばってん、生水がようなか。腹下すっち言います」
「だいたい、昔はなあ、フグが陸さ卵産みに来て、真っ黒なったで、フグの子で。それがカキとか何とかに入って、ほんで夏はなあ、カキもだめや、ビナもだめじゃって」
残念ながら季節はずれの、炎天下でのビナ拾いとなってしまった。
いよいよ、ビナ採りに出かける。
「よか天気やな。どこ行くかな。海に行くとかな」と、道すがら会う人会う人と声を掛け合う。
持っていく道具は、ショケとカキ打ち。竹かごのことをショケと言う、今日はプラスチックのかごだったけど。カキ打ちは、金槌の先を尖らせたようなものだが、岩の間をこじるのに使うそうである。
しらとの海岸に着くと、一息つく間もなく、定雄さんはビナ拾いを始める。次々と石をひっくり返し、ほれほれという感じで、ショケにビナがたまっていく。
「これはごろビナ、この丸いのは丸ビナ。尖っているのは、かばビナち言います。うまかですよ。私はそう言いますばってん、ところどころで言い方が違うでな」
「ほとんどごろビナですね」
「いや、半々ですよな。潮が引けば、丸ビナっち、あれがおっとです。丸ビナは下のほうにおるでな。今は、潮がだいぶ満ちとっで」
なるほど、潮の満ち引きによって見え方が違うのは当然だ。
(聞き手/神沢聡)
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| 松田定雄(まつださだお) 1956年、茂道に生まれ、今も茂道で、長男家族と暮らす。 漁師であったが、水俣病の発生でチッソに勤めるようになる。 定年後は、68歳くらいまで杉本さんのイワシ網の船に乗っていた。 水俣病の認定申請をするが棄却。妻は認定患者 |
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| 上野エイ子(うえの えいこ) 1927年生まれ。72歳。水俣病で先夫と娘を亡くし、本人も1970年に認定されている。 娘さんは、後に、胎児姓水俣病と認定。 1999年より、水俣市立水俣病資料館で語り部として話をしている。 今年5月1日に行われた市主催の、水俣病犠牲者慰霊式で患者・遺族代表として祈りの言葉を捧げた。 |
―語り部を始められたのには、なにか理由があるのですか
特別に私からの理由はないんですが、資料館の館長からお願いがあって、昔のことを詳しく知っている人はそんなにいないんじゃないかと思い、そんなことから語らんといかんのじゃないかと考えました。今までは、いろんな人の関係もあってなかなか思うようには話ができないこともありましたが、時も経ち、また人も亡くなったりして、そろそろ私の口から話をしてもいいのかなと、思えるようになってきました。
語るといっても、じょうずにはできません。三〇年ぐらい前に、テレビで発表した「絶叫」という文章を読むことくらいしかできませんが。それでも当時の様子が少しでもわかっていただけると思っています。なかなか、語り尽くせないこともあってですね。
―語り部になって話し始めたことで、非難を受けたりということはありませんでしたか
それが驚いたことに、「がんばっとるなあー」「がんばらんな」と言ってくださる方ばかりなんです。それこそ昔は、私のすることを快く思ってなかったような人たちからの励ましに、びっくりしとります。
市長さんも、資料館の館長さんも、「水俣は変わってきよりますよ。周りがよくなっていますから、水俣全部がよくなれば、上野さんも楽になりますよ」と、言われているんです。
この前は、水俣市内の小学校で話をしました。子どもたちの質問がするどいんですよ。水俣病の名前はどうしてついたのかとか、病気は直りますかとか、痙攣はどんな様子ですかとか。私はそんな事考えてもいなかったので、うまく答えられずにですね。勉強せんといかんなあて、思いましたよ。
―今、思い出してみて、苦労はたくさんなさったんでしょうが、一番辛かったことはなんですか
亡くなった主人が、具合が悪くなったとき、また子どももあんなして病気になりましたよね。それを、ばちがあたったんだと言われた時ですね。まだ水俣病なんて誰も知りませんから、病気がこわかったんでしょう。病院に行ってる時にも、私や主人を指差して、ひそひそ言ったり、笑ったりされました。娘をおぶってバスに乗ると、みんなが遠くからじろじろ私たちを見たりですね。今だから、平気で話してますけどね。
娘が亡くなったときに、解剖室まで私に抱いて行けと言われて、行きました。普通そうやって行きますか? 娘を乗せる台や、そばに置いてあった解剖の道具が、みんな調理器具のように見えてですね。一生忘れません。
チッソの前に座り込んで、ようやっと見舞金はとったけど、私はまだまだ不満だったんです。でも、姉妹や親戚のこともあってそれ以上のことができなかった、チッソをつぶすわけにはいかないから、もう敵にはすんなて言われて。それからはずっと一匹狼です。でも、一人だから今、こうやって気楽にしゃべれることもあります。
| 「絶叫」より |
| …幾分、ほっとした三十六年三月夜中に子供が急にけいれんをおこしたのです。がたがた歯をくいしばり目を白黒にして一生懸命力を入れている子供にびっくりして急いでだきかかえ、暗くて淋しい夜道を一時過ぎ、袋の市川病院まで走り続けました。「死んではだめ、死んじゃくれるな」と、聞こえぬ子供に叱りつけるように叫びながら走り続けて先生をおこしたものです。…そのまま市立病院に入院して、翌日、朝七時半頃、とうとう良子はなくなったのです。うまれて何一つ見ることも、又さわることもなく死んでしまった良子、母をうらみもせず、四年間母と一緒にいじめられ苦しめられ、暗い小屋の中で二人抱き合って泣いたことがあったね。…可哀相だった、本当に可哀相だった。良子、許してくれ、許してくれ、一晩、二晩、私は泣いた。ガタガタ身体がふるえた。… |
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「絶叫」水俣病対策市民会議ニュース第九号 |
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