ごんずい 55号機関誌 ごんずい 55号

>目次
特集 水俣型教育旅行の提案……・ 2
    魂のバトンリレー/松森俊尚……… 3
    普段着の水俣を/北見明弘……… 6
    鼎談・もっとゆっくり感じてほしい…… 8
    中学生と水俣の出会いから………・14
    水俣の他火(たび)/吉永利夫……・16
    
    職員紹介/山田千秋………19
    みなまたグリーンツーリズムのページC……・20
    りんごのコマーシャル………22


特集 水俣型教育旅行の提案

中・高校生時代に行った、修学旅行の思い出はなんだろう。
夜遅くまで、皆で騒いでいたこと。隠れて吸った、たばこの味。
今となってはそんなことさえ、忘れている。
京都のお寺に行ったはずだ。関門海峡も渡ったはずだ。
いったいあの旅行は、なんのためにあったのだろうか。
知らない町で、知らない風景と知らない人に出会ったはずなのに。

水俣に来る修学旅行の子供たちが増えている。
水俣市や熊本県、それに旅館や受け入れ施設も力を入れ始めた。
「水俣病」を売り物にしていいのか。
子供たちに、どうやって「水俣病」を伝えるのか。
伝えるべきものが、水俣に残っているのか。

学校が、教育が、家庭が、子供たちが、そして旅も出会いも変わった。
最近では修学旅行を「教育旅行」と呼んでいる。

辛い時に空けるための、想いの入った缶詰を持ち帰るような。
確かに心と身体が繋がっているような。
そんな心に残る「水俣型教育旅行」を造りたい。


魂のバトンリレー −− 松森俊尚

 「魂のバトンリレー」という書き出しで始まる「学級通信」を、小学校五年生を担任している時出したことがある。

眠るのがもったいない

 今午前二時三〇分、皆の部屋を見回った後、独りぼっちの自分の部屋に戻ってこれを書き始めている。「天使の寝顔」とまではとてもいかないけれど、きみ達の寝顔、寝相は無邪気で、可愛くて、あどけなくて、けっこうエエもんやで?。友だちと抱き合うようにして眠っている者、足に抱き付いている者もいる。指をしゃぶりながら寝ている者、両手両足をデーンと友だちの上に乗っけて大の字になっている者、その足の下に組み敷かれながらスヤスヤと心地好い寝息を立てている者、お母ちゃんの優しい笑顔が思い浮かんだのか急にニヤニヤと笑い出したり、ケンカの続きを思い出したのかウーンとうなされたり、とにかくいつまで見ていても飽きてこないから不思議だ。中には、僕と視線が合って急に寝息を立てる者、ニッと白い歯をこぼして笑いかけてくる者も何人かいる。
 タバコを一本取り出して火をつける。一息深く吸い込んで、立ち上る煙を目で追いながら、まだ熱い思いでからだが震えているのを感じる。こんな夜は眠るのがもったいないと思えてくる。

言葉を受け取る

 ヒロシマへの修学旅行の夜、宿舎の一室で書いたものだった。その日、早朝に学校を発った子ども達は、資料館見学、平和公園での集会、散策を終えて宿舎に入った。夕食後各クラスに分かれ、被爆者の方を招いての講演と交流会を持った。僕たちのクラスに来てくださった森本範雄さんは静かな口調で、話を始められた。子ども達は身を乗り出して講師を見つめる。極限状況に置かれた人間の生きざまを、自分の体験として静かに静かに語られる。その一言一言を確実に伝えようと願う丁寧さで。子ども達はからだに刻み付けるような真剣さで言葉の一つ一つを受け取っていた。

言葉が紡がれる
 一時間の語りが終わった。サッと何人かの手が挙がる。一人が口火を切り、それから延々二時間に及ぶ「話し合い」が始まった。「原爆を落としたアメリカの人達をどう思いますか」。「当時は憎みましたよ。でも、今はアメリカというより戦争を憎んでいます」。しかし子ども達は納得しない、「そやけどな」と自分の意見を続ける。「・・はっきりと責任を追及しやなあかんと思うねん」、森本さんも真剣に考え込む。その真剣さ、真摯さに支えられるようにして、次から次へと質問や意見が出されてくる。教育勅語、強制連行、南京大虐殺、天皇、非国民・・、事前学習の中で調べた言葉が息を吹き込まれたように子ども達の口から生き生きと紡ぎ出されてくる。「戦争中に反対することはできなかったんですか」「・・やっぱりそういう時代だったんですか」時間をかけて森本さんは答える。子ども達にはどうしても理解できない。「それでもな」「やっぱり思うんやけど」繰り返し繰り返し何度もその問題に質問と意見が交わされた。
 予定の時間が過ぎた時、「私は大丈夫です、もっと続けましょう」と言って下さった。もちろん子ども達に異存のあるはずはない。益々たくさんの手が挙がってくる。ゴロンと横になって参加している者、壁に背をもたせ掛けて聞き耳を立てている者、近くの者と話し合いを始める者、何時の間にか部屋の隅にいたはずの者が森本さんの前に来て、座り込みうなずきながら意見を言う。それぞれが思い思いの姿で、しかし真剣に話し合いの場に参加していた。一〇時二〇分、消灯の時間を過ぎてしまって、とにかく終わることにした。子ども達は森本さんとの話し合いを尚引きずりながら、別れを惜しむ表情でそれぞれの部屋へと戻って行った。

平和学習という囲い込み?

 人との出会いが生み出したドラマでもあった。しかし一方で思うことがある。ヒロシマ修学旅行とは実は平和公園への旅行ではないのかと。ヒロシマの歴史と現実は、むしろ公園にではなく広島の風景とそこに生きる人々の暮らしの中に今も刻まれ息づいている。観光政策と旅行業者の思惑、そして私たち教師が「平和学習」という名の下に、いつしか子ども達を「聖地・平和公園」の中に囲い込んでしまったのかもしれない。

魂の数だけ
 僕は何度か水俣に寄せて頂いた。豊かな不知火海を眺め、変わり行く百間港を見た。資料館を見学し、時には患者さん達と焼酎を呑み交わし、見よう見まねで輪に入って踊りも踊った。その度に思うことがある。何ゆえ患者さん達はかくも優しいのか、そして何ゆえかくも力強く闘い得たのか、と。ひょっとすると、患者さん達は亡くなった方の魂と共に生きておられるのではないか、共に生きる魂の数だけ優しくなれるのではないかとも思えてくる。いわば魂のバトンリレーである。

思い出作り

 水俣の一日か二日、子ども達が自由に散策し、人と出会う、物や風景と出会う、会話が生まれ、中には家に上がり込んで終日ジッちゃんバッちゃんと話し込む者がある、一人一人の水俣での物語が生まれる。限られた場所ではなく、水俣という地域そのものが子ども達の学習のフィールドとなる。そんな旅行は出来ないものだろうか。或いはそこに水俣の魂のバトンをしっかと受け取る子ども達があるかも知れない。そのバトンは今度はだれに、どのようにリレーするのかという課題も確かに背負いながら。ヒロシマからのバトンを受け取る子どもがあるように。
 「皆で」旅行すれば子ども達の心に何かが残る。広島でもディズニーランドでも心に残る何かが生まれる。「思い出作り」をディズニーランドと競う意味は何もない。

松森俊尚さん
松森俊尚(まつもり としひさ)
1951年大阪市に生まれる。1976年寝屋川市の小学校に勤務。
現在24年目。
自分たちで考え、自分たちで発表 語り部の話しを聞く
自分たちで考え、自分たちで発表する。
芦北青少年の家に宿泊して、語り部の話しを聞く。

普段着の水俣を  北見明弘

 二〇〇二年度から施行予定の新学習指導要領は、「国際理解」「情報」「創造」「環境」「福祉」「健康」をキーワードに「総合的な学習」を基本理念に据えています。これらの課題に対し校外学習の一翼を担う「修学旅行」はどのような役割を果たせるのか、また、そのためには方面や形態、規模等どのようにしていったら良いのか、現在、学校の先生方と旅行会社が一緒になり検討を重ねているところです。

観光からの脱却
ここ数年来の国内の修学旅行は、「歴史」を中心テーマにした観光性の強いそれから、「平和学習」「自主行動」「体験学習」に重きを置いたものへ次第にシフトしてきたと言っても過言ではありません。この傾向を最も取り入れた旅行先が沖縄でした。この体験型へのシフトに向けては、様々な学校で多方面にわたり検討がなされ、多種多様な実践がなされてきました。しかしながら、大きなグループ(二〇〇名規模)が一同にそろて短時間で体験することが求められてきましたので、ややもするとその内容に一定の制約が生じてしまうことも見受けられました。

滞在型の旅行
これからの修学旅行は、新学習指導要領の方針に沿って、従来にも増して明確なテーマ性が求められることになろうかと思います。「大きな規模でもできる体験学習は何か」から、「本物の体験学習を行うには、どのような内容で、どのような滞在形態で、何人くらいの規模なら行えるのか」への発想の転換が必要になってくると思われます。そのためには、従来以上に滞在型の旅行が求められることでしょう。

自ら学び自ら考える
さて、私の愛すべき「水俣」を始めて訪れたのは、グリーンツーリズムを提唱するモニターツアーに参加した昨年の一〇月でした。風向明媚な景観に感動し、緩やかな時間の流れに心身とも癒された感じを抱きました。無人島で思いのまま、なにものにも制約されず過ごす時間、与えられるのではなく自ら楽しみを作り上げていく体験を通し、久しく忘れかけていた感動が沸き上がってきました。分刻みの旅程管理が求められるこれまでの修学旅行の中に埋もれていた私には、「これからの修学旅行地はここかもしれない」と直感的に思われました。「青い空、深い海、緑豊かな里、自然豊かな環境の中でおおらかに暮らす人々」と触れ合うことこそが、新学習指導要領が謳うところの「自ら学び自ら考える力を育成する」一助になるのではないかと確信が深まっていったものでした。

水俣だけに留めずに
水俣病という歴史を踏まえ、環境モデル都市づくりをめざし確実に成長を遂げつつある「水俣」は、「もやい直し」という新しい運動を起こし始めた人々が住む「水俣」は、次世代の修学旅行に必要な要素に溢れ、「創造」「環境」「福祉」「健康」を学ぶ場としては全国のどこにも類を見ない地であろうと思います。

伝えるものがある
経済最優先で発展を遂げてきた日本社会は、ここしばらく様々な面で見直しを迫られてきました。過去の過ちは二度と繰り返さないように、二一世紀を担う世代に確実に伝えていかなければなりません。経済と自然環境との調和は全世界的なテーマですが、このことを極めて大きなテーマとして、伝えていけるものが「水俣」にあると確信しています。大きな犠牲を払って得た教訓を、「水俣」の中だけに留めることなく、過去の事例を検証できる貴重な機会を修学旅行の生徒たちに与えて頂けるよう切に希望します。
普段着の「水俣」の懐深く、修学旅行生が自然を体感している姿を夢見てやみません。

北見明弘さん
北見明弘(きたみ あきひろ)
1985年jtbに入社。団体旅行横浜支店(現教育旅行横浜支店)に配属後、13年間教育旅行営業(学校関連の営業)を担当。主に国内、海外の修学旅行の斡旋を業務とする。現在、首都圏南営業本部団体企画課に所属。新たな修学旅行を模索し、教育旅行営業の販売促進に従事する。
百間排水口を見る
チッソの排水が流れ出る、百間排水口を見る。


 職員紹介  山田千秋山田千秋

 私は、相思社でもめずらしい水俣出身の職員です。そして、職業安定所からの紹介で採用されたのは、私が初めてとのこと。今年の六月に水俣の市街地から、相思社のある袋地区に引っ越してきました。
それと同時期に相思社に入り、今は水俣病の資料整理と、全国の小学生から送られてくるお手紙の返事・資料等の送付をしています。
 私には六歳の娘が一人います。早くに結婚し、五年前に離婚。それからずっと一人で母親と父親の二役をやってきました。当時二二歳でした。今だから過去も笑って話せるようになったけれど、離婚してすぐの頃は、家族を捨てた主人、大切な家庭を奪った私の友人を恨みました。あの頃は、仕事をいくつも掛け持ち、時間に追われながらの生活でした。でも、子供が「ママ、お仕事ガンバッテ!!」「お仕事お疲れ様でした。」と言って、私のことをいつも見ていてくれました。それが、支えでした。
 そして、今年の五月に現在の主人と出会い、新しい生活が始まりました。私生活も仕事も再出発したんです。
 私は、水俣で生まれ育ちました。水俣病が起きたとは思えないほど水もきれいで、子供の頃は家の近くの川に金魚も泳いでいました。自然がたくさん残っていて、良い所です。
 水俣市民の中には、水俣病を早く忘れたいと思っている人、それとは逆で水俣病を決して忘れてはいけない、二度とこのようなことが起きないように語り続けていかなくてはいけないという方がいらっしゃいます。私は後者で、相思社で私も水俣病について学びたいと思いました。相思社には水俣病歴史考証館があります。面接で初めて考証館を見学した時、驚きました。そこは私の知らない水俣病の世界でした。展示してあるパネルから衝撃を受けました。
 相思社にきて早四ヶ月。たくさんの方々と交流し、いろいろな話を聞き、語り合い、少しづつですが学んでいます。水俣市民だからこそ、誰よりも水俣病について知っておきたいと思うし、もっと多くの人達に伝えたい。学校で習った教科書のイメ−ジの水俣ではないことを知ってほしい。自分の目できちんとみてほしいですね。
 娘も来年の四月から一年生。ついこの間まで赤ちゃんだったのに…。それだけ私も歳をとったということなんでしょうが。子供にも水俣病についてきちんと伝
えられるようになってほしいですね。これからも、多くの方々とふれあい、日々楽しくやっていこうと思います。そして、一日も早くみなさんに名前を覚えていただけるようになりたいですね。


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