
中央集権と官僚制が著しく成熟した日本で、
「地域が地域で生きていく」ためには、どんな覚悟がいるのだろう
古来人々の暮らしは、人間が歩いて行動する範囲であっただろう
モノが過剰になり交通の進展が促されて、人々の行動範囲は広がった
何時の頃からか国というものが暮らしを被い、
あたかも自然物のようにふるまうようになった
国は強権をもって人々を従属させたばかりでなく、人々が国を待ち望んだ結果でもあった。こうして双方向からのまなざしが国を作り上げた
ここでは国を論じることから、暮らしを眺めるのはやめよう。今の私たちの暮らしのなかに存在する国的なモノを見てみよう。
私たちは国に習って、地域のコミュニティーを前近代的な慣習や道徳や不文律から解き放ち、近代的な法関係に置き換えようとしてきた。そうして「となりの犬がうるさいからなんとかしてくれ」と、市役所に電話できるようになった。「ムラの会合は多数決ではないから、民主的でない」と言えるようになった。こうしてコミュニティーは地域の人々の共働から離れ、法と民主主義に委ねられた。その結果、コミュニティーは独自の力を失った。もちろん資本主義経済が、地域循環経済の破綻を伴ったことはいうまでもない
私たちの出発点はここにある
−− 故郷田實さんに捧げる
吉本哲郎
郷田實さんが亡くなった。
ご冥福を祈る。
綾の試み
「手づくりで本物をつくる、田舎は都会ではなく田舎をつくればいいんだ、綾は照葉樹林生活文化にものづくりを楽しむ町だ。それには自治公民館が大切だ」
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| 故 郷田實さん |
郷田さんは前町長の時に、夜逃げの町綾を再生の道に載せた。その手腕には敬服する。約二千haの照葉樹林の保全を基本に自然生態系農業の推進、企業誘致ではなく木工、ガラス、紬ぎと染め、陶工などの職人の誘致、一家多品運動、屎尿・畜産糞尿・生ごみのリサイクルなどの取り組みは、今もなお多くの人たちを綾町に誘う。足下にある自然に学び自然と共にある暮らしの意味を辿り、行く末を見通し先取りの精神で日本のどこもやったことのないことを次々に成功させ、ものづくりを楽しむ町綾に再生したのである。郷田さんのやってきたことは多くの人たちに、やれるかもしれない希望をやる勇気、元気に変えた。
出会い
郷田實さんは水俣にとって福の神だった。漁師の杉本雄さん、栄子さんは「恵比寿さんだ」というかもしれない。十数年前の出会いが家族や仲間、水俣病患者の杉本雄さん栄子さんとの出会いに連なっていった。
綾町に郷田實さんを杉本栄子さんと尋ねた時のこと。
行き来の道すがら5時間ずっと栄子さんは話し続けた。水俣病のこと、母親が最初に水俣病になり伝染するマンガン病と、ラジオで放送され翌日から網子が来なくなり、伝染するから村を歩くなと様々ないじめにあったこと、網が切られたこと、それが親子兄弟づきあいと思ってきた網子の仕業だったこと、父も水俣病にかかり、でも「のさりと思え、絶対いじめ返すな」と戒めたこと、夫婦とも水俣病になったけど、父の遺言だった裁判が終わった時いじめた人たちが後に水俣病になり先に死んでいったこと、「栄子どんすまん」といいながら…だから食べ物も売ってくれなかったこと、だから草木を食べて元気になったこと…だから郷田實さんに会いたかったこと…
栄子さんは今まで話さなかったことを話しているようで、私はただただ聞くだけだった。栄子さんとの出会いで心に決めたことがある。「ただ、聞くだけだ。水俣病の正しい理解は自分にはできっこない。できるとすれば耳を傾け、聞いて、問いを発すること。話相手の言葉を写す鏡に自分がなること、役所の言葉ではなく自分の言葉を語ること」だ。
初めて栄子さんと出会ったのは平成3年の早春、水俣で紙漉きをしている金刺潤平くんの紹介からだった。それまで、水俣病患者と出会ったことは少ない。桜満開のタケノコ料理を食べる会の日だった。郷田さんが家に来てくれたので、会いたいと言っていた杉本雄さん栄子さんを招待したら喜んでくれた。杉本さんのシロゴにイリコもうまかった。水俣病患者の悪口を言っていた母親もそれっきり言わなくなった。気づいたのは「距離を近づけて、話し合い、対立のエネルギーを何かを創るエネルギーに変えること、そのためには互いの違いを認めあうこと」だった。このことが以後、水俣で取り組む基本原則になっていった。
未来を読んで今に手を打つ
ここ10年、水俣の地域づくりの先に綾町の取り組みがあり、やればできるかもと、くじけそうになったときに辿り着くのが綾だった。何度も教えてもらった。ある時は自宅であるときはみかん山で、照葉樹林の恵み、土がどうしてできたのか、食べ物が危ないこと、アトピーはまだ体の外に押し出す力があるからいいが、これからは染色体レベルへの影響があるかしれないことなど、それも10数年前の話だ。農薬と化学物質づけの食べ物、土が死んでいることについて警鐘を鳴らし綾の町で自然生態系農業を軌道に載せた。
水俣に来て話もしてくれた。折しも水俣病の発生によって受けた打撃から立ち直ろうともがいていた水俣の状況もあり、水俣再生を環境から始めるためにどのようにしていけばいいのかを考えていたので大きな影響を受けた。
1992年、水俣に郷田實さんをお呼びして話を聞いた。「エコ水俣だな」と自宅での打ち合わせのときにつぶやかれたのを今も鮮明に覚えている。
来し方行く末を知り、先を見抜く力のある人だと思った。
水俣に向き合う
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| 照葉大橋から照葉樹の森を望む |
どこかにいい所があるに違いないと日本のあちこちを探しまわったけどどこにもなかった。綾の町の人と自然と暮らしが最高だった。海外にも出掛けたけど、どこにもいいところがなかった。
最後にここしかないと郷田實さんたち5人で行ったのがインドの北東部中国の雲南省と接している、照葉樹林生活文化の発祥の地アッサムだった。アッサムはアジアで最初に石油が見つかり、他の地下資源も豊富でそのため先進国による自然資源の収奪が激化し、民族紛争が利用された。加えて人口増加、過度の伐採、1万oも降る雨による表土流出などで、多くの土地が裸地化していた。がっかりした、思ったのは水俣から逃げずに正面から向き合い再生するしかないことだった。
やっぱり綾町だった。この経験が綾の取り組みに目を向けさせ、水俣の行く末を見ていく出発点になった。旅の間、郷田さんの話を聞けたのも財産になった。
アッサムの地図を広げたらミャンマー国境近くにインパールがあった。先の第二次世界大戦で日本軍が壊滅的な敗北を喫したところだ、アッサムは遠かった、こんな所まで来たのかと驚いた。でも、郷田實さんも従軍し中国からマレーシアまで歩いたと聞いて声が出なかった。「戦死と病気、自殺が1/3ずつだ、私も何度死のうと思ったことか、爪と髪の毛を小さな石に添えて。でも、綾の水のにおいがし、祭の笛太鼓の音色が聞こえてきて、もう一度綾の水を飲みたい、川に入って魚をとりたい、祭の笛の音を聞きたいと思って生き延びてきたんです」
地元学の原点
わがままにも見える郷田實さんの地域づくりは、戦地遠くで思った生まれ在所綾の風土と暮らしの原点を再生したのだと思う。「また、町長さんがぁ」と、わがままを通させた町の人もいい。通させたのには背景がある。貧乏は病気からだと郷田健康保険組合をつくり、私財を売り払って町民を支えたことを町の人たちが知っていたからだ。それが日本のどこにもない先取りの町づくりを軌道に載せられたと思う。武士のモラルを持った風格を感じる人だった。
地元学協会の会長になってもらった。地元学とは地元に学ぶこと、足下を自分たちで調べ考え、地域づくりに加えてモノ・生活をつくること、田舎は田舎をつくることだ。綾に学び郷田實さんの薫陶を受け、杉本さんたちと出会い、水俣で取り組んだことを振り返って、地元に学ぶ地元学と名付けた。水俣に生まれ、岩手県陸前高田市で育ち、愛知県は美浜町、三重ふるさと学などに拡がっている。
郷田さんは言う。
「私は何をすればいいのか」
「何も、今までどおりやっていただければいいんです。郷田さんのやっていることは地元学そのものなんですから」
郷田實さんが綾町における取り組みを「結いの心」(ビジネス社1998)に著した。言っていることではなく、やっていることに目を凝らすのも地元学の基本だ。郷田實さんのやってきたことを辿るのは、実は自分の道を辿り直し、目を凝らすことかもしれない。今は絶滅の危機にある人様の役に立つ武士の規範を身につけることを問われるかもしれない。
一人ひとりにそして水俣にも、大きな影響を与えた郷田實さんは大きな人だった。せめてもう一度、お陰さまで元気になった水俣を見てもらいたかった。でも、この世からはいなくなったけど、これからはあの世からいつも見ていてもらえると思う。
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吉本哲郎さんプロフィール 1948年水俣市薄原に生まれる 1971年大学卒業後水俣市役所に入る 都市計画課、企画課、環境課を経て、 現在環境対策課課長 地元学協会事務局長 著書:「私の地元学」(1998年)、 「風と土の地元学」近刊予定 |
| あるもの探しの語らい 左端が吉本さん |
北海道標茶町・熊本県小国町・鳥取県智頭町・愛知県御浜町 竹田純一
はじめに
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| 標茶町 1A1P運動でつくった公園 |
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小国町 小国ドームの側の伝統的な暮らし |
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| 智頭町 ひまわりシステムとばあちゃんたち |
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| 美浜町 みんなで竹炭づくり |
私が生まれたのは昭和三五年。日本の近代化の真最中だった。昭和の後半は、物質的な豊かさを求めた社会から私利私欲の、バブル経済へと転換していった足跡そのものだった。
人の記憶というのは面白いもので、生まれた頃から四つ足で這っていた一歳頃までの記憶は二本足で立つ頃に忘れてしまい、立って歩いていた頃の記憶は、走り出す頃に、そして、走り出した頃の記憶は、自転車に乗る頃になると忘れてしまう。忘れてしまうというよりは、脳裏の奥深くにしまわれて思いおこせなくなる。私が育ったこの時代、脳裏にしまわれたはずの原風景は、呼びおこす間もなく暮らしの場や故郷からなくなっていった。それ程までに時代の変化は激しかった。自分の成長の足場を崩すかのように、変化がいやおうなしに原風景を変えていった。
子供の頃、脳裏に焼きついた原風景は、里山に囲まれた集落の中での人々の暮らし方、決して華やかではないが、一人一人の目が輝く暮らし方があった。失われつづけてきたからこそ余計に哀愁が漂うのかも知れないが、落ち着きと安堵、安らぎのある暮らし方だった。古来より伝わり変化に応じて淘汰し続けてきた里山文化。山を信仰し狩猟採取、農耕と適度の工業を基盤とした無駄のない燃料使い。家畜とともに田畑を耕し水を大切にしていた里の暮らし方だった。一人一人が集落の中で技量と役割を持ち、里の中の循環と共生を人と人、人と自然が織りなす調和がとれた暮らしそのものだった。
今は亡きふるさとの原風景に対する憧れから、随分と全国各地の集落を訪ね歩いてみた。過去に戻るのではない二十一世紀型の新しい里地づくりを模索して、地域内循環と人と自然の調和、そして住民が主体的に、人を育て、モノをつくり、地域を経営していく仕組を求めた旅を続けている。
各地の取り組みの中に、しっかりとした地域内循環と自然との共生を可能とする自治の試み、試行錯誤の足跡が見えてくる。
北海道標茶町
ダイヤモンドダスト現象、氷点下二五度を越える冬の大地、太陽の光を受けて空気中の水分が氷結して輝く一瞬、この生半可ではない氷結の世界をもつ標茶町が拓かれたのは今から百年前、先住民族であるアイヌの人々の暮らしとは異なる開拓の歴史がここから始まった。標茶町の北部に酪農地帯がさらに拓かれたのは、昭和初期から戦後にかけてのこと。「歴史の“しがらみ”がないとこんなにも澄み切って自由な開放感があるものか」といった人がいた。水の分配や山の利活用に厳格なしきたりのある地域と比較すると標茶町は各自の自立と自由な雰囲気が漂よっている。
この標茶町には、二十余年前から突出した自治の方式がある。人口減少による集落機能の危機を契機に集落の再編が行われた。この再編で住民自身が、再編する地域の範囲、再編後の振興計画案の起案と実施を行うこととなった。集落再編の原動力となったものが「1A1P運動」(1Area
1Proud :一つの地域に一つの誇りもつ)ことだった。標茶町では昭和初期の開拓酪農の精神を活かし自分たちの地域は自分たちで作る。役場の職員は、集落の住民ではないのだから本当に住民自身が何を望み、どのような地域を作りたいのかは分からない。広大な大地を活かすも殺すも集落住民自身の問題だと。二十余年前に住民に投げかけたことが契機となり、現在もゆっくりとしかし確実に住民自治が根づきつつある。標茶町を深く見つめてゆくと町と開拓者たちの住民自治の足跡を見ることがでる。
熊本県小国町
小国町には杉を活かした洗練された木造建築物が多数ある。小国ドーム(町民体育館)、悠ステーション(物産館、情報センター)、木魂館(学習と交流の拠点)を初めとするユニークな形の建造物だ。小国ドームは日本で初めて認可された木造トラス工法のアーチ状の建物。これらの建物を見に全国から視察団が訪れてくる。円盤状の悠ステーションには、視察者を意識した独自開発の土産モノが並び商品開発の方向がチェックされている。「木魂館」の別名は学び舎の里、北里芝三郎博士の哲学である交流と学習の実践の場であり、地元の人が外部のプロと共に学べる九州ツーリズム大学などさまざまな交流の仕掛づくりが行われている。木魂館で大活躍しているのは地元婦人グループの一つピッコロチーノの女性シェフたち。全員が料理士や栄養士の免許を取り小国の素材を使って、二百種類以上のメニューを開発している。小国町のまちづくりのシナリオには、「悠木の里づくり」と「小国ニュービジョン」がある。私が好きなシナリオは「人の誘致に努める」「女性の新しい活動グループを作る」「人の起業を助ける」「地域内循環のしくみをつくる」「コミュニティープランをつくる」などだ。
町が行うシナリオはできる所から順次実施し、集落が行うシナリオは、集落が自主的に計画したコミュニティープランに即して実行されることになる。逆に言えば、集落自身で真剣に自分たちの地域のことを考えないと、町は何もしてくれないことになる。町は集落の中の自治の真剣さや熱意を評価してまちづくりが行なわれることになる。
鳥取県智頭町
鳥取県智頭町は、町長が毎回変わるという不安定な政治情勢を30年近く続けてきた町。この町の町政に対する不信をいだき続けていた有志たち(智頭町活性化プロジェクト集団:CCPT」)が、自らできることを模索しながら着実に住民自治の仕組を築いてきた足跡がある。
できることからというのは、山村集落の一つで若年層がまったくいなくなってしまった集落に、ヨソものを受けいれ、交流を楽しめるログハウスを、ログビルダー養成講座という形でお金をかけず、智頭町ファンをつくりながら実践したところから始まった。数棟のログハウス建設後に維持管理と収益を高齢者中心の集落にまかせることで、高齢者の生きがいづくりを行いながら、ヨソものとの交流を可能とした。これと前後して、日本の家設計コンテストを開催し、杉の町の将来あるべきイメージを思案しながら、設計士を初めとする専門家や研究者をCCPTのメンバーに加えていくこととなった。閉塞していた智頭町の政治、行政、自治というものがCCPTのさまざまな活動とヨソ者やマスコミを巻き込む形で活性化を図るイベントによって打ち消されていく。波乱に飛んではいるものの確実に活性化を成し遂げ、十年を過ぎる頃には郵政省が現在全国に広めている「ひまわりシステム(郵便局外務員による独居老人の訪問と御用聞きの仕組)」や「日本ゼロ分のイチ村づくり運動」を智頭町の集落自治のシステムとして採用するまでにいたっている。
愛知県美浜町
名古屋から電車で一時間程の知多半島に美浜町がある。里山林に囲まれ、数百の溜池が残され、川鵜をはじめとする貴重な動植物が数多く生息している地域だ。この美浜町布土地区で平成十年に地元学を実践し「水の行方」と「あるもの探し」を行なった。布土地区全住民に呼びかけての地元の再発見のためのハイキングやシンポジウムを通じて、最近では、竹を切って里山をきれいにし、切った竹で炭を焼き、その竹炭を、炊飯、湯沸かし、お風呂、タンス、田んぼ、畑、水路と、竹炭のでき具合に応じてさまざまに活用が行われてきている。
この布土での取り組みが、他の地区に飛び火してドラムカン窯が、それから一年たたないうちに、三十基設置された。地区毎に老人たちが趣味と実益をかねて竹を切り、炭を焼いている。美浜町役場では、竹炭の販売事業を真剣に考えはじめている。さらに、竹だけでなく、備長炭の素材であるウバメガシが里山一帯に繁茂していることから、白炭窯の設置を検討している。住民自身は役場の設置に先がけて、既に白炭窯を一基設置している。
これからは名古屋とのツーリズムや交流と販売が始まり、地域内循環を基盤としながらも、小さいけれども広がりのある生業の芽が確実にで始めている。里山の保全と水の浄化活動、おいしい水とご飯から始めた住民の活動の方向が、今後ますます楽しみだ。
住民の自立を
中央集権から地方自治へと向かう二十一世紀。しかし、地方自治が、住民自治を基盤としていない限り、中央集権と同じ不安感を感じずにはいられない。しかし試されるのは住民自身、自治とは自立した個と個の関係の上に、理想的に確立されるものであろうから個々が自立していなければ、やはり、自治もそれなりのものにならざるを得ない。みんなでがんばりましょう。
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| 竹田純一さんプロフィール 中央大学法学部卒 金融機関、 英国先端技術開発シンクタンク、 日本リサイクル運動市民の会を経て、 現在(財)水と緑の惑星保全機構事務局次長、 里地ネットワーク事務局長 |