水俣病をめぐって様々な議論がある。「水俣病はもう終わった」「水俣病の事実解明すら進んでいない」それぞれ発言のスタンスが異なり、問題の立て方・捉え方が一様ではなく、議論がかみあわない現状がある。水俣病の教訓を活かして行政施策に盛り込みたいと考える人がいる反面、事件の全貌が明らかにならないのに教訓などとはごまかしだという人がいる。ごんずい編集部としてはそれを整理することはできないが、異なった意見が存在することを事実として認めることから始めたい。
特集の背景としては「水俣病の悲劇を繰り返さないために-水俣病の経験から学ぶもの-」(国立水俣病総合研究センター.一九九九年十一月刊.一三九頁)と、それに対する議論が記録されている「-水俣病に関する社会科学的研究会-の報告書をめぐって」(第五回水俣病事件研究会の記録。二〇〇〇年二月刊.六一頁)がある。
しかし、ごんずいの読者すべてがこれらの冊子に目を通しているわけではないので、執筆者にはその点を配慮して原稿をお願いした。それぞれの資料については、「水俣病に関する社会科学的研究会」報告書の座長橋本道夫氏のあいさつ文、目次、研究会の委員名簿、ならびに「第五回水俣病事件研究会」記録の原田正純氏あいさつ文、目次を掲載した。資料としてはなはだ不充分ではあるが、前者は九月初旬に中央法規から一般書店で販売され(考証館で販売します)、後者は編集者の好意で希望者へテキストファイルFDで提供される(相思社へ請求されたし。実費必要)。
誰にでも目に触れるところにはない資料を背景として特集を組むことは、かなり危うい試みとは認識しているが、議論の焦点が水俣病事件にとって重要であると判断したので、あえて強行した。もちろんこうした編集部の姿勢にも問題を感じる方があると思う。
特集の各論文や編集部の姿勢に、それぞれ意見や批判があることが想定される。一〇月二〇日までに原稿(二千字以内)をお送り頂ければ、六一号に紙面が許す限り掲載する。そして批判を受けた方が望まれれば六二号に反批判を掲載したい。(編集部)
一 水俣病事件研究会と国水研報告書
今年の一月、第五回水俣病事件研究会が大阪で開かれ、その現地世話人を引き受けた。この研究会(以下、事件研究会)は水俣病の政治解決策が閣議決定された直後の一九九六年一月に原田正純・宇井純・坂東克彦・岡本達明の四氏の呼びかけで始まったもので、水俣病事件の多角的解明を通じて水俣病事件の全体像を明らかにしようとするものである。
しかし、今回の事件研究会の直前になって、この特集の発端である国立水俣病研究センター(以下、国水研)の「水俣病に関する社会科学的研究会」報告書(以下、報告書)が発表されたため、世話人代表の原田氏と相談の上、急遽、事件研究会の最後に報告書をめぐるセッションを設けることになった。六〇名以上が参加した当日のセッションでは、まず宮澤信雄氏から報告書に対する批判的検討の発表があり、それを受けて参加者の間で活発な議論が繰り広げられた。
事件研究会で議論がホットになった理由は第一に「経緯についての検証」や「教訓を導く」という目的が事件研究会の目的と重なるからでもあるが、第二の理由は報告書を作った国水研研究会の中に四人の事件研究会のメンバー(原田・宇井・富樫貞夫・高峰武)も入っていたことによる。
今回の報告書は事件研究会の今後にもかかわることなので、セッションの記録に参加者からの追加意見を加えて「第五回水俣病事件研究会の記録」(以下、「記録」)を作成し、参加者及び関係者に配布した。ここでは「記録」に書いた私の意見を「ごんずい」向けに書き直した。
二 期待していただけに失望も大きい
事件研究会の主要メンバーでもある四人が入って努力されたということなので、私もこの報告書には少なからず期待を抱いていた。そもそも、これまで行政のやり方に批判的な意見や提言に聞く耳を持たなかった行政サイドが、政治的解決策だけで終わりとせず、水俣病の貴重な経験から今後への教訓を導き出したいと国水研の研究会を立ち上げ、十人の委員の中に四人まで招いたというのであるから、期待しないでという方が無理であろう。
たしかに報告書には、四人の委員がいなければ書けなかったと思われる箇所が端々に見受けられる。特に第五章「考察と教訓」の考察2「原因不明の初期対応はいかにあるべきか」の項では、これまでの裁判や政治的和解の時でも、国が決して認めようとしなかった表現もある。
曰く、「一九五六年末には、事態はきわめて深刻で…、熊本県はこのことを重く受け止め、原因究明のためにチッソに対して、自らの工場排水調査を公式に強く要請すべきであった。」、「伝染病の疑いが晴れ、一九五六年一一月に工場排水が原因として疑われた時点で、漁業自粛だけではなく、工場排水に対する規制措置の検討も必要であった。」、「水俣湾の魚介類の摂食が原因であることがわかった時点で、被害の深刻さに鑑み、行政は、補償問題と健康被害を天秤に掛けるのではなく、漁獲の禁止措置をとるべきであった。」、「水俣病の場合には行政及び政治の決断が決定的に欠けていた。」、云々。
問題は、それではなぜ行政が初期対応として必要な対策を取らず、政治の決断が欠けていたのかということであり、その根本的な原因を究明しないことには「水俣病の悲劇を繰り返さないため」の教訓にはなるまい。ところが、この報告書では、経緯と考察でせっかく前記のような判断に辿り着きながら、次にいきなり「教訓」と題し、水俣病事件でなくとも言えるような一般的・抽象的な心構えを述べるだけで終わり、行政のどこに誤りがあったのかを問わず、今後の具体的な方策さえ検討しようとしない。
曰く、「問題解決に責任ある立場の人は、原因についてかなりの確からしさを確認したら、それへの対応に伴う補償の問題を抜きにして、その時々で考えられる対応を速やかにかつ広く積極的に決断実行することが必要となる。行政官も政治家も、それによるリスクを負う責任を有している」と。はたして十人の委員はこの程度の道徳教育で行政官も政治家も二度と水俣病の悲劇を繰り返さないようになると本気で考えたのであろうか。これでは、工場に掲げられている「安全第一」という「標語」とどこが違うのかとさえ思ってしまうほどである。
三 国水研研究会と報告書の限界
報告書全体がこの調子で、四人の苦労の跡はしのばれるが、今回の報告書総体としては残念ながら宮澤氏の言われるように政治解決策と首相談話の域を出ていない。このことは、報告書の橋本座長の巻頭文、滝澤所長の挨拶、参考として付けられた首相談話、及び終章をよく読めば自ずと明らかとなってくる。
滝澤氏は挨拶文の中で、この研究会は政治解決のときの首相談話の趣旨に基づき設置されたと明言しているし、当の首相談話には「政府としてはその時々においてできる限りの努力をしてきた」と述べられているのであるから、明らかに外枠が定められた中での研究会であり、滝澤氏の言うような「全く白紙の状態から」始まったわけではない。しかも、関西訴訟がいまだ係争中であることを懸念し、「国や県の法的責任の有無について結論を示すものではない」(本文「注釈」)とまで断っているのであるから、行政の責任については初めから予防線が引かれていた。
その結果が研究対象期間と研究課題の限定という形で現れる。すなわち、「水俣病対策を講ずるに当たり最も重要な時期であった、水俣病の発生から一九六八年九月二六日の政府統一見解発表に至るまでの原因究明過程を研究の対象とした」というのである。一般に研究対象期間を一定期間に絞ることは自由であるが、今回の研究会のテーマが「水俣病の悲劇を繰り返さないために−水俣病の経験から学ぶもの−」であることを考えれば、この対象期間の限定はきわめて奇異である。政府統一見解以後も三〇年以上にわたって患者の救済は終わっておらず、水俣病の病像と行政の責任についても決着がついていないのであるから、水俣病の経験から教訓を抽出しようとするなら、本来、期間を限定すべきではない。
さらに、研究課題を「原因究明過程」と限定することにより、被害者の救済という大きな問題がすっぽり抜け落ちてしまっている。滝沢氏の言うように「政府の政策決定に活かせるような教訓を導く」ことが目的ならば、被害の実態解明や水俣病患者の認定問題、さらに患者要求への対応などこそ、研究の対象にすべきである。
四 どのようにすれば「教訓」になるのか
水俣病事件の経験を学び、そこから「教訓」を導き、今後に活かすという目的自体は、この研究会だけでなく、水俣病に関わる研究者や関係者なら皆同じであろう。政治解決と首相談話の枠さえなければ、水俣病事件の「教訓」を今後に活かすために、長い間、立場を異にしてきた関係者が同じテーブルについて研究を行うことは画期的なことであり、今後の環境・公害問題に与える影響も大きいことは間違いない。
しかし、前述のような研究会の制約と研究対象期間や研究課題の限定から、研究会の進め方も必然的に制限されたようで、事実の解明に必要な資料や証言の収集整理よりも委員間での議論に重点が置かれたようである。事実、報告書の巻末にはわずか一五の参考文献があげられているだけで、本文に記載された事実がいかなる資料にもとづいているのかさえ記されていない。四人の委員によれば、研究会の全員でこれらの文献に目を通して検討したというわけでもなく、資料の発掘はおろか、関係者のヒアリングさえ行なわれなかったという。
長い水俣病事件の歴史は常に様々な立場の間の対立の歴史であったと言ってもよいと思うが、そこから今後の教訓を導き出そうとするなら、まず事実を確定することが先決であろう。さいわい、今回はせっかく立場の異なる委員や環境庁が入っているのであるから、その気になりさえすれば未解明の事実の解明も期待できたはずである。もちろん、膨大な水俣病事件史の全体を解明するには長年月を要しようが、課題を絞り込んだ上で関係資料の収集と関係者のヒアリングを集中的に行えば、なぜ速やかな対応ができなかったのかぐらいは分析できたはずである。
とりわけ水俣病の行政対応に関する重要な事実のほとんどが経緯を明らかにされずに終わっている。例えば、漁獲規制に関する食品衛生法適用不可(一九五七年九月)に至る経緯、排水路変更(一九五八年九月〜五九年一一月)の経緯、通産省のアセトアルデヒド及び塩化ビニール工場に対する工場排水調査(一九五九年一一月)の経緯、熊本県の毛髪水銀調査(一九六〇年〜六二年)が活かされず打ち切られた経緯などのどれにおいても、どの時点で、誰が、いかなる理由で、何をしたのかが究明されていない。現時点で新たな資料の発掘は困難としても、水俣病事件においては一九六九年以来いくつもの裁判が起こされてきたのであるから、その書証や証言を整理検討するだけでもかなりの事実が確定できたはずであるし、ヒアリングの可能な関係者も現におられる。
さらに、事実から教訓を導き出す時の課題も今回のようにいきなり一般論にするのではなく、水俣病事件に則した課題にすることが必要である。例えば、考察2の「原因不明の疾病が発生した場合の初期対応はいかにあるべきか」というような一般論ではなく、「水俣病の初期段階で、なぜ漁獲や排水の規制ができなかったのか」という具体的な課題で分析を行うことが必要であり、そこから自ずと「日本のみならず諸外国の政府の政策決定や企業の環境汚染対策に活かせるような教訓を導くこと」(滝沢氏)ができるはずである。
既存の文献や裁判資料を活用したこのような試みの好例としては、最近発表された舩橋晴俊氏による論文「熊本水俣病の発生拡大過程における行政組織の無責任性のメカニズム」(相関社会科学有志編『ヴェーバー・デュルケム・日本社会』ハーベスト社、二〇〇〇年に所収)をあげることができる。詳細な資料情報に基づく事実の「記述」とその分析から得られる「解釈」という氏の「戦略分析」による研究のまとめは次のように書かれている。
「原因が解明されていなかった」から、行政は対策をとれなかったという自己弁護には、説得力がない。一九五九〜六〇年当時、原因不明となったのは、行政内部の要素主体が原因不明にしようと積極的に努力したからである。
この論文で行政の無為無策が繰り返された原因として指摘されていることに比べ、報告書の教訓はあまりにもお粗末と言わねばならない。
五 行政責任を避けた教訓はあり得ない
国水研研究会が対象期間を限定した上にテーマを原因究明に絞った理由は、多分に関西訴訟の控訴審が続いていることを意識したものと思われる。それ故に、わざわざ「本報告書は、国や県の法的責任の有無について結論を示すものではない。」という「注釈」を付け加えざるを得なかったのであろう。現に、この五月に出された国・熊本県の最終準備書面でも、「食品衛生法は…食品の安全性という見地から必要最低限度の取締まりを行うことを目的とする消極的な警察取締法規にすぎず、食品衛生行政庁に対して…積極的な行政責任を負わせた法規ではない」とか「昭和三二年当時はもちろん昭和三四年一一月の段階においても、水俣湾産の魚介類が食品衛生法四条二号の有毒有害食品に該当するとは判断し得なかったのであり、これは、当時の知見に照らしてやむを得ないものであった」と主張していることを見れば、報告書の意図は明白である。
しかし、関西訴訟の決着がつくまで「行政責任」を論じることができないとするならば、そのこと自体、将来に禍根を残す結果となることを指摘しておきたい。国の省庁間や自治体等との権限争いや連携の欠如が行政対応の遅れを生んだとの一般的な記述だけで、具体的に水俣病事件の中で果たした通産省等の役割を問わないならば、水俣病事件の「教訓」としては何も言ったことにならない。現に、薬害エイズ事件でも厚生省がHIV感染者の生命より製薬業界の利害を優先し、水俣病事件の教訓が活かされていないと批判されたことは記憶に新しいところであり、つい最近のJCO臨界事故でも科学技術庁と茨城県、東海村の各行政の対応が連携を欠き、有効な初期対応を取れなかった。水俣病事件における失敗から学び、それを現在及び将来に活かす努力をこれ以上先送りにするわけにはいかない。その意味で、今回の報告書は様々な問題点を内包しつつも、そのための第一歩を踏み出したという点で評価したいと思うが、逆にもしこれをもって終わりとするならば、この報告書は新たな汚点を水俣病事件史に記すものとなるだろう。
水俣病に関する社会科学的研究会について 環境庁長官官房審議官 小島敏郎
一 闘争の時代から、再生と教訓の時代へ
水俣病の公式発見から四〇年近く経過して、村山内閣による政治解決がなされました。当初、国家賠償責任の有無について最高裁判決による決着を望んでいた政府の立場からすれば、和解による解決は不本意であるということになります。しかし、「基本的な方針を政治家が決めて、具体的手順について官僚が知恵を出す」という構造は、民主国家として当然のことであり、政治家のリーダーシップが発揮されたものと評価しています。
実際、法律による決着は、黒白がはっきりしますが、そこから導かれる解決策は、論理的でやむを得ないものであっても、必ずしも、未認定患者や認定患者、チッソ、地域の人々にとって、受け入れ可能なものであるという保証はありません。
政治解決による解決は判決による決着とちがい、「すっきり」とはしないかもしれませんが、損害賠償法理に拘束されることなく、自由な解決策を模索できます。いわば、日本人好みの「三方一両損」の「大岡裁き」が政治解決といえます。誰もが不満で、誰もが仕方がないと考えて、到達した結論です。ただし大岡裁きと違って、政治家が解決策をまとめただけでは当事者に対する法的拘束力はありません。紛争の解決は、法律的には当事者の合意を得て、訴訟原告については裁判上の和解によって、原告以外の者については裁判外の和解契約によって行われたのです。
水俣病事件は、補償問題に関しては見舞金契約の経験を経て、水俣病認定患者については昭和四八年の補償協定によって決着しました。そして、未認定患者については平成七年の政治解決によって決着したのです。その上で、政治解決はそれにとどまらず、地域再生や水俣病の教訓事業も、今後継続して行って行くべき事柄としています。
現在も国家賠償責任を問う関西訴訟が続いていますが、水俣病事件の展開は、患者補償を中心とする闘争の時代から、水俣地域の再生と水俣病の教訓を生かしていく時代へと、確実に時代のステージが移ってきていると思います。
このような時代の転換の中で、平成九年初夏、これまで水俣病をめぐって立場を異にする研究者に集まってもらって、水俣病事件の検証をしていただこうと橋本道夫先生に相談しました。橋本先生には、「やってみよう」とおっしゃっていただき、研究会のメンバーとして、これまで国が頼りにしてきた研究者として、浅野直人福岡大学法学部教授、岡嶋透大分医科大学名誉教授、藤木素士熊本県環境センター館長、三嶋功水俣市立明水園名誉園長、患者が頼りにしてきた研究者として宇井純沖縄大学法経学部教授、富樫貞夫熊本大学法学部教授(当時)、原田正純熊本大学医学部助教授(当時)を、そして、高峰武熊本日日新聞編集局部長、中西準子横浜国立大学環境科学研究センター教授をお願いしました。ご快諾頂いて、第一回を、平成九年七月五日に開催しました。
二 水俣病社会科学的研究会の組織
(1)日本の公害経験の検証作業の一環
水俣病の社会科学的研究会を作ろうとした理由の第一は、これまでも日本の公害の検証活動を行ってきていたからです。
水俣病事件と四日市ぜんそく事件をとりあげて、公害に未然防止の費用と公害の事後対策費用との比較をして、未然防止が企業にとってもコスト的に引き合うものであることを明らかにした「日本の公害経験」は、環境庁職員有志によるものでした。
続いて行われた公害健康被害補償予防協会による「日本の大気汚染経験」は、大気汚染防止技術の開発と公害防止投資の経過、それを可能にした条件、公害被害者の運動の意義などを検証しました。「日本の大気汚染経験」では、企業の技術者、地方自治体の担当者、公害患者の会の人など、立場を異にする人々が参加しました。
これらを踏まえて、水俣病の検証活動を、これまで裁判では原告と被告の立場で相対してきた研究者によって行えないかと考えたのです。
(2)水俣病の検証作業の一環
理由の第二は、政治解決が成立して後、国立水俣病総合研究センターや水俣市立水俣病資料館、患者団体等によって、水俣病の記録を残すために、水俣病患者の聞き取りや資料の収集・保存が活発に行われるようになってきました。また、水俣病患者や市民、市・県の職員が一緒になって、アジア各地に水俣病の経験を知らせる活動も毎年行われています。この中で、研究者だけが、自分たちのサークルで議論し、立場の異なる研究者と交流していません。
もちろん、研究者は人一倍自尊心が強い人々です。自らの研究成果に自信がなければ研究者にはなれないでしょう。そのような研究者が相手をやりこめるのではなく、立場の相違を尊重しながら対話をすることは難しいことです。その難しいことを実現し、新しい関係が構築できれば、水俣病の検証作業にプラスになると考えました。
三里塚やベトナム戦争でも、敵と味方に分かれて戦った人の間で対話の努力がなされました。水俣病研究でも可能性はあります。その可能性を追求する価値はあると考えました。
(3)現場で見聞きした研究者が生きているうちに検証を
理由の第三は、当事者や関係者が年をとってきていることです。
新潟の椿先生は既にお亡くなりになりました。誰もがいつまでも生きているわけではありません。残された時間は、そんなに多くはないのです。
水俣病の所管は環境庁では環境保健部です。役所の人事異動も間近でしたから、研究会発足後も事務的なケアーはするということで、人事異動直前に橋本道夫先生と相談し、研究者の方々に研究会への参加をお願いすることとしました。
3 研究報告書の意義
社会科学的研究会の成果は、十一回の研究会合を重ねた結果、平成一一年一二月四日にまとまりました。これは、中央法規出版から『水俣病の悲劇を繰り返さないために−水俣病の経験から学ぶもの−』として出版されています。
残念ながら、この報告書では昭和四三年の政府見解までしか取り上げていません。
しかし、この報告書を取りまとめるだけでも二年間かかりました。それ以後のことも検討するとすれば、いつ報告書がまとまるか分かりません。また、昭和四八年の補償協定以後の未認定患者問題は、本質的には、国の損害賠償責任論というより、水俣病の判断条件が中心になります。果たして対話がなりたつか、誰が座長を引き受けてくださるか、ということもあります。
このような限られた期間を対象にした報告書ですが、この報告書には、次のような意義があります。
(1)立場が異なる研究者の共同作業の作品
社会科学的研究会の報告書は、委員の発言を議事録にとどめ、それを文章にまとめていくという方法で作成されました。
報告書は、立場の違う複数の人間の共同作業の結果ですから、個人の著作と違って特定の研究者の持論が端的に表れていないという不満が残ることはあります。しかし、それぞれの研究者の見解は自らの著作で明確に表明されています。
この報告書の意義は、お互いに交わることなく議論をしていた者が、同じ席で議論し、会話が成り立ち、そして、ある程度の共通認識に至ることができるということです。この報告書は見解の違いを強調するのではなく、それぞれの主張に共感できる部分を見つけ、それを取りまとめることによって、相互理解が成り立ちうるということを示しました。大きな前進であると思います。
(2)水俣病の教訓作業の活発化
水俣病の社会科学的研究報告書は、見解を異にする研究者の対話の成果でした。これが、公定の教科書になるわけではありませんし、政府の見解になるわけでもありません。
これまで原告の立場に立ってこられた方々の批判が明らかにされていますが、「良くやった」という人が少ないのは、被告の立場に立ってこられた方々も同じです。
この報告書には、それぞれ親しいグループ内で検証作業を行うだけでなく、異なる立場の人々の批判にさらされながら、それを理性的に受けとめ、対話を活発にする端緒となる可能性があります。
(3)水俣病に関する証言を引き出す環境づくり
水俣病事件の関係者の中には、まだ語っていない人々が大勢います。
社会科学的研究会の審議にあたって、当時の通産省の担当者の話を聞きたいという発言がありました。当時の通産省の人たち、チッソの技術者や責任者、化学工業会の人々、話を聞きたい人はたくさんいます。しかし、話をするよう強要することはできません。
NHK番組の「その時日本は」では、当時の経済企画庁の汲田卓蔵(くみたたくぞう)氏が、経済企画庁や通産省の行動について証言しています。しかし、これは稀な例です。多くの人々は、まだ、話ができる状況ではないと考え、そして、そのまま時が過ぎ、亡くなられてしまうのです。誠に残念なことです。
現場の証言は、大きく言えば世界共通の財産です。これらの人々の貴重な証言が無くなってしまうことは、大きな損失だと思います。証言を後世に残していくには、裁判の証人調べのような裁きの場ではなく、自分から話すことができるような場作りが必要です。
この報告書の作成過程では実現できませんでしたが、このような共同作業の場が作られて行けば、これらの人々も話をしてみようという気になってくれる可能性が出てきます。
4 今後の水俣病検証作業への期待
水俣病は、複雑な展開をしてきました。昭和三〇年代に熊本で患者の検診に当った医師や、水俣病の原因がチッソの排水に含まれる有機水銀であることを突き止めた研究者など、水俣病に功績を残した方々が大勢いらっしゃいます。
しかし、水俣病の補償問題、第三水俣病問題、認定問題など、水俣病が複雑な経緯をたどる中で、これらの研究者は水俣病患者、特に未認定患者からの批判にさらされてきました。学問的な立場は立場として、相互に批判が行われることは当然のことですが、あまりにも深くなった溝を埋めることはできないでしょうか。
水俣病のそれぞれの段階で、熱心な研究が行われました。水俣病の発生報告から四〇年が過ぎ、政治解決が行われた今、それらの仕事を正当に評価すべき時がきています。今後とも多くの検証作業が行われるでしょうが、その際、そのような作業も行われることを期待したいと思います。
また、チッソは、水俣病一五年の経過を取りまとめたことがあります。チッソも水俣病発生、あるいは、補償協定交渉の当時の社員も会社を去り、社員も入れ替わっています。政治解決と新たなチッソ支援の枠組みができた今、チッソ自身も外部と交流しながら、積極的に水俣病の検証作業を行ってもいいのではないかと思います。
さらに、世界へ水俣病の経験の発信も、患者レベル、市民レベル、研究者レベル、さらに企業レベルなど、様々なレベルで、さらに積極的に行われて行くべきだと思います。
報告書の作成に参加して 富樫貞夫
一 社会科学的研究会の目的
昨年一二月、水俣病に関する社会科学的研究会の報告書(『水俣病の悲劇を繰り返さないためにー水俣病の経験から学ぶものー』)が発表された。その直後から、報告書はさまざまな反響をよび起こした。手厳しい批判を含めて、これほど大きな反響があるとは私自身は予想していなかった。
水俣病に関する社会科学的研究会は、国立水俣病総合研究センターの研究プロジェクトの一つとして一九九七年七月に発足した。研究会の名称はもちろん、橋本道夫座長を含む一〇人の委員は、あらかじめ主催者が選考したものだ。その顔ぶれをみると、これまで行政に対する距離やスタンスという点ではまさに対蹠的なグループが同席する構図になっていた。
研究会の発足に当たって、環境庁側は若干の条件ないし希望を提示した。まず第一に、四十数年にわたる水俣病事件史全体を対象にすると、とても一,二年では作業は終わらない。そこで、対象をさしあたり一九六八年九月の政府見解発表までに限定して事件の経過を検討してもらいたい。第二に、現在、深刻な公害・環境問題をかかえる主として途上国の人々ために、水俣病事件の苦い経験を検証し、教訓となる事項を抽出してもらいたい。第三に、一年を目途に検討を重ね、その結果を報告書にまとめてもらいたい。
主催者が出した条件は、これだけだ。
一部の人びとは、報告書の記述には通産省と熊本県に対する「遠慮」がみられ、その点で初めから予防線が張られていたのではないかと観測している。しかし、そのような事実はないし、こうした指摘は、報告書批判としては生産的ではないと思う。
ところで、研究会の顔ぶれをみたときに、はたしてコンセンサスが得られるのか、かなりの不安を感じたことは事実だ。しかし、実際に検討を始めてみると、当初の予想とはかなり違う展開になった。時間はかかったけれども、討議を重ねながら一歩一歩コンセンサスを形成し、報告書をまとめることができた。委員の中には、事件史の中で自分が直接関与した部分以外はほとんど関心がなく、発言もしないという人もいて、論点のすべてについて意見が対立するという事態にはならなかった。
しかし、各自がもつ事件史のイメージは、いつ、どのような局面で事件に関わったかによってじつにさまざまだ。自分の体験に根ざしたイメージは固定観念になりやすいから、それを相対化するのはなかなか難しいとも感じた。
二 これまでに出た主な批判
社会科学的研究会の報告書に対しては、これまでに種々の批判が出ているので、その要点を整理し、若干のコメントをしておきたい。
(一)検討対象の限定
検討の対象となる事件史を一九六八年九月までに限定したことについて多くの批判や疑問が寄せられている。これは、ある意味でもっともな批判だと思う。
このように限定したのでは、一九七〇年以降大きな問題になる未認定患者の認定問題や「第三水俣病」問題、六九年の第一次訴訟を皮切りにつぎつぎに提起された水俣病訴訟も検討の対象から外れてしまう。これでは水俣病事件の全体像がゆがめられ、誤解を招きかねないという批判だ。
問題は、だれが、どれだけの時間をかけて事件史全体の検証を行うのかということだ。
きちんと検証しようとすれば、五年や十年はかかるとみなければならないし、どういうメンバーで検討するのかも大きな問題だ。今回の研究会の顔ぶれでこのような作業ができるとは到底思えない。
水俣病事件は、一九五六年の発生確認から現在まですでに四十数年の歴史をもつ。長い事件史の中で、一九六八年九月の政府見解発表は最も大きな節目をなしており、その前後で事件史を大きく時期区分することができる。水俣病研究会編『水俣病事件資料集』(葦書房)も、同じ考え方に立つ(上巻「まえがき」参照)。このような事件史観に立てば、さしあたり一九六八年までを区切りとして検証作業を行うことは十分可能であり、そこから教訓を引き出すことも可能だと思う。
もうひとつ。一九七〇年以降の事件史については、基礎資料の収集・整理が遅れている。
しかも、「第三水俣病」問題一つとってみても、研究はほとんど進展していない。このように検証を行う条件がまだ整っていない状況で性急に作業を行えば、感情論のぶつけ合いに終わる可能性がきわめて大きい。
(二)行政の責任を曖昧化
報告書については、行政の無策を正当化し、国の責任を曖昧にしたという批判が出ている。これには、行政の法的責任を棚上げしたという批判も含まれている。
行政の法的責任とは、要するに国や熊本県の国家賠償責任の問題であり、水俣病第三次訴訟をはじめ各地の国賠訴訟で大きな争点になった問題だ。これについては、すでにいくつかの一審判決が出たが、裁判所の見解は分かれている。最近では、京都地裁や熊本地裁(三訴二陣)の判決のように国の国家賠償責任を肯定した判決も出ているが、作為義務違反を判断する時期にしても、その根拠法令にしても、きわめて限定的な判断で、事件史の観点からはそれほど評価できるものではない。このように、時間が経過するにつれて、問題がますます矮小化されてきたことは否めないであろう。
ところで、社会科学的研究会に行政の法的責任について判断する資格や能力はあるのだろうか。この顔ぶれをみれば明らかなように、そんな資格も能力もない。法的責任の問題は司法の判断に委ね、これに踏み込まないと決めた研究会の判断は当然で、妥当なものといえる。
研究会にとって、行政の問題とは、被害の拡大を食い止めるために、事件の節目節目で当時の担当者はもちろん、行政組織としてもどのような判断を下し、それにもとづいてどのような決断ないし対応をすべきであったを検証して、そこから教訓を引き出すことであった。われわれは時間の許す限り努力はしたつもりだが、不十分さは否めないであろう。
とくに、報告書では、具体的な主体の行為(判断を含む)と組織の判断形成との関係や行政内部のそれら一連の判断と具体的な事実経過との関係を踏み込んで解明できていない。社会科学者によるこの種の研究が不十分な現状では、やむを得ない面もあろう。しかし、研究会が最初から行政の無策を正当化し、国の責任を曖昧にする意図で検証作業を行ったのではないかという批判はまったく当たらない。
通産省の対応についての分析が不十分だという指摘はそのとおりだ。これには、分析に必要な資料が欠落しているという問題がからんでいる。
(三)行政の内部資料の発掘
検討に際して研究会(事務局を含む)が利用した主な資料は、水俣病研究会編『水俣病事件資料集』所収の資料といってよい。これ以外にも、水俣病研究会所蔵の資料、熊本医学会雑誌、当時の新聞記事なども利用した。これらの資料があったからこそ、一九六八年九月までの検証作業は可能になったといってよい。
報告書を作成するに当たって利用した資料や利用すべきであった資料についても、いくつかの批判が出ている。まず、利用した資料を注記し、その出典を示していないとの批判が出ている。おおむねその通りだ。ただ、報告書は学術論文とは性格が異なるので、このような記述方法も許されるのではないかと考えている。
もうひとつ、報告書を作成するに当たって、新たな資料、とくにまだ埋もれている可能性のある行政の内部資料を発掘していないという批判がある。環境庁を通じて通産省所蔵の資料を問い合わせたところ、当時の資料は現存しないという返事であった。また、通産省の元担当者らに対するインタビューも実現しないままに終わった。これまでの経験から、今後新たな資料が出てくる可能性はほとんどないと思われる。
そもそも研究会には資料調査のための予算はついていなかった。この研究会のために環境庁が用意した予算は、委員の旅費・日当などと会議室の借上げ料ぐらいのもので、予算上の制約から研究会の開催回数も抑えられていた。その意味では、社会科学的研究会はかなり安上がりな研究会であったと思う。
報告書の反響をみると、この研究会に対して一部に過剰な期待があるように思われる。しかし、この研究会のなし得ることは、すでに収集された資料に依拠し、これまでの研究成果をふまえて事件史を再検証することであり、それ以上のものではない。したがって、研究会が独自に資料その他の調査を行い、それらを一定の視角と方法にもとづいて分析し、水俣病事件史研究に新たな知見を加えるという作業は、本来、各研究者レベルで遂行すべきものであって、このような研究会の任務ではない。その意味では、「社会科学的」研究会という名称も誤解を招く一因になっているようだ。
(四)教訓が一般的で抽象的
報告書第五章は「考察と教訓」と題して、分量的には全体の約半分を占めている。この部分に関する批判の大半は、研究会が引き出した教訓があまりにも一般的、抽象的だというものだ。
報告書に列挙された教訓は、たしかに一般的、抽象的なものが多いが、いずれも水俣病事件の経験から抽出したものである。そのことを明確にするために、各項目ごとに事件の経緯を簡潔に要約し、それに考察を加えたうえで教訓を導くという書き方をした。
問題は、何のためにどのような教訓を抽出するかである。目的によって引き出すべき教訓も違ってくるからだ。報告書は、現在人類が直面する化学物質問題にも生かすために、水俣病事件の経験からできる限り普遍的な要素を取り出して教訓化しようと試みたものだ。およそ考え得る限りの教訓を抽出してみたが、これがどれだけ有効な教訓となりうるかは、まだ分からない。
三 報告書の今後を見守る
報告書については、今後も活発な論議を期待したい。そして、途上国の人々を含めて、この報告書が時間をかけてどのように受け止められていくかを見守りたいと思う。報告書についての評価はその後でも遅くはないと考えている。
これまでは企業と患者、行政と患者という対立構造の中で事件史をとらえる見方が支配的であった。こうした視点のもつ有効性はいぜんとして失われていないが、それだけでは不十分だ。今後は、もっと多様な視点から事件史を検証していく必要があると思う。
報告書事件の拡大を憂える 小島課長と富樫教授へ 宮澤信雄
一.報告書事件とはなにか
まず、政治決着の問題点を要約します。@四十年にわたる行政の無策を決断の遅れにすり替え、水俣病に対する行政の責任を曖昧にしたこと。A本来の被害者救済問題を認定制度をめぐる紛争問題にすり替え、その「解決」で水俣病問題は終わったとしたこと。それが「まやかし」だから、チッソ水俣病関西訴訟原告団は拒否し訴訟継続を選んだのです。
次に「報告書」の問題点は、「水俣病の経験に学ぶ」と言いながら、政治決着という第一の「まやかし」を追認・正当化していることです。つまり、二重のまやかしが行われたことになります。「水俣病に関する社会科学的研究会」(以下、研究会とする)という名称それ自体が偽りです。
今年一月九日私は、報告書について、右にのべた主旨の批判的検討を公開の場で行いました。同席した仲間の委員から反論はなく、そのような報告書ができた事情説明がなされたに過ぎなかった(「第五回水俣病事件研究会(大阪)の記録」以下、「記録」という)。次に私は、雑誌『世界』七月号に「責任を消し去った水俣病報告書」を書きましたが、それは、国立水俣病総合研究センター(以下、国水研という)が、問題点の指摘にまともに答えないまま、報告書英訳の作業を進めていると聞いたからです。さらにいま国水研は、報告書を国内向けの市販本にする計画を進めています。
そのような「報告書」が、長年ともに水俣病にかかわり続けた四人の仲間たちを取り込んだ形で作られ公表されたこと、英訳されて世界に、市販本として国内に、広く流布されようとしていること、それらをすべてひっくるめて、私は「報告書事件」と呼ぶのです。
報告書の凍結・再検討が望むべくもないなら是非もない。研究会の事実上の主宰者・小島敏郎課長とその協力者・富樫貞夫教授の原稿が併載されるこの機会に、「報告書事件」の本質について言うべきことを、お二人への書簡の形で述べたいと思います。
二.最初からまともな研究会ではなかった
富樫さんが研究会に加わったのは、小島さんが「政治決着で満足していない、これで水俣病事件は終わりということでは困る。水俣病の苦い経験を検証して、これを教訓として残していくべきではないか」という「真摯な態度で研究会をする」様子だったからだそうです(記録)。しかし、委嘱された委員一〇人の顔ぶれを見ると、「水俣病に関する社会科学的研究」ができないことは、あまりにも明らかでした。私には、長年水俣病事件にかかわり、政治決着はもちろん行政の対応を厳しく批判してきた四人(以下、批判側委員と呼ぶ)を取り込むことがねらいだとしか思えなかったのです。
話は飛んで報告書公表のおよそ二〇日後、去年の一二月二五日「カリガリ」で、私たちの水俣病研究会の忘年会開始を待ちながら、私は富樫さんに言いました。
「こんな報告書が出る前に『水俣病事件四十年』を書いておいてつくづくよかったと思う。報告書が、行政の法的責任を確定するものではないとして、事件史の事実をゆがめたり消したりしているのは問題だ。こちら側の四人が加わってこれが作られ公表された責任は重い。あれが本になって市販されることになったらさらに責任が問われるはずだ」
富樫さんは「ああいうメンバーでまともなものが出来るはずがないでしょう。でも研究会は学問的研究ではなくて教訓を得ることが主なねらいだったから」と答えました。
三.抽出したのは水俣病の「教訓」ではなかった
じっさい、研究会がしたことは社会科学でも研究でもありませんでした(そのことについては「記録」や『世界』を参照してください)。研究会ではのっけから、水俣病から教訓が引き出せそうな「論点」を委員が出し合い、それを絞り込むための議論、ついで教訓を引き出すための議論(考察)をしたそうです。水俣病ときけば、誰もが解ったつもりで何かが言えると思うものです。しかし、いくら熱くなって議論しても、事件についての視点・検証のための方法論がなければ、失礼ながら、ただのおしゃべりにすぎません。
「水俣病の経験から学ぶ」なら、事件の事実経過を丹念に記述し検証することが絶対前提条件です。報告書の場合、肝心の事実経過はまったく別のところで国水研事務局(社会科学室)が書いたそうで(記録)、行政の責任が問われそうな事実が、念入りに消されたりゆがめられたりしています。
「教訓」が、水俣病事件から引き出したものとは思えない、あるいは水俣病事件からでなくても引き出せる、抽象論になったのは必然です。
富樫さんによれば、最初教訓部分を報告書巻末の数ページにまとめてみたが、とても読めたものではなかった。「具体的な事件史から離れた抽象的な教訓ではだめだということ」で、それぞれの「考察テーマ」の場所に戻し、簡潔に事実を確認する意味で「経緯」を添えたということです(記録)。教訓が抽象的なのは、それが置かれた場所によるのではなく方法のせいであることを、例を挙げて説明しましょう。
報告書は「原因不明の疾病が発生した場合の初期対応」に関して「人命に関わる緊急事態には原因確定を待ってはいられない。云々」という「教訓」を得たとしています。この教訓は研究会の検討をまつまでもない常識です。現に、事件当時、水俣漁民は被害者としての実感と常識に立って、工場排水停止を要求しました。その常識に属するあたりまえのことが「なぜ、いかにして行われなかったか」を検証・解明することが、水俣病の経験から学ぶことではありませんか。
ところが、行政の責任を問うことになる検証はしない研究会は(報告書の事実経過から「漁民の排水停止要求」という重要な事実が消されたのは、たぶんそのためだと私は考えています)、けっきょく出発点である常識的抽象論を一歩も出られず、それをそのまま「教訓」とするしかなかったのです。これを私は、同語反復的教訓と呼びたい。何も言ったことにならない、今後の施策にはもちろん、発展途上の国々にも役立たないことは言うまでもありません。その他の「教訓」も似たり寄ったりです。
報告書が「まやかし」であることは(いずれ歴史が明らかにするでしょうが)以上で証明終わりということにして、なぜそんな「まやかし」が行われたのかに移ります。
四.「個人的思い入れ」による私的プロジェクト
私の日記によると、社会科学的研究会が発足した一九九七年七月五日には、たまたま私たちの水俣病研究会も熊大丸山教室で開かれていました。『年報・水俣病研究』の話し合いのあと、第一回社会科学的研究会について聞くと、富樫さんは「呉越同舟みたいな集りだった、小島さんの水俣病への個人的な思い入れがあってのものだと」強調しました。
このあとも折々言われた「小島さんの個人的な思い入れ」という言葉から、富樫さん自身が「小島さんへの思い入れ」を強くしていることを感じました。組織や歴史が動く際「個人的な思い入れ」が大きく関与するという考えは、私のものでもあります。しかし、その思い入れが本当の意味で公につながるものか、それとも私的利害によるものかを見極めねばなりません。同じキリストを宣べ伝えても、愛による場合と誠意なき徒党による場合とがあることを、クリスチャンと聞く富樫さんはご存じでしょう(新約聖書、ピリピ書第一章)。さて、九七年七月五日の話に戻りましょう。
十時過ぎ例のように皆で「カリガリ」に移って話していると、小島さんが現れ、富樫さんの紹介で話を交わしました。覚えておいででしょう。私の日記にこうあります。
「関西訴訟について、彼は、原告被害者の医療費が最高裁に行くまでに莫大な額になることを考えれば、弁護士が負担すべきだ、患者のためを思うなら。実利から言えば、解決策に乗るべきだった……というのだ。」
小島さんはあの時、チッソ水俣病関西訴訟原告団が訴訟を続けているのは、一審で得た賠償金を返したくない弁護士たちのせいだと、おとしめて言い、二審の判決内容がどうであれ最高裁に上告する意向を示しました。その口調は苦々しげ、あるいは悔しげで、まつろわぬ者にはあくまでも冷酷に臨む権力者を思わせました。
今改めてこのくだりを読み返し、あの時の様子を思い浮かべると、小島さんの「思い入れ」が何だったか見てとれます──キャリア官僚・小島課長にとって、水俣病の政治決着は一世一代の大仕事だった。「全患者団体の解決策受諾」が、たった一握りの関西訴訟原告団によって成らなかった。その大きな蹉跌から立ち直るためのプロジェクトが、批判側委員四人を取り込んだ研究会で、関西訴訟係属中に、政治決着を正当化させることだった──どんなに公正を装っても、よこしまな企ては「まやかし」しか生み出さない、それが「報告書事件」の本質だと言ってよいでしょう。
五.スキャンダラスなページが開かれる
ところで、おかしな研究会・報告書になりそうだったら途中で辞めると言っていた人たちが、最後までとどまり続けたのはなぜか。それぞれのいきさつや胸の内はいずれすべて語られるものと信じ、すでに明かされたこともここでは述べません。さしあたり言えるのは、座長をつとめた元環境庁大気保全局長・橋本道夫氏にしても、小島さんにしても、キャリア官僚は、委員たちを思いどおりに動かすプロだということです。けっきょく、批判側委員の二、三の発言が報告書のプラス評価に利用され、異なる立場の委員の合意で作られた報告書という見せかけが成立したのです。
小島さんが報告書の冒頭に、政治決着正当化の象徴にほかならない「水俣病問題の解決に当たっての内閣総理大臣談話」を掲げたいと言い出したのは、最後の最後だったと聞いています。報告書に対する政府部内の反発を、首相談話を掲げることでかわしたい、というのが理由だそうですが、実は「政府部内の反発」を口実に、政治決着正当化に対する「批判側委員の反発」を封じこめたのではありませんか。
こうして小島さんの私的プロジェクトは百パーセント目的を達し、報告書公表と同時に研究会は解散しました。小島さんは有力な事務次官候補だと富樫さんから聞きましたが、その凄腕は政治家にこそ向いているのではありませんか。
さて、最初に触れた報告書市販の話です。国水研には水銀分析以外に研究実績が何もなく、全国の国立研究機関の中では最低ランクの評価なので、滝沢行雄所長としては、中身はどうであれ報告書を世に出して「実績」としたいのだ、と聞いています。小島さんの私的プロジェクトのまやかしの成果を、滝沢所長が私的利害のために流布させる──水俣病事件史にこの上ないスキャンダラスな頁が開かれようとしているのです。
時とともに水俣病事件も様相を変え、かかわる者たちも歳を重ね立場を変えていきます。私もいずれ力尽き黙すときがくるでしょうが、よこしまな権力や水俣病事件に向き合う姿勢だけは、そう簡単に変えるつもりはありません。「老兵は死なず、消えてゆくのみ」とはそういう意味に違いないとこの頃思います。それでは、ごきげんよう、さようなら。
(水俣病を告発する会)