水俣病センター相思社 機関誌 ごんずいごんずい 61号 61号

目次

特集1:今水俣病をどう捉えるか PartU
     公害の歴史から教訓をくみ取る作業はどうあるべきか/舩橋晴俊・・ 2
     国水研報告をどう読むか/杉本裕明………… 5
特集2:御所浦の暮らし… 8
     浜本キヌ子さん聞き取り/川部岬………10
     松村守芳さん聞き取り…………13
−−−
     インタビュー 浮嶌清己/小里アリサ…………20
     書評 「風と土の地元学」……………22
         「水俣病研究2」…………23

特集1 今水俣病をどのように捉えるか PART 2

 現状報告からすれば、六〇号に関するご意見・ご批判はお二人からいただいたばかりである。残念ながら白熱した議論とは言い難い状態である。何故そうなのかはよくは分からないが、論争点が明瞭でない、水俣病事件にはすでに多くの論客がいるので新参は参加しがたい(ちなみに編集者の知人からの意見)、そういった議論を行うのに「ごんずい」では重みがない、国水研報告が論争になるほどの重要性があると思えない、等々あるだろう。
 投稿をいただいたお二人は、大阪での事件研究会に参加されている。そこでの議論を受けてごんずいの読者に分かりやすく分析していただいた舩橋さん。また大阪での事件研究会での議論の進め方には疑問があり、意見の違う人たちの相互討論の場をつぶしてしまったと展開された杉本さん。ありがとうございました


公害の歴史から教訓をくみ取る作業はどうあるべきか

舩橋晴俊(法政大学社会学部)

 公害の歴史から教訓をくみ取るための作業はどのようにあるべきかという視点から、「水俣病に関する社会科学的研究会」の報告書と、その発表以後の一連の論争について、若干の考察を提示したい。考えたいテーマは、この「報告書」で、本当に、水俣病問題の教訓の明確化やそれを今後に生かすということが、社会にとって、また、その責任を問われている行政や企業にとって、可能となるのかということである。
 国水研の研究プロジェクトとして水俣病事件の歴史的経過から教訓をくみ取ろうとする企画自体は、たいへん意義深い。だがそれが、十分に遂行されたのかどうかについては、
@報告書の課題設定のあり方
A報告書の内容そのもの
B報告書作成の取り組み態勢
C報告書の社会的・政治的機能
といった諸視点から検討されなければならない。
 @この報告書の課題設定は、企画のイニシアチブをとった小島氏や座長を担当した橋本氏にとっては、さまざまな立場で水俣病事件にかかわった人々の間でも共有されうる水俣病の教訓を整理することであったように見える。このような課題設定からすると、歴史的事実を精確・詳細に解明しようとすることは、主要な課題にならず、事実については概略的なレベルの認識でよいという一種の「軽く見ている」姿勢が基調となっている。これに対して、本報告書に対する批判者の側からみれば、水俣病事件の教訓をくみ取るためには、厳密・詳細な事実の解明という課題設定があるべきであり、そのような問題意識からすれば、本報告書ははなはだ不十分であるばかりでなく、「まやかし」ということになる。宮澤氏の批評(本誌前号所収)は、そのような批判を代表している。現在の論争の根底にあるのは、水俣病の教訓をくみ取る場合の具体的な課題設定のあり方、研究にあたって採用されるべき方法・手続きの相違である。
 A報告書の内容そのものについては、個々の歴史的事実の明確化という点で、多くの不十分さがあること、また、教訓のくみ取り方についても抽象的一般論に流れ、水俣病事件に即した掘り下げた反省になっていないのではないかということが、多くの人から指摘されている(第五回水俣病事件研究会事務局 二〇〇〇「第五回水俣病事件研究会-大阪-の記録」)。私見では、報告書の内容には、個々には適切な指摘もある。例えば「現地の行政担当者のみならず国の担当者は、現地を歩いて見ることが大切である」(一一四頁)という指摘などは、教訓として内面化されれば、現在の公害問題にも有効なものである。しかし、社会科学的研究に対する評価基準を前提とすれば、報告書は内容的に掘り下げ不足と言わざるを得ない。言い換えれば、この研究は、「社会過程についての研究(会)」あるいは「社会的側面についての研究(会)」ではあるが、「社会科学的研究」になっているとは言えない。「社会科学」という言葉を余りにも安易に使用している点が残念である。
 換言すれば、個々のメンバーのこれまでの研究実績と、報告書との間には落差がある。そのような内容の不十分さは、B報告書作成の取り組み態勢の不適切さに由来しているように思われる。取り組み態勢の不適切さとは、各人の責任を明示した分担執筆を採用せず、誰が、どの部分を、どのような根拠・資料に基づいて執筆したのかが不明なことである。このことは、C報告書の社会的・政治的機能との関連でも重要である。
 本報告書の「不十分さ」が「まやかし」になってしまうかどうかは、永続的な相互批判の中で真実に漸進的に接近していく一ステップになるのか、それとも「完結した結論」として固定化されたまま宣伝に使われてしまうのか、ということにかかっている。ところが、個人責任が明らかでない執筆方式においては、研究会が恒常的に存在するのであればともかく解散してしまうのであるから、批判の受け手、反論の担い手、そして修正の担い手がいなくなる。この研究会の取り組み態勢は、個人の責任があいまいなまま「匿名の機構」が一人歩きしてしまうというメカニズム(それは水俣病の歴史に再三見られたものである)を露呈していないだろうか。また、事実についての典拠を示さないのは、「社会科学」を名乗るのであれば、看過できない欠陥である。それでは生産的な論議の積み上げは不可能である。
まとめて言えば、水俣病の教訓を明らかにするという企図は貴重であるけれども、それを具体的に実現するためには、取り組み態勢の修正、報告書の構成の変更(例えば、証言篇と分析篇とを分ける)、典拠の明示、継続的な論議の場の確保、といったことが必要であるし、国水研のプロジェクトとしては、国水研でこそ可能となるような資料の発掘・整理や証言の収集を、まずなすべきであろう。


国水研報告をどう読むか

杉本裕明(朝日新聞記者) 

 一月、大阪で開かれた水俣病事件研究会で、この報告書が俎上にのぼった。しかし、否定的な見方と意見の羅列で議論は深まらず、後味の悪い思いが残った。
 環境庁の研究会に参加した「こちら側」の人たちは、被告席に座らされた。「被告」の反応も、富樫氏が事実経過をたんたんと話し、冷静に分析されていたのに対し、原田氏、 宇井氏はほぼ全面的に宮澤氏の意見を受けいれ、「白旗」を掲げたように見えた。「用語が間違っている」と重箱の隅をつついてばかりいる哲学専門の研究者がいたり、議論は生産的ではなかった。集会は、司会の舩橋氏が「この報告書は、社会科学的研究会の名に値しない」という趣旨の発言を行い、終わった。
 だが、違和感を感じたのは私一人ではなかった。会場を出てから、参加した数人が私に言った。「『ちょっと違うのでないか』と言えるような雰囲気ではなかった」「何か違うことを言えば集中砲火を浴びそうな気がして言えなかった」……。
 長年水俣病問題にかかわり、活動した人々が批判し、批判を浴びているのが国の報告書であれば、それに異を唱えることは難しいというわけか。会場から批判を受けた環境庁の研究会のメンバーたちは、富樫氏を除けば、批判を受ける立場になるとあっけなく非を認めていることにも驚いた。
 実は、朝日新聞の解説面で、「報告書の教訓をどう生かすか」として記事を書いた時にも、同じような気分になった。地元で働く同僚記者と二人で、報告書をもとに橋本道夫氏に取材した。
 同僚は、最初から報告書の問題点を批判し、何とか橋本さんにそれを認めさせることを目的としていたようだ。私の方は、「水俣病に対して相反する立場の人が集まってつくったのだから、欠点や限界があるのは当たり前。だが、報告書にはよい点やもっともな指摘もあるはず。それを今後の環境行政に生かすにはどうしたらいいか」という意識で聞いていた。途中でいたたまれなくなり、私一人、謝辞を述べて退席した。
 同じ朝日新聞の中でも、全国版の解説面が報告書に対する批判はあまりせず、報告書が指摘したような行政の体質がいまもあり、今後の課題であることに焦点をあてたのに対し、現地の西部本社でつくった連載記事(九州地方のみ)は、報告書自体への批判に軸が置かれ、随分開きがあった。受け取り方や考え方で、紙面づくりも変わるのである。
 この報告書には、私自身もいろいろ不満がある。国の行政責任のところなどは、まわりくどい、あいまいな表現ではなく、もっときちんと追及できなかったのかなど、思いめぐらす部分は多い。
 しかし、大学の研究者が自分の判断と責任で書いた論文ではない。明確には知らないが、環境庁の小島敏郎氏が研究会を立ち上げた理由は、水俣病が政治決着され、風化する一方で、「行政」側として何らかの総括をするとともに、相反する両者の溝をできる限り埋めたいと考えたのではないか。
 水俣市では「もやい直し」の名で、市と支援グループの一部が一緒に行事をするなどの新たな動きが始まっていた。一方、研究の世界では、対立構造はそのままで、行政も「一件落着」とされてしまっている。報告書をつくる背景にはこうした事情があったので、宮澤氏が類推する「(こちら側)の四人を取り込むことがねらい」ではないと思う。もしそうなら、反対側の四人も同様に「取り込まれた」ことになるではないか。
 社会科学的研究会の名前を名乗って、報告書をまとめるに当たり、通産省から担当者に相当の圧力がかかったこともあったという。「事前に文章を見せろ」という申し入れがあったが、担当者はそれを拒んだ。同庁の中にも、「国の非を認めるような報告書をなぜ、出す必要があるのか」という意見もあった。冒頭に村山談話をもってきたのはこうした圧力を防ぐためだと思う。
 報告書の作成は、環境庁の小島氏一人の判断でできるものではなく、事務次官も了承してのことである。同じ国民の安全と健康をあずかる厚生省で同じことが起きたら、提案段階で幹部に潰され、それで終わりだ。報告書の存在は、自己肯定だけでなく物事をまともに考えようとする気風が、曲がりなりにも環境庁に残っていることを示している。
 ただ、報告書は委員らの妥協の産物なので、ここに書かれた内容や判断が必ずしも正しいとは限らない。「こちら側」から見れば、国の責任はもっと厳しく追及されなければならないし、「あちら側」からは、「なぜ、こんなに妥協しなければいけないのか」となるだろう。
 残念なのは、せっかく考えを異にする人たちが合意点を探ったり、相違点を確認したりする貴重な場であったのに、これで一九六八年以降を検討する機会を自らつぶしてしまったことだ。
 最初から限界をもった報告書ではあるが、中央官庁が自分たちの責任を認めた以上、この報告書を今後の環境行政にどう生かすかという面での生産的な議論も必要ではなかったかと思う。


特集2 御所浦島の暮らし

 何か厳かな名前とは裏腹に、天草は生産力が低く貧しい土地と言われ続けてきた。「ワシ共が小さか頃は、イモを三つか五つ位、風呂敷の中に包んで、大根を長ながら一本入れて、それが学校での昼食でした。そるけン、天草はですね。『珍米食わん、珍米食わん、常々カライモ、イワシの菜(シャー)』ち、言う言葉があります。それが天草の実体で、御所浦辺りが、天草で一番貧乏です」(『近代民衆の記録 7漁民』森丑雄さん明治四〇年生まれ)。
 この森さんの語りは事実であろうが、背景に漁労文化に優越する農耕文化といった社会的な枠組みがあることを、同書を編集した岡本達明氏は述べている。「近代日本を支配したのは、寸土に依り寸土の中をどこまでも深めていく、閉ざされた農民の思想であり感覚だった。その寸土を海の上から他者としてみる、開かれた漁民の思想や感覚を抑圧し切り捨てた世界が、島国日本の此岸だったのである。この此岸を近代の問題と思ってはならない。それはまさしく現代の問題でもある」。
 岡本氏は続けて「水俣病は、他律の構造−資本および権力による患者の圧制と、自律の構造−民衆による患者の圧制との二重構造を持っている」と読み解いている。自律の構造とは民衆の生活文化のゆえんであり、それゆえ患者たちが口にする「チッソや国の憎さは理屈では分かるバッテン、実感がなかな。それよか村んモンのほうが憎かなあ」。話を御所浦に戻そう。
 御所浦は漁業の島である。他所と比較すると貧乏だったかもしれないけれど、昭和三〇年代までの日本はどこを切っても貧乏と無縁な場所はなかったと思う。しかし都市生活と比べたとき、白黒テレビに映し出されるアメリカのホームドラマを見たとき、人は自分が貧乏だったと気づいたのではないだろうか? 聞き取りをしていつも思うことは、経験した事実は変わらないが、その時代の社会的な意識から経験を再構成することはあるのではないだろうか。だから森さんの言葉の中から、何を読み解くかが問われると思う。
 今回語っていただいた浜本キヌ子さん・松村守芳さんの語りから、どんな御所浦を読み取っていただけるだろうか。


浜本キヌ子さん聞き取り浜本キヌ子さん

聞き取り:川部岬

 キヌ子さん曰く「私は馬鹿やけん、水俣病の検診のとき、『魚は嫌いやから食べません』と言うたんです。それで、手帳をもらうのが遅うなったんです」。御所浦で魚を食べるとはどの程度食べることを言うのだろうか?

 小雨煙る本郷港に着くと、松村さんが傘を差して待って居られた。今日は聞き取りに行きますけんとお願いしていたのだが、どこに連れて行かれるのだろうか。車で一分も走らないうちに、松村さんは道行くおじさんに声をかける。「母ちゃんはおるや」確認がとれると、車一台がやっと通れるような道を登って、お家へ直行する。スタスタとお家の中へ入っていく松村さん。「おはようございます」おそるおそるお邪魔すると、女性と松村さんが押し問答している。驚きと困惑の表情で落ち着かない浜本キヌ子さんに頼み込んで、お話ししていただいた。
 浜本キヌ子さんは御所浦本郷古屋敷の網元に生まれ育った。夫の熊吉さん二人とも認定患者だった。キヌ子さん曰く「私は馬鹿やけん、水俣病の検診のとき、『魚は嫌いやから食べません』と言うたんです。それで、手帳(認定されることをさす)策をもらうのが遅うなったんです」、もちろん「食べない」は比較であって、たくさん食べる人に比べると少ないということ。浜本さんはあまり水俣病のことは話してくださらなかった。こちらの食い下がり方かもしれないが。最初にお話ししていただこうと説得した際、「水俣病のことか」と浮かない表情であった。「水俣病のことでなくて、昔のことを何でも良いから聞かせてください」ということで話してくださった。


---------------------

 家の子供はなあ、倉岳に行ったら、船で通うとですよ。でも、熊本とか水俣とか行ったら寮でしょう。家ん子達はもう寮がのさらんでな、下宿やったもんな。二人とも。息子は水俣工業高校に行って、娘は熊本にやったです。二人とも下宿。大変やったです。病院は嵐口にある診療所に行くとですよ。あとは、ほら、ちょっと、本渡とか水俣とかあっちのほうにいくでしょう。ほんで、ちょっとしたときには、地元になかったら不便です。
 仕事は漁師です。もう、三〇年はなります。うちゃ、もともと、本家は網元でイリコ捕りの仕事ばしよった。あの水俣病の騒動でほんと、漁がなくなってしもうて。ここの部落は多かったですよ。イリコ捕りの船が。だけど、もう、長くやっとりません。魚が全然とれんでな。ほで、水俣の前まで行ったりするでしょう、昭和二十三年くらいから猫が涎出してもう、クルクルクルクルしよった。で、海の魚がプカプカ浮いとったもんな。死んでな。そん頃はひどかったで。
 今はほら、しろ網ばようみんなしよらすでしょうが、チリメン捕りば。しろ網と巾着て言うて、カギ網ていうてね、それと切り替えて、苦労したで。もう、ほんと最近も捕れんで、とれん上に安くて。ほんとに、とれんですよ。
 今、家はなあタイ網ちて、めあい(網目)の大きいのでしかせん。タイ網とかエビ網とか、いろいろありますもん。めあいの大きなタイ網、カシ網ち言うとは、ほとんど一年中。だからもう、区域外のところに行ったら、すぐ捕まる。厳しかですよ。めあいもみんな、前よりも大きくなさんば、ほら、できんごとなってしまう。
 昔はなあ、獅子島の辺りとか阿久根のほうとか、いろいろなところから雇うてな。月のうち一週間だけ月夜て言うて、休みがあって。二十三人か四人くらい網子がおりよったな。もう、賑やかどころじゃなか。私、子どもおんぶしてね、もう、朝昼晩ご飯炊かなならんだったですよ。すごいです。一升枡ってあるでしょう。朝昼晩炊きよったですよ。ご飯の他に網目の修理とか。お茶もせんばんでしょう。洗濯機もなかったし、そこの「ながれ川」、そこに洗いに行きよった。おむつを洗う暇がなくてな、考えられんですよ、今は。
 御所浦のお祭りはな、氏神さんのお祭りが一回。えびす祭りとか何とかほら、細かいのはいくつかあるけど。えびす祭りは漁師部落でやる。日はおんなしとは決まっとらん。昔はな、おんなしやった。旧(暦)でしたり新でしたりしよらすとでなかですか。あの、旧でしたらそれこそ、十二月の暮れになるもんな。一月以上違うけん。だけん、ほとんど、新でせらると。昔は網元が網子を呼んでいっぱいごちそうしてな。
 魚でも、不知火海の魚がおいしい。イリコは大きさによって、チリメンとかコバとかてやっぱし名前が変わってくる。詳しいことは知らんけど。今はチリメン取りやからな。しろ網ばっかしやからな。春と秋と年二回出よらす。朝、四時半くらいからかな。十一か十二部落のあるけん。イリコを取るところも多いはず。昔は良かったもんな。終戦当時はな。もう、ようけとれたらね、あの、旗を立ててくる。大漁旗ば。今日はとれたばいなーて、すぐわかる。もう、嵐口は片手巾着って網の大きな船でね、牛深あっちの方にね。今は静かな海です。なんせ水俣病からこがんな、だんだん悪なってきたもんな。
 歳取ってから漁師は大変。大きな石があったり、瀬があるでしょ、引っかけてねぇ、ケガせんかったらよかけど、ケガしてからがねえ。漁師もほら、いろいろですけん。カシ網ていうともあれば、ゴチ網もあるし、ゴチ網でもいろいろほら、魚、網によって違うけんな。瀬、潟を引く網もあるし。ほんな、六十にもなったらえらい楽になるどと思うて、思うとったら、とんでもないですよ。七十まで気張らんば。
 やっぱしほら、耐えていくけんな。私ら歳やからちょっと時化たら出ていかないけどね、若っか時なんか出ていきよった。もう船を作ってから二十年にもなるけど、そん頃でな、大きな船やったけど、今はもうだんだんエンジンから船から大きなのばみんな作ってな、うちらのはほんと、ちっちゃいもん、今は。ちっちゃいし、古いしね。古いけんもう、何年しか仕事しきらんと思う。借金してしたでもう、どうにもならん。払いきらん。
 イワシばっかり。アジなんかがほら、嵐口の巾着(網漁)、それではたまにある。(漁獲は以前に比べ)全然少なかですもん。こんな鯛の子でも入らんもね。大変ですよ、本当に生活が。で、ほらロープとか網とか資材はね、どんどん上がっていくでしょう。魚はとれん、とれても安かでしょう。漁師はほんとダメなあ。
 最近は養殖も台風とか赤潮とか、去年の台風ですっごくやられた。もう、今までで初めてて言いよらいた、八十、九十にならす人が。今年は赤潮が発生した。もう、ブリなんかバッサリ。毎日餌やらなんけん、餌代だけでも大分じゃろうけんな。私らもう分からんけど。養殖でもほら、ブリだのタイだのフグだのいろいろあるやろうけんな。
 野菜作ったってイノシシが食うてしまう。はあー。守さんに聞いてみろな。あの人捕らすとやっで。イノシシは水俣から渡ってきたってですタイ。泳いで。これが最近増えてなあ、年に何回か産むとでしょう。昔は山の木も大きゅうなったら切り出したりして山が綺麗にしてあったけど、今は大きくなるばっかりで、薪とか炭とかに切らんでしょ。ここのカラス峠の下あたりは杉ですよ。
 ここは雨が降ってもあんまり崩れないです。昔は畑で食うもんば作りよったけど、今は買うてばっかし。一日も金の出ていかんときはなかですよ。わたしゃねえ、何せ、イノシシから盗 られてねえ、里芋とジャガイモとかすぐ食べてしまう。だけん、ここ何年か作らんやったけど、大根とか白菜とかホウレン草とか作っとります。自分で作るとおいしいし、すぐに取りにいけるし。新しいの食べるから。私らの年代は、そんなんして大きくなってきてるから、やっぱし、人がしたら、じっとしとれんな。したくてしたくて。沖に行かないときはそれするのが、楽しみ。


ご意見・ご感想・ご質問・お問い合わせ

前のページへ戻る