機関誌 ごんずい 62

ごんずい 62号 目次

特集1:水俣のあるもの探し……・ 2
     知らなかった茂道/小里アリサ………… 4
     久木野川源流部大川を歩く/川部岬…………・ 7
     茂道のあるもの探しから/大和紀恵子、三村堅一、冨吉正一郎…・10
     豊島の地元学/遠藤邦夫……………14
特集2:今水俣病をどう捉えるか PART3
     「国水研報告をどう読むか」をどう読むか/宮澤信雄………18
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     ごんずいインタビュー第10回/米盛盛蔵・タマエ………・20

特集1 水俣のあるもの探し

地元学ってなに

 地元学を一言でいうならば、「人のつぶやきにある背景や自然に耳を傾け、『なぜだろう』と問いを発しながら、自分で見て歩き、自分の住んでいる地元を深く掘り下げ、自分の言葉で語って地域を自覚し、ものづくり、地域づくり、生活づくりに役立てていく」(『風と土の地元学』)ことである。地元学は地域を自覚する回路を探る手法であり、あるもの探しは価値を見出そうとしてないものねだりをするのではなく、あるものをあるがままに見つめていく。
 実際にどうするかはやってみなければよく分からないだろうけれど、今回行った「茂道のあるもの探し」では、地元の杉本さんを案内人として、相思社や市役所の職員などが調査員となって、「これは何ですか?」「どうしてここにあるんですか?」「昔はどうなっていましたか?」などと尋ねて、見たものを写真に撮り、聞いたことをメモしながら歩いた。驚いたことや気付いたことがたくさんあった、「田んぼがあった」「少し掘れば水が湧いてくる」「川には名前がない、だけど海岸には細かく名前が付けられている」「海の中に真水が湧いている」「昔は大きな茂道松があった」「マツタケがとれた」「エビスさんがあった」「停車場道」「裏の畑でなんでも作っていた」などなど。茂道はよく人を案内して行くので何でも知っているような気になっていたが、実はうわべだけで茂道の人の暮らし方については、ほとんど何も知らなかった自分に気が付いた。
 調査が終わってから、みんなで「驚いたこと」「気が付いたこと」をポストイットに記入して、同じようなテーマで分類した。そこから絵地図づくりのテーマを、「茂道 水のゆくえ」「杉本さんと歩いた・聞いた茂道の道」「田んぼ」「茂道の秋を食べる」「茂道の植物・森」「茂道の水を訪ねて」「海に生きる」「杉本さんの畑」と決め、二時間くらいで完成させた。ほとんど高校の文化祭のノリだったけれど、文章ではなく写真や絵で表現することはそれだけで感動的だった。できたものがその人の茂道である。
 最後にみんなの前で自分が作った絵地図の発表会をおこなった。どんな点に注目して作ったのか、何に驚いたのか、調べてみてもっと調べたいと気が付いたことなどを話す。みんなで調べたことの成果を共有化しながら、地域の課題を考えていくきっかけとする。
 もう一つの作業は地域情報カードの作成がある。前回の久木野地区のあるもの探しでは、情報カードを一〇〇枚くらい作成した。こうして水俣の地域を調べて情報カードを作成していけば、将来は何千何万枚のカードがデータベース化され、水俣百科事典として役立つことだろう。


知らなかった茂道

小里アリサ

 地元の人と一緒に歩いて話を聞いて写真を撮って、その地域にあるものをカードにしていく「あるもの探し」を茂道で行った。茂道のことはちょっとは知ってるつもりだった。茂道のみかん山や海には何度も行っているし、人を案内して回っているわけだし。しかし、私がこれまで知っていたのはほんの表面だけ。知らないことだらけなんだということが、十二月のある一日、杉本雄さんと歩いて回ったことで思い知らされた。これだから、地元の人と歩く「あるもの探し」はやめられない。
 といっても、「あるもの探し」は、よそ者がある地域のいろいろなことに詳しくなって喜ぶためにやるのではない。地元の人が、外の人の目も借りながら、地元の再発見・再評価をし、外からの変化を受けとめながら、地域独自の生活文化を創り続けていくための基礎調査なのだ。相思社としては、地域の情報をきちんと記録し、地元の人と共有しながらその地域でどんなことができるのか、そこはどんなところなのかを考え、水俣病や環境学習で訪れる人の受け入れを行っていこうとしている。今回は「あるもの探し」をした上で、様々な切り口で茂道の絵地図を作ろうという試みだ。

茂道の道
 今回は三グループに分かれ、漁師の杉本雄さん、栄子さんご夫婦と長男の肇さんに案内人となっていただいた。私は雄さんのグループ。わからないこと、不思議に思ったこと、おもしろそうなことをどんどん雄さんに聞いていく。時にはこちらが全然気がつかないことを教えてもらったり、逆に地元の人が当たり前と思っていることが、すごくビックリすることだったりするのだ。
 港のそばの家の石垣、いつも目にしているなんていうことのないものだ。
 「この石垣は昔、海沿いの小道に面して、ここまで海だったんです」
 へぇー、そうだったのか。車の通る今の道をはいでみると、昔の波打ち際が見えてくる。    
 「海岸には湧き水の洗い場があったけれど、満潮の時は波の下になってしまうんです。でも昔はそんなに洗濯をしなかったし、最初は海の水で洗って、すすぎを真水でしたからそれで何とかなったたいなあ」
 「ところでこの茂道の真ん中を流れている川はなんていう川ですか?」
 「名前はなかな」
 「えっ、村の真ん中を流れている川に名前がないんですか?」
 「茂道ん川っちいうけどなあ」
 飲み水は湧き水や井戸でまかない、川は洗濯に利用するくらいだったので、この川は茂道の人たちにあまり重要視されていなかったようだ。海辺には細かくたくさんの名前が付いているのと対照的だ。使う場所に名前が付く。使わない場所には名前が付つかない、ということなのだな。しかし、この川にはもっと驚くべき名前がつけられていたのだった。
 「水量が少なくて雨が降らんと川にならんかったな。こん川の上の方は昔、停車場ん道たいな」
 「は?」
 「袋駅に行く道たい。停車場ん道。川と道が一緒になった道川だったな」
 「川が道なんですかぁ?」
 その川沿いをたどれば、なんとみかん園に突き当たって道はなくなってしまうのだった。その先は石がゴロゴロしている川に降りて歩くしかない。
 「港の店あたりから袋駅まで十三分で歩いていった」
 「ほんなこっですかぁ」
 一/二五〇〇の地図上で直線距離にして四二センチはあるぞ。しかし、この道はある年代以上の人には忘れられない道のようだ。出会ったおじさんたちも「停車場ん道行くとな」と懐かしそうに言ってたっけ。茂道の人たちの心の中にある道だ。
 茂道は、道路整備が遅く、永く陸の孤島だった。雄さんはバスに乗るために歩いた道も教えてくれたが、村の東側の山を越えて国道三号線のバス停に出るまでにすっかりくたびれてしまうような長い道のりだった。病気の時、医者に行くことも大変だったんだなと思う。さらに夜、急患で水俣から医者を呼ぶときの道もあった。ひとつは旧袋中学校のところまでタクシーで来てもらって歩く。雨の時はその道はぬかるみになって歩けないのでもうひとつの道、袋駅まで来てもらって迎えに行ったという。それが病人を抱える家族にとってどんなに大変なことか、今までさんざん水俣病のことを説明してきた自分に改めて迫ってくるものがあった。

道の絵地図
 地図の細い線で表される道には、住んでいる人の、目には見えない記憶が刻まれている。
岬の突端のエビスさんにお参りに行った道、矢筈の山の神さんに願かけの石を持ってお参りに行く道、船の道、昔の波打ち際の道。雄さんの話を聞きながら、今の舗装された道をはがしてみると、茂道の人たちが歩いた道が見えてくる。
 今回は道の絵地図の他にも、杉本さん一家の案内で、茂道の食べ物や海辺の地名、水の行方、植物などたくさんの絵地図を作ることができた。すごく楽しい時間だった。ずっとお付き合いいただいた杉本さんに深く感謝したい。
 十年前は、地域には前近代的なしきたりやしがらみが残っていて「地域なんてだいっきらいだ」と叫んでいた私だが、地域には地域の記憶と歴史があって、良くも悪くもそうしたものの集積の上に今がある。そのつながりをふまえながら、住んでいるところを考えていくことが大切なのだと実感した。

 分け入っても分け入っても深いもんだな、地域って


特集2 今水俣病をどう捉えるか PART3

朝日新聞記者・杉本氏の「国水研報告をどう読むか」をどう読むか

宮澤信雄

 『ごんずい』六一号の杉本裕明氏「国水研報告をどう読むか」は、報告書誤読のすすめにほかなりません。全文にわたって逐語的に問題点が指摘できますが、紙数も足りないので、報告書批判の口火を切った者として無視できない最小限のことを指摘します。
 杉本氏は、第五回水俣病事件研究会(二〇〇〇年一月九日)での報告書批判に反論らしい反論が出なかったことに違和感を持ったと強調しています。ジャーナリストなら、そのような「感じ」や「雰囲気」にとらわれたとしても、なぜ反論が出ないのかを考えて欲しかった。批判の仕方にせよその内容にせよ「ちょっと違うのではないか」ということを、その場で指摘すべきだったのに、今になって「言えるような雰囲気ではなかった」「集中砲火を浴びそうだった」などと言い立てるのは、出なかったが反論はあったはず、つまり、批判は必ずしも正しくないということを、ほのめかしているものと解されます。
 はっきり言わしてもらうと、反論がなかったのは批判が当たっていたからにほかなりません。富樫氏が「冷静に分析」したという「事実経過」も、そのような報告書ができた事情説明であって、反論ではなかった。それなのに杉本氏は、批判を受け入れた委員たちは不甲斐ないと言わんばかりです。『ごんずい』六〇号で富樫氏自身が社会科学的研究会と名づけたことに問題があったと認めているのに、舩橋氏が「社会科学的研究会の名に値しない」と総括したことを改めて紹介し、「議論は生産的ではなかった」というのです。
 もし報告書とその作成過程に決定的な欠陥があるとしたら、そのことを明らかにし再検討を求めることこそ生産的ではないでしょうか。事件研究会はそれをしたのです。ところが、報告書公表と同時に社会科学的研究会は解散したので、それの再検討はおろか一九六八年以後の検討もしないというのが国水研の答えでした。(欠陥報告書が一人歩きを始たのです。)その事実を目の当たりにしたはずの杉本氏は、なぜ、批判したことを生産的でないと言い、反論がなかったことにこだわり続けるのでしょう。
 杉本氏自身、報告書の「受け取り方や考え方」からくる紙面づくりの違いについてこう書いています。「全国版の解説面が報告書に対する批判はあまりせず、報告書が指摘したような行政の体質が今もあり、今後の課題であることに焦点を当てたのに対し、現地の西部本社でつくった連載記事(九州地方のみ)は、報告書自体への批判に軸が置かれ、随分開きがあった」
 さらに、それら記事を書くために「地元で働く同僚記者と二人で、報告書をもとに橋本道夫氏に取材した」時に、問題点を認めさせようとする意識の違いに「途中でいたたまれなくなり、私一人、謝辞を述べて退席した」と、信じがたいような事実を明かしています。
 私の見るところ、西部版の連載記事(九九年一二月九日〜一一日)は、報告書には事件史に照らして見過ごせない問題があることを知った地元で働く記者が、それをえぐり出そうとした意図が読みとれます。なかでも橋本氏から、通産省OBにヒアリングしない理由として「年を召しているし、第一不愉快でしょう、そんなことをしたら」という言葉を引き出したのは、報告書の本質を明らかにしたスクープと評価されてよいでしょう。
 一方、全国版解説(九九年一二月一五日)の報告書プラス評価が報告書誤読によるものであることは、やはり彼自身が「最初から限界をもった報告書ではあるが、中央官庁が自分たちの責任を認めた以上…」と書いていることから明らかです。傍点部分が本当かどうかは、当の中央官庁・環境庁の小島氏に聞けばすぐ解るはずです。
 杉本氏は、誤読によって報告書をプラス評価してしまった全国版解説が、報告書批判によって否定されるのを恐れて、「生産的議論」をと言い続けているように思われます。あげく「せっかく考えを異にする人たちが合意点を探ったり、相違点を確認したりする貴重な場であったのに、これで一九六八年以降を検討する機会を自らつぶしてしまった」などと、言い掛かりに等しいことまで書いています。事件研究会は、社会科学的研究会のあと請けや尻拭い役ではないはずです。
 そもそも、報告書の作成・責任主体は今やどこにも存在しないこと、にもかかわらず、「最初から限界をもった報告書」がそのまま市販本として売られ、英訳されて海外にまでばらまかれようとしていることを、杉本氏はご存じのはず、それらの問題をこそ取材してもらいたいものです。
(二〇世紀末の一二月二五日)


第10回 ごんずいインタビュー

米盛さん夫妻
米盛盛蔵(よねもりせいぞう)
1920年水俣市月浦生まれ。80歳。元大工。

米盛タマエ(よねもりたまえ)
1925年鹿児島県阿久根市生まれ。75歳。

1949年に結婚し1男2女をもうける。1952年に
生まれた長男の久男さんは、1955年に水俣病を
発病し、1959年に亡くなる。1974年に夫婦同時
に認定。現在、水俣市出月に2人で暮らす。
―新しい家に引越しをされましたけど、こちらは高齢者住宅のように作られていますね。
盛蔵:前おったところは暗かったしですね、家に段があったでしょうが。ちょっと体壊したからですね。だから、近くに来たほうがよかっちゅうて、すぐそばに姪がおるんです。それが、こっちゃなおって来んねっちて。前の家は、終戦後から二年前までずっとおった。兄貴が終戦になって引き上げてきて、親父は隠居屋を作ったわけですたい。兄貴が親父の家に入って、自分は、昭和二三年にシベリアから引き上げてきて親父の隠居屋に入っとったわけです。

―シベリアからですか。すると、徴兵で行かれたんですか。
盛蔵:はい、朝鮮におったんです。チッソに勤めておった兄貴について朝鮮に行ったんです、昭和十五年に。五年間は長津江第一発電所におりました。チッソの興南工場が見えとったですもん、山の上から。召集されたのは終戦ちょっと前です。もう全然、銃など取ったことはないんですよ。シベリアに入ったのは二一年の四月です。それまでに犠牲者がだいぶ出とるんです、栄養失調なんかでね。私たちはそれほどでもなかった。

―大工をされていたということですけど、それはシベリアから帰ってからですか。

盛蔵:いえいえ、朝鮮行く前に。小学校終わってからすぐにですね、建築大工なっとったんですよ。大口のおじの家におりました。親父は農業でしたけどね。親父は坂口の方の田んぼ借りて小作しとった。それと精米所、水車で。

―終戦後結婚されて、子どもも三人もうけられて、でも長男の久男さんが発症してしまう
タマエ:初めは何の病気か分からんかったんですけどね。最初はですね、歩くのがふらふらするんですな、足がもつれて。三歳ちょっと前です。もう歩いたり跳ねたりしとったですよ。それが遊んどってぱたんと倒れた。こん前に熱が出てですな。
盛蔵:で、小児麻痺じゃなかろうかっちてですね。注射、脊髄に打つんですよね。一〇本ばっか打ったですよ、小児麻痺ならようなるからって。それが、日に日に悪くなってですね、歩けんごとなってしまった。これは小児麻痺じゃなか、もう、病名は分からんちゅうて先生が。そうしとるうちに、うちん下あたりが子どもが亡くなったっちて。

―一番最初原因が分からないときは、保健所の人が消毒に来たりしたって聞くんですけど。
盛蔵:はい、来ました。で、伝染病じゃ伝染病やちゅって、部落の人たちがですね。伝染病になる、あそこの子どもとは遊ぶなっち言うて。他の人たちも発症しとったんですよ。でも隠しよったんです。伝染病ちゅうあれがあるから。うちは外で働いとるからそんなでないけど、やっぱ、家におる人がですね、一番つらかったんじゃなかですか。
タマエ:陰口言われたりなんかしてですね。直接には言われんやったですけど、離れとって、畑におっときにしゃべりよったりしたんでしょ。あそこの道を通っときは走って通れ、鼻をつまんで通れっち言いよらしたですもん。隣の人たちはそんなことはなかったですよ。親戚の付き合いも変わったことはない。こっちん部落の人が通るときそんなんしとった。陰口言われとっとは知っとったけど、もう、病名が分からんもんだけん、なーんと言われても、もうなーんも言われず、陰口言われたまま。
盛蔵:それで、伝染病のごとあるのはですね、うちの子どもは、兄貴の嫁さんがようからって(おんぶして)ですね、病院なんか連れて行きよったんですよ。そのおばがまた水俣病ひっかかったでしょうが、うちの子どもがかかってしばらくして。それで二、三ヶ月で亡くなったです。
タマエ:うちの子どもが移したっち言われたんですよ。ほいで、熊本から検査に来た先生に言われて、伝染病じゃないって分かったもんだから、もう、ほっとしたです。

―あ、昭和三一年の公式発見直後の調査ですね。
盛蔵:そうです。うちの子はずーっと家におったから、小さい妹が兄貴に食べさすもんばちょこって取って食いよったでしょうが。そしたら、熊大の先生が「いや、こら伝染病じゃない。伝染病ならこの子がかかっとるはずや」ちゅうて。それで安心しとったですよ。何と言われても伝染病じゃないんだからちゅうて。でも、もう寝たきりになって、もう目も見えないし、耳は聞こえないような、全然もの言わないから、ただあーあー言うとるだけです。手ば硬直したまま、足も曲がってですね。指は握り締めて、泣きよったですもん、痛いからですね。最期は市立病院で亡くなりました。

―魚はどこから入手していたんですか。
盛蔵:だいたい魚が好きだったですもんね、子どもが。そっで、その守りをしてくれたおばが、魚を買って食べさせてくれていました。それから、親父が舟持っとるからですね。農業やったけど舟持っとって、漁業組合の組合員になっとったんですよ。一本釣りばっかり。売ってはしとらんけど、自分が食べるのは舟で行って釣って来よったんです。うちも、やっぱり釣り行きよったです、親父の舟で。釣りが好きやったからですね。それに、潮干狩りちゅうかですね、よう、休みのときには下の海にタコ捕りに行きよったです。潮が引いたところ、ずーっと歩いて行って、タコはかぎで引っ掛けて。もうそこん下が海でしょうが、坪段の下が。一番悪かとこですたい(笑)。それで、だいぶ捕れよったですもんね。

―ある時点から食べるのをやめたんですか。漁民紛争とか見舞金契約のあった昭和三四年頃はどうだったですか。
盛蔵:その頃は、あんまりもう行きよらんかった。もうそん頃はたいがい、原因はチッソの排水じゃちゅうて言いよったからな。チッソは隠しとったけど、たいがいチッソは知っとったですもんね。チッソの中に仕事に行けば、水槽作って魚飼っとったんですよ、試験に。チッソの中へ大工で仕事行きよったからですね。漁民紛争の後で、ちょうど排水のあれができたんですもん、サイクレーター。あの工事やったんですもん。それを作っときに漁民騒動があった。自分らはちょうど工事ばしよって、漁民が乱入したときは、入ってきたっぞっちゅうて言いよったですよ。

―で、その年末には、ご自身が互助会で正門に座り込むことになる。
盛蔵:互助会に入って。久男が死んでからすぐじゃなかったかね。ずーっと会を開いてですね、それから、あそこの正門に座り込みしたんですよ。ちょうど今頃やったですもん。ほっで、もち米代貰おうと思てあげんして座っとっとじゃちて言われたんですよね、正月前じゃったから。チッソの従業員も反対しとるわけですよね。町の人も反対しとるわけです。町のあれが悪くなる、何が悪うなるっちゅうてですね。そんなして座り込んだりなんかすりゃあ、やっぱりよか気分じゃなかったでしょ、市民の人は。自分は働いとったから生活に困るということはなかったけど、工場は違う違うちゅうて排水が原因とは言わんですもんね。で、園田厚生大臣になって、やっとチッソが原因を認めた。それから、一方は裁判、一方は一任で交渉しとったんですよ。そんときに互助会が割れてるんですね、二つに。

―昭和四三年の国の公害認定ですね。このとき、米盛さんはいわゆる一任派の方に参加しているわけですけれども。
盛蔵:そうそう、会長と家が隣やったですよ、山本さん。それでもう、一任派におったわけですよ。向こうは裁判派ち言いよったけど、同じ部落でしょうが、そげん対立はせんですもんね。交渉は東京でして、自分も行きました。人が行かれんちゅうたからその代わりで。厚生省の中で寝泊りしたです、市長も一緒に。阻止するために反対派が入ってきて、なんか廊下でばたばたやっとったねえ。会社は、裁判で負けたときには、裁判のしこ(分だけ)は全部払うちゅうて言うとったんですよ。内定があったわけです。でも、仲介をとった連中が、裁判でもあんたたちに払った金以上は出らんじゃろうとか言ってですね、そっで金額はやっぱり下向いたでしょ。ほって、子どもと大人と金額の差が出たんですよね。

―タマエさんはいつからこう寝たきりになったんですか。
タマエ:四、五年前からかな。こん頃はよだれがたれたり、感覚もなくなってですな。そん前までは自分で歩きよったですもん、杖をついて。認定された頃には、もう、ようころびよったです。買い物袋も手で持たれずですな、腕に引っ掛けて、こう、しよったですな。風呂敷でんなんでん結んだりなんかもできんやったです。五〇歳ぐらいからなーんもできんで、五〇年までは娘がおったけど、五一年からはずーっと、家のことは父さんにやってもらってですね。娘は、久男の上と下に二人おる。今は、二人とも結婚して愛知県におります。子どもが三人と二人おっと。

―最近、市の行政ももやい直しと言って変わりつつありますよね。
盛蔵:もう、そんなとこは、全然行かれんはね。母ちゃんば残して、どこ−にも出て行かれん、寝とるけん。もやい直しとかもなんとかもあるけどですね、行ったことはない。楽しみてなかですよ、どこも行かれんもん。旅行でもできればいいけど、旅行もできないし。母ちゃんとずっと一緒に暮らしたいかってですか。そりゃそうですね。夫婦になった以上は面倒見ないかんですもんね。
(聞き手/神沢聡)

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