目次 地元学を一言でいうならば、「人のつぶやきにある背景や自然に耳を傾け、『なぜだろう』と問いを発しながら、自分で見て歩き、自分の住んでいる地元を深く掘り下げ、自分の言葉で語って地域を自覚し、ものづくり、地域づくり、生活づくりに役立てていく」(『風と土の地元学』)ことである。地元学は地域を自覚する回路を探る手法であり、あるもの探しは価値を見出そうとしてないものねだりをするのではなく、あるものをあるがままに見つめていく。
実際にどうするかはやってみなければよく分からないだろうけれど、今回行った「茂道のあるもの探し」では、地元の杉本さんを案内人として、相思社や市役所の職員などが調査員となって、「これは何ですか?」「どうしてここにあるんですか?」「昔はどうなっていましたか?」などと尋ねて、見たものを写真に撮り、聞いたことをメモしながら歩いた。驚いたことや気付いたことがたくさんあった、「田んぼがあった」「少し掘れば水が湧いてくる」「川には名前がない、だけど海岸には細かく名前が付けられている」「海の中に真水が湧いている」「昔は大きな茂道松があった」「マツタケがとれた」「エビスさんがあった」「停車場道」「裏の畑でなんでも作っていた」などなど。茂道はよく人を案内して行くので何でも知っているような気になっていたが、実はうわべだけで茂道の人の暮らし方については、ほとんど何も知らなかった自分に気が付いた。
調査が終わってから、みんなで「驚いたこと」「気が付いたこと」をポストイットに記入して、同じようなテーマで分類した。そこから絵地図づくりのテーマを、「茂道 水のゆくえ」「杉本さんと歩いた・聞いた茂道の道」「田んぼ」「茂道の秋を食べる」「茂道の植物・森」「茂道の水を訪ねて」「海に生きる」「杉本さんの畑」と決め、二時間くらいで完成させた。ほとんど高校の文化祭のノリだったけれど、文章ではなく写真や絵で表現することはそれだけで感動的だった。できたものがその人の茂道である。
最後にみんなの前で自分が作った絵地図の発表会をおこなった。どんな点に注目して作ったのか、何に驚いたのか、調べてみてもっと調べたいと気が付いたことなどを話す。みんなで調べたことの成果を共有化しながら、地域の課題を考えていくきっかけとする。
もう一つの作業は地域情報カードの作成がある。前回の久木野地区のあるもの探しでは、情報カードを一〇〇枚くらい作成した。こうして水俣の地域を調べて情報カードを作成していけば、将来は何千何万枚のカードがデータベース化され、水俣百科事典として役立つことだろう。
地元の人と一緒に歩いて話を聞いて写真を撮って、その地域にあるものをカードにしていく「あるもの探し」を茂道で行った。茂道のことはちょっとは知ってるつもりだった。茂道のみかん山や海には何度も行っているし、人を案内して回っているわけだし。しかし、私がこれまで知っていたのはほんの表面だけ。知らないことだらけなんだということが、十二月のある一日、杉本雄さんと歩いて回ったことで思い知らされた。これだから、地元の人と歩く「あるもの探し」はやめられない。
といっても、「あるもの探し」は、よそ者がある地域のいろいろなことに詳しくなって喜ぶためにやるのではない。地元の人が、外の人の目も借りながら、地元の再発見・再評価をし、外からの変化を受けとめながら、地域独自の生活文化を創り続けていくための基礎調査なのだ。相思社としては、地域の情報をきちんと記録し、地元の人と共有しながらその地域でどんなことができるのか、そこはどんなところなのかを考え、水俣病や環境学習で訪れる人の受け入れを行っていこうとしている。今回は「あるもの探し」をした上で、様々な切り口で茂道の絵地図を作ろうという試みだ。
茂道の道
今回は三グループに分かれ、漁師の杉本雄さん、栄子さんご夫婦と長男の肇さんに案内人となっていただいた。私は雄さんのグループ。わからないこと、不思議に思ったこと、おもしろそうなことをどんどん雄さんに聞いていく。時にはこちらが全然気がつかないことを教えてもらったり、逆に地元の人が当たり前と思っていることが、すごくビックリすることだったりするのだ。
港のそばの家の石垣、いつも目にしているなんていうことのないものだ。
「この石垣は昔、海沿いの小道に面して、ここまで海だったんです」
へぇー、そうだったのか。車の通る今の道をはいでみると、昔の波打ち際が見えてくる。
「海岸には湧き水の洗い場があったけれど、満潮の時は波の下になってしまうんです。でも昔はそんなに洗濯をしなかったし、最初は海の水で洗って、すすぎを真水でしたからそれで何とかなったたいなあ」
「ところでこの茂道の真ん中を流れている川はなんていう川ですか?」
「名前はなかな」
「えっ、村の真ん中を流れている川に名前がないんですか?」
「茂道ん川っちいうけどなあ」
飲み水は湧き水や井戸でまかない、川は洗濯に利用するくらいだったので、この川は茂道の人たちにあまり重要視されていなかったようだ。海辺には細かくたくさんの名前が付いているのと対照的だ。使う場所に名前が付く。使わない場所には名前が付つかない、ということなのだな。しかし、この川にはもっと驚くべき名前がつけられていたのだった。
「水量が少なくて雨が降らんと川にならんかったな。こん川の上の方は昔、停車場ん道たいな」
「は?」
「袋駅に行く道たい。停車場ん道。川と道が一緒になった道川だったな」
「川が道なんですかぁ?」
その川沿いをたどれば、なんとみかん園に突き当たって道はなくなってしまうのだった。その先は石がゴロゴロしている川に降りて歩くしかない。
「港の店あたりから袋駅まで十三分で歩いていった」
「ほんなこっですかぁ」
一/二五〇〇の地図上で直線距離にして四二センチはあるぞ。しかし、この道はある年代以上の人には忘れられない道のようだ。出会ったおじさんたちも「停車場ん道行くとな」と懐かしそうに言ってたっけ。茂道の人たちの心の中にある道だ。
茂道は、道路整備が遅く、永く陸の孤島だった。雄さんはバスに乗るために歩いた道も教えてくれたが、村の東側の山を越えて国道三号線のバス停に出るまでにすっかりくたびれてしまうような長い道のりだった。病気の時、医者に行くことも大変だったんだなと思う。さらに夜、急患で水俣から医者を呼ぶときの道もあった。ひとつは旧袋中学校のところまでタクシーで来てもらって歩く。雨の時はその道はぬかるみになって歩けないのでもうひとつの道、袋駅まで来てもらって迎えに行ったという。それが病人を抱える家族にとってどんなに大変なことか、今までさんざん水俣病のことを説明してきた自分に改めて迫ってくるものがあった。
道の絵地図
地図の細い線で表される道には、住んでいる人の、目には見えない記憶が刻まれている。
岬の突端のエビスさんにお参りに行った道、矢筈の山の神さんに願かけの石を持ってお参りに行く道、船の道、昔の波打ち際の道。雄さんの話を聞きながら、今の舗装された道をはがしてみると、茂道の人たちが歩いた道が見えてくる。
今回は道の絵地図の他にも、杉本さん一家の案内で、茂道の食べ物や海辺の地名、水の行方、植物などたくさんの絵地図を作ることができた。すごく楽しい時間だった。ずっとお付き合いいただいた杉本さんに深く感謝したい。
十年前は、地域には前近代的なしきたりやしがらみが残っていて「地域なんてだいっきらいだ」と叫んでいた私だが、地域には地域の記憶と歴史があって、良くも悪くもそうしたものの集積の上に今がある。そのつながりをふまえながら、住んでいるところを考えていくことが大切なのだと実感した。
分け入っても分け入っても深いもんだな、地域って
『ごんずい』六一号の杉本裕明氏「国水研報告をどう読むか」は、報告書誤読のすすめにほかなりません。全文にわたって逐語的に問題点が指摘できますが、紙数も足りないので、報告書批判の口火を切った者として無視できない最小限のことを指摘します。
杉本氏は、第五回水俣病事件研究会(二〇〇〇年一月九日)での報告書批判に反論らしい反論が出なかったことに違和感を持ったと強調しています。ジャーナリストなら、そのような「感じ」や「雰囲気」にとらわれたとしても、なぜ反論が出ないのかを考えて欲しかった。批判の仕方にせよその内容にせよ「ちょっと違うのではないか」ということを、その場で指摘すべきだったのに、今になって「言えるような雰囲気ではなかった」「集中砲火を浴びそうだった」などと言い立てるのは、出なかったが反論はあったはず、つまり、批判は必ずしも正しくないということを、ほのめかしているものと解されます。
はっきり言わしてもらうと、反論がなかったのは批判が当たっていたからにほかなりません。富樫氏が「冷静に分析」したという「事実経過」も、そのような報告書ができた事情説明であって、反論ではなかった。それなのに杉本氏は、批判を受け入れた委員たちは不甲斐ないと言わんばかりです。『ごんずい』六〇号で富樫氏自身が社会科学的研究会と名づけたことに問題があったと認めているのに、舩橋氏が「社会科学的研究会の名に値しない」と総括したことを改めて紹介し、「議論は生産的ではなかった」というのです。
もし報告書とその作成過程に決定的な欠陥があるとしたら、そのことを明らかにし再検討を求めることこそ生産的ではないでしょうか。事件研究会はそれをしたのです。ところが、報告書公表と同時に社会科学的研究会は解散したので、それの再検討はおろか一九六八年以後の検討もしないというのが国水研の答えでした。(欠陥報告書が一人歩きを始たのです。)その事実を目の当たりにしたはずの杉本氏は、なぜ、批判したことを生産的でないと言い、反論がなかったことにこだわり続けるのでしょう。
杉本氏自身、報告書の「受け取り方や考え方」からくる紙面づくりの違いについてこう書いています。「全国版の解説面が報告書に対する批判はあまりせず、報告書が指摘したような行政の体質が今もあり、今後の課題であることに焦点を当てたのに対し、現地の西部本社でつくった連載記事(九州地方のみ)は、報告書自体への批判に軸が置かれ、随分開きがあった」
さらに、それら記事を書くために「地元で働く同僚記者と二人で、報告書をもとに橋本道夫氏に取材した」時に、問題点を認めさせようとする意識の違いに「途中でいたたまれなくなり、私一人、謝辞を述べて退席した」と、信じがたいような事実を明かしています。
私の見るところ、西部版の連載記事(九九年一二月九日〜一一日)は、報告書には事件史に照らして見過ごせない問題があることを知った地元で働く記者が、それをえぐり出そうとした意図が読みとれます。なかでも橋本氏から、通産省OBにヒアリングしない理由として「年を召しているし、第一不愉快でしょう、そんなことをしたら」という言葉を引き出したのは、報告書の本質を明らかにしたスクープと評価されてよいでしょう。
一方、全国版解説(九九年一二月一五日)の報告書プラス評価が報告書誤読によるものであることは、やはり彼自身が「最初から限界をもった報告書ではあるが、中央官庁が自分たちの責任を認めた以上…」と書いていることから明らかです。傍点部分が本当かどうかは、当の中央官庁・環境庁の小島氏に聞けばすぐ解るはずです。
杉本氏は、誤読によって報告書をプラス評価してしまった全国版解説が、報告書批判によって否定されるのを恐れて、「生産的議論」をと言い続けているように思われます。あげく「せっかく考えを異にする人たちが合意点を探ったり、相違点を確認したりする貴重な場であったのに、これで一九六八年以降を検討する機会を自らつぶしてしまった」などと、言い掛かりに等しいことまで書いています。事件研究会は、社会科学的研究会のあと請けや尻拭い役ではないはずです。
そもそも、報告書の作成・責任主体は今やどこにも存在しないこと、にもかかわらず、「最初から限界をもった報告書」がそのまま市販本として売られ、英訳されて海外にまでばらまかれようとしていることを、杉本氏はご存じのはず、それらの問題をこそ取材してもらいたいものです。
(二〇世紀末の一二月二五日)
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| 米盛盛蔵(よねもりせいぞう) 1920年水俣市月浦生まれ。80歳。元大工。 米盛タマエ(よねもりたまえ) 1925年鹿児島県阿久根市生まれ。75歳。 1949年に結婚し1男2女をもうける。1952年に 生まれた長男の久男さんは、1955年に水俣病を 発病し、1959年に亡くなる。1974年に夫婦同時 に認定。現在、水俣市出月に2人で暮らす。 |