水俣病センター相思社 機関誌 ごんずい 63号ごんずい 63号

目次

特集 : もやい直しを検証する………… 2
      レポート1 「もやい館を素材として」/神沢聡…… 3
      レポート2 水俣湾埋立地を素材として考える/遠藤邦夫 ……・ 13
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      新茶とほうじ茶のコマーシャル…………19
      ごんずいインタビュー 第11回/村上初子・照美/川部岬…20

特集 もやい直しを検証する


今回掲載の文章は、相思社内部の勉強会用に書かれたものである。地域の結い・もやいを考えるに当り、出発点となった環境創造みなまた推進事業で語られた」もやい直し」を再度捉えておこうとする狙いがあった。文章的には試論の域をでておらず、読者の批評に耐えられるかどうか難点がある。しかし地域の協働の暮らしを調査する前に、一応の論点や切り口を整理しておこうとするものである。


 人々は山あいの村や、少し開けた里の農村、山間の開拓の村、水の少ない畑作の村、沿岸部の半農半漁の村、マチ、それぞれの風土に合わせて暮らしてきた。山の恵み、里の恵み、海の恵みを受けて、人々は少しずつ力を出し合って、足りないところを補い合いながら、結いやもやいと呼ばれるようになる協働の形を村としてきた。モノは必要最小限しかないけれど、仕事の場にも楽しみや出会いがあり、子供の遊びのなかにも手伝いや生活技術の学びの場があった。
 里の農村に暮らす吉本静子さんは、かつての家建てのことをまるで女子学生にもどったような笑顔で「昔の家建ては大勢の人が集まってなあ、そら賑わっとったと。私らは手伝いばっかじゃったが、若い衆に泥をつけられたりつけたり、そら面白かったなあ」。と語った。

 水俣の地域社会が壊れていった原因は水俣病ばかりではない。否応ない急激な変化としての高度経済成長の中で、人々はお金やモノに心を捉えられてしまった。相互扶助の村の仕組みは、外から流れ込んだモノと万能に見えたお金によって、急に古臭く面倒くさいものとなってしまった。

 バブルが弾け、にわかに経済中心が疑われ、そうして自然や暮らしが見直されるようになったが、付け焼刃の感が強い。相思社設立と共に「もう一つのこの世」が語られたが、いまこそモノやお金に支えられた暮らしではなく、人と人が支え合う「この世」が模索される時だと思う。


レポート1〈もやい直しを検証する〉

「もやい直しセンター」を素材として考える

神沢聡

一 はじめに

 もやい直しセンターは、一九九七〜九八年、水俣病政府解決策における地域再生・振興策として水俣・芦北地域に三館が設置された。正確に言うと、水俣市総合もやい直しセンターと水俣市保健センターとの複合施設としてもやい館(愛称)が、水俣市南部もやい直しセンターとしておれんじ館(愛称)が、芦北町もやい直しセンターと芦北町保健センターとの複合施設としてきずなの里(愛称)が建設された。
 ここでは、もやい直しセンターが設置されるまでの経緯をたどることによってもやい直しセンターを規定するものを明らかにし、それともやい直しセンターの現状を比較することによってもやい直しセンターの検証を試みる。

二 もやい直しセンター設置までの経緯

二の一 政府解決策

設置決定までの経緯
 もやい直しセンターの設置は、一九九五年十二月に閣議了解された政府の水俣病解決策における地域再生・振興策として、患者救済策およびチッソ支援策と一体のものとして決定された。
 政府の水俣病最終解決策決定に向けた政治決着の動きの中で、第一の課題は、未認定患者救済およびそのために必要不可欠なチッソ支援の枠組みであった。そうした中で、吉井水俣市長は、一九九四年二月の市長就任以来くり返し、水俣病で疲弊した地域の再生・振興策の必要性を政府に対して訴えてきた。水俣病では地域全体もまた被害を受けており、その救済として地域の再生・振興が必要で、これが患者救済と同レベルでなされなければ水俣病の真の解決とはならないというわけである。その経緯を、吉井市長の著書『離礁』によりたどる。
 吉井市長が要請してきた内容は、国の支援が目に見える形でということつまりハード面での整備ということ、および、財政的措置を伴うものということであった。その論理は、国の施策が患者救済とチッソ支援だけだと「市民の羨望や不公平感で再び内面社会が混乱する」ので目に見える形でということであり、また、「水俣病問題の重圧で過疎化と高齢化が進行し、財政も脆弱となり衰退の一途をたどっている。これは地方自治体の責任ではなく、また自助努力が及ばないものである」ので財政的措置をということであった。
 具体的には、数年かけて別個に建設する計画であった福祉施設・福祉センター・健康管理センター・生涯教育センターなどを前倒しして一つの複合施設として建設すること、市立水俣病資料館見学者の研修ホールとして使え国際会議も開ける会議場を建設すること、国立水俣病研究センターを拡充する形で国際環境研究研修施設などを国の施策として建設することを要求した。こうした具体案は、一九九四年に準備を始め九五年九月に市議会で議決された「第三次水俣市総合計画」を基に市役所内で協議し練られたものである。
 そして、解決案に地域の再生・振興策が盛り込まれるようになり、水俣市および芦北三町での陳情も行われた。計画が現実性を持つようになってからは事務レベルでの折衝も積み重ねられ、最終的に今ある三館の建設が決まった。当初、御所浦町にも設置される方向であったが、御所浦町が辞退したため代わりにおれんじ館が建設されることになった。財源についても曲折があり、当初、景気刺激のための大型補正予算の使用が考えられていたが、解決案の合意が遅れたため、国の平成七(一九九五)年度一般会計の予備費支出という形になった。予備費は金額が少ないため、ほぼ固まりかけていた国際会議場は断念され、もやい直しセンターも規模が縮小されたのである。

決定した枠組み
 予備費支出という形になったため、年度内の事業終了、建物の建設は不可といった制約が発生した。これらの制約は、県が財団法人「水俣病問題解決支援財団」を設立し、国は予備費から県へ補助金として約二五〇億円を支出し、県は起債で約五〇億円を加えて計約三〇〇億円を支援財団へ出資し、支援財団は、このうち約二六〇億円を一時金支払いのためチッソに貸し付け、残り約四〇億円をもやい直しセンターの建設・運用に充てるという仕組みでクリアされた。市の負担割合も、特別に低く抑える措置がなされた。
 もやい直しセンター設置の根拠となる政府解決策には、「基金が水俣・芦北地域の再生・振興に資するために地域住民の絆の修復並びに水俣病発生地域における健康上の不安の解消及び健康増進を図る事業を支援する場合には、当該支援に係る熊本県の出資について、国は、速やかに所要の財政措置及び地方財政措置を講ずるものとする」という表現で、地域再生・振興施策が盛り込まれている。ここでの「基金」とは「水俣病問題解決支援財団」のことである。また、別添文書では、「地元での検討も踏まえつつ、地域において健康上の不安の解消と健康増進を図る保健対策の充実、水俣病の発生地域としての特性を活かした研究・教育機能の充実、地域住民全体への支援を目的としたインフラの整備等の施策」が国及び県の取り組むべき検討課題とされている。
 さて、水俣市は、二つのもやい直しセンターの建設にあたって、基本構想の段階から市民の参加を募り、「もやい広場」と名づけられたオープンワークショップを十五回に渡って開催した。その際に提示された大前提は「地域の人と人との心の絆を再構築するためのもやい直しセンター」であるが、具体的には、政府解決策へ向けての陳情案の基礎となった総合計画がここでも前提条件となり、総合もやい直しセンターについて「保健・福祉の中核施設+交流拠点/・市民誰でもが自由に交流/・保健面等のケアの充実及び生きがいづくり/・保健・福祉サービスの一元化」とまとめられた。また、二館とも複合的な性格を持つことが明示され、特に、文化会館別館跡地に建設される総合もやい直しセンターについての特徴は、「市民全体を利用対象とする各種複合施設であること」、「保健センターとの合築となること」、「社会福祉会館の機能を継承すること」、「文化会館別館の果たしていた役割を継承すること」のように整理された。

二の二 もやい広場

 もやい広場は、その過程自体がもやい直しであると位置付けられ、コーディネーターを務めた延藤安弘名城大学教授(当時)は、「いろんな価値観を持つ人々が、互いを否定し合うことなく、ぶつかり、対立をエネルギーとしながら、目標を共有化していった」「参加の公共施設というのは、単なるモノづくりで終わるのではなく、そこから始まる」と報告している。
 以下、略

二の三 芦北町もやい直しセンター運営協議会答申
 略


三 もやい直しセンターの活動・運営の現状

 ここでは、もやい直しセンターの開館以後の活動・運営の特徴を箇条書きで指摘する。なお、網羅的に資料にあたることはしていないので概括的な観察にとどまっている。

三の一 もやい館

●案内パンフレットの総合もやい直しセンターの設置目的:「水俣病問題解決策の一環として、もやい直し(心の絆の修復)事業の推進と、保健・福祉や交流の拠点として設置されました」
●紹介資料の水俣市総合もやい直しセンターについての建設の経緯と設置目的:「平成七年十二月十五日閣議において『水俣病問題解決策』として、未認定患者救済一時金と一体のものとして決定された。水俣病問題の解決は、被害者救済はもとより地域の人々がお互いに助け合い、共に暮らしていける地域づくりの再スタートとすべきであると考え、患者と地域住民共に集い交流するとともに健康や福祉サービスの拠点施設として設置された。」
●水俣市総合もやい直しセンターの設置主体:財団法人水俣市振興公社
水俣市保健センターの設置主体:水俣市
●入居組織:水俣市振興公社事務局、水俣市社会福祉協議会、水俣市健康管理課(総務係・保健係・高齢者対策係)、デイサービスセンター、在宅介護支援センター、ボランティアセンター、水俣芦北音楽療法情報センター、高齢者職業相談室
●平成一〇年度水俣市総合もやい直しセンター事業計画におけるもやい直し事業の基本方針:「もやい直し(心と心の絆の修復)事業をすすめるにあたり、その基本方針を次のとおりとする。〇水俣病の経験や教訓を生かした事業であること。〇思いを共有し、みんなでつくる事業であること。〇誰もが気軽に参加できる事業であること」
●環境創造みなまたシンポジウム、環境自治体会議、海外での水俣病経験の普及啓発セミナー報告会など、市の環境政策において中心的な位置を占める集会が数多く開かれている。
●文化サークル活動、教室、会議、商品展示会など、市民や企業が活発に利用している。
●開館当初、水俣病に関する施設であるのに水俣病に関する展示も事業もないのはなぜかという問いに対して、久木田副館長(当時)は、@水俣病を前面に出すと患者のための施設と思われ一般の人が来にくくなる、A水俣市には水俣病資料館がある、という点を挙げた。
●一九九九年六月に「もやい直し巡回展」を湯の鶴温泉保健センターで開催した。開館一周年を機に催した市民との意見交換会で「もっと水俣病を前面に出した企画もあっていい」との意見が出たことなどから開催された、総合もやい直しセンターが企画した初の水俣病関連イベントであった。続いて年度内に、御所浦町、津奈木町、もやい館、おれんじ館で開く予定であったが、一ヶ所目で地域住民の出足が鈍かったため、内容を再検討した上で改めて開催しようと、二ヶ所目以降は中止された。その後、二〇〇〇年二月に芦北町立大岩小学校で、二〇〇一年二月に水俣市立水東小学校で、地域の祭と同時開催という形で開かれている。
●一九九九年二月に住民活動の相互支援組織「もやいクラブ」が発足。会員は奉仕活動をすると点数がもらえ、たまった点数は他の会員から手伝いを受ける際や会議室使用料として使える。これは一種の地域通貨の試みだ。

三の二 おれんじ館
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三の三 きずなの里
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四 もやい直しセンターの検証

四の一 もやい直しセンターを規定するもの(整理)
 略

四の二 もやい館

 もやい館では、開館後一年間は、施設の性格が市民一般対象であることを印象づけるために意識的に水俣病を前面に出した企画を実施せず、次年度に、初めての水俣病関連企画としてもやい直し巡回展を行う計画であったが、来場者数を確保できずに一回だけで中断された。一方で、市民サークルの活動には活発に使用されており、もやいクラブのような住民参加システムの試みも実施して、公民館的役割としては比較的評価できると言えそうだ。公民館的活動ともやい直しとの関係性の検討が必要ではあるが、水俣病事件におけるもやい直し事業を担うという最も重要である役割を果たしているかという観点から見ると、その任をほとんど果たしていないように見える。こうした評価で正しいのか検証する。
 政治決着の動きの中で吉井市長が求めたのは、一つは、国の支援が患者救済だけでなく、市民一般に対する支援も目に見える形でということであった。つまり、市民全体が利用対象の施設が求められ、このことは事務局によって忠実に実行されていると言える。吉井市長の求めたもう一つの要素は、水俣病のために疲弊した地域ゆえに財政力も脆弱になっているので、地域のための複合施設建設というインフラ整備も国の財源でということであった。このことも、保健センターやその他の行政機関が併設される複合施設として実現された。このことは、「もやい館は第二庁舎となってしまっている」という表現もできるが、その性格は政府解決策の時点で規定されていたのだ。こうした政府解決策の枠組みは、別添文書に「地域住民全体への支援を目的としたインフラの整備」という表現で明確に示されている。そうすると、行政の視点で言うと、もやい直しセンターは政府解決策の枠組みの中で忠実に設置・運営されているわけである。
 市民サークルの活発な利用、商品展示会の開催ということも、社会福祉会館および文化会館別館の機能・役割の継承というもやい館の前提条件が守られたということである。もやい広場の中で、これまで社会福祉会館・文化会館別館を利用していたグループからこの条件は強く求められたそうで、そういう意味で「既得権」が継承されたわけで、市民にとってももやい直しセンターは望む形になったと言える。
 しかし、このように市行政が政府解決策を忠実に実施していることは、患者の側から見ると、行政が一般的な施策の財源を国から引き出すために、政府解決策に書かれた「地域住民の絆の修復」という言葉でもって水俣病をていの良い口実にしてしまったのではないかという疑問が想起する。また、「市民の羨望や不公平感で再び内面社会が混乱する」ので目に見えるハード面の整備を行うということは、政策としてはあり得ることだが、そもそも市民の妬み感情をそらすという配慮に基づくものであり、その一方で、そうした市民の妬み感情に正面から向き合いニセ患者発言などが出ないように市民の理解を深めていく施策が必ず必要であろう。問われるのは、「地域住民の絆の修復=もやい直し」の内実だ。
 住民参加ということが総合計画の中で明確に謳われ、そして、「参加の公共施設」は建設で終わるのではなくそこから始まるのだということは、行政もまた掲げていることである。しかし、もやい広場に参加した人の間には、「できるまでは市民参加が実質としてあったのに、できてしまうとその門戸は閉じられてしまった。もやい館の運営への市民参加自体を通じてもやい直しを形作っていくと思っていたのに期待を裏切られた。実際に行われたことは婦人会、老人会などの長を集めて住民参加の形を整えるという旧来のやり方だった」という思いもある。もやい館事務局は、住民参加ということについて、もう一度もやい広場の地平を学ぶ必要があるのではないか。
 環境モデル都市づくり宣言以来の正面から水俣病に取り組もうとする市行政の姿勢に変化はないと考えている。政府解決策での予算の枠組みのため、まず大急ぎで建物だけが作られたのであり、もやい直し事業を深化させていくのはこれからなのだと考えたい。

四の三 もやい直しとは何だろう

 よく、「政治決着による和解後もやい直しをして仲良くしようという状況になっているが、本質の分かっていないもやい直しは害毒だ。患者は、加害者を許すことはできないと言っている」という、もやい直しを批判する表現がある。確かに、過去のことを水に流して仲良くすることは、過去から教訓を学ばないことだから、あるべき形ではない。そして、過去につらい思いをした患者が、今だ、その相手をとても許す気持ちにはなれないということも事実である。しかし、だからもやい直しはおかしいということにはならない。それは、もやい直しという言葉の意味が違うからである。もやい直しは単に仲良くするということではなく、逆説的に表現すると、ケンカをすることがもやい直しなのだと言える。
 これまでは、対立する者同士が同席することさえない状況があった。そこにはケンカさえなかった。審判は歴史に任せ、硬直化したそうした状況を超えようとしたのが、患者が苦渋の選択をした和解であった。これまでの対立の構造を超えて新しい関係性に進むためには、ケンカさえない状況からケンカもある段階に変わる必要がある。相思社が行政の関わる会議に参加し始めたときの約束事は、意見が対立しても退席しないということであった。意見が決裂すると机を蹴って席を後にしていたそれまでのやり方ではなく、席に留まり机を叩いて議論をするというやり方に変更しようということである。それもまたもやい直しであった。
 杉本栄子さんのことを思い出した。栄子さんは、いじめられて悔しくてやり返したかったが、いじめ返すなというお父さんのいましめを守り通して今の自分があると言われる。そして、「許す」、「許しなさい」と言われる。しかし、一方で、いじめられたことを忘れることは人間の尊厳において決してないという意味で、根源的なところで許すということはありえないと思う。つまり、もやい直しは、もやい直しの掛け声で数年でできるものなどではない。それでも、栄子さんはいじめ返さない。許すことで相手より大きくなれ、許すことなしでは決して未来が開けないのだということを言っているのだろう。この未来という方向性がキーワードのように思える。
 こうしたもやい直しへの理解なしに、もやい直しは単に仲良くすることという捉え方では、もやい直し事業を公民館以上のレベルへ押し上げていくことは困難だ。そして、「患者は許すことができないと言っているのに、もやい直しをして仲良くしようというのはおかしい」という批判ともやい直しセンターが公民館の域を出られないことは、同様に、もやい直しに対する理解の浅さが原因だと言えないだろうか。
 もやい直しを捉えるときに、もう一つ大切なことは、以前には水俣の農漁村にも確かにあって近代化の過程で失われてきた、「もやい」とか「結い」という言葉で表される人と人の共働を見直す視点ではないか。きずなの里で聞き取り調査を行っているのは、まさにこのことなのである。もやい館もまた、こうしたもやい直しの土台となるような調査を事業にすべきである。それによって、もやい直し事業を深化させていくことができる。そして、きずなの里でこうした事業があるのは楠原館長がいるからこそである。単なる公民館ではない要素の要求されるもやい直しセンターには、それを担い得る人が必要である。
 最近、もやい直しのあり方を問いかけるできごとが続けて顕在化した。『水俣市民は水俣病にどう向き合ったか』における匿名座談会での発言に対する語り部の人たちの反発の問題と、市役所幹部職員の「患者は弱った魚を食べて水俣病になった」という発言である。こうした問題が生じたときに、そうした対立をむしろ好機と捉えて、プラスに転化していくような取り組みこそがもやい直しの重要な事業と位置付けられるべきではないか。

四の四 もやい直しの思想の構築を

 これまでの考察で、もやい直しセンターを規定するものを考えてきた。それは、もやい直しセンターの「定式化」とも言える。ここで、定式化とは、求められる性質が分析されて言葉にされていることと定義しておく。そして、今あるもやい直しセンターの定式化を見てみると、二−一の最後にある総合計画の枠組みしかないことに気付く。それは、全国どこでも言われていることであり、もやい直しセンターの特殊性をこそ定式化する必要がある。
 そして、そのためには、もやい直し自体を定式化する必要に迫られてくる。これについても、もやい直しセンター設置の経緯の中では、「心と心の絆の回復」「助け合う・共に暮らす・集い交流する」程度の言葉しか見当たらない。患者と市民が仲良くするお守り言葉を脱却させ、もやい直しの思想を構築することが必要だ。
 ここで、もやい直しに関係があると思われる言葉を別表で拾ってみた。

四の五 「もやい直し」の定式化の試み

 粗削りで未整理のまま提示する。
(一)仲良くではなくケンカできる関係性を
・まず、単に仲良くすれば済む問題ではないという認識が必要。
・硬直した状況を乗り越えて、展望を持てるよう次の段階に進もうということ。
・告発=過去へ向いた視線から、教訓化=未来に向けた視線へ。
・さらにその次の段階=日常の中でのもやい直しが必要。イベントは非日常であった。
・なくなり得ないぶつかり合い、対立を内包しながら活性化されるような社会を目指す。「違いを認め合う」=「共通認識を前提としない」。
・つまり、単に仲良くすれば済む問題ではないという、もやい直しについての誤解を解こうという表現であるとともに、一歩次の段階へ進もうということ、及び、その進み方として現時点では違いを認め合うことが必要だということなどの内容を持っている。

(二)水俣病を風化させない
・風化させないどころか、まだ、まず正しく知ることが必要かもしれない。
・特に、ニセ患者発言を誘引してきた慢性型水俣病に対する無理解は今も課題。
・水俣病をタブーとしない、隠さない。「胸を張って水俣」。
・実際は、水俣病の風化という個別水俣の問題よりも、水俣病が形を変えて広がっていることが社会的に深刻。水俣の経験とそこから学んだことを発信することが急務と言ってよい。

(三)数十年かかることである
・すぐに仲直りできるような浅いものではない。
・あるいは、世代が変わることが必要かもしれない。
・あせらない。気長にやる。
・そもそも本質的に仲直りなんてできないかもしれない。だとすると一歩も前進できなくなってしまうが、だからといって同じ場所に永遠に留まっていては未来は開けない。そういうわけで、未来に視線を向けてとにかく次の段階に進もうとする(一)に繋がる。

(四)「共生」ではなく「もやい」を
・近代化の過程で失われてきたものに目を向ける。
・近代的な概念ではないということを表現するために、近代的な概念を表す言葉の代表として「共生」という言葉を用いた。「共生」という言葉は外来語の翻訳調なので、こうした言い方はあまり適当な言い回しではなく、もっとうまい表現を見つけたい。

(五)住民参加でなく行政参加
・行政主導に住民が参加するのではなく、住民の自立・自律した活動を行政が支援する。

(六)人と人の間だけでなく命のつながりも繋げ直すという視点も
・人は自然の中で生かされている。

四の六 総合もやい直しセンターへの提言

 もやい直しセンターばかりがもやい直しを推進するものではないが、センター機能を期待することはそれほど間違いではないのだから、「なにから始める」かを考えることは意義がある。もちろんもやい直しは、水俣の住民すべてがそれぞれの現場で、それぞれの言葉と、それぞれの実践で創りあげていくことである。それらが協働の場で出会い、交わることによってさらに深みを増す。
・もやい直しの思想を構築する。
・もやい広場で存分に実現された住民参加の考え方を見つめ直す。
・もやい直し事業をその理念から構築し推進できる人材を配置する。
・近代化の過程で失われてきた「もやい」に視点を向けた調査事業を行い、もやい直しの土台とする。例えば、寄ろ会のような地域レベルのボランティアで行うことが望ましい。
・『私にとっての水俣病』匿名座談会や市役所幹部職員の誤った発言など、もやい直しに関わる事件・問題にも対応できる機関と位置づける。対立・困難をむしろ好機と捉えプラスに転化する試みを行う。
・もやい直しセンター三館の連携を強め、また、水俣市・芦北町以外の地域にも視線を向ける。
・市立資料館は外向けの展示なのだから、もやい直しセンターでは、市民向けという位置付けをもって、水俣病に関する展示を常設する。この展示制作は、もやい広場レベルの住民参加で行う。

四の七 その他の課題等

 最後に、いくつか気になる事柄を指摘しておきたい。
・もやい直しという言葉が適当か? 特に「直し」という部分に違和感を持つ人は多い。言葉にこだわらず実現すべき内実を前に転がすべきではないか。
・加害企業チッソが地域再生の中では経済としてしか位置づけられていない。
・環境創造みなまた推進事業が終わって、行政や市民にもやい直しへの終息感がある。
・水俣病事件で終わったのは一時金や手当という補償的部分だけであり、地域の日常生活の中で生きていく患者を社会的、精神的に支えていくことは始まったばかりだ。今一度、水俣病患者の存在に視点を向けることが必要で、そこに水俣の独自性が求められる。


 どうぞお読みなった感想、批判等をお寄せください。二〇〇一年度、集中的に地域調査を実施しようと考えているので、テーマに興味を持たれた方はご一報ください。ヒヤリングにいったり、テープ起こし等の作業を一緒にやりませんか?


付録 もやい直しに関係があると思われる言葉

●一九九二年 環境モデル都市づくり宣言「水俣市の歴史と風土は、私たち人間が自然とどう向き合い、共生していくべきかを問いかけています」「文明社会のあり方を問い直し」

●一九九三年水俣研究会を始めた思い 吉本哲郎「水俣は、まず敵か味方か、身内かそうでないかで色分けしてから話をする。だから、話し合いは全部賛成か、ともかく反対かで終わってしまい議論にならない。まず互いに相手を認め、違いを認めあうことからスタートしたい」(「わたしの地元学」)

●ごんずい一九九四年五月号 緒方正人「時代の産業文明とシステム国家によって、もたらされたあまりの受難、ずたずたにされた人間関係。更に魂の母体である海山への、無法の大罪によって、人間の魂のもやい綱が断ち切られる寸前まで転げた。それ故にこそ、転生のもやい直しをしなければならないと思うのである。その仲立ちとして、多数の野仏さまを苦海の埋め立て地にまつり『もやい』の労をとってもらい人間の罪深さを詫びて苦街を癒し、魂の連なる生縁世界、その生命系の命としての人間と出会いたい」「一皮むけた水俣を、もう一つのこの世をなんとか見てみたい。帰ろい! もよって還るばい!」

●一九九四年五月 慰霊式吉井市長式辞「ある者はもだえ苦しみ亡くなり、ある者は今も意のままにならない身体を抱え込み、しかもいわれなき中傷、偏見、差別を受け、心身ともに悲惨な状況におかれました」「水俣病の健康被害とともに、水俣にはもうひとつの悲劇が存在することになりました。それは加害者も被害者も同じ小さな町に同居し、暮らしていたからであります」「水俣の悲劇を乗り越える新たな地域文化を形成し、今までにない価値観に基づく地域づくりを」「水俣病で犠牲となったものの代償である水俣湾埋立地を、後世に誇りうる遺産とし」「傷ついた市民の心を癒し、荒れ果てた市民の連帯感を修復し、住む喜びと誇りの回復に取り組まねばなりません」「『きつかったですね、すみませんでした。しらなかったもんで』という声が交わされるようになってまいりました」「祈りと誓いを形にした石像をこの地に設置する動きも出てまいりました」「今日の日を市民皆んなが心を寄せ合う『もやい直し』の始まりの日といたします」「人間は自然の中の一員で、自然によって生かされているという考えに立ち、生と死の間を循環する動植物すべての命を尊敬し天地自然と調和していく共生の思想を真摯に受け止め」「二度と水俣の悲劇を繰り返さないよう広く内外に訴え続けてまいります」

●一九九五年 第三次総合計画「市民が水俣病問題をよく知り学ぶことで、水俣病問題に対するそれぞれの固定観念を乗り越え、お互いの立場を十分に理解し合う、もやい直しを進めることが必要です」「市民のもやい直しの推進 ・水俣病に対する差別意識や偏見の解消に努めます ・水俣病犠牲者慰霊式や火のまつりなどを通じ市民と患者のもやい直しを進めます」

●二〇〇〇年十二月もやいと出会いの夕べのご挨拶 杉本栄子「『うみと月と星の会』では、言葉を重ねるよりもこの地に根付く芸能文化、踊り、太鼓、歌声を響かせて『もやい創り』を目指してきました」


第11回 ごんずいインタビュー

小さい頃のこと・山暮らしの思いで

村上照美さんと初子さん
村上照美さん(左)と初子さん(右)
プロフィール

村上初子(むらかみはつこ)
1938年水俣市久木野一本木生まれ。8歳頃、母アサヲさんとともに津奈木町福浦に移り、漁師の家で育つ。結婚し1女1男をもうける。現在は福浦で娘の照美さんと2人暮らし。

村上照美(むらかみてるみ)
1958年芦北郡津奈木町福浦生まれ。初子さんの母・アサヲさんの時代から村上家は福浦地区の水俣病患者連合の世話人を続けている。

初子:無田(水俣市)のずっと奥のね、何ち言うかな、三回ばかり登ったけど、そこ(亀嶺峠)に登るとね、海が見えるの。久木野におっても、そこまで登らなくちゃ、見えない。あらあ、なんだろかなぁ。三角になってる、あら、なんだろうかなっち、私は思いよったよね。流れ、打瀬(船)。ちいちゃく見えよったたいね。白かとが。そこに行けばね、ワラビとかゼンマイとかいっぱいありよったたいね。
それからセンフリ。あんなんも生えよったんよ。ちっちゃか花がきれいかもんね。私が採って来よったら、ばあちゃん(母・アサヲさん)が結んで干して。お腹ん痛かちなれば、すぐセンフリやった。
福浦は昔はイワシがよう獲れよった。家の前に棚があったでしょ(竹を組んだ棚・船着き場)。あんなんがあちこちにありよった。シロゴば茹でる煙で真っ白しとったっよ。ばあちゃんに連れられて、イワシば久木野まで持っていって、農家ばまわって、麦やら粟やら野菜・大豆・小豆と交換してきよった。
こっちではね、食ぶっとはカライモとイワシばっかり。久木野ば朝の七時に出て、福浦に着くとは夜の七時よ。休みなし。背中にも腹側にも荷ばくくりつけて、両手にも提げて。痛いですよ。私はまだ八歳だったから、「痛か」って泣きよった。

祈らずにはいられない

初子:ほんなこつねえ、みんなから祝福されるようになって、今になってねえ、みんなから祝福されるごとなったけんね。ありがたいなって思っとる。それまでがね、ばあちゃんがね、長いこと水俣病だったけんね。
昔はテンカンて言いよったでしょ。パタッて倒れたりなんたりするからね。今の人たちは、そら、わからないけど、昔、照美さんが生まれた時は、ほんともう、みんなね、テンカンテンカンち言うて。そすとこんだ、ばあちゃんが良くなって、それがなくなって、元気なったらね、掌がこんなしとったのが(掌が上を向いた状態)、こんなになって(手の甲を下にした状態)。何だろうかと思ってびっくりしたよ。あー、これはやっぱ仏様がこんなさせてやらしたつじゃねえて言うて。仏さんの横に神様が居らしたでしょう。金光教ば、ばあちゃん必死になってさせてもらったもんね。ばあちゃんが病気の治るち。やっぱね、必死になればよか。神様がまたそれだけ知恵ば下さって、やっぱ、あの、体の元気ならせて下さったっやろっち思うとたいね、私は。

食うていくとが精一杯

初子:今日今日食うていくだけでもいいって。ほんっと、今日今日食うていくとが精一杯。何ていうか、仕事がないけんねえ、もう。仕事があればたい、何でもさせてもらいよっとたいね。たいがい仕事があるまでは行かしてもらわんば。
ちょっと前まで真珠貝の養殖の手伝い、ヒラメの養殖の手伝いばしよった。戦後はイワシのようけ捕れよったけんたい、イワシ漁に出て行きよった。今日はミカンちぎり(甘夏・ジュース用)に行って、ミカン籠ば二段にしとって、ちょっとこう、斜めになっとったっかな下が。それがずれて、腰に。三〇分ぐらい、息ばしきらんやった。
川部:あー、痛かもん。もう、よかっですか?
初子:そうやから、あんまさんがいつも来なさる。一週間に一回は必ず来てくれらすけんね。もう、お陰様やなち思うとるけれども、やっぱし、あんましただけではねえ。一時はいいけど。こんだニンニク灸ば焼く。ニンニクばこん厚さばっか切っとって、そん上にモグサば載せて、この子(照美さん)に焼かせる。そんなんしてね、お仕事に行きよる。
川部:痛かとば我慢してねえ、仕事に行かれる…
初子:我慢しながらでも、行かないとねえ。必死になって、痛かたこらえて、一生懸命になってさせてもらいよる。
で、(照美さんは)私に気の毒かったっでしょ、今日は(網漁の)魚外し加勢行っとっとたい。咳は出ながらね。魚ばもらってきたけん、あんなして干さないかないしね(玄関先に頭を落として塩をした太刀魚が干してあった)。(初子さんが)帰ってくるよか早かね。手ば洗って、うがいもせずにそのまま。魚からこしらえにしかかっとる。そげんせんとね、どげんもでけん。遅なって。
この子達が給料ばもらってきてね、一つも封ば開けて渡したことはなか。昔はね、学校出た年はね、一日も欠けたことはなかった、仕事が。欠ずにおって、毎日朝起きてご飯食べて、仕事行くでしょう。仕事に行って、帽子を被ったことがない。どげん真夏でも被ったことがない。帽子ば買うてきたらね、被ってここで結ぶとば、嫌いやろなあ。やぜ苦しか。んで、帽子はどこさんやったのち言うたら、知らんち言う。人から取らるっとたい。貸してて言えばそのままでしょう。そんなんしてずーっと育ててきてるけんね。やっぱし、苦労がわかってるけん、私に苦労させたくないって思うけどたい。
初子:お陰様でね、昔にすればね、立派になった。生活もね、毎日毎日食べさせてもらいよるちゅうだけでもありがたいち、思いよるとたい、私は。外国のね、どこそこば聞いてごらん、テレビで。聞いてかわいそかもん、もう。食べられんし、蠅がうおんうおんやって来て、骨と皮ばっかしして、そんなにしても生きっとらんばんとやっでねえって。そんな国でも何でもねえ、私たちはさせてもらいよっとよ。ずっともう、七、八年になるかねえ。
一円とか五円とか貯まったら、箱の中に入れさせてもらって、そしてこんだ立正校正会からね、本部の方に持っていって、やっぱ、本部の方からどげんかして送らすのじゃない? 子供の勉強道具でん何でん送ってやっとばい。消しゴム、鉛筆ね。もう、筆箱、入れる袋ね。袋、縫うてやったり…。そんなんしてずーっと送らしてもらっとる。何でもね、やっぱそれだけしとけば、向こうから何かの恩が返ってくるって話よ。私たちが水俣病が時ば思えば、あーっ、おんなしやなあって思う。昔の事ば思うですよ、私は。

痛みと暮らす

初子:体がねえ、何て言うかわからんけど、頭にねえ、昔のすり鉢ち言うか、あれば被せたような感じ。この頃はね、耳鳴りがどもこも。蝉がわんわんわんわん鳴きよるみたい。今でもおめいてる。頭痛くてもう、ほんと。雨の降る前と夏の時期がきつかねえ。
 私の病気に対してたいね、ヤマモモ、あれの焼酎を飲んだり、梅焼酎を飲んだり、シロナンテンの実ば焼酎に漬けとって、それば飲んだりして、そして体ば自分でね、そんなしてだまして眠ってる。
川部:お酒飲んで酔っぱらって寝らんと頭が痛かったり。
初子:頭が。そん、それ飲んだらポッとなるでしょう。眠うくなっとたい、私は。その時にパタッて寝る。そげんせんとだめ。手足言うても、こんなんして出てくる、骨が(手の指の骨が変形している)。曲がってる。ずーっと曲がってる。こうして片っぽは付くけど、片っぽは付かない(片方の手の指が変形しているので指と指がくっつかない)。これが出てくるごとなったったいね。こんなんして曲げればね、痛かっよ。今までまっすぐしとったっが。
病院には行ったけど、どうもないっち言うて。ほでも、こう、肩が凝って何かおかしか。(初子さんが)肩が凝ってこんなに頭が痛いんだなあと思うと、やっぱ病気に対してこの人(照美さん)は頭も痛いし肩も痛いじゃろうなって思う。ご飯食べるのにね、ご飯ば少しばかり入れてお茶かけして食べんと、ご飯も食べられんし。(痛みが)ひどか時はご飯も食べない、なんにも。

初子:この間はねえ、(八代郡)鏡町に行って来たよ。川辺川ダム反対の集会たい。患者連合の人たちも来とったよ。ダムの底に溜まった泥ば海に流すんだもん。ダムが放流すると海が赤濁りして。天草まで流れていくって。なんでん後祭りばさせらるるもんな。漁協の人たちがダムに賛成するっちいうことは、自分の首ば絞めるのと一緒。浜んこらに行くと、ドベドベしとっとよ。真っ黒。
昔はきれいな砂やった。アサリもワカメもテングサも少なくなった。やっぱ、洗剤ば使うようになってからよなあ、ドベドベするごとなったのは。

若き日の初子さん
若き日の初子さん



水俣病との関わり

照美:チッソの前にね、座り込みに行ったっよ。ばあちゃんの代わりにね。あん頃は水俣病っち、ようわからんかった。そん時に川本(輝夫)さんに会ってね「あんたは水俣病じゃろう。申請ばしてみんか」っち、言われたんよ。川本さんは「照美、照美」っち、呼んでくれらして。本当のお父さんみたいだった。
役員って、大変よ。年会費の集金、花見とか忘年会の声かけ。歩いて遠かところは(佐々木)清登さんに車で乗せていってもらいよる。運転できんけんね。声かけても「具合の悪かけん」っち、行事に来ん人もおらすけど、病人やけん無理は言われん。「おばちゃん、元気やったねえ。最近、どげん?」っち、声ばかけて話するのが励みかな。

これからのこと

照美:水俣病の患者ばかりじゃなくて、独り身の人とか、体の弱い人たちが老後を安心して暮らせるような養老院っち言うか、施設を作って欲しいって、私は思う。あなたがたい、私の身になって考えてごらん? 

(聞き取り・構成 川部岬)


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