機関誌 ごんずい 65号
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目次
特集 :
水俣病関西訴訟の提起したもの・・・・・・・・・・・2
関西訴訟控訴審判決を「読む」/高峰武・・・3
関西の患者とともに/山中由紀・・・・・・・・・8
水俣現地在住患者にとっての関西訴訟判決の意味/弘津敏男・・・・・・・・11
ハンセン病訴訟と水俣病関西訴訟を通底する国家を撃つ闘い/花田昌宣15
銭ば返せて言わっとじゃっで/濱本スソノ・18
チッソ水俣病関西訴訟控訴審判決に思う/古閑紀秋・・・・20
がんばれ環境省/遠藤邦夫・・・・・・・・・・・22
特集 水俣病関西訴訟の提起したもの
水俣病事件史で一つの区切りとなるできごとがあった。関西訴訟控訴審判決である。
水俣現地の未認定患者たちは、一九九五年政府解決策に基づき、一九九六年、チッソと和解し国家賠償請求訴訟も取り下げた。「苦渋の選択」と呼ばれる政治決着である。そして、硬直した紛争状態を脱し、新しい関係性「もやい直し」への一歩を選択した。
そうした歩みとは異なる道を選び、ただ一つ、国・県・チッソを相手に訴訟を継続していたのが関西訴訟であった。日本の戦後復興・高度経済成長の結果としてその陰で水俣病が発生したわけではなく、現代日本の社会は、水俣病を生み出すことをいわば原動力としながら経済発展を遂げてきた。水俣病事件が文明のあり方そのものまでをも問うていると言われるゆえんである。そうした政策を推し進めてきた国の責任について、高裁レベルで初めての判断が示されたわけだ。
国の責任―訴訟の場で実質的に課題となっていたのは行政の不作為責任つまりやるべきことをやらなかった責任である。しかし、事件史上の個々の事実を眺めると、むしろ、積極的・意図的に加害企業を擁護し、原因究明を圧殺し、防止対策を妨害する場面が見えてくるのではないか。法的にはそれらを問えないことがなんと歯がゆいことか。
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| 原告団長の川上敏行さん(左)と副団長の岩本章さん(右)、判決の日、高裁前にて |
患者が煮え湯を飲まされつづけてきた認定問題が、何をもって水俣病患者とするかという入り口の議論でしかなかったように、法律の枠組みの中での責任論もまた議論の入り口なのではないだろうか。水俣病の原因と言うとき、有機水銀という物質、チッソが廃液をたれ流したこと、人を人として扱わなかったこと、と様々なレベルでの表現があるように、責任に関しても、一言で片付けてしまうわけにはいかない様々な形があるのではないだろうか。認定問題および水俣病の原因についてのこれらの視点は原田正純氏が提示したものであるが、氏は、水俣病はこれから一〇〇年かけて研究され解明されていくほどの内容を含んだものだとも言われる。責任を考えることについても、問題の所在を明らかにし教訓化していくために、責任概念の多様性を自覚した上で個々にその位置付けを確認しながら分析していく作業が残されているのではないだろうか。
水俣の患者たちは、現代社会の仕組みである損害賠償請求という方法は取り下げたが、自らが患者であり国や県に責任があるということを社会的事実として明らかにしたいという思いも込めて「水俣病の教訓の発信」を行っている。一方、関西訴訟は、そうした思いを訴訟の場で貫いてきた。
こんなことを考えながら、関西訴訟の判決とそれをめぐる動きを見ていきたい。
関西訴訟控訴審判決を「読む」
高峰 武(熊本日日新聞記者)
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| 判決直後、裁判所隣の大阪弁護士会館で判決報告集会が開かれた。撮影/山中由紀 |
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| 判決の後、支援者らがチッソ大阪支社まで繁華街をデモ行進(写真は御堂筋)。大阪は、登記上の本店所在地で、一株運動の舞台となった場所 |
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| 訴訟団は5月7日に、東京のチッソ本社を訪れ、上告断念などを要請。チッソは社長は現れず、寺園成信専務らが対応した。撮影/山中由紀 |
水俣病関西訴訟の控訴審判決が四月二七日、大阪高裁で言い渡された。水俣病発生、拡大の行政責任を問う唯一の訴訟となっていたが、岡部崇明裁判長は国と熊本県の責任について、「国には水質二法、県には漁業調整規則に定められた権限を行使しなかった違法がある」と高裁としては初めて認定*、水俣病像も原告主張を採用して「感覚障害は大脳皮質の損傷」と末しょう神経説を否定、二点識別覚を重視した独自の判断基準を示した†。
以下、初の県外訴訟で、政府解決策を拒否した唯一のグループでもあった関西訴訟の事件史での位置付けとともに、判決を争点ごとにみていきたい。
初の県外訴訟
関西訴訟の提起は一九八二年一〇月。不知火海沿岸から県外に移住した人たちによる初めての県外訴訟であった。
当時、最大の課題は未認定問題で、患者勝訴となった一九七三年三月の水俣病一次訴訟の熊本地裁判決以降、クローズアップされてきた。
申請者の増加を深刻に受け止めたのは、環境庁と熊本県であり、背景にはチッソの経営問題があった。
環境庁は一九七七年、複数の症状の組み合わせを求める「五二年判断条件」を示す‡。これ以降、認定が減少、棄却者が増加する。翌一九七八年、国の審査会を設置、チッソ支援のチッソ県債発行も決まる。判断条件で認定に枠をはめ、国の審査会も加えて処分を急ぎ、補償はチッソ県債で、という三点セットの収拾策。「これで水俣病問題も終わりですよ」という声が県職員から漏れたのもこのころだ。
しかし、水俣病問題は「終わる」どころか、深刻化する。
裁判が相次ぎ、一九七九年三月には、水俣病二次訴訟で熊本地裁が原告一四人中、一二人を水俣病とする判決を言い渡す。翌八〇年五月には、国と県、チッソを相手に初めての国家賠償請求訴訟である三次訴訟が提起される。
そして、関西訴訟の提訴が八二年一〇月。この後、東京、京都、福岡と水俣病被害者・弁護団連絡会議(全国連)の提訴が続いていくが、全国連は大型原告団を展開、「ゲリラではなく組織された重戦車」(全国連関係者)として国に立ち向かおうという戦術であった。
関西訴訟の一審判決は九四年七月一一日。
九三年から始まった和解案作りの作業が自民、社会、さきがけの連立与党によって進められていたが、大阪地裁の中田昭孝裁判長は、国、県の責任は認めず、原告五九人中、四二人に一人当たり三〇〇万円から八〇〇万円の損害賠償をチッソに命じた。原告一二人は二〇年の除斥期間*を適用して棄却、残る五人は水俣病と認めなかった。
判決は蓋然性の程度(確率)に応じ賠償額を決め、原告は四〇%から一五%の確率として算定された。一方で、一般的には結審の日とされる遅延利息料†の起算日を提訴日にさかのぼって加算、賠償額を実質的に増額させた。
東京地裁判決(九二年)と大阪地裁判決は政治的に大きな波紋を広げた。当時、霞ヶ関は二つの判決を固唾を飲んで見守っていた。と言うのも、地裁とはいえ東京、大阪という日本の中心地の裁判所の判断が、和解の内容に大きな影響を及ぼすとみられていたからだ。両地裁の判決を機に、政治的には「国に責任なし」が和解案の前提になっていく。
水質二法と漁業調整規則
高裁判決は不思議な巡り合わせとなった。唯一、政府解決策を拒否したことから結果的に水俣病訴訟での殿戦となった。しかもその内容は水俣病の原点を再確認するものであった。
判決の行政責任での基本的な認識は以下の二点に要約できよう。
1―昭和三四年一一月当時、国と県は水俣病の原因物質がある種の有機水銀化合物で、排出源がチッソ水俣工場であることを高度の蓋然性をもって認識できた。
2―公式発見以来、死亡者を含む多数の患者が発生し、被害拡大の防止には一刻の猶予も許されない非常事態ともいうべき危機的状況だった。
では、行政は何をすべきだったのか。
判決は、国は水質保全法と工場排水規制法の水質二法を発動して排水を規制し、県は漁業調整規則三二条の除害設備設置命令などの排水規制権限を行使すべきだったのに、それぞれ怠った―とした。
国はメチル水銀の分析はできず、総水銀では過剰規制になると反論していたが、判決は「国の主張は、結局、この状況を放置することを是認せよということ」と強く批判する。
熊本の水俣病をめぐる国、県の責任は「責任あり」が熊本地裁の一陣と二陣の各判決と京都地裁の計三判決、「責任なし」が東京と大阪の二判決だった。
高裁判決は、危機的状況を前に行政は何ができるか、何をすべきか、と、いわば行政のあり方を問題意識の根底にすえている。「水俣病という前代未聞の重大な公衆衛生上の被害が発生」している時、仮に国の言う通り水質二法の目的が「産業協和」だったとしても、あるいは排水停止で一時的に操業停止に追い込まれることになったとしても、「不知火海沿岸住民の福利を図るためにはやむを得ない規制」だったというのである。
判断に独自の基準
高裁判決の実質的なみどころは、むしろ病像論の方かもしれない。
判決はまず、水俣病ではなくメチル水銀中毒症との言葉を使う。「『水俣病』という言葉がややもすると『認定された水俣病患者』の意味で使われているから」で、ここに上告回避を意識した高裁の判断を読みとる向きもある。事実、判決直後の環境省には一時「これでは上告できない」との声も上がったほどだ。
原告側は控訴審で一審の立場を変更して、感覚障害は大脳皮質の損傷(中枢説)と主張、熊本大医学部の浴野成生教授や岡山大医学部の津田敏秀講師らを証人に立てた‡。
もっとも、認定の参考とされる五二年判断条件をめぐる司法判断は既に決着済みと言ってよい。例えば八五年の水俣病二次訴訟の福岡高裁判決(確定)は言う。「五二年判断条件は、広範囲の水俣病患者を網羅的に認定するための要件としては、いささか厳格に失している」
大阪高裁判決も言う。「五二年判断条件は、患者群のうち補償金額を受領するに適する症状のボーダーラインを定めたものと考えるべきであろう」
判決は、感覚障害は主として大脳皮質が損傷されることにある(中枢説)とし、その根拠に@解剖結果も末しょう神経に目立った病変はなく、海外の研究者も大脳皮質障害で説明A末しょう神経の異常があれば腱反射は消滅か減弱するのに、正常か亢進が多い。情報伝達過程にも異常はない―を挙げている。
また大脳皮質損傷による感覚障害の特徴として複合感覚(識別感覚)障害を挙げ*、二点識別をめぐる暴露群と対照群との異常の差は「一目瞭然」という。このくだりは判決の“肉声”とも言え、浴野教授らが御所浦と対照群の宮崎・市振で感じたことの再現である。裁判官の心証を決定的にした証拠であろう。
判決が独自に示した判断要件は@舌先の二点識別覚の異常及び指先の二点識別覚の異常A家族内に認定患者がいて、四肢末しょう優位の感覚障害がある者B死亡などで二点識別覚の検査を受けていないときは、口周辺の感覚障害あるいは求心性視野狭窄があった者―の三つだ。
疫学についての評価は分かれる。
環境疫学の最新の研究を提示した原告だったが、判決は「(疫学は)あくまで一般的にその症状がメチル水銀に起因している可能性が高いというにとどまり」とそっけなく触れただけであった。しかし一方で、感覚障害があり、家族内に認定患者がいればメチル水銀中毒症としている点について、「原告はそれぞれ不知火海沿岸から移住した日が違う。だから疫学上の汚染の目安として認定患者を例示している」とみる医学者もいる。
控訴審で国は神経内科の権威たちを証人にたてたが、判決は手弁当で研究を続けた浴野教授や阪南中央病院のスタッフの研究の信用性に軍配を上げた。国側のある医者が「(判決は)弁護士の能力の差」と発言したのは、問題の核心部分を正確に把握しているかどうかという意味で象徴的なことかもしれない。
除斥と問題点
高裁判決は除斥について、主張を行っていないチッソに関しては適用しなかったが、国と県に対しては一審同様、原告らが水俣湾周辺地域から転居して四年を起算点とした。ただ、一審と異なり、認定申請を権利の行使と同視、損害賠償請求権は保存されたと判断した。
この結果、控訴審原告五八人のうち、被告すべてに対する請求が認められた原告は四五人、チッソは認められたが国、県への請求が棄却されたのが六人、請求が全部棄却されたのが七人となった。
控訴した中で、一審を除斥で棄却された原告は一一人いたが控訴審ではうち九人の賠償が認められた。賠償が認められたのが一審の四二人から五一人となるなど、幅広い救済とはなったが、一審の六〇〇万円の賠償が控訴審で棄却となった人がいたほか、減額された人もいた。これらの原告は、一審で仮執行により賠償金が支払われているので、その利息をつけての返還という切実な問題に直面することになった。
ただ判決にもっと説明がほしい部分もある。例えば国、県の賠償割合がなぜチッソの四分の一なのか。また賠償額も県外患者が受けた苦しみを考慮すれば果たして妥当かどうか、認容額には政府解決策の受給額が意識されているようだが、賠償額の論議が一審同様控訴審でも不足していると思う。
何のための上告か
国と県は五月一一日上告したが、責任論では「その当時、水質二法の規制権限を行使し得る前提条件が存しなかった」とし、病像論は、舌先の二点識別覚による判定について「これまでの水俣病研究に基づく定説と全く異なる考え」としている。
しかし、この上告にどれほどの説得力があるのか。責任論はこれまでの蒸し返しでしかない。また二点識別覚の検査も確かに医学界で統一したルールがあるわけではないが、だからと言って国にいかほどの研究の蓄積があるのか。原告の平均年齢七〇歳。提訴から十九年。この間二一人の原告が亡くなった。国と県は最高裁まで争って何を守りたいというのだろうか。
チッソは上告せず、一方原告は棄却者や一審より減額された八人が上告。原告五〇人のチッソからの損害賠償は確定した。被告の中で“晴れやかな表情”だったのは上告しなかったチッソである。「一刻も早く被告席を離れて企業イメージを刷新したい」(同社幹部)との思惑があったからだというが、しかし水俣病の原因企業であることの責任は上告断念で済む話ではない。
関西訴訟を国と県が上告した日、ハンセン病国賠訴訟で、国の隔離政策を違憲とする熊本地裁判決が出された。その後、まったく違った経過をたどることになる二つの判決に、この国の素顔の一端を見る。
判決の上告問題の協議のため、環境省が県選出の国会議員にアポイントをとった上で出向いたところ、当の議員は不在だった。これで環境省の担当者は「上告が政治問題になることはない」という感触を得たという。水俣病では一九六〇年前後、被害者を守る政治は不在で、反対にチッソを擁護し続けた。それから四〇年。水俣の「政治不在」は続いているどころか、より深刻になっている。
脚注:
* 原告患者側は、国の責任について、水質二法(水質保全法、工場排水規制法)によって工場排水を規制し、食品衛生法によって魚介類の漁獲・販売を禁止するべきだったのにそれを怠ったと主張した。判決は、水質二法は適用したが、食品衛生法の適用は認めなかった。
† 水俣病の特徴的症状である四肢末端型感覚障害の原因は、これまで末梢神経の損傷に求めるのが通説であったが、原告は、控訴審において水俣病裁判史上初めて大脳中枢の損傷が原因であるとする、国際的にはむしろ通説であった考え方を採用した。これは、水俣病という病気の最も根本的な理解に関することである。二点識別覚とは、皮膚上の二点を同時につつき間隔が何ミリあれば二点と感じるかという検査によって調べられ、大脳中枢が損傷を受けていることの指標となる。ごんずい五三号に参考記事がある。
‡ 昭和五二年に出された水俣病の認定基準。四六年の事務次官通知が「否定できない場合は認定」としていたのを、症状の組み合わせを求めるものに事実上変更、それまでより認定範囲が狭められ、認定制度は患者切り捨ての機能を果たすようになっていく。
* 不法行為より二〇年間で損害賠償の請求権が消滅すること。一審ではこれを主張しないチッソについても除斥期間を適用した。これの当否及び起算点が争点となっていた。
† 債務弁済の遅滞による損害に対する賠償の意味を持つ利息のこと。ここでは、算定された額に年五%加算される。
‡ 浴野氏は、不知火海御所浦島の科学的に厳密な疫学調査(非汚染地域との集団としての比較を行い、統計的に病気の原因をつきとめること)を、宮崎県北浦町市振を対照地域として行い、感覚障害のみでメチル水銀中毒と言えることを示すとともに、感覚障害の原因は大脳中枢の損傷にあるとする、原告にとっても新しい科学的方法論に基づいた水俣病の理解について証言した。
一方、津田氏は、これまでの調査データを本格的な疫学の手法で解析し直し、感覚障害があれば九九%以上の割合でメチル水銀中毒であると言えることを証言した。
* 複合感覚には、二点識別覚のほかに、握ったものの形を認識する立体覚、手のひらに書いた文字を識別する書字識別覚などがある。大脳という情報処理装置が損傷されたときの特徴的な症状として、これら複合感覚の障害が現れる。
なお、脚注はすべて編集部によるものです。
| たかみねたけし/一九五二年、熊本県天水町に生まれる。七六年、熊本日日新聞社に入社、社会部で主に水俣病を担当。東京支社での水俣病政治決着の取材などを経て、九九年より社会部長兼論説委員。著作に、『ルポ精神医療』(日本評論社)などの共著、「政治決着に至るまでのプロセス」(水俣病研究会編『水俣病研究1』)などの論文がある。 |
関西の患者とともに
山中由紀(大阪市立大学自主講座)
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| 控訴審判決への入廷を待つ訴訟団。先頭は左より、三浦洋・阪南中央病院医師、川上敏行・原告団長、岩本章・原告団副団長、前原告団長岩本夏義さんの遺影を持つ小笹恵さん、松本健男・弁護団長 |
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| 判決前夜集会で参加者に紹介される原告患者ら。4月26日、府立女性総合センターにて |
一九八二年に提訴したチッソ水俣病関西訴訟は、いつのまにか、唯一の国家賠償請求訴訟となった。原告たちは「全国の未認定患者の代表のつもり」で控訴審を継続し、「国と県の謝罪」「水俣病患者としての認定」を求め続けていた。
二〇〇一年四月二六日(木)の夕方、大阪天満橋の府立女性総合センター(愛称はドーンセンター)にて、チッソ水俣病関西訴訟控訴審の判決前夜集会が開かれた。二〇人ばかりの原告を、一〇〇人程度の老若男女が拍手でその労をたたえた。原告たちは、判決を前にした連日の取材攻勢のため、疲れの色は濃かった。不安と期待のないまぜになった軽い高揚状態にあるように見えた。しかし、最も疲れていたのは支える会かもしれない。提訴当時は確かに若かったがちょうど定年を迎えた人もおり、体力の低下は隠せない。
かくも壁は厚く高いものか
関西訴訟は「行政責任の立証に最も力を入れた」と自他ともに自負していたため、一審判決の前日集会の時は、勝訴を疑わず、和気あいあいとしていた。獅子島の湯の口出身で、一審の原告団長だった岩本夏義さんも、小学校の校歌を唄ってくれた。その場には一〇人程度しか居合わせなかったとはいえ、彼が唄うなど、珍しいことだったが、翌日は思わぬ敗訴に「かくも、壁は厚く、高いものか」と声をのみ、真っ直ぐ前を見て唇を噛んでいた。チッソの控訴を聞いた時は「売られた喧嘩は買うで」と意気軒こうだったものの、判決の四カ月後に帰らぬ人となった。
臨終の数時間前に、付き添いの長女に「今から辞世の句を詠む。ペンを出せ」と言い、「秋風とともに去りぬ 我が命 川上 すまん 川上 頼む」と言い残した。この時、後を託された川上さんは、『苦海浄土』に登場する「ゆき女」の義理の息子である。一審では副団長で、控訴審では原告団長を務めた。
付き添っていた長女の恵さんは、夏義さんが亡くなる半年前から夏義さんの家に転居していたが、亡き後は「両親の親孝行に」と原告団に出入りするようになる。夫君の理解と協力も得られ、現在は原告団の会計を担当している。また、夏義さんの弟の章さんは、控訴審で、原告団副団長を務めている。
私達がやってきたことは、価値がありますよね
私は、大阪市大に入学した九〇年の春に、チッソの鉛工だった下田幸雄さんの話を聞く会に参加したことで、関西訴訟のことを知った。下田さんは、原告団の母体である患者の会の会長だった。小太りの下田さんが初対面の私を「ゆきちゃん、ゆきちゃん」と呼ぶもので、仲良くなってしまった。翌九一年は公式発見三五周年だから「大きなイベントをやりたい」と下田さんが言い出して、「水俣91
in 大阪」が実現した。原田先生の講演や素人劇(半年前から稽古した)までやって、六〇〇人を超える人々が集まった。最後のハイヤ節は全員で乱舞したが、その中には下田さんの姿もあった。
その後、下田さんは阪南中央病院に入院した。最初のうちは、市大の木野先生とお見舞いに行っても留守がちで、行動範囲の広い人だったが、最後はベッドから動けなくなった。小さくなった下田さんは、東郷平八郎のような髭面で、「私達がやってきたことは、川本輝夫さんの本のように、まとめる価値がありますよね」というようなことを言って、その一週間後に亡くなった。九二年一一月のことだった。
とんでもない遺言を聞いてしまった木野先生と私は、原告の聞書をまとめる決意をして、岩本夏義さんと川上さんの家に通うようになった。私は大学院に進むことで、時間を調達することに成功し、現在に至っている。この『水俣まんだら〜聞書・不知火海を離れた水俣病患者』の刊行は九六年一〇月。夏義さんは亡くなってしまっていたが、控訴審に書証として提出された。裁判の役に立つとは、思わぬ副産物だったが、一番喜んでくれたのは、天国の下田さんだっただろう。
こんなん勝訴やない。負けや
二〇〇一年四月二七日(金)午前一〇時、大阪高裁の岡部崇明裁判長は、マスコミが「原告の逆転勝訴」「全面勝訴」と書くような判決を出した。国と熊本県の責任を認めたものであるから、原告は、最初は喜んだ。原告団長の川上さんは「当たり前の判決が出たということです」と述べ、即興の相撲甚句で「風雪一九年 関西訴訟に勝利がやってきた」と唱った。が、個々の原告で見れば明暗が分かれていることに気づくにつれ、気が付いた原告から順番に、顔を曇らせていった。同じ原告のコメントなのに、新聞によってニュアンスが変化しているのは、原告の気持ちが喜びから戸惑いに、そして怒りへと変わっていったためである。
判決では、浴野証言を全面採用する一方で、津田証言が退けられたため、一審で賠償を認められた原告のうち、控訴審で全額または一部の返還を命じられている原告がいた。命じられた原告本人以外の原告が受けた衝撃も、私の想像以上に深かった。「こんなん、勝訴やない。負けや!」と訴える原告の叫びを受けとめろというのは、勝訴に沸く弁護団には酷というもので、憤まんやるかたない一部の原告は、判決検討会の後、ヤケ酒を飲みに行っている。
国と熊本県の責任を認めた判決を確定させるため、原告団としては上告しないことになったが、賠償金の返還問題を抱える原告としては、断腸の思いだったようだ。「返さなくてもよいようにチッソに交渉する」といっても、カネミ油症の例がある。水俣病だけ上手くいくものかどうか。上告断念を求める東京交渉へは、私も下田さんの遺族気分でついて行ったが、応対したチッソの専務は「もし確定したら、判決に従います。それ以上でもそれ以下でもない」と言っていた。次は大阪で交渉するそうだが、「判決に従う」と言ってる相手を説得するのは大仕事であろう。
結局、チッソは上告をしなかったが、国と熊本県が上告したため、舞台は最高裁に移った。おかげで、多額の返還を求められた原告八人は、チッソを相手に上告することができ、返還を先延ばしすることに成功した。また、チッソに勝訴した原告たちの賠償金は確定し、一段落になった。
「ゼニカネの問題やない。国と県が謝ってくれたらいいんや」というのが夏義さんの口癖だったが、今頃は天国で「ゼニカネの問題やない。しかし、返せとは何事や」と言っているような気がする。国と熊本県の責任が認められ、「一矢報いた」ものの、今度は賠償金の返還問題が生じた。最高額の人は一千万円ちょいである。気が遠くなりそうな額だが、そこはなんとか、原告仲間に支えられている。東京行動の時でも、仲間内では「返せと言われても困っちゃう〜」とか「借金大王」などと明るく連呼していて、実は爆笑の嵐だった。私も一緒になって二日間笑い転げていて、おなかが痛くなったが、その逞しさには脱帽である。
法務省のロビーで休憩中の川上さんに、この明るい逞しさを伝えると、「そうかぁ、女の人たちがなぁ」と言って、とても良い笑顔になった。まるで自分の責任であるかのように悲運の原告のことを案じているのは、原告団長の川上さんなのである。私は、川上さんに寄り添っていくつもりである。
| やまなかゆき/一九六九年、大阪府に生まれる。現在、大阪市立大学大学院経済学研究科後期博士課程に在学中。ホームページ「環境系の番組情報」(http://homepage2.nifty.com/yukidon/)を立ち上げネット起業を目指し、「私を支えてくれれば間接的に川上さんを支えることができます」というお茶目なコピーで購読者を募集中。本文中にもあるが、著書に『水俣まんだら』(るな書房、共著)がある。 |
ハンセン病訴訟と水俣病関西訴訟を通底する国家を撃つ闘い
花田昌宣(熊本学園大学社会福祉学部教授)
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| 5月7日、チッソ本社前でシュプレヒコール。東京駅前のかつて座り込みテントが設置された場所である。撮影/山中由紀 |
四月二七日、大阪高裁での水俣病関西訴訟判決、五月一一日、熊本地裁でのハンセン病国賠訴訟判決ともに国の責任を認めた「勝訴」判決であった。しかし、判決後の国の対応については明暗を分けた。関西訴訟については国は上告、ハンセン病訴訟については国は控訴せず。
なぜ、ハンセン病では国が判決を受け入れ水俣病では上告したかという点については、政治的コンテクストの問題であり、あえていえば、水俣病の側に関して国を追いつめるだけの陣形を作りだしえていなかったという運動論的でかつ表面的な中間総括ができるにすぎない。より本質的には、関西訴訟が、九六年の「政治的和解」を拒否して、国家との真っ向からの非和解的な裁判闘争を組んでいる以上、原告患者側の譲歩がないかぎり、上告断念はそもそもありえなかったのであろうと思われる。
それに対して、ハンセン病訴訟に関しては、弁護団が「司法だけでなく、国会ひいては世論にも訴えかけながら、全面解決を図っていく」との姿勢を取っており、関西訴訟とはおよそ状況が異なる。判決で、国の責任が認められてしまった以上、「控訴後の和解」が国の選択として政府には受け入れられやすいところであったはずなのだが、「控訴せず」は小泉政権のパフォーマンスが優越した政治的判断であった。
ハンセン病闘争の苦渋と課題
ところで、両訴訟の類似点として、ごんずい編集部は次の三点を指摘してくれた。
1―双方とも、原告の高齢化というタイムリミットが迫っている。
2―判決は、双方とも画期的。
3―ハンセン病、関西訴訟ともに、訴訟を起こして続けていくということには、「そっとしておいて欲しい」という大多数の患者の思いと、「そんなに金が欲しいか」という陰口に苦しみながらも「国の責任を明らかにし自らの尊厳を回復したい」と訴訟に立ち上がった原告の思いとの相克がある。
第一点目については、それはその通り。第二点目については、逆に、当たり前のことが当たり前として認められたにすぎないという面と判決の不十分さとにおいて共通しているとも言える。関西訴訟の判決の不十分性については別稿に譲るが、ハンセン病訴訟においては、何よりも求められていた一九五三年のらい予防法制定そのものの違法性について認められておらず、らい予防法に関わった当時の責任者たち―光田健輔や宮崎松記ら学会ボスや療養所園長達などの「救癩の旗を掲げて」患者隔離によるハンセン病絶滅を謳った者ども―が見事に免罪されている点は指摘しておかなければなるまい。
第三点目に関してはいささか事情は複雑で、そう簡単な比較は許さない。全患協(全国ハンセン病患者協議会)の予防法闘争は、一九五三年の決死の実力闘争(むしろ旗行進、国会前座り込み、ハンスト、園内での作業ストライキなど)にもかかわらず、法成立。敗北はしたものの、全患協は自信をつけ、その後も予防法改正運動を続けていく。とはいうものの、国に対する闘いは、つねに生活保障や損失補償を求める経済闘争(彼らが少しずつ獲得してきた既得権益がらい予防法の改正ないしは廃止によって失われていくことへの恐れ)と人間回復のための人権闘争(人間的復権のための法改正ないし廃止)との間を揺れ動く。そして、既得権益(生活保障・医療保障など)を優先せざるを得なかった。さらに、九〇年代においても、らい予防法改正そのものに反対する療養所自治会が複数あったことは忘れられてはならない。
なぜならば、強制隔離の悪法の下であっても、療養所の中での生活と医療を保障する根拠となったのはこの法であったからだ。医療保険をはじめとする社会保障法制の外側に置かれた入所者や患者にとって、らい予防法の廃止は、裸のまま偏見と差別に満ちた社会にほうりだされるという危惧を抱かせるものであった。
それに対して、訴訟の構図は実に分かりやすい。裁判であるためか、ハンセン病患者運動の上記のような葛藤や苦悩はすべて消え去ってしまい、らい予防法による強制隔離の被害と国家加害をストレートに訴えればよいのである。全患協は、訴訟に対してはじめ、反対ともみえるほどの消極的な態度をとる。訴訟に反対の姿勢を打ち出した自治会も少なくはなかった。私は、療養所内で高齢化していき、ある程度満たされた経済・医療・生活条件を甘受し、園の外の偏見と差別に対する恐れから蔓延していた「寝た子を起こすな」的感情を持つ人びとを嗤うことはできない。また、裁判支援の中で言われたような「裁判には加われなかったけれども、加わりたい入所者も思いは同じ」などというきれい事を言って済ませるわけにもいかないと思っている。
国家の責任を問うということ
ところで、ハンセン病国賠訴訟の課題は、何よりも第一に五三年らい予防法の違法性を明らかにすることであり、この法制定の責任を明確にすることであった。第二は療養所内外での生活基盤の確立、第三に差別と偏見の解消を通した真の社会復帰の実現、さらに公衆予防法制の抜本的改正に結びつけるという課題もはらまれていた。
第二、第三の課題に関しては、九六年のらい予防法廃止とともにすでに国が進めてきているところであった。もちろん不十分であるし、社会復帰支援策として設けられていた二五〇万円の給付金がいかにおためごかしのものであったかは、それを利用して最近退所した島比呂志さんが実体験をもって暴露している。さらに九六年三月、らい予防法廃止のおりに当時の厚生大臣であった菅直人が「国の責任」という点に関する明示的な言及はなかったものの全患者に対して国としての謝罪をしている。いずれも不十分であったとのそしりは免れない。ただ、このような経過を踏まえれば、この裁判の最大の争点は、らい予防法を制定した国家の責任を認めさせていくことをおいてほかなかったのである。一九六〇年以降のらい予防法廃止を行わなかった国の不作為を違法とするのは実はそれこそおためごかしにすぎないのである。そもそも、一九二三年国際らい学会は、強制隔離を廃止し、在宅療養を促進する旨の決議をあげているのである。それを無視し、社会衛生的治安維持のためのハンセン病患者を強制隔離してきた光田健輔ら医者達や国家の責任は免れようもないのである。
もし、国家の責任を認めていくとすれば、入所者・退所者を含め患者や元患者達への生活・医療保障は当然のことながら、人権回復の手段がとられていかなければならない。その第一歩は、歴史の中に埋もれつつある過去を改めて明らかにしていくことであろう。私のいる熊本においても、戦前の本妙寺らい患者掃討作戦と称する警察や方面委員を動員しての患者の強制収容、一九五〇年代の黒髪小学校における患者子弟の登校拒否事件、菊池楓風園入所者の藤本松夫氏のえん罪事件など明らかにすべきことは少なくない。それらの一つ一つがハンセン病患者に対する差別に基づくものであれば、その事実関係と不当性を明らかにしていく必要があろう。ハンセン病患者・元患者達の復権とはこのような歴史の負の部分を明らかにすることをおいてほかはないのではないだろうか。
何故このようなことを書くのか。国家の責任を認めさせていくということは、実は国家犯罪を暴露し明確化していくことにほかならない。と同時に水俣病においてもハンセン病においても当の人びとが受けてきた差別と闘うということなのである。国家という怪物と闘うということは、政府による謝罪と反省を突き抜けて、国家と権力の持つ差別構造を打ち抜くということなのであろう。水俣病関西訴訟においては国は上告した。苦難の闘いはまだ続く。被害者として認めさせていくところから国を撃つという過酷な闘いである。ハンセン病の判決は確定した。これから補償と復権を目指す交渉が続いていくであろう。いずれにおいても、そこに人権回復と差別撤廃の重い課題が当事者達にのしかかっているのである。
| はなだまさのり/一九五二年、大阪府に生まれる。七九年、名古屋大学経済学部卒業。大学在学中から、名古屋・水俣病を告発する会の活動を中心的に担う。九四年より、現職。労働経済学・社会政策を専門とし、著書に『戦後日本資本主義』(藤原書店、共著)などがある。 |
水俣現地在住患者にとっての関西訴訟判決の意味
弘津敏男(水俣病患者連合*事務局)
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| 水俣より上阪し、判決前夜集会で関西訴訟原告を励ます佐々木清登・水俣病患者連合会長 |
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| 高裁正門で、「チッソ水俣病関西訴訟原告団」と書いたたすきをめぐり、裁判所職員と押し問答となる。撮影/山中由紀 |
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| 判決前夜集会でトゥーヌ・マーヌ楽団の唱と演奏。唱あり踊りありの関西独特ののりがそこにはある。撮影/山中由紀 |
今回の関西訴訟控訴審判決は現地の患者にとってどのような意味があるだろうか。
「大きな影響はない」というのが正直な感想だ。なぜ、そのような感覚になるのか、自分なりに分析してみたい。
一、国・県の責任が一部認められた
行政責任は認められるべきである。客観的に事実を見れば行政の不作為責任は明らかなのだから認められて当然である。責任を認めることによって先に進めることも多い。ハンセン病の例を見ても明らかであり、そうあるべきだ。
法的責任が確定すれば、チッソ県債やチッソ支援という迂回路を通さずに患者補償ができる道が開け、認定患者にとってはチッソの倒産を心配しないで済むようになるかもしれない。しかし、昨年二月にチッソ支援策が決定し、当面チッソ倒産が回避された現状が一方ではあり、絶対要件ではない。
医療手帳対象者†への医療費や療養手当は国と県から支出されている。実質的に国と県はすでに責任を認めているとも言えるが、国や県の法的責任が確定すれば、療養手当の増額やその他の要求(毎年環境省と熊本県に要求している)がしやすくはなるだろう。しかし、法的責任が確定したからといって、医療事業の拡充の要求がすんなりと認められるとは思えず、可能性があるとしか言えない。
二、感覚障害だけの水俣病が認められた
判決内容の詳細検討は別として、単純に考えると「医療手帳を持っている人は水俣病患者である」ということになる。論理的には「これで胸を張って水俣病患者だと言える」ということになるが、ことはそんなに簡単ではない。今も水俣病に対する偏見差別が大きく、医療事業の対象者だけではなく、認定患者も含めてほとんどの患者が水俣病を隠しているというのが現状だ。水俣病と認められたからといって、この状態がすぐに大きく変化するとは思えない。
九五年の解決策においても「過去に通常のレベルを超えるメチル水銀の曝露を受けた可能性があり、四肢末梢優位の感覚障害を有すると認められる者」を救済対象者とし、「水俣病の診断が蓋然性の程度の判断であり、公健法の認定申請の棄却は、メチル水銀の影響が全くないと判断したことを意味するものではないことなどに鑑みれば、救済を求めるに至ることには無理からぬ理由がある」(傍点筆者)と明記してあり、当時の大島環境庁長官は対象者の名誉を守るために「ニセ患者と言われるいわれはない」と明言しており、「今さら」というのが正直な気持だ。
判決は、「水俣病という言葉がややもすると認定患者の意味で使われるのでメチル水銀中毒との文言を用いる」「五二年判断条件は補償金額に適するボーダーラインを定めたもの」と言い、解決策を大きく踏み越えているわけではないのだ。
なお、判決が解決策との整合性を配慮したこの部分は、現行の認定制度に波及しないようにする予防線でもあり、認定申請者に有利な判決とは言えず、判決が確定しても認定申請者が急増することは考えられない。
周囲の人々の偏見がなくなり、患者が水俣病を隠さないでもよくなるためには「水俣病患者として認められる」だけでは不足であり、多くの人に被害の事実を知らせること、被害者が本音を語り合える状況をつくることなどを恒常的に続けていくしかない。
三、賠償金額について
今回の判決の認容額は、対チッソ分で四五〇〜八五〇万で、実際には利息が加算され平均で一〇〇〇万を超える。これを九五年解決策の二六〇万と比較すれば格段に差があるように見えるが、九五年のときも全国連や患者連合の場合は団体加算金があり一時金は実質一人当たり四五〇万であり、毎月の医療費や療養手当を加えると七〇〇万あるいは八〇〇万を越えると試算されている。関西訴訟の原告が九五年以降だけでも五年以上も訴訟を続けていることを考えると、飛び抜けた金額とは言えない。それもあって、チッソは上告しなかったのだろう(当然環境省などにも相談して、了解を取っているはず)。
国と県は判決を不服として上告したが、その理由に「政治決着を受け入れた人と関西訴訟の原告との間で不均衡が生じ、かえって問題を生む」(川口環境大臣/五月二五日毎日新聞)ことをあげているが、認容額から見ても、それが本当の理由ではないことはわかるだろう。当の「政治決着を受け入れた人」が「不均衡はない」と言っているのだ(要望書参照)。不作為責任についての他の事案への波及を恐れ、下級審判決を受け入れる前例を作りたくないというところが本音ではないか。
◆ ◆
水俣病と認められることは医学的には意味があるし、行政責任の確定は今後に教訓を活かすということにつながるかもしれないが、患者たちにとってはそんなことよりも、自らの病気といかにうまくつきあうかが最大の課題である。医療費を気にせず医者にかかれることは最低条件で、「手帳を切られたら生きてはいけない」と訴える患者も多い。
その次に重要なことは、水俣病のことをだれにでも相談できることだろう。水俣病に対する偏見差別がなくなれば患者はどれだけ救われることだろうか。このことは関西訴訟の原告にとっても同じだろう。
裁判にせよ、自主交渉にせよ、誤解をいとわず言えば運動はそれ自体楽しいものでもあるが、精神的にも肉体的、経済的にも大きな負担となることも事実だ。関西訴訟の原告の中に顔見知りの人も多く、早く裁判が終わり、原告患者が一日も早く水俣病の呪縛から解き放たれる日が来ることを望まずにはおられない。
| ひろつとしお/一九五一年、大阪府に生まれる。八五年、相思社の生活学校に参加し、八七年より相思社職員。 |
脚注:
* チッソや行政に対し自主交渉を主な手段として補償を求めていた未認定患者団体。一九九五年政府解決策を受け入れた。
† 水俣病総合対策医療事業における医療手帳の交付対象者。九五年政府解決策により、チッソからの一時金および国・県からの医療費と療養手当を支給されている。
資料1
内閣総理大臣 小泉純一郎 様
四月二七日、大阪高等裁判所において判決が下された水俣病関西訴訟について、次のことを要望いたします。
私たちは平成七年の水俣病政府解決策にもとづき、チッソ(株)と協定を締結いたしました患者団体です。新聞テレビ等でも「苦渋の選択」と報道されましたように、私たちにとってこの解決策は決して満足のいくものではありませんでした。二〇年以上もの長きにわたる闘いの中で、多くの仲間が命尽き、また床に伏すという状況でした。「命のあるうちには解決はつかないかもしれない」というぎりぎりの状況の中で他に選択の余地がなかったからです。また、「もやい直し」事業をはじめ、地域で患者を受け入れようとする機運が生まれていたからでもありました。
関西訴訟の原告は、高度経済成長の最中、様々な理由で故郷の不知火海を追われ、遠く関西の地で病に冒された身と差別偏見の中で心身共に耐え難い労苦を背負い、致し方なく訴訟に及んだ方たちです。提訴から一九年、すでに原告五八名の内二〇名までが闘い半ばにして命を失っています。今、もし、上告ということになれば、何ら罪科のない原告患者・家族・遺族はさらに苦痛を強いられることになります。このようなことは人道上も許されるべきではないと思います。
今、水俣では、水俣病の教訓を生かすべく様々な事業が行われています。そういった中で、徐々に水俣病の実体が明らかにされ、少しずつではありますが、私たち水俣病患者に対する偏見差別も減少しつつあります。こういった動きの中でもしも上告となれば、今までの努力が水泡に帰すおそれもあります。
水俣湾の汚染魚介類が水俣病を引きおこし、チッソの排水がその原因であるという事実を把握しつつも、担当者の英断がなかったばかりに、解決を長引かせ被害を拡大させたことは水俣病の歴史の中でも明らかです。戦後経済復興、高度経済成長は一方で地方を崩壊させ、弱者に苦痛を強いました。水俣病事件はその最たるものといえるでしょう。水俣病事件は二〇世紀後半の日本における最大の負の遺産とも言えるものだと思います。
二一世紀を迎え、日本の新たなる旅立ちを願う国民の意思が小泉内閣を創出し、支えているのだと思います。二一世紀の日本が世界に誇れる国家となることはすべての国民の願いであろうと思います。新しい日本を創るためにも水俣病事件の教訓を生かしていただき、今こそ、小泉総理大臣、内閣のみなさまのご英断を強く望むものです。
要 望
一、国・熊本県・チッソは水俣病関西訴訟控訴審判決の趣旨、原告患者らの実状、二一世紀の環境行政のあり方、被害地域における「もやい直し」事業の推進などに配慮し、上告権を放棄し高等裁判所判決に従うこと。
平成一三年五月二日
水俣病患者連合 会長 佐々木清登 |
資料2
内閣総理大臣 小泉純一郎 様
五月一一日、国と熊本県は水俣病関西訴訟控訴審判決を不服として上告しました。
私たちはこのようになることを憂慮し、五月二日付け書面にて「上告権を放棄し、判決に従うこと」を要望いたしました。結果的に私たちの要望は受け入れられませんでした。私たちは「変革を目指す小泉内閣」「タブーをおそれない小泉内閣」だからこそ、「上告しないのではないか」と期待していました。しかし、私たちの期待は失望に変わりました。
一方、その直後の五月二三日、小泉総理はハンセン病国家賠償請求訴訟について、原告の高齢化などに配慮し、福岡高裁への控訴を断念されました。国民の多くがその英断をたたえました。
この落差はいったい何なのでしょうか。長期に渡って原告が苦しみ続けてきたこと、原告が高齢化し一日も早い救済が必要なこと、国の不作為責任を裁判所が認めたことなど状況は酷似しているにもかかわらず、国がまったく異なる対応をしたことは理解できません。
五月二五日付毎日新聞によると、川口環境大臣は「局面が全く違う。(水俣病関西訴訟の上告は)正しい判断だった」「今回のハンセン病と同じ局面は、水俣の場合では九五年の政治決着にあたる。関西訴訟はこれに参加しなかった人々が起こしているが、上告しなければ、政治決着を受け入れた人と関西訴訟の原告との間で不均衡が生じ、かえって問題を生む」と説明したそうです。また「環境省によると、水俣病関西訴訟の上告については小泉純一郎首相の了承を得ているという」とも記事には書かれています。
私たちは川口環境大臣の言う「政治決着を受け入れた人」ですが、「関西訴訟の原告との間で不均衡が生じ、かえって問題を生む」とは考えていません。九五年の政府解決策には「国及び県は、上記の紛争の終結に際し、総合対策医療事業の継続及び申請受付再開、チッソ支援、地域再生・振興のための施策を行う。また、救済を求める者及び企業は、損なわれた地域社会の絆を修復していく「もやい直し」の取組に参加・協力するなど、地域住民とともに地域の再生・振興に積極的に取り組む」と記されています。
また、同年一二月一五日の総理大臣談話においても「政府は、今般の解決に当たり、総合対策医療事業、チッソ支援、地域の再生・振興などについて、地元自治体と協力しながら施策を推進してまいりますとともに、水俣病の悲劇を教訓として謙虚に学び、我が国の環境政策を一層進展させ、さらに、世界の国々に対し、我が国の経験や技術を活かして積極的な協力を行うなど国際的な貢献をしてまいる所存であります」と記されています。
あれから五年余が過ぎました。私たちはもやい直しや地域の再生・振興にできる限りの取り組みをしてきました。また、水俣病の教訓を国内外に伝える事業にも取り組み、あるいは協力してきました。今、地域では行政、患者、市民が協働してもやい直しや水俣病の教訓化、教訓を活かす事業に取り組み、その成果が上がりつつあります。しかし、まだまだ水俣病患者に対する偏見差別は解消されたとは言い難い状況です。
こういった中で上告することによって訴訟が継続し、解決を長引かせることはこの五年余の取り組みに逆行し、残された課題の解決を更に遅らせることになります。チッソは「(平成七年の政府解決策で)会社が選んだ早期解決と同じ考え方に立ち、上告しない」(五月一一日付熊本日日新聞)という判断をしました。国や熊本県も九五年当時の状況を思い返し、今回の判断について再考すべきだと思います。
よって、小泉総理大臣、内閣のみなさまのご英断を強く望み、次の要望をいたします。
要 望
一、国・熊本県は水俣病関西訴訟控訴審判決の趣旨、原告患者らの実状、二一世紀の環境行政のあり方、被害地域における「もやい直し」事業の推進などに配慮し、上告を取り下げること。
平成一三年六月一日
水俣病患者連合 会長 佐々木清登 |
銭ば返せて言わっとじゃっで
―帰郷した原告の話―
濱本スソノ
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濱本スソノ(はまもとすその)/一九三〇年、御所浦島の隣島、牧島に生まれる。
濱本喜造(はまもときぞう)/一九二八年、御所浦島の中心集落、本郷古屋敷に生まれる。
一九五〇年に結婚。半農半漁の暮らしのなかで六人の子供を育てる。一九八四年、長男夫婦に呼ばれ大阪に移住し、関西訴訟に加わるが、一九八九年帰郷。現在まで本郷古屋敷に二人で暮らす。1審では夫婦ともに賠償を認められたが、控訴審判決で喜造さんは棄却されてしまう。 |
−昨日もあんまり寝とられんとでしょう。
ようべはちょっと寝た。その前ん晩が(痴呆症の喜造さんが度々起きるので)いっちょん寝とらんと。デイ(サービス)に毎日やっとやっかいな。デイに行かればやっぱりな、疲れて寝らっと。二時間ぐらいでしか寝せよられんじゃったもんな。ほで、頭が痛うなったり…。
(喜造さんが)こん三年くらいで急に体が悪なって。前はそばん海でアジゴ釣りしよらいたばってんか。話しかけたっちゃ、まともな答えが返って来ん。わからんとたい。
おやじの具合が悪なって、自分で釣りばして晩のおかずにする。去年まじゃ、じっとしとらいたっが。夕方、釣りよったら海のそばまで出てきてな。危のうして、おやじ一人家に残して出かけられん。
今のことは忘れとっても、昔のことは思い出すとな。「船、船」て言うて海に出て行こうてさっとたい。「船はおらん」て言えば「海におる」て言わっどがな。船の上で仕事してきたっじゃっで、夜中に「網揚げ行く」「船に乗る」て起きらっとやなあ。
頭と腰、三〇代からずっと痛か。頭痛薬はどこにでん持って行く。週に一回本渡の地域医療センターに行きよる。腕が上がらんとたい。一週間おやじを老人ホームに預けて、病院通いした時もある。あんたが倒れるて言われてな。
−スソノさんはどこのお生まれですか。
牧島島のな、長浦ていうところ。やっぱ漁師、半農半漁じゃった。一番末っ子じゃったばってんか、何でんさせられてきた。上の者は全部、奉公に出てしもうて、おったっはおる一人じゃったもん。
わが家もこまんか漁師ばしとったばってんか、こまんか漁師ばせんときゃ、網の親方しとったおじさんの網に行きよったっじゃっかな。晩の巾着網。巾着網行た時て、船で寝ったり家で寝ったりして、ようけばっかり四〇人も五〇人も寝て、ご飯炊いて食うてな。そっで主人と知り逢うたっじゃっかな。
結婚してから、本家に一〇年おった。主人どま(たちは)巾着網行って、イワシば船で積んで来て、こっちん向こうの山越えた部落でな、そんイワシば製造しよったっじゃっかな。イリコ。積んできたイワシばすぐじゃあち(出して)、茹でよったっじゃっかな。毎日そんの繰り返し。
百姓かたでな、半農で。百姓もあんた、一年中食うしこな、カライモでん麦でん作りよらいたっじゃっで。朝、イワシば持ってきて製造してから、こんだタコ壺に行き来しよったっじゃっで。それ子どもがおるしなあ。狭か山道ば、子供一人は手引いて歩かせて、一人は背負て行きよったっじゃっかな。寝なしそぎゃんして働きたっじゃっかな。
子どもは六人おる。全部子どもは中学卒業で出てしもて、御所浦には一人もおらん。自分の行た先でぜーんぶ定時制高校に入った。
−大阪で言葉は慣れましたか。
言葉は何年あっちにおったっちゃ、慣れん。こまんか店しとったで、おやじは掃除して店番。こっちは炊事洗濯じゃったで。店に買い物に来らいた人にはしゃべるばってんか。そがん「大阪弁でしゃべれ」て言わるばってんか、「大阪弁なでけん」て言うて。笑いよらいたもん、「何てしゃべっとっとね」って。そがん大阪弁でしゃべりきるかな。
一〇年ばっかおるつもりで行たばってんかなあ。六年はおられんで戻って来たったい。主人が体ん調子が悪なったで、はち来た(戻って来た)っじゃっかな。体ん悪なって店番もしきらんごしなったで、もう帰ろいて言うて。「田舎帰ってどがんして生活するかな」て息子は言うたばってんか、「ああ、もう年金どん貰てどがんかしおい」て言うて。
あっちの水道ん水は飲みきらん。米だけ水道ん水で洗うて、炊き水はミネラルウォーター。「わっどんがた(お前たちの)米にゃ、長うなってカビの生えとるにゃ」ておやじは言いよらいたった。「何のこら、昨日来たばっかるばな」「ばってん、カビ臭か」て「こら、水のせいた。ぎゃんごたる(こんな)飯は食われん」て言うて。
−喜造さんが棄却されてしまいましたね。
新聞記者があんまりしつこかもんやっで、玄関で「来てくるんな」って言いよったった。そしたら、おやじがな「おる家ばかり何ば調ぶっか。よそば回ってけ」て、言わいた。おるはな、分かるかどうかしれんと思たけど、説明してやったったい。「あんたはな、今度の裁判で棄却されて、もろた銭ば利子付けて返さにゃんとよ」て言うたら、「おるばカマせろ!」。記者の言うとたい「カマせろて何かな」。「分からんかな。返す金のなかで、牢屋に入れろて言わっとたい。あんたどんもな、こぎゃんこっば記事にして全国に知らせろ」て言うたっじゃっかな。
こん人間(喜造さん)に銭ば返せて言わっとじゃっで。どぎゃんすっか。仕方んなかもんな。もろた銭ば何に使うたか書き出せて言うて、裁判所から弁護士さんから言うてくる。銭ば払いきらんなら、他に財産は何かあるかとか、差し押さえすっとかな。
賠償金を受け取りに行った時、弁護士さんから「(控訴されて)負けたら返さんといかん。使わないで預金しておいてくれ」て言われた。ばってんか「病院に掛かるためにもろた銭やから使う」て言うたっじゃもん。二人とも病院通い、年金だけでは足らん。
(聞き手/川部岬)
チッソ水俣病関西訴訟控訴審判決に思う
―水俣病とともに歩んだ三〇年―
古閑紀秋(チッソ水俣病関西訴訟を支える会)
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| 判決前夜集会で進行役を務める古閑さん |
四月二七日、判決当日の夕刊各紙は一面トップで「大阪高裁、国・県の責任を認める」「原告勝訴」と大々的に報じた。たしかに一審大阪地裁判決(一九九四年七月)があまりにも期待はずれであっただけに、今回の高裁判決は不十分ながら、国・県の責任を認めたことだけをみても画期的な判決だった。
それにしても、裁判とはなんと長くかかるものか。提訴から実に一九年目の高裁判決で、この間五九名中二一名の原告患者が亡くなっている。そのうえ、一九九五〜九六年にかけて、他の未認定患者団体が「政府解決策」を受け容れ、裁判などを取り下げてチッソと和解したため、関西訴訟の原告は否応なしに孤立した闘いを強いられてきた。それでも関西の原告は「何としても国・県の責任を認めさせねば」と頑張ってきたのだった。そんな患者の気持ちに大阪高裁はひとまず応えてくれた。
正直言って、判決前には、大阪高裁が行政の責任を認めないとする見方が大勢を占めていた。だから、判決直後の報告集会における大野康平弁護士(弁護団副団長)の第一声“勝った”という一言には実感がこもっていた。
しかし、判決を少していねいに読めば、それは原告が期待した中身とはあまりにもかけ離れていて、とても勝訴といえるような内容ではなく、今回の大阪高裁判決には、裁判官の「バランス感覚」が見事に凝縮されているとしか思えない。
判決はたしかに一九六〇年以降の行政の不作為を認めた。しかし、それはあくまで原因物質が明確に“ある種の有機水銀”と判明した時点以後のことである。原告が主張した食品衛生法の非適用など、一九五九年以前の水俣病発生予防・拡大防止措置を取らなかった不作為についてはその責任を問うていない。
この点については多いに不満が残るところである。
病像についても大阪高裁は原告の主張をいれて、メチル水銀中毒症は「大脳皮質が傷害される中枢神経障害説」を採用した。でありながら、大阪高裁は、行政認定の基準とされている末梢神経障害を基本とする「五二年判断条件」(環境庁通達)を否定してはいない。また、水俣病とメチル水銀との因果関係については「疫学が重要な役割を果たすことは原告らの主張するとおりであるが、それはあくまで一般的にその症状がメチル水銀に起因している可能性が高いというにとどまり、個別の当該患者が、高度の蓋然性をもって、メチル水銀中毒症に罹患しているとまで認定することはできない」とした。
原告患者を落胆させたのは何といっても、認容額が低額だったことである。一審で除斥とされた一一人のうち九人が新たに認容されたこともあって、関西訴訟全体の賠償認容額はたしかに若干増えた。しかしながら、一四人が一審よりも減額され、内二人は一審認容額を破棄され、ゼロとなった。これでは「何が勝訴や」と言って原告が怒るのも当然である。
関西の水俣病運動の道筋を示した池田新さん
関西での水俣病運動、とくにその継続性を語る時、わたしはチッソ水俣病関西訴訟を支える会代表世話人池田新さん(故人)の存在を忘れてはならないと思う。一九七〇年八月の「大阪・水俣病を告発する会」の結成以来、ずっと運動の道筋を示してこられたのが、池田新さんだった。
一九七七年からの阪南中央病院での健康診断の実現、県外最初の国賠訴訟である関西訴訟の提起、一九八四年以来の交流学習会(延べ一四八校―五月末現在)の取り組み等、どれをとっても問題提起、運動の進め方について池田新さんの存在が大きかった。関西という異郷の地でこれほど長く運動が続いてきたのには池田さんの卓越した指導があったからだと今更のように思う。残念ながら、池田さんは控訴審判決をみることなく、一九九八年一〇月二日に亡くなられた。いま、我々の活動をあの世でどう思ってみておられるだろうか。
ライフワークとして
私は八代生まれで、水俣病が公式確認された一九五六年から三年間、熊本市で高校時代を過ごした。そして見舞金契約が結ばれ、水俣病事件が一旦終わったとされた一九五九年、高度経済成長時代の多くの若者と同じように、私は都会(大阪)に就職した。そのころの私にとって水俣は遠い存在だった。それから一一年経った一九七〇年、私が教職についたその年に、大阪のチッソ株主総会に向けた一株運動が始まり、私も発足間もない「大阪・水俣病を告発する会」に参加する事となった。当初は、いつまで関わるかなんて考えてもいなかった。せいぜい、熊本水俣病一次訴訟判決(一九七三年三月)が出ればそれで終わりかなと漠然と考えていた。しかし、それが見込み違いである事はすぐに気づかされた。株主総会に参加した現地の患者さんから、家族や親戚がたくさん関西に移り住んでいることを聞き、わたしはこれは見過ごせないと思い、告発する会の一員として患者発掘に駆け回った。その後、患者の会の結成(一九七五年)や阪南中央病院での定期健康診断の開始(一九七七年)、そしてチッソ水俣病関西訴訟の提訴(一九八二年)と関西での運動が続き、今年の高裁判決に繋がっていった。あらためて振り返ると三〇年以上の日々が過ぎたことになる。
それだけの月日を経ても、水俣病問題の解決には程遠い。やらなければならないことは山ほどある。私は今年の四月に無事定年を迎えた。いつの間にか若いとはいえない年代を迎えたが、各地でねばり強く活動しておられる諸先輩のことを思うと、まだまだ退くわけにはいかない。
| こがのりあき/一九四〇年、熊本県八代郡竜北町生まれ。現在、大阪府立高校社会科講師。 |
がんばれ環境省
遠藤邦夫
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| 5月8日環境省交渉。川口大臣に上告断念などを求める要請書を手渡す。辻元清美議員も原告側で参加。撮影/山中由紀 |
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| 環境省交渉のため、環境省に入る原告患者ら。狭い部屋で対応してくれた。撮影/山中由紀 |
水俣病関西訴訟の高裁判決をめぐり、様々な議論が飛び交っている。その中の環境省幹部たちの動揺した発言を少し振り返ってみたい。マスコミへの発言を眺めると、環境省の門には「水俣病に国の責任はない」「水俣病の認定制度は絶対真理」とでも掲げているようだ。何によらず現行制度や法が適切ならば、環境省は不要ではないのか? 象徴的な言い方をすれば、二〇世紀が「モノの豊かさ―経済優先―通産省」だったとすれば、二一世紀は「幸せに感じる暮らし―環境優先―環境省」とありたいものだ。法治主義を強調するくらいでは、理想は実現できないぞ。そもそも法を厳格に運用することは義務であって、責任を果たしているとは言わないだろう。
当初は「判決と認定手続きとは無関係との見解を繰り返し、認定基準や政府解決策への波及を打ち消すのに躍起だった」(二〇〇一・四・二八熊本日日新聞。以下熊日と略す)と報道されている。高裁判決は国家賠償請求裁判の判決だし、認定制度の変更は求められていないから、まあ無関係といえば無関係なんだろうけど・・・。
ことさら強調する裏を考えると、認定制度の問題点でも自覚しているのかと勘ぐりたくなる。九五年政府解決策は村山談話で、「国はその時々においてできる限りの努力をしてきた」、だから政府解決策では国には責任がないと明記してある、つもりなのだろうか? 責任云々を突き詰めなかったから政治解決なのだから、突き詰めたら成立するわけがない。
解決策の「公健法の認定申請の棄却は、メチル水銀の影響が全くないと判断したことを意味するものではない」という文言を、私は棄却者を「水俣病」と読み、環境省は同じ人を「対象者」と呼んでいる。すでにこの時、環境省は認定制度では救済できない水俣病患者がいることを認めたのだ。現行の認定制度ではまずいと分かっていても、これまでそれでやってきた手前、見直す考えは最初からないということではないだろうか。そんなに心配なら、認定制度を見直すのが一番簡単だ。
認定制度の欺瞞性については、環境省ご用達の大御所井形昭弘氏自身が、「原告がメチル水銀の影響を受けているということに、理論的に異存はない・・・しかし、だからといって日常生活にどれほど支障があるのか。そのことが、あれだけの賠償(判決)に該当するのか。判決は解決策を考慮していない」(六・三〇熊日)と正直に述べている。私はこの発言から医学と政治の混乱ではなく、医学は政治性を拭いきれない分野なのだと思う。
「今回の判決は、一九五九年制定の旧水質二法による規制権限の不行使による国の不作為を認めたもので、九五年の政治解決と大きく異なった判断をしている」(環境省環境保健部長岩尾總一郎氏の発言。五・二三環境新聞)は間違っている。そもそも白黒つけるのを避けた九五年政府解決策と、白黒をつける裁判結果と比較して大きく異なっていると言っても、まさにナンセンスだろう。九五年政府解決策の文言をそのまま読んで、「判断」を抽出することもまた間違いではないのか?
「いくら被害が広がっていたとはいえ、公務員に違法行為をすべきだったというのか」(環境省水環境管理課長仁井正夫氏の発言。五・一二熊日)に対しては、それは合法的かもしれないけれど、毒入りの食べ物を食べて苦しんでいる人がいるならば、その同じ食べ物を食べようとしている人を止めることは、人としてすべきことだと思う。公務員の行動基準が法だけだというなら、ハンセン病で敗訴しているのに上告しない小泉内閣をいさめなければね。こうした緊急避難的処置を法に優先させることもあり得る、という常識が必要な場合もあるだろう。
さらに「『工場街の道路わきに駐車したトラックの陰から、子どもやお年寄りが飛び出して車にはねられる事故が相次いだ。駐車トラックを取り締まらなかった警察の責任を問えるのか』水俣病関西訴訟で、最高裁に上告した国の言い分を、環境省の官僚はこんな例え話で説明した」(五・二〇熊日)に至っては、通常泣き言とみなす。こんな事態が起こっていれば、なんとかして欲しいものである。ネガティブな発想をすれば、行動規範を法的なものに求めたくなるだろうが、法だけで国家が運営されるという幻想が、昨今発生している殺伐とした事件の遠因の一つではないのか?
自分たちがやっている仕事を評価する基準や時間を、小さな単位でとって欲しくない。少なくとも九五年政府解決策を作り上げた心性が、「これで水俣病患者とのトラブルをかたづけた」ではなく、「認定制度の限界を政治解決としたが、これで患者の心が落ち着き、生きているうちの解決と受け取って貰ったことが喜びだった」とあって欲しいものだ。九五年政府解決策はまさに「苦渋の選択」だったわけだから、受け入れた人々も「早期全面解決」として満足したのではなく、まさに政治的な選択としてあったのだ。だから水俣病患者連合は、上告をしないよう要望書を出した。九五年政府解決策と関西訴訟高裁判決は、彼らの中では矛盾していないのだ。それが理解できなければ環境省の名前が泣く。
| えんどうくにお/相思社職員。一九四九年岡山県の片田舎に生まれる。 |
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