
水俣環不知火海モニターツアー報告趣意/編集部…2
・鈴木 威信…3
・曳木 実・・6
・伊藤 慎文7
・藤本 晴久…9
・三井里美…13
・大塚 勝海…15
趣意
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| 横浦島のえびすさん |
水俣病歴史考証館には、水俣病が襲う以前の暮らしを描いたパネルが展示されている。人々は近くで獲れたモノや育てたモノを、みんなで食卓を囲んで食べている。それは私たちがどこかでなくしてしまった風景だ。今回の調査は、あるがままの人々の暮らしを、地域にあるモノと人々の記憶から探し出すことである。その目的は、これからの地域や暮らしのあり方を模索するための資料であり、また地域が地域として生きていくための住民自治の可能性を考えるためである。
今回のあるモノ探し調査は、地域の人を案内人として地域内をくまなく歩き、モノやコトの一つひとつを聞き取り、聞いたことをそのまま情報カードや絵地図にする。また生活史聞き取りは、人の経験してきたモノやコトに耳を傾けることである。とりあえず、あるモノ探しが横の時間を表すならば、聞き取りは縦の時間を表していると考えておきたい。もちろん構造はそう単純ではなく、あるモノ探しのモノやコト一つひとつが折り重なった時間と空間のなかにあるわけだ。
目で見る、耳で聞く、口で味わう、風を感じる、土の匂いをかぐ、そして第六感を働かして地域のこれからを見とおしていきたい。そんな調査になればと考えている。
| 8月31日 | |
| 09:00am | 調査についてのガイダンス / (あるモノ探し−資源カード作りおよび地域住民の生活史聞き取りのやりかた) |
| 01:00pm | 御所浦あるモノ探し(横浦島) / 案内人:松崎信義さん |
| 07:30pm | 生活史聞き取り(横浦島) |
| 9月1日 | |
| 09:00am | 御所浦あるモノ探し(大浦) / 案内人:森通夫さん |
| 01:00pm | 生活史聞き取り(大浦) |
| 06:30pm | お世話になった方と打ち上げ |
| 20:00pm | 驚いたこと・気づいたこと発表 / 地域情報カード作り |
| 9月2日 | |
| 09:00am | 地域情報カード作り / 今後の作業確認 |
| 9月3日 | |
| am09:00 | 東部あるモノ探し(宝川内丸石) / 案内人:上村親志さん |
| pm02:00 | 驚いたこと・気づいたこと発表 ⇒ テーマ分類 ⇒ 絵地図作り |
| 9月4日 | |
| am09:00 | 東部あるモノ探し(仁王木) / 案内人:前田藤作さん |
| pm01:00 | 生活史聞き取り(仁王木) |
| pm03:30 | 地域情報カード作成 / 絵地図作り |
| 9月5日 | |
| am09:00 | 情報カード&絵地図作り |
| am11:00 | ほっとはうす訪問 |
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| 仁王木の樹齢400〜500年のムクノキ |
鈴木威信
立命館大学経済学部 二回生
行く前に思っていたツアーのイメージと実際のツアーは大きく違っていました。吉本哲郎氏の『風に聞け、土に着け』(風と土の地元学)は読んで行ったのですが、具体的なイメージがなかなか掴めませんでした。それと事前に学習した原田正純氏の水俣病に関する本とそれによって私が想像する水俣のイメージが強すぎて、実際のツアー体験ではさらに驚きがありました。
ツアーで気付かされたことは、私が水俣で暮らす人々の普段の生活をまったく、頭に入れていなかったことです。つまり、水俣病とチッソというものだけにとらわれ、水俣をそこだけでしか見ていませんでした。今振り返ってみると、なにも水俣だけでなく、豊島も吉野川も長崎も産業廃棄物・住民投票・原爆といったことでしか、それらの地域を見ていませんでした。それぞれの地域には人間がいてそれぞれの生活を送っているという当たり前で実に人間的なことを忘れていました。
それではここから私が水俣で出会った実に様々な経験を振り返ってみたいと思います。ツアーの前半は御所浦町でした。初日はそのなかの横浦という島でその島の人々がどのように生活をしてきたのか、また、今はどのように生活しているのかということを島を歩きながら松崎さんに説明していただきました。私がそのなかで一番強く感じたのは「エビス」信仰でした。海で仕事をする人間にとって、また、この横浦全体でどんなに大切にされているのかということを生活を見ることで実感できました。その他には漁、「たらたら水」の湧き水、水道、電気、からいも、いのしし、いわし、かになどの生活に密着した話を興味深く聞くことができました。
次の日は御所浦本島の大浦というところへ行きました。そこでは森さんに案内させてもらいながら、横浦では聞くことのできなったイカの漁の仕方やヒラメ、フグの陸養殖を聞かせていただいたり、見させていただくことができました。また、お昼にはその場で魚をさばいていただいて本当においしかったです。その後は島での農業のお話を聞くことができました。まず、稲作をしていたことに驚きました。少ない水を効果的に利用するために用水路を山の上から整備したり、大変な苦労をされていたことが伝わってきました。また、甘夏の話では、今は甘夏では採算がとれないこと、農協がつぶれたこと、実際にその畑の跡地も見ることができました。山肌にたくさんある甘夏畑がいまは放置してあるという状態も自分の目で見ることができました。その他には昔共同で使っていた洗い場やここでも「エビス」信仰に触れることができました。
四日目は水俣市の丸石というところで、地域に住む上村親志さんに案内していただきました。まず、実感したことは水俣は海だけではないということでした。ここでも私が水俣という地域をどれだけ自分のイメージだけで捉えていたかという事を考えさせられました。ここでは「エビス」とは違い、「荒神」「水神」が村の人々によりまつってありました。また、神様に捧げる木である「榊木」も植えられていました。それと簡易水道をみんなで掃除しながら大切にしているということが伝わってきました。水源があるところに人が生活をするということを実感できました。
その夜は吉本哲郎氏の家で筍料理をご馳走になりました。吉本氏の話を聞いて自分がどんなに低い次元で物事を語っているのか、また、どんなに他人を自分から排斥しているのかということを思いました。また、水俣の「もやい」通貨の話は普段の生活の中で私達がどんなにお金に振り回されているのかということにも気付かされました。地元の人間が外の人間の目を借りながら、地元の人間が自分達の地域を自分達で創っていかなければいけないということを学んで、非常に新たな視点を得ることができました。
翌日は仁王木という地区で前田藤作さんに案内していただきました。ここでも水が生活の中心であることがわかりました。集落の皆で水路を管理していたり、「みぞし(溝仕)」という水路を補修する仕事などの話を聞くことができました。また、「山神」の話や市渡瀬の由来などの話で昔から生活が続いていることも実感できました。その後は前田さんのお宅で親戚の方と三人で戦時中から戦後の高度経済成長期に至るまでの話をしていただいて大変興味深かったです。特に戦時中のチッソの話、戦後の炭鉱での辛い生活の話が印象に残っています。
このツアーで私が感じとったことは、問題の前にそこに住む人が、そこで生活している人がいるということでした。住む人、暮らす人の中に入らなくては何もわからないと思いました。水俣と聞いて水俣病しか連想できない、それでいて社会問題を勉強しているといっていた自分があまりにも無知だったと思います。実際にそこで暮らす人々の生活に触れ、きれいな海、きれいな山、町、工場を触れ、見ることで生活を破壊してきた社会に対する怒りが大きくなりました。
住む人がしなければならないということは非常に大事であると思いました。まずは、自分を知る。そして違いを認める。その上で一緒にものをつくり上げていくという姿勢は私に欠けている部分です。このことが非常に大事だということは私にとってとても大きなことでした。
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| 参加者が作成した地域情報カード |
九州ランドスケープ
モニターツアーに先立って入手していた地元学の冊子には地元学とは何かという事とこれから体験することの説明がありました。その中の言葉で「地域の固有性・地域のありよう・個性を自覚することが不可欠」と書いてありました。その言葉だけでは一体どのようにすれば良いのかあまりよく分かりませんでした。地元学の哲学の中で地元の人とよその人を土と風に例えるところがありますが、地元学に関わっていく場合の自分の立場と話を聞くためのルールだけ頭に入れてツアーに参加しました。
海上タクシーでまず御所浦町本郷へ向かいました。昼食を済ませ本郷より船を乗り継いで一日目の調査場所である横浦島横浦へ到着し、案内人の松崎さん宅へ行き挨拶をして、あるもの探しがスタートしました。
横浦島へ到着した時点からなにかあるもの探しのネタになるようなものを探しました。松崎さん宅やそのとなりの家の前にえべっさん(えびす様)があったり、町では見ないような魚が物干し竿に干されてあるものなど、目新しいが事がいくつか気づきましたがそれ以外は一体他になにがあるのか分かりませんでした。
リーダーの小里さんが「この道路はいつ頃できたのですか」と松崎さんに質問しました。すると松崎さんは昔ここは浜で道路も道路沿いの家もなかった事、浜は潮が満ちると水没してしまい、干潮時を見計らって通行していた事、その道を通って水汲みを行っていた事など、道というキーワードから日常生活のでき事や昔のエピソードが次から次へと話されました。道路ひとつからいろいろな話が引き出されることに大変驚きました。
その後松崎さん宅で生活史の聞き取り調査を夕方までおこない、横浦島での調査を終わり本郷へ戻り、夕食後調査メモをもとに水のゆくえ地図と絵地図を作成しました。手順通りポストイットに、調査して気づいたことや感動したこと書き込こみ分類して地図上に貼り込んでいきます。二時間に満たない短い時間でできあがった地図は調査の内容が一目でよく分かるものでした。何回か繰り返して聞き足りない事や、の地域の事を調査し内容を充実させていきたい気持ちになりました。
二日目は御所浦島大浦で案内人の森さんから聞き取り調査を行いました。森さんに話を伺ううちに横浦での松崎さんとは一本釣り漁師という共通点がありましたが、生活の仕方が違うところに気がつきました。
聞き取り調査を終え、旅館に帰ってからは横浦の地域資源カードづくりを行いましたが、自分の解釈を入れず案内人の松崎さんの話を聞き、メモしたあるがままをカードに書くことがとても大変に感じました。私の思い込みや自己流の解釈が入っているかどうかの判断が難しさを感じました。
モニターツアーの二日間、案内人のお二人に投げかけた質問がそのまま私に対しての質問になりました。今飲んでいる水はどこからきたのか? 今日食べたものどこでどのようにつくられものなのか? 今自分が住んでいるところ(または自分の実家があるところ)はどのようなところなのか? テレビ・ラジオ・雑誌など多くの情報よく知っているようだけれど自分の足元=地元のことをあまり知らないものだと感じました。
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| 宝川内丸石集落 |
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| 地元の人に聞く |
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| 横浦島 昔の海岸線を説明 |
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| 横浦島 魚の加工場跡 |
立命館大学経済学部 四回生
この夏、私にとって様々な「発見」がありました。地元学という新しい学問の「発見」、水俣病がもたらしたはかり知れない恐怖の「発見」、そして自分自身の「発見」。私にとって今回の水俣モニターツアーはそんな数多くの「発見」をもたらしてくれた機会だったと思います。
八月三一日からツアーが始まりました。私は始めに「地元学とは何ぞや」という詳しい説明があると思いきや、「やってみないと分からない」ということで、ノートとカメラを渡され、すぐに調査活動が始まりました。経験した今だからこそ「確かに地元学はやってみないと分からない」と言えますが、その時は何をどのようにしたら良いのか全く分からないままスタートしてしまったという不安を抱いていたことを覚えています。
これまで私は何回かフィールドワークという形で現地調査を行って来ましたが、その調査とは産業廃棄物問題であれば、処理場を訪れ、そこの臭いや膨大なゴミの量に圧倒されるという、ただ単に五感で感じて終わりというものでした。しかし、そういった調査活動では、例えば産廃問題を産廃問題としてしか捉えることができずに、その地域全体を概括したり、問題が発生した地域的な背景を推測したりという深い調査はできませんでした。
地元学の調査活動はこれまで私が経験してきたものとは全くと言って良いほど違いました。案内人の方に水源や神社、そこにある植物や自然神などを一つ一つ紹介してもらうと同時に、その地域の歴史や生活の聞き取り調査を行うなど、私がこれまで調査活動と思いこんでいたものとは全く違いました。そしてこれまでの調査活動の中で決定的に抜け落ちていたことに気づきました。それはその地域の「生活・暮し」です。水源を辿ったり、自然神を紹介してもらったりすることは、その地域を知るためには非常にミクロなものだと思っていましたが、それらはその地域の生活や暮らしを代表するものであり、そこから地域の全体像が見えて来るのです。その地域の人々がどういった生活をしているのかを掴めなかったことが、これまでの調査活動を非常に矮小化してきた原因だったということに気づいたのです。
私なりに試行錯誤しながら数日間、地元学の調査活動を経験した後、吉本さんの家に行き、夕飯をご馳走になり、吉本さんによる「地元学とは何か」というお話を聞いたことは非常に有意義なものでした。それはこれまで行ってきた地元学の調査活動を振り返るという意味でも、また私自身の人生観を再考する上でも刺激になったと思います。
特に吉本さんのお話の中で、二つのことが印象深かったことを今でも覚えています。一つは「地元学とは地元に学ぶと同時に、騙されないためのものだ」ということです。これまでの地域作り、地域の活性化のための方法が「無いものねだり」をしてきたということの反省は私の中にもありました。大学で経済学を専攻してきたため、戦後の日本経済のあり方にある程度見識があることからそういった問題意識を持っていました。戦後の日本経済は六〇年代後半から公共事業による経済発展が行われていきます。その過程では国民の暮しが充実・活性化したという肯定的な側面も確かにありますが、経済発展中心の社会作りは他方で、水俣病などの公害問題や環境破壊といった問題を引き起こしてきました。
吉本さんのお話でもう一つ印象に残ったことは、直接地元学とは関係無いのですが、学生のあり方についてです。「学生を自動車に例えると、学歴や知識の高度化によって性能はどんどん上がってきているが、どこに行くのか、どう運転するのかを誰も教えず、学生自身も学ぼうとしないため、学生が行き場を失い暴走している」という話です。私も一学生として性能はどんどん上げていますが、その性能をどのように運転するのか、何のために活用するのかが定まっていない内の一人です。周囲の学生の多くも何のために大学に来ているのかといった目的意識を持っている学生は少ないのが現状です。これは学生一人一人の問題でもありますが、偏差値という物差しでしか人物が評価されないで、その物差しが無くなると何を目指していったら良いのか分からないという日本社会の教育制度が生み出した結果でもあると思います。私は来年から一企業人、一社会人になりますが、残りの半年間で「どこに向かって、どう運転するのか」を真剣に考えていきたいと思います。
川部岬
山肌が黄色く衣を替え始めた一〇月半ばの土曜日、水俣病患者連合の総会が湯の鶴温泉で開かれた。患者連合は相思社内に事務局を置く水俣病未認定患者の団体である。患者連合の会員数は現在三二一人。
男の人も女の人も、精一杯のおめかしをして、うきうきしている。ことに女の人達は念入りだ。なかにはおめかしに時間を掛けすぎてパーマが間に合わず、ヘアキャップをしたままで総会会場に現れる人も! バスに揺られ、船に揺られして水俣までやって来るわけだ。行きがけに、白いスーツのおばあさんが道端の石垣にちょこんと座っているのを見た三〇分以上後に来る迎えのバスを、今か今かと待ちかまえている姿だった。
総会会場に行く前に、一〇月一二日から二一日まで総合体育館で開かれている水俣病展を見学する。遺影の展示の場所をなかなか動かない人、昔のヘドロが流れ出ている映像をじっと見ている人、パネルを遠巻きに眺め足早に会場から出ていく人…。一人一人どう感じられたのであろうか。
本日の総会会場、湯の鶴の旅館に集まった患者さんは六七人。患者連合会員の参加する主な年間行事は、花見、忘年会、総会。会員には現役の漁師も多いため、集まる日はいずれも県下一斉休漁日である第二土曜日が定番となっている。
一時間ほどの総会で、過去二年間の活動報告・会計報告・質疑応答・今後の活動提案などがなされた。女性はほとんどそのような場で上座に座ることはない。けれど、物事を決める際には素早く反応して意思表示する。参加者の男女比は半々くらい。一見元気そうに見えても、常に水俣病を抱えている人々であるから、咳き込む人、横になる人は毎回数人は出る。
総会に参加して強く感じたのは、患者の方々の医療に対する不安であった。政府解決策以前に比べれば、医療を受けやすくなったのではなかろうかと思うものの、現在の一人一人の暮らしを訪ねてみなければ、何とも言えない。「水俣病患者自身でなければわからない不安が存在するんだよ」と事務局の弘津は言う。完治しない病であること、歳を取っていくこと、病院通いが増えていくであろうこと、「少しでも充実した医療を受けることができたら」「今後も打ち切ることなく続けて欲しい」そう考えて患者連合は、行政への申し入れ活動を続けている。
総会の後は、大広間で交流会。山の幸・川の幸に舌鼓を打ちながら、杯を傾ける皆さんの席を回ってお酌をする。病気で飲めない人にはお茶を注ぐ。「お久しぶりです」「おじさん、歌わんね」と声を掛けながら。宴もたけなわになると、仮装セット持参で踊り出す女性が出てくる。長老格の楠本直さんが歌声を披露された。随分目が不自由になって居られるけれど、カラオケ不要の声の張りは健在である。食事の後は温泉に入る人、買い物をする人、それぞれに時間を過ごしてもらった。
患者連合会員の年齢の幅は四〇代後半〜九〇歳代、私にとっては親や祖父母の年齢に当たる人々達である。聞き取りに行くときは、場合によっては玄関前で断られるかもしれないと思って行く。「苦しかったことを語りたくない」「近所の人の目があるから」「そっとしておいてほしい」語りたくない、語れない理由が一人一人にあって当然だと思う。
座り込みや裁判に患者の人達が大勢押し掛けていって訴えている場面を、映像でしか知らない私。そんな闘いの場面というものも、仕事や家事・子育ての間を縫ってやっていたことなのだということを、患者の人達に接するうちにつくづく感じるようになった。座り込みや裁判が連帯意識を深めることにもなっただろうし、仲間割れの原因になったこともあるのだろう。
座り込みや裁判がなくなった今、患者さんの一人一人は、どんな日々を過ごしているのだろう。家族のこと、日々の暮らしのこと、体のこと…。人々の暮らしの中に水俣病があるのだということを視点に、どのような具体的活動を展開できるか。相思社は小さな組織である。やれることにも限度がある。まず、やれることからやっていく。せめて、患者の方が医療や生活に関しての相談事を気軽にできる窓口としての機能は失ってはならないと思う。
事務局の用事である地区に定期的に行っている。とある女性が脚を運ぶうちに、今のこと、昔のこと、闘いの時代を知らない若い私に、話してくれるようになった。秋の初め、尋ねていくと、その人はポリタンクを載せた一輪車を押してやってきた。「近くに潮水の混じらん井戸のあって、汲んでくっとたい。飲み水にな。隣にも汲んできてやる」
近くには、水俣病の甥がいて、まめに世話を焼いている。なにげない会話に、その人の日々の暮らしを垣間見た気がした。水俣病患者・水俣病という前に、まず一人の人間がいて、その人の暮らしがある。