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川辺川にダムはいらない
ダムがいつの間にか人吉の上流になって、受益者ということになっているでしょ。確かに人吉は受益者です。ダムを造ることで治水対策になるなら。ところが川辺川にダムを造るっていうのは、昭和四十年の大水害の治水対策として多目的という形で急に浮上してきたわけですね。ところがどう調べても、我々は昭和四〇年、これは市房ダムの過剰放流による水害だと。要するに人災。その当時は誰も口に出さなかった。しかし、九日町筋の何人かの人たちは既にダムの放流が原因であると言ってるんですよ。
しかし市役所も認めなかったし、彼らの都合のいい言葉が「因果関係を証明しなさい」です。お役所が頼りにする言葉。これで引っ込んじゃうんですね。難しいです。何の調査もしていないんだから。「人吉市民が造ってくれと言ったんじゃないか」と彼らは言うんですね。そうじゃないんです。その当時の市議会が河川改修は何回も要望してます。しかし河川改修の中にダムによる河川改修・治水とは一言も謳ってないです。
ダムがどうあるのかということで何項目か要求をしているんです。その中の一つがですね、市房ダムとの統合管理を謳ってあるんです。これだけのものを造るんだから、統合管理は当然ですよと。市議会の中で。しかし今は研究中ですからね。それどころか我々に対しては大きいふたつのダム、系統の違う大きいダム、これだけ地形の違う、場所の違うものを両方一緒に管理するということは不可能ですとまで言っちゃったわけですから、公開の場で。それをずっと修正してきて研究中ですっていってますね。ところが人吉市役所はそれができなければ我々は認めませんよと要求書で言ってるわけです。それ一つだけでもこんな違ってくるんですよ。
水俣病と川辺川と全く中身は一緒なんですよ。彼らが言い逃れをしようとするのも、「因果関係を証明しなさい」この一言につきるわけです。討論会の中で、国土交通省がやってることが全部屁理屈なんですよ。みんなが笑い出すくらいの。お前らは漫画以下ではないかと。お国がそれほど国民から信用してもらえないこの現実をどう捉えるのかと。何か言うたんびに、こちらからそれに対する反論。反論が正当なんですよね。反論に対して先生たちの意見をお伺いした上での反論ですから。それに対して都合が悪くなると「私は貝になりたい」って戦後の映画があったけれども、まさしくそれですよ。都合悪くなると押し黙ってしゃべらなくなるでしょう。
今、漁協が問題になっているでしょう。漁協のことなんて問題になるようなはずのもんじゃないんです。だって漁業権なんて形がないんだから、取りあげてもいんですよ。我々から漁業権を取り上げるだけのちゃんとした理由があるなら。それから未来永劫子孫たちに責任をとれるだけの自然を残すこと以上に、今の我々に必要性のあるダムをちゃんと造るというんだったら、我々はそれ以上言えないんです。しかしどこをどう考えても、土建企業だけが潤うという性格であり設計なんですね。全く公益性なんてのはどこにもないわけでしょう。八〇年に一回「ここまで水が来ます」と言ってといいますが、有史二千年以来そんなところまで水が来たことないわけです。
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| 吉村勝徳 1948年生まれ 吉村漁具店を営む 川漁師 |
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| 橋はそのまま。学校は原石のしたに |
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| 真ん中に廃校になった野原小学校 |
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| この谷がほぼ水没する |
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| 吉村さんと職員の川部。このころは大学生 |
大水・川とのつき合い方
人吉を流れている川は、球磨川と川辺川二本の川があるわけですね。両方一緒に来て水害が起きるってことはまず少ないんですよ。川辺川と球磨川の水の加減というのはですね、球磨川の盆地のなかに降る雨のパターンが三種類も四種類もあるんですね。まず梅雨時に前線がずっと下がっていくときに降る雨は球磨川の右側。白髪岳とか鹿児島や宮崎寄りの方に降るわけです。これは少々降っても大したことがない。ところが前線が上がってくる時に降る雨のほうがだいたい多い。これは川辺川筋が多いんです。五木村もあたるし、市房のほうにもあたるんですから。ところが市房川が面積が狭いからですね。川辺川のほうが水が多いんです。
昭和四〇年の水害はそうだったんですね。雨が三日ぐらい続いてますからね。前線が行ったり来たりしてですね。朝四時半、夜の明け始めたときには川辺川は水は減り始めてたんです。なぜそれが言えるかというと、ここではですね、梅雨時の大水のときには川に人がいっぱい入るんです。濁りすくいって言うんですけど、魚捕りに行くからね。水が増えてくるときには魚が川岸に避難するから捕れるんです。川の水が引き始めると捕れなくなるんです。ピタッと止まるんです。水が増えてくるときは一生懸命になるから、時間はよく分ってるんですよ。ちょうど相良村の深水でですね、「四時半には水は引き始めたもんな」と聞いています。あそこから人吉まで水は一時間とかかりません。
私が爺さんから叩き起こされたのが三時二〇分ですね。「今から水が出るからお前胴長はいて行け」と、私が勤めてた会社は自動車の修理工場だったんですよ。私の家は山の中ですから、雨とは関係ないんです。いくら何でも雨も降っとらんのに。で、私が家を叩き出されたのが三時半です。
前の日から水が出てたのは知ってますよ。自転車に乗って出ていったんです。人吉の九日町までどのくらいでしょう。家出たのが三時半だとして十分とかかりません。ちょうど九日町あたりが一番低いところですから、下水からブクブク水が吹いていたんです。これが三時四〇分前後ぐらいです。「ああ、水が来っとばい」と。それから駒井田の工場に行って叩き起こしたんです。その時にしこたま怒られて「待ってろ」と。本店が九日町ですからね。電話かける前に向こうからかかってきたんです「九日町は水が上がったから片づけろ」と。それでバタバタしてみんな従業員呼び出して、お客さんの車避難させないかんもんですから。みんなが出てきたのが四時半ぐらい。その時はまだ車出てたんですよ。
ところがそれからが早かったです。相良の連中の証言が四時半には水は引いていたってわけでしょう。引き始めているんだと。時間が合わないわけです。少なくとも三時四十分くらいに下水から吹き始めているところを私が見て走ってきてるわけですから。あそこから三十分と掛からないんですよ水は。既にピークの時間は過ぎてるわけですね、その時点で。ですからこれは本流の水ですね。ところが本流はですね、川辺川の源流と、本流の源流の大きいほうの古屋敷川(水上村)は尾根一つ越えたところなんですね。川辺川は距離にすれば本流より長いんです。五木村の梶原谷を下って頭地に出てからですから川辺川のほうが遠いんです。だから川辺川の水が遅れるて、というんだったらわかる。ところが川辺川が引き始めてから球磨川が出てきたということは、球磨川のどこかで滞留してなきゃいかんわけです。ましてここは全然降っていないわけですから。川辺川の水によって四〇水害が引き起こされたと、行政は言っていますからね。これを私はずっとおかしいじゃないかと言ってます。
六時ちょっと前で水がピークだよ。机を寄せてその上に書類載せたりなんかして、それが間に合わずに机がひっくり返っていくんです。バタバタと。今までそうやってきたんですよ。それで間に合ってきたの。どんなに大水が早いったって。大水は何回もあるんです。私はあちこちでしゃべるときに「球磨川では大水っていうのは楽しむんだ」と言ってるんです。大水が出ると魚捕りができるから。楽しいもんだと。しかし楽しくなくなっちゃったのが、四〇年の大水ですから。
川漁のこと
q川漁師さんはどうやって鮎をとるんですか?
刺網です。釣っているくらいでは追いつかない。
q編み目とかも決まっているんですか?
自分の好みがある。
qこれは自分で設計するんですか? 自分でつくるというか?
自分でつくるんです。そのためにここに広げてあるわけですから。自分で好みの長さとか重さとかですね。自分の好みにあわせてつくっていくわけです。場所とかですね。
qどういうふうに仕掛けるんでしょう?
川のなかに張り込んでいくだけです。横でも縦でも。魚が一番掛かりやすいように張り込んでいくだけです。
q張り込んでどれくらいで揚げるんですか?
私たちはすぐ揚げる。五分もしない。他の網との兼ね合いもありますから、ずっと一回り網を張り込んでしまったら、一番最初に入れた網からすぐ揚げていく。
q鮎を生きたまま捕るという目的ですね。
そういうことです。置いておくと先に掛かった魚は商品価値がなくなりますから。いかに鮎を脅しながら脅さないように捕るか。脅してしまうと、そこに網を仕掛けても次から魚が入って来なくなりますから。「何だ今。ちょっとびっくりしたな」ぐらいのものでおさめとかないと、徹底して追い出してしまうと魚捕れなくなりますね。脅して捕るなとか火を振るなとか色々規制的なこと言ってますけど、上手な漁師はそういうことしません。自分のいる場所を知るために明かりは使います。しかし、その明かりによって魚を脅してしまうと、毎日同じ場所で動けないんですね。
そのなかで自分の場所はここと暗黙のうちに決めてますから、自分の所をいかに脅さないで捕るか。一番静かなところに魚は入ってきますから。脅されたら脅されなくても済むような所入ってくるから、自分の捕るところは脅さないように捕りたい。
qみんなそのように思っているわけですよね。
いや、みんな思っているか思っていないかわかりません。企業秘密がありますから。自分だけでずっと捕ってるやつもいるし、バンバン追い回して捕ってるのもいるし。
q例えば前の人がどこに仕掛けたかってどうやってわかるんですか?
浮きが浮いてますから。大概同じようなことしてますからね。「あいつはここにしか入れん」ていうのが分かってますから。自分の場所が決まってますから。
q違う場所に入れるとどうなりますか?
誰も居ないときはいいですよ。人が入れてるところにそれやるとマズイですけどね。マズイったって人の網に触れなきゃいいわけですから。
qあまり近くでやるとお前何考えてんだという。
我々は近くでやってくれたがいいです。これが今うちで使う目の一番小さな網です。これが七分て網です。
q七分というのは大きさのことですか?
はい。これで捕れる鮎が八〇〜九〇グラムくらい。この網に掛かる魚です。
qそれしか掛からないんですか?
うん。刺し網ですから、これにぬかった(刺さった)魚ですから。
qもっと大きいのがくるでしょう?
刺さりません。これには。その時の川にいる平均的なサイズを、ちゃんと見越して網を仕込むわけです。ここにあるのは、七分五厘て言ってもう少し大きい。これは九〇〜一二〇グラムぐらいまでの魚がこれにとまるわけです。
q何でも捕るわけじゃないんですね。
違いますよ。こちらのやつはもう一回り大きい網です。これは八分。これで一二〇〜一五〇グラムぐらいまでの魚を捕る。ここのやつはどのくらいだからというところで、仕込んでいくわけです。そうするとね、これよりも小さいのも当然居るわけですね。じゃどうするか。網を抜けちゃうんですよ。網を小さいときから何回も通り抜けながら行ったり来たりしてるわけですよ。大きくなるにしたがって。魚、この網を知ってるわけです。
qそりゃ、すごいですね。
魚、学習能力があるんです。だからこの網を「こいつは俺は通れるな、通れないな」わかるわけです。なるべくなら触りたくないから、黙って川に入れておいたって、この網の横に行って寝てるんですよ。考えればこの網の横が一番安全なんですよね。下手なやつが網を入れておいたって、脅されない限り掛かることないわけです。それをどうやって捕るかというのが漁師の腕ですよね。
q魚が網を知ってるなんて思ってなかったですから。
一〇〇パーセント知ってますから、一〇〇匹のうち一〇匹捕れる漁師は、立派な一人前の漁師です。今、球磨川に約四五〇人の刺し網漁師がおるんですね。みんなが一〇〇匹捕れるようだったら、三日で捕ってしまいますよ。そんなに捕れません。だから秋まで魚が残ってるわけです。漁師としてもですね、その時の商品だけは捕りますけど、商品にならないやつは残しておいたがいいでしょ。鮎はだいたい今の水温で一〇日から一二日くらいで大きさが倍になるんです。だとすれば、この網で今日捕ったとしますね。一〇日後にはこっちの大きい網にいかんと捕れんでしょう。年がら年中同じ網ばっかり使ってたって捕れないちゅうことです。鮎は生まれたときに〇.〇二五グラムぐらいかな。七ミリくらい。大きいやつでね。この魚が一年で四〇〇グラムとか五〇〇グラムとかなるわけです。
q球磨川の鮎はどちらから入れてるんですか?
球磨川の鮎は、大半が我が家のやつです。球磨川河口に遡上してきたやつをすくって持ってくるのが大半ですね。
qどうやって捕ってるんですか?
魚道の口に、ちゃんと落とし口をつくって、そこに溜まるようにできてるんです。海に降りたやつが何パーセント我が家に上がって来るかというのをよく言うんですけど、外界に面しているところだったら、〇.〇三パーセントだと言ってますね。鮎の稚魚はですね、遊泳能力がないんですよ。生まれてから一週間くらいはまともな泳ぎはできないんです。そういう状況のなかで海水のあるところまで行かなければエサにつきませんので。エサにつく状態になったときに、一週間ぐらいのあいなか、どんどん潮で流されるだけですね。そしたらまた元のところまで戻ってくるということは考えられないんですよ。不知火海の場合は池だから。一番流れの勢いが良いところに、上ってくる。ぐるぐる潮が回ってるわけです。一五〇万から二〇〇万くらいの魚が戻ってきてるんですけど、この稚魚が必ずしも球磨川で生まれた魚ではないと思うんですよ。球磨川の河口にはそれだけの稚魚を生産するだけの場所がないです。
qどこの川でできてるんですか?
天草系か水俣系か佐敷系かで生まれたやつが、ここにも来てるんだろうと思います。
q親鮎はどのあたりで卵を産むんですか?
ここ付近だったら、坂本村から上流。稚魚が生まれてから海に行くまでの時間、弁当箱(おなかに付いている栄養の袋)の持つ時間は四八時間くらいだろうと言っていたんでが、実際には一週間くらい持ってます。
q親鮎が海まで行って産むわけじゃなくて、途中で産んだ稚魚が下りていくんですね。
まさに流下です。流れていく。
q稚魚はどれくらい海にいるんですかね?
一番最初に、産卵、一番付て言うんですけど、だいたい一〇月の一〇日前後。一番に産卵するでしょう。それから約一〇日くらいかかりますから、生まれるまで。それからその魚が川に上ってくるのが二月の二〇日前後くらいにカシライオが見え始めますので。だいたい四ヶ月五ヶ月近く海におるわけですね。
家族のこと
q吉村さんはお生まれは?
昭和二三年です。人吉市紺屋町です。水害常習地帯です。
q漁師はいつから?
分かりません。だって三代目四代目ですから。いつからが漁師なのか、どれが最初の獲物なのか全くわからないですよ。子供のときからまともなもの捕ってくると、それが金になると思ってますからね。中学校の二年生くらいから、本格的に鮎釣りを始めたような記憶があるんだけど、その頃お袋が二〇〇円から二五〇円くらいじゃなかったんかな、日当が。その当時、俺千円以上は稼いでたもん。鮎の一キロも捕ってくると千円超えてましたもんね。
qそれはもう漁師ですよねえ。
夏休みなんかほとんど毎日川ですね。じいさんがもともと球磨川漁協の設立趣意書を書いたり、設立準備したちゅうのは私の枕元でなされたんですよ。昭和二四年かな。
q結婚されたのは?
結婚は三十でした。冬の間だけ出稼ぎでですね、七年くらいよそに出ていましたので、帰ってきて昭和五三年頃ですね。
q奥様からの苦情とかないんですか?
家内が苦情言ってたら、やれてない。家内が知らん顔しててくれるから、やれてるだけで。あえて家内やらお袋はあんまり巻き込まないようにせないと、家内中でやってたら大変ですよ。つぶれてますよ、とうの昔に親父が仕事しないんですから。出ていくばっかりで。半端な金じゃないですからね。何をするにも川辺川が最優先ですからね。
qお子さまは?
娘が長女、後ふたりが男の子ですね。長女が福岡に。長男が今帰ってきています。一番下はまだ学校行ってます。
qみんな鮎は食べますか?
食べます。子どもたちは小さい時から親父が連れて回ってますから。興味がないですけども、根底は分かっていると思うんですね。親父が川辺川のことをやっていることについて、決して恥ずかしいとか非難めいたことは一言も言いません。それどころか、親父がやってることを、誇りにしてくれてるんじゃないかと思うところが時々あります。それがなければ私もここまで自信を持ってやりません。家族から非難が出るようだったら。非難はしたいだろうと思いますけど。
(聞き手:川部岬/遠藤邦夫)
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| 松崎信義 1936年 天草郡御所浦町横浦に生まれる 海漁師 |
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鯛釣り
夏場のタイのエサはミルクガネ(カニ)です。今年はミルクガネが浮いてこんでタイが釣れんとですよ。潮の大きか時、流れが速か時に、下にいるミルクガネが浮いて、それを追ってきたタイを釣っとです。今はですね、だいたいタイが釣れんばならんとですばってん、ミルクガネが浮かん関係でですね。魚探で見れば下にミルクガネじゃなかかなあて思うとがあっとですよ。その下にまた魚が映るわけです。潮のさいときはですね、潮の流れが遅いために底から上がって来ん。流されんわけですよね。ガネがない時、春と秋は冷凍エビです。その時期時期によってですね、スズキが釣れる時期とタイが釣れる時期、ハマチやブリが釣れる時期、季節によって違うわけです。
春、一番早いのがチン(チヌ)です。三月初めになれば、たいぎゃですね、下のほうからずっとこっちのほうに上がってくるわけですね。上りのイオはですね、チンが一番早かっです。そっで、チンはなかなかえさを食わんとですもん。釣りにくかです。昔の人が言いおったですよ。「海ではチン、山ではカラス」っち。利口なのがですな。
夏、よう釣るっとはボラですね。ボラは釣るっです。でも安かですもん。天気んよかときゃ汗水流して釣っても油代もなかです。キロが一二〇、一三〇円がよかとこでしょう。ボラはですね、エサば小さく刺してから投げ込んでですね、釣っとですよ。投げ込みちゅうか、小まんか浮きを針よりも上につけてですね、ずっと投げ込みで流すとです。自分でエサ食うとを見るぐらいのところまで。ボラは一回ぱっと食べとってまだ出すもんな。食ったと一緒に合わせないと掛からんとですよ。
ガネが下の方、牛深の方に下がれば、冷凍のオキアミをまきエサしてタイ釣りです。冬は一二月頃までですね。二月いっぱいくらいまで休みますね。
子供の頃
子どもの時の遊びと言ってもですね、こっちは子どもの時から親に連れられて漁師に。こっちで遊びちゅうても、何して遊ぶにしてもですね、魚を釣ったりなんかしよったですね。海で泳いだりなんかしても潜って魚を突いたりですね。夏場になれば腰くらいまでつかってタコとりなんかして、遊んだりなんかしよったです。自分たちの先輩の人がですね、タコとりに行こうか、どこか遊びに行こうかちゅうようなことでですね、魚釣りに行ったりですね。
前は食べ物がなかったけんですね。夏場にある食べ物、一〇月頃なったらですね、うんべとかなんとかちぎりに行ったり。五月くらいですかなヤマモってなるでしょう、あれをちぎりになんか行ったりしよったですね。私たちがこまんか時にですね、この付近を歩いておったですね。ヤマモモの木も今でもあります。時期によってヒワとかウメとかカキとかイクリとかグミとか、家の近くにありよったですもんね。それを晩にですね、泥棒に行きよったですよ。あそこのは熟れてうまかごとあるぞ、ちぎりに行こうかいっち言って、二、三人ぐらい友だちどうしでちぎりに行きよったです。
私が中学校を卒業するくらいまでは、与一ヶ浦のほうがよっぽど人が多かったっです。昔は与一ヶ浦の木遣り船て言うて運搬船がですね、坑木拾いなんかするのに一軒に一杯づつくらいおりよったっですよ。昔は坑木を炭坑に売りよったですね。坑木を積んでいくのに一杯の船に三人ぐらい乗っとらんばですね。船長さん、機関長さんですね。それが女の嫁さんとか何とかが、ご飯炊きに乗って行きよったわけです。そっで前は人間が多かったわけです。横浦の方は漁師が戦後すぐ都会の方に土方とかなんとか、出稼ぎ行きよったっですけん。炭坑が止んだりなんかしたでしょう。それから坑木とかなんとか、減るごとなって、船を売ったりなんかして出稼ぎ出てしもうて、今、与一ヶ浦のほうは少なかっです。長崎県の高島、壱岐島ですね、福岡あたりまで薪を積んで行きよったわけです。坑木はやっぱしあっちこっち、佐敷とか長島、有明とか何とか天草もあっちこっちからですね。
私が六年生の夏休みのときやったですな。焚きもんを止めてから、バッテリーは池の浦に充電に行きよったっです。晩に使うて。バッテリーが入っていないからですね。池の浦まで櫓で漕いで行きよったっですよ。月夜になるまではですね、だいたい旧暦の二〇日くらいからですね、旧暦の一四日くらいまで行きよったっですよ。網がすぐ、月夜には休みやったっですばってん、一三日から一四日ぐらいまで網が出よったですもんね。それから旧暦の二〇日ぐらいまでが月の出で、お月さんが出よったもんだけん、休みやったっです。
地引き網の頃
地引き網は一七、八人くらい。陸に引き上げる地引き網がですね。人間の多かところは、やっぱし二〇人でもおったですけども。うち辺りのごて、家に余計人間のおらんところはですね、少なかったです。地引ていうのはですね、陸から木をとっとってから、一艘の網船でたて回って陸に持ってきてですね、あっちとこっちと引きよったっです。手ばっかっじゃったっです。私が中学校二年生ごろまでじゃったですかな。家でやりよったのは。
前は「製造納屋、製造納屋」て言いよったっですよね。製造の人にも何割かやってですね。こんだ、製造の人にやった後、みんな網子で分けよったわけです。一人になんぼずつてからですね。だいたい鰯のあれがですね、昔の一斗の、一斗入るバケツがありよったっですよ。なんちゅうか、丸い桝がですね、一斗。一升で一〇パイ入るだけの丸いやつがあったわけです。それで、製造のほうには、何バイあげてですね、「今日は何バイやった、今日は何バイやった」て網元が付けよったっです。やっぱし前の一斗入る升にしてもですね、なんぼか出よったわけですよ。それ以上にですね。一斗の品物では、一斗二升とか、出よったわけです。出よった分も含んでですね、製造の人が「こんだけこんだけ、今度はでけた」と言うてからですね。ほっで計算ばしょったわけです。一応経費を網元で引いてからですね、親方が四分、網子が六分って一〇のものを四分六で割りよったわけです。それはどこも、その当時のですね、網元はそういう計算の仕方をしょった。前はですね網船を、人間の二人分なら二人分、三人分なら三人分と貰いよったわけです。火を焚く船はですね、一人分は貰うわけです。家族から三人も四人も来ればですね、三人分四人分やりよったわけです。一応計算をするときは、製造の人とですね、網子と網元と、製造納屋の人がですね、鰯を売った領収をみんな出しおうとるわけです。網元としては、バッテリーの充電代とか何とかばですね、経費ちゅうのをみんな領収書出して、計算ばしよったわけです。経費がなんぼ要ったかわからんけんですね。あんま、経費の方でひどう取れば、網子さんが分けて貰うとが少なくなって。
こっちが地引が終わって巾着になる前に今の籠(鰯籠)、カツオのエサですね。あれを芦北とか水俣あたりの網で取ったものを買いよったわけです。それをですね知り合いの所には、こっちが向こうに行くごてなったわけですよ。カツオエサば。佐敷とかなんとかに。ほっで今度は長島とか島原、牛深の方に行きよったわけです。向こうがカツオのエサに活かしきらんもんだけん。鰯を捕っても油鰯とか何とかになればですね、値段が安して、油代もせんごてなったわけです。網に行っても配当金が少なくなってですね、生活に困って向こうの人が(芦北・水俣)出稼ぎに行くごてなって、向こうの方の網が自然と止んだわけです。こっちでカツオのエサなんかをふいて仕事ばしようかちゅうごてなって。だいたいこっちに来たちゃあ、芦北とか水俣とか津奈木・平国あの付近から来とっとです。女島あたりからもですね。
こっちに水俣病ていうのが始まったのが、御所浦・龍ヶ岳・姫戸・倉岳・栖本・牛深までずっと組合が話しあってしもてですね、水俣のほうに行ったっですよ。デモに行ったわけですよ。
嵐口の片手巾着網
地引もやめてからこんどはよその仕事に、漁師に雇われて行きよったです。嵐口も片手巾着の五隻あったです。嵐口あたりの片手巾着船がおるときはですね、横浦の人は行きよったばってんが、網子としてですね。片手巾着てのは網船がですね、一艘でたて回すわけですよ。網の端を母船ちてから捕った鰯を積む船にですね、網の脚を持たせて、真ん中に火を焚いた船がおるわけです、火船ちてから。それで魚探で見てからですね、本船に網を積んどるもんだけん、やるときは昔はデッコウとみゆるごたるわけです。「デッコウ」て言うておめけば(叫べば)ですね、こんだ母船に脇を持たせとったこの船をですね、本船だけでずっと回して来よったわけです。ほっでまた母船に付けてですね、端を取って、ローラーで重りのほうばっか早う巻いて揚げよったっです。表の方にローラーが、二つあるわけですよ。形が一パイでずっとたててきてですね、母船から端っこを取って、表の方に一艘の船で巻く。
嵐口の片手巾着が本拠地として牛深と大江ですね。天草のしもの方の大江ですね。あそこば本拠地にしとったわけです。あそこの大江の戦が浦ちゅうところを本拠地にしとたわけですね、嵐口の片手巾着網はですね。そこに船がおったわけです。そこでお風呂に入ったりなんかする、宿ってか、個人の家を借りてからですね。親方の人たちが借りてですね。崎津と大江の中間にあるわけです、軍ガ浦ちゅうのは。小さな部落やったですが。
こっちを旧暦の二〇日くらいに出船すればですね、むこうに旧暦の月の夜の一三日くらいまでむこうにおりよったですね。あっちが漁場が近いわけです。漁場はですね甑とか、長崎県の野母崎、五島あたりまでいきよったわけです。片手は漁場が違うとです。嵐口の人は両手の人も大江のほうを本拠地にしとったわけですね。昔の焼き玉ちゅうてからですね、バーナーでエンジンをちょっと温めてですね、そしてからエンジンをかけよったんがあっとです。それが網船にですね、たいがい九〇馬力くらいの。
嵐口の人は漁師の方に熱心ちゅうか、漁師巾着でも先輩が優秀なところだったですね。人が巾着止めてしまうのに、嵐口だけ片手巾着を五隻とかなんとか、そんだけの経験があったわけですよ嵐口の人だけは。
(聞き手:環不知火海調査ツアーグループ)