機関誌 ごんずい 72号

ごんずい 72号
表紙の写真は南アフリカヨハネスブルグのソウェトで行われた水俣病犠牲者鎮魂の集い
写真提供 毎日新聞社


目次
特集 : 進化した水俣案内
      進化した水俣案内/遠藤邦夫…・  3
      社会見学旅行感想……・ 10
        菊池郡南ヶ丘小学校/中村美里・大木佳奈・野村華子

      杉本さんの話を聞いて………・ 12
        八代郡竜北中学校/古川小百合
      住民の元気なパワー…… 13
        立命館アジア太平洋大学/房野夢子
      水俣という街………… 14
        お茶の水大学/東衣里・山野温美
      水俣を訪れて………… 16
        九州芸術工科大学教員/古賀徹


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書評「新・水俣まんだら」/吉井正澄……・  18
紹介 CD「安心の歌」…………  19
追悼 田上義春さん………  20
報告 相思社決算・予算………… 22


進化した水俣案内

align="right">  水俣病センター相思社 遠藤邦夫


 多くの人々が水俣を訪れる。人々の関心は多種多様だ。その傾向を眺めるならば、水俣病を受け止める切り口が、従来多数だった被害ー加害の運動論やチッソや国の責任論から、暮らしの中の水俣病にシフトしていることだ。背景は、一九九〇〜九九年の環境創造みなまた推進事業と、一九九五年の水俣病政府解決策だと思われる。
 その結果、不知火海周辺では主題が被害補償から地域再生へと移り、水俣病事件は創造という新しいステージを迎えている。水俣病の経験を私たちの未来を築く指針と考え、公害が起こらないような社会を構想し、それにしたがって私たちの暮らし方を変化させ、そうして地域社会や地域政治を自分たちが創造していけば、水俣病の経験を活かすことになる。だがしかしチッソや国の責任を第一義におけば、九五年政府解決策は運動の買収であり、水俣病患者を愚弄したものと映る。水俣2001ハイヤ節

既存の企業や国は法的に定められた範囲を超えて、人間的な責任が行使できるような存在になることはできない。そうであるならば、そうではない原理を持った企業や国を創造することが求められているのではないだろうか?  それは何も憲法や法律論議から始める必要はない。そう考えることがすでに国の幻想・科学技術の幻想に囚われている。自分が暮らしているその場所を、自分たちで暮らしやすく創造すればよいのだ。もちろん始めれば幾多の困難が見舞うであろうが、それが創造するということだと思う。

相思社がヨハネスブルグでの環境サミットに参加していることもあり、南アについて思い巡らした時、「白人に頼る習慣を捨てて、黒人であることの誇りに目覚めよう」という黒人意識運動指導者スティーブ・ビコの言葉を思い出した。ビコは一九七七年南ア政府に虐殺されるが、彼は自分たちの闘いは「我々がつくる新体制がやつらの焼き直しならば、白人が黒人に入れ替わるだけならば無意味だ」と述べている。多くの示唆に富んだ言葉から、「依存心を捨て」「そのままの自分を認め」「権力による問題解決を計らない」ことを学びたい。場所は違うけれどビコが引き受けた課題は、現在の私たちが直面している課題と共通している。だから案内することは知識や情報の伝授ではなく、生きる意味を探る相互ののトレーニングに他ならない。

 こうして私たちの水俣案内は進化した。大事なことは、水俣病の情報を被害者の側に立って伝えることではない。被害者たちがコミュニティーの中で、自然との付き合い方の中で、運動の中で経験したことを、生活文化という切り口で再構成し、訪れた人々自身の水俣病を発見してもらいたいと、仲介する立場に気がついた。理屈を並べると、「暮らしの中の水俣病」という切り口を発見したことによって、科学技術の言葉で語ってきた専門家の水俣病を、生活文化から相対化することができるようになった。
 水俣病事件では多くの専門家たちが、加害者擁護や被害者擁護の立場で発言してきた。しかし根本的な問題は立場の相違ではなく、科学・技術の枠組みからの発言が優先的に扱われ、被害者を含む住民の暮らしの言葉が忘れ去られたことにある。
 科学・技術は、例えば自然をそれぞれ対象化の可能な領域で切り取り、分析し普遍性や法則性を導き出してきた。そして切り取った領域=断片を集めると自然総体になるとしてきた。しかし切り取った領域相互が独立的であるという出発点が、その時の科学・技術に制限されていることを科学・技術は疑わない。そして断片を総合する哲学が遅れてしまったことが、二〇世紀を特徴づけたと言える。

九〇年代半ばに水俣病資料館の語り部制度が成立したのは、直接的には水俣病患者の生の声を聞きたいということだが、その意味を考える必要がある。現場で被害者自身の語りを聞くことは実態調査の出発点である。それは加工されていない事柄の宝庫であり、生身の身体と暮らしがそこにあるからだ。できるだけ先入観や知識や真理を捨てて、事柄に耳を傾ける姿勢でなくては、暮らしの中の水俣病は見えてこない。耳を傾けて意味を考える時に、近代科学技術の体系を全て排除することはないが、同じ重さで生活に結実した伝統と文化の文脈を利用したい。

 「あなたはどんな水俣・水俣病と出会ったのか」

水俣の水を訪ねて

一 大関山山の神さん(おおぜきさん)
  水俣市街部より車で久木野、芦北町上木場を経て約一時間。大関山は水巡りの始まりの場所として欠かせない。山頂部にはテレビ塔が立ち並んでいるが、照葉樹の森もわずか残っている。神社の奥に目的の山の神さんが鎮座している。自然石でカマクラのように造られた祠には、サンゴや貝殻などの海のモノがお供えされている。山からの水の大事さを知っている不知火海の漁師たちがお参りするようだ。もちろん百姓にとっても豊作祈願の大事な神様である。大関山周辺は西南戦争の激戦地でもある。少し下ったところにあるゴットン石には弾丸の跡がある。

二 寒川水源(さむかわすいげん)
  愛林館から車で五分、歩いて三〇分くらいかかる。上りはきついがさまざまな形の棚田を眺めながら歩けばいつしか水源に着く。夏はこの水を使った水源亭でソーメンをすすりたい。ソーメン一人前四〇〇円、ヤマメの塩焼き四五〇円、鯉こく三〇〇円。
  大関山に降った雨はここに湧き出している。寒川部落の人々は生活用水に使い、さらには棚田で稲を育てた。ここの棚田は三〇〇年以上前からあるようだ。田んぼの見方を深めるには、どのように水が回されているのかを見ることだ。

三 大学山(だいがくやま)
  大川部落からさらに山道を車で五分ほどたどれば、左側に大学山の看板が見えてくる。このあたりは八〇年前に伐採した二次林だが、アカガシ、スダジイ、シラカシ、ヤブツバキなどの照葉樹で構成されている。
  四季を通じて緑の様子に変化の少ない照葉樹林だが、春には新芽で樹冠が煙るように見える。静かな林の中で寝転がり、鳥の声や水の音に耳をすましていると、いつの間にか眠ってしまうかも。

四 達人 天野茂(あまのしげる)
  山の上の別天地、石飛に棲む天野茂さんは、本業はお茶農家だが自由な時間を過ごす遊びのインストラクターでもある。遊び人というと今では聞こえが悪いが、ホイジンガー著『ホモ・ルーデンス』によれば「遊びは、第一に自由な行為である。生活要求の直接的達成とは別の手段による利益度外視の高級世界である。場所的・時間的に限定されている。遊びは秩序を創造し、全ての遊びがそれぞれの規則を持っており、規則が犯されるや否や遊びの世界は崩壊する。別人化の特徴と秘密主義」となっている。
  天野さんは自分が楽しむために、製茶工場の先にあちこちから集めてきた廃材や窓枠でイロリの間を作った。すると訪れた人々も楽しめるようになった。外には懐かしい五右衛門風呂もある。訪れた人々はイロリの火に魅入られ、苦労しながら風呂を焚く。窓の外には、勝手にビオトープが広がっている。石飛にいると様々な時間が流れていく。

五 仁王木 溝(におうぎ みぞ)
  地元の人は用水路のことをみぞと呼ぶ。毎年米作りが始まる前には、主に耕作者組合でみぞし(用水路の整備と掃除)を行う。仁王木では耕作していない若者も手伝うようになった。
  水俣市東部の約一六キロメートルの用水路は、江戸末期から明治初期にかけて渕上曽次右衛門が農民たちと拓いたものだ。ノミと簡単な水準器を使って、川岸の岩を堀り抜いている仕事は驚嘆に値する。この用水路によって新田開発が可能になり、商品作物としての米がとれるようになった。
  市渡瀬の久木野川と宝川内川の合流地点では、いまなお現役の岩をくりぬいた用水路を見ることができる。同時代日本中で曽次右衛門のような篤農家によって、用水路造りと新田開発が盛んになり米の生産が増大している。
  歴史学者遠山茂樹は、これを明治維新を支えた経済的基礎と考えている。

六 薄原(すすばる)
  「この風景は水が創った風景だ」と、地元学の提唱者吉本哲郎さんは言う。美しい農村を作ったのではなく、山からの染み出し水を生活用水とし、本流から引いた用水路の先にたんぼを作り、家の下手に菜園を仕立て、夏の日差しを避けた日添えの部落があれば、逆に冬の日差しを一杯受けるように日当ての部落もある。家の周りには暮らしの役に立つ草木を植える。おにぎりを包むハラン、団子を包むニッケの木、薬味のサンショウ、咳止めのナンテン、早生や晩生の柿の木など。
  山の尾根筋は「神の通る道として家は建てない」。というのは迷信ではなく、風を意識した暮らし方を意味している。「環境とは、日と水と土と風が基本だ」と言い切る吉本さんにとって、環境教育とは地元の人々の暮らし方に学ぶことに他ならない。

七 小崎から河口
  水俣川と湯出川が合流する地点。浅くなっていて子供たちの水遊びには最適だ。水俣川のほうにはチッソの取水場もある。一〇年ほど前までは、いかにもポンプ場といった太いパイプが建物に巻き付いていたが、現在は何の変哲もないタンクと建家があるばかり。ただ取水のための堰は、丸石を積み上げただけで大水が来れば流されるがまたすぐ積み上げられる。環境負荷の低い伝統的な技術が生かされている。
  市役所の近くの川中には不思議な石積が並んでいる。ウナギカグラだ。ウナギが隠れる場所があったと思って石の間で休んでいると、人間が石を一つひとつ取り除いて、ウナギばさみで捕まえる恐ろしい装置だ。これは縄文時代からの知恵ではないだろうか? 
  水俣川河口には、チッソの残さプールが広がっている。行き場のない産業廃棄物だ。

八 水俣湾埋立地―聖なる場所
  エコパークという名付けが、名前を奪って人の意識を支配する手法であることは『千と千尋の神隠し』から明らかだ。この場所の本願は海であり、元の海に戻せなかったことが教訓となる。水俣を訪れることを聖地巡礼とアナロジーする傾向があるが、私は聖地と聖なる場所は別物で、水俣を聖地化することには反対意見を述べておきたい。
  人は大切な場所、危ない場所、異界との境界、何らかの秘密の場所を、それぞれの聖なる場所としてきた。一方聖地は権威化され動員される場所を意味する。どこが違うかというと、人と聖なる場所は相互交流的であり、聖地は絶対的一方通行的に人に求める。例えば水俣湾埋立地は私にとって聖なる場所であるが、他の人々が運動場や公園として利用することを排除しない。ただこの場所について、誰にでも心のどこかに大事にする気持ちを持って欲しい。

九 坪谷(つぼだん)
  坪谷の上に架かった鉄橋は、税金の無駄使いの象徴とも言える。埋立地から坪谷漁港までわずかに残った自然海岸を埋め立て、道を造る計画だけは生きているようだ。できれば止めてもらいたい。通行には無駄な橋も、坪谷や水俣湾を眺めるにはいい場所となっている。一号患者の田中静子さんが暮らしていた坪谷は、時間を遡れば水俣病の激発地として、さらに遡れば漁師たちが造った港とささやかな住居とハマンコラのある暮らしが見えてくる。場所の記憶を読み解く眼力と聴力が必要だ。

十 湯堂(ゆどう)
  明神、坪谷、湯堂、茂道は水俣病の激発地区だ。湯堂はコンクリートの新港になったが、以前は坪谷のような石積みの美しい港だった。海の仕事の安全と豊漁を願うえびすさんが座っている突堤の先には、地元の人がユウヒラと呼ぶ真水の湧き出しが見られる。遠く矢筈山から水脈をたどって、大きな花のように二つ三つと湧いている。海水と真水が混じるところは、海とも川とも異なった汽水の生態がある。水俣病が発生する以前には、ここで捕れたアユの子が球磨川に放されたという。

十一 茂道(もどう)
  海が深く切れ込んだ奥に茂道の港がある。グリーンスポーツから眺めると港の周辺に住居が見え、時間を遡って天草からの移住の話は水俣病前史として大切なことだ。その裏山は昭和四〇年頃に国の事業として開発されたみかん山だ。さらに奥には薩摩との国境をなす矢筈山がそびえている。川には名前がないけれど、海岸は細かく区分され名前が付いている。せんたく場、湯の花、白戸海岸、なまこ瀬、えびがね瀬、ぼうずが半頭等々、これはいったい何を意味しているのか? 
  茂道の杉本栄子さんは、カタクチイワシを捕って加工して販売している。山では甘夏を栽培し、畑では季節の野菜作りをし、驚いたことに水田まで持っている。この人を漁師と思ったら大間違いだ。生活総合産業従事者とでもいうか、中世研究者の網野善彦の言によれば、杉本家こそ由緒正しい百姓なのだ。

十二 グリーンスポーツ
  水の旅の終わりはとりあえず海だ。実際には水の旅には終わりはなく、雲―雨―山―川―村―マチ―海、そして蒸発して雨となって地球上を大循環している。
  人の関わりの終点の海には、チッソが流したメチル水銀も、人々が捨てたゴミも排水も、すべてのモノが流れ込む。それを昔の人間は知っていたけれど、最近ではすっかり忘れられてしまった。女島の緒方正人さんは「海の魚が捕れなくなったのは、資源がどうのこうのという問題だけではなく、イオ(魚)が人間にあきれて天に還っていったからだ」と言う。
  グリーンスポーツには、照葉樹に囲まれたキャンプ場、フィールドアスレティック、自然海岸がある。相思社の案内メニューの一番人気は、この海岸で遊ぶことだ。海と浜辺と森の間で、足を海に浸したり、石で水切りしたり、森の奥を探検したり、潮だまりを眺めたり、ラチもない時間が過ぎていくことは至福の時だ。

遊びの規定は
http://inokin.kdn.ne.jp/homo/ 
index.htmより引用した。

環境をキーワードにして

一 水俣市クリーンセンター
  ウイークデーの九時から五時の間ならば、いつでも見学の申込みができる(現在は無料)。職員から水俣のごみの講義を受けた後、資源ごみのストックヤードを見学させてもらえる。市では住民が分別して出したガラスビンをさらに細かく分別して、生産者に引き取ってもらってリユースしている。ストックヤードで感じることは、臭いが強くないことだ。水俣の廃プラスティック回収の特徴は、廃プラとするか燃えるごみとするか、その分別を住民の判断にゆだねたことだ。例えばべっとり油が付いたモノなんかは燃えるゴミとして、ちょっと水洗いすれば汚れが落ちるモノは廃プラに分ける。この適当な基準がよかったように思う。ムキになって洗えば、水の汚染がそこから発生する。

二 エコボ水俣
  主に一升瓶を全国から回収して、洗浄・選別して、通い箱に入れてメーカーに返送している。ビンはカレットにするリサイクルより、そのまま何回も使うリユースの方がはるかに環境負荷が低い。案内してくれる専務の田中さんは「行政が資源ごみの回収を始めたことによって、それまであった市場での循環が失われてしまった」と言う。詳しいことは見学に行って聞こう。見学料金は一人五〇〇円。講義と現場見学で約一時間のプログラム。

三 アクトビー
  回収された冷蔵庫、洗濯機、テレビ、エアコンを分解して、再利用ができるモノを取り出している。驚いたことは洗濯機には塩水がバランサーとして使われていたことだ。冷蔵庫の分解で大事なことは、フロンガスを抜き取ることだ。コンプレッサーばかりでなく、断熱材にも多くのフロンが使われている。エコボ水俣もそうだが、ACT Bでは見学料金を一人五〇〇円に設定している。只ではないのだ。

四 資源ごみ二三分別ステーション
  資源ごみの分別は、市内各地で主に夕方行われている。ここは見学料金は不要だ。しかし決められた時間内に、住民が当番制で行っているので、見学する場合は「おじゃまします」と挨拶をして、じゃまにならないようにして欲しい。水俣では資源ごみ収集ももやい活動の一つと考えている。住民が主体で行うことも、当番や時間や場所を自分たちで決めることも、地域に共に暮らしているという前提なくしてはできないことだ。

五 学校版iso
  水俣市内の小中学校では、校内のごみの分別・減量化に取り組み、水や電気の節約に係を決めて取り組んでいる。前もって学校長に相談すれば、見学することができるようだ。

六 水俣の環境学習
  水俣の環境学習は、その多彩な自然の中での暮らし方を学ぶことだ。そのとき遊びや食べるという回路で結ばれると、人は記憶しやすい。水俣の水を飲み、ダゴをみんなで食べ、不知火海の魚を食べ、山や川や海辺で遊べば、水俣はあなたの身体の記憶に刻み込まれるだろう。相思社では水俣病関連の案内ばかりでなく、水俣の自然や暮らし方を楽しむ環境学習のコーディネートも行っている。なかでも人気がたあるのは、グリーンスポーツの海岸で遊ぶことだ。実は相思社の案内人はそこへ連れて行くだけで、何もしない。場所と人を仲介しているだけだ。あえて言えばその気になるようにしているだけ。海を見れば気持ちがいいし、おもわず潮溜まりを探したり、水切りをしたくなる。遊ぶのも楽しむのもあなた次第なのだ。

※ 相思社では毎年五〇組程度の案内を行ってきたので、水俣案内のプロを自認している。 おわり  


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