機関誌 ごんずい 73号

ごんずい 73号

目次
特集 : ヨハネスブルグ・サミット
      ヨハネスブルグ・サミット参加報告 弘津敏男
      マラウイの湖畔からヨハネスブルグを眺めると 小丸和恵
      協働の力を信じて マンドラ・メントール
      南アフリカにおけるjvcの活動 津山直子
      南ア旅行記 神沢聡
      女性たちのWSSD 小里アリサ
記事 : 水俣病センター相思社について思うこと
      −−−理事長就任にあたって−− 富樫貞夫


ヨハネスブルグ・サミット参加報告

弘津敏男

(一)ヨハネスブルグ・サミット

 国連が主催する「持続可能な開発に関する世界サミット」のこと。各国政府代表、NGOなど世界中から何万人もの参加者が集まり、人類が抱える困難な課題に世界の関心を向け、解決を目指して世界的な行動を促すための会議。
リオ・サミットを契機に地球環境問題が国際社会の最重要課題の一つであるとの認識が高まったが、その後も人口増大、資源の大量消費、貧困の拡大は続き、地球環境の悪化が更に進行。「アジェンダ は「絵に描いた餅」となっている。この絵に描いた餅をホンモノにしようというのが、ヨハネスブルグ・サミットの目的。

(二)相思社が参加した

 八月末から九月初めにかけて開催されたヨハネスブルグ・サミットに参加した。水俣病を伝えること、南アフリカとの交流、日本のNGOとの交流など、様々な出会いがあった。その概略を報告したい。

(1)参加者

佐々木清登(相思社理事長)、開田理巳子(水俣病語り部)、ティモシー・ジョージ(ロードアイランド大学、研究者・通訳兼務)、弘津敏男・神沢聡(相思社職員)

(2)活動の概要

一 水俣病セミナーの開催
二 水俣病写真展 桑原史成さんの作品
三 水俣病パネル展 
四 水俣病ビデオ上映 約六分間の英語版ビデオを作成し上映
五 「水俣からのメッセージ」(日本語・英語・小冊子)を作成し配布
その他

(3)水俣病犠牲者鎮魂の儀式

 八月二四日、ソウェトの中のソモホ(ソウェト希望の丘)に行く。ここで開田さんを中心にして「水俣病犠牲者鎮魂の儀式」が行われた。
 夕方、準備作業にとりかかる。テーブルを用意したり、お供え物を並べたり、ビデオの上映準備とあわただしく動き回っているうちに開始の時刻となる。たくさんの人が集まってきた。子供、若者、女性の姿が目立つ。歌手でUNEP(国連環境計画)親善大使の加藤登紀子さんも到着した。
 佐々木さんがあいさつに立ち、鎮魂の儀式を開始。開田さんが白装束で登場し、厳かに祈りを捧げる。参加者は声も立てず、じっと見守っている。
 開田さんが自身の水俣病体験を語り始めるとみんな真剣に聞いている。鎮魂の儀式は南アフリカの人びとの心に何かを残して無事終了した。
 次いで、加藤さんが歌を披露した。参加者も歌に合わせて踊り出し、会場全体が一体となった。歌が終わるとローソクを手に持ったたくさんの子供たちが登場。幻想的でもあり、最も盛り上がった瞬間でもあった。

(三)ナズレック会場で

 二六日からナズレックのNGO会場で写真、パネルの展示、ビデオ上映、冊子配布などを開始した。相思社のブースは日本のNGOが集まっている場所の一角にある。スペースの真ん中にテーブルを置き小冊子などを並べ、壁面いっぱいに写真とパネルを設置。
 日本人も来るがやはり日本人以外の人が多い。韓国のNGOの人たちも次々とやってくる。多くの人が「去年水俣に行ったときにお世話になりました」とあいさつをする。
 外国人相手の説明はもっぱらティムさん。"Do you know about minamata disease?"と来る人来る人に尋ねている。ほとんどの人は"No"との返事。水俣病を知る人は少ないようだ。ティムさんはひとりひとり丁寧に説明している。環境NGOや教育に関わっている人、キリスト教関係の人が多いようだ。日本のNGOの人たちも訪れてくれた。政治家や政府の役人も多かった。小泉純一郎首相や川口順子外相をはじめとして国会議員だけでも二〇人くらいが見学に訪れた。見学といっても小泉さんがブースにいたのは、一分くらいだったが。
 残念だったのは現地の参加者が少なかったこと。南アのNGOの人にとっては入場料が高過ぎたためだろう私たちは一五〇ドルの入場料を支払ったが、ソウェトの人にとっては数ヶ月分の収入にあたるのだ。
 二六日に佐々木さん、三〇日には開田さんのセミナーを開催した。会場は同じナズレックのセミナー室。参加者は多くはなかったが、熱心に話を聞き、時間切れまで質問する人が多かった。

(四)大きな糧に

 いろいろと失敗もあり、肉体的にも精神的にもクタクタに疲れたが、得られたものもたくさんある。内外の多くの人びと、特に環境NGOの人たちに水俣病を伝えることができたことは最大の成果だが、逆に学んだことも多い。今回の経験とサミット参加を通じて得た人々との結びつきは今後の相思社の活動の大きな糧になるだろう。特にjvcの津山さん、ソモホのマンドラさんには今後ともお世話になると思うし、南アの人々とはいろんな形で交流が続くだろう。それは南アにとってだけでなく、水俣にとって大きな意味を持つと確信している。

(五)最後に

 今回、地球環境基金助成を受けて参加しましたが、ヨハネスブルグ・サミット提言フォーラムには共催事業としていただき、資金面だけではなく現地活動をバックアップして頂きました。その他にも日本の環境NGOの方々、南アの人々にもずいぶんとお世話になりました。私たちが水俣病を伝えることができ、無事に帰国できたのも多くの人々の支えがあったからです。また、たくさんの人々からご寄付もいただきました。

 お世話になった方があまりにも多く個々のお名前を記すことはできませんが、あらためて心からお礼を述べたいと思います。


協働の力を信じて

マンドラ・メントール

 何か悪いことが起こったとき、自分がその中に一人だけ閉じこめられたように思うことがありますが、本当はそうではないのです。

はぐれ雲工房の紙漉
はぐれ雲工房の紙漉
ソウェトの希望の丘
ソウェトの希望の丘
楽器、ダンス、みんな一緒に
楽器、ダンス、みんな一緒に

 まず南アフリカのことを話します。南アフリカは一七世紀植民地支配が始まるまでは、人々は動物や自然の中でハーモニーをもって住んでいました。問題は入植者が南アフリカに到着した時から始まります。19世紀の終わりに、私の住んでいるヨハネスブルグで金が発見されました。鉱山の出稼ぎ労働で家族は分断され、子どもたちは父親を失い、妻たちは夫を失いました。ヨハネスブルグの金鉱で働くために、遠くの農村地域からたくさんの人々が連れてこられました。

 現在私の住むソウェトは、金鉱で働く黒人の男たちのために作られたマチであり、その後アパルトヘイトの中で黒人居住区になりました。ソウェトというのは街の南西にある黒人地域という意味です。金鉱以前には、私たちの地域でもたくさんの自然が残されていて、川で遊び、蝶を追い、楽しい時を過ごしていました。しかし現在のソウェトにはそういう自然が残されていません。金鉱による鉱害のために環境が汚染され、川で子どもたちは遊ぶことができなくなり、カエルを捕まえたり、蝶と遊んだりすることはなくなってしまいました。

 水俣の人たちも自分たちの自然を侵され、大変な悲劇があったわけなんですけれど、私たちソウェトに住むものも同じようなことを体験しました。そして水俣の人々はその問題を解決していこうとし、それを乗り越えていこうとしています。非常に感銘を受けたことは、水俣の人たちが問題を混乱に終わらせるのではなく、問題を次の挑戦、次のステップに向けて進化させている。可能性をそこに求めているということです。こうした行動が世界中で共有され、同じように問題を可能性に変えていくことが必要だと思います。私は水俣の人がこれからも強く、そして共に活動していって欲しい。強い絆で結ばれた家族は一緒に成長していく、共に大きくなっていくと私は信じています。

 私は14人兄弟の12 番目として生まれました。私はアパルトヘイトの中で生まれ、アパルトヘイトの中で育ち、そしてアパルトヘイトと闘い、自分自身とも闘ってきました。1990年、この年は27年間投獄されていたネルソン・マンデラ氏が釈放され、南アフリカに大きな変化がありました。民主化にむけて大きな変化があった時です。私は空に向かって飛び上がり、私たちはここまで達成したんだと感激しました。それが新しい闘いの始まりだとは思ってもみませんでした。私たちの新しい闘いは、南アフリカの人々特にソウェトの人々が、よりよい生活を送れるようにすることです。それがソモホ(ソウェト希望の丘)の活動に私を引っ張っていったわけです。

 ソモホのきっかけは、ソウェトに山積みになっているゴミの問題に、私がコミュニティーの一員として取り組もうとした時です。ソウェトには空き地があったとしても、そこには木はなくゴミが積まれているだけです。こういったところはまた犯罪の温床にもなっていきました。私の住むところから400メートルくらいのところに、私たちはそれを山と呼んでいますけれど、丘があることに改めて気づきました。その山では何年にも渡って、たくさんの人が殺害されるというようなことも起こっていました。ある時には、生まれたばかりの子供が捨てられていたこともありました。

 私のような住民で細々とやっている団体には、どこもお金をだしてくれるところもなく、私が夢を実現していくために、たくさんの時間がかかりました。今年は私にとって一三年目です。私たちの夢というのはソウェト希望の丘を、環境と文化のセンターとして、そこにいろいろなことが行われる場所にしたい。すべての子どもたち、すべての人種の人々が、そこに集まれるような場所にしたいという希望を持って活動しています。そういう活動を地道に続けて来た結果、昨年、私は南アフリカの環境賞を受賞しました。副賞として日本円にして一〇万円の賞金をいただきました。その一〇万円を、ソウェト希望の丘にコミュニティーセンターを作っていく最初のステップにすることにしました。まず最初にやったことはビニールの袋やマスクや手袋を買って、みんなでそこを掃除したことです。私が皆さんに一番に言いたいことは、意志があるところには道があるということです。

 もう一つ大切な活動がサミット期間中に、ソモホで子どもサミットを開催したことです。それは私が一九九〇年に子どもたちと活動を始めるときに、そのグループは自然を愛する子どもたちという名前なんですが、この子たちに約束をしました。いつか私は世界から、他の国の子どもたちをつれてきて、みんなと体験を分かち合う機会を作ろうと思うと言いました。やっとそれを実現することができたわけです。

 私たちがきれいにした希望の丘で、何をしているかということを次に話します。希望の丘はヨハネスブルグ市の所有です。一〇年間に渡ってそこを使うことの許可を得て、ソモホの活動を支援していくことができるということです。そこをソウェトの子どもたちにとっての環境と文化のセンターにしていこうと思っています。その一部を家庭菜園にして、自分たちの食べ物をそれぞれがそこで作っていけるような場所にしたい。私たちの住んでいるソウェトには、クレップリ川という川が通っています。その川の周辺や湿地帯をきれいにして、環境を保全していくということも考えています。

 ソウェトにもたくさんの車が、ここと同じように通っています。私はいろんなところに行った時に、できるだけ車に乗らず自転車をつかうような社会にすることをお願いしています。古くなった自転車を子どもたちが修理して、そのコミュニティーの中で使っていけることを進めていっています。また紙作りもやっています。グラスリサイクリング、使用済みのビンを利用してます。ケータリングは、お母さんたちによって行われているサービスです。水俣の人々が来たときも、そのお母さんたちが伝統的な料理を作ってくれました。伝統的な音楽をやっているグループもあります。ドラムやマリンバなどの楽器は、ゴミの中から拾ってきたもので作っています。そして伝統的なダンスから現代ダンスまでのダンスグループもあります。私たちは演劇を情報を伝えていく手段として、また教育の手段として非常に重要なものと考えています。1994年から行われている活動で、犯罪をなくしていくためのスポーツ活動を行っています。水俣の人たちが感じてくださったように、こういった活動の成果があって、犯罪が非常に少なくなっています。

 私をここに呼んでくれたことを、皆さんにもう一度お礼を申し上げると共に、私はこの経験を南アフリカの人たちに伝えていきます。私が環境に関わっている限り、ずっと水俣のことを南アフリカの人々に伝え続けたいと思います。そして皆さんの活動をこれからも末永く続けていって頂いて欲しいと思います。みんなが一緒に力を合わせているコミュニティ=地域というのは、みんなと一緒に成長していくものだと私は信じています。

(2002年10月5日 水俣ヨハネブルグ報告会の発言から)


南ア旅行記

神沢聡

八月二一日(水)

機内にて神沢

 翌日昼の飛行機だが、出国手続きもあるので前日から福岡に泊まることにし、みんなは夕方水俣を出発した。ただし、仕事のさばけない私だけ、案の定と言うか午前一時のドリームつばめに飛び乗ることになってしまった。

八月二三日(金)

 午後一時過ぎタイ・バンコク空港発。南アフリカ航空なので、当然客室乗務員は黒人の人たちが多い。インド洋上を飛んでいるはずなのに陸地が見えると思ったら、マダガスカルのようだ。機中で弘津は単なる酔っ払いと化す。

 一九時頃ヨハネスブルグ空港着。真夏の日本とは逆に、南アは冬なので服を着込んで飛行機を降りる。五時間の時差があるので一〇時間五〇分乗ったことになり、佐々木さんと開田さんは限界に近かったようだ。

 到着ロビーに出ると、津山さんや提言フォーラムの先遣隊の人たちが出迎えてくれた。南アの通貨・ランドに両替して、内ポケットやらに分散して持つ。危険な場所に行かなければ問題はないと言われるが、どこが安全でどこが危険か分からない。それが分かっている人について行くしかない。

 ソウェトに入ると、私たちの車に向かって手を挙げる人がたくさんいる。ヒッチハイクをしようとしているのだろうか。実は、乗合タクシーを停めようとしていて、手の形が行き先を示しているのだそうだ、と後で聞いた。ちなみに、オレンジファームなら、オレンジを表すグーの形でよい。ソウェトでは、二つのB&B(ベッド&ブレックファスト)と呼ばれる民宿に分宿した。

八月二四日(土)

 今日は、南アの人々とともに水俣病犠牲者鎮魂の儀式を行う予定である。そこで、午前中、場所となるソモホの下見に行く。まずは、コミュニティセンターのようなところを訪れる。わらや針金で作った置き物が並べられているが、廃品や身近なものから作ったリサイクルアートだ。数千円で売っていたので一瞬高いと思ったが、生活や活動のために収入の向上を目指すのは大切なことだ。多くの人たちが集まって、古新聞をちぎってこねて再生紙に漉いたり、色とりどりのビニール袋を裂いて起毛させて刺繍のようにしたりしている。代表のマンドラさんに説明を受ける。

 外出から帰ると、宿のご主人夫婦のミーナさんとモリスさんが大きな体で抱き締めて迎えてくれた。南アでは、そうした恰幅のよい人を表現するのに、ファットではなくフィットと言う。そして、妻がフィットでないと夫はちゃんと稼ぎがないと思われ、夫がフィットでないと妻はちゃんと食わしていないと思われてしまう。

八月二五日(日)

 サミットの開幕はまだ明日なので、津山さんが呼びかけたソウェトツアーに参加する。金鉱山に労働力として男だけが連れて来られた時代の住居が残る。南アでもエイズの問題が深刻で、劣悪な環境のトタンの家で寝たきりになっている人も多いという。これも、夫と妻が分断されたことが一因にある。今日は日曜なので礼拝の日である。二千人ほども入りそうな大きな教会では、参加者全員が一体となってゴスペルを歌い踊るのが圧巻であった。郊外に出て南へ走り、オレンジファーム地区のテボホ障害児ホームへ行く。障害児の母親たちが自ら設立し、JVCが支援を行っている。

八月二六日(月)

NGOフォーラム

 いよいよ今日から、私たちが参加するサミットのNGOフォーラムが始まる。私は展示パネルの設営を担当するが、実は初めての経験で、一日近く掛かってしまった。弘津は、映像機器の設定を行っているが、そちらも信号の規格や電源の問題があって大変そうだ。結局、日本からDVDに落として持って行った多くの水俣病映画作品は上映できず、新作した六分の紹介映像だけになってしまった。

 午後になって、弘津が、カバンから現金が盗まれていることに気付いた。熱心に質問するグループもいて、一人が質問している間に盗まれたのかもしれない。ティムさんに、貴重品を体から離しても大丈夫なのは日本だけだと叱られる。現金だけを盗る「良心的」な窃盗で、額も小さかったのは幸いであった。

八月二七日(火)

 会場の入り口に、X線によるセキュリティチェックがある。弘津の映像機器関係の荷物を預かって通ろうとすると、大きすぎて検査機を通らない。荷物を開けろと言われるが、鍵がない。それなら、犬を呼ぶから待てと言われる。三〇分程待ったけど、結局犬は来ないまま通してもらえた。実は、鍵は掛かっておらず開け方が分からないだけだった。
 今日はセミナーがあるのに、昨日の会場が底冷えしていたせいか、佐々木さんが風邪で体調を崩してしまった。午前中宿で休んでもらい、なんとか夕方のセミナーには出て来てもらった。セミナーでも映像を使おうとしたが、展示会場とは規格が異なるらしくなかなかうまくいかない。ついに、弘津が、「何がグローバリゼーションだ!」と切れてしまった。これは、最終的にはうまくいった。

八月二八日(水)

展示ブースにて

 首脳会議の会場・サントンを物見遊山で経由する。さすがに物々しい警備で、銃のための小さな穴が空いた装甲車がいる。帰宅時間で渋滞する高速道路に往生しながら、北方三〇キロのところにあるディナーショー会場へ向かう。そこで、以前相思社に来たことのある津山さんのお連れ合い、写真家ビクター・マトムさんに五年ぶりに再会できた。マトムさんはその大きな手で、餃子を作っていた印象ばかりが強い。

八月二九日(木)

 午前中、弘津らはジャパンデーへ参加するが、私とティムさんは展示ブースを開ける。ジャパンデーでは、会場係員の手違いにより、相思社作成の水俣病紹介映像が最初に流れてしまうというハプニングがあったらしい。

 午後は、翌日の開田さんのセミナーのためにチラシ配りに精を出した。ほとんどの人が水俣病を知らないが、中には水俣を訪れ宇井純さんに案内してもらったという人もいた。

 晩には、明日南アを離れる私たちのために、ソモホの音楽グループが音楽会を開いてくれることになった。民宿の前には、話を聞きつけた他国NGOの若者もやってきて、みんなノリノリのパーティーとなった。開田さんも踊りだす。リサイクルアートもそうであったが、芸術活動への取り組みが特徴的で、日本の地域活動では薄い部分かもしれない。いや、水俣には二〇〇一水俣ハイヤ節があるぞ。

八月三〇日(金)

 弘津は会期最後の九月四日まで滞在するが、佐々木さん、開田さん、私の三人にとっては、今日がいよいよ最終日だ。開田さんのセミナーは、朝一番からのため人が来てくれるか心配だったが、まあまあ集まってもらえた。帰り際もまた、引き継ぐ金の計算が終わらず、ぎりぎりまで掛かる。午後五時ヨハネスブルグ空港発。

八月三一日(土)

 午後八時福岡空港着。疲れた。通常なら水俣までの最終列車に間に合わないが、この日は台風で列車が遅れて、その日のうちに水俣まで帰り着けた。


水俣病センター相思社について思うこと 富樫 貞夫

 さる一〇月一一日、佐々木清登前理事長が辞意を表明されたため、一〇月二六日開催の理事会で後任の理事長に就任するよう要請され、これを引き受けることになった。就任の挨拶に代えて、相思社について思うことを少し述べてみたいと思う。

 相思社は、一九七四年の設立以来すでに二八年の歴史を歩んできた。私は、一九七二年から始まる水俣病センター設立運動以来、一支援者として相思社の活動を見守りつづけてきたが、実際に運営に関わるようになったのは一九八九年の「甘夏事件」からである。この事件の最中に発足した「相思社存続・管理運営検討委員会」の委員長を引き受けることになり、その後は理事の一人として相思社の運営にあたってきた。

 水俣病センター設立準備委員会の「水俣アピール」(一九七二年六月)には、次のような相思社のグランドデザインが描かれている。集会場、医療機関の設置(診療と相談)、社会相談窓口、殖産事業(共同作業所)、資料室の設置など。これらの活動を通じて、相思社が患者・家族の「精神的より所」となっていくことが期待されていた。ここには第一次訴訟の結審を目前にした当時の状況が色濃く反映されている。勝訴を確信した患者・家族の目はすでに判決後の生活へと向けられていたのである。

 設立準備委員会に集う人々も、この構想で長くやっていけると考えていたわけではない。判決後もつづく運動には予測できない部分が多く、「その未知の部分こそ将来の水俣病運動の基軸となる」だろうと考えていた。

 設立後の相思社の歩みをみると、結局、自前の診療所は開設できなかったし、「キノコ工場」をはじめ殖産事業の試みも失敗に終わった。社会相談窓口もほとんど機能しないまま立ち消えになった。もともと相思社には医師などの専門スタッフがいなかったばかりでなく、事業を立ち上げるのに必要な資金もなかった。

 相思社が発足した一九七四年には、集中検診をきっかけに水俣病認定申請患者協議会(申請協)が結成され、これを軸にその後未認定患者の激しい闘争が展開されていった。その事務局となった相思社もしだいに未認定患者運動に深く関わるようになり、その支援基地としての役割を担った。一方、それと並行して、資料室の充実に努め、水俣病歴史考証館を設置し、また水俣生活学校を開校した。これらはいずれも、被害者の視点から水俣病の経験を正しく伝えるための活動である。

 このようにして、相思社は設立後数年でその活動分野もイメージも大きく変えていった。こうした変貌は、一九七四年以後の水俣病運動から要請された面が強いとはいえ、当初、相思社設立に大きな期待を寄せた訴訟派患者・家族の期待に必ずしも沿うものではなかったと思われる。

 しかし、水俣病運動が生み出した相思社がその運動から離れては存続できなかったことも事実である。これまでの相思社は、水俣病患者の運動に支えられ、それに寄りそう形で活動してきたが、その患者運動も一九九五年の政治解決で大きな山を越したとみてよいであろう。患者運動と不即不離の形で展開してきた相思社の活動もようやく一段落し、いま大きな岐路に立たされているのである。

 このような状況をふまえて、昨年五月「今後の相思社を考える検討委員会」は、「転換期を迎えた相思社の活動のあり方」と題する答申を理事会に提出した。この答申の中で、検討委員会は、(1)患者とのつきあいの深化・拡大、(2)水俣病事件を伝える活動の拡充、(3)地域との主体的な関係の構築の三点を今後相思社が果たすべき役割として提言した。この提言を指針としながら、日々の活動の中で、これをいかに形あるものにしていくかが私たちには問われている。

 この一〇年余り相思社に関わってきて、私はその運営の難しさを痛感している。その原因は、財政基盤の不安定さだけではない。もちろん、設立当初から運営資金を保障されていない相思社にとって、財政問題はつねに悩みの種ではある。「甘夏事件」も相思社の財政的自立を目指す過程で起こしたものであった。しかし、何よりも難しいのは、相思社としていったい何をすべきかが決まっていない点にあると思う。相思社の二八年は文字通り試行錯誤の連続であった。それは海図のない航海に似ている。いわば手探りで航海しながら海図を作っていくようなものである。

いまのままでも活動をつづけようと思えば、つづけられないことはない。多分、五年ぐらいはやっていけるかも知れない。しかし、相思社は、水俣病事件からたえず「問われつづける存在」であることを忘れてはならない。五年後あるいは一〇年後に相思社は必ず問われるだろう。いったい、相思社は何のために存在し、何をなしえたのかを。そうした根源的な問いかけに答えていく責務が相思社にはある。

 相思社の活動は、答申で提言された三つの役割をふまえながら、今後ますます多様化していくだろう。しかも、その基調は「支援型」から「提案型」へと変わっていかざるをえないだろう。相思社の本質は絶えざる運動にあり、水俣病運動の一環として水俣病の経験を多様な形で伝えつづけることにその存在意義がある。相思社の職員は、相思社の運動を担うスタッフであり、それに相応しい研鑽を積んでほしいと思う 。


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