![]() |
「ほっとはうす」の挑戦…徳富一敏/加藤たけ子/大矢理巳子/仁禮恵子/永野ユミ/千々岩巧
「ほっとはうす」インタビュー
書評『水俣・ほっとはうすにあつまれ!』…小林繁
今水俣の水俣病関連団体でいちばん“ほっと”な「ほっとはうす」を、ごんずいの読者に丁寧に紹介したい。一種のngoとしてのほっとはうすの試みは、水俣病事件を患者補償から解き放ち、地域福祉に一石投じるものとなっている。
ほっとはうすの喫茶部や押し花作り、またそれらを通じて水俣病を伝える活動は、市内外の小学生に既存の伝え方とちがう水俣病との接し方を提起してきた。
とくに袋小学校の心ふれあい集会では、ほっとはうすのメンバーやスタッフが、ごく自然に学年企画に参加している。この背景には2001水俣ハイヤ節を通じた交流や、袋小学校と杉本家のつきあいがある。水俣病を袋地区のタブーから解放し、水俣病も水俣のあった事実として、小学生たちが受け止めているように感じる。
この“あたり前”感は、水俣病を伝える新地平といってよい。
| ほっとはうす代表 加藤タケ子 |
| プロフィール 1950年10月3日東京都府中市に生まれる 70年代後半から80年代なかば共同保育所、子どもの本屋の運営のかたわら様々な市民運動に関わる。88年から未認定患者のチッソ正門前座り込み支援をきっかけに水俣市に移住。夫とともに故田上義春さんの「生活の哲学」を学びながら自給農的暮らしをめざす。98年「ほっとはうす」を仲間たちと設立、現在に至る。 |
前史はカシオペア会
水俣病患者は裁判や自主交渉で患者補償を獲得し、チッソに対する一定の責任も認めさせました。このことで、水俣病がもう終わった、解決したと受け取られがちかも知れません。しかし、根本的な問題は何も解決しないばかりか、水俣病事件の膨大な被害はその全容さえ明らかではないのです。しかも、患者が地域社会で暮らす日々に生じる困難にさしのべられる福祉的生活援助は、既存の制度にとどまっているのが水俣の現状です。その中で、若年で被害を受けた胎児・小児性患者は後遺症として重篤な障がいを残存させ、人生のほとんどを水俣病を背負って過ごしています。彼らは水俣病の闘いの中で思春期を過ごし、水俣病の象徴的存在と見られたため、結果として健康被害にとどまらない社会病=水俣病二次被害の影響も強く受けた世代です。
それでも、施設に入所しながらあるいは自宅から、地域社会につながる活動に可能な限り参加していき、自立への憧れと働く場を求める気持ちはふくらんでいきました。未認定問題など水俣病の闘いは続き、水俣を訪れる若者との交流から多くの社会性を学び活動の援助を受けていたことは想像に難くないことです。こうした若年の患者の積極的な意志が周囲に共感を呼び、その時代・時代の関わりの中から人と思いが重なり積み重ねられやがて「ほっとはうす」につながることになります。しかし、八〇年代までの運動の時代には、障がいを持つ者としての地域での暮らしを共に考える試みや、福祉的側面からのアプローチは希薄であったようです。
以上を「ほっとはうす」の社会的背景とするなら前史はカシオペア会です。ヘドロの埋め立て工事が終了し、行政=県・市が水俣再生を鼓舞するように水俣病を教訓としたマチづくりを唱え始めた頃、半永一光さんの写真展(※)をきっかけにカシオペア会は九二年二月にスタートしました。水俣病を伝え、障がいを持つ人たちが暮らしやすいマチづくりを提案するための学習会や、車イスの街歩き、先進地研修を兼ねたバス旅行等の例会を、月に一回のペースで続けてきました。
キーワードは「水俣病」と「障がい者」でした。水俣病以外の原因で障がいを持つ仲間や、胎児性患者と同世代の参加も得て、パターン化された「水俣病患者と支援者」の関係とは少し違ったおもむきの活動となりました。一泊二日の例会も企画され、明水園にいる仲間には外泊の機会となりました。また、三〇代のなかばにあった彼らにとっては、病気=水俣病、家族のこと、自らの将来について等々…つきない悩みを語り合う場でもありました。
行政と市民の共催する福祉や水俣病をテーマにしたイベントへの参加については、水俣病の幕引きに加担することもなりかねないとの懸念もあり激論となりました。しかし「あえて参加することで水俣の様々な市民と出会い、水俣病のことを伝え、共に考える機会にしたい」と埋立地で行なわれた「水俣こころフェスティバル」に参加しました。
仲間に出会える場、働く場がほしい
活動を続けることで、より具体的になったのが「街の中にいつでも仲間に出会えるたまり場、働く場がほしい」ということです。仲間や家族に思いを話し、市内に店舗を探し始めましたが、資金的に難しく断念してしまいました。
その後、一九九五年「水俣病解決案」での「もやい直しセンター」建設の情報を受け、設計から市民参加のワークショップにカシオペアの仲間は積極的に参加しました。先の構想を実現するために、建物のイメージの中に「喫茶コーナー」を提案しました。すでに日本の各地で障がいを持つ人の社会参加・働く場として、公共の建物の中での喫茶コーナーの実践がありました。「障害を持つ市民の全国喫茶コーナー交流会」が組織され、情報の交換も行なわれていることも知り、いち早く繋がることで地域を越えた大きな力を得ることが出来ました。
こうした応援も功を奏して、皆の力で「喫茶コーナー」を設計に盛り込む事ができました。運営も私たちに任せてほしいと市民の会(つくらの会)を組織し、市に要望と交渉もしました。決断を迫られた行政は機会の平等と公平の原則を理由に公募とし、選考の結果は落選となった私たちでした。「もやい直し」のかけ声は、水俣病や患者に対する市民のハードル=垣根を少しずつ低くし、ワークショップに参加した市民も非常に好意的であっただけに納得のいかない結論でした。
カシオペア会の活動の中で芽生えて七年、「もやい直しセンターワークショップ」に参加して三年、コツコツと水俣の棚田の石垣を積むように積み上げてきた皆の思いは、もう弾けずにはいられませんでした。
「ほっとはうす」誕生へ
資金的な問題も含め困難は山積みでしたが、市内に店舗を借りカシオペア会の胎児・小児性患者を中心に、水俣病患者・障がいを持つ人・様々な市民がもっと自然に交流できる場、働く場として、共同作業所「ほっとはうす」を一九九八年一一月実現させました。
「案ずるより産むが易し」とはこのことでしょうか。街の中心部に場が確保され、メンバーが働く場に日々通う姿は、家庭と地域の共感を生みました。水俣病や障がいへの理解も進み、母親を中心とした集いの場が自然とできました。これまで患者家族が抱え込んできた悩みや心配を語り合い、自身が患者であり家族も同様な被害を受けていることから積年の水俣病をめぐる思いを発露する場ともなっています。その貴重な体験を記録する作業は、若い患者の記録の着手と同様「ほっとはうす」の大切な使命です。
水俣市の福祉就労の場=小規模作業所として行政から認知され援助もありますが、働き・交流する場を維持する経済を確保するのはなかなか大変です。エネルギッシュな活動や動きが欠かせません。喫茶コーナーは所内だけでなく、市内のイベント(コンサート・講演会など)での出前喫茶も行っています。作業コーナーでは、水俣の自然の豊かさを感じてもらえる野花の押し花を使った作品の制作、ラベンダーのポプリ作り、市役所・国立水俣病総合研究センターなどでのパン販売も同時に行なっています。障がいの程度に違いはあっても、道具を工夫しながらほとんどの仕事に皆で関わることは、仲間としての責任と助け合いの気持ちを強くし、苦楽を共にする日常お互いの絆をさらに深めています。
水俣病を伝える活動も積極的に行ない、水俣病多発地区の小学校での取り組みは四年になりました。現在では市内の全小学校と交流しています。継続ある取り組みとして学校と相談をしながら、対象学年にあわせた伝える工夫=「ほっとはうす」オリジナルのプログラムもできました。子どもたちは素直にほっとはうすを訪ね、街で出会った時に「ほっとはうすの○○さん、こんにちは」と声をかけてきます。水俣病も患者さんも特別な存在でない、水俣に生きる子どもとして自然に水俣病を学んでいく姿を見ることができます。機会があれば遠方、市外にも出かけています。これらの活動が「ほっとはうす」の中心です。また、喫茶コーナーでもお話するなど、水俣を訪れる人たちはもとより、水俣の市民にとっても水俣病事件を語り伝え、被害が見える場としての役割を担っていくつもりです。
働く場から地域生活支援へ
![]() |
胎児性・小児性患者の彼らは、「石川さゆりショー」を成功させ、「水俣生活学校」で同世代の若者と青春を謳歌し、志を持って水俣を訪れる人たちと交流してきました。「浮浪雲工房」「いまから一歩の会」での障がいを持つ人の自立への試みなど、様々な活動に意欲的に取り組み、感性豊かな情熱と行動力を発揮してきたのです。「ほっとはうす」は、身体的にも精神的にもサポートを必要とし、一般的な加齢現象では考えられないほど急激な身体機能が低下している彼らにトータルにつき合い、家族と共に寄り添い続ける存在でありたいと思います。また、施設や自宅にあって同世代の交流を求める人たちの希望を実現できる機能や事業を目指しています。
設立の経緯からも分かるように水俣病患者が中心ではありますが、障がいを持つ人の福祉を模索してきたわけで、水俣病患者に限定された場ではありません。小規模作業所という福祉施設の枠を超えた実践が、これまでも行なわれてきました。今後は本格的に社会福祉法人化を図り、働く場・交流の場をさらに発展させたいと考えています。施設ではなく地域で暮し続け、自分で日々の暮らし方をコーディネートできる空間、ケアハウス・グループホームのような場所を実現したいと願っています。
胎児・小児性水俣病患者が、精神的にも充実した健やかな五〇代を迎えられる水俣が実現されることは、多くの障がいを持つ人が地域でその人らしく生きるシステムが構築されることでもあります。そうして水俣病の教訓が、福祉の分野でも生かされたことになるのだと思います。
多くの皆さんの知恵と力をまだまだ必要としている水俣です。「ほっとはうす」の試みに、是非、末永い応援をお願いします。
(※)半永一光写真展とカシオペア会
胎児性水俣病患者を中心に構成。きっかけは半永一光氏が水俣で行なわれた国際会議の場で、初めて写真展を催し、「水俣病は終わらない、自分たちが存在する限り終わらせない」と迫力ある自身の写真で訴えた行動によります。この写真展を共に準備し、応援した仲間のつながりを続ける場としての活動を開始しました。
徳富一敏/加藤たけ子/大矢理巳子/仁禮恵子/永野ユミ/千々岩巧
司会 遠藤邦夫
「ほっとはうす」との出会い
![]() |
| 徳富一敏(とくとみかずとし) もやい直しセンターおれんじ館館長 |
![]() |
| 加藤たけ子( かとうたけこ) ほっとはうす代表 |
![]() |
| 大矢理巳子(おおやりみこ) ほっとはうす運営委員 |
![]() |
| 仁禮恵子(にれけいこ) 地域療育を考える会ぱれっと代表 ほっとはうす運営委員 |
![]() |
| 永野ユミ(ながのゆみ) ほっとはうす運営委員、まどか園副施設長 |
![]() |
| 千々岩巧(ちぢいわたくみ) ほっとはうす運営委員、市議会議員 |
![]() |
| 遠藤邦夫(えんどうくにお) 相思社職員 |
司会 今日はお忙しい中ありがとうございます。「ほっとはうす」が設立されて四年目を向かえています。もやい館での喫茶店のことをバネにして出発したわけですが、さまざまなご苦労があったと思うし、またさまざまな感動を生み出してきたとも思います。相思社からは、お客さんを案内して行ける場所が一つ増えたと、単純にありがたいんですが。それは外からのお気楽な言い方ですいません(笑い)。
運営委員として関わって来られた方や、カシオペア会から関わってきた徳富さんには、また別の感慨と問題意識があるんじゃないかと思います。今日はそれをとても全部とはいきませんが、大事な点を語っていただきたいと思います。耳に痛いこともあるかと思いますが、信頼できる関係だからお互いに耳を傾けて役立てようじゃあないですか。
では、ご自分と「ほっとはうす」の関わりから話して下さい。まずは徳富さんから。
徳富 立場が違う私が何でこの場に呼ばれたかというと、きっと私が障害者ということと、「ほっとはうす」を作る前から関わってきたからだと思うんですが。「ほっとはうす」が何なのか、近頃見えてこんごとなったんですね。
最初はつくらの会(註)という形で立ち上げてきたんですけれど、みんなが集まれる場、喫茶コーナーなりを作りたいと、考えを積み上げて、それが「ほっとはうす」になった。果たして積み上げてきたことが、今「ほっとはうす」で実現できているかというと、そのときの考えとは少し違う方向に行ってると思っているんです。
「ほっとはうす」は現実としては胎児性の人が多いので、メディアや回りが水俣病の患者のための施設という見方をしている。水俣病を伝えていくことを、「ほっとはうす」の活動の中に入れたことによって、それがよけいに拡大されてきた。
水俣病を伝えていくことは非常に大事なことだし、そのこと自身は胎児性のみんなにとって一つの財産であるから、それを活かすということは意義あることだと思う。ただそれが「ほっとはうす」でなければなからなかったのか、つくらの会で立ち上げていったときの関係からですね、自分自身は疑問に思う。良いことだけに、どう表現していいかが難しい。
司会 かなりきびしい発言でしたが、これも「ほっとはうす」を思えばこそ、なんですよね? で、他の方の見方もあるでしょうから、次に仁禮さんお願いします。
仁禮 私は一主婦というか、縁あって水俣に来て、何かしら人の流れでこの中に入ってきたって感じなんです。とても居心地いいし。他の人と違うのは障害を持った子どもがいるという点かな。個人的には加藤さんにグチを聞いてもらったりしてつながってきました。「ほっとはうす」との関わりは、徳富さんのように立ち上げ以前から関わっていたのではなく、できあがってからです。
私が「ほっとはうす」に関わっている理由は、みんなが一生懸命生きているというのがすごく魅力的でした。それはメンバーもスタッフもです。こういう障害を持った方の施設とか作業所というのは、けっこう親が立ち上げているんです。加藤さんは身内でもないし親でもないのに、「ほっとはうす」を立ち上げて活動しているんです。最初疑問を感じました(笑い)が、それが当たり前の社会の流れなのかなって。地域で支えるという一歩の動き、それも大きなことじゃなく、人の動きとして始まっていることに気付いたときにすばらしいなと思った。
今ほっとはうすは水俣病を原因疾患とする障害者が大半を占めていますが、あくまでも重い障害を持った方のという視点での活動はちゃんとできていると思います。メディアからのイメージは大きいですけど、でもそれはそれでいいいかなと思います。水俣病を事件としてでなく病気としてだけでなく水俣病と共に生きているのは彼らだし、彼らだからこそ伝えきれるもの、社会の中での大切な使命を持った人たちだと思いますよ。ほっとはうすだからこそできる活動だと。
作業所とか施設とかいうイメージでないほっとはうす。家族っていうか他にないような仲間の絆がここにはあります。すごく魅力的です。だからワガママも言えるし、だから問題もあるし(笑い)、それに真剣に関わる仲間がいる。それがいいかな。
司会 では次に千々岩さんお願いします。
千々岩 途中から参加させてもらったんですが、水俣病と関わっていきたかったということです。それとほっとはうすの開所式のとき、東京から来ていただいた日本で初めて障害を持っている人達の喫茶コーナーの元祖と言われるワイガヤのスタッフと話が盛り上がり、水俣の障害者の福祉のためになればと議員視察に行ったことが関わり合いの始まりです。
私の近所にも知的障害の子どもがおったんですね。その子どものお母さんと話したときに「私たちが生きている間は良いんですよ」と言われてとても衝撃だったんですね。ほっとはうすの中に少しずつ足を運びだしてから、メンバーのお母さんたちも家族会で同じことを言われたんですね。話していく中で加藤さんたちが中心になって、胎児性のお母さんたちの話を聞き取り調査して残していこうと考えていると聞き、是非参加したいと思いました。お母さんたちの話は、資料とか本に載っているものとか資料館で展示しているようなことより、全然迫力があるんですね。例えば、恋路島や水俣湾の表現だって全然ちがうんです。そんなことがあったのかと思い、こらあ今のうちにちゃんと記録しとかんばと思いました。
加藤 千々岩さんたち議員さんには、小規模作業所の助成申請に際して、いろいろ智恵をいただき、、窓口も開いてもらいました。家族会では運営の相談をするだけではなく、今だからこそ語れる心境にもなり、お互いに思いのつまった例会です。メンバーの小さい頃の様子や貴重な体験を伝えていただく場でもあり、メンバーと家族のジョイントの役割もしてますね。
司会 それでは開田さんお願いします。
開田 私と「ほっとはうす」の関わりは、東京水俣展が開催された後だったと記憶しています。私自身はやっと水俣病と向き合い取り組み始めた頃なんですよね。今思い返せば、当時カシオペアの会に入っていた従姉妹から「みんなで喫茶店をしたいねって話しているんだけど、今度集まりをするから参加して」と声をかけられたのが始まりでした。それで集まりに出てみると、障害を持った人の移動をボランティアで手伝ってもらえないかと。最初私はなんでそんなにまでして関わらんとかな、奇特な人がおんなさると思っていたんです(笑い)。
その後、私に何か応援できることがあればと思って何度か集まりに足を運んだのが運のつき(笑い)かな。もやい館での話し合いの場面が記憶に残ってるんです。加藤さんの言葉ですが「もやい館での喫茶店は実現しなかったけど、もうみんなの年齢を考えると待っていられない。街なかの民家一階を借りて始めたいと思っています。場所はここですから、みなさんも一度見に行ってください。どう思われますか。」と訊ねられた。「家賃はどうするんですか? 一杯二〇〇〜三〇〇円のコーヒーを何杯売らなきゃいけないんですか?」と私は思わず訊いてしまって。「売り上げで家賃をだせるとは考えてません。街の中にあって地域の人が気軽に立ち寄れ、みんなが集える仕事の場所を作りたいと考えています。行政から認可された作業所は助成が受けられるんです」と言った。その時はじめて小規模作業所のことを知ったんです。それが今のほっとはうすですよね。
司会 では次に永野さん、お願いします。
永野 胎児性の皆さん方は、私が水俣に就職するきっかけにもなった、学生時代の調査で初めて出会った人たちでもありました。その後、湯之児病院のオープンと共に彼らも入院してきましたので、職業的なつながりもできたんです。私のなかには彼らがまだ小さかった頃に思った「将来どうなるんだろう」ということと、障害を持った多くの人が水俣でどうしたら安心して生活していけるのかという、職業的なテーマがありました。その後、障害を持った方が働く場ということで徳富さんたちと福祉作業所活動を進め、胎児性の患者さんにも来てもらうことができました。
しかし、曲がりなりにも作業所はできたけれど、そこでも働けない人がいます。重い障害を持った人たちであったり、住んでいる所によっては通ってくることができないとか、まだまだ在宅で障害を持った方がいる。福祉作業所では難しいけれど、それとは違った場が必要だなという思いがありました。「ほっとはうす」はその場のひとつであり、気になっていた胎児性の皆さんと、今、共に活動できることをうれしく思っています。
司会 代表の加藤さんには、これまでの歩みの中でいろいろな思いがあったんでしょうね?
加藤 水俣に暮らすきっかけが水俣病との出会いであった私にとって、「ほっとはうす」への関わりは素直に自然に進んできたのが実感です。横浜での共同作業所や障害を持つ子どもの、地域の学校への就学支援の活動の時は、水俣病は人権と環境にとどまり、福祉の視点は持てませんでした。
それが胎児性の患者さんと寄り添う暮らしの中からはその視点が見え、カシオペア会のキーワードも水俣病と障害を持つ人で、その二つを通して水俣病事件を伝えてることでした。水俣病患者だけが生きやすい街をではなく、障害の種別を越えて、障害を持つ水俣の人たちがみんなで安心して暮らせる街をつくることでした。
だから徳富さんが関わり始めたときに、あえて「水俣病患者としてだけこの会をやっていくんだったら、僕は参加しない」と発言した彼の参加はうれしかった。
彼らとつきあってきて感動したことはたくさんありますが、その中の一つを紹介します。長井さんがおばあちゃんを介護した話です。私も最初は「長井さん、何言っているの」って、「本当にあなたはおばあちゃんを介護したの」って。私たちは障害を持っている人に対する、何もできないというイメージがあるじゃないですか。で、話を聞いていくとみんながミカン山にいってたときに、長井さんが家で留守番して寝たきりのおばあちゃんのオムツを交換したんだと聞いて。「どうやってオムツを交換するの?」って聞いたら、明水園にいるときに寝たきりの患者さんのオムツ交換を見ていたというんです。
清子さんも明水園にいるときから、積極的に自分より障害の重い仲間を気遣っていました。「ほっとはうす」の戸締まりを、忙しいスタッフが忘れているんじゃないかなと帰宅してから電話をくれたりします。「ほっとはうす」の人たちは行動力と社会性が抜群です。この、場「ほっとはうす」もみんなでやっている意識。この人たちはいろんな意味ですごく豊かに、素敵に生きてきていると思ったんです。困難なことはいっぱいあるんですよ。いっぱいあるけれどもそういう一つひとつに触れられた、自分にとっての十数年の中でこんな関わりを持てた私は、よかったなと思いますね。
自立って何
司会 今までの皆さんのお話は「ほっとはうす」との関わりでした。それでは背景にある障害者の自立を少し語ってみたいんですが。
徳富 今のはちょっとおかしいよね、健常者の障害者のじゃなくて、自立そのものを考えなくちゃあねえ。
永野 別に障害がなくても自立できていない普通の人ってたくさんいますよね。どうして障害を持っている人だけ自立自立と言われるんでしょうね?
加藤 自立の語源とか、いつから言われるようになったのかが、気になっています。最初、政治用語や運動用語として使われたのかな? でもはっと気がついたら、障害を持っている人にいつも問われるようになっているんですね。
徳富 現実的には経済的自立、精神的自立というのが出てくると思う。経済的自立というのが健常者には普通に見られる自立だから、障害者もそれが問われるんです。障害者の場合は経済的自立を求めると、現実的には難しいところがいっぱいあります。とりあえず、精神的自立というのが障害者にとって大きな課題じゃないかと言っておきます。
どんな自立にしろ、本人が選択権を持っているかどうかですね。レールをはずれることが許されないのは自立じゃなくて生かされているだけでしょう。
司会 生活圏が多様であればあるほど自立は促進される?
徳富 そらそうでしょうね。でも施設に入っていれば、選択の幅は狭くなってくるでしょう。施設そのものがどうかじゃなくて、その施設が具体的にどうかでしょうね。
司会 「ほっとはうす」はどうなんですか?
加藤 任意ですよ。本人が入りたいって言われれば、今までいたメンバーが一緒にやっていこうかとなれば、そういう合意の元に決めています。
司会 やめることもできるわけですね。
加藤 誰もやめないでくれとは言えないわけです。あなたがいなくなったら「ほっとはうす」つぶれちゃうから止めないでとはいうかもしれないけど(笑い)。
どんな「ほっとはうす」を創るのか
司会 障害者の人の親の「私が生きておらんば」という話がありましたが、仁禮さんはどうですか?
仁禮 思いますよ。誰にも分からないような不安をいつも抱えています。それは言葉では言えない。自立とか、結局はその人本人をどれだけ知っているか、人と人と関わるときに健常者でも障害者でもそうだけど、私の横に坐っている徳富さんのことを私はどれだけ知っているか? その人のことを分かっている人を、大人になる間に見つけられるか? 自分もそうですよね、私のことをほんとうに分かってくれる友だちをどれだけ持つかによって、その人の生活の質の高さじゃないのかな。
永野 作業所って仕事をするだけじゃないんですね。仕事に行くためには、朝起きて自分の身の回りを整えて出かけることが必要ですね。生活全般がそのために組み立てられてないと難しいですよね。親も家族も気持ちよく送り出せる、本人も気持ちよく出て行く、そこから始まっていると思うんですね。一日終え明日も気持ちよく行けるというか、生活全体も視野に入れながら関わっていかないと、難しいですよね。
開田 「ほっとはうす」が難しい場面というのは、生活の場のための「ほっとはうす」と捉えているのか、作業所の「ほっとはうす」と捉えているのか、またひとりの中でも時によって考え方が違うじゃないですか。
ほっとはうすの趣意書に「今日することがあり、行ける場所がある。私を必要としてくれる場がある」とありますね。この捉え方があって次のステップになり働く場の充実になるのかしらね。ほっとはうすの場に毎日来れる生活を支えることも大切ですよね。
司会 「ほっとはうす」の日常はスタッフとメンバーで構成のようですが、相互の関係はどうですか。
徳富 つくらの会から参加している自分としては、できるだけスタッフとメンバーの枠がとっぱらわれ情報の共有化もしっかりできるのが理想なんですけどね。
仁禮 もう充分とっぱらわれているように見えますよ。もしかしたら、ほっとはうすは端から見れば、ただのたまり場にしか見えていないかもしれません。でも障害を持った人たちがあそこに来るということは、誰もが知らず知らずに持っている社会の中のどこかに自分の位置を見出した、社会の一員として歯車を回したいという気持ちがそうさせていると思います。そして今、ほっとはうすのメンバーは自分の持っている力で生活者、社会人として働いています。もちろんスタッフの支えあってのことですが、各々の持っている力を力を出し合って補って、けっこう毎日がドラマですよ。
司会 徳富さんが言うメンバーとスタッフの間における情報の共有化はどうですか?
加藤 情報の共有はできていると思います。例えば簡単なケースで言うと、ほっとはうすの大切な仕事、水俣病を伝えるプログラムについて電話がかかってくる。「うちの学校に来てください」といったときに受けたスタッフは、「お話はわかりましたが、メンバーに確認した上で最終のお返事をいたします」という形で、入ってきた情報を一方的にスタッフが受け止めて「はい行きます」とはしないんです。そういうところから共有できるようにしています。
また、出前喫茶の場合も例えば三万円入ったとします。この三万円がそのまんまみんなの給料になっていけばいいけどそうじゃないんですよねっていうところも話します。毎朝のミーティングや週末のミーティング、手紙が届けばスタッフが代読します。
理解力が少しゆっくりな世界を、私はどれだけ知っていたかなと思うんです。メンバーにいろんなことを話したら「聞いていない」って言われる。あっちこっちに行って「聞いていない。スタッフがかってに決めている」って言うと、カッカきますよね。だけど自分の頭の中でキャッチしやすい事柄と、そうじゃない事柄がかけ離れているんです。その結果生じることであって、それを「聞いてない」といえる関係は「ほっとはうす」にはあるんです。
私たちもできていないことはいっぱいあるし、間違いをいっぱい起こすし、思い上がっちゃうし、それを常に自分のなかに持ちながら、私は全てを前向きに評価しています。
千々岩 関わらせてもらって思うことは、メンバーがいつも支えられているばかりでなくスタッフや私たちもどれだけ支えられているのか分からないですよね。
加藤 ほんとうにどっちが支えられてるか分からないですよ
エピローグ
司会 「ほっとはうす」が注目されるのは開かれているからでしょうね。
永野 密室化していれば、だれもほっとはうすを知らないし、関心も持たれないですよね。
千々岩 市役所でのパン販売、出前喫茶にと、ほっとはうすの活動は見えやすいところで行われてますよね。
永野 水俣は環境という点では、一定のモノを積み上げて来たと思うんです。ただ福祉の面では水俣病の教訓はどう活かされたのかという課題が残されていると思います。患者ささんは水俣病だけの福祉サービスをつくるようにはいっておられないと思います。
水俣の福祉を考えるとき、水俣病の教訓がきちんとすえられ、老いても障害があっても安心して暮らせる水俣のまちづくりになっていくことが大事だと思います。
千々岩 私もそれが言いたかったんですが、環境モデル都市を大きな政策にしているんですが、だったら福祉のモデル都市の構想があってもいいんじゃないかと思うんですね。
例えば「ほっとはうす」の中にも、いろいろな障害の人がいて和気あいあいとしている。障害者のある方は、ほかにもいっぱいいらっしゃるんですね。これをひとくくりではないんですが、みんなが共通の場で生活できるような福祉のモデルを、水俣は目指せないかなと思うんです。そうした水俣型ができると思うんです。
加藤 私は彼らだからこそできる、日本のどこにもない先を行く、障害を持っている人たちの場が、「ほっとはうす」発でできるんじゃないかと思います。
開田 一人ひとりの存在が作業所そのものですよね。従来の手を使っての作業とは違っても良いんじゃないかな。
司会 組織的なことや考え方のことを整理して直接解決するのは難しいんですが、今皆さんが話されたように、「ほっとはうす」が何を作り出していくのか、何を伝えていくのかという動きが、いろいろな問題を前向きに解決するんじゃないでしょうか?
すいませんが時間となりました。言い足りない点は多々あると思いますが、座談会のおもしろさは編集されない生の言葉が行き交う点です。加藤さんは、こんな座談会では「ほっとはうす」への誤解が、かえって増えるかもしれないと心配されているかもしれませんけど。行間から読み解くこともあれば、逆に誤読もあるかもしれませんね。
加藤 まあそれは困るわねえ。
司会 良いじゃないですか。「ほっとはうす」が持ってる力と、水俣が持っている場の力を信頼していいと私は思います。この座談会を読んだ人から、「なんだほっとはうすは!」って来たら、私に回してください。「一緒に考えましょうよ」と言いますから。
ありがとうございました。