機関誌 ごんずい 75号

ごんずい74号


目次
特集 : 相思社のお・し・ご・と

      我が水俣病を伝える/相思社職員一同
      相思社 それぞれの仕事から
      水俣病歴史考証館 水俣病をどの角度から捉えるか /川部岬
      もやいネットワーク
       四区寄ろ会との協働作業/遠藤邦夫
       市民手作りの「火のまつり」/荒木千秋
      名簿管理 ネットワークを支える/神沢聡
      管理 利用しやすい相思社に/荒木千秋
      資料整備 相思社の存在理由として/弘津敏男
      水俣病を伝える 湯の児の山から/小里アリサ
      舞台を支える裏方として/坂本京子
      案内 水俣のマチをどう見てもらうのか/弘津敏男


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記事 : 新連載 第二回 小里アリサの相思社日記
      水俣トピックス 漁民の森づくり / チッソのダイオキシン流出について
      相思社日誌/ありがとうございます


特集 相思社のお・し・ご・と


 「水俣病センター相思社はどんな仕事をしているんですか」と、よく聞かれる。ところが職員の応答はきわめて歯切れが悪い。「えっと、歴史考証館を運営しています。水俣病事件の資料整理とデータ入力をしています。維持会員も募ってます。宿泊もできますよ」云々。これでは聞いた方にはますます疑問が湧いてくる。「で、歴史考証館って水俣市の資料館とどう違うの?」「宿泊できる?」云々。もちろん相思社には活動を紹介したパンフレットはある。そこには財団法人の設立目的や目指すものが書かれてはいる。
 たとえば誤解を受けていることにグリーンツーリズムがある。通常都会の人が農山漁村で、そこに住んでいる人と交流したり、ゆっくりした時間を過ごすことをさす。私たちのグリーンツーリズムは、形としてはその通りだが、狙いは水俣病事件を伝える新しい回路づくりなのだという点が分かりにくいので、「相思社も観光に手をだしたのか」と思われている。
 今回の特集は、相思社の仕事を分かり易く説明することにした。相思社が多くの人に支えられて維持・運営されている事実からすれば、その活動が分かりにくいことは致命的な欠点だろう。

 しかし相思社の分かりにくさは、実は職員がどんな仕事をしているのかでない。相思社が何を目指しているのか? また職員は何を考えて相思社で働くのか? いわば相思社の哲学が問われていることは分かっている。世の中だってどこを向いているのか分かったものではないが、ならば相思社はその世の中をどうしようとしているのか? まずは職員の「我が水俣病」と、それぞれの仕事を紹介する。


我が水俣病を伝える

荒木郵送の図
荒木郵送の図
小里仕事の図
小里仕事の図 ハワイであるもの探し
小里仕事の図?
小里仕事の図??? どんな仕事
環不知火海調査で山から調べる
環不知火海調査で山から調べる
弘津パソコンと語るの図
弘津パソコンと語るの図

相思社職員一同

荒木千秋 −− 私の水俣

 以前は「水俣」と聞くと、「ああ、水俣病の水俣ね」という感じだったが、この数年、水俣に教育旅行で訪れる学生や、水俣病に関心を持つ人たちが訪れるようになった。私にとって水俣は、生まれ育った故郷だ。ただ普通に三〇年この水俣で生きてきた。いや、普通ではない、本当は水俣病と向き合うことを恐れて生活してきた。子供の頃は、他人事のように思っていたし、生まれる以前の話だとばかり思っていたけど、本当は水俣病は終わっていなかった。その事実を二五歳にして初めて知った。単なる水俣病のあらゆる知識だけではなく、自分自身の体験や人と暮らしの繋がりを通して見えてきた、「水俣と水俣病」をこれからも多くの人に伝えていきたい。
 水俣を訪れた人達が、自分で発見したことや理由を深めることで、自分が生活している地域や、自分に問いかけるきっかけとして、私は、水俣市民として、相思社職員として、水俣病を伝えていきたい。


遠藤邦夫 −− 相思社三〇周年を記念した出版物

  二一世紀の初頭に、水俣病事件関係の様々な事柄がそれぞれの画期を迎える。二〇〇三年第一次訴訟判決三〇周年、二〇〇四年水俣病センター相思社設立三〇周年、二〇〇六年水俣病公式確認五〇周年、二〇〇八年日本窒素肥料株式会社(現チッソ)が水俣に来てから一〇〇周年。
 二一世紀がどんな世紀であるかは、私たちがどんな時代にしたいのかという意志が大切ではないかと思う。一方では相も変わらぬ帝国主義usaの戦争はあるが、その妄想を越えるような世界を提示する必要は変わっていない。どんな世界に、どんな日本に、どんな水俣に、どんな相思社にしたいのか? でありながら私は、三〇周年の出版担当として、何をしようかなと考えている。次々に迫ってくる仕事に追われながら、流れの中で出版を考えると誤るだろうとは思っている。誰に、何を伝えたいから言葉を綴るのか? 「水俣病を伝える」ことは決して自明のことではない。伝えたい事柄と、伝えたい意味
と、伝えたい私の意志が、ハーモニーを奏でていなければ、たぶん受け手はいないだろう。
 で、読者のみなさまが、どんな「水俣病」を伝えたいのかご教授いただきたい。私作る人、僕読む人ではなくて、相互交流で形作られるものを夢想したい。


小里アリサ −− 遊びをせんとや生まれけむ
 
 水俣病を伝えるのに、「遊び」とは。
水俣は最初から水俣病のまちだったわけではない。海には海の、山には山の、まちにはまちの日々の暮らしがあって、季節や潮時の自然の恵みを受けていた。三月の大潮の時などは浜行きといって、山の人たちも浜に降りて貝を採った。それは生活のためだけではなく、楽しい遊びでもあった。
 遊びや仕事を通して受け継がれてきた知恵と技があれば、必要なものは手に入る豊饒の世界。あふれる生命に向き合って暮らしてきたからこそ、生命のつながりを壊してしまった水俣病の衝撃ははかりしれないのだ。
 水俣病を学びたいという人たちに、相思社が「まずは水俣の海山川に行って遊びましょう」と言うのは、それが水俣病を生命のつながりから捉える第一歩だからだ。

        
神沢聡 −− もやい直し

 「もう水俣病のことはよかろう。」まちの人から時々言われる言葉である。患者もチッソの社員も水俣病で風評被害を受けた商店や農家の人もいる水俣で、水俣病のことを言うのはそれほど簡単ではない。地元の小学生や水俣出身ですという人も相思社を訪れるが、そういうときは緊張する。正義感だけで主張を行っても、子ども同士が同級生だったりと生活のあらゆる場面を共有する地域共同体では浮き上がってしまう。
 相思社が目指すものの一つに「もうひとつのこの世」がある。水俣病事件を鏡として現代社会の有り様を問い、「水俣病」を生み出さない世の中、物質的な豊かさだけではない暮らしを創造することだとも言えるだろうか。そして、これに向かって足元から地域づくりを行うことが、究極のもやい直しだと思う。地域の人は、時には喧嘩もしながら、「もうひとつのこの世」を作っていく仲間である。
 しかし、水俣病は、そこに住んでいる人はなんらかの形で当事者とならざるを得ず、水俣の中からが一番見えにくい事件であったかもしれない。今なお残る差別偏見の現実もある。水俣病を鏡とするためには、このまちで起こった水俣病とはどういうことであったのか、まだまだ、水俣の中へ向かっても発信を続けなければならない。もやい直しは出発点に立ったばかりである。
 とは言え、実際の活動をどうしたらよいのか迷うところである。ちなみに、三月二九日には、もやい館主催ではあったが水俣病の映画・ビデオ上映展を行った。


川部岬 −− 我が水俣病

 「我が事」として水俣病を感じられるようになってきたのは、相思社に入って半年ほど経ってからである。実際に患者の人の家へ行き、向かい合って話をするうちに「ああ、水俣病の起こった時代とは祖父母・父母が生きてきた時代であり、今に続いているんだな」と感じたのであった。
 水俣病が起こり、被害が激しかった時代を知らない私。それ故か水俣へ来てすぐは、患者の人の信じ難いくらい悲惨な体験に驚き、どう思うか以前に絶句してしまっていた。物事を受け止めるためには、ある程度時間が掛かるのかも知れない。
だから私自身も気を付けなければ。来訪者に「それらしい答え方」を期待してはいないかと常に己に問う。感じ方は人の数だけあるのだ。言葉をすぐに期待しない。いつか生きているうちに「あっ」と思ってもらえればよいと思うから。いつ自分が加害者・被害者になるかわからない世の中、昨日の他人事が明日は我が身かも知れない。「我が事として感じること」が、水俣病を伝えることの鍵だと思う。


坂本京子 −− 庶務・会計から

 私たちは、水俣病事件を通じて二度と同じ過ちを繰り返さないために次の世代に伝えていく義務がある。伝えるという手段は幾つかの選択肢があるが、自分の職務から考えられる方法としては、相思社の中で対外的にアピールできるスタッフと役割は違うが、わたしは所内にいて来訪者に対し、その感性に水俣病を感じてもらえるような「場づくり」「自分づくり」を形成していかなければならない。そのためには水俣病に関する知識はもちろんのこと、表現力を高めて自立したスタッフになり、わたし個人の意見を理解していただける力を育てていく。
 また、患者たちとのふれ合いや、いろんな行事などに参加して、たくさんの人と出会い、その中でアンテナを張り、情報交換やネットワークを拡げるということに努力していく。


弘津敏男 −− 相思社のホームページ

 相思社のホームページは一九九七年一〇月に掲載を開始し、現在までに一五万件あまりの閲覧がある。初期は「ごんずい」の一部と考証館展示の一部を紹介しているだけだった。その後徐々にページを増やし、今ではかなり厚い本が一冊できるほどの情報量となっている。
 ここ二年は閲覧数は年間四万件を越えているが、その半数あまりは小学生だと思われる。ニーズに対応し小学生向けのページを充実させてきている。
 最近は「ホームページを見て書籍(あるいはビデオ)を注文したい」というメールが週に一件くらい来るようになった。
 昨年の年末からは「職員のページ」を新設した。今後の予定としては「読者のページ」を新設し、「学生など若い人向け」のページを充実させていきたいと思っている。
 悩みはホームページ更新の作業時間がなかなかとれないこと。「最低毎月一回は更新」を目標にしたい。


水俣病歴史考証館 水俣病をどの角度から捉えるか

相思社敷地

川部岬

 水俣病歴史考証館(以下考証館)は水俣で一番最初にできた水俣病の博物館である。一九八八年、まだ水俣湾埋立地も未完成、水俣病患者と支援者によるチッソや熊本県への交渉・裁判が続いていた頃であった。エノキタケの栽培工場を多くの人の手によって改装し、全国を行脚し寄付金を集め、漁具などを譲ってもらい、患者の人や地元の人に聞き取りを重ね、大学に協力を願い考証館は開館した。
 考証館での常設展示の他、来訪者に対し現地での案内を行い、時には患者の人に話してもらった。また、各地で映画上映会やパネル展の開催も行ってきた。できるだけ多くの人に水俣病に関心を持ってもらうことが、相思社の活動の新しい大きな柱であった。それらは相思社で「考証館活動」と呼ばれた。「水俣病を伝える」ことを巡って議論を呼んだこともある。水俣病患者へ投げかけられた嫌がらせの言葉をパネルに表示したところ「そのパネルによって差別がばらまかれるのでは」などの意見もあった。少しずつ改訂を重ね、今年は開館から一五年となる。
 今では水俣市立水俣病資料館(九三年開館)、国立水俣病情報センターの展示室(〇一年開館)もあり、「そんなにいくつも水俣病の資料館が必要なのか」と言われているのかも知れない。各々の施設で水俣病への視点・切り口・立場が違い、それぞれに特徴がある。各施設が「何を伝えるのか」を追求することは、水俣周辺地域そして環不知火海の地域にとって決してマイナスにはならない。今、必要なのは記録すること、そして伝えることなのである。水俣病が公式に確認されてから、もうじき五〇年。水俣病が起こった時代をよく知らない、分からない人も増えている。高度経済成長期以降に生まれた人は、ほとんどそうだろう。一〇年後、二〇年後、果たして水俣病はどのような伝えられ方をしているのだろうかと思う。望遠鏡で遠くを見るような感じになるのであろうか。人々の記憶が薄れ消えてしまわないうちに、やらなくてはならないことがある。患者の人を始め、水俣病の起こった時代を生きてきた様々な立場・地域の人々の声に耳を傾け、記録すること。水俣病の起こった時代の資料を整理する、保管すること、それが無くして五〇年後一〇〇年後に水俣であったことを伝えることはできない。できるだけ生の声を記録し伝えることが、水俣病でなくなった命を無駄にしないことになるのではないだろうか。いつの日か滋賀の琵琶湖博物館みたいな、環不知火海の総合的な博物館を造るときが来るかも知れないのだから。
開館から一五年、考証館もそのあり方を見直す時期に来ている。「一〇年前の展示とあんまり変わっていないね」という声もずいぶんある。特に一九九〇年以降の水俣・水俣病の新しい動きについては一〇枚程のパネルにまとめた程度である。その理由の一つには、水俣市や地域の人々と共に「もやい直し事業」に関わること、つまり箱モノにとどまらない活動を重視していた時期があったためだということも考えられる。ここ七年くらい相思社は水俣病だけでなく、その背景や暮らしの部分に目を向けて来た。水俣病を伝えるとは何かを、相思社のあり方を試行錯誤で模索してきたと言っても良い。地域全体が博物館であるというフィールドミュージアム構想やグリーンツーリズム・エコツーリズム・環境学習・体験学習といった新しい話題から、水俣の水めぐり、土着の神、もの作りをする人の暮らしまで「ごんずい」で特集してきた。時には「新しい商売に取り付こうとする相思社」「迷走する相思社」のように思われた方もあったかもしれない。
 今、言えることは「水俣病だけでは水俣は見えないし、水俣病抜きでも水俣は見えない」ということではないか。その下地になったのは、様々な切り口で水俣に接してもらおうと「水俣病をいかに伝えるか」を模索し積み重ねてきたことなのである。「近・現代の暮らしのなかから水俣病が生まれた」「暮らしのなかの水俣病」という視点を考証館の中心に据えたい。これはべつに目新しい視点ではない。本来、考証館活動・展示にも表れているものである。展示の一部に不知火海沿岸から集めてきた漁具がある。漁具を集めていた頃のビラに次のように記してあった。「水俣病歴史考証館では、水俣病の歴史を伝えるとともに、不知火海沿岸の人々の、生活の様子も展示したいと思っています」原点に立ち返って、何を新しくするのか!それは「ごんずい」に特集しているような相思社の活動と、箱モノである考証館を連動させることにある。いつ頃からか考証館と相思社の活動が連動しなくなっていたのではないかという思いが、私の胸にあった。パネルや展示物の中身より体裁・見栄えばかりにこだわるうちに、マメな更新がやりにくくなり、考証館は相思社の活動についていけなくなったのではないか。相思社が地域へ出て行く機会が増え、箱ものを軽視する向きに拍車をかけたのではないかと。
 考証館・相思社→地域調査、地域ツアーなど実際にやっていること→記録する→伝える(地域への還元も含む)→考証館・相思社。このような循環が本来の考証館活動であったはずだ。
 水俣病の起こる前の暮らし、水俣病が起こった頃の暮らし、そして今の暮らしのなかでどうして水俣病が起こったのか。水俣病によって何が起きたのか。水俣病を繰り返さないためにはどうすればよいのか。患者の人、地元の人の言葉の伝わる、実物のある展示に改めて挑みたい。
 また「相思社は何をやっているところ」「相思社には何がある」ということがわかるような展示コーナーもつくろう。相思社のなかであるもの探しが必要である。「わかる人にはわかる」という態度やあまりにも謙虚な姿勢に、何をやっているか曖昧でわからないと感じる来訪者もいる。考証館と相思社の活動が連動すればそのようなこともなくなってくるだろう。考証館は「地域全体が博物館である」その入り口でありたい。入り口に過ぎないかも知れないけれど、入り口がよくわからなければ益々悪い。考証館のあるべき姿は常に持っていたいと考える。
 相思社は今、記録し伝えるということが核となる時代にある。やっとそういう時代になったのだとも言える。「水俣病のことをいつまでも言い続けたって、何になる。あと五〇年もすれば『そんなことがあったのか』って感じになるよ」「いつまでも水俣病のことを言っているから暗いイメージが無くならないんだ」。相思社に勤め、水俣に住んで、様々な言葉も耳にした。社会問題と呼ばれるものをストレートに「反対」「いけない」と発言し続けても鼻についてしまう。主義主張は「○○であるべきだから、あなたもこうしなさい」と人に要求する。綺麗事ではなく、説教臭くはなく、啓発ではなく…。そのための伝え方には、やはり「暮らしの中から水俣病が起こった」という視点が鍵となる。二度と苦しみを繰り返さないために。自分たちの子孫を苦しませないために。亡くなった多くの命を無駄にしないために、水俣病を伝える相思社がある。


資料整備 相思社の存在理由として

弘津敏男

 二〇〇二年度中に「水俣病関連資料データベース」が国立水俣病総合研究センターから発信、公開される予定になっている。予定通りに進めばこの「ごんずい」が届くころにはインターネットを通じて相思社資料の検索ができるはずだ。
 相思社には水俣病関連資料が一〇万点、それとは別に新聞記事資料が一〇万点以上ある。その他にも写真が数万点、ビデオも四〇〇点くらいある。質・量とも水俣病関連資料に関しては日本一(=世界一)と自負している。
 毎年何人もの研究者や支援者が相思社の資料室を訪れている。自分の研究や運動に必要な資料をさがすためだ。相思社にしかない貴重な資料も多いし、数がまとまっているので便利でもあるからだ。
 一九九五年以前は資料室を訪れる人は限られていた。「水俣病の歴史は対立の歴史」と言われてきた。対立の中では手の内を見せたくない。「患者側」の人しか相思社の資料室は利用できなかった。「客観的に水俣病を研究する」ということは許されなかった時代でもあった。そのことが研究を妨げる一因となってきた。
 一九九五年の政府解決策で未認定患者の補償問題に一つの区切りがついた。しかし、この解決策には大きな不安があった。「この解決策で患者の名誉の回復できるのか。患者が地域で普通に生きていけるようになるだろうか、患者であることを隠さないで暮らせるようになるだろうか」ということだった。「患者の名誉を回復するためには未解明な部分を明らかにしなければならない。水俣病研究の質を高める必要がある。そのためには研究者の底辺を広げる必要がある。相思社にはたくさんの資料がある。これを使わない手はない。相思社の資料をたくさんの人が活用できるようになれば、間接的に患者の手助けとなる。相思社にある資料だけではなく、行政や全国連の持っている資料も公開できるようにならないだろうか」と考えるようになった。それには国・熊本県・水俣市・全国連も巻き込まなければならない。
 一九九六年に「国立水俣病研究センター(国水研)」に社会科学室と国際情報室が設置され、「国立水俣病総合研究センター」となった。国水研が改組されたばかりのころ、初代の社会科学室長と国際情報室長が相思社を訪れた。私は「資料収集・整備と患者関係者からの聞き取りを最優先にすべきだ。相思社も協力する」と伝えた。
 九七年度から「水俣病関連資料データベース作成事業」が始まった。データベースの形式は相思社と国水研とで話し合って決めた。その後相思社・国水研だけでなく、水俣病研究会・熊本県・水俣市立水俣病資料館・水俣病被害者の会も資料のデータベース化に取り組むようになったが、データの形式はほぼ統一されている。そのベースは相思社が提供したものだった。
 実は、相思社の資料データベース化への取り組みは一九九一年度から始まっている。以来わずかずつではあるが試行錯誤を重ねながらデータと経験を蓄積してきていた。当時はパソコンの数も少なく、能力が低いこともあって思うようには進まなかった。それでも九六年度末までには八千点くらいの入力がすんでいた。
 九七年度から本格的に取り組み始めたが、実用的に使えるようになったのは九九年度くらいからだった。今ではlanによって相思社内のすべてのパソコンからも資料の検索ができるようになっている。
 九一年に試行的にデータベース作りを始めて一二年、本格的に取り組みはじめた九七年からでも六年間、ようやくがデータベースが公開されるようになった。
 資料整備は時間のかかる、気の遠くなるような作業だが、毎年着実に事業は進んでいる。資料や新聞記事をリンクさせて検索ができるように詳細な年表を作ることも考えている。一九九七年から試行的に作業を開始し、二〇〇三年度から本格的に開始する計画を立てている。
 新聞記事の整理とデータベース化は二〇〇五年度か〇六年度には区切りをつけたいと思っている。そのときには八万点程度の「水俣病関連新聞記事見出しデータベース」が完成しているはずだ。
 いや、完成ではない。それ以降も毎年成長を続けるはずだ。
 まだ手をつけていない仕事、これから充実させなければならない仕事もある。写真の整理もこれからの作業だ。患者聞き取りや出版事業も始まったばかりだ。音声資料を目に見える形にしたい。やりたいこと、しなければならないことは山ほどある。
 相思社がある限り、水俣病に終わりがない限り、資料の仕事は終わらない。


水俣トピックス チッソのダイオキシン流出について

チッソの排水口
チッソの排水口 この奥でダイオキシンが見つかった

 二〇〇三年三月の熊本版新聞各紙で、チッソ水俣工場の水路で基準値(資料)の五五〇倍のダイオキシンを検出したと報道された。百間排水路で高濃度のダイオキシン検出は三年前にも起きていた。しかし経過を追ってみると、釈然としないチッソの対応が感じられたので、現在までに分かっていることや新聞報道などを借りながら読者に紹介したい。

(一)経過について
●二〇〇〇年七月、地域住民より百間排水路の堆積土砂から悪臭がするので浚渫して欲しいとの要望があった。それを受けて熊本県が事前調査として底質を調べたところ、二〇〇二年四月三六〇ピコグラムのダイオキシンを検出した。更にその周辺の水質、魚類を調べたが基準値以下であった。しかし底質は五カ所で基準値を超えていた。
●江添川(百間排水路につながっている川)の二〇〇〇年度の水質調査では、環境基準値を越えるダイオキシンを検出していた。
●その後「水俣市百間排水路等ダイオキシン類調査委員会」が設置され、二〇〇三年一月に丸島漁港、丸島雨水幹線等、チッソ工場内水路で底質の調査を行った。その結果、前二箇所では基準値以下であったが、チッソ排水路では最大八三〇〇〇ピコグラムのダイオキシンが検出された。

(二)なされた対応
●二〇〇〇年度の江添川水質調査での基準値オーバーに対しては、チッソがその原因と考えられる水洗式廃棄物焼却炉を廃止し、その後は基準値以下に改善された。
●チッソは二〇〇三年三月、排水路の堆積物を浚渫し、流出・飛散しない場所に保管してしている。この時点でチッソによると「下記の二項目が主な原因と推定されます。@昭和六二年四月の排水溝浚渫作業以降に発生した、原因を調査しました。結果として、希硫酸クーラーの漏洩トラブルが昭和六三年から平成五年にかけて漏洩発生しております。この時、冷却水側にdnxが混入しております。この希硫酸クーラーは今回県がサンプリングした場所の真上に設置しており平成八年に、多管式に変更し設置場所を変えております。A定期修理時に、吸収塔のジュッター洗浄水(高濃度のdnxスケール含む)が流れ込んでおり、これらが堆積したものと推測されます」が出されている。          
(三)考えられる問題点
 先日電話でチッソ総務部の目代(もくだい)事務部長から、この間のチッソの対応を聞いたが、私は「チッソとしては独自に調査はしていない」」調査委員会の最終報告を待っている」という回答には不満を感じた。二〇〇〇年から百間排水路で起こっているダイオキシン検出を、チッソが自分が原因ではないのかと考えたふしがないのではないか。新聞報道にあったように「水質には気をつけていたが底質まで考えなかった」では言い訳にもなっていない。ダイオキシン検出から三年も経って、熊本県の調査で初めて原因を調査したようだが、なんでこんなに鈍いのか! チッソにとって水俣病の教訓とは何だったのか? それとも、何も学んでいないのか? 資料のiso一四〇〇一の不適合のところを良く読んでもらいたい。

(遠藤邦夫)

資料
●ダイオキシンに関する環境基準(環境省hpより)
「人の健康の保護及び生活環境の保全のうえで維持されることが望ましい基準として、終局的に、大気、水、土壌、騒音をどの程度に保つことを目標に施策を実施していくのかという目標を定めたものが環境基準である。…これは、人の健康等を維持するための最低限度としてではなく、より積極的に維持されることが望ましい目標として、その確保を図っていこうとするものである…」。
ダイオキシン類については「水質の汚濁に係る環境基準は、公共用水域及び地下水について適用する。水底の底質の汚染に係る環境基準は、公共用水域の水底の底質について適用する。水質:1pg-teq/g (1ピコグラム)以下。底質:150pg-teq/g以下)」
(編集部註:「最低限度ではなく」という環境省の意気込みが、「だから高濃度であっても騒ぐことではない」と逆用されないようにしたいもの)
●月刊『アイソス』2001年1月号
 チッソ水俣本部は1999年7月にiso14001を取得した。審査登録機関はkhk-iso center(高圧ガス保安協会 iso審査センター)である。認証サイトの水俣本部は同社の発祥地であり、主力工場である。また認証範囲には周辺に保有する13カ所の水力発電所や関連会社、廃棄物処理施設も含まれている。水俣本部の社員は約660人いる。
●iso14001規格(環境マネージメントシステム要求事項)
4.5.2 不適合並びに是正及び予防処置
 組織は、不適合を取り扱い調査し、それによって生じるあらゆる影響を緩和する処置をとり、並びに是正及び予防処置に着手して完了する責任と権限を定める手順を確立し、維持しなければならない。

 顕在及び潜在する不適合の原因を除去するためにとられるあらゆる是正処置又は予防処置は、問題の大きさに対応し、かつ、生じた環境影響に釣り合わなければならない。

 不適合は自然に見つかるものではない。不適合は積極的に検出する努力をしないと見つけにくく、そのことも「不適合並びに是正及び予防処置」に関する手順に含めなければならない。不適合は「調査し」て見つけ出すことが求められている。

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