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相思社とハワイでの活動が始まる/藤森宣明
水を巡る旅 カウアイ島訪問記/小里アリサ
四区あるもの探し 明神・梅戸を歩く/川部岬
相思社にとって地域とは何か?/遠藤邦夫
吉本哲郎氏が提唱する地元学は、地域の人が自分が住んでいる場所を自分で調べることから始まる。@そこにある暮らしや自然に驚き意味を考えるA人に教えられるのではなく自学自習することの大切さB自分の住んでいる場所を自分が何とかする−大きな力に依存しないCそこにある知識や知恵やモノを大切にするD外からのまなざしや刺激を適正に受け入れる等々、地元学にはさまざまな意味付けがなされている。地元学の画期的な意義は、地方・素人・先人の知恵に、中央・専門家・科学技術が優先するとしてきた虚構を批判することから始めるのではなく、すでにその場所にあるものを磨くことで超えることにある。そして水俣には水俣病があり、それを地域の宝として磨けるのかが、あるもの探しの隠しテーマである。
地元学−あるもの探しは日本各地で実践されている。今までのマチ起こしが基本的には経済的な進展にこだわっていた地平を越えて、その場所その場所の風土と暮らし方を調べ、考えて、自分たちの暮らしを創り出すことが始まっている。豊かな暮らしが経済の尺度ばかりで測られた時代は過去となった。人間が豊かに生きていくためには、経済ばかりでなく、自分が役立てるコミュニティーがあり、心なごむ風景を自然との適正な関係を作り上げることで創っていくことが必要だ。
奇しくも2月中旬に、水俣市の4区とハワイ・カウアイ島で同時にあるもの探しが行われた。それは数千キロも離れた場所ではあるが、人の暮らしには意外と違いがないことが分かった。それは何を意味しているのか? 読み解いていきたい。
数ヶ月前に、お寺にたむろし暇をもてあましていた二、三人の若者をけしかけて立ち上げたeap(environmental
awareness project)という環境グループが、二月八日から一八日まで相思社の小里さんを迎えて、カウアイの環境から学ぶプログラムをおこないました。
僕も、この環境プログラムを準備するため若者たちといろいろと働きました。島の環境はどうなっているのかと、まず水を調べに高校生、中学生たちと水道局に足を運びました。また、下水処理がどうなっているのか、衛生局が実際にやっていることを調べて自分たちの使ったものがどのように処理されているか初めてわかりました。リサイクルがどのように機能しているのかも調査しました。ゴミ処理についても調査をし、将来のゴミ問題を考えさせられています。そんなリサーチをしているeapの若いメンバーを地元新聞が取材し、彼らもなんだか誇りを持ってきたようです。僕も若者たちとどのように関係したらよいか、一つの方向を与えられたような気がします。
アメリカで環境問題をする意義
今、アメリカで環境プログラムをすることは、とても重要な意義があると思います。アメリカが地球温暖化防止のための京都議定書にサインしなかったことは、とても深刻な問題です。これから先、アメリカが環境を最も破壊していることに目覚めてもらう仕事はとても大切です。これまでヨーロッパを始めとする国々が、アメリカが議定書にサインするようにアプローチしましたが、聞く耳を持たずでした。こうしたアメリカをどうしたらよいでしょうか? この二月に水俣の方々の知恵を借りて始めたプロジェクトは、アメリカを具体的に変えていく大切なものになるでしょう。水俣の苦しんできた方々の経験から生まれた知恵を、是非アメリカにお分かちください。
自己紹介、自分はどこから来たのか
さて、遅ればせながら自分の紹介をします。ハワイには独自の紹介の方法があります。すなわちアメリカ式ではなく、ハワイ先住民式の自己紹介です。アメリカ式というのは、「ハーイ、僕の名前は藤森といいます。僕はワイメア東本願寺でお坊さんをやっています。そして僕の生まれは北海道です。僕は一九九二年にハワイに移り住んだのです。よろしくお願いします」といったような感じですね。日本で教育を受けた僕は、アメリカの教育の影響を受けたのでよくこのようなアメリカ化された、自分を中心とした紹介をしてしまいがちです。実はハワイも、今はアメリカに属しているので、このような自己紹介をする人が多いです。
ところが、もともとハワイに住んでいるハワイ先住民の自己紹介は違います。先ず自分はどこからきたのかを紹介します。「自分はどこどこのアフプアアからきました」と。アフプアアとは、ハワイ語で扇状地のことで、山から谷、そして川の流れに沿って海岸まで広がっている大地です。その自然、大地が先ずあって、そこから自分が来たことを紹介します。その後、山では、ひいじいさんが猟をしていたとか、川に沿ってお父さんがタロイモを作っていたなどと紹介します。そして、タロイモと山で獲ってきた野豚を、海で漁をした近所の誰々の魚と交換していたというように話します。自分のおじいちゃんやおばあちゃんを始めとする家族が、その山川海からどのような恩恵を被っていたかを紹介してから、最後に自分の名前や自分が誰であるかを紹介するのです。
私の紹介です。私は、カウアイ島のワイメアアフプアアに住んでいます。島のほぼ中心部にはワイアレアレという山がそびえたっており、そこは、世界一のウエッテストスポット、水気がある場所といわれています。その山からまるで血脈のようにワイメア川、ハナペペ川、ワイルア川、ワイニイイハウ川などといった大きな川が海までそそぎ、その川沿いの扇状地に人々の生活の大地を与えてくれています。私は、その中のワイメア川沿いにできた町、山のふもとで海辺のワイメアタウンに住んでおります。ありがたくも時々、近所や地域の方々が、釣ってきた魚や山で採ってきた果物、自分のところで取れた野菜などを持ってきて分かち合ってくださいます。僕も、まわりでなった果物や野菜などを分かち合ったりします。僕は、藤森宣明といいますが、このワイメアアフプアアに来てお世話になって今年で一一年目になります。
私がハワイに来た理由
私がハワイに来たのは、ハワイにお坊さんとして派遣されたためもありますが、内的には、ハワイ先住民に出会ったことが大きな理由でした。それは、真珠湾攻撃五〇年記念の年に日本に招かれ、話をしにきた先住民の方との出会いでした。「私たちハワイアンは、大変な問題に直面しています。私たちの主食であるタロイモが作れなくなってきました。日本の方々にも責任があります。タロイモを作るには、きれいな水が必要なのですが、ゴルフ場やリゾート観光開発によって、その水が汚されているのです」との訴えに、日本人としてやってきたことに責任を痛感させられました。すなわち僕は、水と大地を世界中で汚している民族としての自分に出会ったのです。
その後、ハワイへの派遣命令がきたとき、そのきれいな水と大地を愛する先住民の方のことが頭にあり、赴任しました。それは、僕にとっては、水と大地を汚す民族としての自分からの解放を願い、それと同時に水と大地を大切にする先住民の彼らと、腹蔵なく心から抱きしめあいたいとの思いからでありました。
ハワイ先住民とアイヌ先住民の交流活動に発展
ハワイ先住民との出会いは、僕の過去の関係呪縛にさらに光を灯し、方向を与えてくれるものになりました。僕は、アイヌの方々の大地アイヌモシリ(北海道)に生まれました。私の父母は、本州からアイヌモシリに移り住んだのです。小学校の頃、同じ学校でアイヌの同級生がいたのですが、彼が肩身の狭い思いをして生きていたのを今でも覚えています。そんな彼らともう一度向き合うようにさせてくれたのがハワイアンの方々でした。
六年前から、ハワイアンの方々と共にアイヌモシリを訪れ、アイヌの方々との交流プログラムを始めました。北海道では、毎回訪れる場所を変えて交流をしています。交流プログラムは、僕とアイヌの方々が交渉して決めるのではなく、その土地の方に間に入ってもらい、その土地の方々に作ってもらおうと心がけてきました。それは、その訪れた市町村にアイヌの方々との間にはいっていただき、僕たちが帰った後でも、これからも対話を促進していくリーダーを作っていくためです。また、こちらハワイでは、ハワイアンの伝統を学ぶ場所に北海道の子供たちを連れていくスタディツアーを定期的におこなっています。これまでアイヌに関心を示さなかったのが、ハワイから北海道に戻った後、アイヌに興味を持ち出した子供たちも出てきたようで、とてもうれしく思っています。
これからのプログラム
今年は、大きいプログラムが二つあります。ハワイ先住民との出会いは、次にまたフィリピンにまで飛び火しました。一つは今年の七月末に、「開発と先住民―古代の木のように誇りをもって生きようプロジェクト」というテーマで、ルソン島の先住民の調査を現地のnpoの協力を得て計画中です。
また、もう一つは、アイヌの青年たちが学ぶプログラムです。ハワイで誇りをもって生きているハワイアンに、あまり自信を持っていないアイヌの青年たちが学ぶプログラムをお世話してくれとウタリ協会から(*)リクエストがありました。アイヌの方々にとっては、未来を射程にいれた大変重要なプログラムなのです。僕自身もやりたいプログラムでしたので願ってもないことです。ハワイでの体験から自分の足元にあるものへの気づきが生まれるようにプログラムを進めたいと思います。
フィリピンも北海道もアメリカ化の影響を受けて、地元の土に近い文化が追いやられてきました。これからのスタディツァーを通して、外来に依存せず、地元にあるものを再発見してユニークに独自に誇りを持って生きること奨励したいと思います。
水俣からの学びは、アメリカを変える。
水俣から学んだ地元のあるもの探しは、これから私たちに大きな動きを与えるでしょう。ワイメアの町もだんだんとアメリカ資本のものが入ってきて町のユニークさを壊そうとしています。地元学をさらに推進して、ユニークなワイメアを探していきたいと思います。
アロハ
(*)ウタリは「同胞」という意味であり、ウタリ協会は、「アイヌ民族の尊厳を確立するため、その社会的地位の向上と文化の保存・伝承及び発展を図ること」を目的とする団体。
水俣病患者運動が活動の中心だった頃、相思社にとって地域とは水俣病患者を苦しめた元凶と捉えていた。一九五〇年代の水俣病患者たちが、得体の知れない奇病になり苦しんでいる時に、支えてくれるだろうと頼りにしていた近所の人々や親戚から疎まれたことは、彼らの心の傷となっている。しかし心の傷は患者ばかりでなく、患者を疎みいじめた側にもあったと考えるようになったのは最近のことだ。
水俣病から遠い暮らしの中でも、水俣の子供たちが外に出たときに水俣出身と名乗れない、水俣の人が就職や結婚に差し支えたということが起こっていた。しかし「それは自分たちが患者を差別しているからだ。自業自得だ」と考えた人もいれば、「患者が騒ぐから迷惑している」と思っていた人もいただろう。
たとえば水俣病の病名変更運動にしても、確かに患者を排斥する動きでもあった。しかしその底には、地名と病気の名前が同じであることによって、感覚的に耐えきれないやるせなさがあっただろう。それは今考えれば、水俣の住民が水俣病を背負うことができないという悲鳴でもあったと思う。しかし運動の側からは、「住民は背負いたくないのかもしれないが、患者は常にそれを背負い続けるしかない!」と糾弾してきた。その時代、相思社ではチッソ・住民・地域は敵と規定していた。だから地域社会からの発想はなく、そもそも相思社は患者たちの地域からの避難場所として設立されていたのだ。
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地域にとって相思社とは何か?
地域から見える相思社は、市役所や県庁に出かけて行って大きな声で抗議し、傍若無人な振る舞いを良しとする無法集団に他ならなかっただろう。確かにチッソや行政の不手際はあっただろうが、お互いに相手のことを考えて行動することが、地域社会に生きるルールではないか。「そこまでやっては何事もうまくはいかんよ。水俣病で患者は大変だったろうが、私たちも大変だったんだよ」と多くの住民は思ったであろう。
運動の側では住民を敵と思い、気に入らなくても、地域を変える力はなかった。しかし地域や住民の側には、その気になれば排斥運動を起こすことが可能だったろうが、そのような動きは水俣にはなかった。いや、九七年一〇月に、自民党市議会議員団ニュースで「複雑な混乱を持ち込んだ外からの応援者…それぞれの国もとへ帰って頂いた方が本当の『もやい直し』が出来るような気がいたします」とあった。某宗教団体への排斥運動とは違って、その件で自民党市議団と相思社の話し合いがもたれ、その後顔見知りとなり挨拶するようになった、というエピソードが付いている。このニュースへの反発は相思社メンバーよりは、他地域から結婚して水俣へやってきた人々から起こり、たぶん思わぬ反響に自民党市議団は驚いたことだろう。
元々水俣の海岸線に住んでいる人々は、天草などの他地域から移り住んだ人が多い。地付きの人が、自分たちを誇りを込めてジゴロと呼び、移り住んだ人々をやや下に見る感覚でナガレと呼ぼうが、外からのモノを受け入れる開放的な生活感・文化感があったと思われる。また一方で、チッソが一〇〇年前に水俣にやって来て以来、外部との人・モノ・情報の交流は当たり前となっていた。
四区寄ろ会と相思社の出会いと協働
吉井前市長の言葉を借りれば「内面社会の崩壊」に直面した水俣が、それでも水俣病と一緒に生きて行かなければならないと分かった時に、全ての問題や悩みは課題となっていった。水俣市当局は、水俣病問題を患者たちの犠牲を無駄にしない観点から整理していった。また患者たちの心の傷は、患者が語り・住民が耳を傾けることから、少しずつ解けていった。しかし、命を失ったものたちへ思いや悲しみはどうすることもできないと知る他はなかった。慰霊式や火のまつりは、祈りの気持ちを持ち続けることの大切さの表現である。
その火のまつりの中で、相思社と四区寄ろ会は出会った。長い長い水俣の対立を経て、いざ出会ってみると自分とあまり変わらない人間をお互いに見い出した。「さて、これから水俣をどうしよう」、という共通テーマがそこにあった。たぶん詳しく話してみれば違いが目立つだろうが、違いを認め合えば何かを一緒にやらない理由はない。この発想の転換が何かとても良い考えのように、双方で思えるようになったと考えている。
そして、四区寄ろ会と協働して地域調査をおこなうことで、相互に主体的な地域でのつきあいを作ることになった。相思社はそれを「もやいネットワーク」と名づけたい。もやいネットワークの実際的な活動は手探り状態であり、それがどうなって行くのか実はよく分かっていない。地域との関わりを深める活動については、出会い・協働行動することから始めたい。共通認識を作り上げるとか、意味などはきっと後からついてくるだろう。「まず隗より始めよ」と。
場所の力
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| 畑の真ん中に井戸 |
結局、相思社が水俣の地にあることの意味を、どのように作り上げるのか問われている。水俣病事件は水俣病五〇年チッソ一〇〇年の物語だ(緒方正人さんの言葉から)。私たちはこの物語を展開させてきた一方の力を近代化と考え、他方の力を水俣病患者に置こうとしてきた。だから「水俣病を伝える」ことは、水俣病の事実を列記・伝達することではなく、水俣病患者物語への共感を呼び起こす装置なのだと思う。
また、この時代・この場所に相思社がある必然を、そこに住んでいる人々、行政、国等の関わりの中に見い出さなければ、相思社と地域というテーマはなく、物語を落ち着かせる場所もまた存在しない。
水俣という場所は、否定的に考えれば水俣病という呪縛を逃れることができなかった場所であり、肯定的に考えれば水俣病から地域や国や近代化を眺めることができる場所であろう。水俣に住んでいる人々はこの間を翻弄されてきた。どちらかの立場が正しいのではなく、この現実こそが「対立のエネルギーを創造のエネルギーに転換させる」ことができる可能性があるということになる。
その時、地域のお役に立つ相思社とは何なのかが問われてくる。相思社が呪縛を否定せず近代化を相対化できるならば、地域住民同士、住民と行政(市、県、国)およびその他の組織との接着剤の役割を、この世の利害にとらわれない立場から果たすことができるだろう。またそこでは、地域の自治的なつながりを創造することが浮かび上がってくると仮定しておきたい。自分たちの暮らしをお上や大きな企業に頼らず、自分たちで治めていくことが、何よりも地域にとって重要な水俣病の教訓であろう。
水俣病はチッソや行政の責任、病像論などですべてを語り尽くすことはできない。被害の形や大きさは個々の被害者によって異なる。
かつて、私は患者団体の事務局として患者の被害状況を明らかにするために膨大な時間をかけて聞き取りマニュアルを作ったことがある。家族構成、家族や近隣の水俣病被害の状況、当人の生活歴・魚介類の摂取状況、発病当時の生活、環境汚染の状況、既往症と水俣病の症状、健康被害以外の被害など、このマニュアルに沿って丁寧に尋ねていけば「水俣病の被害状況」がわかるように作った。水俣病の資料としては一級品と言えるだろう。
しかし、不遜な物言いだが「面白くない」。それは水俣病の状況は見えてくるが、語り手の顔や動きが見えてこないからだ。この『豊饒の浜辺から』は語り手の話したいこと、聞き手の聞きたいことが中心となっている。語り手の姿が浮かんでくるはずだ。第二集に収められた九つの物語の語り口はそれぞれに異なり、共通した主張もない。水俣病のことを直截に知ろうとすると苛立つかも知れない。もし、読み手が「水俣病患者像」を持っているなら、それは崩れてしまうかも知れない。それがこの冊子のねらいでもある。
今回の九話のうち四話は御所浦が舞台となっている。二話が水俣、芦北、津奈木と出水が一話ずつ。漁師や漁師の家で生まれた人が多いがそうでない人もいる。認定患者も未認定患者もいる。すでに亡くなっている方の話も二話含まれている。仮名とした方も三名いる。もちろん語り手の希望によるものだが、そのこと自体をどのように考えるのかも読み手次第だろう。下手な注釈はつけないほうがよい。「水俣病は生活の中にある」「一万人の患者がいれば、一万の水俣病物語がある」と感じてもらえればと思う。(弘津敏男)
| 価格 1300円 編集発行 水俣病センター相思社 発行日 2003年5月25日 規格 A5判 146ページ |