機関誌 ごんずい 78号

ごんずい78号
目次
特集 : アドバイザー委員から見た水俣病センター相思社

      私は相思社をこう思う…関輝明
      相思社について思うこと…永野ユミ
      いま、なお水俣に求められているもの…花田昌宣
      水俣での相思社の見え方について…小柳泰祐
      水俣と相思社を考える…杉本肇
      相思社に期待されること…丸山定巳
      分かりにくい相思社を分かりやすく…遠藤邦夫



記事 : 水俣病センター相思社 2002年度収支計算書/2003年度収支予算書/2003年度活動計画
      韓国・ソロクト訪問記…川部岬
      7.20水俣水害義援金ありがとうございました
      相思社の30周年
      水俣トピックス 第17回牛乳パックの再利用を考える全国大会in水俣/和光大学最首ゼミ水俣ツアー
      相思社日誌/ありがとうございます


特集 : アドバイザー委員から見た水俣病センター相思社

 2001年答申において、「財団法人の理事の選出方法については、評議員会を設け、評議員会が理事を選ぶ形が最近では一般的だが、相思社には評議員会がなく、任期満了前の理事会が次の理事候補を選ぶ慣例になっている。将来的には理事の任免権と予算・決算の承認権をもつ評議委員会を設置するのが望ましいが、その準備段階として、運営協議会またはアドバイザー委員会のような非公式的なものを作り、そうした経験を積む中で評議員会の設置を考えるべきであろう」と記されている。
 今回、アドバイザー委員にお願いしてご意見をいただいた。そこには様々な角度から見た相思社が浮かび上がっている。相思社職員としては、それをありがたいご意見に留めることなく、創り出していく活動の指針に活かしたいと考えている。結果としては全員のご意見はいただけなったけれど、ごんずいへの投稿は義務ではないし、アドバイザー委員の役割からすれば編集部が無理をお願いしたということである。


私は相思社をこう思う

関輝明(会社員)

 私が相思社を初めて訪れたのは今からニ〇年近く前の夏の実践学校参加という形でした。でもその前に栗原彬先生の講義や東大自主講座公害原論を聴きに行ったり、「水俣の甘夏」などの映画を見たり、「水俣の啓示」を読んだりと、いわば“聖地”を訪れる気持ちになるまでの時間が結構長かったように思えます。それに当時、反核運動や軍縮問題についてどちらかというと関心があり、核戦争が起きたら一切の現実が消滅するという虚無感があり、水俣という一地方の過去の事件についてはあまり意識する機会がなかったように思います。
 でも相思社を実際に訪れてみると、患者さんも支援者も和気あいあいと暮らしていて、割とフツーの人たちが運営しているのだなと、妙に安心しました。有機農業にいそしむ生き方もいいなとは思いましたが、最低賃金で生活する自信はなく、その後はどちらかというと、バリバリの企業戦士に近い生活を送りながら、機関紙「水俣」の編集のお手伝いを年に数回こなして、相思社を外から見てきました。
 今回、ご縁があってアドバイザー委員会のメンバーに名を連ねた以上、私としては人を水俣に惹きつける窓口としての相思社の役割を重視して、単に課題の指摘にとどまらず、具体的なアイデアの提供と実現の協力(行動)を行っていきたいと思います。
 ただ、いかんせん、職員六人という限られたマンパワーでは、できることと、やりたいこと(理想)には、隔たりが生じると思います。(職員一人ひとりの能力を私は把握しておりませんが、本来得るべき報酬の数倍以上の働きをされていることは、容易に推察されます。仮に自分が職員の立場なら、という想像力もアドバイザーには必要ではないかなと考えています)というわけで、まず、職員の皆さんに過剰な負担を与えることなく、現状の体制でできることから考え、行動を起こしたら良いのではと思っています。スポーツの組織にたとえると、チーム作りは後回しにして、まずゲームをつくることから手をつけるしかありません。いいプレーを続ければ、外の目も変わり、外から人が集い、自然といい組織に変わっていくことでしょう。

(一)患者さんとのつきあい深化について

 これまでの相思社の最大の役割は、患者さんの支援であったわけですから、つきあい自体はなくならないはずですが、深化というと難しく考えすぎて、職員にとっても混乱だけが残らないでしょうか。「二〇〇三年度活動計画のための草稿」を拝見すると、患者さんとのつきあい方についての言及があまりにも希薄でした。それも、迷いの多さの裏返しではないかと、私は受け止めています。
 それよりも、職員は、水俣を訪れる人たちと患者さんとの出会いを提供するコーディネート役に徹してみてはどうでしょうか。現地に住んでいるからといってどの患者さんとも近いとは限りません。むしろ、外なる人の触媒を通じていいつきあいが生まれるのではないでしょうか。
 では、コーディネート役の資質とは何でしょうか。サービス業や営業の仕事と通じるものがあると思います。初めての外なる人に明るく笑顔で接せられること。水俣に魅せられても、初めて相思社に連絡をとるとき、あるいは訪れるとき、誰でも緊張します。ましてや患者さんにどう接したらいいのか…。その緊張をほぐして水俣に導く大切な役割から見直してみたら、結果として患者さんとの関係も深まる気がします。(楽観的かもしれませんが)

(二)相思社の役割、存在意義とは

 前述の(一)とも関連しますが、相思社の役割は、いまや支援より提案に基調を移しつつあると考えます。(理事長懇談会資料にもその捉え方のくだりがありましたが)あえていえば、「水俣病事件」をテーマにした"ミュージアム"、"シンクタンク"としての存在意義が大きくなっていますし、この流れは変わらないと思います。事件の現地にそれらがあること。それが拠り所として、情報発信地としての強みを持つことにもなると思います。
 私は、そうした変化や現状を否定的には捉えません。むしろ、相思社の新しい役割、存在意義の必要度は高まっています。いくら「教訓」を得たとはいえ、官(行政)は官です。官の視点に立つお行儀のいい施設や資料等に対抗する、それこそ何でもアリのフリーな拠点がどうしても必要です。その拠点を維持発展するために、財務・収益力アップに動くことは、なんらエゲツナイことではないと考えます。
 公益性を売り物にする一般の"ミュージアム"、"シンクタンク"であっても、カネ集めは重要な仕事です。そのために能力のあるスタッフを採用することも重要な経営計画です。一言でいえば、相思社に内外から期待される役割に応えるためにも、マーケティング能力が必要とされています。

(三)環境コンテンツの販売をまじめに考え実現を

 マーケティング的な視点からいって相思社は非常に魅力的な環境コンテンツを豊富に持っています。それを国内外に売り込むことはけっして恥ずかしい、浅ましいことではありません。できれば、その手段も職員の手をわずらわせない効率的なやり方で進めたいものです。
 一例としてインターネットを活用した収益力アップのためのお手軽・低コストの行動策を挙げてみます。●各種物品のネット通販(webクレジット決済ショッピングモール運営)●メールdm(広告配信受注)●他サイト掲示板書き込み、相思社のホームページへの誘導●無料リンク広告依頼、適切なキーワードによる検索エンジン無料登録●アフリエイト活用●テレビ電話・会議システムによる遠隔授業や対面ネット通販。
 とにかく、チームの現状の戦力は限られています。今のチームで楽しくゲームを行うしか手がないのです。まず職員にとって働くのが楽しい、幸せと感じられる活動を続けないことには、有望な職員も集まってきません。委員をどんどん使って魅力ある相思社に変えていきましょう。


相思社について思うこと

永野ユミ(まどか園副施設長)

 いよいよ原稿締め切りのタイムリミットが今日になってしまった。相思社より原稿の依頼を受けてこの方、気の重さだけがしっかりとのしかかっていた。原稿のきっかけである「なんで、アドバイザー委員を引き受けた?」でなく、せめて「せっかく引き受けたのだから」と前向きに考え直し、老化現象で思考力の鈍った頭でアレコレと考えてはみるのだが、書けないのである。
 しかし、考えてみれば書けないのが当然である。相思社に関しては仕事がらみの部分と「ごんずい」を通して知っているだけである。そこにもって「期待」とか「提言」を、と言われても「そこまで考えたことがありません」というのが正直な気持ちである。前置きが長くなってしまったがアドバイザー委員会で見えてきた部分と合わせて感想を述べ、その責を果たしたいと思う。

●患者さんの姿が見えてこない?相思社と共に歩み支えてこられた患者さん方は、今、相思社に何を期待し、求め、ともに歩んでいこうとされているのか。暮らしを通して水俣病を発信する相思社として、活動の中に「患者さんの今」をきちんと位置づけることも大事ではないか。

●「一五七六七一」今日、開いた相思社のホームページのアクセス番号である。これまで何回も利用しているが必要な情報をいただき助かっている。限られた人員の中で更新を含めた作業に対し、敬服。相思社のひとつの顔としてこれからもさらに内容の充実を期待したい。

●かねてより「ごんずい」は、「水俣の文化」のひとつと思っている。読者の方が水俣市民より水俣のよさをご存知なのでは?相思社切り口の水俣病や水俣を伝える媒体として、一人でも多くの市民読者を増やす努力も必要では?

●「ごんずい・七五号」の特集、「相思社のお・し・ご・と」で分かった、相思社の分かりにくさ?職員も認める「分かりにくさ」の中に相思社が進むべき道が問われているし、問い続けてほしいものである。

●今回、原稿を書くことで関心を持った市民が一人増えた?これからのお一人おひとりに期待すると共に、それには相思社の努力が問われる?

 この坂の上はどんなところ? と下から眺めたのはいつのこと?


いま、なお水俣に求められているもの

花田昌宣(熊本学園大学教員)

 私が水俣病患者の支援にかかわり始めたのは三〇年近く前のことでした。また、一〇年前に熊本学園大学社会福祉学部に赴任して、毎年学生を引率して水俣を訪れております。また、原田正純先生を中心にして水俣学研究プロジェクトを立ち上げ、一〇数人の先生方と大学院生と共に、水俣病事件に関する学際的研究を行ってきております。その意味では、実践家としてまた研究者として水俣とは縁が浅くないのではないかと思っております。
 今、水俣にはその昔「支援者」と呼ばれていた人々が多数住んでいます。患者さんたちにかかわり、いろいろな仕事をしながら、患者さんたちを支援し続けています。わたしはそのこと自体素晴らしいことだと思っています 相思社もまたその拠点の一つであり、設立の経緯を踏まえるならば、なお大きな役割を求められているものと思います。

 アドバイザー委員会で私は、簡単にいって二つのことを発言させていただきました。相思社は、より正確に言うと、今の相思社を献身的に支えている「職員」たちは、今の患者さんたちが必要としているものが見えているのだろうか。昔の告発する会風の物言いでいえば、どこまで患者と付き合いきれているのだろうかということです。もう一つは、エコツーリズムや環境再生というような活動が目につきますが、水俣病問題への関わりをそれに置き換えることはできない。患者さんを抜きにしたグリ−ンツーリズムになってしまっているのではないか。それは果たして相思社がなすべきことなのだろうか、ということです。
 そういう発言をしている時の、私の頭の中にあったことを述べさせていただきます。

 第一に水俣において、変わることなく、数多くの水俣病患者が暮していて、水俣病差別が続いているのではないかということです。これが私にとりましての出発点です。いま、水俣で、「私は水俣病です」と公言できる方はどれだけおられるのだろうか、水俣病のことをどこまで自由に語れるのだろうか、と思うのです。数年前、学生たちと一緒に水俣の人たちに、水俣病に関する意識について五〇人ほど話を聞いたことがあります。町中に近づけば近づくほど、偏見差別の強いことがわかりました。

 第二に、水俣病患者というとき、三〇年前とは異なり、じつに様相が複雑になってきています。行政的には、水俣病患者は「水俣病認定患者」と呼ばれ、二二六五人となっています。アドバイザー委員会でも発言したことですが、初期の患者さんたち、かつて「新認定」といわれた一九六八年以降に認定された人たち、水俣病一次訴訟判決以降、未認定患者の運動の過程で認定された人たち、そして「政治的解決」の過程で未認定患者救済のための一時金支給の対象となった一万人あまりの人たちがいます。
 そのほかに、水俣病の症状を持ちながら申請もせず、一時金の支給も受けていない人たちもたくさんいます。これらの人々が水俣芦北地域そして対岸の島々に暮らしています。すべてが水俣病患者であり、水俣病事件の被害者なのです。しかし、これらの人々が認定制度や水俣病医学病像論に基づく行政的区分によって分断されながら、地域コミュニティーのなかで重層的に関係がつくられています。水俣病とは、決して医学の中におさまるものではなく発生から今日に至るまで常に政治的かつ社会的な問題でありました。
 私は、それらすべての人に光があたらないといけないものと思います。もっと正確に言いましょう。これらの水俣病患者・被害者たちこそが水俣を照らす光にならないといけないのではないかと思うのです。こうした現状に対して、何をなすべきなのだろうか。呆然と立ち尽くす思いがするのですが、しかし、患者さんたちは何を必要としているのだろうか? それに対してどのような役割を果たそうとしているのか? 相思社再生の岐路がここにあると思います。

 第三に、グリーンツーリズムなどは相思社の設立理念であった「もう一つのこの世」にはつながらないということです。水俣に豊かな自然があることを再発見したり水遊びをすることが、果たして相思社の任務なのだろうかと思います。相思社の職員がなさることに関しては、貴重な体験をされているのだとは思います。地域再発見であれ地元学であれ貴重な取組であろうと思います。しかし、そのことが水俣病へのかかわりを中和するような気がしてならないのです。原田正純先生がいうところの「負の遺産」としての水俣病事件に対する関わりとは、水俣病事件を環境問題一般に置き換えることではないと思います。
 相思社は、水俣病患者たちの裁判や自主交渉闘争の上にたち、裁判以降の患者さんたちの暮らしをつくるものと考えられたはずでした。今一度、水俣病センター相思社の理念を問い直し、水俣病患者・被害者に軸足をおき、水俣病患者に学び共に生きる相思社のあり方を考えていくことができれば、相思社の新たな未来が切り開けるのだろうと考えているものです。


水俣での相思社の見え方について

小柳泰祐(自営業)

●暗い、怖い
●洗脳されそう
●私自身は、個々のメンバーと話すとものすごく楽しいのに、相思社という団体になってしまうと圧倒される気がする
●水俣病の闘争そのものが権力との闘いであるので、みんな腰が引けてしまうと思う。水俣病に限らず様々の市民運動が、一般市民からも支持が得られるような運動の手法を何とか考えられないかと思う。現在の環境、市民運動は私の目から見るととかくヒステリックになりがちで、なかなか面としての広がりに欠けると思う
●若い世代の人々に支持を受けられるような運動、体制造り
●市内に止まらず九州一円まで見据えた、子供たちに対する体験型の楽しい環境学習の実践と継続(これは絶対面白いと思う)
●水俣病患者支援の闘争が必用だった事の検証と、相思社が果たした役割の市民への解り易い説明
●話をしていて、何にも知識がない人は、馬鹿にされたり、何でこんな事も知らないのと思われているような気がする。相当の意識を持った人じゃないと、相思社の人と気軽にしゃべるのは難しい気がする。本当は水俣に暮らしている以上、水俣病について何らかの勉強をしていなければいけないと思うけど、現実としてはなかなか厳しい。だから真っ白なところから始めよう
●過去を踏まえて、未来を観る
●よそ者のイメージが根強い、地域に浸透していない。袋地区ではまだしも、水俣全体は言わずもがなである。
●インテリ風の感じがして、一般市民が付き合いにくい。
●地域活動への参加。特定じゃなく、不特定多数のお友達をたくさん作る
●誰でも気軽に行けて、でも水俣病の本質が学べる所(現在は、気軽には行けない)
●オブザーバーメンバーに中、高校生、まったく環境問題に興味がない人を組み入れる
(まったく違う視点から見てみる)
●キーワードは明るく、楽しく、がんばろう

 私自身が水俣病、またその歴史について中途半端な知識しかなく、相思社に関してもその活動を把握しているわけでもないので私の独断的な考え方です、大変失礼いたしました。


水俣と相思社を考える

杉本肇(漁師)

 近年水俣は環境都市として、県内外から多くの学生や、研修生を招き入れるようになった。それは、単に時代が変わり、世界的に地球に優しい環境づくりが見直され、時代を反映した都市づくりをしているから…だけでなく、それまでの負の歴史の裏づけが、今日のように水俣に人を向かわせているだろう。
 もう一つの理由は、都市づくりやマチづくりといったような目に見える環境づくりより、むしろ水俣は「人の内なる環境づくり」を学べるマチと思っている。人の命があまりにも軽視される時代。人を人と思わないような目を覆いたくなる犯罪が、連日のように報道されている。
 水俣は多くの犠牲を払い、長い年月をかけ、その理不尽さと戦ってきたが、犠牲の代償はあまりにも大きかった。悲劇を繰り返さないように「深いキズ」を、常に発信し続けるなければいけない。表向きの形は違うが水俣以外でも、この「深いキズ」を持ち続けながら、生きて行かなければならない人たちが増えつづけている。いま水俣へ向かう人たちは、水俣で生まれた一人ひとりが、水俣の歴史とどう向き合い、この「深いキズ」をかかえどう生き抜いてきたか、を知りたがっているように思える。
  生き証人たる「語り部」たちの話は、当時の苦悩と耐えがたい悲しみを切々と語るのだが、その後、どことなく勇気をもらえるように感じるのは、私ばかりではないと思う。心の病・気の病は目には見えないし、語るにもその場所すらない、また誰が聞いてくれるのだろう。自分と語り部ではキズの大きさは違うかもしれないが、自分の語りたくても語れないことを、代わって語っていただいているような、そんな気さえする。ここで生まれ育った人たちも少なからず、そんな思いを心の奥底に潜ませて蓋をして生きている。
 水俣病の歴史の中で、常に患者とひざを交え向き合って、話を聞いてきたのが相思社であったと思う。これからも「語り部」だけでなく、「キズ」を持ったものの話を聞いてもらいたいし、発信し続けてもらいたい。時は闘争の時代から、もやいの時代へ、さらに環境教育の現場となった。近年相思社も試行錯誤の連続であろう。しかし、本流である「水俣の悲劇を伝え、発信しつづける」ことは変わらないで欲しいし、人としての心の環境教育の手助けをしていただきたいと願っている。


相思社に期待されること

丸山定巳(熊本大学教員)

 相思社は、運動の中から誕生した組織である。その後三〇年を経過したが、初発の目的・性格は基本的に期待され続けていると言える。人手・資金に限界があるなかで、期待される活動は多岐にわたっている。ただ、相思社を取り巻く情勢はこの間大きく変化してきており、そうしたなかで求められる活動を着実に継承していくのは容易ではなかった。
 とくに運動体としての性格を長期にわったて維持していくのには、常に多大のエネルギーが必要だが、現在ではそれだけの態勢を構築していくのは無理な状態になっている。もっとも今日の水俣病事件を取り巻く状況はでは、活動を安定して継続していくために日常化のプロセスも必要となってきている面もあるだろう。ただ、そちらに意を用いすぎると運動体としての性格が薄れてくるというジレンマがある。日常化と非日常化のダイナミズムのなかで、担い手それぞれがどのように主体的に生きていくかに組織としての相思社の活力がかかっているように思われる。

 現在、水俣には「環境モデル都市づくり」事業の過程で、さまざまな住民参加活動が生まれている。ただ、その多くは、はじめは行政にイニシアチブがありいわば行政主導型の住民参加という性格が強かっかった。しかしそのままでは、行政の姿勢次第でその活動はもろに影響を受けることになるだろう。
 かつて、水俣モンロー主義的な見解が市議会議員の中から出たことがあった。外からやってきた支援者には出て行ってもらい、「水俣の水俣人による水俣の政治」によって、はじめて本当の「もやい直し」ができるとの論旨であった。しかし、相思社は、水俣の構成員としてすでに確固たる位置を占めるに至っている。これからの水俣づくりに、自信を持って発言していってもよいのではないか。これまでの、相思社の蓄積は、大いにその分野で貢献できるはずである。住民主体の活動を展開していくために、相思社がその一つの拠点となってもよい時期にきているのではないかと思う。今後、行財政の窮迫のもとで、行政主導型の活動が縮小していくことも考えられるが、そうした事情に左右されない自前の活動を積上げていくことが今後の重要な課題となっていくだろう。

 ただ、限られた人手であるから、あまり無限定的に広げるわけにはいかないだろう。個人的関心と相思社としての位置づけにけじめをつけながら、地域での活動を模索していくことが必要となろう。活動を広げるにしても、相思社の活動としては、やはり水俣病の原点からあまり離れてしまってはいかがなものか。たとえば、環境教育旅行関係にしても、いわゆるグリーンツーリズム一般まで関係を広げるとかなりの負担を負うことになるのではないだろうか。この分野では、ほかにも地元に担い手が出てきているから、そうしたところと連携しながら負担が過剰にならないで、収益面に貢献するような仕組みづくりあっても良いかも知れない。
 水俣には現在、水俣病事件とは直接的な関係のないものも含めてさまざまな人たちが環境に関連する多様な活動世界を展開しており、先般開催した環境社会学会セミナーの参加者のなかで、そうしたエクスカーション先の多様さが話題になっていた。そうしたなかで、相思社は制度化された組織体として、いかなるスタンスでどこまで関与していくのか吟味もしていかなければならないだろう。

 そのほか、差し迫った課題としては、蓄積してきている膨大な資料の扱いがある。資料の整理は、国水研の情報センターからの受託もあって、かなり精力的に進んでいるようであるが、相思社としての独自の収集・整理方針と活用策を確立する必要があるだろう。それに、現在の資料の保存条件はきわめて心細い状態にある。火災や災害には全く無防備であるように見受けられる。手遅れにならないよう対処する必要がある。
 また、考証館の現物主義は迫力があり、収集展示面でそれをさらに拡充するためには、現状は手狭となっている観がある。いづれも費用がが伴うことなので、容易ではないが「記録し・整理し・伝える」活動に的を絞ってその意義をアピールして、資金カンパを募るなどの方策を検討すべき時期に来ているのではないだろうか。人類にとって貴重な財産である。そのためには、展示物も含めて貴重な資料の目録づくりなどの地道な作業も続けていかなければならないだろう。


分かりにくい相思社を分かりやすく

アドバイザー委員会担当理事 遠藤邦夫

 一九八九年の甘夏事件といい、二〇〇二年のヨハネスブルグ・サミットでの失敗(助成額を超えた事業を理事会の承認なしにおこなった)といい、何故こうした理事会軽視を相思社の職員は行ってしまうのか? それは、組織規範からの間違いというよりは、相思社活動の根幹が不明瞭だからではないだろうか? 例えば「水俣病を伝える」という主題には誰も異存はないが、実際にどんな水俣病を、誰に、どのようにして、と言いだすととたんにお互いの相違が見えてくる。水俣病の法的な責任論を伝えるべきテーマにしたいとは誰も思っていないが、だからといって無視できるわけではない。一九九五年の政府解決策をもって、未認定患者運動は終息したと言うと、それは多くの批判がやってくることだろう。しかし、認定制度のおかしさを二〇数年批判し続けたが、制度的には変えることはできなかった。医学的にも政治的にもあんなおかしな制度がまかり通るなんて、決して許せないという気持ちは分かっているつもりだ。
 水俣病事件に関わる道は三つに分かれた。一つは水俣病関西訴訟とそれを応援する人々のあくまで国とチッソの責任を問う道、もう一つは運動の制度化を批判し水俣病事件の枠組みを政治から人間そのものの存在を問うことに転換した緒方正人の道、そして相思社がとった道は前二者とは違う水俣病を社会生活に活かす道だった。その前提で現在、職員が考えている相思社活動の最大公約数を想像してみると、一つは、水俣病センター相思社の現場は、水俣も含まれる環不知火海であること。二つには、運動全盛期にはありえなかった「地域社会との主体的な関係の構築」とは、先走った結論となるが地域の役に立つ相思社ということではないのか? これには自分でもかなり疑問がある。三つには、「水俣病を伝える」手法を学校的ではなく風土と暮らしのあり方の中に見いだそうとすること。
 これの、どこに水俣病があるのか? どこに患者がいるのか? とさらなるご批判が来そうな物言いとなったが、このように考える出発点は間違いなく水俣病であり、患者の存在なしにはあり得なかった。どこかで相思社の礎石に「水俣病」が刻まれていることに安心しているのかもしれない。私は、今や水俣病事件を運動や闘争で語る段階ではなく、誰がその意味を明らかにして、どのように社会化していくの、その伝え方・表し方が問われる時代となったと思っている。

 私が勝手にアドバイザー委員会に期待していることは、「お前の選んだ道も水俣病事件の一つの展開だよ」と認めて欲しいのかもしれない。「いやそれは行き止まりの道だよ」と教えて欲しいのかもしれない。ともあれ、アドバイザー委員会の歯に衣着せぬ議論に期待している。


ソロクトでの夏祭り
ソロクトでの夏祭り 患者たちのカラオケ
遺骨を納めた萬霊塔
遺骨を納めた萬霊塔
はむかった人が監禁された室
はむかった人が監禁された室
元患者たちが暮らす定着村風景
元患者たちが暮らす定着村風景

韓国・ソロクト訪問記

川部岬

 今年の夏、韓国のハンセン病療養所「国立小鹿島(ソロクト)病院」を訪れる機会があった。ソロクトは韓国の全羅南道高興郡鹿洞(ノクトン)の沖、六〇〇メートル程にある小島である。ここに「国立小鹿島病院」があり、今も七〇〇人ほどの人々が暮らしている。この病院は一九一七年、朝鮮総督府が開設し現在に至っている。一〇〇人あまりの人が日本占領下での収容者である。


八月七日(木)晴れのち曇り
 午後七時過ぎ、ノクトンに着く。あたりは薄暗くなっていた。港には漁船が並び、ヒラメの干物が籠に入れて売られている。暗くなるほど人々は港に集まってきた。港で憩うといういう感じだ。すっかり暗くなるまでソロクト行きのフェリーを待ち、小型フェリーに乗ってソロクトへ渡る。
 午後九時前、学校の体育館のような施設の前でバスを降りる。「ここで食事をとって下さい」と金さん。中にはいると若者たちが「夕べの集い」みたいなものをやっていた。ボランティアの半数以上は学生か? 二〇年も活動を続けてきたチャンギルの力の源は何なのだろう。「夕べの集い」の進行はスムーズにしかも楽しいノリで続いていた。韓国では今、運動は特別なものではない気がする。参加しやすい状況と、世論、若い人の意識が上手く合わさっているのかも知れない。
 炊き出しはボランティアの手によって行われていた。コチュジャンの紅い色にとまどいながらも、身体に良さそうな食事をいただく。食器を返しに炊事場へ行くと、日本からの来訪者とわかってすぐに手伝ってくれる。韓国語でありがとうを言う。片言でも覚えていくと心強い。一人の女の子が「おいしかった?」と日本語で聞いてきた。「おいしかった」と言うと満面の笑みになった。チャンギルのメンバーは若い人も中年の人も、程度の差はあれ日本語を話す人は少なくない。これはかなり驚きだった。海を隔てた隣の国とはいえ、日本の若い人の間で韓国語はまだまだ一般的ではないことと対照的だ。

八月八日(金)晴れ
 五時、起床。島内施設跡を巡りながら万霊塔へ行く。患者学校跡はボランティアの宿泊所のすぐそばにある。煉瓦作りで、日帝時代患者たちに作らせたものだという。今では小さな資料館として活用されている。解剖室は日帝時代、島内で亡くなった患者を解剖した部屋。早朝の薄暗さの中にものものしさが際立った。断種台は解剖室と同じ棟の隣部屋にある。監禁室から出た人たちのなかで罰として断種を受けた人たちがいたという。「罰としての断種は日本ではなかった。日本よりひどい状態だった」と滝尾氏は言う。哀恨の追悼碑は昨年夏に自治会によって作られた。一八四人、日本占領時代の終わりに虐殺された朝鮮人職員の名が刻まれている。
 萬霊塔に行く前に患者集落を通る。六時頃、つまり早朝の時間帯だった。道路を掃除したり、庭先にいた患者の人たちは、一般の来訪者に慣れているはずだが、プライベートな時間に集落をあるいたためか怒鳴られた。「見せ物じゃないぞと言っている」通訳の人に聞いたらそう教えてくれた。いたたまれない思いがした。集落の軒先にはニンニクがぶら下げてあったり、自給自足の暮らしが垣間見られた。萬霊塔のある、少し山手の集落に向かうと家庭菜園規模の畑が見えてきた。ゴマ・唐辛子・エゴマ・カボチャ・ショウガ・スダチなどが有用植物が植えられている。ソロクトの里や山ではあちこちで水がしみ出していて、植物を育てやすいようだ。患者の人の島内での移動手段はバイク・シニアカーが主であるようだ。一人住まいばかりではなく家族で暮らしている雰囲気の家もある。村の中にはプロテスタント、カソリックそれぞれ教会があった。
 一九三七年、萬霊塔は建てられた。集落を見下ろす高台に、一〇二二二体、ソロクトでなくなっていった患者の方々の遺骨が納められている。形は長島愛生園の納骨堂をまねたという。毎年一〇月一五日、荼毘に付して一時置した骨をこの萬霊塔に持ってくる。萬霊塔の裏側に回ると五メートルほどの高さの天井まで木の箱に入った遺骨が積み上げられていた。お骨の入った箱は、写真に写せなかった。写すべきものではない気がした。
 かつて韓国において火葬は罪人が受けるものであった。日帝時代のソロクトの人々にとっては、ふるさとに帰れず火葬されてソロクトに眠ることは屈辱であったと滝尾氏は言う。萬霊塔から集落へ向かう途中、男性の患者に会う。むこうから声をかけてきてくれた。七三歳、独身。三〇年間ここで暮らしているという。
 午前九時過ぎから、チャムギル創設二〇周年記念式典&シンポジウムが行われた。チャンギルの三〇代くらいの人から発言がなされた。「患者はふるさとへ帰れないことで精神的苦痛を受けている。ソロクトに提案したい。隔離から共同体へ変わっていくことを。彼らのふるさとはソロクトでなくてはならない。ソロクトで一生の多くを過ごしてきたのだから。愛と正義のネットワークを広げていきたい。ここでは老人文化が主役にならなくてはいけない。人生は新しく見る目を与えてくれます。ソロクトファミリーというものを作るべきだと思います。これをアジア的な連動にしていきたい」この発言はシンポジウムになかで一番心にしみた。

八月一〇日(日)
 テグ哀楽園の教会に入った瞬間、眠気は吹っ飛んだ。机を叩きながら賛美歌を歌う女性の姿に圧倒される。来ている患者の人は一五人くらい。六〇〜七〇歳代といったところか。次から次に賛美歌と説教が繰り出される。指のかけた手で聖書をめくる姿がまぶたに残った。
 ハ・ヨンマ氏の案内で、テグ郊外にある定着村のシッコク農場へ行った。山里にあらわれたシッコク農場は、言われなければ定着村とはわからない。患者らしき人が歩いているわけでもないし。村全体に家畜のフン臭がたちこめる。サイロが目立つので何かを飼っているということはわかった。よく見ると家々の屋上は畑のように黒い。それはニワトリのフンであった。集落は静かでのどかである。よそ者の私たちを見つけて追いかけてきたのは子どもたち。日本人だというと「イルボン○○○○○?」と言ってくる。「わからないの。ごめんね」と言っても屈託がない。ずっと自転車で後をついてきた。集落で見かけた人は子どもたちの他、ニワトリの世話をしていたおばあさん、教会にいた若い女性くらいであった。ハ・ヨンマ氏が案内したせいか、来訪者に対する警戒した感じもなかった。ひょっとしたら地域差別を受けているのかも知れないけれど。子どもたちがこれからも笑顔を忘れずに暮らせるようにと願う。
 定着村を訪問すると「患者の自活」を試みた韓国のハンセン病政策と、患者の社会復帰がままならなかった日本のハンセン病政策の違いが感じられる。患者の人たちの無念さは消えることがないだろうけれど、社会復帰し始めた患者の人たちが暮らしやすい社会を、私たち一人一人が意識する必要があるだろう。


相思社の三〇周年

 二〇〇四年、相思社は設立三〇周年を迎える。三〇年前というと一九七四年、私が生まれた年より少し前。設立に関わった人たちは、今や私の親や祖父母くらいの世代になっている。二〇代の私が「三〇年」の重みを感じるためには、想像力で時空を超える必要がある。例えば大雑把な計算だが、一日一枚の相思社日記を書いたとすると、相思社の歴史は一〇、九五〇ページの日記となる。およそ六法全書三冊分くらいの厚みとなる。その重さを、時代の匂いを機関紙『水俣』に垣間見てみよう。
 名簿管理担当の私は、維持会員のみなさまを始め、支えて下さる関係者の方々のお名前を『水俣』に見ることができる。『有り難い!』、『そんなことがあったのか!』と、今さらながらに感じ入る。
 相思社建設の頁を見る。建設にはお金もそうだが、それ以上に多くの人の手がかかっていた。土地入手・整備ならびに家屋建設・付帯工事に思いのほか金がかかり、寄付金が底をつき「なべ、釜、ストーブ、なんでも送って下さい」と備品を募集したりしている。私が相思社に入ったころ、倉庫で壊れたものや古い備品をいろいろと見つけた。『ああ、有り難くて捨てるに捨てられないものだったんだなあ』と今になって思う。
 相思社の建物の多くはボランティアの手によって建てられている。「二〇年は持つ」との噂であった車庫は、豚の養育場跡を再利用したにも関わらず今も健在である。由来を知ればペンキの剥げかけた鉄骨さえ、じいっと見入ってしまう。
 見慣れたはずの相思社の敷地。時には目を閉じて創立に関わった人々の熱意と流された汗に思いを馳せよう。時代を剥いでみることで、当たり前に感じている今の暮らしの尊さを思い知ることができる。
 『相思社は何をしてきたのか、これからどこへ行こうというのか』、『相思社の哲学の構築が必要だ』……考えなければならないことは山ほどある。でも、「頭でっかち、アゴばっかり」では堂々巡りにしかならない。少しづつ、やれるとことからカタチにしていくしかない。
 この世に一つしかない相思社という不思議な場所は、多くの方々に支えられて存在している。これからも、支えていただけるみなさまがいる限り、相思社の一員として歩み続けたいと思っている。(川部岬)

相思社30周年記念事業概要(予定)
●書籍発行 記念誌、資料集の企画・編集・発行・販売
●シンポジウム&交流会&ツアーの開催 2004年11月20日〜23日
●グッズ作成 相思社オリジナル衣類・小物の作成・販売

 今後は『ごんずい』誌上におきまして、随時三〇周年に向けて具体的な取り組みをお知らせする予定です。
 ご意見、ご要望などもお待ちしておりますので、よろしくお願いいたします。


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