機関誌 ごんずい 79号

目次 ごんずい79号
特集@ : 考証館は何を目指すのか

      考証館は何を目指すのか…遠藤邦夫
      考証館担当者の苦闘…川部岬
      各地の人権関係博物館から
         岡まさはる記念長崎平和資料館/環境と人間のふれあい館/西大門刑務所歴史館(韓国・ソウル)
         /知覧特攻平和会館/水平社博物館/大阪人権博物館
      考証館−相思社活動から『文化遺産の社会学』を読む…遠藤邦夫



特集A : 新作能「不知火」

      趣意書 水俣病受難の法要年を迎え新作能「不知火」奉納実現のためのお願い
      新作能「不知火」 2004年8月28日 水俣湾埋立地
      その場にみんな立ち会ってもらいたい…語り 緒方正人


記事 : 水俣トピックス 第二の棄却取消訴訟
      相思社日誌/ありがとうございます
      年末カンパのお願い/7.20水害義援金をお預かりした方々


考証館−相思社活動から『文化遺産の社会学』を読む
  荻野昌弘編 小川伸彦 アンリ・ピエール・ジュデイ 脇田健一 山泰幸著 新曜社 2002

遠藤邦夫

 本書では、水俣病歴史考証館が取り上げられている。それだけでなく、相思社が課題としている「水俣病を伝える」ということの、博物館的意味が解析されている。ネコ実験の小屋が口絵にあり、本文では「出来事を記憶するための二つの場所がある。ひとつは、建物も小さくてかなり粗末な水俣病歴史考証館(水俣病センター相思社)、もうひとつは記録保管庫をそろえたきわめて近代的なセンター、水俣市水俣病資料館である。相思社考証館の方は、施設が整っていないので事実の再構築もお粗末に見えるが、集められた資料や写真が悲劇のありさまをまざまざと示し、それだけで感動もひとしおだ。…大事なことは、どちらの『文化遺産』展示のやり方を選ぶかではなく、それぞれを連結させて、見ることと理解することを上手に組織することである」(『文化遺産の社会学』以下同じ 八八頁「戦争と死者の記憶」アンリ・ジュディ)と、少々残念な表現ではあるが事実である。また水俣の現在の課題について、的確な指摘がなされている。少し誤解がある点は訂正しておきたい。記録保管庫については、相思社は一〇万点を越える水俣病事件関係の書籍・資料と新聞資料を所有しており、現在それらはデータベースで検索し、利用することができる。

 琵琶湖博物館は参加型博物館として「フィールド(編集註:琵琶湖)への誘い」(二〇〇頁)と自己規定し、「むしろ、モノを通して、地域や自分自身に〈博物館学的欲望〉をフィードバックさせようとする傾向が強い」(二〇七頁「地域の集合的記憶」脇田)と分析している。考証館では、水俣病が起きる前を「不知火海−豊かな海と暮らし」と紹介して、メチル水銀の流出を事故としてではなくチッソと国家による犯罪行為と断罪した「水俣病−チッソの犯罪」と続き、その展開型としての「闘い−被害者の三〇年」で水俣病患者たちを描いている。最後が「現在−私たちの課題」となっているが、このコーナーが一番貧弱である。一つはパネル展示では表現しきれないことがあり、もう一つは違う表現を考えているからである。私たちが「水俣病を伝える」ことを、水俣を訪れた人・現場を見た人への働きかけとして、過去に起きたことの再確認にとどまらず、今現在の自分自身を見返す・捉え直す契機としてもらおうとしていることと関係している。

 相思社では八〇年代から、水俣を訪れた見学者に水俣病患者の語りを聞く機会を作ってきたが、資料館では水俣病患者の語り部としてシステム化している。本書では「遠野の観光化と文化遺産としての昔話」として、「遠野の昔話は…語り部と呼ばれる高齢の女性たちから聞くことができる」と紹介されている。しかし、遠野の昔話は「『死』や『暴力』を伴う、いわば共同体にとってのスキャンダルともいえる悲劇」であり、「不吉な出来事や突然の悲劇とは、遠野の人々にとって、囲炉裏端で、その家の親や老人たちによって幼い頃から何度も何度も繰り返し聞かされるなかで形成されてきた〈物語化された集合的記憶〉でもあった」(一八六〜一八七頁「地域の集合的記憶」脇田)。水俣病患者たちの語りと遠野昔話は、もちろん異質なものであるが、一方が語り他方が聞く行為は、何らかの予感や共感なくしては成立しない。語りを聞くことは情報や知識の交換ではなく、その共有された行為によって双方が自分自身を問う行為でもあると思う。
 ここで論じられている〈地域の集合記憶〉について、物語り化されている水俣病が、どのような位置で地域社会に落ち着くのか興味深い。もちろん二項対立や善悪での判断などとは無縁である。

 また水俣病関係では『水俣市民は水俣病にどう向き合ったか』(私にとっての水俣病編集委員会 二〇〇〇)を取り上げて、「(一部の患者さんたちは)水俣病について話すことが仕事になっているわけですたいね。あっちこっちに行って、お話をしに行って講師料をもらって。ただじゃないでしょうから。この証言でも、いわば職業化した語り部に対する批判が出ている。ただ、調査を行った『私にとっての水俣病』編集委員会は、こうした証言もふくめて本にしなければ、水俣市民のあいだの溝が埋まることはないと判断したのである。本書でもこの判断を支持したい」(三一頁「文化遺産の社会学的アプローチ」荻野)と述べている。問題はこの発言の正否ではなく、何故このような双方を傷つけるような発言が水俣で語られるのかということであろう。博物館的な欲望からすれば、こうした証言もまた保存されなくてはならない。しかし水俣市民はそれを保存するばかりでなく、傷を治すための働きかけを自ら生み出すことによって、双方の傷を癒すことが必要である。


趣意書 水俣病受難の法要年を迎え新作能「不知火」奉納実現のためのお願い

 今からおよそ百年前の一九〇六年、チッソはこの地水俣にやってきました。その時から、不知火の海辺における百年物語は、始まったのです。
 それはやがて、この国の近代化百年の表裏を象徴する事件ともなって、水俣病が地殻変動の如く発生し、それまでの環不知火の生命共同体を破壊したのでした。
 その重層的な受難史は今日に至り、公式発見とされる一九五六年五月一日から数えて五十年にならんとしております。当時、水俣病第一号とされた患者は、その三年前の一九五三年十二月十五日に発病していた事が確認されています。
 まさに今年丁度、水俣病発見から苦難の五十年の時節を迎え、チッソがやって来てから百年の歳月となるのでございます。斯くして、受難史の法要年時にあたる今、私達には存在の原点回帰という歴史の要請がかけられているのではないでしょうか。
 そのように歴史の時を迎えて、必然にしてこれに呼応するが如く、石牟礼道子氏原作による新作能「不知火」は誕生しました。そこには、近代文明の価値をはるかに超えて、神話的古典の様相のなかに回生への深い願いが表現されています。
 それは、水俣、不知火の苦海を想起させる海底を舞台として、人の世の罪責なる毒を一心に浚い受けんとする姫不知火となって、我らを誘い導くのであります。苦海の受難を我ら人間の受難受苦とする思想によって、奇跡的な蘇りとなることを説いたものと感受されます。
 私達は、人類史における世界の水俣ゆえに二〇〇四年八月二十八日、苦海の中心なる埋立地の海端において、新作能「不知火」を厳かに歴史の要請する、いのちの願いとして、是非とも奉納したいとの熱い想いから、その趣意をここに表明するものです。
 その実現は、生命受難のこの地において、世界に向けた生類共々の命の祀りとなる事と確信しております。
 故なればこそ、皆様方におかれましては、ひとり一人の生命存在の縁に立ち還る歴史の時として、水俣の百年物語のこの時に立ち会って頂きたいと心より願っております。
 この時世にあって、新作能「不知火」を奉納する事は生命世界への帰依の一念からです。それはまた、私ども人間存在の真価をかけた静かなる祈りと心得おります。
 何卒、皆様方の合力賜らん事を切に請い願う次第でございます。

二〇〇三年七月吉日  新作能「不知火」水俣奉納する会

熊本公演のチラシ
2003年10月28日 熊本公演のチラシ
新作能「不知火」
2004年8月28日
水俣湾埋立地


支える会員全国から募集

 新作能「不知火」水俣奉納する会では、奉納公演実現のため会員を募集しています。
●入会には一口一万円の会費が必要です。
●一口につき一枚の座席券をお出しします。
 御一名様で何口でも申し込みできます。
 水俣奉納する会では、全国で会員を募って下さる加勢人も募集しています。
●加勢人も入会手続をして下さい。
●可能であれば、水俣まで会場準備や進行補助の手伝いに来て下さい。
 
新作能「不知火」水俣奉納する会では、受付を開始いたしました。一口一万円で下記までお振り込み下さい。先着順で受け付けます。尚詳細につきましては事務局までお問い合わせください。
お振り込み先
●肥後銀行 水俣支店 普通 口座番号 1578771
  口座名 新作能不知火水俣奉納する会
●郵振 口座番号 01750-9-109411
  口座名 新作能不知火水俣奉納する会

新作能「不知火」水俣奉納する会事務局
電話番号 0966-63-2980
ホームページ http://www.shiranui.info/


二〇〇四年八月二八日 水俣湾埋立地
その場にみんな立ち会ってもらいたい

語り 緒方正人

緒方正人さんのインタビューで私が立てた仮説は、緒方正人はあの世とこの世をつなぐ位置に立つ審神者(さにわ)ではないだろうか? というものであった。「サニワとは、(一)沙庭(斎庭・聖なる庭)、(二)審庭(神懸かりや神宮の吟味)、(三)審神者(神言および神異現象判定者)、の三つの位相を内包しているのだ」(『宗教と霊性』角川選書1995)と鎌田東二は規定している。緒方の語る女島の場所の力、父緒方福松の魂、生命の世界への帰還、そして何よりも「チッソは私であった」という表現は、この世の社会諸関係からは生まれてこないように思う。

構成・インタビュアー 遠藤邦夫

緒方 一九八五年認定申請を取り下げたでしょう。俺の中で水俣病問題が公害問題でも環境問題でもなくなった瞬間なんです。ではどういう問題として捉え直したのか? 自分を問う思想的な問題になってしまった。その大きな変化のために「狂い」が起きた。ある意味では認定申請の取り下げはその業界から足を洗うことなんです。
 それまでの自分が壊れ捨て去ったところで、新たな課題の地平に立ったということだと思う。そのことの表現としてチッソの前に一日坐って、そこで暮らす。要求闘争として坐り込んでいるわけではなくて、むしろ呼びかけの対象としてあったわけです。俺はあの時のことを、俺にとっての能舞台だと思ってきたわけです。笑われてもいいし、世間から石投げられることも覚悟してというところはあった。チッソの正門前というのは、ほんとうに能舞台のような感じがした。自分の全身体をさらけだしてやるところは、そこしかなかった。
 その時、重要だったことは「ひとり」になったこと、「ひとり」という地点からやったことです。やりたくて仕方がなかった。芸人が舞台に立ちたくてしかたがないのと同じじゃないかな。伝えたくて、あるいは表現したくて、うれしかった。めちゃめちゃうれしかった。そこに自分が坐ることができた。常世の舟はそれに乗っていくために作った。「私はもう一つのチッソだった」、そのことを伝えに行った。

現在の緒方正人を見るときに、一九八五年の「狂い」は大きな転換点であったことは間違いないが、それまでのエピソードを紹介しておきたい。一六歳のときの家出には、普通に都会にあこがれた田舎の少年の風貌がうかがえる。しかし彼の背負っていたものが、三年たらずで都会から田舎へと彼の身体を引き戻した。 

緒方 俺は家出していくとき、この家から佐敷駅まで一時間半くらいかけて歩いていった。その間のなんというか、引力圏を抜け出す重圧感があった。歩いていったから何人かの村の人に会うわけです。そうすると普段とは違うこぎれいな格好しているし、手荷物二つ持っているしね。そうすっとみんな「どけ行くとか」と聞くんです。今だったら車ですっと行くから尋ねられることも、すれ違って会話することもないからね。そこだと思う。磁場の力、引き寄せられ方というかな、それが一番変わったんだと思う。
 でもそのとき、水俣病から逃げるという気持ちはなかったように思う。むしろ都会へのあこがれ、あるいは一旗揚げたいというような、普通の家出の人と変わらなかった。そこに魂を奪われているわけでしょう。ちょうど水俣病が社会的な注目を浴び出した頃で、家出してもずっと気になっていたんです。引っかかっていたわけです。

家出は出家だったと語る緒方正人は、この家出によって様々なことに気づかされていく。こう書いていくと何か緒方正人物語りになってしまうが、その時々のコトの意味を考え、気づきが整理されるのは後のことである。ただ「俺はいつでも考えている」というように、自分自身の人生を素材として思想化しようとしていることは、特異な点だと思う。このとき、緒方の存在する場からすれば「考える」ばかりでなく「考えさせられている」でもある。

緒方 いったん生まれた場所を出たから、逆に生まれた場所を再発見していくわけでしょう。家出が出家だったというのが実感なのよ。その後患者運動に入っていくでしょう。
 家出というのは、この生まれた場を裏切ったことになるんです。だから出て行くときは、なにか後ろ髪引かれる思いを断ち切るというか、親不孝みたいなもんです。だから帰って来るときは、どの面下げてという視線が気になってしまうわけです。しかし俺の五〇年の中で、家出したり警察に二度捕まったりして世間的には恥みたいなことを、隠さずに認めてきたということが、自分の人間的な展開の上で大きかったと思う。
 その時点その時点で、一番きついことを選んでいる。でも結果的には自分が楽になっていく。一言でいえばバカ正直だと思う。何故バカ正直になれたのかという問いがあると思うけれど、生き物の世界の中に生まれ育ってきたので、あるいは学校に毒されていなかったというか、あまり知識もなかったし、幼いときに親父が亡くなっているんで、どこかにいつも親父が見ているような気がしていたというか、ウソをつけない存在としてあった。

緒方正人を見るとき、父緒方福松の存在は避けて通れない。また彼が好んで使う定め・運命・ひっかかり・縁・生命という言葉は、女島という場所・父福松・生き物に囲まれた暮らしを象徴しているように思われる。幼い頃福松の膝に抱かれて、額と額をすりあわせて魂「移れ、移れ」と念じられたことによって、福松の魂が緒方正人の魂となった。

緒方 六歳の時から課題を背負っていた。課題からの見られ方としての親父、課題を象徴する存在として親父の死があった。小さいときに宿題が出されていて、その答えを出さずに逃げることは自分にとって負い目になるからと思っていた。だから、がむしゃらに向かっていくんです。
 元々人間は生命の縁の中にいたと思う。とりわけ幼児期はその中にいて、小学校中学校も海山で遊んで、生命の縁の中にいたのが、近代という社会にあこがれてそこを飛び出すわけでしょう。誰でも本当は生命の縁に帰って来たいんだろうと思う。例えばアヒルとか野生の鴨なんか、生まれて最初に見たものを親と思うじゃない。それが生命の記憶、その始まりというかね。幼児期の体験や子どもの頃の体験というのが、生命世界の記憶としてその働きが大きいということだと思う。一人ひとりの体験や記憶に根ざしているということもあるんだけど、人間という存在そのものが何十億年という生命の歴史の中で、そういう存在なんじゃないかな。今ある我々の生命というのは、三〇億年四〇億年という生命の歴史の現在だといえると思う。

一九八五年に水俣病定患者の運動団体を離れた緒方は、水俣病を運動や闘争として表現することをやめた。そのちょうど一〇年後には未認定患者運動は、政府解決策によって和解という仕組みに収束させられていく。「あれが私たちの運動の限界だったと思う」と水俣病事件の運動を彼は振り返って言う。一九七三年の補償協定書は、今では患者救済の基準とまで考えられているが、あれで患者たちの望んだものは実現(救済)できたのだろうか?

緒方 一次訴訟や自主交渉の頃の患者たちは、自分をさらけだすしかなかった。深みのある人間くささをもっていた。だから周りの人が人間的魅力を感じた。その後は組織された運動になって、弁護士や支援者の存在が大きくなっていく。また「患者さん」として祭り上げられもするでしょう。それは世の中に組み込まれていく過程でもあった。救済という概念の捉え方にしても、一次訴訟や自主交渉から感じられるのは、これらの人々の魂をどう救済するのか・できるのかという、世の中の枠組みとは少しはずれたところで問題提起があったからでしょう。そこに表現性が読みとれた。
 運動や闘争の要求が実現されたとき、その時に逆に何をなくしたのかを捉えておく必要がある。俺はかけえがえのないものを換える仕組みを作ってしまったと思う。かけがえのないものを何かに置き換えることはできない、という一貫性が総崩れした。それは何も水俣病ばかりではなく、公害や薬害ばかりでなく、普通の暮らしをしている人々もみな心身共に市場経済に組み込まれた。しかしそれ自体も表現行動ではなかったのかと思う。

「連帯を求めて孤立を恐れず。力及ばずして倒れることを辞さないが、力尽くさずして倒れることを拒否する」。七〇年頃の時代を象徴している私の好きな言葉だが、緒方正人には今もその匂いがある。一人であることにこだわる緒方に、実は私は違和感を感じている。いや理解できない深い溝が確かにそこにあるような気がする。彼がそう言うとき、私はなにかとても寂しい思いを感じる。それは彼の問題ではなくて、私が緒方を拒否するなにかを持っているに違いない。しかし緒方から目が離せない。

緒方 大事なことは思想的な闘いとして、存在地点を明らかにするということだと思う。存在という時、表現は方法でもあるから存在表現といっていい。狂って「ひとり」になって以降、チッソ前座り込み、本願の会、日月丸の航海、能「不知火」と私の表現はつながっていくわけです。しかし「ひとり」になるということは怖い。狂う前にことの本質は何なのかというところに絞りをかけていき、「ひとり」という出発点に立ち返るしかない、圧倒的に孤立することを覚悟することは非常に怖かった。しかし、同時に世界との一体感を求めていたと思う。
 人間は意味的な普遍性を探している、思想的な意味での普遍なる「ひとり」を求めている。こういう乱れた世の中になればなるほど求められる。世の中を変える可能性を、多数だとか、政治力があるとか、金の力とか考えがちなんだけど、そうではない。唯一何かを超える可能性があるのは、普遍的な「ひとり」ということが突破口だと思っている。

一九九六年緒方たちが東京へ打瀬船で行った時に、水俣湾で三度回って出ていった。その時に見ていた人々は、水俣病で亡くなった魂を乗せて行くと語っていた。あの場所にはそういう力があるのではないだろうか。そして緒方正人が能「不知火」へと至った道を見ると、それは同伴を許さない道であると同時に、そこから「還ってこいよ」というメッセージが聞こえてくるようにも思う。このアンビバレントな構造が、緒方正人のいう「普遍なるひとり」と対応しているだろう。

緒方 根本がひっくり返るようなところから物事を考え直さないと、常識的な発想からはこれからの行く末の道が見えてこないと思っている。その点で、例えば今まで毒として忌み嫌ってきたものを捉え直すというか、俺は毒まで愛せよと言っているわけだけれど、それが能「不知火」で表現しようとしていることの一つ。
 石牟礼道子さんの能「不知火」は、今まで公害や環境の運動で言ってきたこととは、全く違った次元で描かれている。そこには加害者も被害者もなく、人間そのものも直接には出てこない。能舞台では人間は見る側になってしまっている。能「不知火」はある意味では行き詰まった水俣病の物語り、表現としての水俣病をもう一歩踏み込ませて、原点に立ち返らせようとしていることだと思う。
 石牟礼さんの捉え方というか考え方に自分が近いなと思ってきた。忌み嫌ってきた毒を愛する、「骨まで愛して」という歌があったけれど、「毒まで愛して」と歌うようにならないとダメだ。産業廃棄物にせよ放射能汚染のごみにせよ、忌み嫌って否定しているだけでは、やっぱり人間中心主義でしかないんで、それでは世界の中に人間が一体化しえないんです。能「不知火」は海の底が舞台になっているわけですから、そこから捉え直しているので、公害問題とか環境問題とかいう人間の枠組みではないんです。
 来年八月にやる水俣湾埋立地の能「不知火」では、その場にいるということが大事だと思う。もちろん能は一度よりは二度三度見たほうがより分かるけれど、奉納という場面にみんな立ち会ってもらいたいというのが大きいんです。分かるというのは範囲が限定されるので、分からないことだとか不思議さの世界に一時でも還るということだと思うんです。水俣のあの海の埋立地でやることが、思想的な表現としてあり、同時に問題提起なのです。是非実現させたい。能を見て分からないなら、能に見られにきてくれと思っているんです。
 そこに立ち会うというのは、記憶するということがあるわけです。坊さんのお経とか神主さんの祝詞と同じでね、分かってそこにおるやつはほとんどいない。あそこで初めて能的な表現をするその中で、あの場所が神聖な聖地なのだということを自覚することになるでしょう。
 大きな節目に来ているのは、たまたまじゃあない。これで水俣病元年に立ち返るんじゃないかな。一〇〇年の時を迎えて、新しい出発点になる。

(二〇〇三年一一月六日)


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