機関誌 ごんずい 80

ごんずい80号
目次
特集 : もやいネットワーク

      もやいネットワーク…弘津敏男
      あるもの探しっておもしろいね 宮本良郎さんインタビュー
      四区あるもの探し 丸島…神沢聡
      「あるモノ探し」に参加して…有馬未希
      「遊水池」をなんと呼ぶ?…遠藤紀恵
      相思社ネットワークの今…小里アリサ



記事 : ごんずいインタビュー 生駒秀夫さん
      連載 第三回 川部岬の相思社日記
      機関紙「告発」・「水俣」を予約製本します/英語版『水俣病』の予約受付開始
      水俣トピックス 第九回水俣病事件研究会 新潟報告
      相思社日誌/ありがとうございます


あるもの探しっておもしろいね 宮本良郎さんインタビュー

宮本良郎さん
プロフィール:一九四九年生まれ。汐見町在住。宮本ガスに勤める。寄ろ会副会長。趣味は釣り、オーディオをいじること。

聞き手&編集:遠藤邦夫/川部岬

宮本 あるもの探しっておもしろいね。小学生・中学生にこういうことをして欲しいなあって思ったな。今度の一月の「遊水池を見に来ませんか」と言っても、「あすこの水たまりば何すると」ていう感じだもん。俺もそうだったけんたい。昔ウナギを捕ったとかね、そういうの実際しとるけん、遊水池は昔はボラでん何でんおったていう感じだけど、今の子供なんか水たまりでしかない。あん中で入って遊ぶわけじやないし、魚捕るわけじやないし。
 物心ついた時、水俣病で海に近づかなかったからね。そこへもってきて葦のどうのこうのとか、魚がどうのこうのとかって、そこまで掘り下げて「これだけの意味があるんですよ」と言うと、「ああ」つていうのが一○人のうち一人ぐらい出てくるかもしれんね。

遠藤 遊水池がどうできるかというのもあるんですけど、まずは今どうなっているのかちやんと調べてみないとね。「こうしたい」「ああしたい」と言っても、あんまり根拠がないじやないですか? この間の絵地図では、四区の大事なところという認織があるわけじやないですか。どう大事にするのかということだと思うんですよね。そのためにはまず、どんなところなのか知らないかんということかなあって。

宮本 隣近所の子供に声かけてみようと思ったって、そういうところにウロウロしている子供がおらんもんね。

遠藤 袋では小里たちが袋探検隊をやっているんです。近所の子供に「おもしろいけん来んね」みたいなので、最初はいいかなあと思いますね。行ってみて「こんなやったんよ」と言うと「おもしろいね」という話で。
 このあるもの探しって四区寄ろ会と相思社でやることになってるじやないですか。どうですかやってみて? 相思社と組んで良かったですか?(笑) 

宮本 そうねえ。結果的には自分の回りの再発見というか、遠藤さんやらの考え・見方が知れたというのは、俺にとってはためになったよね。寄ろ会と相思社たいね、あるもの探しのことはどうでもいいと言えばどうでもいいことよね。自分の中に記録として残るわけやけども、生活には関係ないもんやけんね。相思社と寄ろ会というたときに、一○人が一○人「相思社なら一緒にしましょうか」とはまだいかんよね。 
 俺は何ていうかなあ、相思社というのは胡散臭いというか、何をしているか分からないとか、問題外って、やかましいところって、火のまつりぐらいまでは思っとったけん。その後は、遠藤さんを見ての相思社だけん、組織になったらまた違うだろうけんね。

ぎおんさんのダゴを作る
ぎおんさんのダゴを作る

 でも、他の人は違うよね。この間のあるもの探しでもチッソ関係の人にもお願したけど「ああ、そらあ良かとやな」つて言うて、案内パンフの下に相思社って書いてあったら「あら、相思社…相思社ってあの相思社かい」って。「あの相思社ばい。この頃はちいっと変わってきたけんまあ、昔んごつはなかばいた」って。その夜断りの電話が来たもんね。ああ、やっぱりまだあるばいなって思った。水俣病って言ったとき、我々サイドではどうしようもないところに来とるわけやけん。俺たちと付き合っていていいのかなっていうところもあるよね。

遠藤 相思社の行方について?

宮本 うん。生活はしていかなんわけだけれど、水俣病で食うて行かれるのかなって。

遠藤 なかなか難しいですよね。

宮本 あるもの探しの結果は結果やけど、その手前で色々話してそういうプロセスが良いよね。

遠藤 「環境創造みなまた」の一○年というのもいろんな評価はあるけど、私にとっては宮本さんに会えたのが一つの大きな成果です。それがあったから出会えたわけで、そういうチャンスが水俣には要るんだと思うんですよね。もやい直しもかなり否定的におっしゃいましたけど、そう簡単にいかんでしょう。でも難しいことと不可能とは違いますもんね。

宮本 「もやい直しごっこ」ていうのはわかっていてからね、その土俵に行かにゃいかんて思うたいね。

遠藤 そこから少し違うことが始まるかもしれないしという。

宮本 「ごっこ」てわかっていても行かにゃいかん。

遠藤 イベントみたいなそういうことだから、だけどチャンスにはなる可能性はあるわけですから。火の祭りもそうだけれども。

宮本 俺が「火のまつりでダゴでも配って」と言ったときに、「同じ場所で同じものを食すると親近感が増すんじゃないだろうか」つて、遠藤さんが言ったもんね。俺はダゴで和めばいいかなというくらいやったけどなあ。それで火のまつりのときに、久木野の人に「ダゴん葉が素晴らしかですね」つてダゴん葉を誉めてもらった。苦労して取りに行くんやけん、あれは嬉しかったなあ。


四区あるもの探し 丸島

丸山
丸山
イカカゴと江口さん
イカカゴと江口さん
ここら辺は砂浜やった
ここら辺は砂浜やった
薬湯の坂本さんに聞く
薬湯の坂本さんに聞く
絵地図作り
絵地図作り
背戸家道を歩く
背戸家道を歩く

神沢聡

 四区あるもの探しの二回目が昨秋行われた。二〇〇三年十一月二四日、四区寄ろ会と相思社の共催である。四区と言っても、明神・梅戸から丸島までと広い。今回は丸島を地元の人たちと歩いた。


丸山

 まずは、海に接する丸島地区においてこんもり盛り上がった丸山に登った。水俣市街地の裏山から市内を俯瞰するとき一際目立って見える、丸島のシンボル、ランドマークである。しかし私有地のため普段は入ることができず、許可を取った今回は貴重な機会だ。頂上はなんと畑であった。眺望を期待したが、立ち木のため大パノラマとはいかない。そのときも畑仕事をしていた山下さんは、終戦直後から近くに住んでおり、以前はチッソに勤めていたとのこと。高菜、大根、カブ、ショウガ、ナス、シシトウ、ふだん草などなど。果樹も、びわ、梅、みかん、柿などがあり、恵み多そうである。ただし、寄ろ会の宮本さんも初めて登ったということで、地元でも多くの人にとっては下から眺める山となっている。



旧労と新労の確執

 丸山を降りて、丸島漁港に注ぐ川にボラの大群を見ながら歩いていくと、雨水ポンプ場横の広場で、ゲートボールの集まりの準備をしていた会長の長野正夫さんに出会った。精悍な体格からは七五歳とは思えない。

 丸島は漁業の町であるとともに、チッソの裏門に面しチッソ色の強い土地である。長野さんも元チッソ従業員で、安賃闘争のときは新労(第二組合)にいた。安賃闘争とは一九六二年にあったチッソの労働争議で、水俣病以上に水俣を二分したと言われる。当時、丸島では旧労(第一組合)の人が圧倒的に多かった。旧労の団結小屋の真ん前に家のあった長野さんは、風呂に行くのも止められて一歩も外に出られず、家族もみじめだったと言う。ちなみに、その団結小屋は今話を聞いているその場所にあったとのこと。さらに、子どもの十五夜さんでさえ、「私のうちもかてて(参加させて)下さい」と言わなければならなかった。だから「今でもわだかまりは残っとるもんな」と言葉を足した。

 実は、長野さんは丸島をよく知る人ゆえにあるもの探しの案内人をお願いして、断られたという経緯があった。「旧労は、チッソに勤めてそれで飯を食いながら、水俣病を盛り上げて、恥ずかしい。昨日、相思社の人間が来ると聞いて、何でと思った」と、率直に話していただいた。それに対して相思社の遠藤が「私の意見は違うが、意見は違っても水俣をよくしていきたいと考えるのは同じ」と述べる。今日は議論をしに来たわけではないので、出会えたことの意義を確認しその場を辞した。もしかしたら、長野さんがその場所におられたのは、この出会いを意図してのことだったのかもしれない。



イカかご

 亀ん首(がめんくび)の竜宮さんに参ったあと、漁港沿いに歩く。なお、亀ん首の体にあたるのは丸山である。木の枝を束ねる作業をしている江口ミサヲさんに出会う。焚きもんでも作っているのかと思ったら、それはイカを誘うための仕掛けであった。イカかごの周りにつけて、卵を産みに来たイカが遊んでいるうちにかごに入ってくれるという原理だそうだ。枝は、堅くて小枝がついていれば何でもよいが、もっぱらハマサカキを使う。

 このイカかごを十五ひろ間隔で六〇個ほどロープに下げて海底に沈める。一ひろが一・五メートルだから…長い。「今はおらんけど、昔は、他人のを揚げて持っていく人がようおったから、他人のと分かるように、うちはチッソの肥料袋を両端と真ん中につけとる。」

 漁期は、十二月十四、五日から、許可のある六月まで。出水の米ノ津の人は十二月一日と決めて皆いっせいに入れるけど、早いと水温が下がっておらずサンゴの胞子がついて珊瑚がいっぱいついてしまって困るので、少し遅くしているとのこと。言われてみると、小さいサンゴがいっぱいついている。

 入り口にふたをしているかごがあるので聞いてみると、陸上に置いておくとタヌキが捕れるのでということであった。「タコでん、ススキでん、カレイでん、何でん入る」と楽しそうだった。



昔の海岸線

 竜宮さんのところから二班に分かれ、私の班は更に二つに分かれて分担して調べていくことにする。漁港のすぐ裏の路地を入っていくと、こんなところに何でという感じで石垣がある。ここまでが昔の海岸線だったということだ。穴のあいた石は船をつなぐためのもの。その石垣がある家は、諸国屋という魚の仲買問屋だったが、明日から取り壊されるらしい。近所の人に話を聞くと、「小さいときは、そこから海に飛び込んで泳ぎに行きよった。



魚売りのおばちゃん

 九〇歳になる船本キタさんに出てきてもらって話を聞く。若い頃から四〇数年、リヤカーに魚を積んで、まち中の天神や病院まで売りに行っていたとのこと。まちで会う人に「魚売りのおばちゃん」と親しまれていた。十五の頃、熊本のおじさんのところに豆腐、ちくわ、魚の移動販売の手伝いに行っていた。おじさんは商売があまり上手くなかったので、キタさんが「ちくわをつん切って食わすと買わん訳にはいかんもん」と自分の工夫を自慢げに話してくれた。



丸島の井川

 さらに海から離れて進んで行くと一軒の家に井戸がある。おじゃまして話を聞くと、今は使っていないとのこと。「チッソのやっかす(焼きかす)のせいで、炊いても煮あがらんごとなった。それまでは使っとった」と、チッソによる汚染があったということだった。工場裏のこの地域は、ばい煙による被害もあったところである。それでも「井川はつぶさんもん」。

 ところで、あるもの探しで土地の人に話を聞けるのは、地元の人に案内してもらっているからだ。私たちの班は江口悦子さんについてもらった。地元の人はいわば名刺である。これがなければ怪しい集団になってしまう。



鶴岡食堂のチャンポン

 昼食は鶴岡食堂の名物ちゃんぽん。実だくさんで熱くておいしい! それに、漁港の水揚げに出会ったグループがのさったシラウオ。生のチリメンである。これは漁師からしか手に入らず、地元でもめったに口にできない。美味!



共有化と絵地図作り

 午後は、印象に残ったことを一〇分程でメモに書いて紹介する共有化、そして絵地図づくりである。私たちは、「丸島漁港とともにある暮らし−海の恵み」と題して描いてみた。迷路のような背戸家道を歩いたグループは、トウガラシやら何でもしょけ(竹かご)の上で干しているばあちゃんや、畑のものを滋賀に住む娘や孫に今から送るんだよというおばあちゃんに出会ったりしたことを絵地図にした。



感想

 ここはチッソと深いつながりを持つところだ。長野さんの話に出てきた風呂というのは、チッソ裏門の通りにあるチッソ従業員家族専用の大風呂のことで、「もやい直し」の意味も考えさせられた。出会うこともなく対立だけしていたところから、喧嘩も含めてまずは出会っていくことが大切だ。そして、視線は互いをにらみ合うのではなく、自分たちの地元を見つめていくことがキーポイントになるのではないか。地元学の手法であるあるもの探しの視線はまさにそれであり、地元を味わい、楽しむ、よい休日の過ごし方だ。


相思社ネットワークの今

小里アリサ

相思社ネットワークとは

 二〇〇一年に今後の相思社の活動指針となる「転換期を迎えた相思社の活動のあり方(答申)」が出された。そこでは相思社の主な役割のひとつとして、「地域との主体的な関係の構築」がうたわれた。水俣病の経験を活かして、偏見や差別を生み出さないような人間関係・地域を創り出すことを相思社が主体的におこなっていくことを示したものだった。
 相思社と地域との関わりは、一九八〇年代後半までは患者との関係が中心であった。しかし、患者と支援者との関係は対等な関係とは言えず、それを課題として相思社全体で取り組むことができないうちに、甘夏事件を引き起こした。
 甘夏事件以後、相思社は「小さく、そして多くの人々に支えられる、開かれた相思社」として再出発した。しかし、この時点での「開かれた」は、水俣地域へを意識しつつも、実態は全国各地の水俣に関心を持つ人々に対してという意味合いが強かった。それまでの相思社は「患者をいじめた市民は敵だ」と言い放ち、水俣の中で自他共に認める「怖い存在」だった。患者以外の住民とどのような関係を築くのかは、具体的な方針も手段もまだ持っていなかったと言える。
  相思社が地域との関わりを強く意識しはじめたのは、九〇年に環境創造みなまた推進事業が始まり、行政から様々な要請が来るようになってからである。相思社に国際会議への写真貸出や水俣病犠牲者慰霊式への出席を求める「水俣病をおそれなくなった行政」に、どう対応するのか慎重に判断を重ねる日々が続いた。
 九四年に吉井市長が誕生し、慰霊式で市のこれまでの取り組みを謝罪してからは、相思社はむしろ積極的に環境創造みなまた推進事業をはじめとした行政との協働に関わり出す。水俣の人々が水俣病に向き合い、水俣病への差別や偏見をなくしていくには、相思社がもっと地域に出て行き、地域の人々と関係を創る必要があることと、行政と一緒におこなうことで住民と水俣病との距離を近くすることができると考えたからだ。推進事業によるイベントは、確かに立場が違う人々の出会いの場となり、人と人との距離を近づけた。
また、水俣市総合計画への提言をおこなう「みなまた二一プラン市民会議」や、九五年の政府解決策に含まれていたもやい直しセンター建設のためのワークショップなどへの相思社スタッフの参加は、水俣病の経験をまちづくりの土台としておく水俣づくりに関わり、それまで知り合えなかった人々と共に汗を流す経験を積むことになった。

相思社ネットワーク

 現在、相思社および相思社スタッフが参加したり関わっている活動には次のようなものがある。 火のまつり実行委員会、ごみ減量女性連絡会議、四区寄ろ会との協働、観光物産協会エコみなまた、せっけん工場、おれんじ館、水俣フォーラム、環境熊本ネットワーク、元気村女性会議、二〇〇一水俣ハイヤ節、新作能「不知火」水俣奉納する会など。このほかにも様々な実行委員会などのメンバーにと声がかけられる。
 この中で相思社はどのように考えてどう関わったのかいくつか例をあげて考えてみたい。

火のまつり実行委員会

 火のまつりは九四年に始まり、火に託して水俣病の犠牲になった全ての命に祈りを届けるという場を共有することが、水俣の人々が水俣病に触れる重要な機会になるとして相思社は当初から参加した。環境創造みなまた推進事業終了後は寄ろ会を中心とした住民主導でおこなわれるようになった。水俣の自主的な住民組織である寄ろ会の人々が水俣病を考え・感じ・祈るという場に大勢参加し、まつりの主役である火の準備をおこなっているということは水俣の中で大きな変化である。
 火のまつりの経過の中では、祈りの質を追求しようとする本願の会の人々と、広く住民の参加を呼びかけようとする寄ろ会の間で意見の違いもあった。本願の会が会として火のまつりへの参加を休止してからも相思社は実行委員会で祈りの時間と空間をどのようにつくり出せるのか、寄ろ会の人々と話し合いを続けてきた。
 様々な人々と共に創り出す場では、相思社は一方の立場で参加するというよりも、患者と住民をつなぐ役割として期待されている。

ごみ減量女性連絡会議

 この連絡会議は、水俣市の呼びかけで九七年に結成された。女性が活躍する市内の一六団体が「ごみを家庭に持ち込まない」等の観点でごみ減量を目指している。相思社は、ごみ減量で女性たちが手をつないでいくことは水俣病の教訓を活かしたまちづくりの具体的な取り組みであるとして、参加している。
一六団体は、生協やJA、婦人会、ボランティアグループなどで、そのバックグラウンドは様々である。会の原則は、この会にごみ減量以外のテーマを持ち込まない。ごみで困っていることを生活者・事業所・行政の一致点として、どうしたらよいかをけんかをせずに話し合っていく。お互いのグループの違いも認め合い、対立を創造のエネルギーに変えていく、というものだ。
 連絡会を始める最初にこのような会の原則を取り決めたことは、立場の違いだけで相手を敵味方に分け、同じテーブルに着くことができなかったこれまでの水俣の状況を繰り返さないために必要なことであった。一過性のイベントでの協働ではなく、メンバーがお互いを知り合い、ごみという日常の問題について長く活動をおこなっていることは、そこに相思社も加わっていることは水俣の大きな変化と言えるだろう。
 
「怖い相思社」のイメージは変わったか

 「個々のメンバーと話すとすごく楽しいのに、相思社という団体になってしまうと圧倒される気がする」(ごんずい七八号)という相思社アドバイザー委員の発言は、相思社を見る目のひとつの代表だろう。
 直接顔を合わせ、議論をし、一緒に体を動かした人は、相思社の個々人に対して「怖い」イメージではなくなっていると思うのだが、相思社という組織全体のイメージ修正にはなかなか至っていないようだ。ましてや、顔を合わせて何かを一緒にやったことがない人々にとって、相思社がまだ敬遠される対象のままであることも事実である。また、相思社はわかりにくいとよく言われる。場所もわかりにくいし、何をやっているのかもよくわからないと。
 九〇年代から現在までの一〇数年間、水俣病をテーマにしたイベントを通して多くの知り合いができ、地域へ出かける契機になってきた。現在は、イベントではなく、日常の暮らしや自分を取り巻く風土、住んでいる地域を調べることから、相思社のネットワークをつなげようとしている。四区寄ろ会との協働という取り組みも、火のまつりでの出会いから四区のあるもの探しを協働でおこなうことに発展している。
 不知火海で結ばれている地域の風土と暮らしを、そこに住んでいる人々と協力して調べ・考え・創ることから、地域再生につなげようとしている。そして水俣で生きる人にも、他の地で生きる人にとっても、水俣病が実は地域に根ざすこと大切さを教え、生きる希望と勇気を与えるものだということ伝えていきたい。
 相思社のわかりにくさは、このような形のないものを扱っているからなのかもしれない。しかし、形はいずれ様々な人が寄り集まってこねたり色をつけることでできていく。その営みがネットワークではないかと思うのだ。

ごんずいインタビュー 生駒秀夫さん

生駒秀夫さん

●生駒秀夫さんプロフィール
一九四三(昭和一八)年七月四日朝鮮生まれ。
1947年から水俣在住。家族:妻幸枝、
  長崎生まれ。子どもは一男一女。
  水俣病発病:九五八年八月四日 
   認定:一九五八(昭和三三)年
    八月十一日

生駒さんと最初に出会ったのは、二〇〇三年二月に四区あるもの探しで梅戸を訪れたときだった。その時作った絵地図には、生駒さんから「海がようなった」と聞いて感動したと書かれている。幸枝さんにもビナ取りのカゴを見せてもらった。その時は生駒さんが水俣病であることは分からなかったが、後で世話役の宮本良郎さんから聞いた。結婚して三〇年以上になる秀夫さんと幸枝さんは、とても仲がよいとお見受けした。

発病の頃

 昭和三三年の八月一一日に認定になりました。その頃は茂道の袋湾に面した家に住んでいました。その前に七月頃から自分の症状は出ておったでしょうね。私はスポーツが好きやったもんやけん、卓球のラケットで相手としよるでしょう。そうすると玉が突然見えなくなるんですよ。「われ何ばすっとかと打たんで」と言われ、「分からんごとなった」って。そん頃から出たでしょうね。
 それから一時したら、学校の山ば下草刈りですね。朝は自分できれいにナタを研いで、どうもなかったんですけれど。山にいったですよ、昼で終わるですね。そっで、みんなで暑いから氷を食べたわけです。その時に氷を二、三回食うたときに、ピンとシャジを自分ではねて人の顔にあたって、怒られたですね。「わりゃなんで氷をひっかくっとか」って。「もう俺はそのつもりじゃなかっぞ」って。自分でこうしてしよったばってん、「わっどんじゃあ見とってみ」ちゅうて、こうしてすくうて、そうしたらピンってやるわけでしょう。「なしてこげすっとな」ちゅうもんで、「知らんがね俺も」言うたです。「われは疲れとっとやが」ちゅうてみんなが言うとで、「あば帰って寝らっじゃ」ちゅうて。それで昼から寝て起きたら何時間寝たかしらないけれど、起きたら口のあたりがしびれてモジャモジャして、そっで言葉がおかしいちゅうて親父が言うもんだけん。こら大変だちゅうもんで、明くる日だったかそれは分かりませんけれども、市川さん(病院)に一人で行ったですよ。
 わたしは当たり前にしゃべっているんですけども、人が聞けばオガオガ言うとると言われた記憶はあっとです。市川さんは診察もなんもせられんとですよ、スイカば一つもってきて「これの種を出せ」ちゅうことで。そしたら種が一つも出らんかったです。その足だったと思うんですね、会社病院にすぐ連れていかれたら、そこでも病気だろうなあということでした。

熊大の藤崎台隔離病棟

 入院しとったとは、私と松永久美子さんですね、それと田中静子さん、実子さん。それと尾上さん散髪屋さん、もう何年か前死なれたそうですよ。それと坂本マスヲさんといわれる方で出月やばってんな、息子は杖をついてされきよっと。こないだ乙女塚で会ったときに「マスヲさんの子な」ちゅうたら「はい」ちゅうたもん。やっぱり水俣病になっとっとやなかですかね。それと川上タマノさんにじいちゃんが付いとらった。七人かな、このじいちゃんが熊大からずっとの縁で、親代わりのごとして。
 田中静子さんたちにはお母さんがついとらした。松永さんと静子さんのお母さんと。私が正月帰って来たときに、静子ちゅう子が死んどった。私が帰って来たときにはおらんかった。静子ちゅうとば忘れとったたいな。この前誰じゃ来られたとき、ああそういえば静子もおったねえちゅうて。

親父の死後、大阪・奈良へ

 その後、僕が一六歳の時に親父が中風で倒れたっですよ。市民病院のほうに入院させた。水俣病は三病棟というところにあったですが、親父を介抱するもんがおらんだったけん、熊大から帰っとった私が介抱するように同じ部屋にさせたんです。ベッドを二つ合わせて、おしめからなんから、ご飯を食べさせたり、介抱していたんですよ。その前は私が水俣病になったときにですね、熊大に一年ちょっとおったですね。熊本城の藤崎台にありましたもん。今は野球場になってますけれど。そん時には名前が水俣病やったですかね、ちょっと思いださんですが、水俣病やったかな奇病やったかな。最初はガス中毒ちゅうて言うてたんですよ。そしてから奇病となって、水俣病となったから、私の時には水俣病じゃったと思うんですけど。
 私が半年以上で介抱しながら、親父は昭和三五年一〇月に亡くなったですよ。私はいつでも退院できる状態だったですよ。私より半年前に退院した同じ病気の友だちが大阪の方に仕事に行ったもんだから、私も一緒に行きたかったですよ。だけども親父が倒れたちゅうことで、親父を介抱せんといかんやった。死ぬまで介抱して、亡くって私もすぐ退院したですよ。それから二ヶ月間ぐらい水俣の渋谷金物屋で働きました。大阪に行ってた友だちが正月に帰ってきて、「今なんばしよっと」と言うたで、今は「渋谷の本店におっと」というたら、「もう大阪に行かんや」と言うたのがきっかけで、大阪に仕事に行ったんです。
 大阪市東成区までは覚えとるばってんが、木工所ですよ。御所浦に縁のある方がそこを経営しておられたんでしょうね、御所浦のモンが大阪にさかんに行きなってですね。一年半くらいそこで勤めていました。仕事が忙しくなったもんだけんね、その会社がもう一つ建てようということで、奈良の方に工場を建てたわけですよ。それは昭和三七年じゃなかろうかと思うんですけど。そこに何年おったかなあ、二年くらいして身体がおかしくなったもんだけんですね、水俣に帰って湯の児病院にちょっと入院したっですよ。回復したからまた元のところへ行って、何年までおったかなあ。

医者に行けんかった

 ただ仕事に行ってた時には、お医者さんに行くのが一番困ったですね。人の前にいったら、緊張して震えが出てくっとですよ。大阪なんかのお医者さんは水俣病を知んならんけん、名前は聞いておるけど本人を診察するちゅうのはなかですよね。だから私は行きたくなかったんですよ。ですから薬屋にいって自分で買うて、自分でやりよったんです。奈良に移った時に、どうにもならんちゅうことが一回あったですよ。
 とうとうご飯炊きのおばさんに言ったんです。長野の方やったですが、薄々は知っておられたんですよ。「どがんかあっとじゃなかと思っとった。食べないし何か困っとっと」言われたでな。「おばちゃんだけにな聞かすっで、他の人にな言わんでおいてくれ」って。「俺なあ病気になっとっと、みんな知らんと。病院に行きたかばってんが行かれんち。行けば水俣病と分かるっで、もうどがんしようもなかじゃがって。薬を買うて飲んどるばってんが効かん」って。もう吐くのなんの、ゲッゲやっとったですよ。あんまり続くもんだけん、私はどうしたらいいか分からんじゃった。そしたら連れていってくれた。「誰にも言わないように頼んであげるから」ちゅうて、お医者さんに連れて行ってもらうたことがあっとですよ。
 お医者さんが「あなたが入って来たときに、ちょっとおかしいなと思いました」と言われた。そのお医者さんは水俣病ちゅうとが初めてやった。「これは誰にも言わないでください」ちゅておばちゃんに頼んでもろうて、やっと治ったです。その後はそこに気安く通われるごとなったですよ。未だにそのおばちゃんのこつは忘れんですね。

結婚の時

遠藤 奥さんとは奈良で知り合っているんですよね?
幸枝さん 四二年八月に水俣で私と結婚して、奈良の方に行ってそこで息子が四三年に生まれて。娘は水俣帰ってから四五年に生まれました。
秀夫 私が二四というと何年か? 昭和四二年の夏に会社の方で飯を炊くもんがいなくなったんですよ。それで自分で自炊せんばちゅうことで、「これはまずい」って思うたもんですから(笑い)。水俣に帰ったときに、世話になっておったじいちゃんに「どがんかしてくれろ」と言うて見合いしたんです。そのじいちゃんは熊大から一緒やった村野タマノさんの旦那さんです。その人に「自炊せんばんことなっで、何んとかでけんとか」って相談したんです。じいちゃんが親代わりみたいな人やったもんですから。「こりゃしょんなかね、どがんかせんば」と言うことで、「あば探しとくで」ちゅうて言うて、私は奈良に帰ったんです。
幸枝 私はその時は、よそから帰ってきて湯の児に勤めておったもんだけん、村野さんが旅館まできなったです。その後、この人が弟と二人で、私が勤めていた湯の児の旅館に来たばっかり。まあ見合いのつもりで泊まりに来とんなったで、二人で。見合いという見合いじゃなかったんです。
秀夫 自分も見合いと全然知らんですよ(笑い)。
幸枝 私も見合いとは聞いてませんけど(笑い)。
秀夫 明くる日、見てみらんかということで「夕方何時頃来い」ちゅうことで、じいちゃんの息子さんの家で初めて会ったです。私はもう急いどったもんだけん(笑い)、頭が自炊せんばんということであったもんだけんですね(笑い)。
幸枝 考える暇もなかですよ。本当に。
秀夫 その晩に一緒にご飯かなんか食べたごとあったですね。じいちゃんたちが決めたっでしょう。日にちは何時が良いちゅうたら、日の良いときがよかとじゃっで、じゃあ明日せろちゅう。結婚式ちゅうとじゃなくて、みんなちょっとビールを飲んでお祝いをして、それが結婚式でした。
遠藤 だまされたようなもんでしたね(笑い)。
秀夫 それで一緒に、明くる日に向こうが決めらしたもんですから。
幸枝 四二年の八月やったかな。式という式じゃなかばってん、少し印だけのお祝いちゅうてですね、近所の人がしてくれらして。
遠藤 立ち入った話で申し訳ありませんが、秀夫さんが水俣病と分かっていたんですか?幸枝 そう聞いてました。そやけど私の親の方がですね、決まったっじゃっでと言わすもんじゃっで。自分たち勝手に決めてと、ぐずったばってんがですね、どうしようもなかったですね。

(聞き取り全文は今春発行予定の「豊饒の浜辺から」第三集に掲載予定。二〇〇四年一月一三日聞き取り)

連載 第三回 川部岬の相思社日記

一月五日

 今日は仕事始めである。
 この職員日記、新連載と言いながら〇三年二月五日、三月二五日発行「ごんずい」に載せたばかりで後が続いていなかった。(嗚呼、これでは連載とは言えないよ)と思いながらも書かせていただく。編集長、相思社三〇周年のこの年は職員日記を連載にしようではありませんか!

 「いよいよ真冬になってきたか」と感じると、それは春の始まりだったりする。水俣の冬と春はそんなに近い。きっともう海の中はワカメたちが芽吹いている頃だろう。相思社の敷地内にはロウバイや水仙が花を咲かせている。清らかな花の香にうっとりとするのも束の間、年度末を目前にこの時期は忙しくなる。

 毎年シリーズで出すはずの患者聞き取り集『豊饒の浜辺から』も、第三集発行が待ち受けている。雑柑の販売時期に入るし(おいしいですよ!)、二月末には水俣で全国グリーンツーリズムネットワーク熊本大会があるし、三月には修学旅行生たちがやってくる。そうそう、考証館の展示改訂も徐々にやっていく計画だし、視聴覚+閲覧室も整備しよう…。 財政的には決して余裕があるわけではないけれど、やることは沢山あるのが相思社。創意工夫で動いていくのが相思社。

職員手製の電話台


 ここで皆さんにお見せしたい写真がある。 ジャーン、これは職員手製の電話台である。秋も終わりの頃、パイプと拾ってきた真名板を前に弘津氏が首を捻っている。(何してんねん)と無視しているとあっという間に組み立ててしまった。「買うと良いもんは高いんや」相思社の事務所で新品な物はパソコンくらい。他の道具は一〇年ぐらい使っているものもざらである。そのパソコンでさえ、部品を取っておいて具合の悪くなったパソコンに再利用したりする。

デスクワークから肉体労働まで

 相思社の仕事に専門職はない。少人数だから何でもかんでもやる(やらざるを得ない)総合職である。もちろん自分の受け持つ仕事以外に、他の人と共同してやる仕事もある。だからタッタタッタと「六割程度でもいいから」数をこなさないと、なかなか仕事がカタチとして見えてこない。そんなのいい加減じゃないか、と言われるかも知れないけれど、「継続は力なり」なのだと思う。
 そんな日頃のお仕事を終えてそれぞれの自宅に帰れば、水俣の暮らしが待っている。職員それぞれの暮らし方は、相思社ホームページにある「職員のページ」から垣間見ることができるので、興味のある読者の方はご一見を。
 次に、勝手に水俣に暮らして嬉しいことを並べてみた。

水俣に暮らして嬉しいところ

・新鮮な食べ物が手に入る・「市」だけど、おっとりしてる。時間の流れがゆるやか。
・四季の移ろいが感じられる・田舎の人情があるところ・山−川−海、そして温泉がある・お金が沢山無くてもそれなりに暮らしていける・マイペースに暮らせるところ・物欲を刺激されることが少ないこと

 水俣に住んで、相思社で働いていると、少しのお金で工夫して暮らすことになる。これは水俣に来てから私が得た喜びである。イモを植えようかな、市場で魚を買ってきて干物を作って冷凍しよう、冷暖房は最小限でいいや、古い着物で楽しんでみよう、手作りっておもしろいし凄い……実家の「あるもので手作り、ばあちゃん」にはかなわないけれど、ようやく暮らすことがワクワクしてきたこの頃である。


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