機関誌ごんずい81
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目次
水俣病センター相思社三〇周年事業 趣意書
二〇〇四年、いま私たちは、どこにいて、どこへ行こうとしているのでしょうか。
「原因不明の中枢神経系疾患」が水俣市の一漁村に見出された一九五六年の、水俣病公式確認からやがて半世紀、チッソが水俣村にカーバイド工場を建設した一九〇八年から一世紀を迎えようとしています。
日本の近代化の過程で引き起こされた水俣病による患者たちの苦しみは、健康被害だけにとどまりませんでした。地域共同体における差別や偏見、企業城下町での市民との対立、さらに被害拡大を止め、犠牲者を救済すべき政治の無策にも苦しめられてきたのです。患者たちは、こうした理不尽さの中から声を上げていきました。それは経済発展を第一とするこの国を告発する、不知火海沿岸に暮らす生活民の叫びでした。
公的に被害を認められていない被害者たちは、一九七三年の一次訴訟勝訴−補償協定書締結ののち、出口の見えない長い闘いを強いられます。裁判、直接交渉とあらゆる手段を用いますが、形式的手続きの認定制度というシステムに絡め取られていきます。地域においてはニセ患者発言が公然と語られ、水俣病被害者を名乗ることさえできませんでした。水俣病は忌避され、触れることも許されないタブーとなっていきました。被害者に「このままでは俺たちは犬死だ」という言葉まで発させた、こうした消耗戦の末に、苦渋の選択と言われた一九九五年の政治決着に至ります。
しかし、被害民はただ打ちひしがれていたばかりではなかったのです。底知れない辛苦を味わってきた被害者が発したのは、凄惨な被害の訴えや加害者への深い憎悪の念を超越した言葉でした。「チッソの社員や市民も苦しかったでしょう」「自分もチッソの中にいたら同じことをしていたかもしれない」と。それは、加害被害の関係を超えて人間同士の信を紡ぎ出そうとするものであり、被害者としての憤りを人間社会のあり方を問うことにまで昇華させようとするものでした。水俣の「もやい創り」とはそういうことなのです。
水俣病センター構想が芽生えたのは、地域で孤立していた一次訴訟原告たちが、判決後に「地域の中で生きていけるだろうか」という不安を持ち、「患者・家族の拠り所を作りたい」との思いからでした。そして、一九七四年、その思いを受けとめた多くの人たちの働きによって相思社は設立されたのです。当初の構想は、すべての患者の拠り所・たたかいの根拠地・医療機関・資料センター・共同作業場などを、段階的に実現していくというものでした。それぞれ取り組みが行われましたが、相思社の三〇年を振り返るとき、その前半を特徴づける活動は、未認定患者運動の拠点としての機能でした。そして一九八八年に水俣病歴史考証館を開館し、後半は水俣病を伝えることに軸足を移していきました。自らも水俣のまちで暮らす住民として地域に出て行き、行政との協働にも参加することによって、「もやい創り」の一端を担いました。
社会のあり様に目を移せば、水俣病被害者たちの叫びにもかかわらず、世の中ではお金のために人間の生命が弄ばれています。例えば、危険がはっきりしている血液製剤を使い続けHIV患者を生み、石油のために海外派兵を強行しています。そして、私たち自身は身体・生命を実感することが希薄になって、情報化社会の一片の要素となっていることに疑問を持つことさえ忘れかけています。
水俣現地に存在するNGOとして相思社の行うべきことは、「水俣病」を起こさない社会を足元から作りあげることです。そのために、水俣病の教訓を地域へ・日本へ・世界へと発信しています。そうした動きが水俣病の過ちを繰り返さない地域の基本に置かれていくと考えています。しかし、現実の地域社会では、水俣病と水俣病患者に対する偏見は今もなくなっていません。被害者が心やすらかに生きていける地域を作るには、設立当初の「地域の中でいかに生きるか」という課題を今、新たにとらえ、お金で結ばれる関係ではなく人間同士が直接結ばれ合う関係を再構築することが必要です。「運動支援」ではなく「患者とのつき合い」を深化させていくことが患者の心の支えとなり、かつ地域コミュニティーの結ばれ方に作用すると思っています。つまりこうした状況における相思社の役割は、患者と市民、患者と行政、水俣の人と外の人とを結びつける役割であり、到達点は水俣病が起きることのない「もう一つのこの世」ではないでしょうか。まだまだ日暮れて道遠く、このような取り組みは始まったばかりです。しかし、人々が誇りを失っていた状態からすれば、昔日の感があります。
相思社三〇周年を機に、今改めて水俣病事件が現代に問いかける意味を、これまで相思社と水俣に様々な形で関わった方々とともに水俣現地で考え、言葉を交わし、交歓する場を作り出したいのです。
今 水俣について思うとき 最首 悟
風をどう受け止めるか
時空的な日本列島のなかに位置を占める水俣について、水俣の外に住んで、水俣を考える者にとって、いちばんの問題は横方向・水平方向でのつながりや断絶であると思う。横方向・水平方向とぼんやり言うことで、いろんなことを指すようにしたいのだが、たとえば川が縦方向だとするとそれを横切る橋は横方向で、見上げる空を垂直方向とすると大地の広がりは水平方向というふうにイメージしてもらいたいと思う。
横方向では、たとえば「グローバルに考えローカルに活動しよう」というスローガンがある。「活動しよう」を「暮らそう」に変えてみる。活動は暮らしを含んでいるはずなのだが、この言い換えによってスローガンの意味は大いに違ってくる。前者は「グローバルな考えにしたがってローカルな暮らしを変えてゆこう」というニュアンスを帯びてくる。そして後者は「グローバルに考えつつもローカルな暮らしを守ってゆこう」という意味合いになる。
前者はわかりやすい。世界はひとつ、科学技術に基づいて貨幣を基準とする市場原理をあまねく浸透させようということになる。EUはその典型である。EUそのものがまだローカルなのだが、しかし加盟国はEUという統合体に身を解き放たなければならない。しかし二〇カ国を越えるとなれば、そう簡単に「開く」わけにはゆかない。経済格差はあまりにも大きい。ともあれ貨幣基準だけは統一し、ビザは廃止しようということになるが、地場産業の崩壊など、生活は大きく変わってゆく、それもこんなはずではなかった、というように変わるのは必至である。あくまで暮らしの上でも考え方でも地域性を残しながら、お互い緩やかに協調協力し合うというのが主旨だ、精神だ、と言っても、市場原理はブルトーザーのように地域のでこぼこをならしてしまう。横方向に水平的に、きわめて平坦な暮らしが実現する。これは「グローバルに考え、ローカルに暮らす」という趣旨ではないだろう。
たとえば、ブータンの女性が言う。「日本は素晴らしい国だそうですね。でも私は一生この村から出ないから、関係ありません」。およそ一五年前くらいの一九九〇年代初頭のテレビ番組でそう語っていた。ちょうどこのころ、ニューギニア高地のダニ族をはじめとする裸族が、ジーパンをはき始めた。ブータンの女性は、べつに「閉じている」わけでなく、外からの風が吹けばそれに吹かれて暮らすだろうが、今事実として自分の暮らしを述べている。そしてそれは「グローバルに考え、ローカルに生きる」ことの実践でもある。日本は素晴らしいと肯定しながら、それと関係を持とうとはしない、少なくとも今は。これはグローバルに考えることのひとつの内容である。しかし無抵抗というのが気になる。風にさからわないなら、とても「グローバルに考え、ローカルに生きる」とは言えないのではないか。
バリアは生き物のよう
たとえば江戸時代から続くムラを考える。堅くいえば、村落自治共同体で、典型はコメをつくる農村である。八代吉宗のころから生かさず殺さずの収奪が徹底してくる。よぶんなことをいうと、吉宗が死んで名補佐役の大岡越前も死んだ宝暦三年(一七五三)、私の祖先だという最首杢右衛門が、百姓一揆の首謀者として打ち首になっている。
苛斂誅求に耐えかねて立ち上がる前に、ムラはバリアを張り巡らして、秘密が、隠し米などの秘密が、漏れないようにする。秘密が漏れるのは主に二つの原因からである。ひとつは子どもである。子どもは口が軽い。それで子どもは厳しく監視する必要がある。ひとつは才能ある若者である。才能があると不満が高じてくるし、ムラを飛び出したくなる。それで出る杭は打ち、足は引っぱらねばならない。そして秘密を漏らすことにつながる秩序紊乱者には厳しい罰を設定する。村八分である。しかし村外追放にはできないから、預かり処分だし、そういう処分をしたことが漏れては一大事だから、結局は村八分処分が出ないように、全力を挙げて予防策を講じるということになる。
しかし、バリアをこちこちに張り巡らすわけには行かない。日常用品の交易や修繕は欠かせないし、旅の一座、巡礼などがやってくる。スパイ役が混じっているかも知れないが、新しい見聞ももたらしてくれるし、難渋する者を放っておくわけにはゆかない。それでよそ者には厳重に警戒しつつも丁重にもてなしたりする。
ムラは基本的にバリアを張る。しかし閉塞感が高じてはバリアは続かない。それで上に向かって開いておく必要が出てくる。イメージとしては筒型世界ということになるだろうか。その筒が上に向かって末広がりに開いている。その開いた、どこからかが天である。バリアを張り巡らす必要のあったいちばんの相手、お上は天ではない。お上は横からあるいは斜め上から襲ってくるのである。天はあくまで高くどこまでも続いて行って、そして気がついてみれば、筒の底は天とつながっているのだ。筒は底抜けだった。
またイメージアップすると、短い透明なパイプが空中に浮かんでいるようで、そして縦方向から見ると、そういうパイプがびっしり密にくっついて蜂の巣のようになっていることがわかる。ムラの意識としては、パイプの外はおおかた無関心である。すでに気付かれているように、日本列島で個人をいう場合にはこのパイプが一人を入れるだけに小さくなっているのである。そしてこの一人分のパイプは世間に置かれ、世間はふつう鬼ばかりで冷たく、しかるが故に自分は何をしてかまわないのだが、何人か何十人か入れるパイプに身を置くと世間は急にせまくあたたかく、袖すり合うも多生の縁になる。
人すなわち天なり
何人か何十人かの原型は二人である。二人が同じパイプに入っている。中根千枝はこの二人の関係をまゆ玉、あるいは餅を引き延ばしたような形で表した。切っても切れない関係である。森有正はこの関係にあるわたしを「あなたのあなたとしてのわたし」であるとした。切っても切れない関係を切り、あなたを失ったわたしはふつう生きて行けない。ただ新たに登場した権利とか基本的人権などの楯をかかげ、主として他人を非難し、攻撃的になる態度がもてれば、かろうじて暮らしてゆけるのだが、もとより不安定である。
筒型世界に生きるとは、その内部での関係こそを最優先として、相対に徹し、密なる関係を十重二十重に張り巡らすことであり、あるいはそのネットワークを認めることである。そして外の筒型社会と通じるのは、上なる、あるいは下なる、どこまでも通じる天を通してであって、その合い言葉は「人間として同じ」、あるいは「人間として」ということになる。山本七平が指摘した日本列島の人間教は「人間として」を共通概念として、そして人間とは何かに立入らないことを特徴とするのだが、なぜ立ち入らないのかについては説明していない。
「人間として」という考えはあくまでも茫漠とした天に結びつけられていて、天は把握できるような器でないから、言い換えると本質を抽出できるような概念ではないから、人間の本質もまた把握できないのである。福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず人の下に人をつくらず」は、そのように天を規定することで勇み足はおかしているものの、日本列島の人間教の教義を言い表したものと言え、フランス革命の人権宣言とは似て非なるもの、あるいは非にして似ているものなのである。
人間は高みを目指しても、底を限りなく掘っても、自己認識には達し得ない、残るのは横だけだと、親鸞さんが考えたかどうか知らないけれど、バリアをそのままにして突き抜けると次元のちがう異世界に入る、というようなイメージが、親鸞さんの「横超」(むずかしいので、よこっちょと受け止める)を見ていると湧いてくる。ただし自力で横に跳ぶことはできない。
筒型社会からツツ型社会へ
もう一つ、筒型世界では絶対の必然性がない相対の関係がすべてだから、波と粒子という矛盾する考えが同居して光になる、というようなことは不思議ではなくなる。矛盾の同居を認めると理屈が成り立たない、ということを論理化するためには「つつ」が導入されねばならない。氷でありつつ火である。これを氷炭相通ずという。それで「筒」と「つつ」を合わせて「ツツ型世界」と呼んだ方がいいように思われる。
このツツ型世界の横っ腹に外からドーンと穴を開けられ、風が吹き込んできたら、ツツ型世界はどうなるか。チッソが鉄道と共にやってきた。そして水俣病が起こった。国家が直接采配を振るい、水俣病を不知火海沿岸一帯に拡大させながら、水俣病は終わったものとし、被害者数を最小限に押さえ込んだ。ツツ型世界のバリアは破られ、その世界は破壊された、という見方もあり得る。しかし変わらずそのままにあるという見方も成り立つ。
後者の見方の根拠を挙げるなら、第一に浮かんでくるのは、昭和天皇が亡くなったとき、チッソ前の座り込みテントから半旗が揚がったことである。第一次訴訟第一回公判に臨むにあたって、渡辺栄蔵原告団長は、ただいまから国家に反逆すると述べた。おそらく国家はツツ型世界の外にあり、昭和天皇は内にいるのであり、ツツ抜けのどこかにいる。ツツ抜けのそこでは、人間は皆同じなのだ。そして生き物すべてといのちを共にしている。
水俣に横からぶつかり横から入り込むことはむずかしい。縦方向への移動を心象風景としてもつことが、水俣への入り口かもしれず、そしてそのようにして、やっと、天まで病んでいる中で、どうして病んでいるという意識がやってくるのか、ということに希望の徴をみることになるのだろうと思う。
<人物註>
中根千枝 一九二六年まれ。『タテ社会の人間関係』(現代新書、一九五七)を英語版と同時並行して書いた。モチを引き延ばしたような図は『適応の条件』(現代新書、一九七二)に出てくる。
森有正 一九一一年生まれ、一九七六年パリにて死去。カソリック。フランスに住んだ哲学者。「あなたのあなた」は『土の器に』(日本基督教団出版局、一九七五)に出てくる。
山本七平 一九二一年生まれ、一九九一年死去。三代目のカソリック。イザヤ・ベンダサン名義で『日本人とユダヤ人』(山本書店、一九七〇)を書き、日本教の教義の中心は人間で、人間は法外の法であることを示した。
私と水俣病事件そして相思社 丸山定巳
熊本大学文学部教授、地域社会学、環境社会学
聞き手・編集:遠藤邦夫
水俣病との出会い
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| 1973年3月20日 一次訴訟判決の日 |
遠藤 丸山さんが水俣病に出会ったのはいつですか?
丸山 直接的には一次訴訟が始まってからですね。私は一九六八年の四月に熊本大学にきたんです。一次訴訟は六九年六月からだったでしょう。市民会議の人たちが弁護団をバックアップする体制を作る必要があるということで、熊本に来られてました。宮澤信雄さんが告発のメンバーとして関わっていたので、法学部の富樫貞夫さんが頼りになるのではないかということで、市民会議の人たちに紹介しました。
私も大学紛争のときに、富樫さんとは若手教官有志ということで縁ができていました。その時僕なんか来たばっかりでね、若手教官有志のリーダーが富樫さんたちだった。当時、大学側はそれまでの旧体制で何とか乗り切ろうとしていたわけね。そこでそれじゃあどうにもならんのじゃないかということで、若手教官有志の会を作った。学生たちの言っていることをまともに受け止めながら、対応していく体制が必要じゃないかと。
そのような縁ががあって、、六九年の夏に日吉フミコさんたちが「とにかく一度水俣に来て現地の人にあってもらいたい」ということで、数人で水俣に行ったんです。渡辺栄蔵さん、上村良男さんのところに連れていってもらったんです。
遠藤 水俣病患者に会ったのは初めてなんですか?
丸山 初めてだった。行ったのは夏だったんだけど、部屋の中に入るとこんな世界があるのか、現実があるのかというような、それがずっと放置された状態だった。その時のショックは大きかったね。見舞金契約で閉ざされてきた状態だったわけだからね。
水俣病研究会が発足したのは九月かな。それから『水俣病にたいする企業の責任』( 発行元 水俣病を告発する会)作りに 短期集中したんです。富樫さんなんか倒れるくらいまでやったんです。法理論とその裏付けの見通しをつけないといけないということで、それほどみんなが集中してたんです。一九七〇年の八月に完成しました。その前に弁護団には送っとったわけだけど、弁護団としてはメンツがあるから、それをそのまま受け止めて利用して展開するわけにはいかんかったのよね。しかし結果的には、法理論的には富樫さんの安全性の考え方からの筋道で、一次訴訟は展開していったんです。
遠藤 研究会と弁護団の対立というのはあったんですか?
丸山 それは裁判をどういう論理で進めていくかという時に、弁護団は当時のどんな法律使えるかと考えました。毒物劇物の扱いに関する法律なんとかって考えてたんだけど、そんなことで水俣病はやっていける事柄じゃないと思ったんです。証人をどうするかと言うときも、だいたいは自分たちの証人を出して闘うというのが普通の裁判のやり方なんです。ところが「それじゃあ水俣病事件の実態が明らかにならない」ということで、原告が西田工場長を証人として選んだんです。普通の訴訟からいったら、敵性証人は相手がどう答えるか分からないんですから、無謀といえば無謀だった。それをやっていったことで水俣病事件の実相を明るみに出して、水俣病事件の構図をはっきりさせたんです。
遠藤 裁判は七三年の三月に勝訴になるんですけれど、東京交渉は行かれたんですか?
丸山 いや行かなかったんです。私は、当時はそこまでは直接コミットしていなかった。 川本さんたちの自主交渉のきっかけとなった行政不服審査請求も研究会ではやりました。『認定制度への挑戦』(発行元 水俣病を告発する会)という本は、川本さんたちの運動で提出した文書があの本になっているんです。その間に資料集を作るということが出てきました。始まりは、新しく運動に関わってきた人は、事実関係というか知識がないということもあって、そういう人たちに事件史を理解できるようなものを研究会で作ってくれんかということがありました。『企業の責任』を仕上げるときに資料を集めたでしょう。資料はそこそこ蓄積しておったんですから、一年くらいでできるんじゃないかということだったんです。
しかし、本格的にその資料集作りに入っていったら、「研究会以外でそういう事件史を裏付ける資料集を作る人はおらんだろう」となりました。できるだけ網羅的なものをきちんと作ろうということで、資料の収集からあらたに始めだしたんです。そしたら時間がかかって、それから二〇年以上かかったんです(笑い)。
水俣病運動のこと
丸山 熊大紛争が後半になってくるとセクトが出てきて、理念をもって取り組んでいた良質の一群の諸君たちは身を引いていったんです。それが有馬くんや阿南君や福元くんなどで、ちょうどその頃に水俣病患者互助会の復権運動があったんです。それで告発する会の若手集団として、兵隊的な役割を果たす一群になっていったんです。ある意味では捕まり要員みたいなね(笑い)。
遠藤 水俣病の運動を見ると、告発する会や研究会はいわば大人じゃないですか、全共闘運動を子どもの運動というと叱られるかもしれないけれど、水俣病の運動では大人連中がしっかりしていますよね。よその運動とはかなり違いがありましたよね。
丸山 熊本の既成の文化世界には入っていない渡辺京二さんとか石牟礼道子さんとか、そこらあたりの人たちが患者運動にコミットしていったんですね。数は多くはないけれど、独自の世界を築いてる人がいたからじゃないかな。それを第一線で担うのが大学紛争に関わっていた諸君たちで、うまくそういう構造ができたんじゃないかな。告発する会の大人だけではエネルギーがないし(笑い)。大学紛争の時期と重なったことがそういう構造ができたことと関わりがあるんじゃないかな。
遠藤 その後相思社は七四年にはできるんですが、丸山さんはどういう関わりがあるんでしょうか?
丸山 作る時のカンパなんかには関わったけれど、相思社の運営そのものには深く関わってはこなかった。公務員だから理事なんかははできないしね。
研究会は企業の責任を明らかにできた。だから次は行政の責任にテーマとして取り組もうとしたんだけれど、それよりは資料集の目処をつけないかんということでやってきたわけです。資料を取捨選択してというのはメンバーならできるけれど、事件史を研究会として総括することになるから、メンバーの捉え方・見方が違うわけだから、延々と議論が始まったわけですね。私の担当した五六年から五九年の見舞金契約の部分はある意味では水俣病事件の中核的な部分だけど、最初私が原稿として書いたものはズタズタになっちゃってるもんね。それで毎回毎回議論があるから作業が進まないんだよね。キチンと裏付けをとって論文としたいし、研究会として水俣病事件を描こうとしたからね。
今取りかかっている資料集の続編は、「それはなしにしよう」ということでね。でも一つひとつの評価・位置づけをどうするかは、それぞれありますからね。たまたま私の研究室に資料は保存しておこうということで、研究会の事務局みたいになった。
甘夏事件以降の一五年
遠藤 僕が丸山さんを知っているのは、甘夏事件からなんです。あの事件はどういう印象でしたか?
丸山 何かやってしまったなあ(笑い)。相思社の活動の理念がどうであるかが十分内実化されていないままで、いろいろな活動に取り組んでいたもんだからそういうことを起こしたんでしょうね。当時、相思社は未認定患者運動の拠点みたいになっていったから、互助会の人たちは足が遠のいたんですよね。市民会議の人たちは相思社を、裁判後の患者の生活があるんだということで作ったんです。
ところが実際そうでなくなった相思社のあり方に、疑問を感じていたという部分はあるでしょうね。あのころは相思社の世帯も大きかったですからね。初心が何だったのか、ちょっと見失われたようなところもあった。今一度、原点に返ってどうなのか検討する必要があるだろうということで検討委員会に参加しました。
遠藤 そして二〇〇一年にも相思社のあり方を検討していただきました。
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| チッソ旧工場 |
丸山 地域との関係では、前の吉井市長が登場したことが大きな転機になっているわけでしょう。あの時点では、患者の人たちにはまだわだかまりがありました。「さあ一緒にやりましょう」と言われても、水俣病のことをきちんと総括してもらわなければ、関われなかったでしょうね。それを吉井さんが慰霊式で謝罪して、あれで患者の人たちも環境再生事業に関わっていける状況ができたましたね。私は水俣市水俣病資料館ができるときは、会議の委員長をさせられていましたからね。水俣市の立場からすれば、僕なんか直接行政の責任を追及するようなことはなかったからね、むこうも頼みやすかたのかなあ。
これからの相思社について一言
丸山 従来は患者との関わりがメインであったけれど、水俣に住んでいる人たちも水俣病事件で被害を被っている人たちだから、そういう人たちも含めてどう水俣を作っていくのか考えていくことが今後大事になっていく。水俣病が発生したためによそにでて水俣出身と名乗れないことも含めての被害を、水俣市民全体がそういう立場に置かれてきたわけですから、そういう世界ともどう関わっていくのかが大事になるよね。
遠藤 アドバイザー委員会でも出ましたが、水俣病の発信というときに外ばかりでなく市内への発信も意識されていたと思います。
丸山 そういう意味ではやるべきことは多いですね。相思社の内部体制をどうやって確実にしていくか、これも大きな課題ですね。
遠藤 今度二〇代の若い人が入ってきます。
丸山 考証館のリニューアルも含めてどうしていくのかという方針も大事だし、資料室のこれからの展望などやらねばならぬことが多いですね。
遠藤 最後に相思社職員に望むことをお願いします。
丸山 一人ひとりが「何故自分はここにいるのか」といったあたりの目的意識みたいな、自分でちゃんと確かなモノにしていくことが基本じゃないかなと思う、なんとなく居るというのではダメだ。それぞれが自分なりのテーマを考えながら、相思社をやっていってもらいたい。
(2004年3月28日)
正則高校学習旅行
三月五日から八日まで、昨年に引き続いて東京都港区の正則高校二年生が学習旅行で水俣を訪れた。八クラス約三二〇人が、三グループに分かれて一泊二日ずつ連続的に訪れる正則高校の受け入れは、相思社のネットワーク力が思い切り試される時でもある。
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| 不知火海を食べるぞ |
今年はクラス別体験として、二〇〇一水俣ハイヤ節講習、海岸で生物観察と食べる体験、甘夏ちぎり、船で水俣湾を巡る、不知火海の魚をシェフと料理する、不知火海の魚をさばいて食べるという活動をおこなった。その活動のほとんどは地元の方を講師に、現場で共に体を動かし、その人の生き方に触れる、水俣ならではの時間を持つことができた。
各グループの最終日には、吉井正澄さん、富樫貞夫さん、村上雅通さんに、それぞれがどのように水俣病と向き合ってきたのかお話をうかがった。吉井さんの「水俣病に取り組んだのは、自分のまちだから逃げるわけにはいかなかった」、富樫さんの「責任(responsibility)と言う言葉は、応答(response)から来ている。水俣病患者に出会ったことに応えていくことが、私の水俣病に対する責任である」、村上さんの「水俣に生まれ育ち、無意識に水俣病を避けて生きてきた。しかし、杉本栄子さんに会って、水俣病に向き合ってこなかった自分が人間として恥ずかしかった。物事は見ようとすれば見える。自分自身の空白を埋めるためにも番組を作り続けていきたい」とそれぞれの講師がその人生の中で獲得した言葉は、高校生たちの胸に届いたのではないだろうか。
長崎−菊池恵楓園−水俣という、日本の過去から現代が凝縮された現場を巡り、人に出会い、たくさん考えるこの学習旅行は、生徒たちにとって大変だろう。水俣の人たちにとっても受け入れの負担は軽くない。しかし、高校生たちが、水俣で起こったことやそこに生きる人と自分とのつながりを身体を通して考えることは大事にしたい。彼らが自らもう一度水俣に来たいと思えるように、そして水俣の人たちにもやってよかったと受けとめてもらえるように、相思社は水俣の内と外をつなげていきたい。 (小里アリサ)
(二〇〇四年三月二五日)
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