機関誌ごんずい83

目次
ごんずい83号

特集 : 新作能「不知火」

新作能不知火ワークショップ 対談 栗原彬・緒方正人
不知火公演に寄せて/金井景子
新たな「再生」こそ人間の命題/塚本明正
私の奉納/江口ななこ

記事

理事会報告
ごんずいインタビュー/植田チエ
水俣トピックス 関西訴訟最高裁口頭弁論随行記/山中由紀

新作能「不知火」 ワークショップ
対談 栗原彬・緒方正人
新作能「不知火」に託すもの−− なぜ今奉納か

二〇〇四年五月一日、NPO法人水俣フォーラム代表の栗原彬さんが聞き役となり、水俣病患者であり漁師でもある緒方正人さんに、新作能「不知火」上演に託す思いや、あえて奉納と位置付けた今日的意味を語っていただきました。

見られるということ  ― 不知火と「不知火」 ―

栗原 不知火というのは元々、八朔の夜の海に浮かぶ火ですね。これは本当に一瞬の出来事で、見たことのある人は水俣の方でもあまりいないと聞きます。一昨年、不知火をご覧になったということですが、不知火に絡めた個人的な経験から何かありましたらお話下さい。
緒方 そうですね。私も間近なところで見たのは二度です。ご存じのように旧暦の八月一日、今年の場合は九月一四日になりますが、一年に一度だけ不思議な火が見える日が訪れるわけです。旧暦の八朔の日というのは、一年のうちで最も満潮位が高いんです。不知火は午前〇時を過ぎて三時ぐらいまでの間に、よく見えると言われています。つまり、これは干潮時ですね。ですから、干満の差が大きいことが、どうも不知火が出る大きな要素になっているみたいです。それから不知火がよく見える好条件としては、昼間よく晴れて、夜中にぐっと冷え込むことがあげられる。温度差が出て、干満の差が激しくはっきりと現れるということが良い条件のようですね。
 不知火は、八個から六、五、四個というふうに、数を変化させながら海面から何メートルか浮き上がったところに見えるんです。同じ横線上に並ぶんじゃなくて、光の玉が生き物のように変化しながら動いている。うごめいているというんですかね。そういう動きの中に、何かメッセージ性を感じるんですよ。
 私たちは不知火を見ている立場なんですけれども、ひょっとしたらこれは見られとっとじゃなかろうかなという気にもなりましたね。
栗原 不知火に見られているという感覚がとても面白いですね。不知火が生きているということなんでしょうか? さっき見た映画「海とお月さまたち」の中でも、イカとか魚などの目が繰り返しクローズアップされましたが、あれを見ても魚に見られているという感じがしますね。
緒方 ええ、それはあります。私は漁師ですから、毎日不知火海の魚を獲っているんですが、時々目が合うんですよ、魚と。ですから私は、八月二八日水俣で奉納されます新作能「不知火」についても、ひょっとしたら私たちが見るという立場性だけじゃなくて、見られてそして記憶されるのかも知れんなと思います。
 おそらくそういう双方の働きが、奉納ということの意味につながっていくんではないかなと感じますね。

なぜ今奉納なのか

栗原 趣意書には「歴史の要請である」「法要年」などと書かれているんですが、なぜ今、水俣奉納なのか。その想いをぜひ語っていただきたいですね。
緒方 そうですね。チッソは、曽木発電所から始まって二年後に水俣工場を稼働し始めたということを考えますと、水俣の地に来てからおよそ一〇〇年近く経ちます。水俣病も、四八年前の今日、細川博士が水俣保健所に届出をしたことで公式発見とされているので、約五〇年近く経ちます。これは物語の非常に大きな転換の時を迎えているんじゃないかなと思うんです。
 私はこれを水俣・不知火の一〇〇年物語と自分で呼んでいるんですけれども、そういう時を法要の年と受け止めたわけです。長い歴史の物語に要請を受けて、法要として営み、奉納するというのは、今を生きる現代の私たちの応答だろうと思います。歴史の問いといいますか、自然から私たちに課せられた問いへの応答だと。
栗原 それに対する応答というのは、つまり私たちに呼びかけている声に耳を澄ます、私たちが魂の耳で聞き届けるということですよね。亡き患者さんの魂が向こうから声を掛けようとしている。その声を私たちが聞けるか、聞けないかということですね。聞く力を試されているような気もするのですが。それは亡くなった命ばかりじゃなくて、これから生まれてくる命の声も含まれていますよね。
緒方 はい。まさしくチッソが来てから一〇〇年、水俣病が発見されて五〇年近いというときに、大きな塊というか、まとまりとしての応答をしなければいけない。奉納する場所としては、やはり毒に侵されて、今や埋め立てられて苦海の地となった水俣の埋立地が、最も相応しいと考えるわけですね。
栗原 能というのは、シテ、ワキ、ツレなどから構成されていますが、シテというのは多くの場合、亡き魂なんです。亡き魂は面を着けていますけれども、面を着けるというのは、そこに魂が宿ることを意味する。能役者は演じる前に鏡の前で面を着けてじっと見るんですが、これは能の面が持っている魂を自分の中に呼び起こしているんです。
 亡き魂がそこに現れてくるときに、聞くものが大事になってくる。よく、じっと聞く役として僧侶が出てきます。ワキとして、舞台の隅に座って、じっと聞くだけ。けれどそのことが、その亡き魂の存在を表してくれているわけです。だから、この新作能「不知火」の場合ですと、僧の役目をするのは、実は私たちなんですよね。私たちが、本当に心を澄ませて聞くということがあるとき、その魂が現れてくる。
 能「不知火」が演じられるとき、魂と魂の出会いがあると思うんです。亡き魂、あるいは未生の魂でもいいんですが、それが存在を現してくるということ。そして私たちの中の魂が湧き上がってくるということ。この二つが一つになると思うんですよね。

生命の記憶

緒方 魂という言葉を別な言葉に置き換えるとしたら、何んだろうかということを長い間考えていました。そしてたどり着いたのが「生命の記憶」「命の記憶」という言葉だったんです。私の言葉の中では、同じ言葉だと受け取ってもらって結構です。平たくいえば、今、魂が記憶喪失の状態なんですね。そしてどこか自暴自棄になっている。自殺者がたくさん出るようになったり、虐待事件が起きたり、いろんな犯罪事件が起きています。私たちは、その記憶喪失の状態から記憶を甦らせなければならないんですよね。そしてそのためには、やはり母なる世界と交信する、対話する、交感することが必要じゃないかと思うんです。
 記憶喪失とは言葉を換えれば、命の迷子の状態なわけです。その時に、私たちはよく亡くなった方に尋ねる。もちろん娑婆的なことは隣のおじさん、おばさんや友だちに相談しますけれども、なかなか人様に相談できない深いところは、どこかであの世の人に尋ねるんですね。それで、なにか、道しるべや手掛かりをもらうわけです。
 今、社会全体がそういう迷いと不安の渦の中にあります。ですから私は水俣病のことだけで、この能「不知火」があるとは思っていません。水俣病の能「不知火」じゃあないんです。それを越えたところで、人間の生きる方向とか道筋を訴えているんだと思うんです。
栗原 今のお話を聞いていて、能「不知火」の持っている意味がすごくひらかれた気がします。埋立地には石仏、野仏がありますよね。野仏の前で私が感じていたことと、今の話がなにか重なってきたような気がするんです。つまり、能「不知火」の持っている広やかさやひらかれた世界と、野仏が媒介としてひらいていてくれる世界がつながっているような気がするんです。
緒方 私は、本願の会のメンバーですから野仏を祀ってきた一人なわけです。野仏とかお地蔵さんとかいう存在は、仲立ちだと思うんですよね。生身の人間の私たちと、あの世の世界、大いなる世界との仲立ちをしてくれるんです。

加害責任から課題責任へ

栗原 それで、今回の能「不知火」の水俣奉納の、私は最も大事なポイントの一つに、チッソとともに奉納するということがあると思うんです。このことについては結構抵抗もあるんじゃないでしょうか。私も、最初聞いたときに、「えっ」と一瞬思ったんですよ。それで、「なぜ今、チッソとともに奉納なのか」というところをお話し下さい。
緒方 実は、奉納する会の加勢人運営委員会の中でも、チッソに協賛を呼びかけることについて議論がありました。これまでは、加害企業チッソとして、半世紀近い歴史を引きずってきたわけです。私も二〇代、三〇代の頃までは、そういうふうに見ていました。自分の親の敵だと長い間思ってきたんです。
 しかし今から足かけ一九年前の一九八五年に、自分が誰と闘っているのか分からなくなってから、逆転が起きました。平たく言えば、もし自分もチッソの中にいたら同じ事をしておったんじゃないか。工場の労働者、あるいは重役であれば同じ事をしておったんじゃないか、と。そしてそこから「私自身もう一人のチッソであった」と自覚するようになったんですね。
 これは非常に大きな転機でした。私たちの生活を振り返ってみたんです。チッソの工場で作られた製品を、私たちは生活の中でふんだんに使っています。例えば、今日チッソは液晶においては世界で七〇%ぐらいの占有率を持っていると聞きます。品質もいいそうです。テレビもパソコンも液晶を使っています。チッソの工場ではそれらの中間原料を作っているんです。この水俣工場でも作られてきた。最終製品になるときは、別のメーカー名で売られているから気づかないんだけれど、元はどこから来たかというとチッソなんです。そういう意味で、私たちは多分にチッソ的な文明の中にもうどっぷりと浸かっている。
 加害企業チッソというふうに呼ばれてきたことが、そろそろ、もう一つ違うとらえ方をするところに来ているんじゃないかと、私は正直思っています。それは、チッソ一〇〇年、水俣病五〇年ということと、やはり軌を一にするテーマ性を持っている気がするんです。
 個人的な意見ですが、加害責任に変わるものは何かと言えば、私は「課題責任」だと思います。今までは加害者、被害者という二極的な関係で見てきました。これはある意味、歴史の経緯の中では必要で、否定できないことだったと思います。しかし、そういう見方の他にも、私は、チッソという会社としてというよりは、チッソの中の一人ひとりの人という見方があるんじゃないかと思うんです。会社と患者たちという意味では被害−加害という関係を変えられないが、一人ひとりの人間という関係においては、課題責任を共有していくことができるわけです。そういった歴史的な確認が必要なんじゃないかと、本心で思っています。一人ひとりがその課題を背負うというところで共通する基盤に立ちうるんではないかと思います。

自分の中にある加害者性と被害者性

栗原 すごく大事なことを言われましたね。それで、いくつか分けて考えたいと思うんですけど、一つは加害と被害のその対立を越えてという問題ですね。これは例えば、こういう恐ろしい話があります。プリーモ・レーヴィという、アウシュビッツの強制収容所を生き延びたユダヤ人の作家がいるんです。その人が書いた文章の中で、当時、ゾンダーコマンドという労働班をユダヤ人の中から組織するという話があります。ナチスドイツは、直接ユダヤ人を殺さず、ゾンダーコマンドたちに殺させるんです。例えばガス室へと、ユダヤ人がユダヤ人を連れて行かせる。それから青酸ガスで殺した青い死体に、ホースで水をかけて流させる。それから、金歯を抜く、髪の毛を刈る。その場合、ゾンダーコマンドの労働班の役目をしたユダヤ人というのは、これは加害者なんだろうか、被害者なんだろうかっていうことになります。被害者であると同時に加害者でもあります。もう区別がないわけですね。そういう領域を、プリーモ・レーヴィは「灰色の領域」というのですが、これは現代人の共通の姿ではないかという気がするんです。常に加害者であり被害者である。
緒方 そうですね。私は「チッソは私であった」という本の中でも書きましたが、私たちはもう、誰しもがもう加害性と被害性を持ち合わせないといられなくなっているんです。車に乗れば排気ガスを出す。毎日の生活の中ではゴミは出さざるを得ない。
 水俣病事件ということに限定すれば、加害 被害という関係は、会社としてはもちろん今もあるわけです。けれども、現代を生きるということを見たときには、もうほとんど加害性と被害性というものを持ち合わせざるをえなくなっています。私はそこに、総体としての人間の罪深さがあるんだろうと思います。私たちのこの現在のあり様も、より早くて便利で豊かな生活の、近代システム社会を求めた、その原罪としてあるように思えます。
栗原 加害と被害の対立を越えてというときの、前提になる灰色の領域。その指摘はすごく重要です。次の問題は、その領域をどうやって突破していくかという問題ですね。
 その時に、先ほど正人さんが言われた課題責任が出てくる。これはすごく重要な突破口になると思います。加害と被害という二分法の場合には、加害と被害がまさに激しく対立しあう。相手は行政かも知れないし、チッソかも知れない。だけど、課題責任の場合だと、課題を共有して責任を取っていくということですよね。責任という言葉は、英語ではレスポンシビリティですが、これは、レスポンスとアビリティという言葉が一緒になっているんです。つまり、応答可能性ということが、元々の責任ということになる。
だから、課題共有責任というのは、ある課題に向かって応答していくということでしょう。これは加害と被害が向き合うんじゃなくて、課題と取り組むことになります。身体感覚で言いますとみんなが肩を並べるといった感じでしょうか。その時には、一人一人がかなり違う存在ですよ。違う存在でありながら一人一人が、その共通の課題に向かって身体応答していく。そんなイメージが描けます。

明かされる「不知火のマサ」

栗原 最後に、緒方正人さんのいわば個人史の中で「不知火」というのはどんなつながりがあるかということをお話して頂けますか。
緒方 白状しますと、今から三四年ほど前。一六歳から一七歳の頃、私は家出少年で熊本をウロウロしておりました。拾われたところが右翼というか暴力団の世界でした。その当時、やくざの仁義のまねごとをやっていて、自分のことを「手前、生国と発しますは、肥後は火の国熊本の、球磨川より流れいでし不知火海で、産湯を使い」なんて啖呵を切っていたんですよ。その名を「不知火のマサ」と名乗っておりましてね(爆笑)。
 能「不知火」を水俣でやることになって、まして代表になっちゃった時に思わず「ああぁ」と声が出たんです。本名の緒方正人と別に、自分で選んだ名前が「不知火のマサ」なもんですから、これはもうどげんしようもなかったっじゃなと思って。「ああ、そぎゃん昔から、俺は物語の中に組み込まられとったばい」と。私の親しい人たちも、今日ほとんど初めてこのことを聞くと思いますが(笑)
栗原 今ここに皆さんと一緒に同席していますよね。これって、本当に不思議ですよね。こういう場所にみんなが来て、一人ひとりいて、ある意味では共通の課題を追っている。それから一人ひとりにとってみれば、「不知火のマサ」ではないですけど、時間軸の中での出来事を振り返ると、今、ここに繋がっている。皆さんの中で、それぞれの時間の点−点−点があり、今その点の一つとしてここに来て、正人さんの話を聞いている。この不思議さですよね。
 八月二八日は多分もう一回限りの上演でしょうけど、その中でそれぞれが、つながりを確かめることができればと思いますね。ぜひ、皆さん八月二八日、ご一緒しましょう。
 今日は、どうもありがとうございました。

新作能「不知火」水俣奉納する会のホームページでは対談の全体を掲載しています。
http://www.shiranui.info/

私の奉納 新作能「不知火」に関わって    江口なな子

江口なな子さん 新作能「不知火」に関わったのは、(石牟礼道子さんの妹の)西妙子さんに「能は好かんね」と誘われたのがきっかけです。

水俣病に距離を置いて

 主人がチッソに勤めていたので、一九七九年から一六年間、水俣の八幡社宅にいたんです。水俣の雰囲気は暗く感じましたね、社宅も町並みも。高校の時にテニスの大会がチッソのテニスコートであって、駅から歩いていったときにも暗い町だなあと感じたことを覚えています。水俣病だからという先入観はなかったと思います。その頃、八代の私の周辺では水俣病の情報はなかったです。それから何年かして、テレビで緒方正人さんとか川本輝夫さんたちが「暴れている」という報道があって、水俣病ではそういう報道しか見たことがなかったです。私の家族にしても友達にしても、本当に水俣病というのを知らず、何か水俣病の人たちが騒いでいると、そういうイメージだったと思います。恥ずかしい話ですが、それ以上に突っ込んでの関心はありませんでした。
 社宅に入り、二年くらい経ったとき、義母が脳梗塞で倒れました。市内の病院に入院しましたが、その時、病院から水俣病の申請という話も出たのですが、主人がきっぱり断っていたようです。私も水俣病のことはあまり突っ込んで考えない方がいいと思い、関心を持たず、あえて本も読みませんでした。

息子の関わりを見守りながら

 水俣病との最初のとっかかりは息子の慎太郎なんです。水俣工業高校に入って、青木栄先生との出会いからでした。私は、息子がボランティア活動に関わることには賛成していたんです。それで最初、タイのワークキャンプに行き、それにつながって学校でのボランティア活動やドッグレッグス水俣公演とかに関わっていったんですね。
 本当は、あの子はボランティアする気はなくて、どこでもいい、とにかく外国に行きたかったんですよ。青木先生がタイに行きたい人はいないかって言ったときに、一番先に何の躊躇もせずに手を挙げたんです。
 ドッグレッグスのときだったでしょうか、胎児性の患者さんと一緒に泊まったりということもありました。それで私も少し水俣病に触れたのですが、それ以上は深まらずに終わっていたんです。今思えば、あの子の影響もあってずっとどこかで気にはなっていた水俣病だったんですね。その時はそうは思わなかったんですけれども。

「不知火」との出会い

 二〇〇二年に、二〇年来のお付き合いの妙子さんに「姉ちゃんの作ったとのあっとたいねえ。つき合ってよ」と新作能「不知火」の熊本公演に誘われたんです。
 その時、『苦海浄土』は前に読んだことはあっても、さっと読んだだけ。このままでは観られないと思って、もう一回読んだんです。その時に、まず自分が恥ずかしくなったんですね。水俣に二〇年近くいて、何にも知らなかった。私が社宅でのうのうと生活していた頃、みんな大変な思いをしていたのに。ちょうど年代が一緒なんですよね。専業主婦で、水光社であれが安いの高いのという生活していて、その後は仕事に入って、仕事仕事仕事と仕事に走って、何にも水俣のことが見えませんでした。その仕事を辞めたあと、「不知火」に出会ったんです。
 「不知火」の前から、妙子さんのお連れ合いの西弘先生が、石牟礼道子さんに親子で引き合わせてくださっていたんですね。二〇〇二年の九月に仕事を辞めたときにも、道子さんに「これからは罪滅ぼしに社会のためになるようなことをしたい」という話もさせてもらいました。「不知火」の話が来て、熊本公演のための百人委員会に道子さんが呼んでくださって、それからのスタートでした。百人委員会からの必然的な流れで水俣公演へと関わるようになりました。

私の奉納

 私が「不知火」に一生懸命になれた一番大きな影響は、道子さんとうちの隣のおじさんが与えてくれたんです。道子さんの本は私には難しいです。でも、すごく生活感を感じます。読みながら不思議に小さい頃の風景が出てきて、とても身近に感じました。私の生まれ育った時代、あの時代はよかったんだなあと。海のことも道子さんに教わりました。隣のおじさんは山を大切にする人。全国から雑木の苗を取り寄せて植えていて、山が雑木の森になるには四〇〇年かかるんだそうです。そして、ホタルが戻ってくるように、水をきれいにするために炭を焼いて川に入れて。私の大きな教科書なんです。人間らしさが打ち消され、数字の結果だけが求められる仕事に耐えられなくなった私にはとても新鮮で、細胞が甦ってくるようでした。
 それが「不知火」の今のお手伝いの糧になっているんです。新作能「不知火」水俣奉納公演は八月二八日が本番ですが、私の奉納は今年の三月に水俣の事務所を開いたときからすでに始まっているのです。毎日の仕事が、私の奉納なのです。

(プロフィール 一九五二年、熊本県八代市出身。結婚により水俣に暮らす。現在、芦北町在住)

      (聞き手/構成 小里アリサ)

ごんずいインタビュー 植田チエさん
「なんち言われてん、かんち言われてん、魚を獲ってきた」

植田チエさん

プロフィール
1916年、茂道に生まれる。六人兄姉の末っ子。兄と4番目の姉は幼くして亡くなる。実家は半農半漁。36年に月浦の植田繁澄と結婚、二男一女をもうける。以後月浦に在住。73年に熊大立津教授により「水俣病の疑い」と診断されるが、二回保留の末、棄却。水俣病患者連合会員。


体の具合

 リューマチ性の多発性筋肉症で、雨の降る前とか霜の朝とかは筋肉が痛かっです。暑かときはよかばってん、寒かときがね。エアコンも夜昼ぶっ通し。エアコンばはずせばうずくでしょ。二月は電気代、一万五千円食うとりました。いつも電気布団ば入れてですね、朝方はぬくめますと。もう座ることが全然できんもんですから、腰掛けばかり。ひざが曲がらんとです。座れば立ちならんし。イスも低いのじゃだめです。
 平成一〇年の六月頃から、この肩がなあ、しびれてきて。すぐ病院に行ったら、注射してくれて血圧の上がって、もう動かれんごつなった。それが始まり。病院でくれた漢方薬で胃が悪くなって、薬は返したっです。それからずっと具合が悪くて。
 磁石がよかって聞いて、貼って寝っとです。九時頃寝て一一時頃にジガジガ痛くて起きれば、貼ったと貼ったとの間が今度は痛か。ずっと貼るしこはなかでしょう。大体痛かとこに貼ればその間が痛いもんで、今度は貼り薬はって。それば貼ってもまた四時頃になればうずくもん。鍼打ち行ったら、ツワの葉をあてなさいと。ツワの葉で大分夜明けまでよか。六時頃まで寝られる。朝になってやっとで起きて、行ったり来たりもぞもぞしおればな、体を動かせば自然とようなってくっと。血液循環がようなるわけな。起きとるときは痛さを忘れるときのあっと。寝てるときの方が、血流が悪くなっとでしょう。夜明けには必ずうずき出す。もう夜が一番好かん。

子どもの頃、朝から刺身を食べてきた

 あのな、大体うちは袋だった。昔の袋小学校のそばでな、屋敷も広うして、馬も二匹おりよった。親父が百姓でうだつが上がらずに、朝鮮行きして失敗して、それで茂道の小さか家に流れていったわけ。そうしたら良さも良さ、魚が朝から揚がるでしょ。早よ来ればよかったねえっち。
 家は茂道の真ん中。お店から奥に三軒目だった。昔は埋め立ててないから、家の前は少し渚になっとった。そこで網ば引き揚げてな、網主がイワシを網子に分けてやらした。小学校の二年生、三年生の頃、ショケ持ってって、大人の間にこうしてそーっと下からショケばやっとけば、計る人は何も見らずにおって、どれでもかれでも入れっと。もうショケさえ支えとけばよかった。うんと獲れたときは食いきらんごてくれよったもん。カタクチイワシば一升ばっかり。で、朝から刺身。朝から食べたいでしょうが。親に言われたんじゃなくて、自分から行ってな。

月浦にお嫁に来て

 ここ(植田家)に嫁入ったのが昭和一一年頃です。それから、どん百姓だったですよ。田んぼ作って、みかん山作って、私は何もしたことがなくて、大分苦労したです。ご飯は米がちで、ご飯なよかっです。おかずがもう、そうめんのおつゆひとつ、漬けもんぐらい。魚は全然なし。茂道におって、魚食いつけとるもんですから、もう魚が欲しくて。姑がおるし、そう毎日魚を買われんでしょうが。
 一日、一五日と、月にゃ二回潮時があっでしょが。一生懸命畑仕事を気張っておいて、百姓の合間に「さあ、こんだから潮時になるぞ」っち、海さん走っていくと。それを姑は嫌ろうてな、「海ばっかり行こうとして」っち、聞こえよがしに言わすとたい。「お前が何ちゅうたっちゃ、おら欲しかっぞ」ち、心で思うて走って行きおった。茂道で食いつけとって、朝から食べてきたもんで、海に向かったわけな。子どもが栄養失調にならんごてと思って、カキやビナをもう一生懸命獲ってきよったと。
 まあ、ここら辺で海行く人は特別好きな人か、天草辺から渡ってきて、魚食いつけてとるもんだけ。百姓は全然見向きもせずに行かんから。ここはな、ばあさんと、親父が妹と、主人と3人おったわけな。みんな魚は全然食われんとこでしたもん。ヒエくさか(生臭い)ちゅうて。
 だから、海行くもんはふゆじ。ふゆじって骨身を惜しむってこったいな。百姓は一生懸命せんばんできつかでしょが。で、海行けば楽じゃ、ちゅう意味たい。海行きはふゆじって。もうな、「海ばっかり行って」って姑も聞こえるように言いよらったけど、何ち言うたっち、自分なヒエくさなしにはすまんからと思って行きおった。そげんした生活やったですよ。
 そしてな、いっぺん、天草から来ている人に「おばさん、魚釣り行こうか」っち誘われて、初めて伝馬船で行ったったい、明神が鼻と恋路島の間に。そうして行ったところが、クサビ(ベラ)を一升ザルにいっぱい、釣ったっじゃっで。もうおもしろかごとかかる、かかる。こげんかかっとなら早よ来ればよかったち思ってな。そんしたところが、主人が、「女でありながら海に行く。見苦しか」っち、こう言うとった。ところが、魚をこしらえれば、主人は「まだな、まだな」って。酒の肴にしようと思って、早よこしらえやれって。行くとは好かんで食ぶっとは好きじゃもん。
 姑がおらずに気分的に快楽に海に行く時はいつじゃろかち思いおった。ぐでぐで言われるでしょうが、海ばっかり行くって。何ち言われてんかんち言われてん、獲ってきおったじゃもん。
 あんまり持てんごつ(我慢できなく)なれば、茂道のばあさん(母親)が一人隠居しとったところに行って、「あーいた、イワシの欲しか」って言えばな、「イワシもそっちじゃ、食うちゃならんとか」って。「自分が一人じゃ食わならんもね」って言えば、ばあさんが三〇銭やらっとたい。三〇銭で大羽イワシ、三キロどまあった。それをおびいて酢みそにしたり煮付けたり焼いたりしてな、腹一杯食べて帰ってきよった。そげんせんば持てんとやもん。そっで、黙って行くとたい。食ってきたっち言えばいなかろう(悪かろう)がな。干潮のときには海に行くし、そげんせんときには元家に栄養補給に行きよった。

魚が寝とっと

 長男もな、次男の護もな、中学校一、二年の頃から、突き鉄砲って作って、明神が鼻にすんで(潜って)、魚を突いてきおったよ。長男は昭和一三年生まれだけん、二六年頃じゃろか。それこそな、三キロばっかり突いてきおった。そっで、私はもう、うれしゅうして、買わんちゃよかでしょうが。「ま、よかったね、こしこんこ、突いて来たっかい」ち言えば、そん長男が言うことには、「こん頃の魚はな、馬鹿でん獲りよっと」っち。「寝っとっとじゃもね。寝とっでなあ、つーっち突いたっちゃ逃げんと」って。そう、水銀にやられとったわけな。それを知らずに。タコもですなあ、穴んそばにこうひっくり返って、白ーうなってな、寝とるそうですたい。これは死んどっとやろかっち突っついてみれば、よろーっとタコは動きおったって。それば獲ってきおったたいなあ。
 カキもな、もう、なんか油のようなのが、潮の満ちてくればよどんでな。平ーたい石にいっぱいついとったカキが、みーんな口開けてしもうて、紫色に変色して、臭さも臭さたい。で、カキ打ちってあっでしょ。あれでカツカツ、カツカツっち、開かっとらんとのあれば、「あ、これはよかぞ、これはよかぞ」って間あいだの、口の開いとらんとだけ打って、獲ってきよったです。

チッソとの交渉

 チッソ交渉団の座り込みのテントはなあ、楽しかった。もう楽しさ楽しさ、なあ。朝も早う起きて行かんばんがち思うて。いつまで続いたっちゃ最後までがんばらんばんと思うてな。一番最後までおったですたい。テントの解けたときは、さみしかったー。もうこれでどげんなっどかち思うてな。やっぱり一人じゃものが言えんのに、寄って言うとの楽しかったな。一人で言うてもぼそぼそでだめじゃけど、四,五人で言えばですね、向こうもたじたじになって聞くっでしょうが。そるが楽しかった。いっちょん苦労と思わなかったな。
 そしてから私は、一つ言いそこのうたことが残念でたまらんとたいな。それはな、県の公害部長が魚住ちゅうたかな。(政府解決策の)二六〇万の時なあ、その人が出てきて、患者を並べとって、けりを付けようという話になったですよ。そうしたところが、誰も異議を申し立てるものがおらんわけ。川本さんがおらんば言うとでしたばってん、川本さんをはねのけて女がしら(だてら)に言うわけにもいかんしなあ。これはもう川本さんにまかせんばしょんなかっち思うて、黙っとったわけですばってん。なんさま一言いいたいことがあったです。
 それはな、今はあんたたちの言う水俣病じゃないのに、承諾して一時金をもらうばってん、うんと魚を食べたっですから、もし年とともに、あんたたちの言うようなハンターラッセル症候群になって、手が震えたり目が見えんごつなったときは、認定患者と同等にしてくるるかっちことを言わんばんとだったです。そん時は県庁で言わきらずに引きあげたっですよ。それが一つ残念じゃった。
 そうしたら、体中痛むことになってなあ。みんな魚を食べとっとやっで、年取れば出っとじゃもん。それば言いそこのうた。歯がいかなあ。

(二〇〇四年五月七日 聞き手 小里アリサ)

聞き取り全文は、来春発行予定の『豊饒の浜辺から 第四集』に掲載します。


(2004年7月25日発行)

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