機関誌ごんずい84

目次
ごんずい84号

特集 : 水俣病センター相思社 30周年III


相思社と私と/後藤孝典

写真で見る水俣病センター相思社30年
記念誌紹介「今 水俣がよびかける」
水俣病センター相思社30周年記念事業紹介

記事 : 

ごんずいインタビュー 日吉フミコ
水俣トピックス 「不知火」/水俣ツアーレポート
相思社職員日記/弘津敏男
水俣病センター相思社物販案内
相思社日誌 ありがとうございます

相思社と私と   後藤 孝典

プロフィール
 ごとうたかのり  弁護士。虎ノ門国際法律事務所所長。
 1964年司法試験合格。65年名古屋大学法学部卒業、司法修習修了後、東京弁護士会に弁護士登録し現在に至る。
 82年-87年、筑波大学大学院講師。
 水俣病事件では一株運動を指揮し、数多くの訴訟に関わった。
 1998年12月、相思社へ旧水俣大学用地30haを寄贈。
 著作:1982年 「現在損害賠償論」日本評論社、1995年 「沈黙と爆発」集英社、他

相思社創設に反対した

相思社の創設が発議され、支援者に提案されたとき、相思社の使命は何にあるとされていたのだろうか。いまとなっては私の記憶はボンヤリしており、発案者が誰であったか、相思社の使命が何にあるとして公表されていたのか。また、最初に聞いたのは確かに一九七二年だったが、反対の意を強くしたのは七三年の勝訴判決後だったかもしれない。

日高六郎氏が建議の趣旨を、東京の比較的狭い部屋で大柄な体を前かがみにして読み上げたのは、七二年の暑い頃だったと思う。その言葉のなかに、水俣の患者さんたちとか、患者さんたちの集まりとか、患者さんたちとの付き合い、とかの表現があったような記憶がある。はっきりしているのは、私は相思社の創設には反対だと発言したことだ。しかし、だれも後藤に賛成だという発言はしなかった。

患者さんたちは裁判という一つの山を越えた。しかし、患者さんたちが水俣病から自由になったわけではない。患者さんたちは、長いしんどい今後の生活を送っていかなければならない。支援者たちはこれに付き合おうと思う。そういう支援者たちとそういう患者さんたちとの接点として相思社は提起される、という内容であったと思う。いかにも日高氏らしい、優しさに満ちた提案に私は苛立っていた。

「患者さん」という、妙にやさしい響きが気障りであった。その場所にはいない人たちを指しているのに、何故「患者」ではいけないのだろう。「さん」をつければ、得るものより失うものが多くなってしまうではないか。相思社創設の提案は、闘争が終結したという前提に立っているように聞こえるが、闘争はすこしも終ってはいない。熊本地裁での判決はまだ出ていなかったが勝訴が見えていた。だからといって水俣病闘争が終ったわけではないと私は考えていた。まだ何百名もの未認定の患者たちがいることは確実であった。その人たちを認定させ、補償金を取る闘いを継続しなければならないと、私は考えていた。

私の水俣病闘争

チッソ株主総会
1970年11月28日 チッソ株主総会で
一株をかざして役員に迫る後藤孝典氏

一九七二年一二月二七日に、川本輝夫は傷害罪で東京地裁に起訴されていた。チッソに対して、一九七一年以来の行政不服で勝ち取った認定患者を、従来の被害者とおなじ被害者であると認めさせること。その補償交渉のテーブルに着けと要求する自主交渉闘争の過程で、川本がチッソの従業員たちを殴った、噛み付いたとして起訴されていた。私は川本輝夫の主任弁護人であった。相思社の構想が具体化しようとしていた頃、私は川本弁護のための理論構築の前提として、川本が何故起訴状に記載された行動をとらなければならない必然性があったのかを、川本自身の手によって「供述書」を作成させることで頭の中はいっぱいだった。

一九七二年から七四年にかけて、私は東京と水俣を頻繁に行き来している。七一年六月には未認定患者二名のために、チッソを相手とした、医療費生活費請求の仮処分決定を勝ち取っている。一九七三年一一月に、東京地裁の刑事法廷に川本の「供述書」を提出した。七四年三月には私自身が原告になっていた、大阪地裁でのチッソ株主総会の決議取消し訴訟で勝訴している。七四年七月には、認定申請中の患者一七九名の代理人として認定不作為の行政不服審査請求を環境庁に申立てた。同年八月には、認定不作為の行政争訟の意義を説明するために、水俣市公会堂に集まった三五〇名の未認定患者たちが、私の目の前で認定申請患者協議会を発足させた。公会堂から市内デモに列を連ねて出発していった。同じ一九七四年の一二月には認定申請中の患者四〇六名の代理人として熊本地裁に行政不作為の違法確認訴訟を提起している。

日高氏が相思社の創設を発議し具体化していく時期は、川本に続こうとする未認定患者たちにとっては、いまやまさに闘いが始まろうとしていた時期と重なっていたのだ。それ故、川本輝夫や何百名の未認定患者の代理人である私としては、相思社をつくることは支援者たちが、患者の闘争を支援することから、遠ざかっていくことを意味していると受け取った。

この一種ひがみに近い私の感情的反発は、まったく理由がないわけではなかった。相思社の創設に熱心だった支援者たちは、おおむね、熊本地裁における第一次の損害賠償請求事件の訴訟支援と、一九七〇年一一月開催のチッソ株主総会への乗り込み支援、それに勝訴判決後の東京交渉の支援に専心してきた人たちであった。一九七三年七月九日のチッソとの補償協定書の締結は、一九六八年九月の水俣病政府公式見解発表の時点から息せき切って連続してきた闘争が、勝利のうちに終結したシンボルであったはずだ。そして七月一二日には、一年八ヶ月続いてきた本社前座り込みテントが解かれた。

それまでの患者支援活動の中心を担い続けてきたある人が、一九七四年八月一日の認定申請患者協議会がスクラムを組んで、渦を巻きデモに出発しようとした時点で、「このデモを止めてくれませんか」と訴えるように私の袖を引いたことが忘れられない。その人にとっては、闘争は終っていたのであり、新しい闘争を受け容れる想念は残っていなかったのだ。

激動する未認定患者運動

なにごとも、作ろうとすることと、作られたものを使用することとは別であるようだ。作ろうとした人々の感性には私は反発を感じたが、相思社が作られた時期が、時代の舞台に登場する未認定患者と「患者さん」と呼ばれる人々の交代の時期であることに、私は気が付くのが遅かったということだろう。訴訟をやり遂げた患者たちや自主交渉を座りぬいた人たちと、支援者たちとの接点として相思社は作られたが、設立されるとすぐ未認定の患者たちの闘争を組織化する拠点として機能し始めた。

S.Yさんなどはまだ認定もされていない。認定申請中の患者たちが、チッソを相手として医療費と生活費を請求した仮処分命令申請事件についての、申請者と支援者との打ち合わせは、でき上がったばかりの相思社のまだ新しい畳の上で開かれた。チッソは申請者のS.Yは、医療費など必要もないほど健康であると主張した。それを証明するために、大八車をひいて花を売り歩いているS.Yさんの姿を、自動車にカメラを乗せて隠し撮りをしている。これは放置できない、どう対処するか、などの作戦会議を今思い出す。熊本地裁でこの仮処分事件の決定を受け取った時期は、まだ相思社の落成式から三ヶ月もたっていなかった。

川本輝夫が、死亡者を祀る仏壇の前で大学ノートに、自分が起訴されている刑事法廷に提出するための「供述書」を書き続けていたのを、はっきりと今思い出す。支援者たちに認定不作為の行政不服審査請求という、かなり法的にも複雑な概念を理解してもらった。そして、水俣湾周辺ばかりでなく鹿児島県や有明海の対岸までふくむ広範囲な、被害を受けた何百人もの人々に、行政不服の内容を説明して委任状を集めてもらった。こうした厖大な作業を分担し、打ち合わせ、集約する場所は相思社であった。

認定不作為の行政争訟を説明するために、水俣市公会堂で開かれた集会には三五〇名もの未認定患者たちが集合した。その数は、相思社に集まっていた若い支援者たちが実現したことだ。熊本地裁に提出した行政不作為の違法確認請求事件では、原告の数は四〇〇名を超えた。訴状とともに提出した原告の委任状の束だけでも一〇センチ近い。訴状に貼付する印紙代も数百万円を越えた。印紙代の免除を受けるために訴訟救助の申立てをした。裁判所に訴訟救助決定を出させるためには、救助申立て原告の一人ひとりが、生活に困窮している事実を証明しなければならない。どのような書類が必要かを説明するのは私にはできても、それを蒐集することは私にはできない。これを短期間に集めて歩いたのは、相思社に集う人々であった。

水俣病事件とは何であったのか

水俣病を発生させたのは、チッソの大失敗であった。被害の拡大を阻止し得なかったのは政府の大失態であった。被害者たちに医療や介護の手をいち早く差し伸べることができなかったのは行政の大失態であった。水俣病の歴史は、戦後日本人の大失態の連続を特筆大書して我々に突きつけてくる。二〇〇四年一〇月一五日にも、最高裁は関西訴訟に判決を出そうとしている。

半世紀を越える、企業と行政と人々の、この大失敗の連続は、どうしようもない日本人の典型を焙り出している。水俣病は日本人の恥である。しかし水俣病事件史を、闘争と支援の歴史として見直すとすれば、患者たちはよく闘った。訴訟に、座り込みに、街頭に、季節がかわり、人が替わり、長い長い闘争であった。

やはり思い出すの川本輝夫だ。仕事が終ってから夜、懐中電灯を肩に自転車を押して峠を越え、認定もされていない人々の家庭をたずね、認定申請の手続きをとるようすすめて回った彼のシルエットは、人々の心を打つ。また支援者はよくやってきたと思う。熊本の告発する会の行動の鋭さはたいしたものだ。損害賠償訴訟や自主交渉を助けて、何年にもわたり黙々と街頭に立ちカンパ活動を続けてきた、全国の告発する会の支援者たちは、水俣病闘争を継続するエンジンであった。有明海周辺をかけめぐり、委任状を集め、説明し、数え切れないほどの訴訟と、法廷のかずかずに、患者を運んだ車を運転し続け、大阪へ、東京へ、患者に同行し、支えた人々は、相思社に集う支援者たちであった。相思社は、その支援活動の長さと、質と、量とにおいて賞賛に値する。彼らがいたから私も訴訟をいくつもやりとげることが可能だったのだ。

水俣病という大失態をあげつらって「日本人はだめだ」というばかりでなく、水俣病事件史のなかで展開された患者と支援者の闘いがもたらした成果はもっと評価されてよい。水俣病事件の歴史は、日本人が立派なことをやり遂げる能力があることを示している。水俣病は日本人の恥である。しかし、水俣病事件は日本人の誇りである。

祝30周年  水俣病センター相思社30周年記念事業

相思社が設立されて30年が経過しました。思えば長い道のりです。水俣病事件の波浪に押し流されたり抗したり、新しい関係の創造は同時に古くからの関係の清算でもありました。何が良くて何が間違っていたのかはっきりしていることもありますが、まだまだ時間が必要なことも多々あります。

相思社は、職員や理事の努力だけで存在できるものではなく、批判的な人々もふくめて水俣病事件に心を寄せる人々の思いに支えられています。

特に今回、相思社の歴史や存在位置を確認するために、「水俣病事件を見直す」座談会と「地域再生における相思社の役割」座談会を実施して、その記録を冊子にまとめました。また水俣病事件の中を歩んできた相思社の記録を冊子にまとめました。2006年は水俣病50周年となりますが、これらの冊子はその意味を明らかにするものなると考えています。

ごんずい愛読者のみなさまのご参加をお待ちしております。今まで水俣を訪れたことない方も、しばらくぶりの方も、もちろん水俣周辺にお住まいの方も、どうぞこの相思社30周年のイベントにおいで下さい。
もっと詳しくお知りになりたい方やご宿泊等のご相談のある方は、遠慮なく相思社までご連絡下さい。

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記念誌紹介「今 水俣がよびかける」

パートT 座談会テーマ 「水俣病事件を見直す」

メンバー:実川悠太、緒方正人、高峰武、富樫貞夫(司会)


呼びかけ文

 この座談会は相思社三〇周年を記念して行われるが、相思社の存在意義の確認や活動の宣伝という思惑を越えて、水俣病事件の本質を探ろうとする試みになるだろう。

 水俣病が公式確認されてやがて五〇年、チッソが水俣にやってきてやがて一〇〇年、相思社が設立されて三〇年、二一世紀初頭は水俣病事件史にとって区切りの時代となっている。日本の近代化が様々な方面から問われている。ほんとうに日本は水俣病をはじめとした公害の経験を活かしているのか。物質的に豊かな社会を実現したが、それは人間にとって幸せなことだったのか。子どもが子どもを殺す世相となっているが教育・家庭・地域がどのように変化してきたのか。地球環境の保全が叫ばれているが、生活している足下の自然環境・社会環境はどうなっているのか等々抱え切れない課題にあえぎ悲鳴を上げているのが今の日本社会の実情ではないだろうか。

 今まで水俣病事件の中で自明のこととされてきたことや、タブーとされてきたことを徹底討論することによって、私たちが本当に困っていることや、水俣病事件の問うた本質的な意味を少しでも明らかにしていきたい。たとえば一九七三年補償協定書はいわゆる患者救済の観点からは一種の金字塔をなしているが、別の視点からすれば被害を金銭で補償することを公式に認めた瞬間でもある。被害者たちの生々しい生死や現場からの叫びに対して、認定審査会がそれを審査しお金に換えていくシステムの完成でもあった。

 実川悠太さんは高校生の頃から、川本輝夫さんたちの自主交渉派が行っていたチッソ東京本社前座り込みに参加し、以来薬害スモンに関わり、一株運動を提唱した後藤孝典弁護士事務所で勤務し、現在は水俣フォーラム事務局長として全国で水俣展を開催している。実川さん自身の感慨としては「未認定患者運動は被害者としてのアイデンティティを獲得する運動であったが、一方で補償が得られても患者自身が救われるわけではなかった」と当時の運動の限界を語っている。

 緒方正人さんは、長い間川本さんと一緒に水俣病患者認定申請協議会で活動してきたが、認定申請 補償という救済システムへの根元的な疑問を抱いて、一九八五年、自らの認定申請を取下げ、未認定患者運動から遠ざかった。その時のことを緒方さんは狂ったと表現しているが、それは生きることの意味を考え直したことでもあった。水俣病の根元的な意味を問いつめているはずだった運動が、いつの間にか既存のシステム社会に組み込まれ、お金で解決されるようになっていると緒方さんは指摘している。そして今私たちがなすべきことは、自分の魂の還るところを探すことではないかと言う。

 高峰武雄さんは熊本日日新聞の記者として、また水俣病研究会のメンバーとして、水俣病事件に関わってきた。高峰さんが参加した「水俣病に関する社会科学的研究会」の報告書で「水俣病は多面体であり、見る人の角度によって様々な姿を見せる。つまりは見る側の問題意識の濃淡も問われる」と語っているように、水俣病が問うているのはチッソや行政ばかりでなく、いわゆる支援者も患者自身も埒外ではありえない。

 富樫貞夫さんは、「認定制度への挑戦」や「企業の責任」を表して、水俣病第一次訴訟を理論的に支えた水俣病研究会のメンバーである。専門は法学であり、訴訟や行政不服等の運動を理論的に支えてきたと述べると、富樫さんは不服であろう。彼の関わり方は、まず学問としての法学があったのではなく、「義によって助太刀いたす」と機関誌『告発』に発表された「義勇兵の決意」こそが、水俣病事件に関わったきっかけではなかったろうか。

座談会一部抜粋

富樫 よく聞く話は相思社は何をやっているところなのと、外から分かりにくいっていう話を聞くんです。例えば最近法人化したほっとはうすなんかは、胎児性の人達を集めて、日常のお世話しているから、何も説明いらんわけ。それと比べられると相思社は一体何をやっているところだと。

緒方 ある時に「あの水俣病センター相思社って何をしているところなんですか?」って聞かれたんです。私が答えたのは、「人の生き方を考えているところだ」でした。我ながら名答弁だったと思っています。

富樫 おそらく闘争支援を全面的にやっていたところは、それはそれで非常にわかりやすかった。現地であれだけ踏ん張って患者を支援してくれている。それがなくなった時に説明がしにくい。その辺は難しいなと思っているわけ。

緒方 私はもやい塾という構想を考えたんだけど、命につながる遺伝子組み換えの問題や、家庭での虐待の問題もあるし、拉致事件だとか、考えなくてはならない課題はいっぱいあると思っています。

富樫 相思社もやい塾、専任講師、正人君どう?(笑)

緒方 もし本気でやるんだったら、決して逃げはしません。なんらかの役割は果たします。

パートU 座談会テーマ 「地域再生における相思社の役割」

メンバー:吉本哲郎、杉本肇、嘉田由紀子、丸山定巳(司会)

呼びかけ文

 この座談会では、基本的に一九九〇年以降を対象とする。当時の相思社は環境創造みなまた推進事業と、甘夏事件の検討委員会答申を受けて、小さく開かれた相思社と考証館運動として自己規定していた。自主的な地域との関わりを積極的には位置づけきれておらず、行政がおこなっていた環境創造みなまた推進事業に引っ張られていた。また一九九五年政府解決策による患者連合の苦渋の選択と地域社会再生の承認を受けて、地域社会の中での相思社という位置づけを求めてきた。

 相思社活動の画期をなした甘夏事件では、患者と支援者の役割の適正化が求められたが、それは水俣病事件を従来の運動の延長では考えられないという表現でもあった。その後出てきた「もやい直し」の呼びかけを、水俣病事件の意味を地域社会の中に定着させようとする方向から積極的に捉えてきた。たとえば地元学の試みは、地域に住んでいる人々がそこにあるもの・起きたことを、事実として知り、そして考えることを出発点としている。ステレオタイプの水俣病認識ではなく、生活に密着した視点に徹底的にこだわった地元学は、先の見えない水俣病事件の展開を患者の生活実態から調べ・考えることに大きな示唆を与えている。

 座談会メンバーは、地元学提唱者としてまた環境創造みなまた推進事業のキーパーソンの吉本哲郎さん。吉本さんは、水俣市役所生涯学習課に勤務している。一九九〇年から始まる環境創造みなまた推進事業が始まるにあたって、彼れは水俣病から逃げない決心をする。また、住んでいる人が自分の足下を調べ考えることから、住民自治を創造する地元学を編み出した。

 杉本肇さんは、患者家族として水俣病を見てきたが、水俣病から逃げようとして大都会へ出て、また水俣と家族の引力によって家業を手伝うようになった。杉本さんは漁師として地域社会に関わっているばかりでなく、二〇〇一水俣ハイヤ節や袋小学校とのつきあいの中に自分と地域の接点を見いだそうとしてきた。

 嘉田由紀子さんは、埼玉県の養蚕農家に生まれ、お母さんの働く姿を眼に刻みつけて育った。琵琶湖をフィールドにして、研究とか調査と大上段に振り下ろすのではなく、地域の人々と一緒に、今の琵琶湖と昔の琵琶湖の暮らしを写真で見てみようとか、ホタルはどんなところで育つのかなあとか、日常生活からの問いかけをしてきた。その成果がホタルダスや水環境カルテになった。嘉田さんは環境のことを、難しい科学用語ではなくからだことばで表現したいと考えている。

 司会の丸山定巳さんは、長く水俣病研究会のメンバーとして水俣病事件につきあってきた。社会科学者として、水俣病第一次訴訟を理論的に支えた「企業の責任」「認定制度への挑戦」を作成した。また相思社との縁も深く、甘夏事件では相思社存続・管理運営検討委員会メンバーとして、それから一二年経過後の二〇〇一年度「転換期を迎えた相思社の活動のあり方」答申の委員長を勤めていただいた。

座談会一部抜粋

琵琶湖自慢をする嘉田由紀子さん
座談会U 琵琶湖自慢をする嘉田由紀子さん
吉本 相思社にとって、例えば地域の人たちからモノを頼まれるようになるというのが、夢ですよね。行政とかそういうのじゃなくて、水俣の企業から、「環境でエコ・コンビナートをやりたいんだけど」「これでちょっと儲けたいけど」とか、「そら簡単ですよ、こうやれば」って言って、やったらうまくいったとかなったら、すごくいい。相思社のネットワークを利用すれば、簡単にできると思う。企業の困っている、余っている、捨てているモノを他でお金で繋げば、簡単にできます。環境だけに留まっていたら広がらないですよ。

嘉田 それで最後にひとこと言うとしたら、私は伝えるって言ったんですけど、これって双方向なんですよね。伝えたら人が来る。多分、水俣でもっとも色んな人が来るとこって相思社じゃないですか。例えば、チッソならば企業関係の人だけでしょう。日本だけではなくて、色んな国の人たちが訪ねてくる。
 その人たちの持っている情報は水俣にはない。だから外から来る情報をうまく消化しながら、この地域にとって何がいいんだろうということ、まさに金儲けまで含めて、考えるのがいいですね。
 地域の人たちが頼みに来るシンクタンクなんて、そういうようなところが目指せると、本当に新人がジゴロに変わる時になる気がいたします。

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ごんずいインタビュー 日吉フミコ

日吉フミコさん

プロフィール
ヒヨシフミコ。1915年、熊本県菊池郡に生まれる。水俣市の小学校で教頭、その後1963年水俣市会議員当選(連続四期)。同年胎児性水俣病患者と出会ったこと、新潟水俣病患者を水俣にむかえたことを契機に、患者支援組織「水俣病市民会議」を発足させた。補償協定書成立の立役者。現在共同作業所「水俣ほたるの家」で活動。水俣病の行政責任を問う関西訴訟の支援も行っている。

コロニー構想

 私が市会議員の一期の間は、元の工場長で革新から推薦した橋本市長ですね。市長は私がよく水俣病のことで病院に行くもんだから、「お前は水俣病のことは言うなよ」と言いました。「水俣病のことを今言えば、水俣が栄んごつなる。患者は見舞金契約で見舞金をもらっていて満足しているから、誰もどうかしてくれって言うたもんなおらん。だから水俣病のことは言うな」と。しかし、私が義務教育のことや特殊学級のことを話せば、「うん、それは何とかして自分も作りたいと思ってる」。けれども「水俣病のことを議会では触れちゃならんぞ」ということで、私は議会では全然言いませんでしたね。それでも、一期目に湯の児リハビリテーションを作って、その中に特殊教室の分室を作ることはできました。
 ところが、私はその時までね、病院に入院してる人が水俣病で、家庭にそれ以上ひどい人がおるなんて全然知らないでね。「家庭にゃまだ悪か子がどしこでんおるばい」と言われて、もうびっくりしましたね。一番に田中実子ちゃんの所へ行きました。上村智子さんの所へも行きました。湯堂の田中敏昌君のところに行って、それから渕上一二枝ちゃんの所へ行ったりして、まだ他にもおるということが分かってきたわけですね。それで市議の二期目に、やっぱり水俣病の子供たち、特に胎児性の子供たちは何とか行政が救ってやらなくちゃいけないということで、「コロニー」という構想を議会で言いました。
 五月に田中義光さんや渡辺保さんたちと、これは大阪告発の会議がございましたときに、帰りに山岸会を見に行きました。ものすごく良いところで二〇○羽も三〇〇羽も鶏を飼っておられて、渡辺さんが「ああ、こぎゃんこつはウチの栄一にはできるばい」と思って、栄一を一ヶ月ぐらいあそこに預けることにしました。けれども、連れて行って一週間ぐらいしたら、栄一はきゃあ帰ってきました。そういう集団の生活もなかなか難しいということで、帰ってきたわけです。

土地取得に奔走

水俣病闘争を支えた日吉さん
水俣病闘争を支えた日吉さん(場所は不明)

 私がコロニーの話をあちこちでするもんだから、七二年の九月二四日に浜元フミヨさんが、「そるば作っところはな、うちの先の畑のあるがあそこがよかばい。私の畑じゃなかばってんが、あんまり誰っでん作りよらっさんもんな。そこに見が行こい」っていうことで、フミヨさんに連れられて見に来たわけですね。
 なるほど見晴らしも良くて、平らなところがあって、あとは原野になっています。私が買いたいというところは、そこだけが畑になっているんですね。そこがフミヨさんが「ここが一番よかばい」って教えたところなんです。「ああ、こりゃ良かね」っていうことで、それじゃあ、これを買うのにはどうしたらいいか。それで農業委員をしておられる田上信義さんに相談しに行きました。私が土地を買うことになれば、「あれには売らんとだが」というような自民党のがっちりした人たちが二人も三人もおられるわけですね。それで、誰の名義で買うほうが一番良いのかということで、私はわからんから、みんなで相談しました。田上信義さん、坂本しのぶちゃんのお父さんの坂本武義さん、それから坂本数広さん。みんな第一組合ですね。それから坂本みゆきさん。こういう人たちに頼んで買う相談をしました。
 もう一つはですね、それからこの土地は三〇〇坪以上あるから、水俣の農業委員会では許可ができない。だから、県の農業委員が見に来たわけです。そうしたら田上信義さんは、「こぎゃんして県の農業委員会が見に来たて、もうどぎゃんしよっか。こらぁ難しかなあ」って大変に心配をしました。ところが良かことにはですね、県の農業委員というのは芦北事務所の中におるわけですね。私の連れ合いは七年間そこにおりました。だいたい指導所っちゅうのは暇でしょ。農業委員も何がなければ暇ですたい。私は「連れ合いが四八年の三月で定年退職をするから、ここに土地を買って市営住宅の人たちの保育園を作ります。だからここを許可して下さい」と。許可ができんならば、連れ合いに頼んでもらおうと思いました。けれども、それだけ言うたら「ああ、日吉先生が保育所を作るならば、そりゃあてっぺんな所ですばい。そら私が許可せん訳にはいかんたい」というわけで、見に来らして一時間ばかりで済みました。それで五条申請ができまして私の名義にすることができたわけですね。
 農業委員は非常に大事なんですよね。その人がいなければ地目変更なんかできない、売りも買いもできないでしょう。私なんか農業委員の選挙で、私の担当は水東地区でしたから、夜中でん何でん自転車に乗って、みんなが協力して票を集めてくるようにと。農業委員の選挙はね、自分たちの選挙よりも厳しかったですよ。四反以上持ってる人だか何だかって決まってるでしょ。そういうのをちゃんと逃さんようにしないと。それは難しいですよ。
 本田先生はですね、特別農振地帯ということも知んなはらんわけですね。地目変更には農業委員会の許可がいるということも知んなはらんとですよね。「お金ば高う出せばよかっじゃろうもん」とね。だけん「そこは違いますよ」と。そこだけは本田先生にやかましゅーう言うたから「おお、そぎゃんですか」と本田先生は初めて分かったわけです。
 あとは買うときはその周りの人に許可を受けにゃいかんでしょ。「そこに家を造りますから」って言うて許可を受けにゃ。それも難しかったんです。みんなで手分けをしてですね、武義さんと信義さんと数広さんが、これは誰に頼むとよかばい、同じ組合員の誰ば連れて行けばよかばい、っていうことで、坂本フジエさんのところに集まって一々相談しました。酒一升持っていくか、砂糖三斤持っていくか、ここには焼酎二升持っていって砂糖五斤持って行って頼めるか。そういうことで本当に協力して頂いたわけです。
 この土地を買うのに、田上信義さん、坂本武義さん、坂本数広さん、坂本みゆきさん、この四人がどんなに苦労して、あっちこっち駆け回ってくださったかということを、ぜひ私は残しといてもらわんと申し訳ないと思ったんです。

水俣病センター建設

 七三年の五月二〇日に九州芸工大の岩切さんという人がやってきまして、ただの家じゃなくってコロニーだから、みんながゆっくり風呂に入ったり、リハビリをしたりする所は作らにゃいかんだろうということで、加勢して設計してもらうことになりました。七三年の六月二日に芸工大の人を六人連れてきて構想を練って、そして三日には患者総会をしてその話をされました。それで、そういうものを作ってもらえるなら嬉しいと、患者たちは話したわけでございます。
 ところが、建設をする段になって、道や側溝のことがどうしても解決が付かないわけです。その問題で松本勉さんとふたりで、市役所に行って建設課長に話したんです。私がやっぱ市会議員になっとったというのは良かったです。いろいろ反対する人もおるけどもですね、それに協力する人が非常に多かった。だからそういうところでも非常に信用を得たと思うんですよね。そのころは教組出身の国会議員は三十何人かいましたからね。それで水俣病問題で話をするから聞いてくれって言えば、二十何人かはいつも集まっていましたからね。それでいよいよ七十三年の十二月一日に敷地は完成しました。そのときに本田先生に電話して、それじゃ二十一日に地鎮祭をしましょうということで、これでわたくしのつとめは終わりました。
 できてから茂道の滝下昌文のお母さんと坂本フジエさんが、子供たちを連れてここを見に来て、「こういう所だけん、あんたたちもいつも遊びに来たっちゃよかよ」という話をしていたら、そこに長屋のごたっと家が三軒ぐらいできとったです。そこにおった女の人が、「何ば覗くとな!」とこげん言わしたです。滝下君のお母さんは「ああ、こら大変、こぎゃん人のおらすならばロクなこっじゃなか。もうとても打ち合わん」っち言って帰らしたですよ。あれー、ここば作るときの目的はそうじゃなかったっで、ほんとにコロニーな、親も子供たちもね、そりゃみんなほら、みーんな貧乏人ばっかだったから、金ばうんともろうたけん、近所隣の人は認定もされとらんもんな、ああー羨ましか羨ましかって、またイジメらすけんね。それで裁判した人たちは、ここにコロニーができたら、風呂んどん、ゆるっと入って、後はまあ堀田静穂さんから按摩をしてもらったりして、リハビリをして、握り飯どん持って遊んできてよかたいなあ、と。もともとそういうことでできたんですよ。

聞き取り全文は、来春発行予定の『豊饒の浜辺から 第四集』に掲載します。

連載 第七回 弘津敏男の相思社日記

 久しぶりに「ごんずい」誌上に好き勝手が書ける。弘津敏男

 水俣に来て二〇年目、もう決して新顔とは言えないはずなんだけど、こっちに来たときに一〇年以上いる連中がわんさといて、そのほとんどが今も残ってるんで、水俣では二〇年くらいでは大きな顔はできない。

 相思社三〇周年という事で今は記録集作りにかかりっきり。ようするに年表中心の資料集のようなものだけれど、「事実」を書かなければならないんで、事実関係を調べるのにずいぶんと時間と神経を使う。
 相思社の三〇年といっても水俣病と切っても切れない関係だから、年表も実際は水俣病年表に相思社のことが入ってるといったものになる。

 資料を調べていていろんなことがわかった。例えば理事や監事を務めた人は延べで四五人、職員は五七人。三〇年間でこの数は多いのか、少ないのか。

 給料は今だって世間の相場と比べればずいぶんと少ないと思っているが、初期の頃は手取り一万五千円で、それさえも遠慮(?)して、無給の職員も何人もいた(「貰っても貰わなくても大して変わりがなかったから」という話もあるが)。相思社は三〇年続いているが、二〇年続いた職員はいない。ただし、理事・監事には二六年という方もいる。これには頭が下がる。

 いろいろと考えてみたけれど、職員が長く続かないのではなく、その時々の相思社に合わせて出入りするからという結論に達した。

 「相思社」という名前(場所と建物も)は変わらないが、時代が変わり、相思社に求められるものも、求める人も変わる。それに対応するためには相思社も変わっていかなければならない。だからスタッフが替わっていく。「相思社」という組織は、スタッフが替わることによって脱皮してきたのではないか、だから三〇年続いているのではないか、これからも世代交代がきちっとできれば続いていくのではないか。
 私自身、過去にこだわるのではなく、古い自分を捨てることができれば、相思社に居続けられるかも知れない。ただ、「水俣病にこだわり続ける」ことだけは忘れてはならない。相思社の存在意義も、自分が相思社にいることも、そのことだけは譲れないことだから。


(2004年9月25日発行)

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