リード/遠藤邦夫
沖縄を伝える/知花昌一
部落を伝える/駒井忠之
新潟水俣病を伝える/旗野秀人
ごんずいインタビュー/長浜スマ
水俣トピックス:水俣に産業廃棄物処分場建設計画/南が丘小学校案内/相思社法要会
水俣病センター相思社物販案内
相思社日誌 ありがとうございます
「水俣病を伝える」は水俣病センター相思社の基本的な活動である。しかしながら、水俣病の何を、誰に、どの様に、何のために伝えるのか、について固定的な方法はないと考えている。それは水俣病事件の要素が多様であるばかりでなく、伝える主体も時代や社会の影響を受けるからである。伝えることをコミュニケーション行為とすれば、相手によっても変化していく。私たちは「水俣病を伝える」ことにどの様な価値や意味があるのかを、自明のことにしてはいけない。自分自身が常にそれを問い続けるのでなければ、伝える人も伝えられる人にもつらい義務となってしまう。
最近若い人と話していると、「遠藤さんたちが見てきたモノや体験してきたモノを、私たちは言葉で知っているだけです。時代状況のリアリティーがないんです」と言われる。これは通常ジェネレーションギャップと言われるが、ではその意味するところは何だろうか? 果たしてその時相互行為としてのコミュニケーションは、成り立っているのだろうか?
先日JICAのコミュニティ開発事業で、アジア・アフリカの人たちと一緒に地元学−あるもの探しをやったが、文化的な違和感をほとんど感じなかった。久木野を歩いて小島さんの野菜の話に盛り上がり、夕食にはカモ鍋を一緒につついた。「お祈りはするけれど、豚肉は食べる」モスリムもいれば、「お祈りはしないけれど、豚肉は食べない」モスリムもいた。
水平社博物館のガイド寺前美加さんは「(見学した)人の意見に『過去を振り返ってもしかたがない』というのがあり、ガイドの仕方を考えさせられることになった。過去を振り返るのが悪いこととは思えない。けれどそこで何か元気がわいてきて『明日からがんばろう』と思えなければ来た甲斐もないということだろう」(『ルシファー 7』 水平社博物館発行)と述べている。
水俣の1990年代の経験から言えば、お互いに違う考え方をしていることを前提として、出会い・相手の話に耳を傾け・協働して何かをしてみたら、水俣で暮らすことがけっこう楽しくなったような気がする。何だか超アバウトな言い方になっているかもしれない。コミュニケーションの意味するところは、表現したい私がいて、それに興味を示す相手がいて、それが可能な場があって、その事実が新しい何かを生み出していくことではないだろうか。(遠藤邦夫)
プロフィール
ちばなしょういち、1948生まれ。1987年10月、国民体育大会会場に掲揚された日の丸を引き降ろして焼いた。米軍楚辺通信所(象のオリ)の地主の1人。1998年から読谷村議会議員。著書:『焼きすてられた日の丸』1988(新泉社)、『燃える沖縄 揺らぐ安保』1996社会批評社他
三〇年前、一七歳でデビュウした南沙織という沖縄出身歌手が、マスコミのインタビュウで「出身地はどこですか」と聞かれたとき、彼女は「鹿児島の南です」と、応えたという話があります。
その時彼女はどうして「おきなわ」と応えられなかったのだろうか。
彼女に流れている沖縄の血には、明治、大正、昭和という富国強兵=戦争の時代を通して、皇民化・軍国主義という異質なものを認めない、歪な日本社会で作られてきた沖縄差別が、トラウマとして残っていたのだと思われます。
その沖縄差別のトラウマは今どうなっているのだろうか。
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| 集団自決が起きたチビチリガマの犠牲 |
ところが差別を受けないように消そうとしてきた沖縄的なものが、今やむしろブランド的になってきています。沖縄民謡やエイサーやサンシンが、全国的にもてはやされてきています。沖縄民謡や安室奈美恵やスピード、モンゴル800、喜納昌吉、夏川りみ、キロロ、ダイエーの新垣など、マスメディアを通じた芸能界やスポーツ界での活躍。観光リゾート地として脚光を浴び、また沖縄的なスローライフを表現した「てーげー主義」や、健康志向が注目されてきたのも大きいと思います。「ゴーヤ」や「ナーベーラー」が全国展開されるなんて、一〇年ほど前は思いもよらなかったことでした。沖縄苗字を日本苗字に変え、サンシンの音を出さないように押入れで引いたという先輩の話を聞くと、隔世の感がするのです。
今やっと沖縄人差別を払拭する時期がきていて、若い人たちには沖縄差別のトラウマなどさらさらないでしょう。長い一〇〇年の年月の間、各界、各層での多くの表現者たちが努力を重ねてきた結果なのです。
「沖縄人」への差別はなくなってきていると思うが、「沖縄」への差別はどうだろうか。残念ながらまだ厳然として「沖縄差別」は残っているとしか言いようがありません。
日本と沖縄との関係は、一八七九琉球処分、一九四五年本土防衛の捨て石としての沖縄戦を強いられました。日本の独立と天皇制護持のために、一九五二年サンフランシスコ講和条約で、沖縄はアメリカの軍事独裁支配の屈辱的状況に落とし込められました。一九七二年日本復帰では、沖縄中があれほどの願った「核も基地も無い本土並み返還」を踏みにじられ、日米安保の網を被せ、米軍基地被害と犯罪を野放しにされてきました。
そして今も、米軍基地が異常なほど沖縄に集中し、整理・縮小・撤去を求めても、屈辱的な日米地位協定の全面改正を求めても、日本政府はアメリカ政府に問題提起さえやれず、具体的な取り組みをほとんどしていないのです。それによって、二〇〇四年ヘリ墜落事件のような「死の恐怖」を味わい続け、墜落現場への立ち入り捜査もできていません。米軍人の凶悪犯の逮捕さえできない、という屈辱状況が続いているのです。米軍基地撤去のための移設と称して、新しい軍事基地を名護市市辺野古などに作ろうとしているのです。
沖縄差別がまだ続いているということであります。私たちは「構造的差別」と呼んでいます。
私は米軍の通信基地である「象のオリ」の反戦地主として、一九九五年九月の少女暴行事件以来今日まで、米軍基地撤去のうねりの中にいました。この一〇年間で解ったことは、表現すれば変わるということであります。沖縄県の資料によりますと、一九九四年の米軍犯罪は一七七件、一九九五年七〇件、一九九六年三八件、一九九七年四〇件であります。
九五年一〇月には少女暴行事件にたいして、八五〇〇〇人の県民集会を開き、宮古島・石垣島の集会を含めると一〇万人が抗議の声をあげました。実に沖縄県民一〇人に一人が集会に参加したことになります。この集会を契機に米軍犯罪を許さない気運が盛り上がり、特に女性団体が活発に行動を展開しました。
結果として一九七二年の復帰以来毎年二〇〇件も起っていた犯罪が、四分の一以下に減ったのであります。これまで何もしなかった日本政府も、米軍基地の整理・縮小を言わざるを得なくなり、普天間基地の撤去・象のオリの撤去・那覇軍港の返還・実弾砲撃演習場の撤去などを発表しました。しかしこの発表は移設を前提にしたまやかしだったのですが…。
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| 沖縄戦のモノが語る記憶 |
叫ぶと胸につかえた物が取れたように気持ちがすっきりするものです。叫び声を聞いてくれる人がいるのです。聞いてくれた人の中に何とかしたいと思う人がいるのです。その人たちが力になってくれるのです。変わるのです。
この間私たち沖縄は「表現すると変わる」ということを学んできました。
日本は世界に冠たる高学歴社会です。日本ほど高学歴社会は世界中見回してもないでしょう。九年間の義務教育を終了してほぼ一〇〇%が高等学校に進学し、さらにその先も大半が大学や専門学校に通学しています。だから一人ひとりはいろんな情報、知識を身につけていて、社会の出来事に関しても良く知っているのです。しかし、日本人は世界で何も表現しない民衆だといわれています。いわゆるサイレント・マジョリテイです。日本の民衆は封建時代の遺物である、「見ざる、言わざる、聞かざる」「長いものには巻かれろ」「出杭は打たれる」にどっぷり浸かっています。そこから抜け出そうとしておらず、そのことを自ら認識してないのではないでしょうか。そのことによって、政治家や官僚や地域ボスがやりたいほうだいやっているのが、日本の社会状況ではないでしょうか。
「もの言わぬ民は滅びる」といわれます。表現することは必ず変えること、変わることに繋がります。沖縄の「構造的差別」を変えるために表現し続けようと思います。

プロフィール
大正11年2月、津奈木町赤崎に生まれる。1957年、同町福浜字合串の長浜安太郎さんと結婚、子どもは一人。1976年、夫婦共に水俣病に認定される。
遠藤 結婚前の赤崎のお話を聞かせていただけますか。
長浜 家は村の中の日添・日当ち言いまして、そのちょうど中間に家ば建てとりましたったい。
遠藤 スマさんがお生まれになった頃、水はどうしていたんですか。
長浜 昔はあんた、私がまだあっちにおる頃まだ水道がなかったっで、井戸ば掘っとってですな。井戸のなかとこは、あっとこにもらい水しよりました。ウチもなかっで近所にもらって。まだ小学校時代には、井戸は水タンゴをからって汲んできよりましたったい。
遠藤 飲み水ぐらいならいいですけれどもね、風呂は大変ですもんね。
長浜 はい、お風呂も、炊事すっとも汲んできて。そんで昔は、赤崎と日添の間に川のあっでしょうが、川に洗濯でん何でんしに、みんな行きよらしたっで。みんな洗濯は川でばっか洗って、飲み水だけ井戸でした。
遠藤 畑は山のほうですね。
長浜 はい、そうですたいな。昔は私どんがまだおる頃は、狭かウサギの道のごたっとがあった。中学校に行くときは霜柱のばらばらしとっと足中(足先だけのわらじ)踏んで、津奈木の中学校さ行きよりましたっで。
遠藤 赤崎から津奈木はどういう道を通っていくんですか。
長浜 こんくらいばっかんの狭か道ば、蛇でん何でんにょろにょろって行くとで、何でん踏みつけた。
遠藤 それは山の中を越えてたんですか。
長浜 はい、そげんですたい。
遠藤 赤崎にいる頃は、どんなお仕事をされていましたか?
長浜 わたしどんが若かときは、カライモの麦のっち作りよったんですたい。昔はご飯な、今んごっ米御飯じゃなか、麦御飯でしたで。カライモ食べたりして、今んごっおやつもなしやった。カライモば炊きあげば、ほやほやしとったば、「うんまかうんまか」って食べよったったい。そんくらい何のあるもんですか。
カライモは戦時中には、百キロぐらい入っと太か斗米袋ちあったんなっせな。斗袋ちなんか積んであるごた、自分で動かしはきらんとですたい、あんた。何百と出しおったんですたい。畑からですな、葛で組んであっとのモッコんごたはこう肩で担いで、行きも戻りもそれに入れて、カライモもそげに入れて出しよったったい。
遠藤 重たいですよね。
長浜 重たかばってん、昔は一輪車なんのもその時代はなしやった。肩で担いでばっかやった、なんもかんも。
長浜 南西の風が、あとから北の風でしょうが。ここは北の風も南西の風も当たっとですもね。どっちでん。ほで、木もこげんで、下はいっちょん葉がなかっですもんな。
遠藤 今年の台風で海の潮がずいぶん上がったんですね。
長浜 潮気分の上がれば木は枯れてしまいますと。
遠藤 ところで、スマさんは安太郎さんと一緒に漁をしていたんですか?
長浜 もう親父(安太郎)は漁師一本たい。
遠藤 どんな漁でしたか?
長浜 前はイリコ獲りよったでしょが。もう乾し場がなかごつ獲りよったんです。私が来る前は、巾着っちゅう海に灯りば灯しとってですね、晩に出よったでしょう。あれば親父がやっとったですたい。人夫ば何十人ち雇っとって親方でした。
遠藤 「イワシが来るぞ」ちゅうんで。
長浜 巾着は闇夜にばっかりで、月の時はしまっせんでした。闇の時に、ひとところにイリコば寄すっとたいな。イリコの寄ったところに網ば張らせればな。うちが来たときはもう巾着はやめて地引でした。
地引といいますとたい、合串あたりの湾内で地引をしました。口船と網船って二艘おって、口船に乗って「こうすっと」ちょうど指導するんです。「張らんか」ちゅうて網ば張らせて、ほで両方からこうしてとり上げるとですたい。もうちょっと沖の三つ島付近で網をとりあげよったったい。イリコをいっぺんにカエでしよらしたですもんな、百カエもどしこっちゅうと獲りよったい。そん頃は百カエ、二百カエち言いよりましたで、あんた。こう桝の丸かっで計ってました。
遠藤 それで百も二百もあったと。
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| 不知火海 平国漁港から右上辺りが合串 |
長浜 はい、獲りよったっですばってん、もうだめ、ここ最近は。
遠藤 それで獲れたとき、生のイワシをどうするんですか?
長浜 ここの一番下が、ウチの製造納屋でしたったい。そこで茹でっとたいな。やっぱ海の近くじゃなからんばな、潮水を汲んで釜で炊いて、製造納屋で製造しておました。浜に竹で組んだ棚かけとって、そこに地場ば作って乾し上げおったっです。
遠藤 そのときにスマさんも一緒にその仕事をされていた。
長浜 地引を一緒に。
遠藤 安太郎さんは口船に乗って、スマさんは何をしてたんですか?
長浜 そうですたい、あんた。私はあんぶね(網船)にのって、網ば取り上げよったったい。網船に四、五人ずつ横に乗っとらんば、取り上げんばんでな。そげっちて、イワシを持ってきて、こんだ製造にしかかった。
今はキロですばってん、昔は一貫目ち言いましたですかな。そん頃はかんぶくろ(紙袋)に、長かとあれに叩き込んで一貫目ずつ詰めよりましたったい。
遠藤 一貫目というと、結構な量ですよね。乾いたイリコですもんね。
長浜 はあ一貫目ずつ、こうイリコの頭の欠けんごつ叩っ込んで揺すずり込んで、そげやってかんぶくろに一貫目ずつ詰めて何百と出しよりました。
遠藤 どこに売ってたんですかね?
長浜 水俣の小西さんですかな。あの人が積みに来よらしたですよ。いっぺんに何百と袋詰めして持たせやりよったですたい。
イリコの来んときはこんだゴチ網です。沖さ行ったってタチとかモチウオちゅう、おるとでしょうがねばねばした。あげんとの、昔あたりはもうクロイオとかですね。タチウオも一遍に百キロのどしこっちゅう獲ってきよりましたったい。もう船に積み切らんごつ、獲りよりましたったい。
遠藤 まだ合串ではゴチ網をしてる人はいるんですか?
長浜 やっぱたまには行かすとばってん、やっぱり獲れんとですもんね。海の汚染のあっで育たんとですかな。そっで昔は、海にはタコでんなんでん、石ば起こせばアオビ(あわび)でんシャコでんおったがなっせ。今はそげんことは、いっちょんなかですもんね。ウニのあげんとなんの、潮時に石の起こせば、シャコでんおって、籠いっぱい取ってきたですもんね。
長浜 海藻も昔は、石にへばってアオサちいうのありましたがな。あれは今頃は全然おらんごつなりました。なんでですかなあ。ウチの下にワカメにヒジキな、それからトコロテンば作くっとテングサたいな、あれもいっぱい生えおったがなっせ。やっぱ自然と生えんごつなりましたっですばい。
遠藤 テングサからトコロテンやら作ってたんですかね。それは売っていたんですか?
長浜 獲って乾して、練って食べてですな。それで土産にもあっちこっちもたせやったりしよりましたい。テングサは面倒くさかんね。
沖さへ行くとすれば、何もかんも知らさんとですともね、なんかよそからきた人がワカメやら獲っていってしもうた。
アオサはやっぱ寒かときですなあ。やっぱり昔のようには生(お)えんとですよ。ワカメでん、ヒジキでんおりよりましたばってん、なんか変な草ばっか生えちゃならん。昔は藻ちいうて、長う生えとりましたがなっせ、あげんとの下にタコでんナマコでんアオビでん、しょっちゅう獲りよらったったい。住処でしたじゃろうな、藻の生えとっとこで。もう自分が住処になったごたるで。そげん藻ちいうのも、生えりゃなかっですばい。
アオサは砂の混じっとっで、ウチできれいにアブってですな、乾し上げとくとたい。そげんして、味噌汁なんかちょっと入れんば。海藻なんかもここさいっぱい生えましたですよ、昔のテングサでんなんでん。潮時にはもう赤うなるほど。
遠藤 テングサが生えている時は赤いんですか。
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| 船の上から網を引く 撮影:芥川仁 |
聞き取り全文は、今春発行予定の『豊饒の浜辺から 第四集』に掲載します。
晴れ渡る秋空のもと、熊本市から南ヶ丘小学校の皆さんがバス三台でやってきた。この日は二手に分かれ、昼食時間を含めた一〇時三〇分〜一五時の間で水俣湾埋立地親水護岸・百間排水口・茂道・考証館を巡り、生駒秀夫さんの話を聞くというスケジュールである。
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| グリーンスポーツの海岸で遊ぶ |
この見学コースの中で一番の人気ポイントは茂道。小学生たちはグリーンスポーツ水俣のこんもりとした森、潮だまりや岩陰にいる生き物たちに時間を忘れて遊ぶ。石をひっくり返す、平べったい石を海に向かって投げつける、たまらず岩の上で素足になる。「バスに酔ったよぉ〜」とげんなりしていた男の子も、磯に下りると吐き気も嫌な気持ちも吹き飛んだよう。「ねえ、こんなにつかまえたよ」両手の平いっぱいのイソガニ。「つかまえるのが上手だねえ」「あれ、なあに?」「弱ったクラゲをカワハギが突いてるね」相思社では水俣病学習の中にできるだけ海や森で遊ぶ時間を入れる。小学生にはあっという間の時間のようで、しぶるのを海から引き上げるのは毎回大変。ただ単に自然とのふれあいが目的ではなく、語り部の暮らしていた場所、水俣病の起こる前にあった自然の豊かさ、蘇りつつある水俣の海の姿を感じてもらうための工夫である。
生駒さんはこれまでにも何度か来訪者にお話をして頂いていたが、小学生に対しては今回が初めてだった。茂道に暮らしていてカニを捕って食べ発病したことから始まり、退職して時間ができ心にゆとりができたこと、いろんな人と交流して自身の経験を話したいと思うようになったことなど、ユーモアを交えて熱く語って頂いた。
小学生はさっき遊んだ茂道の豊かな磯と、そこに暮らしていた生駒さんをどう感じただろう。水俣湾埋立地に立って足下に存在するヘドロを思い、考証館で起きたことを知り質問する……水俣病の被害が激しかった時代を知らない小学生たちに、今日の水俣はどう映っているのだろう。
「水俣病は皆さんの祖父母・父母の時代に起こったこと。経済優先の便利な社会が引き起こしたこと。今も世界のどこかで起こっていること。水俣病を起こさない社会って、どんな社会だろう皆さんにまずできること、自分の身の回りの暮らしに目を向けてみよう。」 小学生に既成の言葉を使って案内しては上滑りの学習になってしまうだろうし、心の距離もできてしまう。言葉を噛み砕いて説明する必要がある。また、案内人の感性も大切だろう。私は小学生の自分と今の自分の間を行ったり来たりしながら、小学生の立場・目線も視野に入れて案内をする。「これだ」という水俣案内などなく、水俣あちこちの案内人それぞれの立場・手法・感性・目的によって異なるであろう。
近頃、案内した小学生に手をつながれることが多くなった。入社一年目のドキドキ緊張しまくっていた案内では余りなかったことである。(肩に力を入れず接するようになってきたのかなあ)そう思う。 (川部岬)