
水俣病を伝える/遠藤邦夫
案内人に求められていること/高嶋由紀子
未来への関係作り/遠藤紀恵
ごんずいインタビュー盛下美佐子/川部岬
水俣トピックス 社会福祉法人さかえの杜・ほっとはうす一周年記念イベント/神奈川学園高校のフィールドワーク
水俣病センター相思社30周年事業
相思社日誌 ありがとうございます
※お詫びと訂正 p.8〜11「水俣病を伝える」の文中数ヶ所に「御獄」とありますが「御嶽」の誤りでした。お詫びして訂正させていただきます。
一 国は一九五九年一二月末には、チッソの工場排水について旧水質二法による規制権限を行使すべきだった
二 国が六〇年一月以降、規制権限を行使せず被害を拡大させたのは、著しく合理性を欠き違法である
三 熊本県も国と同様の認識を持ち、漁業調整規則で規制権限を行使する義務があった
四 国と県には、患者三七人分の約七,一五〇万円の賠償責任がある
五 五九年一二月末以前に転居した患者八人については、国、県の違法な不作為と損害の因果関係を認められない
一 熊本県が独自案をいち早く作成したこと。そのことによって当初熊本県と環境省との対応の違いが際立ったこと
二 認定申請者が急増したこと。その多くが初申請であり、多くが「医療費だけでも何とかしてほしい」と言っていること。また、保健手帳を返上して申請に踏み切った人がすでに一〇〇人を超えていること
三 熊本県が審査会委員の再任要請をためらい、審査会が休止状態となったこと
四 民主党・公明党・共産党が水俣病担当チームを設置し、自民党小委員会も含め各政党が動き始めたこと
五 当初、環境省の対応が鈍く各方面からひんしゅくを買い、その後方針変更したこと
六 水俣病特別立法制定に向けての動きが始まったこと
一 環境省がどのような案を示すのか
二 各政党の動き、特に注目すべきは自民党小委員会と民主党WTの動き
三 認定申請者がこの後も増えていくのか
四 行政が「申請主義」を捨て、真に全被害者の救済を実施できるか
五 「認定」と「補償」、「水俣病」と「有機水銀中毒」といった用語を論理的に整理できるか
六 特別立法が可能か。公健法・補償協定、九五年解決策との整合性を作りうるか
一九五九年に認定制度と見舞金制度が作られた。以来四五年間にわたって、水俣病の認定制度は補償対象者を決めるものとして機能してきた。
当初はチッソが加害者として確定していないことやチッソと患者との力関係から認定の枠もせまく、補償内容も極めて低いものであった。
一九六八年の公害認定、一九六九年の一次訴訟提訴を経て、一九七一年に環境庁裁決・事務次官通知が出された。これによって認定基準は大幅に緩和された。しかし、補償内容は低いままであった。
一九七三年の一次訴訟判決と補償協定締結により、補償内容が大幅に拡充された。チッソは窮地に追い込まれ、政府はチッソ倒産を回避するため、一九七七年に判断条件を、一九七八年には水俣病関係閣僚会議で新次官通知やチッソ患者県債の発行などの水俣病対策を決定。これにより、再び認定基準は厳しいものとなり、多くの被害者が補償の枠外に締め出されることとなった。
一九八〇年の三次訴訟、一九八二年の関西訴訟などの国賠訴訟が次々と提訴され、行政責任と認定基準が問われた。
一九八五年には二次訴訟高裁判決が確定し、行政認定とは別に司法認定という新たな仕組みができた。これは一九七七年判断条件より補償枠を拡げるかわりに賠償額も大幅に引き下げるというものだった。以後、高額補償だが狭い行政認定枠と、広く救済するが補償は低額という二本立ての補償体系が根付いていく。一九九五年の政府解決策は「司法救済に準じた救済を、司法認定によらずに実施する」施策に他ならなかった。その意味では第三の認定=「解決策認定」とも言えるだろう。
関西訴訟も基本的には二次訴訟、三次訴訟の延長上に位置づけられる。国や熊本県の責任が確定されたことは特筆されるが、そのこと自体がすぐに救済枠の拡大や補償額の増額につながるものではない。「国や熊本県の責任が認められたとはいえ、それは原告らに対する賠償金支払いに関して責任の一部を担うことを意味するに過ぎない」という見方もできる。少なくとも当初環境省はそのように考えていたであろう。
しかし判決後の展開は環境省の予測をはるかに超えたものとなった。原告達の要求と行動は激しいものとなったが、そこに追い打ちをかけるように想定外の事態が発生した。第一は熊本県が環境省と相談なく独自の判断、独自対策案を示したことだった。第二は申請者が急増したこと、しかも九五年解決策において保健手帳の対象となった人達が次々と手帳を返上して認定申請に踏み切り始めたことだった。第三は九五年解決策を受け入れた患者団体が判決に敏感に反応したことだった。
これら一連の事態は水俣病に対する中央と地方(現地)との認識の違い(温度差)によるものだった。中央では「九五年解決策で補償問題は終了した。救済すべき被害者の救済は終わった」と考えていた。しかし、事実は異なっていた。九五年解決策に対する不満もさることながら、まだ救済されていない「潜在患者」が多数存在していた。申請者の急増はそのことを証明している。
申請者の多くが初申請である。今まで(九五年解決策も含めて)申請しなかった理由には@漁業に関わっていたので申請がはばかられた。A近年になって症状が悪化した。B解決策のことを知らなかった、といったものが多い。仮に、今回何らかの対応策がとられたとしても、それが真に抜本的なものでなければ、何年かすると再び同じ状況が訪れるかも知れない。また、保健手帳を返上して認定申請する患者が多数に上ることも九五年解決策が不充分なものであったことを示している。
患者たちの高齢化にともなって症状は悪化している。「安心して医者にかかれること」は死活問題であり、緊急の課題となっている。
更に憂慮されるのは地域の混乱である。申請者の急増により「またぞろ金目当てのニセ患者が」という話が聞こえてくる。一九九四年に始まった「もやい直し」の動きも止まってしまうかも知れず、「一〇年前に逆戻り」する可能性さえある。
水俣病患者は被害者であると同時に地域住民でもある。「地域で平穏に、安心して暮らしたい」というのは全ての患者の思いである。相思社は第一次訴訟原告らのそういった思いによって設立された。
今求められているのは、水俣病五〇年の歴史をふまえ、抜本的な解決策を作り上げることであり、その作業と平行して患者や地域住民に対して、これ以上の混乱を拡大させないための施策を早急に実施することだろう。
注
※1 関西訴訟訴訟団:チッソ水俣病関西訴訟の原告団(川上敏行団長)・弁護団(松本健男団長)・医師団(三浦洋団長)・支える会(横田憲一・代表)
※2 患者三団体:水俣病患者平和会(井島政治会長)・水俣病患者連合(佐々木清登会長)・水俣病被害者の会全国連絡会(森葭雄代表委員・橋口三郎幹事長)。九五年解決策受け入れた熊本・鹿児島の患者団体
※3 患者四団体:上記患者三団体及び新潟水俣病被害者の会(樋口幸二会長)

プロフィール
昭和7年水俣市湯堂生まれ。昭和25年結婚、御所浦町唐木崎へ。いりこ製造、小漁師のかたわら4人の子どもを育てる。水俣病患者連合の会員であり世話人である。現在、夫・繁氏と二人暮らし。
![]() |
| 玄関先の恵比寿さん |
盛下 私は湯堂です。小さか時から湯堂に一八までおったっですよ。一八になってから、ここに(御所浦唐木崎、現在の住所)ちょっと遊びにと思って来たっですよ、こっちには。向こう(水俣)の会社に仕事に行きよったっですよね。そしたら仕事がなくなって、こっちのほうに仕事があるて友達が言うけんな。「それだったら行こうか」て言うて来たっですよ。
今の爺ちゃん(夫・繁氏)と話しもしたことなかったばってん、それが出会いでですね。うちは兄弟が多かったもんやけん、親代わり、母ちゃん代わり、姉ちゃん代わりでですね、小さか時から苦労しとるもんやけんですね。
弘津 会社に一時行っとったんですか?
盛下 今でいう土方ちゅうところ。「歳の掛かっとらんけん、仕事に使うことはならんばってん、お茶沸かしに手伝いにおいで」ていわれて何回か行ったですよ。
弘津 建設会社に。
盛下 それから私たちは学校に行っとらん。小学校も六年行くか行かんうちに切り上げてから。兄弟が多かったもんやけん、口減らしで。終戦から二年くらい中学校てなかったっですよ。私たちより二級くらい下から新制中学て流行ったですよ。私たちは袋学校卒だけん。私は下に六人も七人も兄弟のおったし、親が弱かったけん、出水に何ヶ月か奉公に行たですよ。秋の時期に子守に来てくれんかって。それから戻って我が家の手伝いしてな。
![]() |
| 盛下さんの庭先に干してあった大根 |
盛下 私は(小学校)三年生ぐらいから沖に網に行きよったっですよ。今こっちで改良網て言う網。百間港のあるところ、あすこらへんは漁場やったっですよ。櫓ば三本も四本も仕立ててですね。櫓を漕いで網ばやりよったっで。あすこん陸さん引き付けよったっですよ。 百間港とか、明神の鼻で地引とかやりよったですもん。私たちが三年生頃から行くときは、(海)底がブワブワブワブワ、それが水俣病のあんなん(原因になったメチル水銀を含んだヘドロ)じゃなかったっですかね。海にこのくらい(胸のあたりまで)浸かっとって地引網ば引くでしょ。脚はいつも動かしとらんと、底さんぬかって(沈み込んで)いくとです。底なし沼やけんですね。ズブズブズブズブやってから。そっで「脚は動かしとれ、脚は動かしとれ」て年寄りの爺さんたちが言わすとですよ。裸足で入るでしょう? ズブズブズブズブ、力入れるなら底さん入りよったっですよ、あすこらへんは。「ほらほら、首まで浸かったがな、ほら」って伝馬船の上から引き上げてくれよらした。
弘津 いわばヘドロですたいね。
盛下 ヘドロと思うとったっですよ。
弘津 その時ていうと、戦争前でしょう。盛下さんが小学校だったら。
盛下 戦争の、まだひどくならんうちやな。私達は小さいか時から魚は食べよったっですよ。ずーっと。爺ちゃんお父さんが網行きよったけんですね。
![]() |
| 御所浦 横浦島の恵比寿さん |
弘津 子守やお茶沸かしの他は漁の手伝い? 家は漁師?
盛下 お父さんは網の親方のところに行きよったっです。私たちが小まか頃、網行く頃はあがん湯堂(の港)は埋まっとらんだったっですよ。ずーっと海岸だったっですよ。あすこで私たちは泳ぎよったっです。うちはここに来てもう五〇年になるけん、湯堂(の様子)も変わって、わからんもんな。
弘津 その親方は鮎子がわいたときに獲っとった人ですね。
盛下 そうそう。鮎子獲りに八代、球磨川から車で積みに来よったっですよ。湯堂から茂道ば真向かいに見たところ、うちたちはソンターって言いよったっですよ、昔は。そこで地引で引いた鮎子ば型枠に活かしとって、トラックば止めてバケツで運搬ですよ。子どもやったけん早かっですよ。年寄りが一回行くところば三回どんするけんな。
誉められて誉められて、五・六人の子どもが気張ってして。親方のまんぺいさんが「気張ってくれたけん」ちてお金くられす時は、年寄りは余計もらうごたっじゃなかですか。子どもに多くやれば年寄りが「子どもにやってくれた!!」て言わっとですよ。ばってん子どもは「あんた達が一回するときはおる達は三回する」て言おうごたっですよ。「生ものじゃけん早うせんば死んでしまう」ていうてから、八代の球磨川さん持って行ってから活かしよったっですよ。(構成 川部岬)
(聞き取り二〇〇四年一二月一日弘津敏男ほか三名。話の続きは『豊饒の浜辺から第四集』に掲載。)
![]() |
| シンポジウム。テーブルには杉本、嘉田、吉井さん |
![]() |
| ほっとはうすのお二人。10代の発言 坂本七海さん始まりはゆっくりと |
![]() |
| 30周年交流会。嘉田、富樫、松崎、山下さん |
「これからの水俣を語る」と題したシンポジウムは、話の引き出し役として、水俣との関わりが深い京都精華大学の嘉田由紀子さん、話し手として、茂道の漁師の杉本肇さん、久木野の作家であり農林業の吉井惠璃子さん、市内でガソリンスタンドを経営している小柳泰祐さん、進行役を相思社の遠藤邦夫が務めた。
まずは一人一人、自分が生まれ育った水俣や芦北での暮らしを語る長めの自己紹介から始まった。相思社がおこなうシンポということで「水俣病」を期待して来た方には、「ん?」という始まりだったかも知れない。話し手は全て四〇歳代、水俣病の歴史では第二世代であり、相思社がつきあい始めたのも九〇年代からの人たちである。
この間、相思社ではしばしば「分かりやすい」活動が必要だという話が出ていた。しかし、三〇年の経緯を振り返るとき、相思社は「分かりやすさ」を捨て「分かりにくさ」を選択してきたのではなかったか。それは、社会の根本的課題に立ち向かい、「もう一つのこの世」という原点に戻ることでもあった。求められている「分かりやすさ」は、活動内容ではなくその表現の仕方なのだろう。シンポジウムでは「水俣病の教訓、教訓と宣教師のように言う人がおらんといかん、そして伝えるのは世界へ、若い世代へ」という意見もいただいた。 (神沢聡)
![]() |
|
| お決まりの集合写真 カメラマンの二人は映っていない。残念! |
|
![]() |
|
| 柳田耕一の演説。あいかわらず 行動派のヤナさん。話も抜群に面白い |
|
![]() |
![]() |
| 現職紹介。自己紹介は面倒! ということで、グループ別に紹介。 まずは現職から |
伝説の社長。在職中は「社長」と 呼ばれていた。 いまだに存在感は頭抜けていた |
相思社職員同窓会が一一月二一日に開かれた。発案者は相思社OBの中村雄幸氏。OBは五二名、現職は七名。三〇年の間には故人となった人もいるし、連絡先がわからなくなっている人もいる。手分けして連絡先を探して参加を呼びかけた。職員ではないが相思社と関わりの深かった人、お世話になった方、数人にも案内を差し上げた。
同窓会に参加したのは二九人。遠く埼玉や石川、神奈川、兵庫県から駆けつけてくれた人もいた。水俣に二〇年住んでいる私にとっても初めて顔を見る人もある。ましてや若い現職にとっては「伝説の人」といった人々もあり、最初はかなり緊張したようだった。とはいえ、「同じ釜の飯」を食ったもの同士、焼酎が入ると和気あいあいと言うか、そこかしこで昔話に花を咲かせ、あるいは「昔取った杵柄」か、傍目にはケンカしてるんじゃないかと思われるような熱っぽい議論が見られた。
飲みつぶれて、そのまま宴会場で寝てしまったものもいる(私もその一人)。相思社の原点に引き戻されるような、夢のような一夜であった。 (弘津敏男)