機関誌ごんずい88

目次
ごんずい88号表紙

特集 : 魚の危険性と安全性を考える

リード 魚の危険性と安全性を考える

「食と健康」報告/坂西卓郎 
滝澤新説「頭髪水銀値200200ppm以下では水俣病は起こらない」検証/遠藤邦夫
リスク論の考え方紹介/遠藤邦夫
「基準は自分で決めなさい」杉本雄・栄子インタビュー

記事

ごんずいインタビュー  石牟礼智
関西訴訟最高裁判決の波紋/弘津敏男    p22
水俣トピックス  正則高校学習旅行/春の交流会/
相思社日誌
ありがとうございます

特集リード 魚の安全性と危険性を考える

 2005年3月、国立水俣病総合研究センター第3回公開セミナー「食と健康」が開催された。そこで滝澤行雄氏(肩書きは水俣市助役、元国水研所長)は、「頭髪水銀値200ppm以下では水俣病は起こらない」「現在の魚介類の水銀暫定基準は低すぎる」「水俣市は100寿者が多い」と発言した。そして滝澤氏は「DHA/EPA(人間の必須脂肪酸)がたくさん入っているマグロを食べましょう」と講演した。
 水俣病に関わってきた水俣病センター相思社としては、見過ごすことはできない発言だった。すでに水俣病患者の緒方正実さんから、自身の頭髪水銀値と親族の水俣病認定状況との矛盾から、公開質問状が出されている。それに対して滝澤氏は「米国の大学の研究グループが米食品医薬品局(FDA)に提出した報告書(1975年)の内容を説明しただけで、私見ではない」と言い訳をしている。
 「ごんずい」29号の仕切網撤去の特集で、魚介類の水銀暫定規制値を取り上げたが、それ以来あまり水銀に関する議論に注目してこなかったので、滝澤発言は良い機会を与えてくれた。各国の水銀規制値やマグロやサメに関するHPを検索したり、水銀分析の世界的第一人者赤木洋勝さんを訪ねたり、ずいぶん勉強させてもらった。日本の厚労省も、妊婦や子どもへの影響を再検討して暫定規制値を見直そうとしている。恥ずかしながら告白すれば、水俣病最少発症量が頭髪水銀値50ppmは知っていたが、耐用摂取量は10倍の安全係数をとって、頭髪水銀値5ppmから考えるとは気がついていなかった。米国では頭髪水銀値1ppmを基準とする厳しい提案をする機関もある。
 リスク論的に考えると、今の世の中で年間一万人以上死者を出している車を禁止しようと思う人はほとんどいない。単純に危険性の大きさを比べれば、交通事故の危険性はメチル水銀の比ではない。しかし車使用の利便性が格段に大きいと考えられている。1950年代にはチッソも国も、水俣病の被害に比べればアセトアルデヒドを生産する利益の方が大きい。だから社会的な了解が得られるとだろうと考えていたに違いない。しかしその時代の価値観によって、コトをめぐる危険性と利便性の社会的評価は変化していく。メチル水銀の毒性は変化しないが、新しい調査や研究によって細やかな対応が可能になっていく。そう考えると、滝澤発言は水俣病確認以来の調査・研究の進展を考慮せず、いわば初期水俣病患者だけを水俣病とみなすような固定観念に囚われていると言えよう。

「食と健康」報告 坂西卓郎

 三月二六日、身重の連れ合いと一緒に国立水俣病総合研究センター(以下、国水研)の第三回公開セミナーに出かけた。テーマは「食と健康」「生活と水銀」で、出産を控え胎児への水銀の影響が気になる私たちには特に興味を引くものだった。妊娠してからというもの魚、特に食物連鎖の上位にいる大型魚の摂取にはある程度配慮しながら食べていた。最近、相思社で資料を扱っていてもアメリカから「胎児への水銀の影響によってIQの低下が危惧される」という研究の資料が数件あった。

 最近の研究はどうなっているのだろう? より新しい情報を知りたい、魚がもたらす胎児への影響に関しての正確な情報が知りたい、という気持ちで出かけた。

 しかし、セミナーが始まって驚いた。講師である水俣市助役、元国水総研所長の滝澤氏が語るには、「妊婦、その胎児の悪影響に関する信頼すべき報告がない」「WHOの毛髪水銀五ppmという基準は低すぎる、一〇〇ppmでも問題ない。二〇〇ppm以下では水俣病にはならない。水俣病患者で五〇ppmの人がいたが、(水俣病患者の)平均値はもっと高い」「水銀が与える影響は心配ない、マグロは健康、主に頭にいいのでどんどん食べましょう。」という趣旨の内容だった。特に「マグロの安全性」に関しては、セミナー中何度も繰り返し述べられ、逆にその不自然さが印象に残った。そして結論では「既存のエビデンス(註 ある医学的事実に対する学問的証拠)からは、多くの地域で採取される程度の魚類を妊娠中に食べることにより小児が長じて認知・行動障害を起こすことは無いといえる。現時点では、妊婦が魚の摂取量を通常量から減らす必要ない」と結んだ。水俣に移り住んでから一年、私が見聞きしてきた話と全く違う。その真逆の話に私の頭はしばらく思考が停止するほどの衝撃を受けた。

 もちろん、そんな私の状況などは全く意を介することなく滝澤氏の話は続いた。次第に私の思考が動き始める。確かに医学的根拠に関して、素人の私には根拠となるデータの取り方を疑うことはできても否定することはできない。しかし、個人的に感じたのは、根拠となるデータよりもその解釈の仕方である。例えば「悪影響に関する信頼すべき情報がない」=安全という結論を導き出しているが本当にそうなのだろうか? 実際に五〇ppmで発病した人がいるのに、平均値がそうでないからと言って安全だと言えるのだろうか?

 その後質問コーナーに移ったが、特に会場から質問はでなかった。少しでも頭の混乱を解消したいと思い、質問をしてみた。「滝澤さんのお話は、本日配布された資料の中にある国水研発行の「水銀と健康」(第二版平成一六年三月発行)の六頁にある「母体の水銀濃度には特に注意しましょう」の内容(低濃度のメチル水銀が胎児に及ぼす影響についての注意の呼びかけ)と齟齬をきたすと思うのですが、どちらが信頼できるのでしょうか?」と質問したところ、滝澤氏はきっぱりと「私が正しいです。それを作った際にはまだメチル水銀の研究について不明瞭な部分もあったので、基準を厳しくしていた」という主旨の返答があった。

 滝澤助役の説明が正しいとすると現在、水俣の市役所や保健センター、セミナーの主催である国水総研では間違った情報が広められているということになる。

 このセミナーに参加して私にはあることが思い出された。それはセミナーの数日前に参加した水俣市の主催する両親学級にでかけた時のことだった。その日の両親学級のテーマは、「父親の妊婦体験」と「妊娠中の食事」に関しての話で、食事の栄養バランスについての話をするために栄養士の方が来られていた。多品目をバランス良く取る、太りすぎに注意というような一般的な話があり、牛や豚、野菜のそれぞれの品目についての摂取量についての話に移っていった。例えば牛乳のような栄養価の高いものは多く取りすぎてもダメ。牛乳好きな妻は随分とガッカリしていたが、栄養価が高い=いくら食べても大丈夫ではないらしい。

 そして、もちろん魚の話にもなり、水俣市だからこそ水銀の話もでるのかと思い、期待していたが全く無かった。そこで両親学級終了後に水銀の胎児に与える影響について質問してみたところ「そういう話は聞いていますが、実際のところはどうなんでしょう?」とはっきりとした見解は持っていないようだった。栄養士さんはとても丁寧な方で、私の話にも耳を傾けてくれ、「水銀の影響に関して何か情報があれば教えて下さい」ということだったが、水銀に関しては特に問題視していないようだった。少なくとも牛乳の取りすぎよりは。「水俣市だからこそ水銀の話などは研修を受けたりしないんですか?」と聞いたところ、「水銀に関しては市の助役である滝澤助役から話を聞いている」ということだった。

 今日のセミナーのような内容を水俣市の栄養士向けに話をしているのであれば、その影響は水俣市の色々なところにまでいきわたる。両親学級を通じて広がるようにだ。特に一番影響を受ける危険性のある胎児をもつ妊婦には、水俣病が発生した水俣だからこそ呼びかけをするべきではないだろうか?(今後呼びかけを検討中 水俣市健康推進課)。水俣市は助役に月額六四五,〇〇〇円の給料を払っている(広報みなまた二〇〇五年三月一五日号より)。もちろん私たちの税金だ。今回のセミナーでは水俣市助役、元国水研所長という肩書きで話をされている。そう、水俣市の助役なのだ。当日、環境省国立水俣病総合研究センター「水俣病情報センター」の講堂で、一番前列で話を聞いていたほっとはうすの胎児性水俣病のメンバーを前にして、堂々と語った滝澤氏の水銀の安全性は、なんとも違和感を覚える光景だった。私たちが共有した空間は本当に水俣だったのだろうか。水銀汚染を受けた水俣だからこそ、他の地域よりも基準を厳しくして市民の健康を守り、啓発していく必要があるのではないだろうか。

 実はこのセミナーの日は第二回目の両親学級の日でもあった。妻と話合って今回のセミナーの方が重要度が高いと考え両親学級を欠席した。内容は期待したものとは違ったが、参加して良かったと思う。滝澤助役の真意は測りかねるが、重要なことを学ぶことができた。

 結局は自分で判断するしかないということだ。魚食についてだけではない。今、私たちの周りには安全な食べ物ばかりではない。かといって安全なものばかり選ぶことは難しい。それぞれにリスクがある中で、私たちは選択していくしかない。さしあたっては、小さめの魚を食べながら出産に備えようと思う。マグロは出産後のお楽しみとしたい。

「基準は自分で決めなさい」杉本雄・栄子インタビュー

ずっと魚を食べてきた

雄 我々が食事の一環として魚を食べっとにたい、食欲がなかったり、栄養が足らんかったりすれば魚を食べて元気づけようと。ましてや海産物を中心に食べんと食が進まないちゅう観念から、ずーっと健康食として食べよった品物でしょ。 

栄子 海が目の前にあって、昔から海の魚を食べてきてここまで生きてきている私たちの先祖だろうし、私たちじゃっとですよね。それを食べるなちゅうこつも誰もできんやろうし。私たちは魚を一番食べた時に、一番元気になるじゃないですか。そこらあたりの繋がりちゅうか、魚を疑いなく自分も好むし、今もそこあたりばずっと信じて食べてるし。信じ合っている海と私たち、魚と私たち、ですね。

雄 私が誇りにしっとっとは、お米もやばってんか、第一次産業がなからんば、日本人は食うていきならんということ。お米も魚も絶対的なもんであって、魚は絶対、自然のシステムからはずしちゃならん。人間の基本ですよね、米と魚というのは。

栄子 目の前に海があって、その裏に畑があってっち、そこから生きらんばならんと。銭もうけじゃなくって。そこらあたりから考えれば、何んち言えばよかっじゃろう。父ちゃんが言う、絶対的なものから、私たちは生きるためには、足元ば見て、そして暮らしに入っていってちゅうことになっとだから。そこらあたりば崩した時、外国産ば食べんばんとかい、ということになっとでしょ。

雄 うちはイワシ網だから、イワシをずっと獲っていくでしょ。魚と付き合っていくためには、獲りすぎれば腐らすし、イワシたちに失礼になるし、もったいないしちゅうことで、もうよかばいって、自分である程度のブレーキをかけながら必要なだけ獲って、必要なだけ製品になしてちゅう獲り方をずーっとしてきとるわけですよね。魚もずっと残っていくように考えて獲っていきよっとです。

栄子 幸せちゅうとは腹一杯食べて、笑えればよかわけでしょ。健康な村であって、また人がおって。そこらあたりしか望んでおらんだったですよ。

水俣病の経験を無駄にしない

雄 それが今、ppmちゅうとならば、我々が一番最初「危ないんじゃないかな」という不安を持った時期からちゃんとデータを出して、これくらいならば危ないとか、いいとかちゅうことを言えたならばよかですよね。普通、フラフラ泳いでいる魚なんかを食べたら危ないという認識から、ほとんど漁師の人たちは元気のいい魚を食べたんですよね。それで、わからずして水俣病は広がっていったんですよ。元気のいい魚も危ないということはある部分の人たちは知っていたはずですよ。それをなぜ早く止めなかったか。

 県が二ヶ月に一回ぐらいずっと水俣湾の魚を調べとるでしょう。やっぱりそれにはいっつも神経とがらせとるな。もし水銀濃度の高かとがまた出ればどげんしようかっち。そこら辺をずーっと心配しっとっと。

 ガラカブの水銀が他の魚より高かったけれど、それは水銀がある魚をずーっと食いあさって濃度が上がったのか、あるいは(水俣湾埋立地の)シートが破れて水銀が漏れているのか心配するわけです。水銀の汚染を経験したもんで、ものすごく敏感になっとっとですよ、漁師は。こういう状態の時は何だろうかちゅうて、すぐ原因まで自分で一所懸命考えっとです。せっかくこげん神経を使うようになって海がよくなったんだから、またこれを二度も三度も汚染しないようにせんとですね。そこら辺ばもうちょっと考えておかんば。

自分の基準を作る

雄 危ないと思う魚はもちろん食べんかもしれんばってん、魚に対しても失礼じゃし。結局、その魚を食べる食べんの問題で行けば、水銀の入っている入っていないを知らんばいかんし。そして、その結果まで、どういう風になるちゅうところまで自分で納得してから食べるし。でも、その前にもちろんその魚が汚染されているか、されていないかちゅうことを考える時には、どういう原因で汚染されたかちゅうところまでいかんことには、売りもでけんし、自分が食べることもできんち思う。

 国の基準がどうのこうのではなくて、あなたが食べていいんじゃないかなと思う基準は自分で決めなさいとしか言いようがないです。食べる人はそれでいい。生産者、獲る人は早く原因を追及しなきゃいかんし、いかにして育てていくかという風に持って行かんといかん。卵を孵化させて放流してって、あれを陸でせずに海でできるような、海の藻場ももちろん必要やばってん、海の海岸、はまんこらをそういう稚魚が育つところに戻さんばんとです。努力せんばいかんち思うとですよ。

 (聞き手・構成 小里アリサ)

ごんずいインタビュー  石牟礼智

チッソ電設係の頃

石牟禮 チッソのボーイちゅうのを、最初の二年間していました。今で言えばメッセンジャーちゅうんですか。書類をあそこの係に持って行ったり、課長の家へ弁当取りに行くとか、小使いですよね。それから現場に配属になるわけです。その頃、工場の中に工学校ちゅうのがありました。

神沢 ボーイをしながら工学校で勉強をしたんですか?

石牟禮 そうです。午後四時まで勤めた後、学校に行くんですね。中学校二年から入っている人がほとんどですから、中学三年の普通の数学とか英語とかの勉強でしたよね。

 丸二年のボーイを終わって、一九五〇年四月から電設課の電設係に配属になったわけです。そこに電気養成所ちゅうのがあって、ボーイ上がり九人は午前中に学科、午後から実習なんですよ。実習は現場に出て線をつないだりとか、あの頃今の電気溶接じゃなくてガス溶接です。線を張ったりするのに、今みたいにできあがった線をナットで締めるのじゃないんです。ブラケットなんかも全部設計して、「こういうの作って下さい」「これ溶接して下さい」っちして、碍子を取り付けて線を張りよったんです。パイプなんかも溶接屋さんは行って溶接するだけです。ガスとか機械とかは、私たちが担いで屋上まで登っていたんですよ。そういう現場の作業を一年間しました。

神沢 午前中学科というのは?

石牟禮 今度は電気の専門科目です。その頃はもうとにかく生活が苦しかったときでしたから、チッソに入るっちゅうことは並大抵のことじゃない。そら、私が入ったときは、いろいろ言われもしましたけどね。羨ましがられるっち言うんですか、「チッソに入るちゅうことは、何においてもよかったねえ」ちゅうて。

高嶋 採用試験というのはどういうような?

石牟禮 今の第二小学校の二階を六教室中学校が間借りしていて、採用試験はそこでやったんですよ。

高嶋 六教室全部というとものすごい人数ですね。

石牟禮 あの頃は、四〇何人ぐらい採用ですから、受けたのは三〇〇人近くじゃなかったでしたかね。

神沢 狭き門を入ったわけですね。電気養成所を修了されて発電所に配属でしたね。

 

中村揚水場
中村揚水場

石牟禮 そうです。電気養成所を出た三人がですね、七月か八月じゃなかったろうかと思うんですけどね。内谷の発電所は、肥薩線の坂本村の手前に段っていう駅があります。その駅のそばに、山から鉄管が下りているんです。あそこが内谷の第二発電所で、その上に第一発電所があるんです。落差が五〇〇メートルぐらいかな。第一発電所でいっぺん使った水を流して、二度使ってるんですね。その第二期工事に行ったんです。第一期工事では土堰堤を作っていたのが、台風かなんかで水があふれて流されてしまったんです。だから、もうダムは作らないよということで、流れ込み式といって小さい谷から水を取り集めて流し込んでるんです。今行くなら宮原から大通峠って越えて、下りたところに中村揚水所ちゅうのがあって、そこから下からの水を汲み上げて、送ってるところがあるんです。その二期工事でした。

 その頃は今みたいに機械化されてないから、削岩機で穴掘って発破かけてボーンとやるようでしたからね。大林組、西松とか鹿島が入ってました。それで工事現場ちゅうのは、にぎわいよったですね。私たちはチッソの寮がありました。

神沢 もっぱら発電所の建設工事だったんですか?

石牟禮 私たちは電気ですから、六万ボルトでやってきた電気を三〇〇〇ボルトにして、現場まで電気を送っているわけですよね。その保守管理なんです。

神沢 建設工事の電気設備ですね。

石牟禮 はい。現場で建設工事する人たちというのは、鹿島とか大林組、そういう人たちはまた別におるんです。おおもとの電気を持って行って、変圧器の所まで送る仕事です。だから、半年間とか一年で終わる所もあるもんだから、立ち木に穴をほがして腕木をボルトで付けて電気を送ってます。そうすっと、夜中に蛇やモマ(ムササビ)っち、今でこそいませんが、あれなんか飛んできて電気が止まる。電気が止まると工事現場は作業ができなくなるから、一分止めればいくらっちゅう、チッソが賠償金払わんばいかんわけですよね。だから、夜中にでも、懐中電灯を持って行って作業している。そういうのを昭和三一年まで、五年間おったですね。

 だけど、おもしろかったですよ。そこには駐在巡査がおったんですよね。組が入っとって博打だとか遊郭あったりするもんだから、喧嘩が弾んだりするもんだからですね。その頃はドブロクっていうのは、山に作ってあるんですよ。萱でなんかかぶせたふうにしてあるけんて、一升瓶を数本ばっかり持たせて「これに汲んで来い」っちて年配の人が、私たちに汲ませるわけですよね。密造酒だけん、盗られても文句は言われないもんだから。駐在巡査も遊びに来とって、一緒に飲むとですから。その人たちは密造酒を取り締まるとかじゃなくて、喧嘩とかなんとかを取り締まるちゅうもんだから。

神沢 その後は水俣工場の送電課ですね。

石牟禮 そうですね。それで、発電所から工場まで電気を持ってきてる送電線というのがあります。ああいう鉄塔を作ったりとか、地図書いたりしました。新しく線を引いたりするときは測量して、二万五千分の一の地図を拡大した紙に、測量したのを入れ込んでいく仕事をしていた。

神沢 あんまり現場に出て行くことがなくなったんですか?

石牟禮 そうです、事務所勤務でした。だけど、工事をするときには行ってましたよね。たまに鉄塔に登ったりしましたけど、三〇メートルもいくらもあると、ひょこっと登ったら三〇分くらい仕事できませんから、がたがた震うてですね。そん頃は今みたいに足場が良くないんですよ。丸太を持っていって突き刺しとって、針金でこうして吊っとってするから、サーカスみたいな形で仕事をやってました。

神沢 安全ということもあんまり重視されていない時代ですものね。

石牟禮 胴綱(いのち綱)も、麻縄で自分で作りよったですから。今はぱっと引っかけられますけど、あの頃はこうして身体に回して縛っていました。たまに何人も登ってしとっときには、人の綱をほどいてくれたりして落ちたりもしてましたね。

一九六二年安定賃金闘争の頃

神沢 その後、守山工場にオルグに行ったんですか?

石牟禮 昭和三五年、三池闘争と六〇年安保なんですよね。安保で東京に、国会請願に行く途中に、同級生の青年婦人部長が「休みはどしことったかい」、で私が「『休みは十分とってよかぞ』ち課長が言わしたけん」と答えると、「なら、とにかく帰りに守山工場に降りろ」「いま大変な時やで、守山に降りて手伝え」っちいうことで守山工場に行きました。

 守山工場というのは、あの頃ポリプロだとかいろいろ化学繊維を作っていた繊維工場なんです。水俣から女の子たちがたくさん行ってるもんだから、「その子たちに第二組合に行かんごて話ばせろ」と。で、休みっちゅうて東京見物じゃなくて守山で労働争議におるぞと、すぐ水俣に連絡が来てるもんだから、帰って来たらすぐ現場に追ん出されたんですよね。

神沢 水俣では、安賃闘争で組合が分裂させられたのが昭和三七年ですかね。

石牟禮 水俣では七月の二二日ですかね、ロックアウトがあってそれからですからね、分裂したのは。

神沢 組合の分裂で水俣の町が二分されてと、いろんな話を聞きます。

石牟禮 会社(チッソ)が四月ごろ、安定賃金なるものを出してきているわけですね。ストライキを打たない代わりにこれだけ出しますよ、というような形で。これは「絶対反対だ」ということで、長期化するかもしれないということで、地域の組織作りをしました。地区での拠点づくりをするのに、拠点づくりの名簿作りを合化労連の書記長と何人かの中央執行委員が来て、それと地元は私と三人くらいだったかな。

 そのさなかにロックアウトでした。ロックアウトになって、工場の中に入っている人が出られんちことで、なんとか残っとるもんば外に出さんといかん。また三池からバス一〇何台かで来るけん、その食事を準備せろっち書記長から言われて。パン屋ちパン屋を廻ったけどないんですよねえ。七月といえば夏休みでしょう。学校給食もなくなって作ってないんですよ。うーん、これは困ったとなって、「どげんしても駄目ばい」ということで、「これはもう、主婦の会員に炊き出しば頼んで下さい」ちゅって、それで主婦の会員に炊き出しを頼みに行ったんですよね。

 そしてあんまり殺気立って殺伐としとるけん、「こぉら、駄目ばい」てわけで、盆踊りをしました。第二小学校のグランドに、やぐらを鳶の人たちを集めて組んでもらって、ヤッケ姿にヘルメットかぶって盆踊りをやったりですね。

 それとオルグって来ますよね。学校の先生とか電報電話局とか三池炭鉱とか来らすでしょう。で、「学校の先生たちが来たなら、正門やら裏門のピケに行くより子どもの面倒見てもらう方がよかぞ」と。ロックアウトになってC号動員といって、もう全員招集なんですよね。お父さんも出てきてる、お母さんも出てきてる。そうすると子どもたちはそのまま放たってあるけん、拠点とかそういうところを使って「寺子屋ばやろい」と私が「学校の先生たちが子どもの勉強ば見てくれ」って言いました。

神沢 総力戦ですね。全体で暮らしを支えていかないといけない。

石牟禮 はい。だから、私たちは組合に寝泊まりして家にはほとんど帰ってきませんでしたからね。朝昼晩、炊き出しのご飯を食べていました。

(石牟礼智さんの聞き取り全文は、『豊饒の浜辺』第4集に掲載されます)

聞き取り 神沢聡・高嶋由紀子  編集・構成 遠藤邦夫


(2005年5月25日発行)

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