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| 水俣病犠牲者慰霊式 5月1日水俣病公式確認の日 |
今は死ねない 小原佐智子
堂々と生きたい 川田悦子
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職員日記番外アイルランド印象記/遠藤邦夫
相思社日誌 ありがとうございます
水俣病で多くのいのちが奪われた。老練な漁師たち、家族の中の男・女・大人・子どもたち、おじいさん・おばあさん・お父さん・お母さん・兄弟姉妹、近所の人たち、学校の友だち。メチル水銀は突然にも長い時間をかけても、不知火海沿岸の人々のいのちをむしばみ奪い取っていった。水俣病事件に関わった水俣病患者やその家族たちは、自身の水俣病よりも家族・親族の水俣病被害を重く受け止めてきた。人々のいのちを考える回路は、他者のいのちを経由して自分のいのちにたどり着くように思われる。
村の人が拝んでいる社の石に、福沢諭吉がおしっこをかけて「罰などあたらなかった」逸話に納得したのは、たしか1960年代だった。「『死んだら何もなくなる』という考えが人間を不幸にしている」(『極楽に行く人地獄に行く人』智恵の森文庫)と水木しげるさんは語っている。死や見えないモノを文化として受けとることを拒否した代償に、私たちは唯物論的には満ち足りた暮らしを手に入れた。しかし一方では、お金のため、宗教の名によって、むかつく、目立ちたい、正義のため、種々さまざまな理由でかけがえのないいのちが奪われている。その現状に対して、 なすすべのない私たちがいる。
「されば、朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり…されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、誰の人も、はやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深くたのみまいらせて、念仏申すべきものなり。」(蓮如上人)は、有名な言葉だ。いのちの対極として死があるのではなく、いのちのあり方が死のあり方に他ならない。理不尽な死や非業な死があふれる世界は、理不尽な生や非業の生があふれている世界である。
それを一挙に変えることはおぼつかないとするならば、せめてその現実をまなこを開いて見続けたい。
小原佐智子(おばらさちこ)
1964年 佐賀市に生まれる
1993年 骨髄バンクに登録
2001年 水俣市久木野に移住、愛林館に勤める。
半年後、越小場の一軒家に住まいを移す
2005年5月 ドナーとして骨髄を提供
高嶋 水俣に移り住んだきっかけは何ですか。
小原 もともと自然が好きで山歩きや土いじりが趣味だったのだけど、三十歳くらいから森林ボランティア活動の世界に入っていって、山仕事が趣味のようになっていたの。三十五歳を過ぎたある日「私って、もしかしてずっと結婚しないかも」とふと思って、そのときに「私はいつかは辞める前提でOLを続けていたんだ」ということに気がついたのね。
それだったら今やりたいことをやってみようかとか考えている時期に愛林館に遊びに来て、車を下りた瞬間に「あっ、ここの風好きだ」って思って。でもそのときには「ここに住もう」とまでは考えていなかったけどね。そのころは仕事も辞めていたので、それからちょこちょこ遊びに来るようになって、とうとう移り住んじゃった。田舎に移り住んだ当初は山仕事に関わりたいという想いが強かったけど、女独りでは無理だということもわかったし、畑仕事もやりだしたら楽しくて、今は半農半業の生活に満足してる。
高嶋 お母さんの反対は?
小原 来るときは反対しなかったのよ。愛林館に来る半年前に、仕事のストレスで自律神経失調症になって、ほとんど笑わない状態になっていた時期があったの。それが愛林館に遊びに行くようになってからは、前のように元気に笑うようになったから、親は私が元気になってくれたらそれでいいって思ってたみたい。でもまた最近は戻って来いとうるさいけど。
高嶋 前の職場はそんなにきつかったわけですね。
小原 きつかったね。長く勤めてた会社を辞めて中途で入ったんだけど、勤めて三ヶ月ぐらいで体調を崩してね。半年経ったころからは病院に通いながら仕事に行っている状態で。そのころは今よりずっと収入は多かったけど、医療費で出て行くお金が多くてね。それで、収入が少なくても健康でいればいいんだと思って今の生活を選んだけど、さすがに暮らしていけないというのはある。日々の生活はなんとかなるけど、車検だとか、入院だとか、友達の結婚式とかは大変だよね。
高嶋 今は総合医療センターで働いて、帰ってきてから農業ということですね。
小原 前は三時半に帰ってきて平日も農作業をしてたんだけど、今は以前ほど体力がないし、五時まで働く日も多いので土日しかできない。農業で副収入を得るって言ってもそう簡単ではないよね。
高嶋 農産物は主に自給のためですか。
小原 そう。あとは職場で配ってる。売ればいいのにって言う人もいるけど、お金に換えるのはとても難しいことだと思う。それよりタダであげる方が、こっちも責任がないし、人によっては砂糖をくれたり油をくれたりして返してくれるし。その方が売るよりずっと割りが良かったりするから、これでいいかな(笑い)
高嶋 確かに田舎にいると思ったよりお金がかからないですね。
小原 去年の冬のことなんだけど、ちゃんとした七草粥を作ろうと思って、近所に草摘みに行ったの。そのとき雪が降ってたんだけど、コオニタビラコ(ほとけのざ)がなかなか見つからなくて一生懸命探してたのよ。きっとその様子を誰かが見てて、「この雪の中、あの子は道の草ば摘みよる」って思ったんでしょうね。やっと摘み終わって帰ってきたら、今畑から収穫したばかりのような土がついたままのにんじんが、玄関にドサドサっと山のように置いてあって、でも誰が持ってきてくれたのかわからないの。その話を職場の人にしたら「まるで笠地蔵の話のようだね」って。
高嶋 骨髄バンクに登録したのはいつ頃ですか?
小原 一九九三年の七月、骨髄バンクができて間もないころかな。
高嶋 骨髄バンクを知ったのは?
小原 よく覚えていないんだけどまず外国のを知ったんだと思う。もともとそういうことに関心があったので、献腎や献眼は若いころから登録してて、外国の骨髄バンクを知ったときに日本にもできたら絶対登録しようと決めていたの。よく「登録したきっかけは?」と聞かれるんだけど、たとえば身近な人が病気になったとか、そういうのは全然ないのよ。ただ自分にできることは何でもしようと思ってたから登録したという感じかな。
高嶋 今回の骨髄提供の前にも一度適合通知(※)が来たわけですね。
小原 そのときは二次検査まで受けたけど、コーディネートは途中で中止になったの。でも、今度は適合通知のピンクの封筒を手にした時に「今度は提供する」って思った。私、時々勘が働くのよね。それで、普通は最終選考でドナーに選ばれてから身内の承諾(※)をとるものだと思うけど、私はうちの親が反対するだろうという予測はしていたので、最終候補に決まってから説得していては間に合わないと思ったから、最初に適合連絡が来た時点で説得を始めたの。実家までの片道二時間の道のりを毎週末帰って、じわじわと説得してた。親の説得に要した期間が三ヶ月、最終候補に決まった時にはほとんど親の説得は終えていたので、最終同意(※)まではすんなり行ったの。
高嶋 同意書にサインをする時どういう気持ちでしたか。
小原 今後は私に何かあったら、移植を待っている患者さんの命も危ないという状態になっていくわけでしょう。同意書にサインした後からは、ああ気をつけないと、とは思ったよね。私は自分の意志で生きているのではなく、運命によって生かされているのだと思っているから、生きるということに強く執着してなかったの。だから事故とか災害とかで死に直面したら、たぶんすんなり死を受け入れるだろうな、死にたくないとは思わないだろうなとは思ってた。
最終同意から後、生まれて初めてね、今は死ねないって思ったの。自分だけの命じゃないからね。そういう気持ちを持つこともたまには大切だなって思った。
体調管理にしても、日頃から運命に身を任せるという生き方で、試験や大会などこれが本番っていうときでも、なるようになるさと思っているから、その日までに体調を崩していけないというプレッシャーを感じたことがなくて、そういう感覚も今回が初めてだった。
だから今回の骨髄提供は、私にとっていろんな経験をさせてくれたと思う。最初、コーディネーターに「普通に生活していいですよ」って言われたので、普通に畑仕事をしていたらひどい内出血を起こしてしまって、これはイカンというわけで、それからはやっぱり日々気をつけて生活しなきゃいけないと思ったの。もし、出血がひどくなっていたら、採取にも影響があっただろうからね。畑仕事は普通の生活に入らないのかぁって思った(笑い)。
高嶋 相手方のことは全く教えてくれないわけですね。
小原 うん。よく「提供した相手のことを教えてもらえなくて平気なの?」と聞かれるけど、私に限らず骨髄ドナーになる人は相手に対してそんなに執着はしないと思う。もちろん相手のことや術後の経過など、教えてもらえるのなら知りたいという気持ちはある。でもそういう情報は全く教えてもらえないということを了承したうえでドナーになったのだから、それはしかたないよね。相手のことを知りたいと強く願うのは、顔が見える人には優しくするけど、見えない遠くの人のことはあまり気にならないとか、被害者に日本人がいなくてほっとするような、そういう感覚と似てるような気がする。身内という境界線をどこで区切るかは人それぞれで、自分の血族で区切る人もいるし、地域で区切る人もいると思う。私は自分という存在は、地球という一つの生命体の中の細胞の一つだという感覚でいるから、そういう境界線がないのよ。それは人間に対してだけじゃなく、動植物や水などすべてに対して。
ボランティアというのは特別なことではなくて、自分が今できることで大して苦じゃないことならしたいと思ってる。私にとって骨髄ドナーになることは、苦もなくできることだったから気軽にやっただけのことなの。ボランティアを仰々しくとらえている人でも、家族とか友人のためならできるはずで、その身内という境界線をもう少し広げられたらと思うんだよね。
(インタビュー・編集 高嶋由紀子)
※適合通知……ドナー登録者のHLA(ヒト白血球抗原)と適合する患者さんが見つかったという通知。ピンクの大型封筒で送られてくる。ちなみに二六万人の登録者のうち適合通知を受け取ったドナー登録者は延べ約七万七〇〇〇人(約二九.六%)で、最終的に提供をした延べ人数は六三三九人(二.四%)。
※身内の承諾……骨髄提供の最終同意には、本人だけではなく家族(未婚の場合は親、既婚の場合は配偶者)の同意も必要である。最終同意の後、家族の強い反対でドナーが同意を撤回すれば、移植を待つ患者は致命的な状況に陥る。
※最終同意……最終同意後、患者は移植準備のため致死量を超える抗がん剤の投与と放射線照射を受け、造血機能を失う。この時点で骨髄移植を受けられなくなると患者の生命に直接関わるため、最終同意書に署名・捺印後の撤回はできない。
(参考ウェブサイト:骨髄移植推進財団 http://www.jmdp.or.jp/)
川田悦子(かわたえつこ)
福島県生まれ。薬害エイズ裁判の原告に加わり次男龍平とともに裁判の運動の先頭に。1997年、『人権アクティビストの会」を結成。2000年、衆議院議員東京21区の補欠選挙に無所属で当選。人権問題や医療問題にとりくむ。
現在、長野県富士見町に在住し、畑を耕しながら講演活動を展開。
著書に『龍平の未来』(講談社/1995年)他
私には二人の息子がいます。一九七六年に生まれた下の息子、龍平は血友病です。治療に使った輸入の非加熱濃縮血液製剤でHIVに感染させられました。非加熱血液製剤が日本に大量に入ってきたのは、ベトナム戦争後にアメリカで血液製剤がだぶつき、世界各国に輸出するようになったからです。それまで日本は国内献血でまかなっていたのです。
アメリカで血液製剤が危険だと騒がれたとき不安になりました。でも医師も厚生省も「大丈夫だ」と繰り返すだけでした。アメリカの情報を入手し、騒いでいた少数の血友病患者は過激派だとかノイローゼ扱いされる状況でした。私は専門家である医師を信じました。当時、血液製剤の補充療法が自宅でできるようになり、同時に予防的投与をすれば普通の人と変わらない生活ができると、「大量使用」を勧める治療が始まっていました。私はそんなやり方をしませんでしたが、足首関節の内出血を繰り返す龍平はかなりの量の製剤を投与されました。
一九八六年、龍平が小学校四年のときに主治医からHIV感染の事実を知らされました。それまで親切だった医師の態度は変わり、龍平の体調が悪くなっても、「肝炎は治らない」と冷たく言い放すだけでした。
マスコミも恐怖感を植えつけるエイズ報道を繰り返し、差別や偏見は急速に広がっていきました。私は胸のうちを誰にも打ち明けることができず、ひとりになると泣いてばかりいました。
龍平の体調が悪くなり始めた頃、周りの友人も発病し始めました。私は血友病の子どもを持った二人の母親と東大医科研付属病院(医科研)にエイズ治療の依頼に行きました。多くの親たちは、主治医に気兼ねして、医療機関を探すことをためらっていたのです。医科研でエイズ治療がスタートすると、すぐに龍平をつれて行きました。子どもの患者第一号でした。成人患者は自分の判断で来ていましたが、子どもは来ていませんでした。子どもは自ら情報を集め、病院を選択することはできないからです。残念ながら龍平の友人はその母親が主治医に遠慮していたため、最善の治療を受けさせることができず、まもなく発病し中学生で亡くなってしまいました。
龍平を医科研に連れて行った翌日、感染の事実を本人に打ち明けました。小さな子どもに話すことが本当にいいことかどうか悩んだ末の判断でした。エイズは慢性の感染症です。自分の命を守るための自己管理と他人に感染させない配慮を本人がおこなっていくことはたいせつだと考え、思い切って話したのです。
「残念だけどあなたの体の中にエイズウイルスが入ってしまった。でも発病しなければずっと生きつづけることができるから頑張ろうね」と。
すると龍平は、「僕、エイズになったら自殺する。もうこれ以上苦しみたくない」と言ったのです。ショックでした。やはりこんな小さな子に話すのは早すぎたと、後悔の念が一瞬こみあげました。龍平、一〇歳。私は三〇代半ばでした。私はそれまで喜びや哀しみを味わってきましたが、その中でも青春時代は、とりわけ素晴らしい時代だったと思っていました。自分の才能に不安を抱きながらも、希望に溢れていました。そして人を好きになったときのあの胸のときめき。あの素晴らしい様々な思いを味わうことなく、龍平が子どものまま死んでいってしまうなんて嫌だと思いました。私はそのとき、龍平には何としても青春時代を生きてほしいと思いました。
龍平に話をした直後、日本はエイズパニックに陥りました。「神戸で初めて日本の女性エイズ患者」と報道されました。女性は売春していたという間違ったニュースが流されました。翌月は高知県で妊婦がHIVに感染していて、その女性に感染させたのは血友病患者であると報じられました。マスコミは感染者や血友病患者を犯罪者のように描きだし、行政はパニックを利用して法制化に動き出しました。一人の人権、一人の命よりも、国家を守ることが大事だという社会防衛的発想に基づいた動きは国会議員にまで広がり、ライ予防法を下敷きにした人権侵害の法案が出されました。私たちは凄まじい差別・偏見の中で法案反対運動を始めたのでした。
ところが、製薬企業は患者会に数百万というお金を寄付してきました。厚生省も法律から血友病患者だけは除外するという修正案を出してきました。結果、残念ながら患者会は分裂しました。厚生省、製薬企業は患者をバラバラにし、国会では法案は成立しました。エイズを取り締まる法律ができたのです。先進国では日本だけでした。
その後、被害者は国と製薬会社を相手に裁判を始めました。でも裁判に積極的だった私はすぐに原告になりませんでした。龍平が人間への不信と怒りだけで成長していったならどんな人間になっていくのか不安だったからです。
龍平は小学校六年の時に学校でいじめにあい、心の底から笑うことのできない状態でした。いつも死への不安と差別がありました。それでも龍平はつらい発症予防の治療を小学校六年の時から始め、「今を生きよう」と必死でした。私たち家族も「充実した時間を過ごしてほしい」と願っていました。でも次第に「なぜ自分だけがこんな理不尽な目にあわなければならないのか」「どうせ長く生きられないなら、何をやっても無駄」と、投げやりで刹那的になっていきました。そんな龍平の生活ぶりは私の生き方そのものを問いただすものでした。
私は龍平の命、尊厳を守り抜いていこうと思っていました。でも私は本当にそうしているのだろうか、いったい今何をやっているのだろうか、と思ったのです。こんなにむごいことをされても、息子が隠れるようにして死んでいくのを、私は漫然と見ていていいいのだろうか。親にできることは何だろうかと考えました。
私はようやく裁判の原告になることを決心しました。裁判を取りくむ中で多くの人々にこの事実を知らせ、人間の尊厳を取り戻していきたいと思ったのです。
原告になってまもなく横浜で国際エイズ会議が開かれました。この会議は龍平に大きな変化をもたらしました。
「ノーモア・サイレンス!もう黙っているのはやめよう。血友病患者は連帯して闘おう」と、世界の被害者が名前も顔も出して呼びかけていたのです。龍平は大きな衝撃を受け、「名前や顔を出して裁判を闘いたい」と決心したのです。
血友病という病気に加えてHIV感染と、次々に可能性を狭められていく中でも、前向きに生きていこうという龍平の強い意志を私は感じました。
一九九五年三月六日、龍平はマスコミの前に出て行きました。たいへんな反響でした。自殺を図ったという数人から手紙が届きました。
「龍平君を知って、これから自分の命を大事にして生きていこうと思った」という手紙でした。薬害エイズを多くの人々に知らせたいという行為が、その人の命を救うきっかけになったことを知り、実名公表して良かったと思いました。
公表して二ヶ月後、環境省の前で年老いた水俣病患者さんが座り込みをしているところで龍平は訴えを行ないました。
「公務員の皆さん、みなさんは何のために働いているのですか。お金のためですか。上司のためですか。人はいったい何のために働くのでしょうか。何のために生きるのでしょうか」
それまで人前で涙を見せなかった龍平が大粒の涙を流しました。私も涙をこらえることができませんでした。そのとき一人ひとりの生き方が問われていると思いました。
日本で水俣病を始めとするさまざまな公害が発生し、薬害も繰り返されてきました。その原因は、「命」や「自然環境」よりも、「お金」や「経済成長」が大事だという論理が蔓延していたからです。情報は操作され、責任は曖昧にされ、被害者への差別や偏見が作られ、事件は繰り返されました。
薬害エイズの裁判が始まったとき、ある母親が「この子の恨みを晴らしたい」といいました。その言葉を聞いたとき、胸が締め付けられました。
被害者が加害者に怒りや憎しみを抱くには当然です。でも憎しみや怒りの中で子どもを育てていくのは辛いです。人が信じられなくなったとき、人は絶望します。生きることが困難になります。
薬害の被害にあって私が強く感じたのは、どんなに貧しくても、互いに信頼しあい、助け合い、命を守りあうとき、慈しみが生まれ、希望が生まれてくるということです。
龍平は一九歳のときこう語りました。
「僕は感染して不幸だけど、様々な人に出会えて、不幸だけど幸せという不思議な気持ちです。僕は二度とこのような悲惨な事件を繰り返えさせない社会にしていきたい」と。この言葉を聞いたとき、私は胸が張り裂けそうでした。
「堂々と生きたい」と歩みだしたとき、龍平は人を信じていこうという希望を持ったのです。
生あるものは死を迎えます。私も必ず死を迎えます。でも、死ぬことと殺されることは別です。私たちは「殺すこと」「殺されること」を許してなりません。とりわけ小さな子どもの命が奪われることを。なのに、経済優先の人間たちは小さな子どもたちの命を平気で奪っています。アメリカのグローバル経済は、世界中のあちこちで小さき子どもたちの命と尊厳を傷つけています。人々の自由を奪っています。劣化ウランをはじめとする、すさまじい環境破壊もおこなっています。
私は愚かな母親でした。厚生省、製薬企業、専門家がいうことは正しいと信じ込んだため、龍平に塗炭の苦しみを与えてしまったのです。
私の体に小さな命が宿り、命を産み出したとき、私は深い感動に包まれました。そして孫が生まれたとき、命がつながっていくのを実感しました。今、私はここにいます。生きています。それは地球に生命が誕生したときからつながってきたからです。この時代を生きる一人の大人として、命を守り、つないでいく責任を果たさなければならないと感じています。そして命を守るということは、経済優先でない日常の暮らしをつくっていくことだと実感しています。
英子 病気が(湯堂)部落にあちこち出始めたのが、昭和二七年から二八年にかけて出てきてるんですよね。「あっちも出た」、「こっちも出た」っていうあれで。
弘津 坪段の田中さんとか江郷下さんとかが発病したのは、昭和三一年ですよね。湯堂はその後、三二年か三三年じゃなかったですか?
英子 まだ私が学校に行く頃に少し症状が出ていたんです。震えて、つまずいて、こけていました。私と姉と父と母とで山に焚き物取りに行ったりしたら、つまずくんですよ。症状は徐々に出てきて、最後はろれつが回らなかった。震えて震えて、脚がねじれて。
公江 一人で留守番していて豚の餌なんか食べてたもんね。
弘津 最初は一人で留守番できるくらいだったんですね。
英子 一人で留守番させとったらトタンで手を切ってですね、井戸の上にトタンをかぶせていたんです。隣のおじさん、ご主人が(清子さんが)ケガしたのを見てらしたんです。姉ちゃんは姉ちゃんで、(脳が)完全にやられてる訳じゃないから、それを見せたら怒られると思って隠していたみたいなんですよ。そしたら隣のおじさんが「清ちゃんはこうこうして水くみよってケガしとるよ」って。
弘津 それは昭和二八年頃ですか?
公江 タンスの中のナフタリンを飴と間違って食べてすっごい下痢をしたり、かたし油、髪に付ける椿油をヤクルトのびんに入れてあったんですが、それを飲んで吐いたりして。その片付けが私なんです。そういう事故があったりしたんで、目は離せなかったんです。
英子 そのころ私は福岡に出ていました。三一年に完全に実家に戻ったんです。その前に水俣で働いていたんですけど、福岡に出て。福岡に出たのは三〇年から一年くらい。その前から(清子さんに)軽い症状が出ていたのはわかっていました。結局症状が出て(重くなって)、一人にできないということで早く帰ってきたということで。その間、この人、妹(公江さん)がお世話をしているんです。
公江 私、嫌われ者でした。(清子さんが)いらんことするから怒るじゃないですか。だから私は姉に嫌われていました。
英子 漁ができなくなって収入がないもんだから、父と母は日雇いに出るでしょう。姉は留守番をしてたです、結構きれい好きでですね。清子姉ちゃんは昭和二一年ころ、まだ湯堂の元家にいた頃は水俣営林署に(働きに)行っていました。
弘津 清子さんは昭和二八年四月頃発病となってますね。
英子 はい。奇病ていうあれが、今日はあすこ、今日はここってバーッと広がる。出た時点で。「何だろうか」、「何だろうか」って。家が道路ばた(にあったの)で、差別がつらかったですよ。
公江 それが一番つらかった。お店に買い物に行くじゃないですか。「団扇の上にお金を載せなさい」て言われる。物は置いて、それでもらって。手渡しじゃないです。
英子 泣いて帰ってきていましたよ。「洗濯物は絶対おもてに干すな」とか言われて、家の裏の軒下に隠して干してました。「うつる」って言われて、その時点では…
公江 しょうがないと思うよね。子供心に「何で」って思ったけど。今思うと、そんな感じですよね。
弘津 清子さんが発病した頃、近所はどうだったんですか?
英子 松田さんのところがひどかった、富次さんが。清子姉ちゃんと同い年くらいの(松田)ふみこさんは熊本まで行って亡くなっています。清子姉ちゃんが完全に寝込んでしまったのは三一年の暮れから。それまでは目が離せなかった。寝込むまでではなかったけど、誰か付いておかないと危なくて。
公江 小学校四年生頃から、姉ちゃんの付き添いしたごたったよ。昼休みは(袋小学校から湯堂まで)細い山道越えて、姉ちゃんにご飯食べさせに行って、また(学校に)帰りよった。
弘津 資料には「昭和三〇年、清子の付き添いを始める」とありますね。
英子 ちょっとしたことでこけるし。几帳面な人やったもんだから、掃除とかきれい好きやったもんね。自分では(雑巾を)固く絞ったつもりでも、だらだらなんですよね。子供心に「姉ちゃん、絞ってない」っていうでしょう。怒って泣きよったんですよ。最後のほうは(清子さんに)わからんように絞ってました。
公江 歯ぎしりがひどかったねえ。ギリギリギリギリって、ずーっとですよ。
英子 亡くなったときは全然歯がありませんでした。歯茎だけでした。母がいつも添うて寝てました。朝起きったら必ず「姉ちゃーん」ていうて行くと、機嫌の良い時は見てニタッて笑うんですけど、機嫌が悪ければ、あっちを向く。「ああ、今日は機嫌が悪いなあ」と。
弘津 それなりにわかっていたんですね。
英子 わかっていたんですよ。母が地下足袋はいたまま、(膝で)お縁にあがって「清子、畑に行ってくるけんね」ていうたら、二歳か三歳の子供が言葉を覚える時期みたいに「かあちゃん、ぐらっか。」って。最初わからなかったんですね、母も。後のほうになって意味がわかって、「ぐらしか(もの悲しくて心を締め付けられるの意)っじゃないとよ。母ちゃん行ってくるでね」って言うてから。
公江 (清子さんは髪が長くて)髪をくくっていたんですよ。夏、汗をかくじゃないですか。「坊主にしよう」って言ったら「いやだ」って泣いてですね。だからここだけ(正面から見える部分だけ髪の毛を)残したんですよ。後ろの方だけ切って。「(髪が)あろうが」って鏡を見せたら、ニターッて笑って。
英子 最初の頃、床ずれがひどくて。
公江 じょくそうがひどくて。知識があれば体位交換なんかするんですけれども。(知識がないから)楽なようにしないじゃないですか。すごかったね、よく見てきたね。
英子 お尻の肉がボンとほげて(そげて)身が見えていました。それが腰から背中に広がって。床ずれの治療がかわいそかったですね。最初の頃は痛みをまだ感じるから「母ちゃん、いや、痛い痛い」って。近所の人は(事情を知らないから)「清ちゃんを虐待しよる」と。親子五人で押さえて。最初は消毒の時間が少ないから、床ずれのあれが、消毒してさっと取れないんですね。日に日に広がってくるでしょう。私と父がお尻代えの道具を藁や浴衣で工夫して、母は治療。
(清子さんが)大きい声で、叫ぶもんだから、私が果物屋でリンゴを買ってきて。それを食べられるくらいに切って握らして(叫ばないように口に含ませて)、二人であやして。「もうすぐすむからね。もうすぐすむからね」って言って。この人(公江)と(その下の)妹はほんとは(滅多に食べられないから)リンゴ欲しいんですよね。「お姉ちゃんのだからね」といって。最初の頃は早くすみよったけど、最後は骨まで見えて。「人間ってあんなんでも生きっとるのかな」って。あれは忘れることできません。頭から離れないですもん。一番つらかったのは両親でしょうね。
公江 姉ちゃんはいちばんいい歳で、二三歳で発病して、二七歳で亡くなっていったんですよね。
英子 清子姉ちゃんは昭和二一年、まだ湯堂の元家にいた頃は水俣営林署(勤め)に行っていました。青年団の人と縁談があったんですけど。(発症で)だめになってしまって。年頃の時期に。なんとか生きっとれば、幸せになったかわからないけれども、せめて結婚してればと。優しくて芯のある人でした。
公江 色の白いかわいい姉ちゃんだったね。今、いのちがあれば、よかばあちゃんでしょうに。
英子 最後のころは他の姉の名前は忘れても、そばにいて長く付き添ったせいか、私の名前は言えました。
私が着物を着た写真を送ったんですよ。そしたら草履とかって自分であれしたこともないじゃないですか。「きれいね」っていう言葉がはっきり出なくて「じょーい、じょーい」って。母もわからなかったみたいで。「ああ、草履ね」と。だから母が「あんたが元気になったらね、着物着らるっとよ」って。だからその写真を死ぬまでずっと握ってました。最後まで離しませんでした。
公江 庭に大きな桜の木があったんです。
英子 桜の木の下でご飯を食べているの、私は憶えているんですよ。何かの記念ていってから、桜の下でね。その頃症状は出てました。茶碗を握ってる手が震えて、口に入らなかったですね。それをやめさせると怒って泣くから、自然にさせて。箸も口についたらボロボロこぼして。
公江 (娘の)教科書にね、何年前だったか社会科の本に姉の遺影が載っていたんです。娘が「お母さん、この人おばさんじゃないの。お母さんのお姉さんじゃないの」って。その時から(水俣病や清子姉さんのことを)ちゃんと教えました。
英子 私、姉の夢をよく見るんです。桜の色の、ピンクの桜の模様の入った着物着て出るんです。母も見るし、二〇歳くらいの若いときの年のままで二人とも出てくるんです。
(編集 川部岬)
※『花あかり』は宮崎駿プロデュース、上條恒彦歌によるCDアルバム『お母さんの写真』に収録されている。坂本清子さんを題材にした曲。
全文は『豊饒の浜辺から』第五集に掲載予定です。