機関誌ごんずい93

目次
ごんずい93号表紙
 2004年新作能「不知火」リハーサル風景。
台風が迫り嵐の予感の中で

特集 : 特集 水俣病公式確認50年をむかえて

記事

見えないものを撮る 芥川 仁

プロフィール 
あくたがわ じん。1947年、愛媛県に生まれる。1970年、法政大学第二社会学部卒業。
1980年9月より宮崎に在住。1992年、『輝く闇』で第二回宮日出版文化賞受賞。
主著: 『水俣・厳存する風景』(水俣病センター相思社)、 『土呂久・小さき天にいだかれた人々』(葦書房)他。日本写真家協会会員、日本写真家ユニオン所属

水俣から問われたこと

歴史は繰り返すというが、水俣病事件でも同じことが言えるのかも知れない。資料を調べてみると、一九七八年に認定申請をした被害者は、熊本県だけでも一〇一〇人になる。この年までに認定申請をした被害者の累積は六六五一人である。
 私が初めて水俣を訪ねた年だ。その三年前、熊本県議会議員が、「申請者にはニセ患者が多い」と環境庁で発言するなど、認定申請者が増え続けることが水俣病事件の大きな課題になっていた。健康被害の深刻さは主に六〇年前後に発病した急性劇症型水俣病患者や胎児性患者の重篤な症状を伝える桑原史成さんやユージン・スミスさん、塩田武史さんの写真でよく知られていた。しかし、一見健康そうにさえ見える認定申請者に対しては、行政も世間の目も冷たかった。
 私は、認定申請患者の抱える問題を伝えるために、水俣病センター相思社の創立五周年事業として写真集を刊行するからと誘われて水俣を訪ねた。
 当時、相思社の理事長だった川本輝夫さんは、私に「不可視の水俣病を撮ってくれんな」と言った。「不可視の水俣病」という言葉を、私は「病象が見えにくくなった水俣病」という意味ほどにしか理解していなかったが、患者を訪ねるうちに川本さんの真意は、「水俣病事件の被害とは何なのか」を突き詰めて撮影をしてほしい、ということだったのかも知れないと思うようになった。あれから二十七年間が過ぎている。
わずか二年間だったが、水俣での仕事は私に大きな転機を与えてくれた。何より、写真家として姿勢を鮮明にしなければならなかった。水俣で常に意識していたのは、「お前は何のためにここに居るのか」という声なき声であった。

土呂久そして水俣

 水俣と出会うより前、私は、宮崎県高千穂町の土呂久鉱毒事件の被害者と出会って撮影を続けさせてもらっていたが、当時、被害者は加害企業住友金属鉱山を相手に裁判を始めたばかりだった。そのために土呂久鉱害の実情を世の中に知ってもらうことが大切な時期で、私の役割は明快だった。あまり悩むことなく土呂久鉱害の被害状況や被害者の闘いを撮影させてもらい発表することで受け入れてもらっている実感があった。しかし、水俣では、七三年にチッソと患者団体が補償協定を結び、認定患者に対する補償はひと区切り付いていた。次に、増え続ける認定申請者の救済が課題となっていたが、症状の深刻さだけで言えば「ニセ患者」発言がまかり通るような状況であった。そこで川本さんが「不可視の水俣病を撮ってくれんな」と、私に言った根本的な問いかけが浮上する。
 当時の取材日記を読み返してみると、水俣に着いて一ヶ月ほど経った頃「水俣で見たものは全て肯定してみる」と書いてある。書いた当時の気持ちはおぼろげだが、役割だ意味だと考えず、ともかく目の前に展開している不知火海沿岸の人々の暮らしを、病状も含めて丸ごと記録しようとしていたように思う。何かの役に立つならば、五十年後か百年後か。そんなつもりだった。

生きる技術から学ぶ

 ほとんど毎日のように、患者宅を訪ね歩いた。漁に出る患者の船にも乗せてもらった。ゴチ網、太刀魚やタイの一本釣り、打たせ網、タコ壺、ボラ篭、シラゴ船曳網など、どの漁にも漁師の知恵と蓄積された生きる技術があった。地方の小さな町中で育った私は、漁師たちの生きる技術、すなわち自然と対話をする技術に驚き、感動した。水俣病であろうがなかろうが、先祖代々培われてきた生きる技術は、不知火海の風土に育まれ、漁師たち固有の技術となっていた。釣糸をつたわってくるアタリによって餌をつつく魚の姿を想像する技術は神業としか思えない。
 水俣病事件の被害者でもある生きる技術を持った人々と付き合っているうちに、「水俣病事件の被害とは何か」という川本さんの問いに答えようとする私なりの糸口が見つかったように思えた。二年間足らず水俣に滞在した私の成果は、写真集「水俣・厳存する風景」と題して八〇年に出版された。相思社の職員として患者に寄り添い、「水俣病事件の被害とは何か」という課題に向きあっていた仲間たちと共に作り上げた写真集だ。

できることを

 九五年の政治決着で補償問題に一旦は区切りが付いてしまったと思っていたが、最高裁の判決後に認定申請した被害者が三七〇〇人を超えたと聞いた。私が水俣に滞在していた当時、二十歳を過ぎたばかりの若者だった胎児性患者たちは、すでに五〇歳を超えようとしている。毎日漁に出ていた被害者は症状が進み歳を重ねた。船を手放した者も多い。ここで又、「水俣病事件の被害とは何か」という問いが必要な時が来ているように思う。公式発見から五〇年、水俣病事件の根本は何も解決されていないと思えてならない。
 写真家としてできることはわずかだ。ともかく目の前に展開している不知火海沿岸の人々の暮らしを、もう一度、丸ごと記録してみようか。「人々の生きる技術まで根こそぎ奪っていったチッソを許すことはできない」と、心の中で言い続けながら。

水俣病は終わっているのか、それともいないのか 細谷孝

プロフィール 
ほそや たかし。中央大学法学部で倫理学を担当。学生につけられたあだ名は「紅の豚」という噂を耳
にした。専門と呼べるものはない、ただ、水俣を通して問題を次から次に提起し、倫理学を「生きる基礎を学ぶもの」として再構築したいと考えている。

 ごんずい編集部から原稿の依頼を受け二つ返事で引き受けたが気が重い。実はどう考えてみても水俣病公式確認五〇年に、あまり関心が持てない。東京では水俣についての報道も少なく断片的な情報しか手に入らないので判断のつけようがないのが実情である。特に五〇年だからと企画したわけでもない大学の講座が急に注目(ただし、九州限定で)されて困惑しているぐらいだ。編集部からのご依頼は公式確認にこだわらずに今水俣について考えていることをということなので、最近よく質問され、答える時、頭の隅っこにあることを思いつくままに断章として書いてみたい。

 どうも私は、「水俣病は終わっているのか、それともいないのか」と問われると、あの「世界に始めがあるのか、それともないのか」というカントの二律背反(アンチノミー)の問題を思い起こしてしまう。
 哲学に興味がなくとも、カントの名前は有名だ。カントはその生涯を通して、「私は何を知ることができるのか・私は何をなさねばならないか・私は何を希望することができるのか」という三つの問いに、人間の理性のあらゆる関心が集中していることを明らかにし、近代哲学の礎を築いた学者である。
 主著と言われる『純粋理性批判』は、「私は何を知りうるのか」という問いに関係し、その弁証論で、カントは「世界に始まりがある」という主張(定立)も、「世界には始まりがない」という主張(反定立)も、人間の理性は同等の権利を持って主張することが可能であり、相争って決着のつかない議論、双方の主張において理性は正しく働き誤りはないので、どちらが正しいか判断できなくなる二律背反となることを指摘している。
 水俣病事件とカントと何の関係があるかといわれるかもしれないが、カントによれば、人間の理性は、科学を成り立たせる理性である理論理性と道徳的実践を成り立たせる理性、実践理性を含んでいる。しかし、理論理性は万能なものではなく、それ自身の限界を持っている。この指摘は重要である。何かを「客観的な科学知」として追い求める理論理性は、自ら誤ることなく水俣病は終わっていると発言することもできるし、終わっていないとも発言することが出来るのである。医学の門外漢である私にとって、水俣病病像論の議論はどうも、相反する意見が同等の権利を持って争い、決着のつきようがないというカントの二律背反にどうしても重なってきてしまう。そこに目を付けている勢力は、カントの指摘に従って、理論理性の持つ限界をしっかり認めることが大切なことなのに、この点に関してはいっこうに気にもとめずに自論の補強のために医学の成果を、ねじ曲げる。
 こうした争いに幻惑され飽き飽きした人もまた、それじゃいったい水俣病とは何なのかというという問いを出さざるをえないことになる。かくして、問題は振り出しに戻りまた延々と堂々巡りが繰り返されることになる。

 ここで必要なのは、「わたしは水俣病について何を知ることができるのか」という理論理性に向けられた問いをいったん棚上げにすることである。その上でカントの第二の問いにならって「私は水俣病に関して何をなし得るのか」という実践理性の問いを改めて立て直すことである。この問いは、医学者に対しては、いかなる視点からいかなる方法によって問題をとらえようとしているのかという反省を促すことになる。補償のためには認定が必要であり、補償から認定を導き出した時、認定は補償の成立するための必要条件となり、補償は認定の成立する十分条件となる。認定から補償を導き出した時、補償は認定の成立するための必要条件となり、認定は補償の成立する十分条件になる。実践理性の問いを発することによって、認定・補償という悪しき概念の連鎖にくさびを打ち込むことにもなる。
 この問いにおいては、水俣病が何であるかという問いは封印される。その代わりに、人間は道徳を守り社会を形作っていく存在であり、具体的に社会生活を送っていくために必要なものはいったいなんなのかということが問題になる。認定であれ補償であれこの観点から改めて徹底的に考えられなければならない。それこそ実践理性の役割である。
 ただし、実践的であるということと、実用的であるということとは違う。実用的とは幸福を目指し、その目的に適した手段を見いだしそれを実行しなければならないということであり、それは仮言命令(もし?したいならば、?するべきだ)という形をとる。それに対して実践的であるということは、人が生きていく上で、定言的(?をなすべきである)に無条件的に迫ってくるものである。水俣病の患者であろうとなかろうと、人間として「私は何をなすべきか」が問われるのであって、人間である以上その問いを回避することはできない。

 こう書くと、いささか問題を一般化し過ぎていると言われるかもしれない。障がい者と水俣病患者を同列において論じていると言われるかもしれない。この抗議は一応受けとめよう、今ここで問題になっているのは、人間としてなすべきことであり、社会そのもののあり方にかかわる問いだからである。もちろん、その問いは、水俣病という現実に対して私は何をなすべきなのかという問いを内包していることは言うまでもないのだが。
 さらにこの問いは、カントの第三の問いである「私は何を希望することができるのか」という問いと密接に関連していることも忘れられてはならない。カントはこの問いに対して、最高善と神の存在の肯定を持って答えているが、私はこの問いを別の視点で取り上げてみたい。また、補償という言葉自体、この問いの中で改めて定義されるべきであると考えている。別の視点というのは、この問いの場合、その問いの主体にもっとも相応しいのは当事者である水俣病患者ではないかということである。もっとも傷つきその痛みを知る者の抱く希望こそ、真の希望のあり方を示唆するものと言わねばならない。

 水俣病はその全貌が明らかになっていないとしても加害と被害を明確に指摘することの出来る事件である。被害は十分にあがなわれたのかということを問う限りにおいて、多くの人に与えられた「水俣病は終わっているのか、それともいないのか」という問いに必然性はある。しかし、水俣病が科学技術を限りなく追い求めた人類の歴史の一こまであること、一企業の単なる過失・無責任によって起きたものではなく、その素因が日本社会の中にあったし、今もその社会の構造は変わっていないということを踏まえると、「水俣病」は真理の追求に真剣であろうとする者が、当然それを考えずに過ぎ去ることの出来ない事柄の「しるし」となっているのである。その意味で「水俣病は終わらない」のであり、実践的な問いは常にこの確認の上に立てられなければならないのである。その問いと共に、改めて加害と被害の場において「何を希望することができるのか」ということが問われるべきなのだ。何が補償されるのかという問いは、何を希望することができるのかという問いへと変えられる。
 カントの三つの問いに言寄せて、ずいぶん勝手なことを書いてきたが、この内容がカント哲学だなどというつもりは毛頭ない。ただ三つの問いから連想されることを書いただけである。(第三の問いについて、例えば科学技術的な自己規制もこの希望−未来−の観点からなされるべきであるという点については詳しく書くことは出来なかった。それについてはこの断章の課題として残しておきたい。)

50年後の水俣病事件状況 −これでいいのか− 富樫貞夫

プロフィール 
とがし さだお。1934年山形県生まれ。1959年東北大学法学部卒業。東北大学助手を経て熊本大学講師から教授。現在熊本学園大学教授。1969年より水俣病研究会会員として水俣病事件に取り組んできた。主著:『水俣病事件と法』石風社他。

はじめに

 私が初めて水俣病と出会ったのは一九六九年の夏、第一次訴訟が提起された直後のころだ。それから三七年になるが、現場近くで事件の推移を見守ってきた私のいまの心境は複雑だ。怒りを通り越して危惧の念でいっぱいなのだ

水俣病の五〇年

 二〇〇四年一〇月の関西訴訟最高裁判決を受けて新たに認定申請をする人たちが増え、現在、三、七〇〇人余りに達している。認定基準を見直さない限り、この人たちが水俣病と認定される可能性はほとんどないだろう。そうすると、どういう方法でどんな救済をすればよいのか。これが目下の焦点だ。
 チッソの流したメチル水銀で被害を受けた人びとを法的または社会的に救済することは、原因究明と並ぶ最優先事項であったはずだ。五〇年もかかって、それすらまだ終わっていないとは、まことに恥ずかしい話ではないか。
 この五〇年の経過を振り返ってみると、水俣病事件は被害者の認定=補償の問題を中心にして動いてきたといってよい。水俣病の医学も、立場の違いはあるにせよ、「認定医学」に終始してきたといっても過言ではない。その結果、研究上重要な問題であっても認定問題につながらないテーマは切り捨てられてきた。たとえば、低濃度メチル水銀の健康への影響という問題もそのひとつだ。
 したがって、いま、私たちの目の前にある事件像は、きわめて一面的で、矮小化された像である。それすら細部にわたって明確だとはいいがたい。
 被害者の救済問題を早急に解決すべきことはいうまでもない。今後も紆余曲折は避けられないだろうが、長くても数年のうちには決着すると思われる。救済問題の解決とは、チッソと国・県の責任で被害者に対し一時金や医療費を支払うということだ。問題は、そのあとに何が残るかだ。患者が生きている限り水俣病は終わらないというだけでは、何の答えにもなっていない。
 五〇年の歴史を通じて、水俣病事件は「水俣病の文化」とでもいうべき独特の文化を生み出してきた。個を突出させた患者家族の闘争のスタイルや語り、それを主な対象とした写真や映像、記録や文学などだ。それらの文化には水俣病事件のもつ多彩な相貌が写し出されている。それは水俣病事件のもつ豊かさの現れでもあったと思う。
 患者・支援者を含めて第一世代の活動が一段落するとともに、水俣病文化も微妙に変わってきて、非寛容でモノカルチャー的な傾向が強まってきているように私は思う。運動がらみで自己絶対化の傾向の強い人たちの間では、対話や相互理解が次第に困難になり、議論がかみ合わなくなってきている。それは「タコツボ文化」という現在の水俣病状況の一面を暗示するものであろう。

課題山積 しかし… 

 これから取り組むべき課題は山積みの状態だ。メチル水銀中毒症としての水俣病像の見直しはやっと始まったばかりだ。水俣病の主要症状とされてきた感覚障害や運動障害さえその本態はまだ十分解明されていない。胎児性水俣病の臨床や病理、それと小児水俣病との異同についても、まだ分からないことの方が多い。同じ汚染地域で生まれた胎児性患者と同世代の人びとやそれより若い年齢層に属する人びとが訴える健康障害がメチル水銀汚染と関連がないのかどうかもまだ解明されていない。こうした問題を解明するためにも、かつて汚染地域に居住していた住民の健康調査は是非実施する必要がある。汚染の広がりや程度はもちろん、いつまで汚染が続いたのかを推定するためには、水俣湾を含む不知火海全域の環境調査は欠かすことのできないものだ。
 水俣病の全容解明のために必要なこれらの調査は、当然、これまでにやっておかなければならないものであった。それを怠ってきた以上、遅ればせながらもこれからやる必要があるのだ。
 事件史の検証もこれからの課題として残されている。豊富な内容をもつ水俣病事件の検証は多様な視点から取り組む必要があるが、とくに一九六九年以降の事件史においては、患者主体の闘争が主要なテーマになるだろう。それは戦後日本の被害者運動史または民衆運動史としても希有な輝きを放っている。
 現在、事件史の検証が必要だという声は少なくない。しかし、どんな目的でだれが検証するのかが重要だと思う。私は現在の行政が検証できるとは思わないし、初めに結論ありきで、それを確認するだけの作業なら、およそ検証の名に値しないだろう。
 一〇年ほど前から水俣病事件の経験を教訓化し、内外に発信すべきだといわれてきた。しかし、現状ではそれはほとんどできていないように思う。何を伝えるべきかがはっきりしないし、だれに向かって発信するのかも曖昧だからだ。
 現在、水銀汚染を含めて地球環境汚染が深刻な問題になっている。汚染対策の基本は「予防原則」であり、国際的には、それに基づくリスク評価とリスク管理が常識になりつつある。水俣病のような被害を出さないようにするためには、いかに早めに対策を講じるかが肝心であり、それが予防原則の根底にある考え方だ。そこには水俣病の経験が反面教師として生かされているともいえる。

水俣病から何を見いだすのか

 これだけの犠牲を払った水俣病事件の経験を有効に生かすためには、水俣病の全容解明のためにさらに努力するとともに、この事件のもつ多様な経験をくみ取り、それを言語化することがまず必要だろう。その際に大切なことは、従来の固定した事件イメージにとらわれないということだ。やわらかい感受性と豊かな想像力をもってすれば、まだまだ水俣病事件の中から新たに発見するものは多いはずだ。それを多様な形で表現できたら、事件のイメージも大きく変わる可能性がある。
 現在の日本を覆う精神的鎖国の状態から脱し、もう一度初心に帰って水俣病事件を見直してみたい。それが現在の正直な心境だ。それにしても、水俣病は、それに向き合う人間の姿を写す鏡のようなものだとつくづく思う。


(2006年3月25日発行)

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