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| 水俣市立水俣病資料館に、初めて展示された 水俣病歴史考証館の実物。 資料館と考証館の協働 |
プロフィール
おがたまさと。一九五二年熊本県芦北町女島に生まれる。漁師。
劇症水俣病で亡くなった親父の仇を討つために、水俣病認定申請者協議会の運動に関わる。一九八五年、自らの認定申請を取り下げ、未認定患者運動とは一線を画した表現として、チッソ前座り込みや一万人コンサートへの抗議を行う。一九九六年不知火海の打瀬船で東京まで航海する。二〇〇四年には、石牟礼道子氏の新作能「不知火」を、水俣湾埋立地で公演する。
緒方 以前から考えていたけれど、水俣病という三文字を枕詞にして話すことを止めようかなと思ってきた。平たく言えば水俣病の三文字を、水戸黄門の印籠のように使いたくないということです。大変な事件史が五〇年以上あるわけだから、深い意味があることは分かっています。水俣病という三文字を患者や支援運動が使ってきたことに、自分も含めてある種の「依存」を感じるわけです。もはや水俣病という言葉を持ち出さなくても、日本全国に形を変えた水俣病が散らばっているし、いのちの危機的状況が早いスピードで広がっている。
遠藤 しかし緒方正人とは紛れもなく水俣病患者じゃないですか。
緒方 私もほかの患者にも、水俣病という三文字がつきまとっている。しかし患者として生きているわけではないし、人として生きているという気持ちのほうがはるかに強いんです。水俣病患者と呼ばれよりも、「ニセ患者」とか「イオ泥棒」と言われたいと思うのは、水俣病ということが本質ではないからだと思う。
遠藤 私は水俣病を素材だと言ったこともあります。しかし患者は水俣病の、四六時中逃れられない運命にある当事者じゃないですか。
緒方 この五〇年来のいきさつを見てみると、水俣病問題がシステム社会の中に組み込まれてしまった歴史がある。水俣病事件がシステム社会に組み込まれ、患者や被害者という存在が、もっといえば人がそこに組み込まれていく、そのことへの抵抗感というか。
遠藤 その抵抗の足場はどこにあるんでしょう?
緒方 それは探しているんであって、手に入れたとは言えない。水俣病事件は近代化を目指す国の、戦後史の中で起きたことでしょう。その修復として、行政のもとで福祉政策なり環境政策として行われてきた。つまりそれを「近代化社会に対応する近代化」じゃないかと思っている。患者の認定や補償は、たとえば最初の頃の水俣病一次訴訟や自主交渉闘争の頃には、加害企業チッソや国に対して制裁的な意味をもっていたと思う。それがいまや医療補償だけというやりかたですね。
一九七〇年前後の自主交渉や一次訴訟では、当事者たちが名前も顔も世の中にさらしていました。闘いの実質というか実態があって、その闘いは加害企業チッソや国・県に対してだけではなく、自らの内なる闘いとして自分をさらけだしていく傾向が色濃くあった。それがだんだん薄れてきて、患者も運動もだんだん魅力を失って、訴える力としての存在の魅力はずっと希薄になってきた。たぶん勝ち取った内容だけじゃなく、質的な違いがある。
遠藤 国家政策として展開されている環境や福祉は、「近代化の近代化」して機能していうだろうし、その動きは止まりもしません。そしてありとあらゆるものがそこに組み込まれていくんでしょうが、それは「どうぞご自由に」となりますか?
緒方 確かに「どうぞご自由に」なんだけど、国家に組み込まれていくということは、人本来の「命の祖国」から離れていってしまう。自然生命界「命の祖国」ではなく魔界のバーチャルな国家に、まるで新興宗教の信者たちのように引き寄せられていっている。現在の申請者の多くの人たちも、国やチッソとの和解の内容には関心があるけれども、水俣病患者という社会的な認定にはこだわっていないと思う。
遠藤 元々水俣病患者運動には水俣病患者の「名を巡る闘い」と、「救済の実を巡る闘い」があったと思います。それで言えば、僕の九五年政府解決策の理解は、国と患者運動の妥協だった思っています。患者たちも納得したわけではないんです。でも「名を巡る闘い」はもう続けられないと受け取りました。
緒方 患者運動の重点が、「名を巡る闘い」から「救済の実を巡る闘い」に何時シフトしたかというと、ほとんど認定がされなくなった昭和五三年以降だろうと思う。それまで患者たちは、運動の先に希望を持っていたと思う。しかし実質ゼロになったんです。だから望みが絶たれた頃からだと思うんです。
緒方 今年水俣病五〇年というけれど、歴史的なターニングポイントして本来何が求められているんだろうか? と考えると、今までの水俣病事件から学んだ仕切直しというか、生き直しじゃないかなと思った。産廃の問題もそこに降ってわいたと思っている。さて水俣の人々はどういう選択をするのか? どういう道を歩むのか? 実のある選択をして、自らの道をどう歩むのか? 結論を言えば、俺は自治の問題だと思っている。歴史的体験から、それが導き出されなければならない。そういう意味での五〇年かなと思う。
水俣病の三文字にこだわりたくないと言ったのは、三文字を使う場合はどうもそこに相手がいるわけですよ。仮想敵としての国や県やチッソなどの、相手との関係で責任追及とか要求がなされてきたんです。ところがその相手というのは、よく見てみれば幻覚じゃなかったのかと思います。
もっと端的な言い方をすれば、五〇年に際して国を捨てたらどうなんだと考えました。国にいつまでも幻想を持っているから組み込まれていく。我々の方から「もう国はいらないから出ていってくれ」と言いたい。
遠藤 水俣病の運動には相手があります。国の悪口を言いますが、裏を返せば実はこうして欲しいという期待だったりするんですよね。
緒方 そうです、それが依存関係なんです。そうしてほんとうの生命存在としての「命の国」からは遠ざかってしまっている。へたをすれば裏切っているかもしれない。命を育む山河を忘れて、幻想的な国家に引きずられ組み込まれて行く。
遠藤 国には物理的に国土があるし、制度としての官僚や政治家がいます。ほんとうの国とは何でしょうか?
緒方 おれは国には二つあると思っている。システム社会としての幻想の国と、山河・命に育まれた「くに」というか、生命世界のことを言っている。「命のつながる『くに』で自分たちで自治をやっていく。だから国家は口も手も出すな、出て行ってくれ」ということだと思うんです。
遠藤 明治までは国なんてのは、「お上が確かにあるらしい、たまに不幸がくるから」とこの程度だった。明治の国民国家成立以降、自治ができなくなっていったと思う。
緒方 家のおふくろなんかもそうだった。国会議員がいるらしい、東京には政府があるらしいだった。だから「俺らの村」ではということで、自治としてのもやいが生きていた。本来の共同体があったんです。
遠藤 単純な聞き方ですけど、まだ国の正体を暴けてないということでしょうか?
緒方 いろんな問題点の指摘はされているけど、暴かれてはいないと思う。未だにみんな不安を持ちながらもぶら下がっているからね。だから俺がこういうと人は「それではどうやって国家を解体するんだ」と聞いてくる人もいます。「なんか方法があるのか」とも言うでしょう。江戸時代にも国家や権力はあったんです。そうであっても一人ひとりが生きる道、あるいは共同体としてのマチやムラの中で、生きていくことを探していたと思うんです。
そういう二重構造を巧みに生きていたというか、そういう知恵が必要なんだと思う。東京に向かっては「ああそうですか、そうですか」と言っておいて、自分たちは本音のところで「どうやって生きていくか」模索するという二重性は避けられません。国自体、システム自体をなくすということはできないだろうからね。
日本の百姓は田の神様や木や水の神様に、日常的な本心をおいているんです。と同時に、既存の宗教の門信徒に入っているんです。国家の枠組みと同じように、そのなかに顔出しはしているけれど、日常的な世界はやっぱり山河や不知火においているんです。
宮古島に行ったときにウタキ神事を見る機会がありました。祝詞を上げていくんだけど、始まりに土地の神の信仰を唱えるわけです。そのうち聖徳太子や明治天皇もでてくれば、禅宗の教えや名前もでてくるんです。全部かぶさっていく歴史が、祝詞の中にでてくるんです。本心はウタキにおいているから続いていると思うんです。
善か悪か二分法で考えると、二重構造を巧みに生きることはできません。これを平たく言うと、この世とあの世をどう連絡をとっていくのかだと思っています。
遠藤 前から聞こうと思っていたんですが、「魚を食べ続けたこと」と「産児制限をしなかったこと」と「誰も殺さなかったこと」、さっきからの話で言えば近代化の枠組みの中とは違う発想があったのかなと思うんですが、僕にはピンときてないんです。
緒方 産児制限というよりは、生まれてくる子供の命を選ばなかったということです。あるいはその命と向かい合ってきたんです。そのことを善悪で区分したらおかしくなる。どちらかを否定してしまうことになってしまう。あるいはイオが汚染されてると言われながら、俺たちはイオを食べ続けてきたんです。説明が難しいけれど、そこに権利めいた形でそのことを考えられるのが嫌なんです。イオを食ってきたということは、イオを恨まなかったということが裏側にあるんです。「還りゆく命の世界」だから、いのちの母胎を裏切らなかったというか、それが背景にあるんだと思うんです。
遠藤 近代化された頭にはそうとう難しい話です。たしかに昭和三〇年代というのは、僕なんかもその話と変わらない生活をしていました。しかし僕はそういった生活や村社会を否定してきているからよけい分からなくなっている。
緒方 端的な言い方をすれば、そのイオを食うしかなかったのよ。しかし考えてみれば、今スーパーで売られている危ない品物はたくさんあるよ。牛肉だってほかの食品だって、水から空気から危ないでしょう。
たとえばうちの戸籍上の兄弟が一八人いるでしょう。「避妊の方法を知らなかったんじゃないですか」と聞かれるんですが、それは分からないけど、本能のままだったんですよね。もう一つ考えられるのは、育てるみこみというか自信があったんでしょうね。なんとか養っていける、それだけ親父もがんばった。もう一方で親父は、病弱な子どもを「この子は生きていけない」といって、病院にもつれていかなかった。それでおれの実の兄弟が生まれて二,三]ヶ月で三人亡くなっているんです。
生まれてくるのも自然にまかせるけれど、死ぬことにも今みたいに手をかけなかった。この子は生きていけるというやつしか育てなかった。今だったら非難ゴウゴウよ。保護責任者遺棄致死ですよ。
もちろん熱が出れば冷やしただろうし、家でできることはやったんです。昔と今と明らかに違うのは、死がすぐそこにあったというか、生と死がセットで考えれていたという感覚を持っていたんだと思う。
俺も深く考えたことはなかったんですが、三人の子どもがなくなった時に親父はどんな心理状態だったんだろう。決して良かったとは思ってないだろう。ある無常のどうしようもなさというか、死に別れゆく生まれたての子どもへの葛藤を、親父もお袋も家族も引き受けていくというか、それが避けようがなかった。昔は生まれたての赤ん坊が亡くなるのは、特に田舎では珍しいことじゃなかったんです。いつも死と向き合わざるをえなかったとことが逆に生の意味を深めたというか、そういうことじゃないかと思うんです。
遠藤 今はそういうふうに、死と向き合うことがないじゃないですか。
緒方 俺なんか「すったれ」(最後の子ども)だから、その分付託されているというか背負わされているものがあるのかなと思う。それがのさりなんです。
遠藤 命のことが医学的には大事にされるけれど、「ほんとうのいのち」はあまり大事にされていないように思います。
緒方 死後の世界なんて近代的にはそんなものはないんだ、そこには何もないと、亡くなったいのちをそう捉えてしまう。いのちの大切さをどこでも言うが、おれは二つあると思う。一つは姿形という命の存在。もう一つは「働きとしてのいのち」。姿形はこの世からなくなって埋葬されても、死後の世界の「働き」としては残るじゃないですか。だからこそ法事があったり、何年忌という法要があったり、あの世でも「いのちの働き」は永遠にあるんです。
インタビュー・構成:遠藤邦夫
プロフィール
たかみね たけし 一九五二年、熊本県玉名市天水町生まれ。一九七六年、早稲田大学第一文学部仏文科卒業、熊本日日新聞社に入社。社会部、東京支社編集部長、社会部長兼論説委員などの後、二〇〇五年三月から編集局長。
心に引っかかっていることがある。
水俣病事件史をめぐっては幾つかの時代区分が可能だが、引っかかっているというのは、一九七三(昭和四八)年という年のことである。この年に何があったか。私は二つの出来事が気になる。一つは三月二〇日、熊本地裁で言い渡された水俣病一次訴訟判決であり、もう一つはその二カ月後の五月から始まった第三水俣病事件である。
こう書くと、何を今更という顔をされるかも知れないが、私たちの社会は、「一次訴訟判決を本当に受け入れたのだろうか」と思うことがある。
よく知られているように、一九六九年六月、熊本地裁に訴状を提出した時、原告団長の渡辺栄蔵さんは「今日ただいまから、私たちは国家権力に対して立ち向かうことになったのであります」と挨拶した。民事の一次訴訟だが、渡辺さんは裁判と水俣病闘争の本質を見通していたのだろう。
そして判決。斉藤次郎裁判長は、チッソの責任について「被告チッソ水俣工場では、この廃水を工場外に放流するにあたり、合成化学工場として要請される注意義務を怠った
から、被告に過失の責任がある」と述べた。さらに記者団の「公害問題が裁判で解決されている現状をどう思うか」の問いには、文書で次のように答えた。
「裁判は当該紛争の解決だけを目的とするもので、そこには自ずから限界があるから、裁判に多くを期待するのは誤りである。企業側とこれを指導監督すべき立場の政治、行政の担当者による誠意ある努力なしに根本的な公害問題解決はあり得ない」
判決とコメントには、それぞれ重要な問題が含まれている。
一つは、判決にある「合成化学工場として要請される注意義務」という考え方で、もう一つはコメント中の「企業、行政、政治の誠意ある努力」という言葉である。
「合成化学工場として要請される注意義務」の「合成化学工場」という言葉は、いろんな言葉に置き換えができる。水俣病以降に問題化した薬害エイズやBSEなど種々の事件を想起する事はたやすいことだ。薬害エイズは端的な例だが、製薬会社や許認可権を持つ役所が果たして「要請される注意義務」を払ったのかどうか。 様々な釈明と弁明は可能だろうが、しかし、人の命を守るという一点に絞って言えば、私たちの社会は今、胸を張って「注意義務を果たした」と言い切れる社会になっているのだろうか。
もう一つは、斉藤裁判長のコメントである。コメントも指摘する通り、裁判の目的は紛争の解決であり、裁判という舞台そのものが、出された証拠の中でどちらがより真実に近いかということを判断するものだ。そういう意味では、司法が裁くのは問題の一側面でしかない。それだからこそ、企業、行政、政治それぞれに役割があるのだ。
しかし、斉藤裁判長が指摘した企業、行政、政治は、判決以降、果たして「誠意ある努力」をしてきたのか。認定申請者の急増という事態を受け、チッソも国も熊本県も、被害者を押さえ込むことに躍起になったのではないか。
私たちの社会が「一次訴訟判決を超えたのか」と問われれば、「否」というしかないと思う。どれほど真摯に被害と向き合ったか。その答えが、今私たちの眼前にある事態である。例えば病像が複雑になったのも、チッソが資金繰りに困ったのも、少なくとも被害者の責任ではない。しかし、「ニセ患者」という言葉に象徴されるように、水俣病事件史ではいつもマイナス面のツケは被害者に回ってきた。
もう一つ気になっているのが、第三水俣病である。
第三水俣病とは、一九七三年五月、「熊本大学医学部一〇年後の水俣病研究班」(班長・武内忠男熊大教授)、いわゆる第二次研究班が、天草郡有明町に水俣病類似症状を示す患者がいることを指摘して、「疫学的調査から有明地区の患者を有機水銀中毒症とすれば、過去の発症と見るとしても、これは第二の新潟水俣病に次いで、第三の水俣病ということになり、その意義は重大であるので、今後この問題は解決されねばならない」と「総括」に書いたことから起きた一連の事件を指している。
一連の事件という表現を使ったのは、この出来事が実に様々な問題を内包しているからだ。何より、第三の水俣病の可能性という指摘がある。全国的に「水銀パニック」を引き起こしたが、裏返せばそれだけ水銀汚染の不安があったということであり、実際、水銀を使う工場は全国に数多くあった。研究班の指摘は、環境庁が否定して終わることになるのだが、医学の問題としてはこの否定の根拠とやり方が正しかったのかどうか、一方、提起した研究班の側には、医学的に精査した上での提起だったのかどうかという問題もある。
この事件を契機に、代表を務めた武内教授ら研究班の中心メンバーが認定審査会などからはずれることになる。医学部内の対立は水俣病像の対立も絡み、その後の展開に複雑な影を落とす。
第三水俣病事件の総括なくしてその後の、水俣病事件の展開の検証はできないように思うのだが、それぞれの主体できちんとなされた形跡はない。否定した環境庁自身の言葉で言えば、「現時点で」の否定だったはずだが、その後の追跡調査の形跡はない。この事件で、魚介類の暫定規制値が設定されたが、水銀の分析方法をめぐるその後の研究は進んでいるにもかかわらず、根本的な見直しはされないままだ。
現在進行形とは言わないまでも、すべての面でまだケリがついていない問題で、私たちは重い荷物を背負ったままのように思えてならない。
「我々は一九七三年を超えていないのではないか」。そんな疑問が消えない。
水俣病関西訴訟の最高裁判決以降、最高裁の「奥の院」から、判決以降の大量申請などの現在の事態に、怪訝な表情をする人がいるという噂が流れたりしている。噂の注釈をすれば、最高裁は水俣病事件が既に終わったものとして判決を書いたのであって、判決を受けて、膨大な申請者が登場したり、新たな裁判が起きるなどといった事態は想定していなかったのだというのだ。
噂の噂たる所以で真偽のほどは分からないところもあるが、さもありなん、という気がしないではない。しかし、それこそが勘違いというものである。また、最高裁の関係者は、環境省が判決に従わないことに怒っているが、水俣病五〇年の歴史を見れば、国、環境省の岩盤の固さは最高裁判決ぐらいで揺れるものでもなさそうだ。
国にとって水俣病の教訓とは何なのだろうか。水俣病は、それぞれがどれくらい学ぶ力を持っているかも問いかけているようだ。
話した人:小柳泰佑、沼田悦子、村上雅通
司会:遠藤邦夫
遠藤 最初は自己紹介からお聞きしたいと思います。
沼田 じゃあ若輩者から(笑い)、私は古城に住んでおります沼田悦子と申します。当年とって六〇歳になりますから還暦です。趣味は、ピアノと日舞とバドミントンです。
遠藤 村上さんお願いします。
村上 私は昭和二八年九月一五日生まれの五二歳です。今は熊本市内に住んでいますけど、実家は水俣駅前徒歩ゼロ分でした。出水高校に通ってたものですから、汽車通だったんです。われわれが高校二年生の一〇月までは、蒸気機関車が煙を出しながら走っていました。
私は子どもの頃ピアノをやってまして、男の子がピアノというのは当時は珍しかったんですよ。それで湯出小学校と袋小学校の、ピアノの弾き初めをしたんです。
遠藤 小柳さんお願いします。
小柳 私は一九六二年の三月二日生まれで、今年で四四歳です。家業は本当の油も売ってますし、売らなくてもいい油も売っています。他には、特技は人の揚げ足をとること。趣味は庭いじりとボーッとすることです。野外活動全般は好きです。東京に八年いました。その頃は毎年三月くらいになると、「もうお前今年で帰ってくっとだろ」って、同級生から電話がかかって来っとです。その噂がどっから出てきよっとかと言ったら、親が言いよった。
遠藤 皆さんの自己紹介ありがとうございます。座談会をしようと思ったきっかけは、今水俣病五〇年ということでお祭り騒ぎという印象というのもぬぐいきれないし、「五〇年で水俣病を終わりにしようとしているんだ」という見方もあります。確かに公式確認から五〇年経ったんですけれども、水俣にとってはたいして変わったことはないんです。世間的に言えば節目の年でもありますから、相思社の「ごんずい」では、五〇年ということで関係者の人たちがどんなことを考えているのか、これから水俣がどうなるといいのか、その辺を忌憚のない意見をお聞きしたいと考えました。
遠藤 テレビ局の中で、村上さんは水俣出身として、独自のスタンスだったんですかね。
村上 私は自分の中で、水俣病を取材すれば、否が応でも水俣病のことがひっかかってきそうな気がして、自分のふるさとに対する抵抗感がありましたね。
遠藤 三月の五〇年事業フォーラムの時に、村上さんは大学の頃に「あまり周りで水俣病、水俣病って言うな」と思ったと言われていましたが。
村上 そうですね。意識の中にあったと思います。私は昭和四八年に大学に入りますが、その年はちょうど水俣病の裁判の判決があった年なんですね。また第三水俣病事件の騒動がありました。水俣が全国的に一番報道された時期なんです。大学に入って周りから「水俣」「水俣」と言われる。もういいじゃないかという気持ちはありました。だから私は「水俣病で有名な水俣の出身です」と、自己紹介していたんです。
それは裏返せば「自分が水俣病とは関係ありませんよ」とアピールしたかったんだと思います。とにかく報道は連日水俣じゃないですか。ところが私は水俣病を全く知らない。「変な患者がいて、我々一般市民には全く関係のないことなんだ」とか、「あれは漁師さんの病気なんだ」と言っていました。それが何回もあると、だんだん煩わしくなってくるんですね。だから水俣の出身であるってことも言いたくないし、水俣病の話題には触れたくないって気持ちがありました。今思いかえせば、当時の私は水俣病の患者さんに対する偏見のかたまりだったと思います。
遠藤 小柳さんはどうでした?
小柳 俺は全くないですね。水俣病に
は非常に恵まれた関わり方で入っていったんです。お袋が明水園に勤めていましたから、小学校の低学年の頃は明水園に行ったりするじゃないですか。そこで水俣病の患者さんの鬼塚勇二君や金子雄治君なんかと話したから、何の偏見もないまま入っていったんです。
それから一番過激な安賃闘争の時期を、僕は全然知らんやないですか。水俣病患者のチッソ前の座り込みのことも知らんし、それで町がぐちゃぐちゃになったというのも直接的には知らんわけやね。水俣病というのは、大きくなってくると「チッソが原因」と分かってきてそれで育ってきてる。だけん大学に行っても仕事を始めても、何の気なしに水俣病の話ができるんです。「有機水銀が原因だから、うつるもんじゃない」っち分かってる。だけん営業の仕事の時でも、「それは違う。うつるはずがなかやけん、あんた何言いよっと」っち言いよった。差別・偏見って、やっぱり「知らない」「本当のことが分からない」から、そうなってしまうんじゃないですか。
村上 小柳さんと世代が違うからかなと思いますが、実は水俣病の患者さんに対する偏見差別というよりも、その前にチッソに対する尊敬の念が強かったんですよ。私の家は駅前なもんですから、毎日「会社行きさん」が駅から通っていく。安賃闘争のとき会社を封鎖して、新労の人たちが立て籠もったり、あの混乱も覚えています。対立する組合の子どもから、石を投げられたこともありましたよ。
沼田 一つ思うんですけど、「忘れさせたい」とか「忘れさせられる」とかあります。偉い人たちが話されるのは、「水俣病は忘れちゃいけない」っておっしゃるんですよね。「じゃあ、水俣病のことは忘れちゃいけないものばっかりなのかな」って私は思うんですよ。「忘れなければならない」こともあるんじゃないかな。私の中には、忘れなければならない部分があるんです。
遠藤 それはどういうことですか。
沼田 例えば、自分が痛みを受けたことは自分でしか解決できないことですよね。痛みを共有すると言うけれども、痛みは絶対共有できないと思うんですよ。その痛みの部分を人は「忘れちゃいけない」と思うけど、自分の中では昇華して「忘れなければいけない」んじゃないのかな。でも「痛みによって起きた現象」は、絶対に「忘れちゃいけない」と思うんですよね。環境が破壊されたとか、いろんな人が傷ついて死んでいったとか、そういった現象は忘れちゃいけないと思うんです。しかし痛みを受けたことはその人が忘れていかなければ、傍では助けてやれないんじゃないのかな。
小柳 今、沼田さんが言いよっとは、遠藤さんが水俣に来たときに「水俣の人間はろくでもない奴で、敵だっち思っとった」っちいつも言ってるでしょう。それは水俣に住んどらんやったけんじゃないですか。沼田さんが言った有識者がそういうふうに言うということは、水俣に住んどらんけんじゃないかなと。
「忘れなくちゃいけないこともある」っちいうのは、僕はニュアンス的にちょっと分からんとやけども。これから生きていくときに、ふつうに生きていけるような地域を作っていくことが、沼田さんが言われる「忘れなくてはいけない」ということの内容じゃないかと思うんです。それをするためには、水俣病がどういうことであって、こういうことがあったということを一回ちゃんとして、それから積み重ねていかんと、砂上の楼閣になってしまうでしょう。
沼田 それは人から「こういうことですよ」って、教えられることじゃないと思う。
小柳 教えるんじゃなくて、日常の生活の中でですよ。
村上 水俣病第三次訴訟の判決が熊本地方裁判所であって、国の責任を認める判決が出たんですが、そのとき私は裁判担当の報道部の記者だったんですよ。その時のリポートが、文化放送のニュースの年間最優秀賞になったんです。社長から賞金と賞状をもらいました。私はその賞状を無意識のうちに破っていました。水俣病でもらったのが嬉しくなかったんでしょう。
ところが、ちょっとしたきっかけで水俣病を取材することになりました。最初の番組は、政治決着した後の九七年です。以降、毎年のように番組を制作しました。取材を深めれば深めるだけ、それまで私の心の中にあった偏見差別の感情が薄れていくのに気づきました。
患者さんに対する偏見差別は、事実がわかれば「何だ」と思うわけです。マスコミが誤報もやってきたし、過剰報道もやってきた。そういったことが分かってくると、「水俣病の真実」とまでは言いませんが、事実関係が分かってくるわけですね。それから患者さんに会ってみるとその人の思いというのが、本で読むのとは違います。私は番組を作っていく中で、自分自身の思いを整理していくことができてきたんだと思います。
沼田 私いつも思ってるんですけどね、チッソは、もちろん殺人を犯したし、環境もずたずたにしてしまいました。起きた結果は変えることはできません。新聞を見たときに、いろんな手助けしてくれる方たちの言葉を聞いたときに、この五〇年たった今でも「国は何も救えなかった」「チッソは約束を守らなかった」という文章から始まるんですよ。確かにそうなのかもしれません。でも、「これこれはやってくれた」けれども、「まだこれだけの部分はやらなければならない」という書き方をしてくれるとね、ああ努力もしているけれども、やっぱりその時点で、チッソも国も人の命を扱う気持ちが足りなかったんだなと分かるんです。
遠藤 これからどんな水俣を作ろうと思っているのか、こうなるといいなとか、これだけは気がかりだなということを、最後に話してください。沼田さんいいですか?
沼田 私の水俣病はこれから始まりです。水俣病に私のできる方法で関わっていきたい。できることっていっぱいありますよ。大げさなことじゃなくても。できることからの積み重ねだと思いますので。痛みを受けた部分をね、忘れないように。
遠藤 今、一番水俣で気になってることは?
沼田 気がかりはあるんですよ。産廃ですよ。
遠藤 愚問でしたね、分かりました。村上さんよろしいですか。
村上 私は立場上、水俣病の事実を仕事として見つめることができた。患者さんと膝を交えて話をすることもできました。それで自分自身の整理も少しできてきて、少しは真実に近いものが、おぼろげながら見えてきたと思うんですね。私のような人間を増やしていくことが、報道機関につとめている私の務めじゃないかなと思います。
遠藤 小柳さんよろしく。
小柳 親父がいるマチだよね。ここの中でもいろんな考え方の人がいるじゃないですか、右、左、真中、縦、斜め、横があって、ガーガー言いよる。何かあってこっちの方向となった時に、「遠藤お前の言うことは分かるけど、今こっちの方向に進むからちょっとみんなに協力してやれよ」というような人がいるマチを作る。それがいい意味での親父ね。昔の村には庄屋さんとかおったよ、そういう人たちが。
遠藤 今はいない?
沼田 昔はマチの顔役みたいな人がいたんです。何か問題が起こったときに、その人が解決してくれてたわけなのね。今はそうじゃなくて、たとえば裁判所とか施設がいっぱいできてきたから、そうするとわずらわしくなるじゃないですか。
小柳 今は「俺が責任はぜったいとるけん」という奴がおらんと。こっちにも良い顔をして、あっちにも良い顔をして、結局それで股先裂き状態になっていく親父らしき人はおるかもしれん。だけどそれは自分の損得勘定だけやけん。そうじゃなくて、ほんとうの親父をつくりたい。
村上 私は自分自身の経験から、水俣市民は水俣病問題に真正面から向かい合うことが大事だと思います。確かに将来は大切だと思うんだけれども、過去どういうことがあったかということを、やっぱり真摯に受け止める。その一つのきっかけに、五〇年というのはとてもいい時期じゃないかと私は思うんです。
遠藤 大変ありがとうございました。私としては嬉しい座談会でした。
――一番大切にされていることは何でしょうか?
宮本 命です。
――今回、命が大切だということで、出馬されたわけですしね。
宮本 現代は人間の尊厳はどこへいってるのか、というような感じでしょう。だから日本はこれから、経済大国ではなくて、命を大切にする国にならねばいかんと思っています。
――好んで使われる言葉はありますか?
宮本 選挙中には「人事を尽くして天命を待つ」ということを書きましたけれども。今は、中学の野球を指導していたときに生徒が使っていたことばですが「負けてたまるか」がよく使う言葉ですね(笑)。産廃に「負けてたまるか」の精神でいきたいと思っています。
――水俣でお気に入りの場所は?
宮本 お気に入りの場所は、四月の湯の児海岸。桜のバァーって咲くときですね。最初、初任で水俣へ来たとき、あれを見て、ここに一生住んでも良いと思いましたもんね。
――水俣病の学習をなさったかと思いますが、その際のご経験を少し?
宮本 一つのクラスの中に、チッソの社員の子供さんもおりますし、水俣病の患者さんの子供さんもいらっしゃるというような時には、いろんな配慮をしなければならない時がありました。
この水俣は辛い思いや差別を受ける経験をした。それを土台にして、新しい水俣に向かって生きていく時に、子供たちに、本当に水俣に生まれて良かったと、水俣に対する自分自身に対する、誇りや自信というのが生まれてきたように思うんです。
例えば、分別収集であったり、あるいは学校版ISOによって、子供たちが外に向かっていろんな説明をするようになったりしました。よそから、どんどん視察に来られて「すごいこと、水俣はやってますね」などいわれてました。よそよりも、一歩前に環境に配慮した取り組みをしてるんだ、という自信というか誇りが、子供たちに見えてきていると思っております。
かつて水俣病の授業は、どちらかというと暗い感じの学習じゃなかったかなと思うんです。それを、どのようにして、どう水俣の子供を力強く育てていくのかというところに視点をおいた時に、非常に明るく、自信をもった子供たちが生まれてきていると思いますね。水俣としては、絶えずよそのところより一歩前に進む、そんなマチにしていかないといけないと思います。
――その教え子さんたちが、今回の選挙では、奮闘なさいましたよね。
宮本 (笑)そうですね、ほんとうにがんばってくれたですね。立候補前にはあんなに反対して、むちゃくちゃ言ってくれました。いざ出馬したら、声かけてくれたりありがたかったですね。自分の心の中では、お世話になった先生たちのためにも、勝たねばいかんなという思いがありました。
――市長選出馬を決意された理由を教えて下さい。
宮本 出馬の要請がありました時に、「自分の力ではとても無理だ」ということで再三お断りしてまいりました。それでも、誰かが先頭をきって産廃を止めなければいかんのではないかという思いがありました。最終的には、「誰かがやらなければ」というような思いで立候補させていただいたというところです。
妻をはじめ皆さんに、随分心配されました。教え子たちからも「先生、大丈夫ですか、何を考えとっとですか」とか「先生、ほんとにやるとね」と相当心配されました。妻は「もう、お父さんは、教育の世界に行ったんだから。その世界しか見てこなかったんだからやめた方がいい」と、自分もそう思ってました。自分の限られた世界しか見てこなかったから、他の世界、政治とか経済は全然わからない。
しかし、子供たちの二〇年、三〇年先の、水俣はどうなのかという思いがありました。私にとっては、産廃を阻止するということが、子供たちを守るということです。おだてに弱いですから、しまいには、その気になったというのもあるかもしれませんけど。
――初の選挙戦となられたのですが、その中で感じられたことは?
宮本 選挙を戦いながら、水俣市民の産廃阻止への思いが非常に強いということを感じました。湯出地区あたりを回るときには、沿道に有権者のお年寄りが並ばれて、私が選挙で回って来るのを待ってらっしゃって。涙を溜めながら「頼むばい」と。「あんたは、誰か知らんばってんが、よろしく頼むばい」と、誰かがやって止めて欲しいという、強い思いを受けました。その時、記者の方が「有権者が立って待っておられるのは珍しいですね」といっておられました。自分は初めての経験だから、全くわからなかったんですけれど。水俣市民の良識ある力を感じました。
――水俣のマチをどうお考えですか?
宮本 水俣は水俣病という個性を持ったマチです。特徴は環境にこだわるマチです。抽象的な言い方で申し訳ないんですけれども、環境にこだわっていくことによって、教育や経済を振興していく。それがマチの活性化にもつながっていくと思っております。別の言葉でいえば、環境の一点突破・全面展開ということです。
――産廃と水俣病、どちらも水俣の未来に重大なものですが?
宮本 公害を経験した街ですから、それが基本的にマチづくりの中心にならなくてはならない。マチづくりを進めていく上で、産廃はとても許容されない。これは水俣病とセットとして考えなくてはならない問題です。水俣病の被害を受けられた方々の想いに答えるためにも、最終処分場は阻止しないといけない。何にも増して、命を大切にする、人の尊厳を回復する、環境を最優先する、そういうマチにしていきたいと思っています。
それから、それぞれの自治体はお金がないんですから、お互いにお金の取り合いっこになります。水俣はそのまま小さくてもいいけどれも、よそに行って帰ってきた時に「ホッ」と安らげるマチになったらいいと思います。小さな自治体が力をつけていくと、水俣市全体としての力になっていくだろうと思います。まずは自分の住んでいる地区の良さを見つめなおしたいと思います。
――小さな自治体というお話がありましたけれど、それは元気づくり推進室とも関わりがあるのですか?
宮本 元気づくり推進室を考えたのですが、具体的に進めていかなくてはなりません。今の世のというのは、インターネットなどでバーっと世界の動きが一瞬にして分かるんです。でも隣の老人がどうしてるかということが分からない。何か非常に奇妙な現象が、出てきてるんじゃないかなと思います。その推進室を使って、 水俣がどういう実態になっているのか、探り出さんといかんかなと思っています。本当にそのマチの持っている良さというのは、何なのかを拾い上げて、それを全面に出していければと思っているんです。少し、時間がかかるかもしれません。
――水俣市は水俣病問題に対して、どのように取り組みますか?
宮本 これは私の個人的な感覚なんですが、各団体の方にお話をさせていただきながら、いろんな思いがあるし、いろんな歴史があるから、非常にむずかしいなあ、というのが偽らざるところの気持ちです。ただ、被害者の立場に立った救済というのは、基本的なスタンスとして持たなければいかん。福祉を含めた地域の再生という路線は守らねばいかんというのはあります。今、どうするのかといわれると「具体的にこうします」というようなところまでいってないというのが、現実ですね。
――産廃最終処分場問題への対策としてどんな取り組みが行われていますか?
宮本 検討委員会の先生方と、現在交渉しております。今、急いでいるのは、各団体の方々と、市民一丸となった(産廃処分場建設反対の)組織、「産廃最終処分場建設阻止! 水俣市民総協議会(仮称)」を作ることです。各団体への組織加入のお願いを、例えば婦人会・老人会であるとか、運動していただいてる方々の所へ呼びかけています。そういった方々を、一斉に集めて組織を作ります。それから、六月中に文化会館で総決起集会をやります。
――中長期的には、どのようなことを考えておられますか?
宮本 息の長い闘いになると思います。それぞれの団体が、気持ちの上での刺激を持ちながらやっていくにはどうしたらいいのか、その辺のところをしっかり、考えていかなくてはいかんだろうと思っております。
私は東京へ行ってIWD東亜熊本の社長さんとお会いしたんですけれども、話し合いにはとても乗ってもらえないという感じでした。水俣で騒いでいても仕様がないな、というような感じすら受けました。私どもは「こんなに水俣では、辛い思いをしているのに、なんでこうなっていくとだろうか」と社長さんに話したんです。けれども「それは地域エゴだろう」という感じでした。業者は「私たちは、安全に施工しますから」という。水俣病に対する認識あたりも、我々が持っている認識と差がありました。業者は地方の一出来事みたいな捉え方をしてるものですから、「そうではなくて、全国的な広い問題なんですよ」ということを、訴えていかないと。東京のほうでは、まだまだ深刻な出来事としては感じられていないような気がします。
(インタビュー・構成:川部岬・高嶋由紀子)