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水俣市への産廃最終処分場建設計画に関する反対決議
我々、水俣市民は、今年5月1日、水俣病公式確認50周年を迎えた。
50年を経た今も、なお、水俣病問題は解決していない。
水俣病は、工場の無処理排水という産廃により発生した最悪の環境汚染公害である。四千人を超える人々が新たに救済を求め認定申請し、胎児性患者問題や水俣湾埋立地の将来的対策など、水俣病問題は、今だ課題山積のまま、我々の眼前にある。
しかし、一方で我々は、水俣病の貴重な経験から多くのことを学び、市民をあげて地域再生の課題に取り組んでいる。それは、水俣病という負の遺産をプラスに転じていく「環境モデル都市」の実現を目指す壮大な取り組みである。
水俣病受難の地であり、「環境モデル都市」を目指す水俣市に、今、巨大な産業廃棄物最終処分場が建設されようとしている。「環境モデル都市」実現への我々の永年の努力が踏みにじられ、水俣の命の水である水源が大きな脅威にさらされようとしている。
鰍hWD東亜熊本が、本市の長崎・木臼野地区に計画している産業廃棄物最終処分場は、広大な敷地に水俣から出る産業廃棄物の量をはるかに超える途方もない量の産業廃棄物を埋立て処分するものである。
計画地の周辺には、20余りの湧水があり、地域住民の貴重な生活用水となっている。処分場の処理水は鹿谷川を経て湯出川に流れ込み、7km下流には水俣市民の水道の取水口がある。処分場の処理水や遮水シートを漏れ出た汚染物質が、我々の命の水である水道水を汚染する危険性がある。
また、我々市民は、水俣病の経験を貴重な教訓として、協働で「環境モデル都市づくり」を進めてきた。市民自らが、ごみの高度分別・リサイクルに取り組み、ごみを減らし、エコタウン企業を誘致して、資源循環型社会の実現を目指してきた。分別困難な大量の産業廃棄物が持ち込まれることは、これまでの我々の努力を踏みにじり「環境モデル都市づくり」に逆行するものである。
さらに、水俣は、日本の近代化の中で、全国民に代わって負の遺産としての水俣病を背負い続け、今なお解決されない受難の地である。水俣湾埋立地は、高濃度未処理の水銀汚泥を封じ込めた、いわば広大な産業廃棄物最終処分場である。このような水俣に、新たな産業廃棄物最終処分場を建設するとは、あまりに理不尽かつ残酷極まりないことではないか。
我々、水俣市民は、水俣病のような過ちを二度と繰り返さないため、安心安全な郷土水俣を守り、環境モデル都市づくりをさらに進めていくため、そして、これから生まれてくる未来の子孫たちのためにも、今回の産業廃棄物最終処分場の建設計画を断じて許すことはできない。
市、市議会、市民が、一致団結し力を結集して、事業者が建設計画を断念し撤退するその日まで、不撓不屈の精神で断固闘いぬくことをここに決議する。
平成18年6月25日
産廃阻止!水俣市民総決起大会
水俣市は四月の機構改革で、長崎・木臼野に計画されている産業廃棄物最終処分場に関する業務を担当するセクションとして、「産業廃棄物対策室」を新設しました。
宮本新市長が、その公約のトップに掲げた「産廃絶対阻止!」を具体化する大きな命題を背負った小さな室の誕生です。物理的な問題からか意図的にか、市長室のすぐそばに配置されています。
それまで、産廃施設の建設計画に対する市の態度に関して、様々な方面から多くの非難を受けていたことは、当事者として百も承知しています。そして、その非難の最たるものが、「市はちゃんと反対の意思を示さなかった。一緒に反対運動をしなかった!」ということも。当事者として言い分もあります。でもそれは取るに足りないことかもしれません。行政として住民の信頼を得ていなかったということは紛れもない事実ですから。
信頼回復のために、水俣市がまず最初に取り組んだのが、市民一丸となった産廃処分場建設反対の組織作りです。趣意書を持って、大小様々な団体・企業等に加入の呼びかけをして回りその結果五二団体の賛同を得て、六月初めに「産廃阻止! 水俣市民会議」が発足しました。そして会長には宮本市長が就任しました。この選任にも賛否両論ありますが、市が先頭に立って建設反対運動を推進していくという決意の表明だと、好意的に受け止めている人たちが大多数のようです。
今後、産廃処分場建設反対の住民運動は、この市民会議を中心に取り組んでいくことになりますが、早速六月二五日には、水俣市文化会館に市民一二〇〇人の参加を得て「産廃阻止!市民総決起大会」が開催されました。反対への思いを高めあうと共に、これから始まる息の長い運動のスタートを切りました。
あくまでもスタートなのですが、盛会裏に終わった決起大会はあたかも住民運動がすぐ実を結び、事業者の建設計画を白紙撤回に追い込むことができるゴール地点だと勘違いさせてしまったのでは、と要らぬ心配もあります。似た思いは、産廃絶対阻止の市長が誕生したときの、市民の安堵感の中にも感じたような気がします。
安易な言い方をすれば、行政に身を置くものとしては、今回の事業者の建設計画に関しての行政手続きも、他の案件と同じように進んでいくと理解せざるを得ません。そのため、行政は行政上の手腕を持って、あらゆる観点から事業者の計画の不備を見出そうと日々格闘しているところです。
「住民に新たな気持ちでスタート地点に立ってもらいたい」、そんな思いで始めたのが予定地の現地見学会です。
六月からスタートし、月二回のペースで実施しています。朝九時半市役所集合、基本的な事項を説明したあと、市役所の車に分乗して出発です。途中、管理型処分場建設予定地の真下に当たる大森地区で地域の人の切実な話を聞いて、再び車に乗り込み予定地が眺望できる見学ポイントへと移動します。敷地の広大さと、水俣市の中での位置関係をしっかりと自分の目で見てもらいます。さらに、車は予定地に一番近い木臼野地区を抜け、産廃の搬入経路として予定されている道路を通り市役所へと戻ります。所要時間約二時間半。
毎回、一〇人以上の参加があり、参加した人の口から出る言葉や予定地に注がれる眼差し、さらには次のようなアンケート結果を見ると、まさに「百聞は一見に如かず」。この見学会を通して、「自分の問題として捉えてもらいたい」という私たちの意図は十分伝わっていると実感します。
・見学地での地元有志の悲痛なまでの訴えに身が震えました。
・山の地形も把握できて、あの場所に産廃処理場ができたら確実に「命の水」を汚染することを確信した。
・用地の広大さに恐怖心がさらに湧きました。
・風光明媚な水俣の自然に感動し、絶対に壊してはいけないと思った。
さて、それでは、この現地見学会を一つのサンプルとして、処分場建設反対の住民意識が全市にわたり、確実に高まりつつあると判断していいものでしょうか? そこまで意識が醸成しているとは残念ながらまだ思われません。アンケートの回答は続きます。
・各集会に参加して思うのですが、市民の盛り上がりには今ひとつもどかしさを感じます。
・水俣市民猛反対の中、主婦連の大きな声は聞かない。この際、主婦連も立ち上がって狼煙を上げたらどうでしょう。
・未だ反対運動はあっちだ、こっちだとか、また関心を示さない人が多いことに驚く。
これまでの現地見学会への参加者の平均年代、概ね七〇代。子や孫、何より故郷水俣の行く末を案じて止まない年代と見ていいでしょう。皮肉な言い方をすれば、若い世代の思いはいずこへ?
住民運動を名実ともに全市に広げるのは本当に困難です。働く人のため、見学会は日曜日に計画しました。若い人の参加がないので、今は子どもが学校へ行っている自由な時間を利用してもらおうと、月二回のうち一回は平日を当てることにしました。でも、まだまだそのたくらみに乗ってきてはくれません。
まずは現地を見てもらい、その先に何が見えてくるかを多くの人に考えてほしいので、私たちはこれからも現地見学会を続けます。どうぞ多くのみなさんのご参加を、心よりお待ちしています。
産廃処分場問題の関連で水俣市に既設の産廃処理施設を調べたところ、袋の山の中に産廃中間処理施設があることを知った。七月二〇日、この(株)久環リサイクル工場(略称キューカン)を見学させてもらうことができた。雨の中迎えに来てくれた総務部長の橋本さんの後について、肥薩おれんじ鉄道袋駅から未舗装の山道を車で走ること一〇分ほどで施設に到着した。久環という会社は、市内の久木田建材の環境部門として六年前より建物解体工事および産廃収集運搬を水俣市白浜で営んでいたが、設置許可を得て今年一月に畜産業者の跡地で中間処理施設の操業を開始した。
まず目に飛び込んできたのは、建築廃材などの木材くずとコンクリートがれきの山である。木材くずは破砕、金属等の分別除去の後、ふるい選別されて木の粉となる。ここではおが粉と呼んでいたが、牛の敷きワラとして引き取られ、最終的には牛糞堆肥となる。コンクリートがれきも破砕、異物除去されて、砂利として再生される。
水俣エコタウンにある家電リサイクル工場のアクトビーリサイクリングからもテレビの木質キャビネットが持ち込まれるし、水俣市環境クリーンセンターで処理しきれない水俣市民の家具類も受け入れている。伐採した立木の山もあったが、これは道路工事で出たものを乾燥させている最中とのことだが、梅雨のため大変そうである。
この施設で売れるものとしてはおが粉、砂利および金属類があるが収入としては微々たるものである。主たる収入は産廃受け入れ時の処理料であり、それによって処理費用をまかなっている。建築廃材からは様々な再生できない廃棄物も出る。安定型処分の廃プラやガラスばかりでなく、管理型処分場への埋め立てが義務づけられた石こうボードも出る。安定型への持ち込み費用一立米五千円のに対して、管理型では四万円にもなる。有害物質が入っていないかの検査にも費用がかかる。安定型は人吉市へ、管理型は植木市へ、また焼却物は川内市や小川町の処分場へ持っていく。
一方、建築廃材の集荷は、水俣芦北地域をエリアとしている。これまで県南地域にこの種の施設はなく、相思社でも建物補修で出た廃材は、軽トラに積んで鹿児島県まで運んで行かなければならなかった。水俣市の水源地域に巨大産廃処分場を計画しているIWD東亜熊本も、「水俣エコタウンの活性化のために、残さの引き受け先が必要」とする論理を展開しているので、表現が微妙にならざるを得ないが、適正な規模と運用を前提にこうした産廃処理施設は必要であり有意義なものである。
場内を案内してくれた常務の篠田さんは、こうした中間処理により産廃の再生利用、減容化、さらには最終処分場の延命が図れると、意義を説明してくれた。この中間処理施設自体の従業員は八人だが、建物解体を行う班がこの日は雨のため場内で作業をしていた。昨今、解体工事において建設リサイクル法が施行され、重機によるごちゃまぜのミンチ解体は許されず、現場での分別が義務づけられたそうである。若い従業員にも仕事を任せることにより定着率もよく、地元企業として水俣で生き生きと仕事をしていきたいという思いが感じられた。
ところで、リサイクル工場の収入の一部に、なんとジャガイモの売上がある。眼下に見えていた一町歩ほどの畑は、隣の畜産農家のものかと思っていたら久環のもので、見学時にはサツマイモを耕作していた。イノシシ被害の苦労もあり、つい最近、電柵を張ったそうだ。
おが粉を使った堆肥も使えるし、石こうボードを再資源化した土壌改良材も研究中とのことであった。さらに畑での作業も含めて、障害者のグループホームを作るべく、NPO法人の設立を目指している。相思社での環境学習受け入れでも、資源ごみ分別と畑の収穫体験で利用させてもらえないかという思いも膨らむ。
(水俣病センター相思社・職員 神沢聡)
(注)
産廃中間処理施設とは、一つは産業廃棄物をリサイクル・リユースするための処理を行うものであり、もう一つは埋立て最終処分の容積を減量するために、小さく切ったり・破砕したりする施設である。ただ前者の施設でも埋立て最終処分するほかないものは発生する。
六月一日、高木仁三郎市民科学基金の助成を受け、湯出川・鹿谷川の河川水の水質分析を行った。大森地区の下田保富さんらの協力を得て、鹿谷川および湯出川下流の二ヶ所で採水し、株式会社ニチゴー九州に三八項目の分析を依頼した。結果は予想通り、おおむね国の環境基準を大きく下回り、鹿谷川、湯出川とも、「非常にきれいな水」であることが証明された(数値は九ページ表参照)。この数値は、鹿谷川は生活環境の保全に関する環境基準ではヤマメ、イワナが生息できる環境とされるランクAA、湯出川もランクAの値である。また、カドミウム、シアン、水銀等の重金属や、PCB・トリクロロエチレン等も基準値を大きく下回るか、検出されなかった。処分場からの浸出水は、国の基準でもBOD六〇mg/Lであるが、現在の鹿谷川・湯出川の水との差はあまりに大きい。また、国の基準値は比率だけを問題とし排出される総量を問題としないが、計画されている六〇〇トン/日の排出量を考えると、排出水だけでも現在の水質が大幅に悪化することは容易に想像できる。それに加えて、遮水シートの破損による水漏れや沈殿池のオーバーフローの恐れもある。
七月一日には、「水俣に産廃はいらない!みんなの会」との共催で、久留米大学教授の河内俊英さんを講師に招き「市民による環境調査の考え方と方法〜久留米市の処分場反対運動から学ぶ」と題して講演会を行った。
久留米市の水源地である高良内・杉谷地区への市の一般廃棄物の管理型最終処分場建設計画に対して、予定地は適地ではないと考える市民らは、積極的に予定地の環境を調査し、危険性を行政に訴えていった。一五年間に及ぶ地道な反対運動と裁判の結果は、建設地の変更には至らなかったが、処分場の規模は当初の計画の五〇万立米から二〇万立米に縮小され、施設の安全性の面でも強化された。
二重のシートを敷き、その間を真空にし、気圧の変化でシートの破損を検知するシステムの導入、通常の遮水工(シート・粘土層)の下に更にコンクリートを敷くなど、従来の施設よりかなり強化されている。にも関わらず、稼動からたった八ヵ月後には、遮水シートの破損が明らかになった。市はこれを公表しなかったが、これが公になったのは、処分場の稼動後も市民が処分場稼動も監視を続けたためである。処分場を見渡せる高台から定期的に監視し、写真を撮る、周辺の河川の水を調査する、情報開示による市の情報のチェック等を処分場の稼動後も行ってきたことが、問題の発見に繋がった。ちなみに同じ高良内地区にある旧処分場から溢れた水を調査した結果、環境ホルモンのビスフェノールAやノニルフェノールが検出されている。新しい処分場でもこの問題が懸念されている。
一方、水源地である高良内・杉谷地区が予定地に選定された根拠として、ゴミの量が多く大規模な処分場を確保できる場所がここしかなかったという理由が挙げられていた。そのことから、高良内・杉谷地区への建設に反対する市民は、根本的な解決策としてのごみ減量も訴えた。久留米市は一九九八年に人口二四万人レベルの都市としては画期的な一七分別(現在は一八分別)を導入した。その際、水俣のごみ分別も大いに参考にされたという。
河内さんの講演を、約三〇人が熱心に聞き入り、質問も積極的に飛び交った。久留米市の人々が、地道な努力により一定の成果を上げたことは、私たちの取り組みにも大きな示唆となった。
水俣では久留米市とは異なり、行政が積極的に産廃反対のための調査を行うことを表明している。そのため、市民と行政とのパートナーシップで産廃問題に取り組んでいくことになる。しかし、専門的な問題は行政に任せておけばいい、という人任せの考えは、パートナーシップとは言えない。IWD東亜熊本は夏じゅうにアセスメント準備書を提出するという。それに対して市民は、準備書の不十分な点や懸念される点を意見として指摘するとことができる。準備書への対応は市民が自力で調査研究する力をつける絶好の機会といえよう。いきなり専門家のような調査はできないが、できることから一歩一歩取り組みを進めていきたいと思う。
(水俣病センター相思社・職員 高嶋由紀子)
カネミ倉庫前で、条件闘争ではない坐りこみをしている。水俣で言えば緒方正人さんの運動に近いのではないだろうか、と聞いた。しかもその坐り込みは、四二七回を数えると言う。
坂西 ここでの座り込みは、どのような経緯で始まったのですか?
犬養 このそもそもの始まりは、紙野さんたちの娘の柳子さんたちが、ここで座り込みするんです。その前に一人のおじいちゃんが油症で、「痛いよ、痛いよ」と言って亡くなっていく。紙野さんの娘さんがずっと看病していたんです。そうやって殺されていったおじいちゃんの思いを、どこへぶつけたらいいか分からんからって、ここへ来て坐り込みやるんですね。その時すごく衝撃的だったのが、垂れ幕に「社長よ、油症の苦しみを食べてみよ」とやったね。それはここに被害者の人たちが何回も来て、いわゆる条件闘争なり、自分たちの闘争に有利なような坐り込みをした。
でも、紙野さんの娘さんたちの坐りこみは、「油症の苦しみを食べてみよ」っていう、僕の言葉で言えば非常に実存的な訴えかけ。それは「社長よ」という形やったけど、「聞いてくれ」っていう形やった。
ところがそれを潰したのはカネミや官憲でなくて、被害者とか支援者だったんです。「そんな跳ね上がったことしても仕方ない。もっと有効なカネミを撃つ運動をせなあかん」って引きずり降ろされた。その後何日かで、統一集会みたいなものをやるんです。そこには赤旗やら、組合の代表や議員らがいっぱい来て、「みんなでやりましょう」ってあいさつしてね。僕らはそれに参加したんだけども、非常に空しい気持ちやった。これは柳子さんがあそこで訴えたことと全然違うぞ、それを集束するような形で開いた会やのに全然違うぞ。
それで一〇人ぐらいで、無届デモの沈黙デモをやったんですよ。ほんで最後にここへ来て、カネミのガラスが夕日でバァーと真っ赤やったん覚えているけど、それが土曜日やった。皆憤懣やるかたないから一言ずつ言おうやないかって、順番に一人ずつ言うて最後が僕やった。僕はもう成り行きにまかせて、「毎月一回来るぞ」って言ってしもた。そっから僕は毎月一回、それがそもそもの始まりやった。紙野さんの三年八ヶ月の坐り込みも、何回目かの終わりの時に一緒に参加されていた奥さんの紙野トシエさんが、「私はもう帰りません。ここにいる」と言うことが始まりやった。
坂西 坐り込み始めてからは、どういった訴えをしてきたんですか?
犬養 初めの僕らの呼びかけっていうのは、PCBはなんで油の中に入っていたのか。原因究明は裁判で何回もされるけど核心に触れんわけ。でも考えてみればPCBは工程の中で減ってるわけだし、どっかで消費しているに違いない。僕らの最初の訴えはカネミに向かって、「本当のことを知っている人はしゃべってください。それで会社辞めさせられるなら、僕らがちゃんと補償しますから」って、そういう訴えやった。それが精一杯やったんやねえ。
坂西 香月さんはその頃にはもう参加されていたんですか?
香月 福岡は福岡でやっていた。それこそ坐りこみってのは、カネミの中では常にマイナーな運動だった。福岡で裁判が行われていて、被害者まわりとか県と交渉したりとか、九大医療班と交渉したり。そっちの方がメインでそれをやっていたのが告発です。
犬養 マンモス裁判と言われた油症被害者の裁判で紙野さんが原告筆頭だったんだけど、その紙野さんが「裁判闘争は結局人の苦しみや命を金に換える装置にすぎない」と言われたんですね。特に共産党の弁護士たちと対立もあったんだけど、そういう中で自分の痛みや命をお金に換えたくないというので裁判を降りられる。
そうすると被害者からもボイコットされるんですね。「自分たちの運動の足をひっぱることになるやないか」と言われてね。紙野さんたちがここで三年八ヶ月やったのは、結局、医者であれ、弁護士であれ、支援者であれ、第三者っていうのは訴えを聞いてくれない。どこへ行ってもだめや。厚生省も県も行った。自分たちが言いたいことを言えるのは、ここしかないんだからと言うことです。僕らの運動の中心っていうのは、三年八ヶ月の紙野さんたちの坐り込みに集約されているんです。
香月 そうですね。紙野さんが「裁判がおかしい」と言うと、「なんでおかしいのか」と被害者同士でいがみ合うんですよ。その中で紙野さんは、裁判を降りざるを得なかった。そして、やっぱり自分たちがやりたい運動は、坐り込みなんだということになってきたと思うんです。あの日、紙野のおばさんは覚悟をして坐りこまれていて、その時座り込んだのが家族四人と支援者二人の六人。翌日には北九州の支援者がすぐ小屋を建ててくれたんですね。
坂西 動かないといったのには、何かきっかけがあったんですか。
香月 やっぱり被害者からも叩かれて、支援者ともいろんな軋轢があっても、ここでダイレクトにカネミと対話することを紙野さんは求められた。そこにしか解決はないと。
犬養 「俺はここで死ぬから、死んだらここで焼いてくれ」って言われていました。そういう覚悟だった。
坂西 香月さんにとっての坐りこみとはどういう運動でした?
香月 全国集会があった中でね、要求書を作るという運動があったんですね。要求項目を箇条書きするんだけど、その前に前文をつけようやと。その段階でですね、三つの前文ができるんです。僕らと、紙野さんと、被害者を代表して金田さんという牧師さんが作った前文。その前文の中身が違っていたんですね。そこで別れていった。僕らが言っていたのは「命を回復するっていうことは、どういうことなのか」っていうことを、カネミの中で問いたいということだった。
犬養 結局、紙野さんもその問題をずっと引きずったと思うんですね。それこそ命とは何か。金田さんが書かれた文章で、命は尊いものだなんてポンと言うてそれが大前提になる。だけど、香月さんや紙野さんが問われたのは、「じゃあ命なんで尊いのか、命っていうのはそもそも何なのか」。だけど、そういったことは、なかなか受け止められないんです。
坂西 遡りますけど、香月さんと犬養さんがカネミと出会われたきっかけは?
香月 学生運動をやっていた九大の学生は、水俣、カネミ、洞海湾の汚染問題をやっていたグループがあったんですよ。九大の中に反公害闘争委員会っていうのができた時には、水俣がメインだったです。でも、僕らは福岡にいるし、僕の友だちにクリスチャンがいて、そいつがカネミをやっていました。だから「僕らはカネミをやろうじゃないか」っていうことで始めたわけです。
犬養 紙野さんは一九六八年に発症でしょう。あの人はクリスチャンやったからね、六九年か七〇年かに紙野さんが、僕を訪ねてきてくれました。「自分の教会では聞いてくれんから、一緒に闘ってくれませんか」って呼びかけられた。その時は「僕はカネミをやりにきたんやない」って断ったんです。「筑豊をやりに来て、まだ五年ぐらいしか経ってないから、筑豊の問題だけでも精一杯や。大変なのは分かりますけどようやりません」って。その後に紙野さんから手紙をもらったんですね。「無関心は公害殺人の加担者だ」。その言葉にノックアウトされて、紙野さんと一緒にやり始めたんです。
坂西 その後はどういった思いでカネミに関わり続けたんですか。
犬養 柳子さんたちの人間的な叫びが心にあったのと、山本周五郎の小説に『ひとごろし』っていう時代劇小説があります。その作品は、自分のお父さんか兄貴か殺されて、あだ討ちに行くんだけど、向こうの方がよっぽど強い。だから、必ず逃げられるだけの距離をとって「あいつは殺人者だ」って言い続ける。宿屋に行っても、どこへ行ってもね言い続けるんです。最終的には、皆からその人が嫌われて、彼の方から近づいてきて「殺してくれ」って言うんですね。「こんな形で生きててもしょうがない」と。そんな小説があるんです。僕はカネミに対して「こいつは人殺しだ」といい続けてやろうと、そういう思いがあった。それが何かを起こしていくんやないかって、その頃は甘く考えていた。
坂西 でも企業はなかなか向き合ってはくれないですよね。
犬養 そうやねえ。だからだんだん変わってきて、それこそラザロの如くっていう感じになってきたんやないかねえ。
香月 だけどね、正門は閉鎖して通れなかったんですよ。カネミにボディブローは絶対に効いていたと思うんですよ。やっぱ私たちが、第四土曜日来るだけでも嫌でしょう。
坂西 最後にあえて聞きますが、今なぜ坐りこみをされているんですか。
犬養 今日のビラにも書いたけど、本当にカネミがなんで起こってきたのか。つまり簡単に言ってしまえば、人の命よりも利益を優先する。ほんと拝金主義やないけど、お金お金という形で生きている。それには僕らも巻き込まれていて、もし毎月一回のこの坐りこみがなかったらそんな問いかけもできない。僕らもその渦の中でしか生きられないのではないかと、そういう意味ではカネミがどうこうよりも、自分との闘いやな。そういう思いが非常に強い。
香月 犬養さんが一人だったら坐りこみは続け難いだろうから、お手伝いに来てるんです。それ以上には、僕は何にもないんです。ただ一つ良かったのは資料集ができたこと。座り込みしたからできたと思います。
(聞き取り:坂西卓郎)
カネミ倉庫正門前のテント小屋には油症患者がいる訳ではない。世間に注目されている訳でもない。坐りこみ開始当時は土曜日も操業していたカネミ倉庫も、現在土曜日は休業している。しかし、カネミ倉庫前のテント小屋は紛れもなくカネミ油症の「現場」であった。闘争や運動という表現ではなく、一人の人間としてカネミ油症事件の根源を考えている人たちがいた。それは水俣病とも共通した課題ではないだろうか。私もまた水俣の現場で考え続けていきたい。
紙野柳蔵さん
裁判闘争の先頭に立って闘うが、訴訟は「生命の相場」をつくることにしかならないと考え原告を下りる。その後、カネミ倉庫正門前に一家四人で約三年八ヶ月もの間座り込む。〇一年、八八歳で死去。