機関誌ごんずい96

目 次
ごんずい96号
阿賀野川流域概要図 地図出典:豊田他編1978

特集 阿賀野川と新潟水俣病

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特集リード「阿賀のほとり、近頃のこと」 旗野秀人

 「タミさんが居のなるんと、困ったねぇ」集落の女衆のまとめ役、新美さんが深刻な顔で言った。「いつまで水俣(運動)やらんかねえの」と、少しぼやきながらも、いつも集会所の申し込みや鍵の開け閉めを黙々とやってくれるタミさんが、隣町に引っ越すらしい。八〇過ぎてこの村を離れるとは、よほどの事情があったに違いない。九〇歳のミキさんも(映画「阿賀に生きる」出演)お盆を過ぎると、呆気なく逝ってしまった。寂しくなるばかりの患者会である。現地調査の交流会が心配になった。代表の晴雄さんに新美さん、清雄さんにツヨシさんにハツミさん、元気印の参治さんで六人か。和男さんは暫く顔を見せてないし、この夏入院したキミイさんは大丈夫だろうか。覚悟はしていたが現実となった。
 資料館で、流域市町村の担当課長らとはじめて会議をする。県知事は患者会と面談し、五〇年式典に出席してから変わった。新潟版「もやい直し」に積極的になった。それにしても出席した役人は「水俣病のことは知らない」「良くわからない」などと同じ流域に住みながら、皆ぬけぬけと言う。同席した被害者の会の節子さんは思わず「これまで三〇年も四〇年も運動してきたのに」と言葉を震わせた。
 新潟には大雪も降る。阿賀の流量は日本最大級だ。海魚ではなく、川魚を食べて水俣病になった。水俣と新潟は似ているところもあるが違う。水俣の「もやい直し」を学んでも真似る必要はない。水俣は焼酎が旨い、新潟は地酒だ。お互いにそれぞれ宝もんを自慢しあえばいい。勿論、共通の宝もんは水俣病患者である。
 高齢の患者は亡くなるばかりで行政の無策に悔しくて今更と思ったりもするが、やはり大雪が降ろうが、洪水に遭おうが、水俣病になろうがここで暮らし続ける患者にとって行政の出番は大事だ。一緒にやるしかあるまい。
 いつも支援してくれる町場に住む老婦人が言った。「旗野さん、あんたのやっていることは偉いと思うけどさ、つきあっている人たちは水俣病でなんかないよ、熊本の患者さんは本当に可哀そうだけどね」大雪や洪水や地震よりも大変な現実が、ここにある。

新潟水俣病の現状と課題−新潟版もやい直し、始動へ− 高野秀男

たかのひでお
1951年、神戸市生まれ。中小企業の労働組合運動を経て、1983年より99年まで新潟水俣病被害者の会と同共闘会議の専従事務局。99年12月より「平和・人権・環境」をテーマとする労働団体・新潟県平和運動センターの事務局長に就任。現在、反戦・平和、反原発、部落解放、教育、朝鮮学校、新潟水俣病等に携わる。

「水俣病懇談会」で新潟はどう位置づけられたか?

 九月一日、「水俣病問題にかかわる懇談会」が提言書をまとめた。評価は分かれている。私としては「認定基準の見直し」が盛り込まれなかった以上、(五)の新たな救済・補償の枠組みを早急に打ち出す、(一一)の被害の全貌を明らかにするための総合調査研究の推進を、番号が優先順位を示すものではないとしても、もっと前にもってきてほしかった。全被害者の救済なくして教訓は導き出せないし、再発防止はありえないと思うからである。が、それ以上に無念なのが、新潟水俣病に言及した箇所が提言書にほとんどみられなかったことである。
 予感はしていた。一九九五年の政治決着後の「―社会科学的研究会」報告書に、新潟の記述はほとんどなかった。今回の懇談会もまた、新潟の関係者は委員にいない。このため今年一月の「懇談会」で、「現地に入ってぜひ被害者の声に耳を傾けて」欲しいと要請した。熊本・新潟両水俣病を重ねあわせてみることによってこそ、問題解決の糸口がみえてくるのではと提起した。
 提言書のなかで新潟に言及したのが、唯一「新規申請者が示す問題の根の深さ」についてだった。新潟は被害が「阿賀野川流域に広がっているため、…被害者同士の地域共同体的結びつきが弱く、…連帯しにくい状況に置かれている」とある。共闘会議のメンバーからは、新潟の実態をみていないという反論が相次いだ。
 なぜ、新潟は「つけたし」になってしまったのだろう。被害の規模や深刻さが違うというのだろうか。あるいは、自治体・関係者の問題解決への要求度が熊本に比して弱いというのだろうか。

新潟水俣病の経過と概要

 新潟水俣病は熊本水俣病の公式確認から、九年後に公表された第二の水俣病である。新潟では、公表まもなく新潟勤医協を中心に「民主団体水俣病対策会議」(のちに新潟水俣病共闘会議に発展)を結成し、被害者の救済・支援とともに「熊本の二の舞を繰り返してはならない」として裁判に踏み切った。
 この裁判は全国の公害患者を励まし、イタイイタイ病、四日市ぜん息、熊本水俣病と続くいわゆる四大公害裁判のさきがけとなった。
 提訴から四年後、新潟地裁は加害者・昭和電工の責任を厳しく断罪した。昭和電工は公害撲滅の世論に押されて判決前日に控訴権の放棄を表明し、判決は確定した。しかし、判決額は原告被害者にとっては不十分なものであった。このため被害者は正当な補償を求めて昭和電工と直接交渉に入った。が、交渉は平行線のまま推移し、暗礁に乗り上げていた。それを突破し切り開いたきっかけが、熊本一次訴訟の原告全面勝利判決であった。一九七三年六月、被害者は昭和電工と補償協定を取り交わし、これで水俣病問題は解決したかに見えた。
 しかし、この協定に対する「異議」と協定締結前後におきた第三、第四、第五水俣病のシロ判定を機に、新潟では水俣病認定申請者の棄却が増大する。裁判で原告側にたった椿忠雄・新潟大学教授(新潟県・市認定審査会長)が「変節」したのだ(斉藤恒著『新潟水俣病』)毎日新聞社)。翌七四年には認否率が逆転し、七八年には棄却患者が一千名を超えるに至った。
 このため八二年に、棄却された患者らが国と昭和電工を相手に第二次訴訟を提起した。一〇年後、新潟地裁は原告のほとんどを水俣病と認める判決を言い渡したが、昭和電工が控訴したため、東京高裁に舞台は移された。九五年の熊本の政治決着をうけて、新潟もその年の暮れに昭和電工と協定書を交わし「一応の決着」をみた。
 以上が新潟の経過だが、最高裁判決前の被害者数は認定患者六九〇人、総合医療事業対象者八三四人で、分かっているだけで一五二四人であった。同時期の熊本・鹿児島両県の被害者総数は一三五二六人であり、その比率はおよそ一対九となる。
九月四日、熊本・鹿児島両県の認定申請者と新保健手帳申請者の合計は一万人を超えた。新潟は一〇六人(うち認定申請者は一四人)で、熊本のおよそ一〇〇分の一の数でしかない。上記割合を単純に当てはめてみると、一千人いても不思議でないはずだ。熊本と新潟の何が違うのだろうか。

違いを、地域・被害者・運動からみる

 熊本と新潟の被害者の身体的苦痛は変わらない。水俣協立病院の高岡滋医師は今年六月、「新潟の被害者の汚染レベルは水俣に劣らない」と報告している。両者の違いの最大要因は、やはり被害の規模なのだろう。熊本では、水俣病が地域経済に大きな打撃を与え、水俣市などは疲弊した。一方、新潟は一五市町村に被害が及んだものの、多くの自治体にとっては、阿賀野川の川筋というさらに一部地域に限定された問題だと受けとめられてきた。地域経済を揺るがすほどの問題にならないと、行政施策に反映されないという現実政治の非情なのだろう。
 被害者のおかれている状況の違いはどうか。熊本では「環境創造みなまた推進事業」が一九九〇年から始まり、九四年の慰霊式で吉井水俣市長(当時)が陳謝し、もやい直しが進んでいった。前述の申請者一万人は、そうした一連の取組が背景としてあるのだろう。他方、新潟は、昨年の新潟水俣病四〇年の際に泉田県知事が「ふるさとの環境づくり宣言」を発し、これからようやくもやい直しの取組が始まろうとしている。最高裁判決の後も、マスコミによる報道や行政による啓発活動は熊本に比して極めて少ない。新潟の申請者の少なさは、水俣病に関する情報不足と水俣病と名乗り出ることによる社会的差別に対する恐れを、いまだ感じているからなのだろう。
 運動面でみると両者の違いは大きくみて二つある。一つは、新潟は被害者を支える運動体が一つであったこと。もう一つは、二次訴訟で県を被告としなかったことだ。が、このいずれもが、裁判を終えたあとの被害者を取り巻く状況に微妙な影響を与えているのではないかと思っている。  新潟は被害者を、弁護団、医療機関、労働団体、政党らが支え、一枚岩となって闘ってきた。とりわけ、県内を横断する労働組合組織(旧・県評、現・県平和運動センター)が事務局を担い、人的にも財政的にも支えた運動体は、新潟をおいて他に例をみない。そのことが社民党と共産党が協同し、被害者を分断することなく、県民世論の高まりのなかで「一応の決着」をみることができた。反面、県内においては旗野さんの取組みを除いて、共闘会議以外の運動がなかなか起きないことにもつながっていると思う。熊本のような、もっとユニークな文化的な多様な運動があっていいはずだ。
 もう一つは自治体の取組の弱さである。県を被告にしなかった理由はここではふれない。結果として、県は少なくとも裁判が終わるまでは国と歩調をあわせることはあれ、被害者と向き合うことなく、常に傍観者であり続けた。「一応の決着」以降、「水俣病の教訓を活かす事業」の主体となるが、その基盤が醸成されていないため、裁判を終えて地域に戻った被害者を受け入れる術をもっていない。
 ところでこうしたなか、今年の「水俣病犠牲者慰霊式」に初めて参列した泉田知事が、積極的に動いている。六月議会の冒頭、知事は「被害者の皆様は、現在の日本社会が獲得したより安全で改善された環境が整備される過程での尊い犠牲者である。そうした意味で感謝されるべき立場におられる方々である」と述べた。国に認定制度の見直しを要請するとともに、もやい直しを本格的に取組む旨表明している。担当部局も本腰を入れ、取組み始めた。
 「さきがけ」から「つけたし」にまで後ずさりした新潟は、ようやく助走しようとしている。ヒロシマといえばナガサキと反応するように、クマモトといえばニイガタといわれるようになりたいものだ。

市民参画による「ふるさとの川・通船川」への取り組み 通船川・栗ノ木川ルネッサンス代表 星島卓美

 私は、少年時代、第二の水俣病発生地である阿賀野川の河口から五キロほど上流の、江口という部落で少年時代を過ごした。小学校五年生の時、終戦をむかえ、当時は日本中が食料難の時代で「川ガキ」であった私は、学校から帰るとカバンを玄関に放り投げ阿賀野川で遊び小魚を取って帰り、夕食の一品にテーブルを賑わせ家族を喜ばせた。川は、私にとって友たちとふれあい、助け合い、色々な体験から様々な技を身につけた楽しい思い出多い場であった。
 昭和二六年、私は東京に出てコックになった。もしそのまま田舎にいたら、水俣病になる可能性があったと思う。

一.はじめに

 この取り組みは、平成二年、衰退傾向にあった地域−新潟市東部木戸地区−の近隣型商店主三人が、国内有数のドブ川・通船川を再生し、「水の都新潟」水辺景観と舟運復活に情熱を燃やし、川のある街づくりを夢見て展開した。
 手始めとして「通船川探検親子サイクリング」を計画した。綿密かつ安全な下調べをして、地元新聞に情報提供・記事掲載を依頼して実施した。当日、三人は胸を弾ませ参加者を待った。一人の老人が自転車で四キロも離れたところから駈け付けた。出発時間が来た。参加者一人のサイクリングは無事に終了した。
 汚い・臭い・危険な川というイメージが定着し、さらに当時は、市民活動を受け入れる仕組みがなく、活動は失敗の連続であった。

二.目標

 平成六年、友人五人と四つの目標を掲げ「通船川ルネッサンス21」を立ち上げる。
@通船川を再生し一部狭搾部を拡幅して新潟市を囲む四つの川−通船川・信濃川・小阿賀野川・阿賀野川−を観光資源に活用して巡回する水上バスの運行を計り、川沿いの市町村と連携した街づくりを推進する。
A阿賀野川の清流を流入(フラッシング)させて水質の改善を計り、流域下水道の整備を促進する。
B新潟地震で川を低水路化、応急対策の鋼矢板護岸が腐食して危険なので改修が望まれているが、改修でなく歩行者専用の遊歩道とし、散策や釣りが楽しめる自然空間にする。
C川辺の田園原風景は新潟県の農耕文化財産として「土と水が育む生命の不思議」を青少年の自然観察の場として一部を保存する。
 上記の目標を掲げたがそこに到達するプロセスを、私たちは当時知らなかった。

三.ネットワーク形成

 新潟市東地区公民館長に「新潟市の玄関口である新潟駅・新潟西港・新潟国際空港・日本海沿岸高速道のほぼ中央を流れる通船川を市民に知ってもらい川の再生を考える通船川環境講座」の開催を要請した。館長は即座に「OK」だった。全国ワーストランクの通船川をフィールドに、「新潟の水辺を考える会」の協力を得てゆるやかなネットワークを形成した。役割分担は当会が企画と水先案内、新潟水辺の会が講師役、公民館は広報と窓口と決めた。
 市民講座は、水生生物・川辺の野草・貯木場の野鳥・船に乗って水上ウォッチング・県内外の類似河川の調査・視察など様々な体験学習を通し、平成七年から学習の成果を市民に発表する「通船川水辺シンポジウム」が開かれた。

四.通船川の変遷

 かつて阿賀野川は津島屋から左折してS字に流れ信濃川の河口部に注いでいた。江戸時代(一七三〇)、新発田藩は紫雲寺潟・福島潟の干拓を目的に阿賀野川の水位が平常位を超えた場合、日本海に放水する松ヶ崎掘割を開削したが、翌年の洪水で堀割は一気に押し流され本流となり現在の阿賀野川の姿になった。通船川は、その川跡である。
 以後、人が手を加えることで川は非情な運命をたどる。昭和初期から河口部に工場が進出、さらに昭和三〇年代は新産業都市計画・高度経済成長によって川の中流から河口部に新工場群が進出、天然ガス汲み上げは地盤沈下を引き起こし問題化、化学工場の工場汚毒水事件、都市化が進展、生活雑排水、上流農地からの農薬等、幾多の変遷の中で時には埋めてしまえとまで言われた。しかし「しぶとく生き残った」のは、信濃川と阿賀野川のデルタ・ゼロメートル地域に住む住民にとって川はいのちをつなぐ水であった。また川辺の木材企業は輸入木材を筏で運行、川を物語る時代の流れが見えて来る。

五.パートナーシップによる川づくり

 平成一〇年六月河川法の一部改正に伴い、河川管理者の呼びかけで「通船川・栗ノ木川下流再生市民会議」が設立され、市民の意見を反映した川の再生事業が官民学企協働で行われるようになった。それから間もない八月四日、下越地方を襲った記録的な集中豪雨で通船川は溢れ川沿いに被害が集中した。同年、河川激甚災害緊急復旧特別対策事業の採択により、九五億円の予算で新ポンプ場の建設と、他二箇所の狭窄部改修が行われることになった。
 さらに河口部では、県民憩いの場づくり等の事業計画に市民参画によるワークショップの手法が取り入れられた。市民と行政が向き合う中で住民の意見は川全体をイメージした総論から問題部分に入るが、行政意見は部分意見のみで論点が噛み合わず、時には大声を出す場面も多かった。  しかし、意見の問題点を要約すれば総論・部分意見は方法論であり、すり合わせれば問題が見えて来る。やがて相互信頼が芽生え論議に熱気がこもり、互いに知恵の出し合いになった。
結果として河口の川づくり案は、八回のワークショップが一〇回になり合意形成した。その事業は「通船川方式」と呼ばれ、全国川づくりモデル事業と言われようになった。
 その成果は、平成一二年、「大河を結び、雄大なる砂丘と広大なる水田からの流れを受けて、自然豊かに、子どもが泳ぎ、船が通り、流域に活気が溢れ、次世代に誇りを持って贈れる川に!」の書き出しで、通船川川づくり市民案として新潟土木事務所に提出した。
 第二回全国川の日ワークショップが東京で開催され、通船川の取組みを発表してグランプリを獲得した。ドブ川がグランプリを受賞した。理由は「人々の意思と楽しさとトキを花筏に乗せ船が通るで賞」だった。さらに新潟環境賞・環境大臣賞など各受賞につながった。

六.子ども環境会議

 一方、川辺の三校の小学校、新潟市立沼垂(ぬったり)五年生(八六名)・東山の下五年生(一六六名)・牡丹山四年生(一四九名)と協働で「川から学ぶ地元学」を行った。
 子どもたちは川をテーマに、歴史・環境・生物・植物など、自分が住んでいる地域で高齢者の協力を得て、遊びから学んでいる。この現地指導で一生の宝物になる技を磨き、両親に話題を提供した。親の知らない地域情報を共有する仕組みづくりを通して、更に地域に向けて情報発信する「子ども環境会議」を設立した。公民館の協力を得て市民に向け共同発表をしている。先人が伝えた地域の歴史・文化・生活学などを「川から学ぶ地域学」として、「子ども環境会議」ではコミュニケーションから始めて、安心・安全な地域の再構築を目指している。

阿賀野川で暮らす 関礼子

せきれいこ
大学院生の頃、はじめて新潟水俣病の共同調査で阿賀野川流域を訪れる。以後、出会った人々に魅了されて新潟通いを続けている。著書に『新潟水俣病の制度・表象・地域』(東信堂、2003年)。立教大学社会学部助教授。

いまは昔、阿賀野川では

 一九六五年の新潟水俣病発生の公式発表から四〇年余り。高度経済成長後の急激な社会変動のなかで、川の流れは日々新しい時間を刻んできた。「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」とは、「方丈記」の言葉である。阿賀野川流域で発生した新潟水俣病問題に、私はときどき、この言葉を思い出す。
 川の流れは時の流れ。阿賀野川は新潟水俣病が発生した頃と変わらず絶え間なく流れているが、川の風景は大きく変わった。川のほとりで営まれる暮らしも大きく変わった。そのことが、ときに、新潟水俣病の被害がどのように生じたかを見えにくくしているようだ。
 小学校に出向いては、新潟水俣病の被害を語ってきた文子さん(一九三五年生れ)がいう。「孫のような年の子供たちは、なんでスーパーで魚を買わなかったの、なんで海の魚でなく川の魚ばかり食べていたのって、訊くんだよね。いまと昔じゃ、ずいぶん生活も違うからね。」
 そんなとき、文子さんは、いまは昔、とばかりに語るのだという。釣り針を投げれば魚がつれた、といわれる阿賀野川のことを。川魚には事欠かなかった暮らしのことを。
 「昔はお産後、フナの味噌汁を飲むといいってね。三人の子供を産んだのは、ちょうどフナの時期の頃で、わたしの母も山ほど持ってきてくれたの。前の家の親戚も、しょっちゅうね。魚がとれないと、よそに頼んでまで、ウグイとかアユとかを持ってきて食べさせてくれたの。煮付けにしたり、味噌汁にしたりして。おっぱいがいっぱい出るようにってね。そういうのは私、余計、食べさせてもらったみたい。なんかちょっと具合が悪いなんていうと、よく魚をくれたの。当時は川魚は大切なタンパク源だったし、なにより、いまと違って、美味しかったわね。」
 新潟水俣病の被害者は、被害を受けた当時、「川漁師」を専業にしていたわけではない。文子さんの実家も、婚家も、例外ではない。だが、冷蔵庫がまだ十分に普及しておらず、まして生鮮品の運送技術が進歩していない頃である。自給自足の暮らしのなかで、川で魚を獲って食べるのは、裏の畑で野菜をとって食べるのと同じ、ごくあたりまえのことだった。いまは昔、阿賀野川では。

にぎわう川の風景

 水銀に汚染された川魚を、それとは知らずに食べていた頃、流域の人びとの暮らしは阿賀野川を向いていた。阿賀野川は暮らしの舞台であった。
 阿賀野川中流に位置する安田町(現在阿賀野市)。一九七三年に、新潟県が船頭を対象にした新潟水俣病の最後の集団検診(「船頭検診」)をおこなった町である。ここに「船頭集落」と呼ばれ、新潟水俣病被害の「地域集積性」を色濃くみせる、千唐仁という集落がある。
 自身の孫親(祖父)も船頭だったという徳太郎さん(一九二八年生れ)は、若い頃、船頭の親方のもとで「丁稚奉公」した。上流の津川方面で砂利をとり、下流の新潟市へと運ぶ砂利船に乗った。新潟市に行くときは、朝早くに千唐仁を出て一泊して戻った。
 「昔の話だども、どうしてねぇ、新潟まで行ったもんだがね。米と野菜と味噌を船にのせて、朝早く阿賀野川の瀬でカメに水汲んでさ、その水でまんま炊いて、川で釣った魚入れた味噌汁つくって。若いさかりだったすか、夜中に魚を押さえて煮て食ったりもしたね。新潟に着くと一円の小遣いもらって、映画見て、蕎麦食ってね。その頃はね、船頭仕事は現金仕事で、船買うときも現金払いさ。だから、ほんに、おらの時代だば、若い衆は、船頭しないば、うそっこだわな。」
 上流への川道がダムなどの建設でせき止められた後もしばらく、砂利船の船頭は千唐仁に育った砂利をとり、新潟へ運んだ。阿賀野川の水を汲み、魚をとった。いつしか、砂利船の小粋な船頭仕事は、モータリゼーションに押されて、時代の片隅においやられた。
 一九九九年の秋、徳太郎さんの案内で、私は千唐仁に残った一艘の砂利船を見に行った。河川敷に生い茂った雑木に目隠しされて川面に浮かぶ砂利船は、もちろん、とうに休業中だった。川に人影はなかった。そんな眼前の風景に、過去の生き生きとした記憶の風景を重ね、徳太郎さんは語った。
 「昔はこげな木はなにもなくて、ほとんど砂利河原ばっかしだったわね。ここいら船着場で、ずらっと船を置いておいたもんだ。堤防も年中、牛の草刈してたから、きれいになってたわね。おらが子どもの頃は、すっぽんぽんでみんな川で水浴びしたもんだ。ちょっと大きくなると、向こう岸まで泳いで渡ったもんだ。」
 徳太郎さんの語りはどんどんと続いた。視線をさえぎる木の一本もなく、すっと向こう岸まで見渡せる阿賀野川の眺めについて。川面を下ってゆく筏について。阿賀野川を行き来し、あるいは川岸につながれた大小の船について。そばには川で泳ぎ、魚とりに興じる子供たちについて。徳太郎さんの隣で、いつしか、私の目にも、にぎわう川の風景が浮かび上がっていたのだった。
 いまはもう、この砂利船もない。徳太郎さんもいない。「船に乗り遅れないように」と、家族に送り出される彼岸や盆の日を除いては。

つきあう川から疎遠な川へ

 阿賀野川がにぎわっていたのは、水が穏やかなときだけではない。
 雪解けの時期、梅雨の頃や秋雨の続く頃、阿賀野川の水量は急増した。大水になると、どこの家でも家族総出で川に出て、上流から流れてくる雑木や木の枝を岸に寄せ、一年分の「焚き物」を拾った。山での柴刈りならぬ、川での焚き物拾いである。なかには流れの早い川に、サンパと呼ばれる小舟を漕ぎ出して、焚き物を拾う猛者もいた。
 阿賀野川はよく暴れた。大水が川を越えて集落に入り込むこともあった。千唐仁の人びとは、この「暴れ川」と、上手につきあってきた。大水で浸水したときのことを考えて、かつての家屋の床は座敷を高く、台所を低くしていた。順々に水があがり、ひいてゆくよう高さを違えていたのである。
 浸水どころか、子供の頃に大水で家を流された人もあった。父親は「阿賀野川のそばなら暮らしていける」といい、鮭獲り小屋(「アンジャ小屋」)で仮住まいをいとわなかったという。父親の言葉はうそではなかった。後に、家をさらっていった「暴れ川」での護岸工事(「川仕事」)は、家だけでなく蔵をも建てるに十分な現金収入をもたらしたからだ。
 良きにつけ、悪しきにつけ、阿賀野川は暮らしを支える川だった。だが、急速な社会の変化は人びとの暮らしを変えた。ガスや水道、家電製品が普及し、水運は陸運に、川砂利採取は陸砂利採取に変わった。それらの変化は、新潟水俣病問題がこの地で問題化するまでの過程とほぼ同時期(一九六五年に下流で新潟水俣病の発生が確認され、一九七二年にはじめて安田町から認定患者が出る。一九七三年に船頭健診が、一九七六年にからは千唐仁を中心に新潟水俣病未認定患者の運動がはじまる)に起こった。そして一九八二年の新潟水俣病第二次訴訟が提訴される頃には、人びとの阿賀野川との関係はすっかり疎遠になっていた。
 「川魚はなんだか気持ち悪くて」と、川で魚を獲って食べるのを嫌う人が増えた。好きで川魚を獲っている人も、「安全だとわかっていても、いまでは魚を獲って持っていっても迷惑がられるだけ」、と、ぼやく。新潟水俣病が川離れを加速したと感じる瞬間だ。

過去から未来を構想する

 「川に用事がないから行かない」、「草も木もぼうぼうでとても近づかれない」という人も、大水が出たときは阿賀野川に眺め入り、盆のお供えを阿賀野川に流す「川送り」のときは川岸に出ることがある。そんなときには、昔の阿賀野川が思い出されるという。
 新潟水俣病発生から四〇年余り。病を抱え、肉体的にも精神的にも困難な日々を経験した被害者にとって、いま、眼前を流れる阿賀野川は、彼や彼女が歩んできた人生の喜怒哀楽が描きこまれた「記憶のキャンパス」であるに違いない。それは同時に、著しい社会変動を経験してきた地域の記憶、風景の記憶でもあるだろう。
 川と人のかかわりの風景は、新潟水俣病の被害をいかに被ったかを説明する手立てであった。いわゆる政治的な「最終解決」を受けて第二次訴訟が和解するまで、千唐仁の被害者は、汚染された川魚を多食して当然の暮らしを語ってきた。暮らしを語ることで、新潟水俣病の被害を受けたと訴えてきたのである。幸せだったこと、難儀したこと、懐かしいこと、思い出したくないこと。全部ひっくるめて、川の暮らしを語り続けたのだ。それは、言葉を換えれば、「社会的な疫学的アプローチ」ではなかったかと、私は思う。
 時代は移り、川の記憶は遠い昔へと遠ざかりつつある。新潟水俣病を語り継ぐこと、それは阿賀野川流域を流れてきた過去をひもとき、川と人とが密接に結びついていた暮らしを語り継ぐことでもあろう。
 過去を振り返ることがノスタルジーとは限らない。過去は、進むべき方向を指し示す羅針盤になることもある。人は過去なしに未来を構想することはできないのだから。ちょうど千唐仁の女子衆が、「みんなが安心して食べられるものを」、「健康を損なうことがないものを」と、無農薬野菜を手がけてきたように。かつてのように川ににぎわいを取り戻し、川と人との距離を縮めてゆくこうと構想する試みのように。

阿賀野川の砂利舟に乗って 斉藤清雄・ヤエ/聞き取りとまとめ:小尾章子

斉藤清雄・ヤエ
大斉藤清雄さんは昭和五年、新潟県北蒲原郡安田町千唐仁生まれ。船頭として、昭和の阿賀野川舟運の中心だった砂利の採取と運搬に携わってきた。

親子三人舟の上

ヤエ 三三年の四月二七日に結婚して、何年になるかね。四六、七年かな。だいたいあれだろ、ジィちゃんがハァ、結婚記念日なん忘れてんだ。自分の誕生日でも分からないすけねぇ。
 わたし、隣部落、分田から嫁ました。船乗りのとこってことは分かって嫁ました。これのことは、よくちょこちょこ分田に遊びにきてたから、わたしは分かってたども、これは分かっていたかどうか。一応見合いした方がいいてことで、母親の兄の奥さんと分田の本家のばあちゃんと二人仲人して。あの頃だば見合いなんていうて、それでいいか悪いのかーなんて聞いて、わたしはこういう顔のもんだから、もろうてもらえるならありがたい、オラみてえのでいいろか、なんて言うて、それでなに、救われましたともねえ。
清雄 それで嫁たか? オレ三十くらいだったか?
ヤエ 三〇ならねえろ。わたし嫁たのが二一かな。成人式終わってすぐ嫁たんだから。七つちがいだから。嫁てすぐは舟乗らなかったけど、せがれが三五年生まれだか、それからせがれのことも連れて舟乗ってました。畳二枚ばかの舟ん中に泊まってご飯炊いたりして、表の方に洗い物したり水桶ちゃんとおいて、ガスだの鍋だのああいうがんは舟の中に置いてましたがね。
 そしてわたしとジィちゃん仕事するときなると、箱にせがれこと鍵かけて外出るなと。出るとすぐ川だすけねえ、落ちると悪いすけ、出るなよなんて言って、それでもやっぱ出てきますんさねえ。これ鍵開けるようになったすけ、おもちゃ買うてだまかして、これちょうして遊んであんぞ、て言うてっともやっぱ男の子だすけ出てきて、やれダンプなんか買うてくれると、ダンプのとこへやれ砂利積んだなんていうていたずらしてね、出てきますあんさね。
 あの頃、子供乗せてる人、しかもいなさったんさね。中新田の人も女の子のこと乗せてたんだどもさ、その子が川落ちたったの知らなかったんさね、死んだの。それで今度はジィちゃんの親が、落とすと悪いすけだめだ、家置いていけってね、今度はせがれ家置いて行きましたんだ。それで今度はオラ帰ってくるとまんず、「小ちゃい母ちゃんきた、小ちゃい母ちゃんきた」って、オレのことばっか待ってるんさね。なーに待ってるんだと思ったら、おみやげ待ってるんさね。
 妊娠した頃はうすら具合悪うて、三ヵ月くらいオレつわりで、まだ分家ならのうで本家と一緒に住んでいましたすけね、実家行った方がいいてね。家に行けばばあちゃんもそばにいて待っているし、あれだもの、あっち行った方いいわなんて産婆さんに言われてね、それで行きましたんだ。だどもとってもあれだわや、何もしねばっていいすけ飯炊くばっかでいいすけって言われて、それで実家から舟に行くようになって。だどもあれだな、やっぱ仕事しないでいられないね。ほんのご飯ばっか炊いてねえ、ちゃんとしていられないろ。

おっかねかったこと、おもしぇかったこと

清雄 なあに、泊まってるがね、舟に。どこでも泊まれますがね、どこでもいいわね、うち家たがえて走ってるから。行った先々で、どこもでもいいがね。
ヤエ 家たがえているんだもんねえ、ほんに。あのね、新郷屋に行ったとき、舵棒が折れてしまいましてさ。ちょうどもうちょっと下に行くと木のタコみたいなのがあって、あそこへ引っかかるんだ、はー舟がお終いになる、と思ったどもまあ、オレのジィちゃん棒だか何だったか棹だかたがえて、舵あれしたりして。やいや、どっか行くかなー、もうあれだかなー、潜ってぶつかってもう終いかなーと思ったども、砂利山の方に行ったすけ、よかったども。
 ほんげこともあったし今度はね、満願寺の閘門入るとき、あんとき、風だったんね。風あったもんだから波がガーっと入って、砂利がガーっと片ぱっち寄りましたんさねえ。こっちぺたとこっちぺたと、こんげも段階つきましたんさ、波で。やっぱ風おっかねえもんだなーと思って。その閘門入らねば新潟行かれねえすけねえ。その入るときが、いやいや、おっかねえ。舟乗ってると、おっかねえこと。
清雄 おもしぇこと、いっぱいあっともねえ。
ヤエ 昭和橋のすぐ下だね。
清雄 ん、昭和橋に落った、飛び込んだんだねえ。
ヤエ オレのジィちゃんが夜、仕事してから三人ばかして、オレの舟と別の舟んところ行って酒飲んでたんさね。したばね、何の音がするんさね、女の人の泣く。あれーと思って、なんかあれだね、泣く音するよっていって、子供でもあれだこて、怒らって泣いてでねぇんかなんていって飲んだ男ん衆は言ってるんさ。いや、なーんか川の中から聞こえるんさねーって言うんさね、オレ。だすけ早よ出てみなせっていって、それでこう出てみたば、川ん中に見えたんさね。したども沖の方だすけ、オラは端にいたんだし、あれ沖の方にこうやって。したらそうこうしてるうちにあれだがね、プカプカプカプカってきて、何か変だぜーって思うて、したら警察だがね。
清雄 潜ってしまったんだわね。そばまで行ったども。
ヤエ 出たども、潜ってしまってだめだったんだわね。それで川に飛び込んだってこと、やっとわかったんさね。
清雄 わかってれば掴まえたども、生憎だったわね。
ヤエ 女の人。オレ言うたとき、即出ればあれだったかもねえ、だども夜なもんだすけねえ。
清雄 しょうがなかったな。
ヤエ それからさ、せがれこと連れてったとき、海なんか行くとね、魚釣るんさね。
清雄 アジ釣りだな。
ヤエ アジ釣りますんだ。このへんは舟乗ってるときはあまり魚なん釣らなかったけどもね、第一港湾だの臨港だの海の方に行ったとき、海には出ないども、人が釣ってるがん見て、せがれが釣りたい釣りたい言うてさ。釣り針もないしあれだなと思ってね、わたしね、待ち針あったからそれを曲げて針こしょらえて、重しに舟のナットつけて、そしたら喜んでねえ。したどもオレのいっぺんも釣れねえ、釣れねえ、って言ってますんさね、待ち針だものね、はっはっは。釣れねえ、釣れねえって。だすけ今度はあれだなーっていって、後から釣り針たがえていって。そしたらアジ釣れるもんだねえ。

天秤棒の肩のこぶ

清雄 オレ、ここんとこ、あるのう。
ヤエ 人よかやっぱ担ぐすけ、こんげなって肩んとこふくれてましたね。舟に乗って篭担いだ人はやっぱこここう、いくらか高うなっているがね。片方ばっか、どっちだったかね。
清雄 右だ。や、左だ、左だがね。ふくれて。砂利はこのへんで我が物で全部採ったんだがね、ぜんぶ。でもあんまり採ると地盤が下がるでしょ、川底が。もう採らしゃらない。
 オレ学校下がってから、あっちこっち行ったりしてね、まだ自分の舟でのうてね。小舟に玉石積んでから、泊ってる大きい船に天秤で運んで移して。あの頃はよかったねえ、坪いくらで。ダンプカーが十台入るような船なんだ。ここらではね、砂利取りがいっちゃんよかった。あの頃は土方なんてあんまりなかったし、川仕事だったね。
 なーにねえ、なんていえばいいか。気持ち、まあ、あれだこさねえ、川仕事はきれいだしね。おもしぇこと、なに、とにかく新潟に泊まりいったり、ほいね、休むときはいっかも休んでるわね、波立ってっと、いっかも泊って映画見たり。
 このあいだ佐取に泊ったでしょ、そのちょっと上の熊渡のところあるろ。あそこにもとダムなかったから。水の流れは死んじゃったしね。夜だったからもう、たまげてしまった。あいつ、あったけえときだばしょっちゅうだったども、死んでしょもうた。あったかいときはどういうことねえども、水ちょっと寒かったかもしれんのう。オレがあん兄ちゃん、舟で死んでしまった、そこで。舟もぐってしまって。小さい舟ねえ、風あって。揚がったからいいどもねえ、すぐそばで揚がったどもねえ。一年ならねえで半年後だったろうかのう。あれ三月でねかったか、砂がねえときだった。さつき五月ごろあがったからねえ。海は浮いても川の水は浮かないもんだ、腐れてしまう。
 余所ん衆でなくて、部落ん衆だったら一週間探すんさね。兄ちゃん、三十くらいだったかね。川もおっかねえしねえ、陸もおっかねえなあ、いまは陸おっかねえわ、ねえ。
 おめえその年さあ、くらくら舟乗っててねえ、中新田もその年だ。
ヤエ はあ、中新田にほれあれだね、埋め立てしてたときね、酒飲んで、小便行ってくるなんていってチョコチョコっと出てたっけが、あれっ、チャポン!って、あれっ? はあ、川中に落ってさ。あたし、どうにもなんねえ。早よ早よ早よ言ってね、となりの舟ん衆こと、早よオレの父ちゃん川へ落ったみてえだ、早よあれだ、って言うてっても相手もほれ酒飲んでるもんだねえ。オレばっか早よ早よ早よなんて言って。
 なあに結局、舵の方からのぼってきたんだ。あやしてまあ、よかったぜーって。どうもなんないものねえ、なんか出してくればいいあんども、早よ早よ言うてばっかりでねえ。だめでありますわねえ、やっぱりねえ、気ぃ揉んでばっかりでねえ。そういんです、酒好きで。
清雄 いま嫌いになったどもね、はっは。
ヤエ なあに言って。もとよかね、もとよか嫌いになったかもしれんけど。
清雄 舟も忘れてしょもうたなあ。川の跡、堤防跡なんて上がったことねえ、用事ねえからねえ。家いたかーなんて余所の衆きて教えてくれるもんだが。
 砂利舟乗ってるばっかだったわね、みんな。川下のばっか。川につかってたわい、そうだいねえ。川にしるしつけるのが、いっちゃん銭なったんだね。もうだめだども。川はよかったね、ああ。いまは川だめになったし水は死んでしまったしさ。いやあ、いやあ、オレしゃべれねえで、申し訳ありません。
(聞き取り全文は「豊饒の浜辺」第四集に掲載しています)


(2006年9月25日発行)

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