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機関誌ごんずい97

目 次
ごんずい97号
水俣病公式確認50年事業地域福祉部会 創作舞台芸術「水俣ば生きて」

特集 水俣病公式確認50年事業III「小括」

記事

特集リード 水俣病公式確認50年事業小活のために/弘津敏男

 一〇月二一日・二二日の「もやいの日」も過ぎ、水俣病五〇年事業は終わりに近づいている。一連の企画を評価するのは時期尚早かもしれないが、現時点での中間総括をしておくことも無駄ではないだろう。

 二〇〇四年七月に「水俣病公式発見五〇年事業に係る第一回意見交換会」が開かれ、五〇年事業は表面化した。同じ頃に水俣病患者連合ら患者三団体は環境省・熊本県・鹿児島県・水俣市等々の不知火海沿岸市町村に「五〇年事業に取り組むよう」申し入れをした。このとき、環境省・熊本県・水俣市は積極的に取り組みたい旨の発言をしたが、残念ながらその他の市町村は「県から要請があれば協力する」といった対応であり、行政間の温度差を感じたものだった。
 この患者三団体は九五年の政府解決策を受け入れた団体であり、もやい直しの協力団体でもある。その思惑は「五〇年事業を契機にもやい直しのステップアップをしたい。事業の主体は地元(患者・市民・民間団体・地元行政)であるが、金と人手は国と県に面倒を見てもらいたい」という少々虫の良いものだった。この動きは相思社の発案によるものだった。相思社からの意見に患者連合が呼応し、他の二団体に呼びかけ実現したものだった。
 一九九〇年から九八年までの「環境創造みなまた」事業によって水俣病を取り巻く地域の状況は大きく変化した。「もやい直し」をキーワードとした活動は着実に水俣病への理解を進めた。しかし、事業終了後はもやい直しも、偏見・差別解消への広がりも停滞してしまった。事業として今も続いているのは「火のまつり」だけだろう。これは最初、患者団体(=本願の会)が主体となり、地域の団体が全面協力する、というスタイルで始まった。その後主体が民間有志に移ることで派手さはなくなったが、着実に地元に定着している。
 「もやい直しのステップアップ」のイメージは火のまつり方式の拡大版であった。つまり、地元に根付くまでは行政が金と人を出し、その後は地元住民が主体となる、五〇年事業をきっかけに『もやい直しから、もやい創りへ』ステップアップしよう、というものだった。
 「意見交換会」は八月・九月・一〇月と重ねられ、五〇年事業のイメージ、アイデアはほぼ出尽くした。事実、二〇〇六年に実施された「慰霊式」、「パネル・写真展」、「出版事業」、「連続講演会」、「まつり」等々のアイデアはこのときに示されていたものだ。
 二〇〇四年一〇月の段階で必要とされたのは行動することであった。言い換えれば、行動の核となる事務局の設置がなければ先へは進めない段階に至っていた。私たちは「事務局を年内に、遅くとも年明け早々には立ち上げてほしい。でないとこれから先には進めない」と強く進言した。私たちは、事業の規模と重要性を考えるならば、少なくとも国・熊本県・水俣市から複数の専従事務局職員が必要と考えていた。
 しかし、二〇〇四年一〇月の関西訴訟判決の影響があったのか定かではないが、事務局設置は二〇〇五年四月にずれ込んだ。しかも専従は熊本県と水俣市から一人ずつ、環境省は地元採用のパート職員のみという、私たちが考えていたものとは大きく異なっていた。この時点で私たちの構想が実現不可能であることは明白になった。行政、特に環境省はその程度にしか五〇年事業の意味を理解していなかったのだろう。
 二〇〇六年四月から専従体制が強化された。しかし、それまでの一年間の事務局体制の不備は致命的だった。逆に言えば、実質的にたった二人の事務局員で、これだけ多くの事業を進めてきたことは大いに評価されるべきかも知れない。

 計画及び実施された五〇年事業については「水俣病公式確認五〇年事業」のホームページに詳細が記されているので参照されたい。
 二〇近い事業が計画され、すでにその多くが実施済みとなっている。個々の事業については評価されてしかるべきものが多い。しかし、全体としての統一性に欠けていることは否めない。言い換えれば「事業の目的」を意識していたのかどうか、いや、事業の目的が認識されていたのかどうか、という点において大きな疑問も持たざるを得ない。
 行政の対応のまずさだけに責任を負わせるつもりはない。水俣病を取り巻く状況が今も厳しく、「もやい創り」も「水俣病の教訓化」も実現にはほど遠い状況であることが実証されたと考えるべきだろう。
 「五〇年事業」の本当の評価は今後の動きにかかっている。五〇年事業は、環境創造・もやい直し事業のステップアップの出発点に過ぎない。その成果を今後に活かしてこそ意味がある。評価するのは五年後でも一〇年後でもかまわない。

                  弘津敏男

私が見た水俣病公式確認50年事業 一人の参加者として反省/高倉史朗

 相思社から原稿を依頼されて、全体の構成予定はどうなのかなと思って説明文書を読んだら、私の原稿の仮タイトルは「これで良いのか水俣病五〇年事業」となっていた。仮題にもの申しても野暮なのだが、私に期待されるのは一応この立場なのかとわかり、どっと疲れた。行政と協力して何かをやることがきわめて苦手な私の守旧性が見透かされている。今の時代、私のような感性は時代錯誤以外の何物でもないことは頭ではわかっているが、かつて環境庁の告訴により逮捕され、下帯までとりあげられて留置された体験に縛られて、君子になれない小人の、牙をむいてうなるだけの権力への対抗は私の惨めな習い性なのだ。
 その私が、今回の「五〇年事業」に、チッソ水俣病患者連盟(私は事務局員)の一員として参加した。第一回の意見交換会は二〇〇四年七月だった。事業への参加はすべての患者団体に呼びかけられていた。九六年の政治解決が定着した(と思われていた)時点であった。水俣病についての行政の責任は「ない」ということがほぼ正式見解となり始め、水俣病の病像も五二年判断条件で再々度押し切られつつあった時だ。しかし、それだからこそ患者連盟の仕事として参加すべきと私は考えた。
 もちろん関西訴訟の高裁判決はすでに出ていた。そこが私の不明なところなのだが、「損害賠償については最高裁でも認めるだろう。しかし、国・県の責任はこちら(関西原告)が負ける」と考えていた。ただ、そうした状況であっても、「やはり国と県には水俣病についての責任があったのだ」、「水俣病の病像は医学者がきちんと議論しなおすべきだ」との思いは強かった。なんとかその辺を事業に盛りこませることができないだろうかと考えたのだった。「水俣病の教訓」は、水俣病事件史を虚心坦懐に見つめることからしか出てこない。行政に責任がなかったという前提では、何も教訓として引き出せない。有機水銀中毒症と水俣病の二つの病名が同じ被害に別物のようにあって、被害者は全く異なった扱いをされる。そんな現実をそのままにして「世界に向けて水俣病を発信」することなどできない。私は単純にそう思っていた。
 第四回の意見交換会があったのが〇四年一〇月一二日、最高裁判決の三日前だ。当日手渡された、それまでの議論をまとめた事業概要図には、「再生への取り組み(希望を作る)」、「水俣病の情報・教訓の発信(風化を防ぐ)」、「水俣病問題の検証(教訓を学ぶ)」、「祈り(鎮魂と反省)」と四本の柱が示され、大まかな日程も書き込まれていた。内容は盛りだくさんで、その場の議論でも急ぎ足で中身を作っていくことが促されていたと記憶する。
 ところが一五日の最高裁判決で事態は一変した。わたくし事を付け加えておけば、判決当日私は関西訴訟団のご好意で法廷に入ることができた。ところが翌朝にいたるまで判決が持つ意味を理解できないでいた。私が事務局長を務める別の患者団体が応じた政治解決の枠組みがもろくも崩れ去ろうとしていることへの不安(おいおい、それでも患者支援者かよ)が無意識の領域にうごめいていたのかもしれない。しかし、早朝の東京タワーをホテルの窓越しに見ながら判決文を読み直し、この判決が持つ大きな意味をはじめて自分の喜びとして感じることができた。そのショックはやがて五〇年事業関係者にも広がっていった。その結果、なんと翌年の二月一八日まで会議が中断してしまったのだ。  再会された議論の中で、患者連盟を含めていくつかの患者団体から最高裁判決を無視してことを進めることはできないとの意見が表明された。関西訴訟団はこうした要請に応じて実行委員会に参加し、七月末に「連続講座と公開討論会」を事業として行なおうという企画案を提案した。最高裁判決を真正面から取り上げ、法律、医学の面から論議し、今後の課題を示そうという正攻法の案だった。ところが、この案を検討することになった九月の教訓部会(この部会も当初は「検証」という語が入っていたのだが、いつのまにか「教訓」だけになってしまった)では、「(関西の案には)国と熊本県からいろいろある。五〇年事業としてふさわしい事業なのか」との反対意見が出始め、やがて「医学・法律に偏っている」、「地域住民にとってメリットが少ない」という意見までが重なり、結局不採用となった。関西訴訟団はこうした経過に憤激し、一一月に声明を出して実行委員会から脱会した。
 もやいか、もやいもいいけれど、未来志向も支持するけれど、過去の事実を直視することや水俣病事件の科学的検討を嫌って、なあなあで手をつないでおしまいでいいのかなあ。いま検証を抜きにした「水俣病の教訓」が糸につながれた風船のようにやさしい顔で微笑んでいる。しかし「五〇年事業」の実像は関西訴訟団脱会の顛末に明らかだろう。
     (チッソ水俣病患者連盟)

水俣病50年展をみて/向井良人

 水俣という所に発生した公害病で、原因は工場排水に含まれていた有機水銀―私が受けた義務教育では、水俣病はそこまでの知識だった。義務教育を終えて四半世紀近く、その後何を学んできたかと問われれば返答に窮するばかりだが、一九八七年に初めて水俣を訪れてからは、「熊本県水俣市」と「水俣病の水俣」との隔たりについて考えるようになった。現在の関心事は「水俣病の語られ方」である。
  『ごんずい』九〇号掲載の投稿に書いたように、私は「伝えようとする行為を通して立ち現れるもの」として水俣病を捉えてみたい。「水俣病とその教訓を伝える」にしても、「水俣病だけではない水俣の姿を伝える」にしても、その取り組みは多彩だ。様々な取り組みが、様々な「水俣」を現前させる。それはしかし、受け手の一人一人にはどのようなメッセージとして届いているのだろう。
  水俣病事件について言えば、膨大な数の「当事者」、世界的な認知、そして半世紀にも渡って続く「未解決」。地域に収斂する一連の物語を「水俣病」という呼称に仮託するなら、それが「有機水銀中毒」に置き換えられないのは頷ける。様々な語り手が様々な切り口から多元的に、かつ不断に紡ぎ出す物語―それが気づきや共感を喚起するためには、受け手の想像力以外に何が必要だろうか。殊に、語り手の肉声を伴わない「展示」を媒介とするとき、その空間はどのような条件の下で、どれだけのことを、どうやって「伝える」ことができるのだろうか。
  「水俣病という失敗に学び、未来に活かしていく」ことをテーマに掲げた「水俣病五〇年展」。一〇月二五日、予習をしないまま会場へ行った。その感想を日記風にまとめてみる。一個人の感想に過ぎないものが今回『ごんずい』に掲載されることでどのようなメッセージに化けるのか(あるいは失笑を買うだけなのか)想像できないが、これもまた一応は「様々な視点」の一つということになるのだろうか。

 まず、駐車場から一番近い水俣病情報センターに入館した。情報センターの企画展示は玄関でも紹介されているが、五〇年展全体の案内は見当たらない。総合案内は水俣病資料館に置かれているのだろうか。資料館への渡り廊下に進む。
 渡り廊下は新潟水俣病のコーナーとなっている。私は「環境と人間のふれあい館」には行ったことがないので展示物が本来どのように配置されているか知らないが、展示されているパネルにキャプションが乏しいのが気に掛かる。写真の撮影者名も記されていないが、何らかの配慮なのだろうか。「GNPの変化とアセトアルデヒド生産量」のパネルでは、データの出典がわからない。どれも、知っている人にはわかるのだろうが、知らない私にはわからないままだ。素人目には説明不足という印象を拭いきれない。なお、資料館で配布されていた「企画展示館内マップ」では、新潟水俣病のコーナーは見取図に掲載されていなかった。この渡り廊下は情報センターの一部らしく、資料館の「館内」ではないということだろうが、一言触れてもよかったのではないだろうか。
 資料館に入ると、「届かぬ思い」と題されたコーナーである(渡り廊下から入ったので、順路を逆行している)。何と言ってもパネルが多い。枚数を数えてみた。見落としていなければ、合計一一一枚。小冊子のページ数に相当する。それぞれ内容は興味深いのだが、どれも文字が多く、また、パネル表面の反射で目が疲れるので、全部は読み切れない。一部ではあるが、文字と背景色が重なって判別しにくい箇所も見られた。そもそも展示コーナーの照明が暗く、文字を読むのに適さない気がする(新潟水俣病のコーナーは明るかったのだが)。一枚一枚、見栄え良く仕上げてあるのに、もったいないことだ。これは冊子にして配布または販売していただきたい。
 常設展示として、水銀ヘドロを入れた瓶が通路の隅に置かれていた。詳しい説明は付されていないし、周囲の展示も特に海の汚染を解説したものではない。資料館ではこのヘドロに何を語らせたいのだろう。順路に沿って行き来しても文脈が見えず、頭の中にストーリーが形成されない。もちろん、「海にこんなものが沈んでいたんだな」という程度の想像はできる。しかしこの証人が語りうるのはそれだけではないと思う。例えば水俣病歴史考証館ではヘドロの深さを実寸で示している。こうした仕掛けをいくつか組み合わせることで、瓶詰めのヘドロはより多くを語るのではないだろうか。
 企画展示の一つとして、相思社からは「初期水俣病事件史」(公式確認から一九五九年まで)のパネルが持ち込まれている。資料館の常設展示にも同時期を扱ったものはあるが、両者の展示がどのような関係にあるのか、資料館からも相思社からも説明は見られなかった。相思社(水俣病歴史考証館)と資料館の設立経緯などについて予備知識がなければ、見た人は戸惑うのではないだろうか。市長の挨拶文には「様々な視点による企画展示」とあるが、それならば常設展示も含めた「様々な視点」が互いにどのような関わりにあるのかを鳥瞰する解説がほしい。また、それが企画展の役割でもあると私は思うのだが、過剰な期待だろうか。
 多様な切り口は整理しなければ断片的なままだ。「様々な視点」ゆえに展示が統合を欠くとすれば、それもまた水俣病の複雑さの現れと言えるかもしれない。では、市長挨拶にある「水俣病に対する理解の一助」とは、どのような来場者を想定し、どのような理解を期待しているのだろう。見学時間の限られた来場者に対して、主催者は限られた展示空間の中で何をどのように見せたかったのだろうか。「伝えたいことが沢山ある」ということは一目でわかるが、一〇〇枚以上のパネルを全部読むことのできる人は限られているし、一〇〇枚以上のパネルの中から読みたい部分を選べる人も限られているはずだ。
 水俣病歴史考証館の「現物展示」は、問題の捉え方や立場がどうこうと言う以前に、現物を通じて来館者と水俣病事件との接点をつくり出す。チッソ製品の中に生活必需品を見ることで、見学者は当事者になる。一方、ここ水俣病資料館を中心とした水俣病五〇年展は「水俣病公式確認五〇年」を意識したイベントである。この開催によって「受難の地・水俣」というブランドはメディアを通じて広く発信(宣言)された。しかし一つの企画展として来場者に何をどう学ばせるか、言わば教育プログラムとしての戦略には、検討の余地を残していたように感じる。もちろん、学習は展示の見学だけで完結するものではないが。
 現在、水俣が発信しているのは主に「水俣病の記憶と教訓」、そして「環境への取り組み」だが、「環境への取り組み」を看板にしつつなお昇華されることのない地域社会の葛藤もまた貴重な証言だと思う(例えば「水俣病」の病名変更に託される思いをどう理解するか)。それは「受難の地・水俣」に向かうまなざしを切り離して語ることはできない。「水俣病を伝える」と言うとき、伝えられるべき「水俣病」は誰がつくるのか。見る者と見られる者、語る者と語られる者―その関係は奥深い。
 初めての「水俣病学習」として会場を訪れた人は、どのような感想を抱いただろうか。

水俣原則の顛末記 水俣病公式確認五〇年事業もやい部会 みなまた塾委員会/遠藤邦夫

 水俣原則って何? 水俣に住んでいる人が主体となって、水俣病を経験した水俣の暮らしの中から、大切にする事項を洗い出して、二度と水俣病が起こらないような原理原則を分かりやすい言葉にまとめたものである。まあ分かりやすい言葉で言えば、水俣病の教訓となるのだが、どうもこの教訓という言葉は、なんだかお説教じみているし、行政が好んで使っているようなので、違う表現にしたかった。しかし原則という言葉もまた人の暮らしにはなじみがなく、違和感が生まれてしまった。
 立派な(?)企画書は書いたけれど、いざ実際にやろうとしてみると、どうも小難しい印象が強く、誰も作業グループに関わってくれない。こうなれば逃げられないみなまた塾委員をメンバーとして始めるしかないと、やっと四月頃に作業を開始した。「原則って分かりにくいよね」「誰に発信するの」「国が一〇〇%悪いのだ」「水俣病って言葉を使わないで表現したらどうか」「水平社宣言くらい格調高く」「煎じ詰めれば一般的な格言になるね」「水俣の人だけでと限定することはない」「水俣病事件とは何だったのか」「作ってどう使うのか」等々、意見百出だった。提案者としては「こうしたらどうだろう」と、方向性を定めて自分の考える着地点に引っ張っていくのは避けたいと思っていた。しかし、それは逆に「なんだかどこに向かって議論をまとめていけば良いのは訳が分からない」ということもあった。
 七月くらいになると、誰もが「水俣原則」はできるのだろうか? と不安に思うようになった。八月の暑い日に湯の児山海館に集まってもらった。ここまできたらエイヤッと進めるほかはないとばかり、これまでの議論や資料を元にして「一人ひとりが思う水俣原則を書き出してみよう」となった。そこから多くのキーワードが出てきた。
 いのち・幸福・失敗・もやい・次世代・不便・あやまる・一人称・言葉・過去・未来等々、これらの言葉と、水俣のやってきたことや良いところそして水俣病のイメージなどから、やっとのことで草案ができたのが八月の下旬だった。三案作成したが、三つ目は「これは相思社風だね」とあっさり退けられた。タイトルの「水俣原則」はあまりにも堅いので、「みなまたの約束」となった。一案と二案を併せて最終形の「みなまたの約束」が完成した。

ボツになった水俣原則案III
これまでの五〇年の事実
水俣病はチッソの大失敗であり国の大失態です。水俣病は健康被害ばかりでなく、被害者が生き難い世の中にしました。患者と住民はお互い認め合えず、共に生きるコミュニティーを失いました。一度汚染してしまった環境は、なかなか元には戻りませんでした。水俣病問題を誰か解決してくれると思ってきた。
これからの五〇年の指針
失敗したら素直に認め過ちを改めます。被害者の健康は元に戻りませんが、いのちを大事にすると生きやすくなります。違いを認め合えばそれが多様性に見えてきて、暮らし文化の厚みとなります。自然と調和した暮らし方は環境汚染を起こさず、良好な人間関係を創ります。水俣病もある水俣の将来は、水俣に暮らす私たちが自分で切り開きます。

 みなまたの約束を世界に発信すると言ってしまったので、すでに英語・タガログ語・スペイン語・イタリア語・フランス語・ハングル・ドイツ語・中国語に翻訳している。これからも多くの外国語に翻訳したいので、ご縁のある方にお願いしたい。また多くの人の目に触れるために、「みなまたの約束」を行政やNGOや個人のホームページからリンクしていただくと幸いです。

「みなまたの約束」

前文
 水俣病公式確認五〇年事業もやい部会のみなまた塾委員会では、水俣地域に住んでいる人が中心となって、住民の自己宣言としての「みなまたの約束」を作成しました。生き物や自然を犠牲にしない人間の暮らしを選び取ることが、二度と水俣病が起こさない前提条件です。「みなまた宣言」は、そうした考え方の基準となります。多くの人のご理解と実践をお願いいたします。
     二〇〇六年一〇月二一日
        みなまた塾委員会

本文
 水俣は過去五〇年の歴史の中には、いろいろな失敗がありました。そして、これらの経験を通じ、汚染された自然環境や混乱した社会環境を、元に戻すことの困難さを水俣は学びました。これからの五〇年に向かって、自然とのつきあい方、暮らし方、産業活動、コミュニティーを「もやい」で捉え直し、いのちの輝きを増していきます。人が好き、自然が好き、住んでいる場所が好きと、素直に言える「まち」をつくります。

一.水俣はいのちを大切にします。
二.周りに異変があるときは、現場の声を大切にして目をそらさず、しっかり調べます。
三.産業活動の目的は利潤追求だけではなく、真の豊かな暮らしを支えることです。
四.行政の仕事は、住民とともに幸せな暮らしをつくりだすことです。
五.モノの豊かさだけの時代を越えて、もったいない精神の落ち着いた暮らしを創造します。
六.失敗から学ぶことによって、失敗を無駄にしません。犯した過ちを素直に認め、行動で改めていきます。
七.過去を振り返り未来を想像しながら、少数の意見にも耳を傾けて、自分たちの地域は自分たちでつくっていきます。
八.水俣病の経験を伝えることは、いのちの大切さを伝えることです。

創作舞台の舞台裏とそこで見えた課題/花崎攝

 水俣は東京から遠い。以前、駆け足で一度だけ訪れたことはあった。しかし、水俣がこんなに小さく美しい町であること、水俣病の問題がいまだ触れれば血がしたたるような現在進行形であることを、わたしたちはよく知らなかった。もしもっと状況に精通していたら、やりましょうと手をあげたかどうか分からない。
 幸いにして、「水俣ば生きて」の公演は、多くの方に大変好意的に受け止めていただいた。それはまぎれもなく参加者の力だ。もしかしたら好意的に受け止めてもらえないかもしれないリスクを負って、ほとんどの人がきっかけはともあれ、自発的に参加を決めてくれた。そして仲間とともに自分の状況や思いを、いきいきと語り表現した。小さな、ましてや水俣のように人間関係が複雑なマチで、自分自身のことを表現することは並大抵のことではない。心から尊敬し、感謝している。またご家族をはじめまわりの方たちのご協力にも、お礼を申し上げます。そして、彼らの表現を受け止めてくれた多くの、水俣市民の懐の深さにも感銘を受けた。
 一方わたしたちはといえば、演劇が好きであること、なにがしかの経験があること、演劇に限らず、表現を生み出すプロセスと表現行為がなにかを動かし変えるきっかけになりえるはずだと信じているいかがわしさと、その可能性に賭ける無謀さを辛うじて持ち続けていること、それだけが頼みの綱という心もとなさだった。
 はじめから困難は予想された。未認定患者の問題をはじめ、水俣病をめぐる問題は山積しており、五〇年事業の企画そのものに賛否が渦巻いた。実行委員会主催とはいえ、いわゆるヒモツキといわれる行政の事業で、予算も十分とはいえなかった。担当の地域福祉部会は、部会員の立場の違いによる意見や見解の相違が大きく、一致して事に当ることは難しい、…等々。冷静に考えれば、条件はきわめて厳しかった。そして現実は想像よりもさらに困難だった。
 わたしたちがまず決めたのは、福原忠彦くんに常駐してもらうこと。しかし、常駐スタッフを置くことに、はじめ事務局は難色を示した。「予算に全く余裕がないではないか」「よそ者が短期間滞在してなにができるのか」「専従の五〇年事業事務局スタッフで充分ではないか」、などの疑問が付された。しかし、常駐者がわたしたちのスタンスと方法を水俣の人たちに直接伝えて、自前のネットワークをつくることがどうしても必要だった。「創作舞台」をつくるという仮設の目標をテコにした、現実の利害関係から一時的に離れたあらたな関係こそが、力のある表現を生み出し支える磁場となる。さらにいえば、企画終了後にもうひとつの動きを生み出す母体となる可能性もあるからだ。ここで踏ん張ったことは大きかった。演劇を本業としながらヘルパーの資格も持っている福原くんは、身内を褒めるようで恐縮だが最適任者で、まさにキーパーソンとして最重要な働きをしてくれた。
 そのようにして始まった創作舞台の事業は、その後もさまざまな干渉、冷やかな対応などに揉まれ続けた。とてもすべてを記すことはできないが、先にも触れたように、地域福祉部会も波乱含みだった。水俣病患者の施設関係者、水俣病以外の障がい者(身体、知的、精神障害、等)の施設あるいは団体の関係者、障がい者、社会福祉協議会、市役所、医療関係者、教員など、福祉にかかわるという共通点はあるもののさまざまな立場の部会員で構成されていたからだ。ただ水俣病患者は入っていなかった。一方の当事者が欠けていた。
 わたしたちを五〇年事業に紹介してくれたのが、胎児性水俣病患者が多く通う共同作業所「ほっとはうす」であったため、「胎児性水俣病患者と障がい者の想いを伝える創作舞台芸術」とうたっているものの、障がい者は刺身のツマのように扱われて利用されるのではないか? そもそもワークショップを重ねて創作舞台をつくるなんてほんとにできるのか? これらの疑念はなかなか消えなかった。ところが活動を重ねて、本気で「胎児性水俣病患者と障がい者の想いを伝える」舞台をつくるらしいと理解されはじめると、今度はなんと事業名から「胎児性水俣病患者」ということばを外したらどうかという提案がなされた。障がい者や一般の方が参加しにくいというのが理由である。
 そもそもこの事業をなぜおこなうのかの根幹にかかわり、実際に胎児性患者が参加しているなかで、事業名を途中で変更するなど通常では考えられないことだ。結局、事業名は変更されなかったが、水俣の福祉の複雑さ、生々しい権力関係の駆け引きの一端に触れることとなった。さらにこの出来事が、「ほっとはうす」がわたしたちの公演翌日、別の創作舞台を含む集会をおこなうことに繋がる一因ともなった。両方に参加することになり、板ばさみになって過重な負担のかかるメンバーのことを思うと痛恨の極みだった。
 水俣病患者と障がい者。とりわけ生まれつき障がいを負った胎児性水俣病患者も障がい者であるという側面と、水俣病患者としての特殊性をどう考え、取り扱うか。ひとつの事業を越えた水俣の福祉の課題が、その背景に垣間見えた。問題の立て方は適切であるか、これまでの経緯を含めた感情的なしこりをどう乗り越えるか、など多くの課題があるだろう。しかし、なによりそこに当事者の意見や意向が充分に反映されているのだろうか? そのことが私にはとても気にかかる。保護と、管理あるいは干渉は紙一重だ。グループホームや移送サービスをはじめ、施設の整備、システムの拡充などの課題にも、水俣病患者であれ、いわゆる障がい者であれ、当事者自身が主体になれるサポートについて、もっともっと工夫することが求められているのではないだろうか。
 表現行為はやりたい、やってみようという個人の意思がなければ本来成り立たない。その意思を実現するためには、ハード、ソフト両面の整備が必要だ。そして表現の中身を発見していくことと、水俣でそれぞれの人がよりよく、あるいはより幸せに生きていくことが、どこかで重なるような活動が生み出せないだろうか?またやりたいといってくれる仲間たちと新たな人たちとともに。

 え? またしても懲りずに無謀な夢をみている……?

創作舞台「水俣ば生きて」
 10月14日に水俣で発表した、胎児性水俣病・障がい者の想いを伝える創作舞台芸術。水俣病が公式に確認されてから今年で50年。4月から10月にかけて、胎児性水俣病患者、障がい者、一般市民、小学生、中学生、高校生らがワークショップを重ね、過去がよみがえり、あらたな記憶がみつかった。そして、あしたのことに想いをはせた。もやいの網をあみながら生きていくこれからのこと。この50年をふりかえり、オリジナルの舞台をつくり上演した。

 演劇デザインギルドは、演劇をともに新たな認識を獲得し、創造的な人間関係を結ぶ道具として捉えている。演劇を中心とした表現活動の企画、制作、進行、演出等を総合的にデザインする職能集団。演劇デザインギルドへ飛びます

花崎 攝

 劇団黒テントを経て、成沢富雄、福原忠彦らと演劇デザインギルドを設立。子ども、女性、障がい者など、さまざまな人たちと演劇ワークショップをおこなっている。アジアやラテンアメリカなど、海外との交流にも力を入れている。

関西訴訟判決後の地域事情/弘津敏男

新規申請者の事情

 保健手帳の申請者が六,〇〇〇人を超えた。今も申請者は増え続けている。一〇,〇〇〇人を超えるのは時間の問題だろう。一方、認定申請者も四,〇〇〇人を超えている。それらの大部分が新規の申請者である。  保健手帳申請者と認定申請者の置かれている状況には大差ない。症状も同じと言ってよい。新たに申請した人たちは次の三つに大別できる。
(一)今までは(九五年の医療事業も含めて)自身の仕事や家族のことなどがあり、(感覚障害などの)症状はあったが、偏見や差別をおそれて申請できなかったが、状況が変わったので、という人たち。
(二)九五年当時は制度のことを知らなかった、あるいは自分の症状が水銀の影響だとは思わなかったので申請しなかった人たち。
(三)九五年以降に自覚症状が現れた、あるいは耐えられないくらい酷くなった人たち。
 このうち、(一)と(二)の存在は以前から予想していた。しかし、(三)は全く予期していなかった。相思社で作った『数字から見る水俣病』には「水俣病の被害者は二万人以上」と書いてある。数年前まではその程度だと思っていた。しかし、(二)の人たちが予想以上に存在していること、(三)の存在が明らかになったことで、今は「被害者は五万人に上るのではないか」と考えている。

なぜ、申請者が急増しているか

 具体的に申請者の広がりについて報告したい。
 最初に相思社に相談があったのは御所浦の人たちからであった。御所浦は漁業のムラであり、昭和四〇年頃から「魚が売れなくなっては困る」ということで水俣病を避ける風潮が強かった。九五年の政府解決策当時でさえ、ムラぐるみで水俣病をタブーにしていた地区もあった。御所浦は農地が非常に少ないが魚介は豊富である。従って魚の食べ方は半端ではない。昭和二〇年代から四〇年代前半に御所浦に居住していた人たちは汚染魚を大量に摂取していたと考えるのが合理的であり、ほぼ全員が被害者であると考えられる。
 次いで芦北の人びとから相談があった。さらに手帳を取得した人たちからの口コミで相談者は広がりを見せた。御所浦や芦北から都会へ移住した人びと、鹿児島県出水市へと広がった。また、芦北の山間部や天草・龍ヶ岳、鹿児島県長島町といった「水俣病被害の対象地域外」へと広がりをみせている。
 九五年の医療事業再開の時より広がり方は遙かに規模が大きい。その理由は二つある。一つは手帳取得の居住条件が緩和されたことであり、もう一つは申請期間が延びたことである。
 例えば芦北町の場合、海岸部及び町部は汚染の対象地域とされているが、町部から少し離れた山間部などは対象地域とはなっていない。道を一つ挟んで対象地域と非対象地域とに分かれることもある。九五年の政府対策の時には、同じ魚屋さんで買っても、対象地域の人は医療事業の対象者となり、そうでない人は対象外となったという例も少なからず発生した。今回、保健手帳の受付けを再開するにあたっては「そのような不公平がないように」ということで、「対象地域に住んでいなくても、対象地域との関わり(買い物に行っていたとか、貝掘りに行っていたとか)があれば交付対象になりうる」ことになった。
 実は対象地域に隣接しなくても、魚の行商人は山間部への毎日のように行商に行っていた。昭和二〇年代〜四〇年代初期においては、都会地でも牛肉・豚肉を多食する人は滅多にいなかった。ましてや農村地帯ではタンパク質源は魚介に頼っていた。従って、漁村ほどではないにしろ、農村部でもほとんどの人びとが多かれ少なかれ汚染魚を食していたと考えられる。

 水俣病に関する情報は、地元では基本的に口コミで伝えられる。都会の人びとにとっては信じられないだろうが、それが事実だ。テレビや新聞で報道され、家庭に配布される市報に掲載されても、「水俣病のことは私には関係ない」と考えている(そう思いたいからと思われる)。従って、水俣病に関する情報は右から左に受け流す人が多い。口コミだとそうはならない。「オレは手帳をもらった。あんたもしびれがあるなら申請してみんね」と誘われると、「???」と思いながらも、「○○に行けば相談に乗ってくれるから」と言われると、「それなら試しに」ということになるのだろう。
 県外移住者へ情報が伝わるのは時間がかかる。九五年は半年ほどで窓口を閉め切ったために申請できなかった人もたくさんいたと思われる。今回は「少なくとも五年間は窓口を開けておく」ということもあり、再開から一年を経た現在も新規申請者が増え続けている。「すべての被害者救済のためには、申請が続く限りは窓口を閉じない」と環境省の担当者が話していたが、今のところはそれがうまく作用しているように思える。

行政の対応は?

 こと水俣病に関しては誰も行政をあてにしていない。七月に、熊本県は「水俣病相談窓口」を水俣や芦北・御所浦に開設した。しかし、開店休業状態にあると聞く。一方では毎日のように相思社には申請の相談があるのにである。電話での相談も多い。まずは「役場にも相談窓口がありますが、そちらへ行かれてはどうですか?」と言うのだが、「はい、わかりました」という人は皆無と言ってよい。「役場には行きたくない」、「役場に行ったけれどちゃんと相手してくれんだった」と言った答えが返ってくる。「それでは」ということで、相思社で申請のお手伝いをすることになる。すでに相思社で保健手帳申請のお手伝いをした人は、昨年一〇月の受付け再開から一年余りで一,六〇〇人を超えている。相思社が申請のお手伝いをしていることは一〇月に熊本日日新聞の記事になるまで公表していなかった。口コミだけで広がっている。
 「窓口を開いているのに来てくれない」と行政の関係者は嘆くが、「なぜ来ないのか」を真摯に考えるべきであろう。

相思社が申請のお手伝いをする理由

 相思社は「水俣病患者が地域で普通に暮らせるために作られた」と言ってもよいだろう。「水俣病患者が普通に暮らせる」ためには「偏見・差別の解消」が必要となる。水俣病をタブー視している限り先には進めない。地域には、自らの健康が損なわれていながら、いや、損なわれているが故に、水俣病を嫌う雰囲気がある。「オレも本当は水俣病だ。しかし、チッソあっての水俣だ。少々はガマンするのが水俣の人間だ。たいしたこともないのに申請する奴らは金の亡者で、水俣の恥さらしだ」といった感覚は、少なくとも六〇代以上の多くの人はそうである。
 そのような人たちが保健手帳を取得することで、水俣病に理解を示す、少なくとも悪口を言わなくなることで、徐々に偏見・差別が薄れていく。それが有力者であれば影響力は大きい。これは九五年当時も実際に体験したことである。手帳の取得者が広がることが偏見・差別の解消につながることは間違いない。
 「もやい直し」運動の最大の成果は公の場から「ニセ患者発言」を排除したことにある。そのことにより偏見・差別の拡大は防げるようになった。しかし、今も人びとの口から「金の亡者」発言が途絶えることはない。口伝えであるだけに、それを防ぐのは容易ではない。地道に活動を続け、水俣病に対する理解を広めていくしかない。二〇〇四年の関西訴訟最高裁判決以降の新たな動きは差別・偏見の解消にとってまたとない機会となっている。

宇井純先生追悼/桜井国俊

 水俣病の真の解決に向けその力がまさに必要とされ、また沖縄が重大な岐路に立ちその忠告が強く求められているこの時に、宇井純先生が他界された。体調を崩されているのを目の当たりにして、先生の後の世代へのメッセージを早く記録し記憶しておかねばとの焦りがあった。それは昨年から募る一方であったのに、日常の些事にかまけて時期を失してしまった。そうした私の無念さの、千倍、万倍も先生は悔しく思っておられるに違いない。何しろ、水俣病公式発見50年の今年、ご病気ゆえ、思った様に活動できないのを歯軋りして悔しがっておられたからだ。また沖縄県知事選(????)の行方についても病床で案じておられた。水俣にとって、沖縄にとって、そして環境問題に取り組む世界中の人々にとって、余りにも大きな痛手であり、残念でならない。
 先生に初めてお目にかかったのは1964年のことである。その年、東大工学部に都市工学科という新しい学科が開設され、宇井先生はそこで水質分析の学生指導を行うため、助手として採用された。都市工学科の一期生として宇井先生に厳しく鍛えられた10名のうちの一人が私であり、以後40年余にわたって先生の薫陶を受けることとなった。宇井先生は、いまや古典となった『公害の政治学−水俣病を追って』(1968年/三省堂)を著すなどして原因企業チッソを厳しく糾弾したが、御用学者の多い東大の中で昇進の道を閉ざされ、「万年助手」として全国にその名を知られることとなる。文句なしに実力のある人間が干される東大における「知の退廃」を、私は至近距離から見ることとなった。
 宇井先生は1986年に東大に決別し、沖縄大学教授に就任された。本土復帰後加速化する沖縄の環境破壊を憂慮されてのことだった。そして2000年、日本政府は、沖縄の永久軍事基地化に向け、沖縄県民をさらに慰撫し篭絡するイベントとしてG8サミットを沖縄で開催する。その年、私は沖縄大学に着任した。宇井先生からの強いお誘いを受けてのことである。そして3年後の2003年3月、宇井先生は退任され、沖縄大学名誉教授となる。
 その沖縄大学では、先生に一度も教えを受けたことのない学生たちが、「学びたいことを学べる大学を自らの手で作っていきたい、ついては自主講座運動を進められた宇井先生の生の声を聞きたい」として、11月12日の沖大祭のシンポジウム「今、沖大を語る」の基調講演者として先生をお招きしていた。先生は、シンポジウムを企画した学生たちに、「11月に目標を定めて(リハビリの)努力をすることはかえって効果があるかもしれません」と3日がかりで返事を書かれている。学びたいという若者たちに、ぜひ伝えたいことがあるとして、シンポジウムまであと1日という所まで病と闘い、力尽きたのである。先生の死の翌日、学生たちはビデオでありし日の宇井先生のお声に接し、励ましを受けた。先生の志は、こうした若者たちによって必ずや受け継がれていくに違いない。
 こころから先生のご冥福をお祈りする。
             沖縄大学 学長 桜井国俊


(2006年11月25日発行)

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