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機関誌ごんずい99

目 次
ごんずい99号
産廃阻止!水俣市民会議総決起集会 2006.6.25

特集I IWD産廃処分場緊急報告

特集II 緒方正実さん水俣病認定

記事

リード IWD東亜熊本 環境影響評価準備書を問う

 産廃処分場建設を巡って戦われた水俣市長選から早一年が経った。産廃反対の宮本市長が誕生、産廃対策室が設置された。そして2005年6月に市をあげての反対組織「産廃阻止!水俣市民会議」が結成された。その間、事業者のIWD東亜熊本は沈黙を守ってきたが、ここへきてついに環境アセスメントの準備書を提出した。
 環境影響評価(環境アセスメント)とは、事業の内容を決めるに当たって、それが環境にどのような影響を及ぼすかについて、事業者自らが調査・予測・評価を行い、その結果を公表して国民、地方公共団体などから意見を聴き、それらを踏まえて環境の保全の観点からよりよい事業計画を作り上げていこうという制度である。しかし、「アセスメントではなくアワスメント」と揶揄されるように、事業実施を前提に「環境に影響はない」という結論がはじめからあり、それに合わせるように調査が行われるというのが実情である。

 その間、2004年3月には、環境アセスメントの項目と方法を示す「方法書」が縦覧されていた。方法書に対しても条例に則って住民が意見を言う機会があったのだが、その時私たちはそれが何を意味するのかさえ理解できず、住民意見を述べる機会をみすみす逃してしまった。問題を表立たせまいとするIWD側の巧みな工作があったにせよ、市の広報に公告はされたわけであり、私たちは無関心という最も警戒すべき罠に陥り住民としての権利を放棄してしまったといえる。痛恨の極みである。方法書から二年の間、IWDは影響調査を行い、その結果を「準備書」として提出した。「準備」と名がついているものの、次の評価書では住民は意見を言うことができないから、実質はここが戦いの本番である。

高嶋由紀子

準備書10の疑問/高嶋由紀子

 方法書の苦い経験から、準備書には気合を入れ直して取り組んできたつもりである。高木仁三郎市民科学基金の助成を受けて、調査も行った。市民が自ら調べて自ら詳しくなる「市民科学」は、産廃反対運動のみならず、住民自治を考える上でも重要なキーワードである。水俣市役所職員の吉本哲郎氏が唱えた「地元学」にも、「調べた人しか詳しくならない」という法則がある。それは五〇年の苦しみの上に生み出された教訓でもある。水俣市民は誰しも「なぜ水俣病で苦しんだ水俣にさらに苦しみを押しつけるのか?」という思い、また「水と緑の豊かな風土を産廃で汚すのか」という思いを持っている。しかし、思いだけでは勝てない。地域エゴと言わせないだけの根拠を明確に示さなければならない。
 その根拠たり得るものは二つである。一つは、産廃を必要としない真の環境首都を住民自治によって創り上げることと。もう一つは、産廃処分場をあの場所、水俣の水と命の水源に作ることで、いかに住民の生活が脅かされるのかを科学的に証明することである。
 準備書が縦覧になってから、私たちは準備書の問題点を洗い出す作業を行ってきた。準備書を読んでみて思ったのは、一言で言えば「ズサン」ということである。紙面の都合上、問題点の全てを書き出すわけには行かないが、一部を簡単に紹介したい。

(1)湧水は豊富ではないのですか?

 処分場が計画されている馬尼田台地から、こんこんと湧き出る水。それをIWDは「沢水」だとしている。「当該地元住民の主張では総計で五〇〇〜六〇〇トン/日の湧水があるとのことであるが、真の湧水はわずかなものであると判断される。他は、表土や草木の根などに保持されていた水が沢に流れ出しているものと考えられる。」(四四五頁)としている。
 どうやってこのような判断をしているのだろうか。準備書には「湧水の状況を目視で確認し」(四四三頁)とあり、三月十一日の説明会でもIWD側は、「それ以外になにがあるんですか?」と沢水か湧水かは目視だけで判断していることを明言した。
 ところが、準備書では「近接的には湧水のように見えるが、崖錐堆積物の下を流れてきた沢水が、礫岩層の棚の位置で地表に現れたと推定される」(四四五頁)と言っている。透視能力かな?
 「沢水」「湧水」「表流水」「表層水」「地下水」「真の湧水」等々の多種多様な用語が散りばめられているものの、実際それらがどういうふうに使い分けられているのか、納得のいく定義は得られていない。つい用語に惑わされ、相手の土俵に乗ってしまいそうになる私たちは、近代的思考の落とし穴にはまっているのだろう。
 「沢水と言おうと地下水と言おうと、あの馬尼田の台地から湧き出す水はすべて湧水です。私たちはそういう意味で湧水という言葉を使っているのです」という下田安冨さんの言葉こそ真理である。
 IWDは、説明会で下田さんらの追及を受けて、再調査を行うことを約束した。

(2)鹿谷川はどうなってしまうのでしょう?

 河川水については、処分場から排水が流される予定の鹿谷川の流量が三一〜七三立方メートルと非常に少なく、最大五五〇トンもの排出水を流量の少ない鹿谷川に流せば水質の悪化は避けられない。鹿谷川の現状の水質はAA類型に近いA類型であるが、IWDは鹿谷川の環境保全目標をD類型としている。これは汚染を許容しているものであり不当である。

(3)本当に地質を調べなくていいんですか?

 なぜか「地質」が調査項目から外されている。方法書に対する県知事意見でも地質を調査項目に加えるべきであると指摘されているが、それを無視してである。ちなみに同じ県知事意見で指摘された「景観」は新たに調査項目に入れている。なぜ頑なに「地質」を項目に加えることを拒むのか。どう考えても不自然ではないだろうか。現地は二〇〇三年に宝川内で大災害のあった時に、こちらでもあちらでも崖崩れが起きている。あの台地から崩落してきたと思われる、板状節理の発達した安山岩の巨岩が、湯出川にはゴロゴロしている。
 「適切に計画設計された防災調整池や沈砂池等を設けて防災上の雨水排水調節を行うことから、砂防指定地への影響はないものと考えられるため、環境要素から除外した」(一八〇頁)という言い訳は作文としても最悪である。適切な設備を設ける(予定)だから影響評価を行わないなどとんでもない。環境影響評価を行う目的が、適切な設備などを含む様々な手段を以て影響の低減を図ることなのである。これでOKならアセスなんてしなくて済みますね、知事さん?
 計画地の地質については、地下水の項目に関連して一応の調査が行われている。項目から外したのは、注目度を下げたかったためだろう。
 地盤は「管理型最終処分場の底面下一〇メートル以上の深さまで風化した安山岩溶岩である」(四六九頁)として、透水性が極めて低いとしている。しかし、ボーリング地点は一六箇所しかなく、用地の広大さに比べて少なすぎるし、掘削深度もまちまち、場所も偏っている。ボーリング柱状図や、ボーリングコアサンプルが一部しかないのも気になる。また、ボーリング孔の流向調査では、地下水が水位の低いほうから高いほうへと流れているという、不自然極まりない結果になっている。
 三月十一日の説明会で住民に追及されたIWDは、しぶしぶ全てのボーリングコアを水俣市側に見せた。

(4)どうやって管理するのかよく分からないのですが?

 排出水の水質は、BODについては、五ppmという厳しい基準を出している(項目によって厳しいものもそうでないものもある)。
 しかしながら、肝心の排水処理方法は明確でない。処理についてはフローしか示されておらず、具体的にどう処理されるのか、実際に自主基準まで処理する能力があるのかどうか全く分からない。
 漏水検知システムを設置するとあるが、どのようなシステムなのかも全く記載がない。また、漏水を検知した場合、どのように修復するのかも分からない。水俣の言葉で言えば「アゴばっかり」=口ばかりである。

(5)平通りを一〇ダンプで通る?本気ですか?

 水俣名物「蜂楽饅頭本店」の角を、湯の鶴方面に曲がったところから江南橋までの通称平通りは、狭いことで有名である。湯の鶴行きのバスが通るときに、対向車は左の壁すれすれまで避けて待つ。一〇トンダンプが次々通れば大渋滞になることは目に見えている。ここは小中学校への通学路でもある。準備書には「大型車混入率は低く」(三一六頁)と書いてあるが、通らないのではない、通れないのである。
 騒音調査・交通量調査は、平通りのもっとも狭い部分で行っておらず、若干広くなった江南橋下で行われている。全く意味がない。
 方法書に対する県知事意見にも、「計画されている搬入路は非常に狭く、運搬車両の通過により住民や一般車両等に危険性が及ぶ恐れがあると思われる」と書かれているが、IWDは県知事意見に対する見解としては「農免道路等の広い道路を利用する」と記載している。しかし平通りは相変わらず主要ルートとして記載されている。一体どちらが本当なのか。
 二本の予備ルートの一つとして指定されている「農免道路」は確かに広い。だが、そこに至る過程で物理的に十トン車が通過することはできない場所がある。四トン車を使用するとすれば台数が増えるので、十トン車五十五台/日という想定で影響を予測している騒音、大気、振動等の調査をやりなおさなければならない。また、もう一本のルート、国道二六八号線から入るルートは、一部四トン以上の車が通行禁止である。結局、一〇トンダンプが、通学路でもある平通りを次から次へと通ることになるのではないか。

(6)ページによって言っていることが違うんですが?

 同じ湧き水がページによって「沢水」と書かれていたり「地下水」と書かれていたり、という点が三月十一日の説明会で住民から指摘され、IWD側は答えに窮して「ワープロの打ち間違い」などと言い訳した。他にも、たとえばある地点を示す記号が、Y―1と書かれていたりS―1と書かれていたり、断面図にある場所が平面図上で指定されていなかったりとおかしな場所が山ほどある。読む方は困ってしまう。「書き間違いでした」では公的な書類としては通るまい。小林社長、「細かいところ」と言うなかれ、これでは調査結果を検証することができず、意見の出しようがないのである。……ん? それが狙いなのかな?

(7)言い訳する前に、ちゃんと調査してくださいよ?

 「法面の雨水排水対策」の項目で、「地下水位や湧水の有無を事前に全て察知して施工を行なう事は困難であり、施工中に判明することも予想されることから、その場合は、施工中に排水量を把握し、適宜必要な排水設備を設置する方法とする。(中略)さらに、法面等に湧水が発見された場合には、当該法面の安全性を重視して水平排水孔を設置する等、柔軟に対応する」(三八六頁)とあるが、「見つかったらちゃんとやりますから」ではアセスをする意味なんかないのである。そもそも「全て察知して施工を行なう事は困難」という言い訳は、事前に十分な調査を行ってから言ってもらいたいものである。

(8)県知事意見を無視していいんですか?

 Bで述べたようにIWDは、県知事意見を無視して地質を調査項目から外している。「事業実施区域およびその周辺に災害危険地区が存在し、崩壊土砂の流出により、下流域の保全対象地に山地災害が発生しないよう適切な処置を講じる必要がある。」(六七三頁)と指摘しているのに対し、すでに述べたように事業者は地質を調査項目からはずすなど何ら配慮していないにもかかわらず、「被害を与える危険性があるので、周辺の山地災害危険地区の区域に対しても適切に配慮致します」と見解している。嘘つきは泥棒のはじまりである。
 県知事意見で「漏水検知の方策ならびに漏出した際の対策について明記すべきである」(六六二頁)とあるが、これも前述のように準備書には記されていない。「埋立対象物について検討し、具体的な計画として示すべきである」(六六七頁)とあるが、「対象品目の絞込みを行った結果を準備書に記載しました」(同右)だけでは「具体的な計画」と言えない。
 「事業実施区域においては、地下水の影響の有無を考慮し、適切にボーリング調査を実施しました。また、整備する管理型最終処分場においては、地下水や泉源への影響の無いようボーリング調査結果を念頭に適切な計画設計を行いました。」(六六九頁)と、一〇〇字足らずの間に「適切」が二回も使われている。適切かどうかは事業者が勝手に決めることではなく熊本県が判断することで、越権行為だろう。
 いいんですか、知事さん。

(9)土地があればどんな場所に処分場を作ってもいいんですか?

 「事業の目的と背景」(二頁〜四頁)には、日本の廃棄物政策の背景として、平成五年の「環境基本法」以降から書き始められている。水俣市について言えば一九九二年の環境モデル都市づくり宣言以降しか書かれていない。最低でも二〇年三〇年つき合わなければならない処分場事業に関わるにしては、恐ろしいほど短期的な視野しか持たない人たちである。そして、日本の公害・環境問題の原点でもある水俣病に一切触れないまま、水俣に処分場を建設しようとすることに、何の躊躇もない。そのことに水俣市民は憤りを覚えている。一度環境破壊のツケを住民は未来永劫背負っていかねばならないと水俣病の教訓は教えているのだ。
 挙げ句の果てにエコタウン事業との連携など掲げてみる。IWDの最終処分場に処分される廃棄物のうち、水俣エコタウンから出る廃棄物は一体何%あるのか。勝手に持ち出されたエコタウン企業もいい迷惑である。
 「最終処分場の不足⇔リサイクルの推進」(四頁)も訳が分からない。「真の循環型社会への貢献」とも言っている。最終処分場は循環から外れた廃棄物をやむなく埋め立てる場所だ。それを「真の循環型社会」とは!

(10)そもそも何のために準備書の縦覧をするんですか?

 環境影響評価条例では「準備書に係る環境影響評価の結果について環境の保全の見地からの意見を求めるため」縦覧を行うようにと定めている。事業者が住民に「どうぞこれを読んで意見を言って下さい」というのが条例の趣旨である。事業者が住民に「見せてあげる」という性質のものではない。ところがIWDは何を勘違いしたか、著作権を主張して準備書の複写・撮影等を一切禁止するという行為に出た。これは条例の趣旨に照らせばおかしい。準備書について仮に著作権の侵害行為(コピー等)が行われたとして、株式会社IWD東亜熊本はどのような不利益が生じるのであろうか?
 ハッキリ言って住民に読ませたくないだけではないのか?
 ところでIWDは準備書の中で使用した文献を明記していない(たとえば一二二頁、四五四頁など)。そのIWDが著作権を口にするのは盗人猛々しい。
 条例の趣旨を徹底させていない熊本県の責任も大きい。

 他にも矛盾点は数多くある。箇条書きに書き出した問題点は、大小併せて一九九項目にも上った。それらの矛盾は、IWD東亜熊本の事業に対する態度を端的に示すものである。しかしながら、そもそも事業者自らが調査を行い自ら事業を評価するというアセス制度が変わらなければ、それらの矛盾は解決しないのである。

※準備書は熊本県・水俣市に提出された他、二月二十一日より市内五カ所で住民に縦覧されている。業者説明会で調査不足・準備不足が曝露されて立ち往生したIWDは、準備書縦覧を五月二十一日まで延期した。意見書提出も二ヶ月延期された。意見書を五月三一日までに「水俣市役所産廃対策課 熊本県水俣市陣内一の一の一」にお送りください。
意見書は、宛先をIWD東亜熊本として、意見を書いて、名前と住所をお書きください。見本はこちらにあります。

産廃阻止! 水俣市民会議 宮本勝彬市長インタビュー

遠藤 昨日のIWD説明会のご感想からお願いできますか?
宮本 一言で言えば感動と感謝ですね。この経験をエネルギーにして、二回目にぶつけていかなくてなりません。決して気を緩めることなく、粘り強く闘っていかなければならないと思います。市民のみなさんの思いと、水俣病を経験したまちの力強さをひしひしと感じました。市民のみなさんもあの説明会を見られて、「こうやって闘って行けば良いんだ」「こうやって思いを伝えれば良いんだ」と、具体的な方法が見えたんじゃないかと思います。
 質問をされた方々のご努力が実を結んだように思います。心もそろえられようとしていることが、市民のみなさんに見えたんです。「だから私たちも、力をあわせて産廃阻止を一緒にやらなければ」と改めて決心されたのではないでしょうか。下田さんたちの質問を自分のことのように思い、感謝し感激されたのではないかと思います。自分たちの気持ちを伝えたいんだけどなかなか伝えられない。それを昨日は代弁してもらいました。胸にこみ上げるものがありました。
 なんと言っても水俣市民はすごいですよ。水俣病の悲しい辛い思いを経験して、それを乗り越えていこうとしている市民の力強さを見ました。それはよそのまちにはとてもまねができないのじゃないかなあ。そういう犠牲として、水俣病の被害があった市民の力を、業者はそのところを非常に甘く見ていました。「水俣病というのはほんとうに大変な出来事だったんだな、それを乗り越えて市民はここまできているんだな」と、IWDの方に感じてもらったと思います。水俣病は小さなまちの小さな出来事じゃないんですよ。日本の高度経済成長の犠牲と言えるんです。IWDは自分たちの金儲けのために産廃処分場を計画しているんだろうけど、水俣ではそれだけじゃあ受け入れられないんです。

遠藤 改めて市民への産廃阻止のアピールをお願いします。
宮本 先日から説明会のことで二六区を回りました。私はあれを続けて行きたい思っています。「産廃処分場を巡る今の状況はこうなっている」と確認しながら、市民の方々のご意見をお聞きできる継続的な会合を開いていきたいと考えています。また「広報みなまた」でお願いしたり、一緒に闘いましょうと呼びかけたり、産廃対策室便りを出していかなければいけないと思います。せっかくこれだけ盛り上がったんですから、このパワーをまち作りに活かさないといかんなと思っています。水俣のマチに対して「元気をだしましょう」、昨日はそんな元気をもらいました。産廃反対ばかりじゃなくて、それと一緒にまち作りをやっていかないかん。それは私に課せられた使命じゃないかと思っています。

遠藤 これからの「ほっと安心できる温もりのあるまち」作りについて、お考えになっていることをお願いします。
宮本 水俣は徹底的に環境にこだわるまちを作っていきたい。そのためにまず、「環境首都」まちづくり委員会を立ち上げたいと考えています。環境首都を目指すためには、何をしなければならないのか。環境に関する条例を充実したり、これからの五〇年をどうしていくのか、そういう話し合いを市民の方々に寄ってもらって話し合ってもらいたい。そして話し合われたことを、すぐに実行する環境実践隊を作ります。実践隊でエコショップへの働きかけをしたり、ごみをもっと減量しようとか、更にごみゼロにむけて何をするのか、そうした市民の動きを作っていきたい。そのことが「水俣には産廃はいらない」確信にもつながっていくんじゃないかと思います。
 頭石の村丸ごと生活博物館の取り組みを見ると、なんの変哲もない村だけどそこに住む人たちが自信を持って、自分の村の良さを説明できる。そこで田舎の食事をとってみる。そうする中で、そこに住んでいる人に魅力を感じていく。自然が美しいだけではなくて、そこに住んでいる人間が生き生きしている姿を見せることによって、「ちょっと水俣をのぞいてみよう」という人が増えてきます。そうした一つひとつの集落の集合が水俣市ですから、それが元気になれば水俣全体も元気になると思います。
 資源ごみのことでは、もったいないボックスを作ることにしました。まだ使えるモノはそこに入れて、使ってみようと思う人が利用することができる仕組みかと思います。とにかく水俣では、環境で一点突破全面展開したい。具体的方策を打ち出していけば、経済もそれについてくるかなと思っています。するとちょっとのぞいて見たいなという人も増えてくるし、二度三度と水俣を訪れるファンも増えるだろうと思います。
 自分として誠心誠意やってきたけれど、一年目はなかなか具体的な動きを市民のみなさんに見てもらえなかったように思います。今職員にお願いしているのは、財政が厳しいから「お金がないからできない」じゃなくて、「お金はないけど知恵と汗はあるから、みんなで考えながらできる形を考えましょう」といいました。市民のみなさんと一緒に、具体的なマチ作りを進めていきたい。今年は市役所から打って出ていきますので、よろしくお願いします。

       聞き手・構成 遠藤邦夫

緒方正実の原点「詫びる」ことから始まった闘い/坂西卓郎

 正実さんは一一年の長きに渡る闘いを勝ち抜いた。その道のりは苦難と孤独に満ちたものだった。四回の認定申請を行い、その二回が棄却される。棄却に対する行政不服も二回行い、一回目は認められなかった。だが、昨年一一月二八日に二回目の行政不服において「濃厚な疫学条件を考慮していない」とほぼ認定相当とも読める逆転裁決を受ける。訴えを貫き、行政を動かした瞬間だった。三月一〇日未明、相思社で「認定相当」の第一報を聞いた正実さんは一人席を離れ、縁側で声を震わせながら涙を流した。「今までの思いがこみ上げてきて、思いっきり泣いた」と正実さんは語り、その後祖父緒方福松さんの位牌に穏やかな表情で手を合わせた。
 そしてついに三月一五日熊本県知事から水俣病に認定された。熊本県対策課の職員が持ってきた認定書を家族と共に受け取った。その日、正実さんは4日前の喜びの表情はそれほど見せず「認定の喜びというよりは、訴えが届いた喜びが大きい。認定されたことは悲しみにもつながる」とその複雑な胸中を語った。認定されても全ての問題が解決する訳ではないという現実がここにある。  とはいえ、正実さんの想いが行政という大きな山を動かしたことの意味は計り知れないほど大きい。正実さんが「家も土台を崩せば崩れる」と語ったように、11年間の地道な訴えの積み重ねが事を成した。その忍耐と行動は見る人に凄烈な感動と勇気を与えてくれた。勇気は人に与えられるものではなく、自らの内から搾り出すものだが、正実さんの歩みはそのきっかけを常に示していた。それは「素直に生きること」「自分に負けない」という人として最も大事なことだ。認定の場に立ち会った高倉さんは「一人ひとりの行動が大きなものを動かすことがある」と語ったが、正実さんはまさにそれを実現した。
 その原動力の原点を辿る。
                      (※この聞き取りは三月一日に行ったものです。)

――政治解決での棄却

坂西 まず九五年の政治解決の枠組みを最初に聞かれた時の印象から教えてもらえますか?
正実 こんなばかげた解決策にのってたまるもんかち思ったです。最初はこういうあいまいな解決策で、自分が終われるはずもないっちゅうことで、見向きもしなかったですね。ただ、皆がその解決策に手を挙げていく中で、自分だけが取り残されていくような気もしたっです。周りから「もう手帳はもらったんですか」っちゅうふうにいうわけですよ。「申請はしてません」て言えば、なんでやせ我慢しとっとやっちゅうふうに非難されるわけです。変な雰囲気になってたですもんね。で、兄弟寄って、実家で会議ばひらいたっです。誰もしてなかったっです。「このままで、申請せんで良かろうかね」っと。そしたら「やはりここで申請して、医療手帳もらって、終わるべきやろうな」っちゅう話になったですよ。で、都合のいい話だけども、それを受け取ったからって、終わらんばんっちゅうことはない訳だけん。自分の中で一応の区切りはしたとしても、完全に水俣病を許すとかっちゅう問題じゃない。そういうふうに一旦考えたらですね、都合のいいところばっかり見えてくっとですよね。

坂西 それはどういう意味ですか?
正実 というのは、「あなたは水俣病患者じゃありません」ちゅうことが、ものすごく都合が良かったっです。逆に自分自身をごまかせるちゅうか。私のために作られた解決策だっちゅうふうにも、錯覚したっです。ただ申請した後も相当迷ったし、まだ受け取とらんわけだから、ここで申請自体を取り下げようかなちゅうにも思ったし、通知が来たって封を開けずに送り返せばいいんだから、どげんしようかなっちゅうふうに悩んどったです。もう対象になるっちゅうことを前提に物事を考えてたです。

坂西 しかし、棄却されてしまう訳ですね。
正実 どん底ですよね。なぜこういうことになってしまったのか。自分は水俣病の被害者であって、水俣病とともに生き続けてきた三八年が実際ここにあるのに、そうではないちゅう熊本県行政の判断はいったいなんなのか。じゃあ私は、緒方正実ちゅう人間はこの世に存在せんっちあなた達は言うのかっちゅうふうにさえ思ったです。単なる水俣病の被害者か、そうでないかちゅうものではなかったっですよ、私にとっては。自分の存在を否定されたと思ったですもん。だけん、まずは自分の存在をきちんと認めさせろっちゅう、そういう気持ちが強かったですね。それで覚悟はできたけども、形としてどぎゃんすればいいのかっちゅうのが相当迷って、正人叔父さんに相談したっですよ。そしたら、やっぱりびっくりしとったっですよね。「えっ、お前がや?」切られたちゅうことでですね。その後、高倉さんに相談して「一緒にやりましょう」っちゅわれた時に、その言葉がやっぱり自分の中でその勇気を持つきっかけにもなったですね。あの時、「どうにもできません」っち、もし高倉さんが言ったならば、また状況は変わっとったかも知れんし。一人でも自分の訴えに耳を傾けてくれる人がいたっちゅうことで、勇気づけられて確実に階段を上っていったような気がすっとです。

――棄却の真相

坂西 なぜ政治決着から漏れたか、ですよね。
正実 そうです。まず、申請をして医療センターに検査に行ったわけですよね。その時に、私の毛髪水銀値の資料を持参しとって、医者に見せたんですよ。昭和六〇年にですね、正人叔父が熊本県から入手してずっと持ってたんです。そして、私に申請するならこれを持って行けと渡したんです。

坂西 それまで、その存在はご存知でした?
正実 実はですね、そこが重要かなっち思うとですけども、正人叔父がそれを入手した時には見せなかったんです。私にも誰にも。なぜならその数値を見せることで、ショックを与えるから見せなかったと。しかし私が水俣病の解決を考えてることを知った時に、やはりこれを持って行けば、必ず解決の対象になるというふうに思ったんでしょうね。その時に初めて私に見せました。ただ、家族の中でお前が一番水銀値が高かったんだよということは、私が直接見る数年前に正人叔父から聞いてました。普通であれば、自分がどれだけの数値やったかっちゅうのは知りたかでしょ?しかし、教えてくれとも、見せてくれとも言わなかった。ちゅうのは水俣病の被害者ということに対して、疑うこともないくらいどっぷり水俣病に浸かっとったけんですね。

坂西 水俣病だというのは充分認識しているわけですから自覚のためには必要ないですもんね。それを申請の前に正人さんがコピーしてくれて。
正実 持って行ったわけですよね。医者が見た時に、当然びっくりしてましたよね。私はこれを熊本県に届けて下さいっちゅうふうに言った。そしたら当然添付してくれて、実際熊本県には届いていたわけですよね。しかし、重要な判定委員会に届かなかったっちゅうことは、どうしてもどこかで抜き取られただろうっちゅうのは誰もが考えることだと思うとですよ。水俣病対策課の職員が整理する時に、邪魔になったのか、何なのかはっきりしないけども。救済されなければならない私が所見書一枚で判断されて、救済の対象にならなかったわけです。そもそもその時点では、水俣病の感覚障害がどういうものなのかっちゅうのが、はっきりと示されてない中での判断やったわけです。そこに毛髪水銀値の資料がきちんと添付されているならば、当然違う結果が出ただろうと思うんですよ。それが結果的に届けられなかったために、切り捨てられて現在に至っとるわけです。

――自分に詫びることから

坂西 水俣病を否定していた頃にも症状はあった訳ですよね。その時は正実さんの中で気持ちと症状をどう折り合いをつけていたんですか?
正実 ごまかしをしていたわけですよ。自分の中で、ある時は水俣病からくるもの、ある時はそうじゃなかちゅうふうに、自分の都合のいいように水俣病をとらえとったんです。あのまま政治決着の中で終わらなくて、結果的には良かったんですね。あの時に終わっとったならば、私は今でもごまかし通しとった。本当の自分の水俣病と正面から向かい合うことはおそらくなかったろうと思うんですよね。あの時のまさかの棄却通知が私を変えてしまった。事実そのものをいくらごまかそうっち思ってもみ消しても、自分自身ができなかったということを気付いたわけです。ああいうふうに政治決着から切捨てられたということは、当然と言えば当然やったですよね。

坂西 詫びるというのは内面的な問題ですよね。
正実 そうです、内面的な問題です。自分の被害、実態そのものは何も変わっていないわけです。ただ水俣病からくるものちゅうことは、意識はなかったです。具体的に実感したのが一八歳のとき。交通事故にあって病院に入院した時に、怪我の治りがものすごく悪いと医者から言われて。一年以上かかったですね。家族を医者が呼んで話をする中で、「水俣病患者がたくさんいます」ちゅうふうに母親が言って、私の小さい頃の話をしたっです。「じゃぁ、原因はもうそれしか考えられません」というふうに言われた時にですね、はっきり意識したのは。その時に「あ、俺もか」という感じじゃなくて、じいちゃんが劇症型で狂い死にしてちゅうことから始まっとっけん、自分も被害者だということは自然と感じとったわけですよね。あとは、申請するかしないかという時に、「いや、俺はしない」「俺はする」ちゅうふうな違いが出てきただけであって、風邪とかひいた時に医者が「あなたは風邪ですよ」というのに、「いや私は風邪じゃない」っち、よっぽどじゃないと言う人はいないっち思うとですよね。しかし水俣病の場合はあったんですもんね。
 なぜそういうふうになったかと言うのは、偏見差別があったから。しかし、そこを乗り越えることができたのは、政治決着やったっですよね。だけん、もう複雑ちゅえば複雑な思いですけども、政治決着がなからんば、自分は今頃どげんしとったろかなちゅうのも思う。その時点でまるっきし自分の水俣病に対する考えと様々な問題に対する考え方が、一変してしもたっです。それは仕事にも影響しました。というのは、曖昧な対応をすることで、相手の人に不信感や不安感を持たせてしまう、だからはっきりした説明をして、安心させて納得して仕事もしなきゃならん、そういうことにも繋がっていったっですよね。だけん、正直言ってマイナスではなかったかもしれないです、私にとってプラスになったと思う。ただ、一〇年後の今、言えるものであって、途中では決してそれは言えるものではなかった。

坂西 政治決着で棄却されてからは?
正実 まずですね、私が何から始めようかなちゅった時に、いろいろ考えたです。当然裁判もその中の一つとして思い浮かべたけども、そういう自分の水俣病に対しての訴えの意味が違ったわけですよね。私を切り捨てたことは、本当に間違えではなかったと言えるのかっちゅうことを言おうとしとったから。だけん、今まで被害者の方々がしてきた認定申請っちゅう形の枠に入って、みんながしてきたようなそういう訴えを自分もしてみようっちゅう。いやでも向こうは耳を傾けなければならないちゅうことですよね。

坂西 自分の水俣病に正面から向き合い始めるわけですね。
正実 そこに入った時に、自分に詫びるっちゅうことに気付いていくとです。自分は相手に対して一方的に言うけれども、自分自身を振り返った時に、正々堂々と水俣病との自分の人生を素直に自信持って人に話せるのか。三八歳で政治決着に棄却されてから、その三八年間の水俣病に対しての自分の生き方ちゅうかな、あなたは水俣病被害者ですかって聞かれた時に「いいえ違います」っちいうふうにさえ言ってきたぐらいだけん。とにかく自分の水俣病をごまかしたことについて、申し訳なかったちゅうことから、詫びることから始めないと、絶対熊本県と戦えない。その時に、自分がごまかしていたから、熊本県も私の水俣病をごまかすのは簡単だったんだな、と思ったわけ。自分で精一杯詫びているけれども、そう簡単に世間は受け入れてはくれないなっちゅうのも感じながら、それでも自分の水俣病に対する都合のいい受けとめ方について素直に話してきて、そして熊本県に対しての追求もそれに平行して行ってきたですね。そして、少しずつ、私の訴えが届いていくような気が確立してきたっですもんね。

坂西 自分自身、そして世間へ訴えが届いていく実感があった。
正実 だけんこの一〇年間そのまんまの形でこられたわけです。もし、自分の訴えそのものが、世間に通じてないちゅうことが感じたならば、途中で違った方向に行ったろうっち思うとですよね。例えば、裁判もしたろうし、取り下げもしたろうし。そういう壁は何度もあったです。もういい、これ以上いけば自分が破滅してしまうちゅう。しかし、中途半端で終わったならば自分はどうなるのかなっち考えたときに、もう不満だけが残る人生になる。ならばもう自分の人生は自分で作り上げようっちゅうふうに、転換することができたっです。特に関西訴訟の判決前くらいまではですね、もう自分の本当の心の中を言えたもんじゃなかったです。人の前で言う時は、ちょっと強がって「私は絶対熊本県と戦います」とそう言いながらも、さっきはあげん言ったけども、俺はもうこの先どげんすればよかっかわからんちゅう気持ちが入り乱れとったですよ。そんな時に、一回目の行政不服の裁決が下されたんです。

――最初の行政不服での裁決

正実 勝つちは思ってましたよ。ところが、認定には無理があるというような裁決。確かに暴露の重要性も判断はしてたけど、結果的に棄却取り消しには至らない。それを見た時に、どれだけ行政不服審査会の委員の人たちに事実を知らせることができたか、できなかったかの違いだけじゃないのかなと私は思ったです。普通ならば、そこで行政訴訟を起こすわけですよね。しかし、私は二ヶ月猶予があるから、一ヶ月考えるって言いました。ここで正人叔父とも一日話し合いをしたっです。私はここに座るなり、「一ヶ月間考えただけども、裁判はしない」っち。そしたら、ちょっとびっくりしとったけど「俺もそぎゃんした方がよかっち思う」と言ったですもんね。その理由としてですね、「お前は言えるから。自分の訴えができるから、その形をまだ続けたほうがいい」と言ったです。そこで、ああそうか、俺が今まで言ってきたことがきちんと届いてる人には届いとったのかっちゅうのも感じました。その後高倉さんにも、「私はもう少しこのままん形で戦ってみますけん」っちゅったら、高倉さんは「周囲は期待しているけども、裁判とか戦いは自分のためにあるもんだから、緒方さんの納得のいく形をした方がいい」というふうに言われた時に、私もそこで最終的な決断ができたんです。

坂西 正実さんの訴えの表現として行政不服が一番しっくりきた訳ですか?
正実 結果的に一回目の行政不服の裁決に対しての訴訟をしなかったから、自分の理想な形が作られたんだろうっち思うとですよね。普通考えてですよ、一回目の行政不服の審査委員と一緒ですからね、二回目も。認定審査会じゃないけども、一緒の委員が判断して、やっぱり違うわけでしょ。そこには新たな繰り返す訴えがそこにあったからっち思うとですよ。事実そのものは全く変わらんとだけども、第三者、世間を納得させなきゃならないっちゅう。問題はなぜそれを被害されたほうにそれだけ被害説明を要求されるのかなちゅうところですよね。これだけ疫学的な状況も証明されていながらですね。熊本県が私の代わりになってチッソに対してですよ、この人はこういう被害の状況にあるんだから認定しなければならないっち、普通言ってもいいくらいなのになと私は思いますよ。

――原点回帰への道のり、追求

坂西 判定委員会に届けられなかったというのが解かったのは、どの時点ですか?
正実 平成一三年頃です。私がその毛髪水銀値の資料を届けたのに「なぜ切り捨てられたのか」っちゅうことを追求したんです、熊本県に。「あの毛髪水銀値の二二六ppmを見ておきながら、それでも私を水俣病の救済からよくもはずしたな」と。そこで、一応の調査をしたわけですよね。そしたら「そんなものはなかった」という回答がきたから、「私は出したんだから医者に会わせなさい。所見書にも毛髪水銀値の資料添付と書いてあるだろう。医者が添付していなかった可能性もあるとでも言うのか」っち言ったら、「そのことも考えられます、医者の勘違いでしょう」というふうに言ったわけですよね。再度言ったけど、会わせないというふうに言う。「この問題は熊本県に全責任がありますから、医者に責任はない」と。でも医者に確認しないと解決しない。それなら私が直接会うしかないと思って、熊大に電話したんです。そしたら「そういう方はいない」と言うから、「え?違う病院やったのかな」と思って、いろいろ病院や大学も電話したり、インターネットで娘に頼んで医師協会とかを調べるけどもいない。不思議やったですね、約一ヶ月ぐらい捜したのかな。
 もうだめかなちゅう思う時に、ぱっと私がひらめいたのがですね、そうか、私が捜そうとしていることは熊本県も知ってるから、手を回しているかも知れないと思ったもんだから、言い方を変えて再び熊大に電話したっです。「平成八年に先生に大変お世話になったもんですからきちんとお礼を言いたいのですが」っち言ったです。そしたら丁寧に「そういうことでしたらお待ちください。今熊大にはいないが、関西の大学に勤務されています」と連絡先を教えてくれたっです。その時取材をしてくれていた記者の方に、見つかりましたよちゅうふうに連絡したら、その方が医師に電話取材をせらったです。そしたら熊本県に対してものすごく気分こわしとってですね、医者の勘違いだと新聞に書かれてるっちゅうことも知ってらった。先生が記者に言ったそうです。「緒方さんの不利益になることをして、私の何の利益になるんですか」っち。そのことを熊本県に言ったですよ、私は先生から証言を得ました、きちんと添付されとったはずでしょうと。そこから熊本県が調査を開始したっです。

坂西 現時点では担当の人が、どういった人でどういった意図ではずしたかということは本当にわからない状況なんですか。
正実 そうです。今まではですね。しかし今日の段階ではですね、私がその当時所見書が上がってきて判定委員会に回す時の整理した際は何人いるのかっち聞いたら、そこから確認をしますっちゅう約束をした。それなりの確認はするだろうっち思うとですよ。私にそれを素直に言うかどうかは別として。何のために外したのかですよね。いろんな理由が考えられるけれども、びっくりしてこれを公表なんかできないっちゅうふうになったかもしれんですね。一体これはいつの何なのかっちゅうふうに、委員から聞かれた時に、実は三〇〇名ほど調べた中の一家族のものですっち答えんばならん。問題が解決に向かっとっ時にですよ、委員の中に一人でも被害者の味方をする人がいたならばですよ、どぎゃん展開になっとったかわからない。私の水俣病を解決するっちゅうことよりも、別の問題の方に考えが浮かんだと思うとですよ。そこの部分ですたいね、そこが明らかになってくればことと次第では、新たな水俣病の問題追求に展開しなきゃならないかなっちゅうふうにも思うとですよね。三〇〇人くらいおるけんですね、私たちと一緒に調べられたのは。私たち一家族がやっと公表された。後の分も公表ちゅうことは、本人のプライバシーの問題もあるからできないけども、あの時調べられた人たちのデーターが埋もれたままになっとるっちゅう問題が浮き彫りになります。その問題をここで触れたくなかった可能性が十分あっとですね。私は納得できないっちゅうことはずっと交渉の中で言い続けておってたっです。「このことについて調査をしてみます」っちゅう口頭での約束を今日したっです。強く要求したから、何らかの形で回答はあるっち思います。

坂西 あと所見書を見ると、毛髪水銀値の資料がなかったとしてもですよ、正実さんが落ちたというのはまた別のミスがありますよね。
正実 今日も再度谷崎課長たちと毛髪水銀値が例えなかっとしても、この所見書で保健手帳にも該当しないんですかっち言ったら、首ばかしげたっですよ。神経的な症状の訴えがあれば、保健手帳には認められたはずなんですがっちゅうふうに言いましたよ。からす曲がりとか、めまいとか記載されているのに保健手帳に該当しなかったことそのものがおかしいわけですよね。もうそぎゃん、どぎゃんでんよかっちゅうような、そういうような中で処分されたっでしょうね。記者が言いよったですけども、当時は一ヶ月に千人以上だから夜中までやって、居眠り状態やったそうです。

坂西 医療手帳どころか、保健手帳も対象外ですもんね。
正実 やっぱりその時、おかした過ちがやっぱりこう再度また突きつけられとるのは、これは仕方ないことですよね。私が諦めてしまわない限りはいつまでたってもこのことは追求しようと思っととですよ。

                  聞き手・構成 坂西卓郎

ペルー・イロ市の公害/アントニーさん/芳田弓生希

Mr.Anthony Aurelio
一九七五年、ペルーの南部イロ市(人口約七万人)に生まれる。生物学者。市民労働者協会(Asociacion Civil Lavor)スタッフ。市民労働者協会は、当初サザン・ペルー・カッパー社の労働者の権利を守るため、労働組合とともに能力開発トレーニングを行っていたが、SPCCが大気、土壌、海を汚染し続けたため、現在は環境問題に取り組んでいる。今回JICA研修で水俣を訪問。

サザン・ペルー・カッパー社(SPCC) 一九五二年タクナに設立。その後イロ市に溶鉱炉と製錬所を建設。車で一時間半、海抜二〜三〇〇〇メートル程のところにある、タクナのトケパラ鉱山とモケワのクワホネ鉱山から銅鉱石がイロ市の溶鉱炉に運ばれてくる。両鉱山は地下抗ではなく露天掘り。世界で二番目に大きい銅生産会社。以前はアサルコ社の子会社だったが、一九九五年にグルポ・メヒコ社がアサルコ社を二二億ドルで子会社化したことにより、現在はグルポ・メヒコ社の傘下にある。

鉱山からの廃水と周辺地域への影響

 クワホネ鉱山、トケパラ鉱山では、鉱石を洗浄する際に化学物質を使用するため洗浄後の水は汚染され、廃水は人工水路を通ってラクンバ川へと流れ込みます。周辺の人口が多いモケワ川には、廃水は流されていません。この露天の人工水路は約三五年間使用され、ラクンバ川河口や海岸沿いは廃水に含まれる物質で埋め立てられました。周辺には大きな街はありませんが、小さい町や漁・農村があり、海岸周辺には魚はいません。  一九九二年、第二回水の国際法廷がオランダのアムステルダムで行われ、SPCCの件が取り上げられました。これは倫理法廷であって通常の法廷ではありません。ペルー代表団の構成は、私たちの団体メンバー、生物学者そしてイロ市長でした。また法廷からの要求により政府関係者である、国の監査役も参加しました。監査役は我々の調査を元にして会社と政府の罪の調査をしました。我々と検査官の調査によって、法廷では会社の有罪判決が下されました。
 SPCCは、この裁判の前から鉱山から出る廃水を海の沖合いへ捨てるため、パイプラインの建設計画を立てていました。しかし有罪判決が下され、今から八〜九年ほど前に内陸部にダムをつくり大量の廃水が貯まっています。
 次に水ですが、クワホネ、トケパラの両鉱山で洗浄に大量の地下水が使われ、この地域のラクンバ川とモケワ川の水量が減っています。川の水量が減り土地が枯死し、ラクンバ川周辺で農業をしていた人たちの多くは土地を離れました。川だけでなく、湿地の多くが乾燥してしまいました。
 これらの湿地では、かつて動物たちが食べる草が豊富でしたが、もはやありません。野生動物であるワナコ(アンデスラクダの一種)も充分な土地や食料がなく、危機的状況にあります。また湿地周辺には、アンデス山脈特有の動物であるリャマ、ビクーニャ、アルパカなどを家畜として飼い、家畜の肉と毛を売ることで生計を立てていた人たちがいました。家畜が飼えなくなり街へ移っても、働き方も分からず、生活にはもっとお金がかかり、過酷な環境で暮らしている人もいます。

溶鉱炉からの煙、冷却水、鉱さい

 イロ市の問題は溶鉱炉です。一九六〇年当時、溶鉱炉では年に一一八万トンの銅鉱石を溶かしていました。SPCCの亜硫酸ガスの濃度は一〜三.五%と薄く、亜硫酸ガスを硫酸に変えられず、三五年間そのまま排出されていました。計算上、年間約七八万トンの亜硫酸ガスです。一九九五年に亜硫酸ガスを硫酸に変える新しい技術を導入し、ガス総排出量の一五%を削減する溶鉱炉を作りました。これはチリの国営企業コデルコ社と大学が共同研究したものです。
 この溶鉱炉は町から一五-一六kmほどしか離れていません。通常風は南から北(街から溶鉱炉へ)と吹きますが、気象変化で溶鉱炉(北)から街(南)へと流れが変わることがあります。その後風は止まり、ガスは町の上空に漂い、数時間後には通常の街から工場の方へと流れます。ガスが街に停滞している時の大気中に含まれる亜硫酸ガスの濃度は五〇〇μgから八〇〇〇μg、時には一〇〇〇〇μg/立方メートルにもなります。このような異常気象は朝の時間帯で、子どもたちは学校へ、大人は職場へと多くの人たちが外で活動している時間帯です。大気汚染にさらされることによって、私たちの肺や健康へどんな影響がおこりうるのか。証拠がないのです。
 煙には、カドミウム、鉛、銅、砒素など重金属の微粒子も含まれています。ドイツの研究者Kohlerが一九八九年にした調査によると、この溶鉱炉付近の土壌から大量の重金属が発見されました。溶鉱炉から一km離れたところで、銅七五四〇〇 ppm、砒素四〇四〇 ppm、鉛六九七〇ppm、亜鉛七五九〇ppm、アンチモン三三三 ppm、カドミウム二〇二 ppmです。自然にこれだけの量を観測するのはありえませんから、原因元は溶鉱炉でしかありえません。イロ市はもともとチリのアタカマ砂漠に近いため乾燥していますが、重金属の微粒子などにより土壌は悪く、庭・畑には全く向いていません。イロの谷の付近では、ガスに含まれる硫黄が地上に落ちたり、亜硫酸ガスは他の金属と反応して固体になります。硫黄は水と反応し、土壌に含まれる硫黄成分がどんどん増えます。イロの谷では他の谷の一〇倍の値です。
 イロにはモケワ川しかなく、アンデス地方でたくさん雨が降る夏場だけしか川に水がありません。一九八二〜八五年頃までは、週に二〜三日しか水を使えませんでしたが、現在はラクンバ川から、パイプラインで水を引いています。調査が全くされていませんが、チリ北部からペルー南部の辺りでは水に含まれる砒素が多い地域もあり、ラクンバ川の水も砒素の除去処理が必要で、その分他と比べてイロの水は三〇%程高いのです。  次に冷却水です。溶鉱炉では浄化した海水を銅板の冷却に使い、冷却水は未処理のまま海に流されます。この水にはたくさんの銅、鉄、重金属も含まれているでしょう。近くの海岸では、銅が酸化して緑色になった石や岩や排水管があります。
 鉱さいもまた問題で、SPCCは一日に二一〇〇トンも近くの砂浜に捨て、海岸が八〜九km程鉱さいで覆われました。一九九七年から砂浜にあった鉱さいを内陸に移動し、今までに四-五km分程除去しましたが、海中にも残っており、潮流が強いとまた海岸が鉱さいで覆われます。これにはもちろん、少量の銅や重金属も含まれており、一日に二一〇〇トンですから大量になります。
 環境ですが、イロの狭い谷間では良質のオリーブを生産していました。イロオリーブと呼ばれ、とても大きくておいしいので世界でも有名なオリーブでした。しかし谷間に煙が流れ込み留まると、亜硫酸ガスが木の葉や実に影響を及ぼし、実が燃やされたようになり、成長しません。溶鉱炉の稼動以降オリーブの生産は減りました。
 世界でもチリとペルーの海岸付近だけでしか見られない植物があります。イロ周辺は雨が降らず乾燥していますが、冬には霧がよく発生し空気中の湿度が高いのです。根は定着のために、葉は空中から水分を吸収するように進化した植物です。普通植物は根から水分を吸収するのですが。この植物は、亜硫酸ガスや重金属を含む微粒子が含まれたガス、環境の変化や汚染の影響を受けやすいので、今ではこの植物はもう限られた場所でしか見られません。
 また、海では工場付近の海岸に生息する軟体動物から重金属や銅が検出されています。鉄、銅、アルミニウム、シアノイドなど。軟体動物は魚のように動き回らないので、生息場所にある様々な種類の重金属を蓄積していきます。
 農業、植物、土壌、海、そして健康問題ですが、一九八八、九四年の資料によると、イロ市における主な死亡原因は腫瘍、呼吸器系疾患、循環器系疾患とあります。腫瘍は、水に含まれる砒素とも関係があります。呼吸器系疾患に関しては、イロ総合病院(一九七二〜八六年)における年平均の総患者数の一二%が呼吸器疾患によるもので、イロの別の病院(一九八〇〜八三年)でも、総患者数の一三%に上ります。一方、イロから南に下ったタクナの病院では、総患者数に対してたったの〇.三%です。問題は疫学的な調査が全くされておらず、汚染と病気・死因との関係性がわらないことです。

ペルー政府の態度、周辺住民に対する会社の対応

 ペルー政府は問題が始まった一九六〇年から今まで、積極的な関与は全くありませんでした。そもそもずっと稼動していた旧溶鉱炉は、本来稼動してはいけないものでした。一九六〇年当時の鉱業に関する法律でも溶鉱炉にはガスの排出抑制装置が必要とされており、SPCCの元の計画図では排出抑制装置がつけられることになっていました。しかし亜硫酸ガスを硫酸に換えても売り先がないという理由で実際には作らなかったのです。
 親会社のグルポ・メヒコ社は九五%のガスを除去できる新溶鉱炉を二〇〇四年完成予定としました。しかし銅価格の下落などにより、二〇〇四年着工、二〇〇七年完成と訂正しました。この会社はペルーで最も大きな企業の一つで、経済的、政治的にとても影響力が大きかったのです。その証拠に鉱業省が会社に「二〇〇七年完成ではだめだ」と言った時、トレド前大統領はこの鉱山大臣を経済省に異動させ、SPCCスタッフを鉱山大臣に任命しその大臣が二〇〇七年完成への変更を認めたのです。
 怒ったイロ市民は二年前に、コミュニティー、政府、会社間での対話の場を作るよう政府に要求しました。会社、政府、イロ市、モケワ州、そしてイロのコミュニティから三人ずつの代表が選ばれ、補償、環境復元、開発プロジェクト(港の修理や拡大、灌漑設備の建設などの)について話し合いをしました。しかし、会社が受け入れたのは開発プロジェクトへの二〇〇万ドルの出資だけで、会社は罪を認めず、環境復元と補償金を払うことを拒否したのです。二〇〇万ドルの出資ですが、二〇〇五年度の一五億ドルもの純益に比べると無きに等しいものです。

今後の方向性

 このように中央政府は会社側に近い態度ですし、会社は罪を認めず補償金を一切払おうとしません。私たちは、この問題は最終的には法廷で解決されると確信しています。しかし、訴訟に関する情報を得ることと、経済的基盤が課題です。証拠を集める調査に対する司法的、技術的、科学的なサポートを得ることができればと思います。
 今後の活動として考えているのは、ペルーで水俣病の教訓を広めることです。水俣の人たちは、正当な額ではないかもしれませんが、被害者たちへの補償、そして環境復元プロジェクトをさせることができました。我々は、その方法・手段を知りたいのです。水俣から水俣病の被害者、そして科学者や弁護士などの専門家をペルーに招き、水俣で起こったこととその過程を話していただきたい。相思社と我々のパートナーシップによりプロジェクトを企画し、JICAなどからの支援を得て実行できればと思っています。


(2007年3月25日発行)

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