今後の相思社を考える検討委員会
2001年5月27日
はじめに
(財)水俣病センター相思社は、1989年の「甘夏問題」を契機に発足した「相思社存続・管理運営検討委員会」の答申「水俣病センター相思社の再生を求めて」(以下、1989年答申という)を指針として再出発した。
しかし、答申以降11年あまりの時間が経過し、その間に水俣病問題をめぐる状況も大きく変わった。特に、1995年の政治解決によって未認定患者の「救 済問題」も一応の決着を見、また最近、ただ一つ残っていた水俣病関西訴訟の控訴審判決(大阪高裁)が言い渡された。これまで相思社は、企業・行政と患者と いう対立構造の中で主として未認定患者運動の支援基地としての役割を果たしてきた。しかし、患者運動が一段落した現在、相思社の活動もこれまでの延長では あり得ない。患者運動の支援を軸としたこれまでの活動は、半面、患者との日常的な付き合いを軽んじてきたことも否めないであろう。また、数年前から相思社 の活動範囲は1989年答申の予想を超えて広がりつつある。このような転換期を迎えて、相思社は再度設立の初心に帰って活動のあり方を検討すべき時期にき ている。
以下では、1989年答申以降の相思社の活動を総括するとともに、今次検討委員会に与えられた諮問事項とその検討の経過を記し(Ⅰ)、続いて相思社の今後の活動のあり方について提言することとする(Ⅱ)。
Ⅰ 1989年答申以降の相思社の活動と今次検討委員会の発足
1 1989年答申の概要
1989年答申当時は、原因裁定、チッソ前座り込み運動が当初の目的が果たせないなど未認定患者運動は曲がり角にきていた。また、相思社の財政的自立の 強調と職員のコンミューン化指向が誤解を招き「相思社の私物化」と感じていた人たちもいた。そういった時に甘夏事件を引き起こし、相思社は外部の激しい批 判にさらされ、存亡の危機に立ち至った。相思社が設立の原点に立ち戻り再出発するために、理事会の決議によって相思社存続・管理運営検討委員会が設置さ れ、1989年答申が出された。これがその後の相思社活動の指針となった。1989年答申において、「相思社の掲げた理想と目標」の中に「水俣病を通じて 新たな連帯の原理をつくり出し、目に見える形で現実化すること」「相思社は、自らの理想と目標をかかげて、苦闘しながら存在しつづけることに意味がある」 「存続自体が新しい社会的実験」「初心を忘れ、設立当時の壮大な夢とこれにかける決意を見失うならば、そのとき相思社の存続理由もなくなる」と記されてい る。
また、「今後の活動のあり方」の「基本的な活動」として、「水俣病患者の運動がつづく限りそれを支える」「水俣病に関する資料を収集・保存・展示する」 「水俣病事件の経験を正しく伝える」「事業活動を通じて、維持に必要な収益を確保する」「収益を上げるための事業が、自己目的になってはならない」「事業 を通じて患者運動に対する支援を訴え」「ともに水俣病事件の経験を学び、連帯の輪を広げていくという意味を持つことを軽視してはならない」と記されてい る。
2 1989年答申以降の相思社の活動と問題点
(1)患者運動の支援
1989年答申を踏まえ、患者運動の支援を相思社活動の中心とすることを止め、もっと日常レベルの活動に目を向けることとした。水俣病患者連合及びチッ ソ水俣病患者連盟からの要請を受け、担当職員を限定して両団体の事務局を支える態勢とした。そのため、当初は「相思社は患者から疎遠になった」「相思社は 頼むに足りない」「職員の顔が見えない」といった患者からの批判も多く受けた。しかし、こういった相思社の体制は徐々に患者の意識の中にも定着していっ た。1995年には水俣病政府解決策が提示され、96年には患者連合がチッソと和解協定を結ぶなど、未認定患者補償問題に一応の区切りがつけられたが、そ の後も患者担当を置き、今日に至っている。
(2)水俣病を伝える活動
水俣病歴史考証館を1988年に開設し、以来毎年3,500名くらいの人々が見学に訪れている。しかし、展示内容については1991年に改訂を行っただけで、その後は大きな改訂は行っていないため、展示内容がその後の動きに対応できていない。
考証館見学に訪れた小学校、中学校から「水俣病の現場を案内し説明してほしい」という要請が来るようになり、小中高校の社会見学・修学旅行への対応がは じまった。今では、考証館見学に来る団体の半数程度は職員が案内している。また、相思社に患者を招き、来訪者が直に患者の話を聞ける場を提供してきた。し かし、1994年に水俣市立水俣病資料館が語り部制度を設けてからは回数が減少している。なお、主な考証館展示パネルを「絵で見る水俣病」として英語対訳 を付けて出版した。また、タガログ語版、インドネシア語版も出版した。1990年からは「水俣病歴史考証館移動展」を各地で開催した。しかし、徐々に開催 回数が減少していた。1996年に「水俣・東京展」が開催され、その後に水俣フォーラムが設立され、各地で水俣展を開催するようになったため、以後移動展 は開催していない。
出版・広報活動としては、1990年に季刊の「相思社だより」の発行を始めた。1992年には「ごんずい」と改題し、隔月刊の発行とし現在に至ってい る。機関誌の発行には多くの労力と資金も必要ではあるが、効果も大きく、発行を継続することにより、相思社活動に対する理解と協力を得ることに寄与してい る。ただ、患者家族に広く配布できていないなどの問題を抱えている。
1997年には相思社ホームページを開設し水俣病と相思社の情報を発信している。インターネットの普及もあり年々閲覧者も増加し2000年度末までに5万人を越えている。
聞き取りを含めた調査活動については、当初は職員に担当地区を割り振り、聞き取り作業の義務化を図ったりしたが、他の業務に追われてほとんど機能しなく なってきている。近年は行政などからの受託業務として、あるいは機関誌「ごんずい」記事作成のために聞き取りを行っている程度である。
1994年に水俣市立水俣病資料館と共同で「水俣病10の知識」を作成した。そのときの資料をもとに資料館との共同展を開催した。共同展は翌1995年にも開催した。「10の知識」は1997年及び2001年に改訂され、現在に至っている。
相思社設立以来の「水俣実践学校」は甘夏事件以降も継続して開催している。1992年からは名称を「ごんずいのがっこう」と改め現在に至っている。来訪者のニーズの変化もあり、近年はグリーンツーリズムの手法を加味したものにしている。
(3)資料整理、データベース化への取り組み
相思社には10万点にも及ぶ水俣病関係資料がある。1991年から行政関係資料、患者運動関係資料を中心に整理しはじめ、コンピュータを使ったデータ ベース化に取り組み始めた。1997年からは国立水俣病総合研究センターからの受託事業として本格的に取り組み、2000年度末現在で約35,000点が データベース化されている。また、約5万点程度の新聞記事資料の整理も行ってきている。しかし未整理、未入力の資料もまだまだ多く、今後の課題となってい る。
(4)地域や行政への対応
相思社は設立以来地域との関係は希薄であった。せいぜい職員による保育園、小中学校のPTA活動くらいしか目立った関係はなかった。行政とは長く対立関 係が続いた。しかし、1990年から環境創造みなまた推進事業が開始され、相思社にも様々な形で参加要請がなされるようになった。当初はすべて断っていた が、1993年には要請に一部応じ、ユージン・スミスの写真を展示した。この年には水俣の各界有志によって「水俣研究会」が立ち上げられ、行政の担当者、 地域の人々とともに相思社の職員も会合に加わるようになった。
1994年には相思社からの発案で「水俣の再生を考える市民の夕べ」を開催した。1995年には患者連合など主な患者団体が水俣病政府解決策を受け入れ、患者運動が一段落したこともあり行政との対立関係が緩和され、今日に至っている。
(5)組織体制
1989年答申に沿って、理事の数を15名から9名にし、新たに選任された職員理事を常務理事とした。しかし、1989年答申に盛られていた理事会を補佐するための運営委員会は未だ設置されていないし、助言機関としての顧問制度も実施していない。
1989年答申では「職員のまとめ役として世話人を置き、職員会議の招集、各部門間の調整、対外的な連絡、外来者の応対などの事務長的役割を担う」とさ れた。「世話人」という名称は使用しなかったが、ほぼ同様な位置づけとして常務理事をおいた。しかし、内部の運営が円滑に進まなくなり、1997年度から 総務部長を置き各部門の調整にあたることにした。
活動の活性化と円滑な運営のために、月1回の定例職員会議を開催し、必要に応じて臨時職員会議も開いている。毎朝のミーティングは欠かさず行い、活動報告・活動予定の確認と時に応じて討議も行っている。
1989年答申では「将来、通常必要な職員の数は、10~15名程度が適当」とされたが、堆肥製造・販売の中止、生活学校廃止などの業務の縮小と、財政 難による人件費抑制とが重なり、職員数は減少し2000年度には7名の正規職員と1ないし2名の臨時職員で運営する状況になっている。しかし、資料整理・ データベース化、グリーンツーリズムへの取り組み、ISO14001への取り組みなど新しく始めた業務もあり、慢性的な人手不足で、計画された事業が遅れ たり、実施されなかったりという状況が続いている。
職員の採用は1989年答申で「理事会が判断して決定すべきこと」とされ、職員が推薦し理事会で採用を決定する仕組みが確立している。生活学校出身者が 職員となること多かったが、生活学校を廃止した結果、職員の供給源がなくなり、1999年度からはインターネットや職安を通じて職員を募集している。
1989年答申では「ボランティアの参加をもっと前向きにとらえていく必要がある」とされている。しかし、具体的な方針がないままボランティア受け入れ が負担と感じられるようになり、1982年以来続いていた日本青年奉仕協会派遣の1年間ボランティアも1995年を最後に受け入れを中止した。
(6)財政状況
財政のあり方については、1989年答申に「寄付金、考証館等の収入、事業収入の3つの柱からなるが、この3つはバランスのとれたものであることが望ま しい」と記されている。答申に沿って、寄付収入を財政の一つの柱とするべく、それまであった相思社協力会員制度と考証館維持会員制度を「相思社維持会員制 度」として統合し、維持会費、寄付金の増加に努力してきた。1990年は機関誌の発行もあり、維持会費、寄付金とも飛躍的に増加したが、1994年をピー クに、それ以降は減少傾向が続いている。
考証館入館料、その他水俣病に直接的にかかわる事業による収入は1994年に激増したが、これは環境創造みなまた推進事業に関連する資料作成収入の伸び によるものであった。1997年からは国水研からの受託事業も加わったが、環境創造みなまた関係の収入は1996年をピークに減少し、2000年度にはほ とんどゼロになった。
事業収益のほとんどを占めていた物販事業は、その中心であった甘夏の取り扱いを止め、温州みかんなど甘夏以外の柑橘類の販売に限定して取り扱うことと なった。甘夏栽培・販売に関連していた堆肥製造・販売を中止したこともあり、大幅な収入減となった。他に物販事業としては低農薬りんごの販売、無農薬茶の 販売は継続している。
維持会費・寄付金、水俣病関連事業収入、物販収入のうち、維持会費・寄付金収入及び物販収入は漸減し、水俣病関連事業収入の増加によってその減少分を 補ってきており、財政三本柱のバランスは崩れてしまっている。2000年度決算における構成比(カッコ内は1999年度決算)は維持会費・寄付金収入が 26%(26%)、物販収益(粗利)が14%(13%)、水俣病関連事業収入(売上・助成事業もふくむ)が52%(55%)、その他8%(6%)となって いる。2000年度は水俣病関連事業収入も減少し、大幅な収入減となっている。
なお、1989年答申では「職員の給与は、社会的にみて妥当と思われる水準のものを支給すべき」とされ、1989年当時の一律給与6.5万円から、 2000年度には12万円に引き上げられ、1999年度からはわずかではあるが年功序列給も採用した。基本給15万円を目指してきているがいまだに実現で きていない。
また、それまで行われていた共同炊事も甘夏事件以降は昼食時のみとなり、経費の節約と、業務への支障を避けるためそれも廃し、今日に至っている。
(7)その他
1989年答申には水俣生活学校のことはふれられていない。しかし、相思社にとって大きな存在であった。答申以降も生活学校の運営は続けられていたが、 入学希望者の減少、入学者のニーズの変化もあり、1992年に廃校とした。なお、跡地と生活学校債権の清算は未だに終わっていない。
1998年には後藤孝典氏から旧水俣大学予定地(水俣市湯の児所在、約30ヘク
タールの山林)の寄贈を受けた。
3 今次検討委員会の設置と検討の経過
(1)検討委員会設置までの経緯
1989年に発生した「甘夏問題」は水俣病センター相思社の全理事が辞意を表明するという事態を招き、相思社は設立以来最大の危機を迎えた。「相思社存 続・管理運営検討委員会」を設置し検討を重ね、同年10月29日「水俣病センター相思社の再生を求めて(答申)」が理事会に提出された。
以来、相思社は答申の内容をふまえ、いわば第2期相思社として再出発した。相思社の財政の中核を担っていた甘夏販売を自粛し、患者支援の形を見直し、考 証館を中心として水俣病事件の経験を正しく伝える活動をメインに据え、あるいは理事と職員との意志疎通を密にするため最低年2回理事会を開催すること、少 なくとも月1回は職員会議を開催すること、財政は物販収益に偏重せず、寄付・維持会費、水俣病関連事業収入、物販収益がバランスのとれたものにすること、 などそれまでの相思社の歩みを大きく変えるものとなった。
しかし、第2期相思社が出発してから10年あまりの年月が過ぎ、水俣病問題そして相思社を取り巻く状況は大きく変化した。設立以来長く相思社と行政は対 立の構造にあったが、徐々に協働の体制へと変化し、1995年の政府解決策受け入れ後は未認定患者運動も大状況としては区切りがつけられた。財政的にも寄 付・維持会費並びに物販収益は漸減しつづけ、水俣病関連事業収入の増加によりかろうじて収支のバランスを保ってはいるものの、きわめて不安定な状況が続い ている。
そういった状況の変化に対応し、相思社の存在は必要か、相思社は如何にあるべきか、相思社の存続は可能か、存続させるためにはどのような目標、体制が必 要かを原点に戻って再度検討する必要に迫られている。2000年10月20日の理事会で、「今後の相思社を考える検討委員会」の設置が決議された。
諮問事項は以下の5点である。
1)相思社の存在理由と今後果たすべき役割
2)具体的な活動指針
3)活動を支える組織体制
4)財政基盤の確立
5)その他
(2)検討の経過
検討委員会は、2000年12月9日の第1回を皮切りにほぼ月1回の割で開催した。開催日程とその際の主たる検討事項は以下の通りである。
第1回(2000年12月9日)、開催スケジュール、検討課題の確認と順序
第2回(2001年1月28日)、「相思社の存在理由と今後果たすべき役割」「具体的な活動指針」としての「患者とのつき合い」、「水俣病を伝える」、「地域との関係」について
第3回(2月25日)、水俣病事件の伝え方について
第4回(3月18日)、地域との関わりについて
第5回(4月22日)、活動を支える組織体制等について
第6回(5月5日、6日)、答申の取りまとめ
Ⅱ 今後の相思社活動のあり方
1 相思社の存在理由と今後果たすべき役割
相思社は、理念としては、すべての水俣病患者に開かれた拠り所という面と、水俣現地における幅広い活動拠点という性格をもっている。こうしたものとして、相思社はこれまでかなりの実績を積んできたといってよいであろう。
今後の相思社のあり方を考える前提として、現在の時点で徹底した自己診断を行い、広い意味での水俣病運動の中で相思社がどのような位置を占め、また、有 形無形の資産をどれだけ蓄積し、それを将来に向けてどれだけ活用できる状況にあるかなどについて把握しておく必要がある。とりわけ、相思社がこれまで蓄積 した経験やネットワークなどを十分に活用してこそ初めてその成果が期待できるからである。
現在、相思社は地域の内外に多様なパイプをもって活動している。患者とのパイプ、水俣病研究会、水俣病を告発する会、チッソ水俣病関西訴訟を支える会あ るいは水俣フォーラムなど他の患者支援団体や活動団体とのパイプをはじめとして、水俣市や国立水俣病総合研究センター(国水研)とのパイプなど、これまで 多くのネットワークないし関係を作り出してきている。そうしたなかで、豊富な人的リソースも蓄積されてきた。水俣病関連の活動団体のなかでは、相思社は、 水俣現地においてはもちろん、全国でもおそらく最もよく知られた団体の一つといってよいであろう。
今後とも、こうした恵まれた条件を活かして、これまで同様に相思社でなければできないような活動を続けていく社会的意義は十分にあると考える。認定・補 償を求める患者運動は一定の区切りを迎えたが、患者・被害者の生活は続いており、事件の全容も未だ十分には解明されていない。特に、水俣病の経験を正しく 伝え、それを多様な形で21世紀に活かしていく作業は、依然として大きな課題として残されている。
したがって、今後は、内外の多くの人々の協力を得て患者や地域の中に深く根を張り、運動支援という面だけでなく、個々の患者の生活に寄りそいながら、患 者一人ひとりの経験を記録し、それを伝えていくことがより一層重要となるであろう。それとともに、これまで外発的・受け身的に作り出されてきた地域との関 係を、水俣病の経験に学びながら主体的・積極的に再構築していくことも大きな課題である。
このような観点から、今後の相思社の役割として、主に次の3つの役割が考えられる。
(1) 患者とのつきあいの深化・拡大
(2) 水俣病事件を伝える活動の拡充
(3) 地域との主体的な関係の構築
以下では、この3点を中心に具体的な活動のあり方を検討したい。
2 具体的な活動指針
(1)患者とのつき合いの深化・拡大
水俣病患者抜きの相思社はあり得ないし、患者との連帯こそ相思社運動の原点である。しかしながら、未認定患者運動が一段落した現在、患者支援のあり方はどうあるべきかを初心に帰って検討する必要がある。
これまでは「支援」というと闘争支援をイメージしがちであった。しかし、今後は患者との日常的なつき合いという面がより重要になってくるであろう。これ まで以上に双方向的で、幅広い人間的なつき合いを根付かせていく必要がある。患者を訪ねる者が心のふれあいの中で解放され、同時に患者自身も元気が出てく るようなつき合いを創りだしていく必要がある。相思社活動におけるつき合い方は、一人ひとりの患者とのつながりを大事にして患者とのネットワークを広げて いくところに意味がある。
たとえば、相思社の職員がある日患者を訪ねていく。しばらくご無沙汰している地区に行って5人、10人寄ってもらって話を聞かせてもらうのもつき合いで あり、熊本や東京からきた若者がしばらく漁業の手伝いをさせてもらいたいという時にはいつでも電話してお願いできるとか、そういう関係を作るのも広い意味 でつき合いといえる。こうした経験は、とくに若い人にとっては大きな刺激になるであろう。
患者とのつき合いだからといって水俣病だけに限定するのではなく、ひとりの人間としてつき合うという広い視野をもつべきであろう。なぜなら、患者にはま ず地域の生活や生業があり、その中に水俣病も存在するのである。その意味では、聞き取りも患者・家族だけに限定する必要はない。
ところで、「聞き取り」は主に支援者側が使う言葉であり、患者からいえば「語り」にほかならず、むしろ語り合いというべきであろう。同じ患者であっても 生活経験は一人ずつ異なり、それぞれに固有の物語がある。抽象的な水俣病患者というものは存在しない。これからは地域の中で患者同士また患者と住民とが互 いにオープンに語り合う場を創り出していくことも大事なことである。それが根づいていけば、人と人との垣根が取り払われ偏見差別もだんだんになくなってい くであろう。それが本来のもやい直しである。
こうしたつき合いの中で得られた話はその都度記録していく。共有できる記録とすることによって貴重な経験が患者自身や地域に還元されることになる。共有 の方法は、パンフレットを作るとか、冊子にまとめるとか、多様であっていい。そして、それを地域の小中学校の教材として使ってもらえば環境教育にもなるだ ろう。そのような形でいろんな人たちの経験が地域の中でひとつの文化として蓄積、継承されていくことにもなる。
そのためには時間と人手が必要になるが、今の相思社の職員体制はこれに十分対応できる状況にはない。しかしまた、すべてを職員がしなければならないとい うものではない。こうした活動の意義を外に向けて発信し、ボランティアとしての参加を呼びかけることも考えられる。そのためには、患者とのつきあいのため のホームステイも必要になる。これも相思社の活動であるとの認識で取り組み、持続していくことが重要である。
(2)水俣病を伝える活動の拡充
これまでは水俣病事件史のアウトラインを伝えることに活動の重点を置いてきた。しかし、こういう概説的な伝え方には問題があり、生き生きとしたメッセー ジとして受け止められたかは疑問である。これからは小中高生をはじめ若い世代、とりわけ大学生を対象としてどう伝えていくかが重要な課題になってくるであ ろう。そのためには、若い世代に生き生きと伝わるような内容と伝え方が必要である。現代の若者が関心をもつさまざまな問題とつなげながら、現在からさかの ぼって水俣病事件に学ぶという方法なども考えてみる必要がある。話し手の水俣病体験もひとつの切り口になろう。
潜在的にはチャンスがあれば関わりたいという若者は大学の中には少なくないと思われる。大学生に呼びかけるメッセージをインターネットに出すなど、大学生に対する働きかけを積極的に行う必要がある。
伝える相手は将来必ずしも水俣病に深く関わる人になるとは限らないが、水俣病との出会いがきっかけとなって新しい視点を獲得し、それが一つの原動力となってその人間を突き動かしていくことになれば十分であろう。
また、書物や資料を通して理解した水俣病ではなく、自分で現場に足を運び、そこで人との出会いを通して水俣病事件を経験できるようにすることも重要である。事件の現場を歩きながら考えるということが水俣病を理解する基本である。
相思社の職員を含めて水俣病に関わる者の事件認識は、事件に関わった時期やその時の状況によってじつに多様であり、そこにはそれぞれの水俣病理解がある といっても過言ではない。個人の経験レベルではひとつの客観的な水俣病事件というものは存在しないともいえる。もちろん、あまりにも主観的な水俣病理解は 論外としても、語り手の経験を通して事件史を語ることも今後ぜひ試みてみる必要がある。教科書的な水俣病の歴史だけでは、聞き手は興味がわかない。した がって、伝えるための資料や教材を用意する必要はあるが、それを知識や情報として提供するのではなく、聞き手とともに考えるというやり方を工夫することが 大事である。
たとえば、具体的な案として、大学生とのつき合いをきっかけに1つの年間企画を立ち上げるというのもおもしろいだろう。そのためには、夏休みだけではな く、年間を通して関われるような受け入れ体制を作る必要もあろう。大学生を対象に「水俣病をテーマに卒論を書いてみませんか」と、卒論支援プログラムを提 案するのもよいであろう。そのほか、短期集中的な調査合宿やゼミ合宿などの提案も考えられる。
水俣にやってきて、資料館などでただ受動的に話を聞いて帰るのではなく、患者の日常生活の中に入り、もっと主体的に自分たちの関心をぶっつけて話を聞 き、それをテープに取って帰るとか、そういうことをやったらおもしろい。今後は若者たちにそういう主体的な参加と出会いを促すような取り組みも必要であ る。「ごんずいの学校」をそういう方向にもっていくひとつの契機にするということも考えられる。もっとも、こうした活動は簡単に根付くものではなく、長期 的な視点としっかりした計画性をもって取り組まなければならない。
考証館活動は、今後とも水俣病教育、環境教育の一環として位置づけられる。市の資料館や国水研の情報センターと役割を分担しながら、被害者の視点から水 俣病事件を伝えていく必要性は依然として大きい。被害の拡大や認定問題をはじめとして、小中学生でも理解できるようコンセプトを考えて行かねばならない。 資金と立地条件などに制約がある以上、焦点を絞り、相思社らしい特殊な使い方も考える必要があろう。持ち出しに便利な一定数のパネルを作ってワークショッ プなど考証館以外の場所で活用したり、ビデオ、OHP、スライドなど視聴覚機材も積極的に利用していく必要がある。
通信「ごんずい」は相思社活動の今を伝える重要なメディアとして機能しているが、今後はニュース性や記録性を一層加味し、水俣病事件の現在をより多面的 に伝えていくことが期待される。そのためには、思い切った紙面の刷新も検討しなければならない。そのほか、電子メディアの活用や冊子・年報などの刊行も考 えるべきであろう。
(3)地域との主体的な関係の構築
依然として地域社会に存在している偏見差別の解消は一つの重要な課題である。
ともすると閉鎖的になりがちであった「相思社村」的体質を排し、多くの人に支えられる相思社として、外に向け「ごんずい」を発行し、維持会員を呼びかけ るなどをしてきたが、地元への積極的な対応はしてきていない。「水俣の中で水俣病をきちんと理解してもらうにはどうすべきか」、「地域の中で患者はどう生 きていったらよいか」といった面での地域との関わりは、本格的には取り組んではこなかった。これまで相思社は、地域の中では異物的な存在であり、まったく つながりをもっていなかった。最近、行政を介して地域の人たちとようやく多少の関係ができてきたのが現状である。
地域との関係のほとんどは、行政主導の環境創造みなまた推進事業の中でつくられてきた。まず1994年に、吉井市長が慰霊式で行政としての過去の対応を 反省・謝罪したのをきっかけに、患者連合などが行政の行事に参加するようになり、相思社もこれに同調して関与するようになった。その後、相思社として関わ る以上、もっと積極的に関わってやるべきだというようにスタンスが変わってきたが、そのための明確な方針があったわけではなく、その点については十分な検 討がなされないまま今日に至っている。
しかし、行政からの働きかけに対して対症療法的な対応では心もとない。今後、相思社が地域社会の中で確固とした位置を占めていくためには、一定の理念に 裏付けられた独自の方針をもって対処しなければならない。むしろ、よくも悪くも行政との関わりの中で相思社の存在意義が試されることに心すべきある。
現在、行政から提起されている課題の中で、もっとも中核的なものが「もやい直し」である。しかし、「もやい直し」の意味は、地元ではかなり多義的に受け 止められている。同じ言葉を使っていてもそれぞれ意味するものがかなり違う。もやい直しの中身についてコンセンサスもできていない。この問題に取り組むに は、相思社としての定義づけがまず必要である。そのうえで、相思社がどのように関わるかについて方針を明確にしなければならない。その際、水俣病の経験を 活かして、偏見や差別を生み出さないような人間関係を創り出していくという視点が基本になると考えられるが、そのためには、まず偏見差別の現実を認識する ところから出発すべきであろう。いずれにせよ、上からの号令ではなく下からの具体的な活動の積み重ねによって一歩一歩解決していくしかない問題である。
また、広い意味での「地域おこし」に相思社としてどう関わるか。「水俣病の経験を活かした地域づくり」を具体化し、それをどう提案していくかも今後検討していく必要があろう。
3 活動を支える組織体制
(財)水俣病センター相思社の最高意思決定機関は理事会であり、重要事項はすべて理事会で決議し、その決議を受け、理事長の指示により常務理事と職員が その執行に当たっている。理事長は非常勤であり、日常的には常務理事を中心に職員会議で相談しながら業務を行っている。ただ、職員内部で意見が分かれた場 合には常務理事が決断を下す形となり、職員間に不協和音が聞かれたこともあった。理事会は、当初、こういった状況は想定しておらず、常務理事の権限を明確 にしなかったことも一因となっている。今後は常務理事の権限について明確に定めるべきである。
財団法人の理事の選出方法については、評議員会を設け、評議員会が理事を選ぶ形が最近では一般的だが、相思社には評議員会がなく、任期満了前の理事会が 次の理事候補を選ぶ慣例になっている。将来的には理事の任免権と予算・決算の承認権をもつ評議委員会を設置するのが望ましいが、その準備段階として、運営 協議会またはアドバイザー委員会のような非公式的なものを作り、そうした経験を積む中で評議員会の設置を考えるべきであろう。
理事の構成については、患者理事と支援者理事のバランスがとれ、患者理事はできるだけ一組織に限定しない方が望ましく、この点は理事の選出にあたって配 慮すべきである。ただ、本来、理事会は各患者団体の代表者によって構成されるものではなく、相思社設立の趣旨とその理念に賛同し、きびしい財政のもとでそ の活動全般について責任を負うにふさわしい者を選任することにも配慮しなければならない 。
相思社の業務を円滑に進めるためには、その運営の仕組みを整える必要がある。相思社の職員は一般の事業所の職員とは異なり、水俣病問題にかかわることが 仕事であるから、職務に当たっては、本来、自発的かつ主体的でなければならないし、活動に対する責任も負わなければならない。しかし、一口に責任といって も、個別の仕事についての責任、部門全体の責任、運営全般にわたる責任といったものがあり、同一ではない。また、職員に知識や経験の違いもあり、すべての 職員が同じ権限をもって同等の責任を負うというのも実際的ではない。今後は、相思社の活動や業務に関し知識・経験を有する職員で構成する運営委員会を設け るのが望ましい。
運営委員会は常務理事を含めた数名で構成し、業務の分担、職員会議の議題、職員採用、理事会の準備に関することなどを取り扱い、職員会議で協議が整わな い場合の調整役の機能ももつものとすべきである。なお、常務理事、職員会議、運営委員会の役割などを明記した運営規則を早急に整備すべきである。
従前の相思社の組織図は、組織構成と職務分担が混在していてわかりにくい。今後は組織構成と職務分担を別個のものとし、職務分担については従前の3部門構成ではなく、事業部門と総務部門の2部門にするのがよいと思われる。
職員の採用方法にも工夫を要する。以前は生活学校があり、相思社に長期滞在する者も多く、そういった中から水俣病や相思社に理解を持ち、かつ知識と経験 がある者を職員として採用してきた。これは人材源の確保と実質的な試用期間を保証する役割を果たしていた。しかし、生活学校の閉鎖などで以前のような採用 体制は困難になり、近年はインターネットや職安を通じた一般公募を通じて職員採用することが多くなってきている。職員採用は最終的には理事会の決定事項だ が、実際には職員が応募者を面接し理事会に推薦する形になっている。面接などは複数の職員で行う方が望ましく、今後は職員採用委員会などを設け、複数の職 員で採用を検討すると同時に試用期間を設けるべきだろう。
なお、相思社にふさわしい職員を採用するためには待遇等についても、一般社会の水準とあまり大きなずれのないものにすべきである。設立当初は職員の年齢 に大差がなかったこともあって、長く一律賃金制を採用してきた。しかし、徐々に職員間に年齢的にも経験的にも大きな幅が生じ一律賃金制は不合理になってき た。1999年からは経験年数に応じて多少の差違をもうけてはきているが、一般社会の水準から考えると賃金体系を見直すべき時期にきている。今後は年齢、 職歴、経験年数などを配慮した賃金体系に改めるべきだろう。
建物などの管理体制については、以前は常駐の管理人を置き、職務時間外の敷地・建物の管理と時間外の来訪者・宿泊者の対応にあたってきたが、管理人の生 活空間と職場空間が混在することによりトラブルが発生することもあった。今後は常駐の管理人の必要性を再検討すると同時に、相思社の敷地・建物の責任者と 時間外の来訪者・宿泊者の対応とは分けて考えるべきである。敷地・建物の管理責任者については常駐を前提とはしないが時間外においても緊急時には管理責任 者に連絡が取れる体制を作っておくべきである。
今後の相思社の活動の広がりを考えれば、広い意味でボランティアを開拓し組織していくべきである。ボランティアの活動範囲は相思社内に限定せず、患者宅 や地域ホームステイなども含めて広く考えるべきである。活動範囲が広がれば地域社会とのつながりも深まり、様々な可能性が生まれてくるだろう。
ボランティアの形も一つに限定するべきではない。たとえば、地元の人と熊本県内・熊本市内やより遠隔地とは分けて考えるべきだろう。近隣のボランティア は長期的継続的に、遠くから来るボランティアは短期集中した活動といった柔軟な対応を考えなければならない。また、学生と社会人とも分けて考えるべきだろ う。
ボランティアの仕事も広く考えるべきだ。例えば聞き取りのテープ起こし、資料整理など業務の一部をボランティアに依頼することも考えられる。いずれにし ても、ボランティアの開拓が必要となってくるが、決して最初から成果を求めるべきではなく、長期的な視点に立って考えるべきである。
そのためにはボランティアを組織するための体制を作らなければならない。体制づくりのためには強い意志と覚悟が必要である。就業時間が過ぎれば仕事が終 わるという感覚ではなく、仕事に合わせた時間感覚が必要になる。しかし、体制を作らなければボランティアの受け入れができないと考えるのではなく、徐々に 受け入れながら体制を作っていくという柔軟性が必要である。
相思社とつながる様々な団体・組織とのネットワーク作りも欠かせない活動である。今後は他の団体・組織、特に環境関連の団体との連携を図り、人材リスト を作ってそれを活用することも重要である。必要に応じて横のつながりを持ち、緩やかな連携の中で共同して活動を作り上げるという気構えが必要である。
4 財政基盤の確立
相思社を維持し、その活動を支える財政基盤の確立はもっとも重要な課題の一つである。相思社は1989年答申以来、財政3本柱を立て、それらがバランス よくなるようにつとめてきた。しかし、維持会費や寄付金は長期低落傾向にあり、物販事業もその中心であるみかん販売が生産者の高齢化もあり生産量が減少し ており、販売量、収益とも年々減少している。
これらの収入の減少分を事業収益の増加で補ってきた。しかし、事業収益の中で環境創造みなまた推進事業関連のしめる部分が大きく、1999年度に環境創 造みなまた推進事業が終了したため2000年度には事業収益も大幅に減少した。その結果、相思社の収支も大幅な赤字となった。これは事業計画が受動的で あったためであり、今後は主体的に事業を作っていくべきである。
相思社の事業は直接収益に結びつかないものが多く、近年は事業支出を基金などからの助成によって補うことも多くなっている。しかし、助成は支出をカバー することはできても収益とはならないし、助成を受けるために新たな業務が発生する場合もある。助成事業の比率があまり大きくなりすぎないように、また、本 来の事業に支障をきたすことのないようにしなければならない。
今後の相思社財政としては、会費・寄付収入と事業収入(物販・助成・情報や資料の提供を含む)を2本柱として考えるべきである。
事業収入を中心に考えていけば、収入は長期低落傾向をたどらざるを得ないであろう。また、事業収益に多くを依存する形になると、当面収益にならない仕事はどんどん切っていくことになり、相思社本来の活動ができなくなるおそれもある。
寄付や維持会費は基本的に会員・寄付者に対して特定の義務を負わないものであり、活動のために自由に使える金が増えることは相思社全体の活性化につなが る。個人の自発的な寄付や維持会費に多くを依存し、それを財政の柱にするのは危険だとする意見もあるが、そうした現実主義の考え方だけでは相思社の活動は 展開できない。事業収益はあくまで安全弁として考えるべきだろう。
もし、寄付や維持会費が収入の過半を占めるようになれば、相思社本来の活動に十分エネルギーを集中することができるようになる。しかし、寄付や維持会費 については、長期的な展望に立って相思社本来の活動の実績をアピールすることを通して支持者を増やし、ひいては寄付や維持会費を増やす努力をしなければな らない。このような支持者なしには相思社の存続は考えられないであろう。
相思社設立以来の維持会員や寄付者について考えてみると、これまで患者の闘争支援のために相思社に寄付をし、あるいは維持会員になるという人びとが多 かったように思われる。しかし、闘争の時代は終わりを告げ、また、古くからの支援者は高齢化しつつある。そうした中で、さらに維持会員、寄付者を増やして いくためには新しい戦略が必要であろう。
これまで相思社の活動は、水俣病患者に心を寄せる人びとに夢を与えてきたし、これからも夢を与えつづけるものでありたいと願う。今後は、相思社の活動に 対する一層の理解と支持を求めるとともに、寄付と維持会員の拡大を相思社の新しい活動ととらえて推進する必要がある。実際、支持者の広がりは水俣病事件の 経験を伝える相思社活動の成果を計るバロメーターでもある。
とはいえ、当面は、寄付の呼びかけを行いながら、一方で水俣病を伝える新しい事業を開拓するなどして、収入の安定的増加を考えざるを得ないだろう。
物販事業は相思社本来の活動にもっとも遠いものではあるが、現時点においては労力に見合う収益があり、財政面を考えるとすぐさまやめることはできないであろう。少なくとも物販事業をやめても大幅な収支の悪化のおそれがなくなるまでは継続するしかないであろう。
なお、当面の赤字解消策と中長期の財政戦略は分けて考えなければならない。当面の赤字解消策についは、理事会において早急に具体的方策を考えるべきである。
Ⅲ 残された課題
旧生活学校敷地及び湯之児の土地の有効活用については、財政との絡みもあるが、早急に具体的な検討を開始する必要がある。
今後の相思社を考える検討委員会
委員長 丸山定巳
委 員 富樫貞夫
委 員 松村守芳
委 員 松崎重光
委 員 山下善寛
委 員 弘津敏男
委 員 遠藤邦夫