2013年8月19日
熊本城のほど近いところに、風変りな喫茶店、カリガリがある。長年、水俣病患者の支援運動の拠点となったその店の主、松浦豊敏さんが2013年4月7日、87歳の生涯を閉じた。私は2003年8月に3回ほど松浦さんへの聞き取りをさせていただいた。テーマは「松浦さんにとっての水俣病運動」であった。カリガリの午後の静けさの中でカウンターを跨いで行われた聞き取りの大半は『越南ルート』(2011年、石風社、初出は『暗河』創刊号、1973年秋)にもある戦争体験の話であった。
松浦さんは19歳の時の1944年11月、熊本で入隊後、中国大陸の4千キロを行軍し、ハノイの病院で終戦を迎え、46年5月に復員する。この戦争体験が、20歳代半ばから40歳代半ばまでの砂糖会社の労働争議と40歳代半ばからの水俣病運動に関わるきっかけとなる。
「長い行軍を続けていると、もう身も心も乾いて枯れて、フケが飛ぶように何処かへ消えていまうんですよ。人の心って青物と同じなんです」(『越南ルート』p.51)。1945年4月頃だが、中国南部の4月は日本の真夏より暑い。毎朝、行軍を出発する時は、沸かしたお湯を水筒いっぱいぶら下げて出発するが、木陰もない直射日光の下を歩いていたら、お昼までももたない。そうすると、道端の水を飲んではいけないということを知りながらも、飲んでしまう。それで、下痢が始まる。「薬も何もなかったし、一日中の飲まず食わずで歩くんです。それで止まらなかったら、大体助からなかったようです」(同上p.66)。下痢が始まると、よほど体力のあるものでも2日までは用を済ませて走り、行軍する部隊の列に合流することができるが、3日目になると、落伍し、ついていけなくなる。担架で運ぶが、担架は4名が担ぐことになり、また背ノー1名、鉄砲1名と、都合6人がつぶれる。そうすると、早く死んでくれた方が助かる。行軍の途中、小休止が来ると、担架を担ぐ4人が申し合わせたかのように、担架を抛り出す。担がれる落伍兵は食事もとらなくなり、無口になり、目の焦点も合わなくなる。大体、夜死んでいく。ただ、「誰でも、いつかは自分が歩けなくなる時が来るって知っていたようでした。担架を担ぐのも、担がれるのも、順番の問題でしかなかったんです」(同上p.72)。
中国の奥地では日本軍の兵站線は途絶え、行軍の間の補給が機能しない。「徴発」という現地集落の略奪に頼っていた。「後にも先にも、長い行軍の間、あの時のように優しい気持ちになったことはありませんでした。蚕豆の塩スープだったんです。桂林を過ぎた頃、不思議なことに、大街道に沿ったすぐ側のところに蚕豆畑があったんです。鉄砲も背ノーも抛り出して、我先にと豆畑にとびこんだんです。もう皆で取り合いでした。立回りのいい奴は根っこから引き抜いて束にしてとってゆきました。私も雑ノー一ぱいくらいはとったんです。久しぶりに内容の充実した収穫だったし、あの時は、丁度宝物でも抱いているみたいにして、雑ノーを抱いていました。蚕豆にあんなに栄養があると知ったのもその時でした。吸取紙がインクを吸取るみたいに、食べたとたんに、爪の先まで色が変わるような気がするくらい、それはほんとうにうまかったんです。小さい頃から要領が悪くて、豆をとれなかった友たちと一緒にスープにして食べたんです」(同上p.61-4)。
若い頃は、前者の「戦場の虚無」と後者の「蚕豆」が、天秤の上で揺れ動くように、大きく振れていた。この「蚕豆」の時が、労働組合と水俣病に関わる時期であった。
では、この戦争体験がその後の組合運動や水俣病運動にどのようにつながったのか。復員して昭和20年代は、生きていいのか死んでよかったのかわからぬまま、食いつなぐための生活が始まった。47年東京へ出て、深川の芝浦の沖合でチェッカーとして働く。50年、兄から誘われ、九州製糖の東京支店にアルバイト就職し、52年正社員となる。砂糖業界は63年の原料輸入自由化までは好景気が続くが、自由化とともに労働争議が始まる。この製糖会社の労働争議に就き、やがて全国組織の「全糖労協」作りに関与するなど労働争議を指揮する。
水俣病に関わったのは、高浜幸敏さんを通じてである。高浜さんは同じ松橋出身で文学青年。松浦さんが復員して松橋に帰ってきた頃、小説や詩などを書いて回し読みをした仲間。谷川健一さんともその頃知り合った。高浜、松浦、谷川の3人は、戦後まもない頃、東京で同じ下宿で過ごし、同人誌を刊行したこともある。ただ、70年5月の厚生省占拠行動には直接参加していないが、東京の知り合いに動員を頼んだ。その時、松浦さんは宮崎の砂糖工場でストライキに取り組んでいた。70年11月の「一株運動」から水俣病運動に本格的に参画し、現場指揮に当たる。71年10月10日にカリガリに来た。松浦さんが来たときは、既に店の名前もついていて、若者の溜まり場になっていた。
水俣病第一次訴訟の時、「仇討ち」といって裁判に踏み切ったことには共鳴していた。当時、裁判というのは患者が追い込まれて餓え死する寸前だったから、田舎で裁判するということの大変さやその決心は相当凄いものがあるから、それはそれで共感した。ただ、闘争というのは、いつも「退路を断つ方法」を考えないといけない。状況が苦しくなると、楽な方、楽な道を選んでしまうから、闘争の最初の時点で、退路を断つ現場の組み立てが必要である。だから、砂糖労組のとき、「処理屋」といわれたことがある。三池闘争の「総資本・総労働」、水俣病運動の「怨」などのスローガンからは具体的な闘争の組み立て方が見えてこない。こうした松浦さんの闘争の思想がよく表れているのが、73年8月の『告発』終刊号の「一つの局面の終りに 水俣病闘争総括」という記事にある。「告発する会はチッソの全出入り口を封鎖して、患者のイニシヤチブで交渉が持たれるまではチッソの東京本社業務を一切ストップさせるというものだった。交渉の持ち方が交渉の中味まで決定するという考えからであった。」
だが、同時に松浦さんは「闘争の限界」についても実によく認識していた。例えば、砂糖会社の労働争議の時は、まず3か月分の砂糖を作っておく。会社はその「余剰」を作っておくことで、ストライキをしても大丈夫。そうすると、組合側は残業拒否に入り、その「余剰」がゼロになるまでストライキを続ける。在庫の砂糖がなくなり、工場が止まったとき、電気が消え、ボイラーが止まった工場、その時初めて、自分たちが日頃やっていることが何かを実感し、自らの生産者アイデンティティを確認することができた。ストライキという方法ではこれ以上のことはできなかった。ストライキでは労働者が生産過程及び生産関係を掌握するという目的をもっていたが、それをネガティブな形でしか成就することができなかった。
また、水俣病第一次訴訟の判決後、チッソ本社で展開された東京交渉は「水俣一揆」などではなかったと総括する。「自主交渉闘争が、世論のあれ程の関心と多くの支援者を糾合し得たのは、それはその直接法的闘い方と、一律三千万円という補償要求額に、自主交渉派の人達の怨みの深さと闘いの決意が読みとれたからに他ならない。」しかし、「訴訟派の人達は、不満は残ったにしてもしかるべき判決というものを抱えこんでしまっていたし、東京交渉団の要求として、自主交渉派はその要求を判決並みの線まで引下げていた。(中略)東京交渉はそのように、水俣病闘争についての様々な幻想が打砕かれてゆく過程であったともいえる。」
「水俣は最後のあがきのようなもので、社会の大きな流れに飲み込まれた」。これが後から振り返ったとき、松浦さんにとっての水俣病運動の感想であった。ただ一つ、六八といえば、世界的に若者の反乱、学生運動というイメージが強い。しかし、水俣病運動の中核を担った告発する会は、これらとは明らかに異質な「大人の運動」である。松浦さんのように戦争体験を持つ世代と全共闘世代との関係からみると、既成の権威に反抗したはずの全共闘世代は、無名の一兵隊の役割である。ただし、この点はフランスの六八においても類似している。「フランスのイデオロギー」と呼ばれたフーコー、デリダ、ドゥルーズ、アルチュセール、ラカン、ブルデューなどの思想も戦争体験を持つ世代であった。これが運動理念や闘争の仕方にどのような影響を及ぼしたのかについては別の検討を要する。