二〇一二年四月二一日 遠藤邦夫
(一)フランス―アルジェリア―タイ―東アジア
パリのラスパイユ・マルシェで奇妙なドライフルーツ「DATTE BRANCHEE」を買った。一つの小さな枝に付いた指先程度の大きさで、黒砂糖で煮詰めたような甘さと生ではなく半分乾燥させたような奇妙なフルーツ。日本に帰って分かったことは、これは「関連する日付」ではなく、日本語で言えば「枝に付いたナツメヤシ」だった。フランスで採れたものではない。そういえば学校で習った地理の時間に、地中海気候のアフリカ沿岸の農産物に確かナツメヤシがあったよなと思い出す。そうくればこのナツメヤシの原産国は、フランスの旧植民地だったアルジェリア産の可能性が高い。
アルジェリアと言えば学生時代に観たアルジェリア独立戦争の映画「アルジェの戦い」くらいしか記憶のポケットに入っていない。どんな内容だったか定かに覚えてはいないが、解放戦線の戦いがフランス軍によってどんどんと追いつめられて、メンバーは拘束され処刑されていく。戦いは潰えたかと思われたが、一九六〇年アルジェリアの民衆たちが一斉蜂起した。ちょうど学生運動に没入していた私は「民衆の蜂起のためには先鋭的な戦いがまず必要なんだ」と学んだような気がする。と、連想ゲームは続く。
フランスには三つのタブーがあると言われている。一つは一七八九年のフランス革命で君主制を滅ぼしたこと。自由・平等・友愛を新しい国家アイデンティティとしたが、共和制の困難にぶつかるたびに、自由フランスの出自の正当性が揺れ動いた。二つ目は第二次世界大戦で因縁浅からぬドイツに占領されたことである。三つ目のタブーはアルジェリア独立戦争で、サルトルらがこの戦争を糾弾する一方で、凄惨な暴力的弾圧を加えながらも植民地支配の失敗が現実となっていったことである。しかしこの中にフランスが解決しなければ、現在的課題があると考えてしまう。タブーのもたらす弊害からは、水俣もまた自由ではない。
一九六〇年前後ピエール・ブルデュウはアルジェリアを歩いて人々の生活を聞き取り、一九六三年に「アルジェリアにおける労働と労働者」を、一九七七年に『ALGERIA 六〇』(日本語訳『資本主義のハビトゥス』藤原書店 一九九三年)を発表した。平井京之介はそこで展開されたハビトゥスを切り口として、タイの工場労働者の文化的・経済的変容を考察した『村から工場へ』(NTT出版 二〇一一年)を発表した。そもそもブルデュウのハビトゥスとはどんな概念なのか、私に分かっているのかといえばかなり怪しいものだが、とりあえず平井が規定している「ブルデュウは、実践を生み出す獲得された諸性行のシステムのことをハビトゥスと呼んだ」「実践とは、人々が日常生活において慣習的におこなっている様々な行動のことである」を借りておこう。
ブルデュのハビトゥス概念には批判があるらしいが、私はなかなか面白い名付けだと思っている。そもそも資本主義自体が経済関係だけで成り立っている訳ではなく、「毎朝無意識に職場に通う」ことも「お店で無意識に商品の代価に貨幣を差し出す」ことも馴致化された身体なしにはありえない。だから「諸性行のシステム」もそれを規定しているのは、経済もあれば文化もあれば身体もあれば自然環境だってあるし、毎日眺めている景色が決定的な場合すらあるかもしれない。要するにシステムとしての資本主義はまだまだ未解明なのだ。
文化的伝統が支配的なタイ農村で育った若い女性たちが、工場で働く理由は「お金を稼ぐ」ことにある。それまで通りの伝統的な暮らしをしているだけでは、段々と社会の変化に取り残されていく状況が既に生まれている。近代化と言おうが都市化と言おうが、彼女たちがそれを自覚するのは「うちにはテレビがないけど、日本に出稼ぎに行った隣の家にはある」場合。また伝統的な稲刈り「仕事」も、直線的に変化しているわけではないが労働交換→現物給与→賃労働が複雑に入り交じるようになっている。ここでも貨幣が求められるわけだから、貨幣が副だった文化的伝統の農村社会から貨幣が主となっていく過程を見ることができる。
更に実際に工場で労働するようになれば、現場では機械的な時間管理を受けながら、同僚からは「タン・マサイ(モダン)」な人間になることを漠然と要求されるようになる。平井の共同調査者といえる現地受け入れ大家のラーは、「タン・マサイ」への消極的抵抗のたびに、同僚から「ボラーン(時代遅れ)」とあざけられる。まさにここが「諸性行のシステム」が変容している現場と言えよう。
私は平井から贈られたこの本を読んだ感想として、「これは一九五〇~六〇年代の私が育った日本の農村と同じという印象を持った」と伝えた。大胆に類推するならば、ブルデュウが見た一九六〇年頃のアルジェリア・平井が見た一九九三年頃の北部タイ・遠藤が見た一九五〇~六〇年代の日本の農村で、ハビトゥスを切り口とするならば段階やスピードは違うかもしれないが、時間と貨幣との関係の変化とその結果としての文化変容が進行していたと言えよう。これで何が分かったかと言えば、それ以前の伝統的文化が資本主義のハビトゥスに変化するためには、人々の身体に機械時計を組み込み、貨幣に対する全面的依存関係=物化が完成されることであった。現在、地元学で三つの経済(貨幣経済、協働経済、自給経済)を提案する吉本哲郎は、私たちの貨幣経済への全面的依存を脱出する一つの可能性を示唆している。
それを統計的な数字(二〇〇八年前後)から見ると、アルジェリアでは平均余命七三.二六歳・平均所得水準は$七七四〇。タイでは平均余命六八.七二歳・平均所得$八一五九。日本では平均余命は八四歳・平均所得は$三三六三二。一九六〇年の日本の平均余命六八歳・平均所得は$三三三(この当時の為替相場は$一=三六〇円だった)。話 は脱線するが、『援助じゃアフリカは発展しない』(東洋経済二〇一一年)ダンビサ・モヨは、文頭に以下の統計を表示している。サハラ以南の・アフリカの所得水準は、一九六五年$一五二・二〇〇八年$一〇七七、平均余命一九六五年四二.七歳・二〇〇八年五二.一歳(これにはエイズが大きく作用している)。この数字とアルジェリアを比べてみると、平均余命でも所得水準でも大きく相違している。
その理由を推測するのは、独立の時期・東西冷戦・内戦・病気さらに経済援助をキーワードとして考えると簡単ではないが、素人の乱暴さでやってみる。アルジェリアはフランスにとって自国の市場の一部として扱われたことによって、まさに資本主義のハビトゥスが成立した。この事例は第二次大戦後、アメリカ支援によって奇跡的な経済的復興を遂げた日本と、その経済的位置は似ていると言えないだろうか。そうすると第二次大戦の戦勝国でありながら日本に比べるとテイクオフが遅れた韓国や中国と、サハラ以南のアフリカはパラレルに見える。そして韓国も中国も経済援助と無縁ではなかったが、経済的伸張はそれを起爆剤にして起きたわけではない。モヨが主張するサハラ以南のアフリカへの経済援助を中止して、正規の国際資本市場への参加によって自国経済を立て直すことの可能性は、日本ではなく韓国や中国の歩んできた道にあるように思う。
これでは私が終世の敵と考えてきた資本主義を正当化しているようになってしまった。マルクスの革命論ではプロレタリアとブルジョアの成熟が革命の前提となっていた。第三世界革命の可能性を、主体としてのプロレタリアと下層プロレタリアのディスタンクシオン=階級的分別を前提としたブルデュウによって、マルクスの一般的革命論は現在的条件に書き換えられた。というか、革命という概念自体が大きく変化していると思っている。
(二)水俣病を伝えるということ
長年「水俣病を伝える」を掲げてきているにも関わらず、自分たちのこの行為が一体どんな意味を持っているのか、私自身定かには分かっていなかった。とても無責任な物言いに聞こえたら申し訳ないだが、私たちが伝えている「水俣病」は書籍などに記述された事実や言い尽くされた論理の外側にある、いわば「私」と「あなた」と「水俣病」を結びつけるきっかけを創造しているような気になっている。それゆえこれから紹介する平井京之介と向井良人の仕事は、私たちにとって燈台のように足下を照らしてくれている。
『実践としてのコミュニティ 移動・国家・運動』(平井京之介編 京都大学学術出版会 二〇一二)、同書一一章で平井は、「語りのコミュニティ」を副題「水俣『相思社』におけるハビトゥスの変容」として、前述のごとくブルデュウのハビトゥスを切り口として相思社を解剖している。「相思社スタッフが案内で証言するのは、こうした情動的な揺さぶり(註「想像を越えた他者の存在、あるいは、習慣的な理解の仕方が通用しない状況」)の経験を通じて自己のハビトゥスをより透徹した目で見られるようになり、オルタナティブな生活様式を選び取るようになった個々の経緯である」と平井は語る。更にこの経験が相思社の朝ミーティングを通じて、「メンバーはコミュニティで語る物語を日頃から探し求めるとともに、物語がメンバーの実践を形づくる」機会を得て、相思社という「語りのコミュニティ」が形作られていく、となるのかな?
同じ時期に、相思社の評議員でもある向井良人から「記憶をめぐる行為と制度」(保健科学研究誌 九号 二〇一二)が送られてきた。向井は「戦争、公害、災害など、暴力的な出来事を『なかったこと』にしないためには、その体験者の記憶が語られなくてはならない。そこで体験者は〈語り部〉となる」と、明瞭に問題設定している。だがもちろん、向井は制度を「暴力的な出来事を『なかったこと』にしない」ための必要十分条件とはしていない。「(註:厄災の)痕跡と語り部が揃えば、記憶の継承は実現するのだろうか」と向井は再度問い直す。「〈語り部〉は場所すなわち土地の記憶と一体」「記録は記憶を担保しない。だから記憶が継承されるためにはそれが語られなければならない」「果たして人は、博物館・資料館を訪れ、〈語り部〉の話を聞くことによって変わるのだろうか」。これらの設問の考察を経て、向井は結論として「伝える営みの本質は、人との出会いと対話にある。それを支えるのは、怒りや悲しみとして現れるお互いの熱意である」と述べている。
おまけではあるが、向井が参考文献にしている『文化遺産の社会学 ルーブル美術館から原爆ドームまで』(荻野昌弘編新曜社 二〇〇二)にはわが水俣病歴史考証館も紹介されている。口絵に猫小屋の写真があり、本文にも「相思社考証館の方は、施設が整っていないので事実の再構成もお粗末に見えるが、集められた資料や写真が悲劇のありさまをまざまざと示し、それだけに感動もひとしおだ」(同書p八八)と書かれていることを、とりあえずほめ言葉と受け取っておきたい。
平井の「情動的な揺さぶり」と向井の「暴力的な出来事」が、同じことを指していると言えば、二人から一斉に「それは違う」と言葉が返ってくるだろう。しかし「人は見たいものしか見ない」原則によれば、いったん発表された論文は読み手のどんな解釈もあり得るし、私が自分に都合の良い解釈をしたとしても、それは二人の論文への悪意ある解釈とは違う。読み込み不足の短絡理解と批判を受けるかもしれないが・・・。