2001年5月27日 理事会
はじめに
2000年度は、4月に林田が、9月に吉永が退職し、庶務・経理担当職員として坂本を採用した。これで、甘夏事件以前からの職員は3名となった。このことは単に職員の世代交代というよりも相思社自体が活動の転換点をむかえていることの証左であろう。
1989年に始まった第2期相思社だが、数年前から財政面において行き詰まりを見せ始め、活動面においても考証館が活動の柱の位置を失い、相思社総体としての展望が見いだせなくなってきている。こういった状況を打破し、今後の活動・財政面の柱の確立を目指して、2000年度秋の理事会において「今後の相思社を考えるための検討委員会」を発足させた。検討委員会は半年余、6回にわたり精力的に会合を重ね、今理事会に答申を提示することになっている。
今後、相思社はこの答申を活かして、短期、中長期の課題を克服していかなければならない。
☆考証館部
[展示・環境学習・グリーンツーリズム]
今年度から展示・環境学習にグリーンツーリズムが統合された。展示・環境学習・グリーンツーリズムには考証館の日常業務および企画も統合されている。
1、 展示
今年度、考証館については、職員間で廃館まで含めて検討を行った。その結果、学校等の案内に活用しながら、その展示を環境学習プログラムにリンクさせていくために、考証館内の展示を見せるだけではなく、現場で解説的にパネルを使用したり、考証館そのものをワークショップに使用するという方向性が出された。
2、環境学習
昨年に引き続き地球環境基金からの助成を受け、水俣病事件から環境問題を考えるための環境教育プログラム作成を行った。秋の見学旅行の下見に来る学校に対し、コース別体験ツアーの提案を積極的に行った。11月の西合志東小学校136人の水俣見学旅行では、この体験型のプログラムを実践した。グリーンスポーツで水俣の海に触れ、患者の話を海の見える野外で聞いたあと、コース別の体験学習を行った。24人~44人のグループに分かれ、せっけん工場でせっけんづくり、浮浪雲工房で和紙づくり、農家のおばあさんに教わるいきなりダゴづくり、ほっとはうすによるしおりづくりという4コースを実施した。それぞれ地元の人と対話し、手を動かし、水俣を感じさせる体験となり、好評であった。学校側の時間の制約で4コースとなったが、人数的には1コース20人までが適当であると思われた。費用や時間の点で、すぐに多くの学校に取り入れられる状況ではないが、今後総合的学習の導入と共に体験型ツアーの需要は多くなると予想される。コース開発と学校へのプレゼンテーションを行っていきたい。
この他にも、海に触れる体験と患者の話を生活の現場で聞くことを組み合わせるなど、体験を通して生活の中で水俣病が起こったことを感じ取れるプログラムは、11校717人に実施した。水俣に来る中学・高校の修学旅行は、いまだに200人前後の規模で動くところが多いが、法政第二中学校など、目的をはっきり持ち、少人数で水俣に出会う時間をたっぷりとる学校も定着してきた。今後このような滞在型の修学旅行に対応できるプログラムや受け入れ態勢の充実にも努めていきたい。
相思社の環境学習は、小学生から大人まで対応できるプログラムとして、参加者からのフィードバックを取り入れながら今後も整備していきたい。学校への呼びかけとして、水俣芦北地域振興基金の助成によりパンフレット「水俣環境学習の手引き」を作成した。また、環境学習プログラム開発の基礎資料となる「地域情報カード」も、11月の久木野調査、12月の茂道調査で約200枚作成した。
3、グリーンツーリズム
夏のごんずいのがっこうの実施と愛知県の生協「にんじんCLUB」の受け入れを行った。ごんずいのがっこうの第1回目のグリーンツーリズム版は、参加申し込みが最少実行人数に達しなかったため、希望者2人を対象にしたグリーンツーリズムツアーを実施した。参加者は、リピーターで水俣の自然と人と暮らしを楽しんでいた。また、石飛で粘土掘りから焼成までの陶器づくりなど、グリーンツーリズムの新たなメニュー開発を行うことができた。
ごんずいのがっこう第2回目の「初めての水俣」は、参加者5人で実施した。職員による水俣病事件講座、杉本栄子さんのお話と漁師の食事、天野さんの石飛案内と農家の食事が好評であった。
にんじんCLUBの生産者ツアーの受け入れは、オーダーメイドによるグリーンツーリズムともいうべきものであった。相手の要望をコーディネイトし、地元の人たちにもやってよかったと感じてもらい、きちんとした料金をいただくことができた。このような形が増えていくことでグリーンツーリズムの事業化は可能になる。
また、相思社およびグリーンツーリズム研究会のこれまでの取り組みを元に、熊本県及び水俣市が水俣グリーンツーリズムパンフレットを発行した。
4、受託事業
研修、視察受け入れでも水俣病だけでなく、地元学、グリーンツーリズム、水俣病からどんなことを生み出した水俣なのかを体験するツアーが増えてきている。
1月にJICAの水産開発セミナーの水俣研修(15人)を受け入れた。水俣病事件の教訓と漁業との関わりを理解することを目的に、計画立案からコーディネイトおよび講師まで相思社が受託して3年目である。2月には高知のコンサルタント会社・相愛のごみ減量と地元学を学ぶツアーや和歌山県新宮市生活環境課のごみ減量の仕組みを学ぶ視察を受託した。3月には三和総合研究所の「多自然型地域の再生」をテーマとした聞き取り調査のコーディネイトと案内、資料作成を行った。
5、環境自治体会議
5月24日~26日に水俣で環境自治体会議が開催され、全国から約700人が参加した。21の分科会が設けられ、遠藤と小里が「住民参加と協同のまちづくり」、「環境教育」の分科会でそれぞれコメンテーターや話題提供者を務めた。
6、湯の児
活用検討委員会により、4月に鳥類調査、7月に海岸調査、3月に土地利用の方向と原則をまとめる会議を行った。湯の児の土地は、水俣だけでなく県内、不知火海周辺でもわずかになった照葉樹の自然海岸が残る場所として、貴重な存在であることが分かった。今後は環不知火海200年計画をまとめ、海と森と人の生命の再生を目指すことを目的に、水俣内外の人々と連携しながら滞在、体験、創作などが可能なフィールドとして整備を行っていきたい。
[資料収集・整備]
今年度から資料収集と整備を併合した。また、データ入力の外注を廃し、データ入力担当の臨時職員を雇用することにした。また、8月に荒木が産休に入り、資料整理が滞るようになったため、資料整理の臨時職員を雇用した。
1、資料収集について
石牟礼智さんなどから資料の寄贈をしていただくなど、ほぼ計画通りに作業は進んでいる。ただ、水俣病関連テレビニュースの録画・編集は滞っている。これは外注先が多忙になったためだが、元々外注先の好意によるところも大きく、今後の方針については再検討しなければならない。
2、資料整理・データ入力について
データ入力は専任の臨時職員を雇用することで作業が能率良く行われるようになり、予定数以上の入力数が確保できた。また、資料整理に臨時職員を雇用したことにより、資料の整理・ファイル化の遅れも取り戻すことができた。
国水研との契約は単価は据え置きとなったが、契約件数が5000点以上6500点以下の出来高払い、納品・支払いが年2回となり、作業の柔軟性と資金繰りの面では改善された。
3、国水研及び水俣病情報センターについて
2001年6月には水俣病情報センターが開館する予定となっている。情報センターについては国水研の国際情報室が主に担当しているが、国際情報室は2001年10月に開催予定の水銀国際会議の担当でもあり、情報センターに関する業務は遅れがちになっている。そのため、情報センターの中心的な機能である資料収集・情報発信に関する仕事はほとんど進んでいない。情報センターの資料収集・情報発信に関する作業が本格的に始まるのは水銀国際会議が終了してからだと思われる。
4、新聞記事資料の整備について
新聞記事資料の整備は長年の課題であるが、2000年度は人的な余力がなく作業はほとんど進まなかった。10万点に及ぶ未整理新聞記事資料を整理し、データベース化するためには10人・年以上の労力が必要で、人件費だけでも数千万円かかるものと思われる。2001年度以降も情報センターからの受託、あるいは何らかの助成を得るなどしなければ大きな前進は望めない。
5、資料検索・提供システムについて
一般資料並びに新聞記事資料の提供サービスを暫定的に発足させたが、サービスの存在自体を一般に公開していないこともあり、請求は10件程度にとどまっている。2001年度にサービスとデータベースの公開を目指したい。
[患者]
患者担当は1999年度から吉永が加わり、主に患者連盟の事務局として関わっていた。しかし、吉永が退職し、再び弘津だけになった。
1、患者運動をめぐる状況
1997年1月から始まった患者連合・被害者の会・平和会の三団体の共同行動は今
年度も継続された。環境庁と熊本県に対しては医療事業の継続・拡充などを中心に前年とほぼ同内容の申入れ行ったが、環境庁に関しては2001年度に開館予定の水俣病情報センターに関する要望も付け加えられている。
関西訴訟控訴審は2000年7月に結審し、2001年4月に判決が予定されている。病像論にどのような判断を下すのかが最大の注目点である。除斥期間の問題、賠償額についての判断も注目される。行政責任については原告側に厳しい判決が予想されている。また、判決後の原告・被告双方の対応も注目される。
8月に認定審査会の疫学調査書に無職の状態を「ブラブラ」と表現していることが発覚し問題となった。県知事はすぐに謝罪したが、一部県議がそれを不満として「的確な表現だった」と居直りの発言をした。それに対し患者連合などが抗議文を送った。9月には審査会資料に「ゴロゴロしている」などの表記も見つかり、患者連合らは熊本県に再調査を申し入れた。県は再調査を開始し、2000年度内に調査が終わったが、県の担当者の異動もあり患者団体に対する回答は2001年5月以降にずれ込むことになった。
5月に水俣市が出版した『水俣市民は水俣病にどう向き合ったか』の中に、匿名市民の発言として「ニセ患者」に結びつくような意見や、語り部に対する中傷が掲載された。水俣市はこの本の出版に関してフォローをすべきであったにも関わらず、それを怠ったために語り部たちの怒りを買い、一部の患者は語り部を拒否するという事態に至った。その最中に水俣市の幹部職員が修学旅行生に「弱った魚を食べたから水俣病になった」といった内容の発言をしたため、火に油を注いだ形となり、語り部以外からも市の姿勢が問われるようになった。それによってようやく水俣市も対応に踏み出し、市の全職員が語り部の講話を聞くなど、水俣病の研修を行ったりした。
2、主な活動
患者連合や連盟の事務局としての活動は例年どおりに行った。
患者からの相談としては介護保険に関するものを含めて十数件あった。介護保険制度と医療手帳・患者手帳との関係では今のところ大きな問題は生じていない。
☆企画部
[ごんずい編集部]
おおむね予定通りの流れで発行した。住民自治を念頭に置いた58号、59号は好評であった。行政による地域再生の柱としてもやい直しが提言されてきたが、地域再生は基本的には地域が地域で飯が食べていける経済活動の確立とその覚悟が必要である。その際に、地域にある結いやもやいの仕組みが、いま流行っている地域通貨のもともとの形であり、統一通貨に依存しない経済領域を拓いていく可能性があることが、地域での取材でだんだんと明らかになってきた。
60号から62号と3号にわたる1999年国水研報告書をめぐる特集は、水俣病事件への関係の深い小島氏、富樫氏、宮澤氏、木野氏の4人に書いていただいた。それらの論文への反響を次号に掲載したが思ったよりも少なかった。編集部は、水俣病事件から何らかの教訓を汲み取り、現実に生かそうとするスタンスからこの企画を組み立てた。しかし期待したほど議論が活発にまきおこらなかった。
2000年12月2日に行われた「出会いともやいの夕べ」を特集しようとしたが、最初うみと月と星の会のメンバーから快諾を得たが、諸般の事情で62号・63号での特集はできなかった。
ごんずい63号の発行が20日以上も遅れてしまったのは、特集企画が流れまたその他の年度末仕事と競合状態になってしまったことによる。年度末での仕事の組み立てを考慮しないばかりでなく、取材に行くことができず、編集方針がなかなか決まらなかったことも遅れをもたらした。
相思社ホームページに毎回「ごんずい」のダイジェストを掲載している。2001年度はその他に「水俣病10の知識」の改訂版とPDF版を掲載した。また、地球環境基金の助成により「水俣病について知ってほしいこと(子供向け入門)」と「水俣病のしつもん箱」を新たに掲載した。
閲覧者数は2000年度末までの累計で56,000人あまり、2000年度だけで、28,000人あまりとなっている。閲覧者数の一日平均を見ると、1997年度が34人(5ヶ月のみ)、98年度が25人、99年度が36人、2000年度は80人となり、2000年度に急増しているが、これは小学5年生の副読本に相思社ホームページのアドレスが掲載されたためだと思われる。ちなみに、小学5年生が社会科で公害問題を学習する10月、11月の1日平均アクセス数は200人を超え、それ以外の時期は50人に満たない。
[調査研究]
調査研究部門では各種助成事業、受託事業、水銀国際会議に関する事業を担当している。
当初は地球環境基金助成による「環境教育プログラム作成」を吉永が、水俣芦北地域振興基金助成による「環境パンフレット作成」を遠藤が、芦北町(きずなの里)からの受託による「もやい直しのための聞き取り・まとめ」を吉永が、水銀国際会議関連事業を神沢が担当する事になっていた。しかし吉永が9月末で退職したので、環境教育プログラム作成と芦北町からの受託事業は小里が引き継ぐことになった。また、地球環境基金から追加の募集があり「ホームページに小中学生向け水俣病入門コーナー、水俣病Q&Aコーナーを開設する事業」を応募し採用され弘津が担当することにした。
三重県自治会館組合研修
4月に三重県自治会館から、三重県職員研修への講師要請があった。これは水俣の経験のまとめと、地域開発の手法を検証していくうえでも有益と考え受諾した。7月から10月にかけて、4回の研修を行った。
イオン財団助成
水俣環境百科事典作成として、地元学調査のあるもの探しを行い、水俣市全域を対象として100枚の情報カードをファイルメーカーで作成して納品した。
水俣芦北地域振興基金
当初は館内のパネルの更新と環境学習パンフレット作成のために助成申請したが、環境学習パンフレット作成費(50万円)しか認められなかった。考証館の利用を館内のパネル展示・実物展示に限定するのではなく、水俣病事件を暮らしに生かす手法としての環境学習パンフレットを作成した。「水俣病10の知識」は小学生には分かりにくいので、分かりやすくリライトし、また項目立ても若干変更した。
フルカラーA4サイズ16ページで2000部作成した。水俣案内や体験学習の児童・生徒の手引きとして配布する。
地球環境基金
200万円の助成をうけて、主に環境学習のツアーや湯の児台地のプログラム作りを行った。詳細はグリーンツーリズム部門参照のこと。
水銀国際会議
2001年10月に開催される水俣水銀国際会議における取り組みの具体案をまとめ、講師依頼、主催者への申し入れ、助成金申請を行った。
地球環境基金助成・追加分
2月に「ホームページに小中学生向け水俣病入門コーナー、水俣病Q&Aコーナーを開設する」事業に助成が決まった。「入門コーナー」は「水俣病10の知識」を元に「環境学習パンフレット」用に書き改めていたものがあり、それを「水俣病について知っておいてほしいこと」として、相思社ホームページに掲載した。
「水俣病Q&A」については、相思社に寄せられた質問を国水研の協力により整理し、それに回答を付記するといった形で作成し、「水俣病のしつもん箱」としてホームページに掲載した。しかし、質問数が500近くあり、2000年度末現在ではすべての質問には回答が付けられていない。
[ISO]
計画では、探索段階から一歩進め、①中小事業所環境マネジメントシステム構築支援を収益を伴うものとして事業化し、②有機農産物登録認定機関、③環境税理士的業務の事業探索を行い、また、④相思社内環境マネジメントシステムを構築するとしていた。
①については、㈱みなまたのシステム構築を始めた段階で頓挫している。受託しておきながら完成させられなかったことは大いに反省しなければならない。これも、実用的・実際的な形態を目指すとしたものの、背景にある体系的システムを現場に当てはめていくというまさに構築支援の能力が至らなかったと言える。先に相思社でシステム構築を行った上で、その経験を基に再度アプローチしたい。
②については、秋の理事会で既に報告したように、力量的に難しいと判断した。③も進捗なし。④は現在作業中である。公害防止管理者(水質1種)は不合格となったが、技術・法体系の知識が得られたことは収穫であった。
[その他の活動]
ここでは相思社組織図に入っていない活動について報告する。主には地域との関わりの中で生まれた仕事である。
水俣せっけん工場経営委員会
相思社は水俣せっけん工場の出資者であるため、経営委員として小里が2ヶ月に1回の委員会に出席している。せっけんの販路拡大に関わるだけでなく、今年度は環境教育における体験学習受け入れ先として、連携を深めた。
ごみ減量女性連絡会議
水俣市環境課の呼びかけで1997年に市内16団体で結成され、相思社は結成当初から小里が参加している。連絡会議はこれまで大型小売店4店とトレイ廃止協定を締結し、買い物袋持参運動、エコショップおよび我が家のISO認定審査に携わってきた。
98年に相思社は水俣市からごみ減量の仕組みづくり調査を受託し、報告提言したこともあり、水俣病の教訓を暮らしの中で具体化していくための活動と位置付けている。
21世紀みなまた市民会議
第3次水俣市総合計画が策定されてから5年が経過し、1996年から2005年までの計画の中間点で、市民による計画の見直しを行うことになった。3月に水俣市が公募と推薦により23人の委員を組織し、相思社から小里が参加した。
第3次総合計画は、策定段階で、水俣21プラン市民会議という市民の計画策定組織が作られ、約半年の話し合いの中で、環境や健康を横断的な切り口としてあらゆる政策に活かす計画の大枠を決めていった。小里はこれに参加し、提言書作成の作業チームにも入っていたため、今回の市民会議にも市企画課から声がかかった。
市民が提言したことがどのように市民参画で行われているか、今後どのような施策が必要かなど5月中に提言書をまとめ、市長に提出する予定である。
火のまつり実行委員会
8月の実行委員会でプロデューサーの金刺氏より、「疲れたので当分休ませて欲しい」との発言があった。結局本願の会メンバーは個人参加はするが、会としては火のまつりからは手を引くということになり、寄ろ会中心で行うことになった。対立点は明瞭ではないが本願の会が祈りの質を問うたのに対し、寄ろ会は自分たちがこの場で患者と出会った経験から多くの市民にも出会いの場としての火のまつりに来てもらいたいという思いが対立しているように思う。
秋の彼岸9月23日に行った。親水護岸の端で大たいまつを一基燃やし、ボードウオークの中ほどに場を設けた。実行委員は午前中から集まって浮きろうそく、移動用たいまつ、大たいまつの準備をおこなった。まつりの参加者は200人程度であった。
『こころゆたかに水俣』検討会
教育委員会が編集発行していた環境副読本『こころゆたかに水俣』の改訂版を作成するにあたり、教育委員会からそのための検討会への出席を依頼された。初版のときも原稿の添削を依頼され、多くの部分の訂正・添削をおこなったが、検討会には参加しなかった。検討会へは教育研究所のメンバーばかりでなく、中山氏(被害者の会)、志水氏(資料館)、緒方智広氏(市企画課)が参加していた。前半が水俣病関連、後半が環境問題関連であった。しかし「10の知識」と同様、細かい問題点はあまりこだわらず、小学生に分かるように表現されていればよいのではないかとの姿勢で望んだが、それは中山氏も同様であった。
とはいっても九五年政府解決策の部分などは、よく理解されていないこともあって検討には時間がかかった。
印象としては水俣病関連では、相思社や被害者の会がどう思うかを相当気にしているようであった。これももやい直しの一環として考えることができるだろう。
おれんじ館運営委員会
1996年に「水俣市総合もやい直しセンター」(もやい館)運営準備委員会と「水俣市南部もやい直しセンター」(おれんじ館)運営準備委員会が発足し、患者団体事務局として弘津が委員に委嘱された。
1997年からはそれぞれ運営委員会となり、おれんじ館運営委員会委員(任期2年)として弘津が委嘱された。1999年に再任となり、2001年3月まで委員を務めた。
準備委員会当時はほぼ毎月のように会合がもたれたが、開館し、運営委員会となってからは会合は徐々に少なくなっている。ここ2、3年は年に2回くらい開催されるだけとなっている。
多くの委員はもやい直しセンターの意味を理解しておらず、「地元に便利で大きな公民館ができた」くらいの感覚の人が多く、また事務局の中にもきちんと理解しているかどうか疑わしい人もいた。そのため会合の席でもやい直しセンター設立の趣旨を繰り返し述べたが、かえって反発を受けることが多かった。年を経て事務局の対応が改善されたこともあり対立する場面はみられなくなっていた。
2000年度最後の委員会で、緒方誠也委員が「おれんじ館設立の趣旨に添った活動をもっとするべきではないか」と発言し、それがきっかけで久しぶりに熱の入った議論になった。ただ、委員会の開催回数が少ないこと、発言する委員が限られていることもあり、実のある会合になりにくいのが現状だ。
水俣案内人協会
1996年に『過去から学び、未来へ生きる』(熊本県水俣地域修学旅行誘致促進ビデオ)が作成され、それをきっかけに「水俣案内人会議」が組織された。
1999年に衣替えし「水俣案内人協会」が設立された。事務局担当が替わったこともあり、定例会や研修会が開かれるようになった。相思社は案内を業務としているので他の案内人とは多少立場が異なっている。案内人協会へ案内を希望する件数は徐々に増加し、今では年間数十件に達している。弘津に案内人の要請が来ることは何回かあったが、修学旅行・校外学習の時期に集中し、相思社の案内業務と重なることが多く、いまだに案内人としてガイドにあたったことはない。定例会に欠席することも多く、2000年度は「水俣病研修」の講師として参加したくらいの実績しかなかった。
☆運営部
[会計]
林田の退職もあり、予算や資金繰りなどは弘津が、日常会計は坂本と神沢が担当することにした。
今年度もパソコンによる会計作業で迅速な処理を進めてきた。
[管理・営繕]
2000度より、管理と営繕を統合した。5月に給水タンクの排水路が破損し、地面から水が放出したので水道工事をした。その際に給水装置センサーからポンプへの配線が断線し、給水タンクから水が溢れ出したので配線工事を行った。8月には、分析室の天井が崩落した。とりあえず天井だけを外して、電気工事のみをおこない、天井は吹き抜けのままになっている。
荒木の産休中(9月~11月)については、川部が担当として集会棟の掃除・寝具類の管理を行った。草刈り作業等は下記のようにシルバー人材センターへ年に4回外注し、花壇には季節ごとに花を植え、相思社内の美化に努めた。
4月-給水塔・雨トイの清掃・敷地内の草刈り
7月-敷地内の草刈り
8月-敷地内の草刈り
3月-敷地内の剪定・元生活学校の甘夏(5本)伐採・堆肥まき
<集会棟備え付け備品等の管理について>
寝具については、布団圧縮袋を購入し、さらに清潔に管理することができた。湯の児旅館「一光園」廃業にともない、外来者の宿泊利用の増加を見込んで組布団3組を提供してもらった。その他に、集会棟・事務棟のテーブルクロスも新しく購入した。
[物販]
みかん
昨年の台風によって毛根が切れたこともあり、また裏年に加え極端な隔年欠果で、温州みかん販売量は30トンの見込みが17トンであった。雑柑販売量は、収量にはあまり変動がなく暫時減少傾向で15トン程度であった。温州みかんのチラシで、欠品を恐れるあまりあまりにも収量が少ないと宣伝したために、雑柑までも少ないと思われた。
かつて物販は、水俣病事件の宣伝・普及の媒体として位置付けられていた。現在はまったくそれがなくなったとはいえないが、相思社へ共感を持つ人々の共同購入減少に伴い、品質の良い安いみかんを販売する競争にさらされている。全体的には、低農薬栽培&産直販売への取り組みが通年ではなされておらず、販売時期だけに限定されている。近年の厳しい販売事情の中で、こうした片手間の販売体制では、栽培管理や顧客管理がいきとどかず、頭打ちとなっている。
また生産者が高齢化し、一部を除いては意欲も生産技術の向上も望めない状態である。
りんご
今年度の販売実績は、つがる339ケース、ジョナゴール306ケース、紅玉296ケース、ふじ576ケースであった。粗利では約67万円で、80万の予算に対して83%となった。今年は開花期に気温が低く、虫が飛ばなかったためりんごの受粉がうまくいかず、結実にかなり影響があった。そのため品不足となり、注文を断らざるを得ない状況であった。今後は早めに注文を取りまとめ、量の確保に務めたい。
また、りんごは利益率が低いので、生産者との話し合いを行い改善していきたい。
水俣販売分については、今年度から送料および配達手数料を取り、利益が出るようにした。また、紅玉では市内製菓店との取引も始まり、質のよい紅玉の入手に苦労していた店から喜ばれた。
今年、安全性と効果が高い殺菌剤として生産者が導入した石灰ボルドーは、懸念していた石灰分の白さが残ることもなく、消費者からの苦情はなかった。
お茶
2000年度は緑茶を150㎏(水俣:60㎏/人吉:90㎏)と紅茶を49㎏仕入れた。10月より新たに、ほうじ茶の販売も始め、7㎏程仕入れた。例年どおり、5月に新茶の案内(188件)をし、12月に再度の案内(105件)を行った。また、みかん・りんご企画に載せ、緑茶・紅茶ともに完売することができた。来年度以降は、売り上げ向上を目標に、営業にも力を入れたい。
書籍・ビデオ
今年度、『水俣市民は水俣病にどう向き合ったか』、『水俣病研究2』、『エコシティーみなまたの歩き方』、『風と土の地元学』、『風土と暮らし・水俣東部』などが出版された。いずれも相思社で取り扱いを行い、好評であった。『風と土の地元学』は、一般販売窓口が相思社だけだったということもあり、多数販売することができた。
[庶務]
庶務の仕事は相思社の運営を円滑に進めるためのものであり、昨年までは林田を中心にその他の職員がそれぞれに分担してきた。今年度は林田が退職し、代わって坂本を新規職員として採用したが、いくつかの仕事は担当を変えた。また、庶務を中心に経費の削減にもつとめている。
今年度は、経理用パソコン1セット、資料入力用パソコン1セット、ノートパソコン1台、カラープリンター、デジタルカメラを購入した。スキャナーが故障したので廃棄し、代わりに2台のスキャナーを購入した。
ラルゴ、コピー機、電話セット、印刷機などが次々に耐用年数に達している。今年度はなんとか買い換えをしないで済ませたが、早晩買い換えが必要になるだろう。
[甘夏園]
旧生活学校敷地内にある甘夏樹は30本(約5畝)あり、0.6トンの収穫があったが、販売量には多少不足した。
作業については、下草刈りと堆肥まき、剪定をシルバー人材センターに委託し、収穫は職員で行った。
[維持会員]
カレンダー発行と年度末会費催促などのはたらきかけを行った。新規会員募集を、ごんずいでの呼びかけや企画参加のよびかけでおこなってきた。しかし獲得のための努力が不足していると思われる。現状では、維持会員数も減少傾向にあることから、何らかの方針を打ち出す必要があるだろう。