「水俣アピール」は英文で印刷、国連人間環境会議中(1972年6月)のストックホルムで、広く世界の市民に訴えられた。
水俣アピール
水俣市、それは、九州山脈の一支翼が、なおその険しさを留めながら海へ向かつてなだれ落ちる熊本県南部の、鹿児島との県境に近い、工業都市と称するには少し後ろめたい程の田舎都市。九州本島と天草島にはさまれた湖のような不知火海は、ここ熊本と鹿児島の県境に至って、迫り来る陸と島の間で、その南縁を扼される。そのような水俣から、天草へ沈む夕陽を望めば、この世の外への誘惑すら覚えさせて、恐らくそれは日本屈指の景観と言っても過言ではあるまい。人々は、そのような海と山と島々の間で、自ら漁る魚族をまた自らの眷属と観じながら生き続けて来たのだった。
一体如何なる理由によってチッソはその工場立地を水俣と定めなければならなかったのか。資本制生産が日本全土を席捲する過程で、それはそれらしい様々の理由を列挙出来るとしても、主要には偶然とする以外にはそうと納得出来る理由は見当らない。若し、チッソ水俣工場が存在しなかったら、人はそのような口惜しさが現実経過に対する如何ともし難い繰言であると承知しながら、なお繰り返し、つぶやかざるを得ない。そのように水俣の海と島は地域の人々を包摂し、人々はその自然と響き合って存在し続けて来たのだった。海は水俣住民の前庭だった。子供達は舟にかけられた道板を踏んで.バランスを覚えた。
チッソ水俣工場が毒殺した海とは、まことそのような海だったのである。
一九三二年以来、アセトアルデヒド製造工程から、触媒として使用され、有機化した水銀は工場排水と共に、とめどなく水俣の海へ排泄され、その累積総水銀量は推定六百屯に及ぶとさえ称されている。
死の海の徴候は既に早くから現れていた。排水口近くの岸辺には多くの死魚が浮き、貝が死に、それらの魚介をあさった鳥が突如として中空から墜落し、猫が狂い、そして一九四二年、ついに人が狂った。その詳細に就いては出席者の報告に譲るとして、それは現在そうと認定された患者二八一名(うち胎児性患者二六名)、死亡者五二名、水俣病患者としての認定申請中の者約三五〇名、熊本県、鹿児島県の検診結果更に精密準査を必要とする者約二、〇〇〇名という夥しい数字に上っている。
一九六八年九月、日本政府(厚生省)は初めて水俣病(それまで奇病と呼ばれ、マンガン中毒と呼ばれたりしていた)をチッソ水俣工場俳水中の有機水銀に因るものと認めたが、それは、最初の発病が報告されて、実に十二年の歳月を閲した後のことだったのである。その間チッソ株式会社は、ありと凡ゆる手段を弄して、原因調査を妨害し、実態を蔽いかくし、世論を歪曲、被害者を圧殺し続けようと狂奔した。まことしやかに爆薬説、アミン説が流され、工場内立入り調査を拒否して、転々とする諸種重金属説の混乱を深め、漁民を買収分裂させ、デッチ上げた水俣世論に依って水俣病患者の圧殺を図ったのである。
また同じようにその後も、チッソに依然として自ら犯した罪をそれらしい態度で認めようとはせず、ただ厚生省がそのように発表したからとして、補償問題を第三者機関に委ね、ひたすら自らの犯した罪業を処理し、葬り去らんと奔走したのである。同時に、厚生省が指名した水俣病補償処理委員会も、まさしくその名称が明らかにしているとおりに、チッソ株式会社と癒着し、その補償処理案は、かつてチッソ株式会社が、当時の熊本県知事寺本広作と共謀してデッチあげた見舞金契約に物価スライドさせたものに過ぎなかったのである。長い間貧困に悩まされ続けて来た一部患者家族は、その生活の窮迫と、チッソと結託した地域ボスの圧力とによってやむなく、補償処理委員会の示した酷薄な条件を受入れる仕儀に立至るが、ほとんど二十年という長い歳月にわたって、加害者企業チッソから圧殺され、日本国政府からも地方自治体からも見捨てられ、さらには地域社会の中ではあるまじくも疎外され、差別され続けて来た患者達は、一九四四年六月、新潟に発生した第二水俣病の訴訟にも力を得て、熊本地方裁判所にその損害補償請求の訴訟を起すに至った。訴訟の進行としては、一九七二年五月現在、四十回に及ぶ口頭弁論、証人尋問を経て、今年十月結審、明年初頭の判決が予定されている。さらに一言つけ加えておけば、現在もなお続いている水俣の地域状況からして、この訴訟という対抗手段は水俣病患者・家族としては、当時の、とり得る最大限の闘い方であったとしなければならない。
しかし闘いはそれだけではとどまらなかった。チッソの行政との癒着は前述のとおりであるがさらには、その初期の段階において水俣病研究に貢献のあった熊本大学医学医学部徳臣教授らを中心とする公害患者認定審査会も、事態の進行と共に、典型的なハンター・ラッセル氏症侯群を盾にとり、牢固としたドグマを形成して、多くの有機水銀中毒患者を、水俣病と認定することを拒否し続けて来たのである。
この審査会に対する闘いもまた長く厳しいものであった。今便宜的に新認定患者と呼ばれている人達の中のある患者の認定獲得への闘いの足取りを略記すれば次のようになる。
一九六八年一〇月 熊本県あて第一回認定申請
一九六九年 五月 否定
一九六九年 九月 第二回認定申請
一九七〇年 六月 否定
一九七〇年 八月 熊本県段階での、水俣病認定申請棄却処分を不服として上級審査庁(当時厚生省、七一年以降、環境庁)に行政不服」甲立て
一九七一年 八月 環境庁裁決、熊本県の処分を不当として、その再審査を熊本県に命ずる
一九七一年一〇月 熊本県知事公害被害者認定審査会へ再諮問
一九七一年一〇月 熊本県知事患者として認定
認定まで、それは実に三年の長きを要するものであった。以後、それら新認定患者と呼ばれている人達の十二家族は、裁判という手段も含めて第三者機関に問題の決着を委ねず、自らの手で自らの運命を握ろうと、直接チッソ株式会社との対決を続けている。世に自主交渉闘争と呼ばれているものである。
以上は水俣病闘争に就いての概括の概括に過ぎない。それでもこの闘争の困難さについて、幾分なりと理解していただけたと思う。しかしさらに困難な問題として、闘争には闘争を越えられない、ということがある。闘争は掲げた目標が達成されたとする時終る。具体的には訴訟、自主交渉という形をとっている水俣病闘争も同断である。闘いが終り患者が残される。何がしかの便宜を供与する補償金を手にし得たところで、死んだ人達が生き返るわけではないし、不具の体が元へ戻ることもあり得ない。その時、患者達には自分の業苦と向き合うことしか残されていない。
ある胎児性患者の母親は、自分が死ぬ時この娘も死ぬ、とつぶやいていたという。その患者は食物を嚥下することさえ出来ない。母親が居なくなった時、しかも肉体的には成人してゆくその娘の生涯を一体誰が看ようとするのか。また別の重症患者に就いて、医者は、それは植物的生だとも言っている。
軽症と称されている人達もなお、視野は狭く、耳は遠く、発音はままならぬ。強度の精神集中と敏速な肉体的適応を要求する現代オートメ工場の職場がそのような水俣病患者を受入れる筈はない。また、多様化しスピード化する日常生活そのものからも患者は疎外されざるを得ない。
これまで、訴訟、あるいは自主交渉という対敵チッソとの緊張関係の中で水俣病患者・家族は、様々な問題を含みながらも一つの結節点へと集中して来た。しかし前記したように、訴訟は訴訟を越えることは出来ないし、交渉もまた交渉を越えることは出来ない。
今、水俣病闘争の経過を振返って見て、「ゼニは要らぬ、水銀を飲め」と迫った叫びがどうしようもない重さをもって甦って来る。来春早々の判決を控え闘争は明らかにそのような時期に差しかかっている。
当然のことながら日本国政府も、熊本県と呼ばれている地方自治体も、水俣病患者の医療的社会的救済・福祉については、これまでも一指だに触れてこなかったし、これからもそうであろう。そしてそのような経過を振り返り、そのような見通しに立って、なお私達は水俣病患者・家族と共に水俣病の重さを支えぬかなければならない。運動は、現在ホットに闘われている訴訟・自主交渉闘争を含めて長期の展開を要請している。
以上は私達の間で検討された水俣病センター設立趣意の概要である。センターの設立は終りなき水俣病闘争の端的な意志表明である。今後展開されるであろう運動の未知の部分を含めて、というより、私達の期待ではその未知の部分こそが将来の水俣病運動の基軸となるものと考えられているが、そのような運動の明らさまな拠りどころとして、ここに私達は広く水俣病センターの設立を呼びかけるものである。
記
一 センターの機能
イ 患者・家族の精神的より所としての場の確保
ロ 患者・家族の集会場=運動・生活についての情報交換・方針の検討。娯楽・交際・催しもの・茶のみ話等の場。
ハ 医療機関の設置=将来は完全な医療施設の設置を予定しているが、差し当って定期的診療とそれに基く治療機関の紹介。医療相談。簡単な治療。その他
ニ 資料室の設置=内外の研究閲覧に供するため広範な資料の蒐集・保存・展示。水俣市史等地域に関するもの、企業チッソに関するもの、患者・家族の実態等に関するもの、水俣病医学に関するもの、水俣病運動に関するもの、その他等々。
ホ 社会相談窓口=就職・進学・結婚・その他煩雑な社会手続き等に就いての相談・代行等
へ 殖産事業 第一次産業的生産とその生産物の販売を主たる内容とする(小規模ながらその試験的実施は既に試みられている)
二 センター設置の場所 熊本県水俣市
三 センター設立の時期 一九七三年初頭着工、一九七三年末完成
四 所要資金 約一億円
五 資金調達法 賛同者の拠金
六 連賂場所 水俣市牧の内 市営住宅 日吉フミコ方
水俣病センター設立準備委員会 連絡責任者 日吉フミコ
右 呼びかけ人
社会学者前東大教授・日高六郎
評論家・谷川健一
展望編集長・原田奈翁堆
参議院議員・望月優子
劇作家・木下順二
朝日新聞論説委員・篠山豊
東大医学部教授・白木博次
東大工学部助手・宇井純
水俣病市民会議会長・日吉フミコ
水俣病を告発する会代表・本田啓吉
(順不同)