なぜ国賠訴訟? 行政の責任を問いたかったのは誰か?

 「水俣病事件において行政の責任は明かである。これを訴訟の場で確定させていくことは当然である」。なんの疑いもなくこのように考える人が多いのではないだろうか。しかし、患者もみんな同じかといえば、そうではないと答えるしかない。訴訟や交渉は普段の生活の場とはかけ離れたところにある。理念やパッションといったものが優先される。頭で考えてわかりやすい、人の心を打つ、といったものが必要になる。正義という名の肩書きも有効だ。支援者と呼ばれる人たちはそれをなによりも重要視する。
 しかし、当事者にとってはどうなのだろうか。普通に生活できないから、止むに止まれず訴訟に訴えるしかなかった人たちにとって、行政責任を問うことの正義がどれほどの重みがあるのだろうか。もしそのことによって日常生活で肩身が狭い思いをしなければならなかったり、嫁入り前の娘や息子の就職のことが不安になったりしても「正義」を貫き通すべきなのだろうか。
 「生活が苦しいから裁判に訴えた。応援がほしいから行政の責任も訴えた」という人がいたとしても、誰がその人を責めることができるのだろうか。