「年に一度か二度、台風でもやって来ぬかぎり、波立つこともない小さな入江を囲んで、湯堂部落がある」と石牟礼道子さんは名著「苦海浄土」の冒頭に記している。
湯堂は水俣湾のそのまた内海である袋湾に面した戸数一三〇、人口四五〇名ほどの漁村である。月浦や茂道とともに水俣病の多発地であり、湯堂地区の認定患者は一六五名を数える。早くから劇症患者や胎児性患者も発見されている。
昔からの漁港は埋め立てられ公園になった。新しい漁港はその公園に隣接して作られた。新しい漁港を囲むようにして堤防が作られている。仕事や学校を終えた夕刻や休みの日になるとその堤防から釣り糸を垂らしコアジを釣る姿が見られる。夏になると数は多くはないが、近所の子供たちが堤防から海に飛び込み泳ぎを楽しんでいる姿も見られる。
湯堂港につながれた漁船は小さい。湯堂の人々が水俣湾やその近辺、内海の不知火海のごく一部を漁場としているからだ。今は漁業集落の活気も見られない。初めて訪れたものでさえ、すでにこの地域の生活が漁業によって成り立つものではないだろうことが容易に見てとれる。
明治期に天草からの移民を受け入れ、湯堂は漁師部落として成立した。しかし、しばらくしてチッソが水俣にやってきた。チッソは漁師部落の若者たちをも労働者として採用した。チッソがもたらす現金収入は村を変えた。チッソは海を汚染し、漁民たちに補償金を支払った。湯堂に限らず、水俣の漁業者たちはチッソという近代化の旗手に翻弄され続けた。そして、ついには水俣病によって壊滅的な打撃を受ける。湯堂は、その波静かな港の風景とは裏腹に、長く激動の歴史の中に生きてきた。
湯堂の漁
湯堂ちゅうところは昔からイワシ網の地引き網をしたり、一本釣りをしたりやった。
潮が引いた時に干上がって瀬が見えるところがあっじゃろが、ハダカ瀬っちゅうて。そのハダカ瀬あたりでボラがよう釣れよった。ハダカ瀬の周りを一列にずらっと、船を同じ間隔に並べてな、陸から何番目って区切ってみんなが並んで釣りよった。碇を打って船が動かんようにしてな。ながし(梅雨)に入ってすぐじゃったから五月の終わり頃から始めるわけな、それから一一月頃までな。そのころのボラっちゅうたらなタイでも勝たんかった、値段も味もな。ここんボラはいっちょんヒエ臭う無かったもんな、美味しかったよ。よそのボラはヒエ臭うて、目ん前に置いただけでな、食いたくないような気色(きしょく)になるもんな。ヒエ臭いっちゅうとは、まあ死んだもんの臭いたいな。
沖からボラん大群がやって来るわけたいな、ノサバの瀬戸と黒の瀬戸を通ってきて回っとるボラがな、ぶわあーって水俣湾に入って来るわけたいな。そして、しばらくここで留まって栄養を蓄えてな、そしてまた出ていくわけやな。
すぐ目の前の海ではな、鮎子が捕れよった。鮎の白子(しろご)が。この下の海に水が湧きよっでしょう、その水の湧きよっところに鮎子がな、いっぱい育ちよったわけな。毎年五月頃から、それを網で捕りおった。一五ミリか二〇ミリぐらいの小さいヤツで、透き通って見えるくらいじゃった。この辺のおばさんたちはみんな網で獲れたヤツをば口の中にボウッとすすり込みよった。美味しいきれいな白子がいっぱい捕れよったわけよな。網元の岩坂さんはそれを生きたままトラックに積み込んでな、タンクに入れて球磨川なんかに持って行きよったらしかよ。緑ん鼻ではイワシの白子も獲れよったなあ。
うちんと(女房)は畑をしよったで、私一人がボラ釣りに出よった。爺ちゃんもたまには一緒に沖に出よったが体が弱かったもんじゃから大概は一人で出よった。
沖に出るのは夜が明けたらすぐ、五時過ぎくらいには出ていきよったけん。朝ご飯を食べて、沖に行ったら団子の中に石ば入れてな、大きな握り飯みたいににぎったヤツを五つ、六つ底に入れるとたい。撒き餌たいな。ナマツキっちゅうてな、糠団子にアジ針のごたっとを五、六本ばかり埋め込むわけよな、それを鉛と一緒に投げ込んとくわけな。そして自分の船をきれいに磨き上げてしもうて待っとるわけ。
そしたら、ぺっ、ぺっち、あたってくるわけじゃな。最初に撒き餌に入れた糠団子を、アイツどもは尻っぽでバチャンてやって壊してな食うわけですよ。それを拾い食いするときにそのナマツキのヤツを食うわけたいな。ほいで針が小さいもんだからな、ひん飲むわけたい。ひん飲んだヤツが引っかかるわけたい。「ああ、どうしよう」って思て魚があわてて引っ張っていくわけじゃな。それに鈴が付いとるもんだから、「チン、チン、チン」て鳴るわけたい。「ああ、来たな」っちなもんたい。ずうっとオモテも艫も裏もナマツキを何本も付けとるわけ。
ボラにしかかれば他の仕事はせんならんとやもんな。男ん衆は釣りに行かんとならんし、おなごは陸におって、エサも買いにいかんとならんし、魚も売りにいかないかんし、エサに使うサナギを計ったり、麦糠もな、ふるいにかけて準備しとかんといかんしな。いろいろ仕事が多いわけ。
水俣病が始まるまでずっとやっとったなあ、ボラ釣りは。
当時はな、御所浦から巾着網が来てイワシを捕りおった。捕ったイワシを、緑の鼻あたりに大きな竹カゴを置いてな、そん竹カゴにイワシを生かしておいてな。カツオ船が来たら生かしたまま持って行くわけたいな。するとカラスがな、イワシを生かしてあるカゴにとまっとって弱ったのを食うわけたい。それが、空を飛んどったヤツが急にパエーっと落ちてきよったけんな。「こりゃおかしいぞ」って思ってな。
そん頃、水俣病がはやる前んころ、ボラを釣りよる時に、ココダイちゅうヤツが、浮いて流れてきよったわけよ、私らがボラを釣っところへ。ココダイちゅうとは水玉のような斑点のある大きなタイがおるわけな。二尺も三尺もあるヤツ。そんなヤツが流れて来るんじゃけんな。中には生きてバタバタしたヤツもおって、そげんとを拾って食べた人もおる。そん衆が早う(水俣病に)かかったとですよ。うちの爺ちゃんな、「あげんとは危なかで食うな」って言うて捕らさんじゃったて良かったったい。でも「なんでこんなヤツが死んで浮かって来るのかなあ」と思いよった。
初手にはボラの味噌おつゆでもいっちょんヒエ臭うなかったでな、朝から食べよった。ボラは味噌つゆにお刺身な。他の刺身は食わんと。爺ちゃんも、お皿にこんな山盛りにして刺身を食いよらった。見栄えの良いきれいな魚は全部売りに持って行く、値段がええからな。悪いヤツは、全部うちで処分して食ってしまいよった。私たちが食べたり豚に食わしたりな。
豚は二匹飼いよった。魚が浮きよるころ、飼いよった豚が、大きなヤツが死によった。そいつが死んでからはもう豚は飼わんかった。やっぱそんころ、猫がクルクルクルクル回りよったったいな。犬も飼いおったが同じころに死によった。まだ水俣病が流行るちょっと前。「なんで死んだんじゃろうか」ちゅうような調子だったんじゃもね。まだわからんかった。
養父母の死
爺ちゃん(養父)、婆ちゃん(養母)な御所浦の出じゃった。私は出水の出で、うちんと(妻)が御所浦。こっちの魚が美味しかったから来たようなもんじゃな。吉浦ん家には子供がおらんかったわけよ。そんで、「是非来てくれ」っちゅうわけで養子に来たわけ、昭和二一年か二年頃。畑があって麦やカライモを作りよった。ハダカ麦が一六俵くらい捕れよった。半農半漁じゃったが、冬は漁ができんから鉄工所に行きよった。漁に出ん時にも浜に出てカキ打ちやアサリを捕りよったし、自分の食べるしこは釣りもしよった。
爺ちゃん、婆ちゃんは徐々に悪なったなあ。爺ちゃんは寝たきりで動かきれんじゃった、痙攣れんの来てな。爺ちゃんな四八年か四九年に認定されたが、まだ銭なもらわんうちに亡くなったったい。婆ちゃんもひどかった。やっぱ痙攣がきよったわけですよ。婆ちゃんが認定になったのは爺ちゃんと一緒。でも婆ちゃんはまあどうのこうのずうっとな。平成三年に八五歳で亡くなるまでな。
昭和四三年頃には、もう漁師じゃ飯にならんじゃったでなあ。子供は多かし、年寄りはおるしっちゅうことで働きに出たじゃっで。現金収入が無くなるし、チッソに働きに行きよっても人間が少のうて毎晩毎晩残業で体がもてんと思てな、そいで水俣を離れたったいな。最初は岐阜に行った。そんころ陶器のタイルがたい、アメリカの輸出品ちゅうことでものすごう売れよったわけな。そんタイル作りのオートメーションの機械を作るちゅうことで、一年ばかり行っておった。昭和四四年ころ、万博景気で職人が足らんけん来てくれちゅうことで、茨城県の三菱油化ちゅう会社の配管工事に行きよった。そのころが一番給料が高かった。そんあと和歌山の製鉄所にも行ったし、福山にも行った。あそこも製鉄所の下請け工事やったけど、鉄の鉱石を上げたり鉄板を乗せたりする大きなクレーンの据え付けをやった。
昭和四〇年頃かなあ、まだこっちにおるときから目が悪うなってな。そん次に腰がやられてな、痛うして動きならんかった。胃もせきよった。ぎゅうっとせきこみよった。胃痙攣じゃな。爺ちゃんもそげんあったじゃもんな。認定申請はまだ福山におる時分、爺ちゃんが死なす一週間前に湯堂に戻って養生してくれて、福山に戻る前に申請して帰ったっじゃもん。だけん昭和四九年頃たいな。うちんとも一緒にな。うちんとは全身がだるうして、シビレやけいれんがあっと。
昭和五七年に湯堂に帰って来たったい。婆ちゃん一人が残っておってな、それが年ばとって体も何も動けんようになって、帰らんばしょうないようになってな。こっちに帰ってきて、しばらくして申請協に入ったったい。熊本の裁判なんかにも参加してな。裁判なんかに行けば二、三日寝こみよった、具合の悪うなってな。
昭和六三年にチッソ交渉団ができて、その交渉には参加しよった。チッソ前の座り込みにも行きよった。思い出すとは福岡でビラを配った時んこつたいな。待たせ賃の裁判ば応援してくれろ、ちゅうビラやったけど、あんなことは初めてじゃった。恥ずかしうもあるしな。「こげんとも、せんばんじゃろかいねえ」っちゅう感じやったね。
長うかかったなあ。「終わるんやろかい、片づくんやろかい」っちゅう心配ばっかりじゃったもんな。「ほんとにこりゃあ解決すっとやろかい、おっどんが生きとる間に済むとじゃろかい」って思っておった。ほんでも、おっどんな自分のことじゃけんまだよかばってんが、あんたどん(事務局)は仕事をほって応援に来てくれて、まこて難儀してな。「応援に来てあげん一所懸命になってしてくれらすとじゃけん、まだ頑張らんばな」って思ったこつもありよったもね。
平成七年の解決案かな。満足はしとらんばってん、まだ欲しかったばってんが、体がどげんもなからんば何もいらんばってんが、こげん、あげんしてって思たばってんなあ。生きとる間になあ・・・これが破るれば、もう終いじゃなかろうかと思うたし・・・複雑なあ。欲言えばしかたがないから。みんな団体で押すけんな、団体で一緒になって良かったと思うな。「みんなで、こしこ(これだけ)勝ち取ったじゃもね」という気持ちがあったもんね、もう、それが一番良かったな。医者の銭いるとが一番おそろしかで、それが解決したとが一番良かったな。
(聞き手・弘津敏男)
大正12年3月25日に天草郡御所浦町に漁師の子として生まれたが、すぐに鹿児島県出水郡米ノ津に移住した。昭和10年から出征した19年までは、朝鮮半島のチッソ興南工場で働き、敗戦後湯堂で一本釣りの漁師として生活を始めた。話し好きで、よそから来た人達にも気さくに対応する。水俣湾の汚染魚捕獲、水銀分析調査にもずいぶんと協力していただいた。目の前の湯堂湾で、早く「気兼ねすることなく魚を捕れるようになれたら」と願っている。