2003年2月18日


その子 水会議4


娘の持久走大会。39人中30番だったその子。走ることが苦手だったが、応援にいったらけっこう一生懸命走っていた。なんだかうれしい。この日は家に帰ってからも、興奮していた。水俣市グリーンスポーツにて。右はご存じ銀閣寺で、貝塚市の橋本夏次さん(子ども水フォーラムの看板や題字を書いている人)に書いて頂いたヤマトタケルの歌を、うれしそうに掲げる私。「命のまたけむ人は たたみこも 平群の山の熊樫が葉を うずにさせ その子」。娘の名前は、ここからとったのだと言いたいところだが、本当はどうも妻の好きな太宰治の娘の名前からのようだ・・・。

2003年2月21日〜23日

水会議3 水会議2 水会議1
子どもの車座会議 一緒に行った小田南季君 40年前の私の生家の水回し


京都で開催された「水を学ぼう子どもと大人で車座会議in下鴨神社」
水俣の山の手に住む小田南李君(水俣高校2年生)と一緒に参加した。昨年滋賀であった山道アシリ・レラさんも子供たちと一緒に来ていた。彼女は印象深くて、忘れやすい私もはっきりと覚えていた。草津の飲み屋で焼きそばを奪い合ったことはわすれないぞ! てなことばかりではなく、子供たちが中心となって水を考えていた会議の方はきちんとしていた。特に子ども特派員たちは、ひねくれた私にとっては、あまりにも良い子過ぎてそれが不満だった。なんでもっといい加減な奴はいないんだと、妻に話していたら「そういう子はゲームをやってるのよ。水に関心を持つこと自体けっこう社会性が要求されるだろうし、そうなれば頭の良い子じゃなくては問題意識なんてもてないわよ」と言われてしまった。こうして知の階層化が進行していくんだと、八つ当たりをするのであった。
総合学習が取り入れられた学校では、さまざまな取り組みがなされ発表されていた。
私の印象では、子供たちの水への感性の表現が、先生たちの教育的指導によって狭いモノになっていたようだった。一概にそうだったというのではないが、起承転結がはっきりとして・予定調査的展開だったことは、取り組みの目的ははっきりするが、そこには驚きや気付きがややもすれば過小評価されていたように思う。とはいえ文部科学省が公教育の破綻の反省もせず、総合学習なんてことを言い出したことはこのやろうと思うけれど、子供たちにとっては可能性は少々広がったともいえるわけだから、まあいいか。

ちょうど一週間後に子ども水フォーラムの事務所を訪ねたら、子ども特派員の北川さんと阿南さんから水俣の詩をいただいた。ここで紹介させて頂きます。ありがとう。


●北川あゆさんの詩

「伝えてください・・・」

生まれながらの愛が 一人一人の夢が 失われたときの 四七年前のあの病院で 苦しんでいた 五歳の女の子が  

何もできなくて  まっ暗なところで 一人苦しんで もがいて 泣いて 死んじゃったの 三年後に

あの病気がなければ あの病気がなければ 人と人とはにくまなくて 生きてかなくてよかったのに

未来へ この辛さを この水俣病を 伝えられれば それだけでいいの 伝わるなら あの女の子の気持ちが・・・

伝えてください 水俣病を・・・
 

●こんばんは。子ども特派員の、阿南 愛香(あなん まなか)です! 昨日はわざわざ事務局まで来てくださって、ありがとうございました! それに、先週の車座会議のときも、私たちの取材を受けてくださって、ありがとうございました。私も二つほど水俣の詩・・って言うか訴えかけみたいな感じで書いてみたので、メール送らさせていただきました。読んでいただければ、うれしいです。

「未来への願い」

今までみんなが流してきた涙 全部合わせたら 不知火海くらいになるかもしれない。
動けなくなっていく 見えなくなっていく 話せなくなっていく・・・ それが「奇病」と言われて なぜか孤独になっていた 懸命に生きていても 誰も歩み寄ってはくれなかった・

未来の私が 抱いていた夢が 波にさらわれて 失ったものの代わりに 私が得たものは 耐えきれないほどたくさんの痛みと たくさんの涙だった 死ぬまで消えない体の痛み 死んでも消えない心の傷 なぜここで起きたのだろう なぜ私の町で起きたのだろう 海を大事にしてきたのに ただ海が大好きだっただけなのに・・・

悔しくて悔しくて 恨んでも恨みきれない 完全に元通りにはならないんだから・・・

それなら、 それならもっと、 私たちの声を聞いて。 そして、心にやきつけて。 それからずっと、忘れないで。 


水俣の悲劇

同じ過ちは
二度と繰り返さないで。
それが、私たちの願い。
未来への、願い。

「水俣」

50年くらい前 このまちで、悲しい事件が起きました 数えられないほどたくさんの人たちが、未来を奪われて 数えられないほどたくさんの涙が流れました 

今でもまだ、 涙は流れています それは決して忘れてはならない 過去から現在(いま)へと続く、消えない悲しい真実です

でも、あなたには 「悲劇の事件」ばっかりじゃなくて 今のこのまちの本当の姿も見てほしい 苦しい過去を乗り越えて 戦っているまち もうあんなことにはならないでと 強く願っているまち 再び美しく戻った海と共に 再び歩き出したまち 

もう、「水俣=水俣病」じゃない 美しい水俣 自然あふれる水俣 本当の、水俣のまち


またお会いできることを楽しみにしております。今度は、こちらから水俣に行きたいです。それから、不知火の海と水俣を、自分の目で見たいです。それでは。       阿南 愛香

水フォーラム・子ども特派員としての記事です。
●京都教育大学附属桃山中学2年 山田諒

 今日は色々とお世話になりました。初めての特派員としての取材の活動、非常に興味深かったです。予想外というと失礼ですが、本当に想像を絶する程の意欲で僕たち特派員の質問に答えてくれて、内容が深まり、水俣のグル−プ3人とも新たな質問を明日のために用意しました。ところで、記事ですが、全体的な発表に関してか、取材をメインに考えていいのか分からなかったので、僕は一応取材をテーマに書きました。今回も少し制限を越してしまったのですが、明日もよろしくお願いします。

記事:題名―「水俣は病気ではない」
 (今日は高野川、加茂川、鴨川の合流点にある下鴨神社で始めての取材をしました。)僕たちは水俣病センター相思社の遠藤さん、小田さんにお話をうかがいました。まず、僕たちは昔と今の水俣ではどう変化してきたのか、そして胎児性水俣病(お母さんの中で病気を貰い、生まれたときから水俣病にかかること)の人はおよそ何人いるのかという質問を聞きました。水俣は、人口が減った事もあり、また元は奇病と見なされてきたため、水俣病の患者は差別を受けつづけてきたのですが、92年の水俣病資料館の完成に伴ってそのようなことの意識が高まってきたようです。患者数は水俣病の患者数自体がはっきりしていないため、当然胎児性水俣病の患者数も確かではありません。又、水俣での学校教育で特別に水俣病に関しての授業などがあるかということを聞いたところ、小学生では基本知識の「なぜ発生したか」、そして「症状は?」を学び、中学生では発展の「今はどうか、今後はどうか」を学ぶみたいです。この取材を通してみて、ただ単に水俣病に関しての知識が増えたということもありますが、それよりも、今日取材した二人は水俣で具体的に何が起こったのか、そして今後何ができるのか、それをもう一回考え直して欲しいと訴えかけているように思えました。又僕としては、水俣と聞くと水俣病と意識する現状を、自然豊かな場所、おいしい魚が取れる所と意識するように変えていき、同時に水俣で行われているような水俣病に関する総合学習を近畿、関東、そして北海道でも行い、未来の大人の皮膚にその強い思いをいれずみのように残すことが大切だと思いました。

北川さん、阿南さん、山田君ありがとう。

3月6日
杉本水産の舟下ろしがありました。

船おろし1 船おろし2
茂道港を出る第六快栄丸。遠く霞む三角の山は矢筈山 滝下造船所からまさに海に下ろされようとする
船おろし3 船おろし4
地域の人、袋小の生徒たち、正則高校の生徒たちが待つ岸壁へ お祝いの餅撒き


茂道の海を新造船が走った。五五〇馬力のエンジンは早い! 駆逐艦じゃないかと思うほど早い! (お前駆逐艦を見たことがあるのかよと、半畳入れないでね) 多くの人たちから送られた大漁旗、これは海の神様への安全祈願だと思う。獲れる獲れないは、腕次第天候次第魚次第だけれども、安全は神様次第。そういう気持ちがなければ、広く大きな海へ乗り出すことはできなかったのではと思う。不知火海のイリコ漁はとても不安定な状態となっている。二〇〇二年はチリメンばかりが獲れた。二〇〇一年の秋は全くイワシの群れは不知火海へ入ってこなかった。海はどうなっているんだろう。

次回は西成区へ行った話から始めよう。ところでインパール作戦批判はどうなったのかとお思いの方は、もう少々お待ち下さい。「それって良い戦術だったら良かったって総括じゃないわよね」と妻にいわれた。「もちろんだよ」と答えたけれど、うーんそう言えばそうとも言えるかもしれない。まずいよなあ、これじゃあ戦争賛美になってしまう。私の意図としては、総論戦争反対だけではとんでもない司令官や上官や将校の心根を不問にしてしまうのではないかとの危惧から、その例としてインパール作戦を思いついたオオバカモノの牟田口廉也を素材とする。「最後は歩兵の突撃だもんね」とか「食料・弾薬は現地調達するんだよ」とか、これって本来、戦争を始めた指導部が整えることを歩兵のセイにしたってことだよね。こんな他力本願・自己責任の回避根性で戦争に勝てるもんか! いやちょっとまずい、こういった心性が許容(いや本流か)されていた軍隊がいかに悲惨な目にあったのか、いや軍隊自体が悲惨なんものだったのか。それが日清日露から太平洋戦争で起きたことだ。クラウセビッツは言う「戦争の粗暴さをいとうあまり、その本質に目をそむけようとするのは、無益な努力であるだけでなく、道理に合わぬ努力でさえある」(『戦争論』)