日記風雑炊帳 その5

しばらくぶりでした。
なかなか忙しくて失礼いたしました。このコーナーの愛読者のみなさまお待たせいたしました。しかし何の工夫もないこのページは、ひたすらに文章だけで読ませようとしているのだが、有り体に言えばホームページビルダーのマニュアルを読むのがめんどくさいだけだけど、どんなもんか感想下さい。

今回は、私が講師でいっている三重県自治会館組合が行っている三重ふるさと学の研修の様子を紹介します。
本文には書けなかったのですが、安乗は、今のような道路−トラック輸送のその前の鉄道輸送のその前の帆船による輸送が主だった時代には、関西と関東を結ぶ航路の風待ち港として栄えていた。つまり漁港ではなかったのだと、今井史さんは見ている。
 1996年には水俣を出発した日月丸は東京への航海の途中で、この的矢湾の渡鹿野島に停泊している。その後、紀伊半島を離れて遠州灘に出て行くわけだが、太平洋はいつも大きなうねりがあって、波静かな不知火海とはわけがちがう。
 風待ち港の楽しみは、酒とばくちとおんなってことになったことだろう。ここ安乗にも遊廓があった。今回の研修では触れることができなかったが、私の予想では安乗文楽にしても背景としてこの遊廓がもっていた文化的な力があればこそではなかったろうかと予想する。今では遊廓は否定的に取り扱われているが、赤線禁止以前の文化と遊廓は切っても切れない関係にあったろう。同じような北前船の寄港地、越前三国港には三国小女郎の存在を、かの地の龍翔館で見ることができる。
 
                           安乗15 大敷網 辰栄丸    
 
安乗 海のある豊かな暮らし
二〇〇三年七月九日〜一一日

(一)始めに

 安乗漁港を歩いていたら、突堤の先に多くの人がいた。この時間(午後五時過ぎ)に人が集まって何をしているのだろうかと興味津々で近づいていった。側の船は第一沖丸、第二沖丸という名前があり、もっと小さな同じ形の船が四艘並んでいた。見るからに海の男たちといった感じでちょっと怖くて話しかけられなかったが、思い切って「これから漁に出るんですか?」と聞くと、「おう、そうや」と気さくに応えてくれた。聞いてみると、大きな二艘の船は巻き網の網船で二〇トンくらい、小さな四艘の船は魚群の探査船だった。乗組員は全体で二六人、出港が午後六時、水揚げは午前四時くらい。今の時期の漁場は、安乗の沖合だいたい四〜五キロくらいで、主に青アジが獲れているらしい。あまり値が良くないので親方は大変だと。「やい一緒に沖に行くか」と聞かれるが、歯切れが悪く「これから仕事の打ち合わせがあるから・・・」と断る。「でも明日は行けるかもしれないんですけど」と言うと、「何言ってんだ、連れて行くかどうかはこっちが決めることで、そっちじゃなかたい」と何故か九州弁。確かにそれはそうだ。翌朝四時には市場に水揚げするので「その時に見にこいよ」と誘われる。うーん四時か、でも話の流れから断れないので「はい」と応える。他のリーダーたちは「四時ってたいへんだね。でも水揚げが見られていいよね」と他人事のように語っていた。
 阿児町役場の箕浦さんに車を出してもらって、暗いなか漁港に行った。しかし沖丸はすでに水揚げを済まして誰もいない(あとで聞いたら漁がなく早めに切り上げたとのことだった。自然相手の仕事だから、時間で決まるわけじゃないと納得した)。市場をうろうろしていたら別の漁師の男たちが「俺たちは今から大敷網を上げにいくなあけど、一緒に行くか?」と声をかけてくれた。「お願いします」と言って辰栄丸に乗せて貰った。網に着いたら私たちの乗った一艘は網の端を引っかけて固定し、漁師さんたちはもう一艘の船で向こう側から網を上げ始めた。だんだん近づいてくると、網のなかを虹色の魚が何匹も泳いでいる。どんどん網を絞っていくとその魚はシイラと分かる。網の中には、小アジ、アイゴ、カマス、アジ、カタクチイワシ(エタレ)、ウルメイワシ、タイ、サバ、赤イカ等々(もちろん海でそれが分かったわけじゃなく、帰港して選別して分かったこと)、すごい大漁だと思っていたが漁師さんたちは「あんまりなえーことないなあ」ということだった。船倉(かんこ)に魚をタマですくっていれて、一路市場へ帰る。その魚たちを魚種別に選別台の上で分けていく作業も見せてもらった。シイラは海のなかでは光ってきれいだったが、陸にあげるとお店に並んでいる色になってしまった。
 しかし安乗の海の男は気さくというか親切というか、まずはそのもてなしの心に驚かされた。そして歩いてみると、もてなしの心は海の男ばかりではなく、陸にいる男も女も同じだったことにまた驚かされるが、それは後の話。


          安乗7       安乗4
           網の繕いをする沖丸の男たち                 船のこと漁のことを教えてくれた


(二)安乗で会った人々

@まずは案内人の浜野半四郎さん
 漁師もやった、建設業もやった、作業船の仕事でおきの島にも行ったと言う。「えっこの沖に島があるんですか」と間抜けな質問をすると「松江の先の隠岐の島だよ」。どうも海の男の距離感覚は、陸の仕事をしている人間から見ると全く違う。これは山川さんの話を聞いたときもそう感じた。隠岐の島や伊豆七島が、安乗のちょっと先って感じで話しているのだ。
 絵地図を作成しているときに、「この写真に写っている人はだれですか?」と聞くと、半四郎さんは「岩城さんじゃろう」と言う。正確を期して役場の人に聞くと「俺は違うと思う」と言う。半四郎はそれを聞いていて「いいや岩城に間違いない」と言う。これは困ったと思っていると、「親子げんかやよってほっとけ」と声がかかる。よく見ると役場の人も浜野さんだった。そういえば体型も良く似ている。一緒に歩いた研修生が「浜野さんって聞き取りに家に入っていって、『ヤイ』って声をかけるんですよ」と驚いていた。そういえば浜野さんは何かを誰かに聞くとき、誰に向かって言うのか「ヤイ」と声をかける。これでは誰に声をかけているのか分からないよなと思っていると、だいたいはもう一人の案内人の橋爪さんが振り向いていた。

Aもう一人の案内人橋爪さん
 長い間国鉄に勤めていた。車と船の免許を取って郷里に帰ってきた。漁港の近くで奥さんとペンションを営んでいる。あんまり儲からなくてもいいから、お客さんにおいしい料理を味わってもらいたいと語る。親戚の人や知り合いが安乗に来たときの、座敷として使って貰いたいと聞こえた。橋爪さんはおだやかな人。元風呂屋の大正湯の中をちょっと見てみたいと、「ここは親戚だから」と言って入っていったら、中から大きな声の会話や笑い声が聞こえるので、これは見せてもらえるのかなと思っていたら、「中は物置になっていてみれない」とのことだった。たしかにこの研修を知らない人に説明するのはコトだなあと思った。どこに行っても知っている人ばかりだったけれど、前もってこの地域の人に研修を説明していたに違いない。さらにそれを割り引いても、安乗の人の気安さはただごとではない。
                         安乗14 


B山川源一さん(屋号は「じんべ」)
 魚市場の側で山川源一さんにお話を聞いた。奥さん(たまえさん)と夫婦船で漁にでる。奥さんは山川さんのことをアジョ(あなた)と呼び、山川さんはヤイ(うーん浜野さんと一緒だ)と呼ぶらしい。
 安乗の漁師は何でもやる。サバの一本釣り、車エビ(安乗では宝彩ホウサイと呼ぶ)の網、カツオのケンケン引き、フグやクエのながなわ(延縄)。ホウサイ漁は午後四時に港を一斉に出港してポイントへ急ぐ。どのポイントに網を入れるかは、現場世話人立ち会いのクジできめる。伊勢エビは岩礁についているが、ホウサイは砂地についている。
 クエ漁は御前崎沖一八マイルのきんす瀬で釣る。
 伊豆七島のしんくら瀬で大波にあったことがある。結構大きな波でも船の先を波に向ければしのげるが、そのときの波はそれでも船が巻き込まれるかというほど大きく、本当にこわかった。かあちゃんにしこたま叱られた。あじょの見通しが悪いであんな大波にあったと。その時「おまえは黙っていろ」と言い返したんでしょう? と問うと、山川さんは「すなおに謝ったよ。いつも一緒に仕事をせんならんし、底がせり上がっているところに風が出れば、あんな大波が来ることは分かっとる。俺の判断がわるかった」と意外な返答をされた。逆に私の海の男というイメージが間違っていたのだ。そうそうあるモノ探しの大事なことに、先入観で計らないというのがあったよな。

                         安乗1
研修生には教えなかったけれど、インタビューするこつは相手の目線より下から攻めるなのだよ。だから坐って話を聞いているのが私なのです。立ってて聞いていてはなかなか聞けないことが多いでしょう。たとえば結城登美雄さんは「な、そうだろっ」と下から視線を飛ばしてくる。インタビューの相手は山川さん。


C源屋のいくちゃん(鈴木郁子)
 源屋は安乗の大地主だった。人と水を求めてひたすら歩く我が隊は、ご禁制の境界破りを侵して源屋へ行った。ここは二班のエリアとは知っていたが、安乗の細い道に立派な門があったのでついふらふらと入ってしまった。鈴木いくこさんが説明してくれた。「この年になっても、みんないくちゃんって呼んでくれるんですよ」とおっしゃっていたので、あえていくちゃんと呼ばせて貰う。いくちゃんは井戸の話や、冬になると鳥羽(千賀、堅子)や磯部(的矢)の山に入って木を切ってくる話をしてくれた。源屋のひいじいさんは、阿児町が七つの町村合併でできたときの最初の町会議員だった。昔は田んぼや畑をたくさんもっていた。源屋のご先祖が、安乗灯台をもってきた。質屋も郵便局もしていた。油、米、塩も売っていた。お寺の和尚さんの面倒いっさいをみる寺親もしていた。いくちゃんから安乗の家庭菜園は、なばたけと呼ばれていると教えてもらう。
 安乗には山がないので焚き物は、海女の仕事ができない冬に、チョロ(ろ漕ぎの船)に乗って木を切りにいった。一山幾らで山の木を買って、それを切り出して港まで運んできたという。(このあたりいくちゃんの話に加えて西村しずこさんのお話も混じっている。西村さんは交流会でも研修生に話してくれたが、その時の笑顔は忘れられない。ああそういう話を聞きたいんだねと)いくちゃんはマキのことを細木(さいぎ)と言い、しずこさんは割木・シバと言っていた。山で切ったイマメノ木(ウバメガシ)を束ねたものを四束、シナイ棒で運んだ。自分の体重より重いくらいで、あんたらは持てないよとしずこさんは笑っていた。プロパンガスが安乗に入ってきた伊勢湾台風の後東京オリンピックの前、たぶん昭和三六年くらいまでは女の冬の仕事だった。昔は磯部の人とカエコト(物々交換)をしていた。こちらが魚を持っていくと、コメやイモと交換してくれていたようだ。

  
Dあっちこっちであった女性たち
 安乗の人たちは私たちのインタビューに気安く応えてくれるので、なかなかエリアを見て回ることが難しいほど話を聞くことができた。崖の下に大きな井戸があって、これは弘法井戸と言うんだと橋爪さんが話してくれた。すぐ側の家がお世話をしているというので声をかけると、仲野すずえさんが出てきてくれた。橋爪さんがこの家はデンジという屋号だと言うと、すずえさんは「いえデンジじゃなくてゼンジ(善次)なんです」と言う。橋爪さんもびっくり、みんなデンジとて思っているとのこと。帰って半四郎さんに聞くと、「えっデンジじゃないの」と新たな発見。 その手前に桑名屋のおばあちゃんが、何をしてるんだろうと怪訝な顔をしていたので、「ちょっといいですか」と話しかけると「今から通夜にいかんでならんで」と言いながらも、手押し車のことなど私たちの質問に応えてくれた。
 タバコ屋という屋号のスーパーマーケットがあった。タバコ屋の奥さんの実家(屋号カネヨ)は、昭和四〇年くらいまでイワシを加工してニボシを作る仕事をしていた。安乗にはそんな加工場が七〜八軒あったという。イワシがとれなくなって止めたらしい。
 路上で元気よく歩いているおばさんをゲットしてインタビュー。おばさんはこれから郵便局へ行くところだった。名前は片山とみえさん、仕事は現役の海女さんだった。アワビ、フクダメ(トコブシ)、テグサ(テングサ)を採っている。旦那は漁師。畑を二反作っている。後で案内人に写真を見せると、「これはカタイチのトミエばあだ」と言う。安乗では誰一人知らないものはないというほどの有名人だった。もっと聞けば良かったと後悔。
 交番のお巡りさんにもインタビューしたが、仕事柄地域のことをしゃべってくれない。うーんこれはこれでいいのかなと納得した。
 安乗小学校へも行こう。安乗小学校の校章は帆掛け船を模している。小学生の体育服の胸のマークだ。校舎には漁船のレリーフもある、さすが漁師のマチだ。突然の闖入者に木下教頭がいろいろと説明してくれた。安乗小学校は一八七六年(明治九年)創立、現在の生徒数は一三一人、最大は昭和三三年の四六二人。一九七二年に現在の場所に移転した。その前は現在保育所もあるところにあった。総合学習として三年生から安小タイムをもうけている。安乗をもっとよく知ることや、安乗文楽の活動を中心に行っている。


(三)安乗から分かったこと
  
                         安乗10  しない棒を担いでみる研修生
   
 安乗の道は狭い、車が通れない道が多いと否定的に言うこともできるけれど、道が狭いから出会った人の顔がよく見えるし、挨拶を交わして仲良くなる。みんなが気をつけるから交通事故が少ない。同じ事態をどう捉えるかによって、地域の印象は全く異なってくる。確かに新しく家を建てる人は、安乗から国府方面に広がっている。でも多くの人は車には不便な旧市街にこだわって暮らしを立てている。安乗の心はここから生まれていると思う。屋号で呼び合い、家と家の距離が近いからみんな何でも知っている。今日の晩ご飯から夫婦げんかの原因までみんなが分かっている。悪く言えば相互監視という言葉があるけれど、それはまた支え合う暮らしでもある。一見不便さを甘受しているように見えるかもしれないが、安乗の人々は自分の住んでいる場所の特性も知らないで地球環境を心配するような空想家ではないから、不便さよりも受け取るモノが多いからこそこの暮らし方を選択しているのだと思う。
 ここ五〇年の日本は民主主義と個人主義を金科玉条にしてきたけれど、豊かさの象徴・消費する場所としての大都市は、じつは人間にあまり優しくなかった。そこにはばあちゃんは歩いていない。なぜならばそこにはばあちゃんの仕事がないからだ。ばあちゃんの仕事は具体的だ。菜畑でサツマイモを作る。それはキンコを作るために。海女の仕事で現金を得る。魚や野菜は自給できるけれど、お店での買い物にはお金は必要だから。不漁の時は海草をとって菜畑の肥料にする。ヒマがあれば道ばたの雑草を抜く、道が美しくみんなが喜んでくれるから。もちろん自分の菜畑の草を抜いた後で。このリアリティーが安乗の個性となっている。
 ばあちゃんが歩いていない場所は、モノ作りが行われていない。大都市の中心街ではモノ作りの実業はなくなってしまって、お金を動かしてお金を増やす虚業があるだけとなっている。お金からは暮らしの工夫も、コミュニティーを支える気持ちも生まれてこない。もうどこかではっきりと知った方がいいと思うけれど、第三次産業は現在の暮らし方では必要かもしれないけれど、ここからはコミュニティー再生も自治する気持ちも知恵も生まれてこないということだ。
 だって第三次産業にはばあちゃんはほとんどいない。排除しているともいえるが、ばあちゃんたちが近づかない訳の分からないものともいえる。かつてさかんだった行商は、お金に始まってお金に終わる第三次産業ではない。行商の場合、取り扱うモノは誰が作ったのか、誰が獲ったのは分かっているモノばかり。自分の家で獲ったり作ったり、そして加工したモノもあるだろう。売る先の家族構成を知っていて、今日はこの魚がこの家には良いだろうと判断できるような関係で、モノと情報が行き交っている関係を第三次産業とは呼ばない。言ってみれば一次産業と二次産業と三次産業が総合された仕事類を、うかつに信じることのほうが問題だ。
 安乗にたくさんのばあちゃんがいるということは、ここには実のある仕事があって、支え合う暮らしがあることの証明となっている。年寄りを大切にすることは、自分自身を大切にすることだ。うーん道徳的な物言いだが、人は自分が大切にされない限り、他人を大切にすることはできないから。人間関係は間違いなく等価関係なのだ。 

                         安乗8


(四)学校で朝飯を!

 結城登美雄さんは安乗の地図を見て、ここは本当に恵まれた場所だと言う。海岸部には海藻が育ち、その海藻がアワビやサザエを育てている。的矢湾側のおぼれ谷の地形が稚魚の保育園、的矢湾が小学校、そして魚たちは大きくなると太平洋に出て行く。
 今井史さんは安乗の沖は日本でも数少ない高級魚種が獲れる漁場だと言う。宝彩、サバ(下関に行って関サバになるらしい)、伊勢エビ、アワビ、テングサ等々安乗の海で獲れる。木曽三川と伊勢湾と太平洋が出会う安乗の海は、絶妙な環境が作られている。だから乗鞍山の木を大切にしなくてはと言う。
 結城さんは学校の総合学習に対して、画期的な方針を語った。これは安乗だけではなくその条件がある小学校ならば、できる可能性がある話だ。安乗小学校の裏山をみんなで開墾して畑を作って、そこに野菜や芋を植えて、収穫したらそれを材料に給食を作る。朝飯を食べないで学校に来る子どもがいる話を聞くが、学校で朝飯も給食にすればそんなことはなくなるじゃないか。夕方下校前に明日の朝飯の仕込みをみんなでやっていけばいいじゃないか。一見現実離れした提案に聞こえるかもしれないけれど、ここには大事な視点がたくさんある。
 学校は勉強をするところという理解が当たり前になっているけれど、昔の小学生(つまりおじいさんやおばあさん)の話を聞くと、オルガンを買うために坑木を切り出したとか、教材を整えるために地域の開墾の手伝いをしたとか、今から見れば「なんでそんなことを」と思うけれど、その話をしてくれたおばあさんは夢見るような顔になって楽しい思い出として語ってくれた。確かに急に小学生に開墾させるとなると、なかなかたいへんな話だとは思うけれど、今の子供たちがおじいさんやおばあさんになった時に、孫たちに語りかけるものを持っているだと考えたほうがよい。そもそも行政が編み出した一次産業などという分ろうかと思う。自分自身はどうのだろう。いや何十年も先の話ではなく、今の子どもたちが地域の暮らしや仲間や家族と、どんな共同性を培ってきたのかと思うと、なかなか事態は深刻ではないだろうか? 長崎の中学生が幼児を殺害したことは、他では起こらないと言い切れないのが今の私たちの社会ではないだろうか? 共に汗を流す、共に苦労する、共に考えることから、競争ではなく、子供たち同士がお互いを必要とするつながりができるような気がする。総合学習は文科省自身が今までの教育システムではやっていけないとやっと気が付き、とりあえずの方針としてだしたものだと思う。従来の教育の枠組みを全て組み直すことが問われている。
 その時、結城さんの「学校で朝飯を」という提案がにわかに現実感を持ってくる。算数や国語も大事かもしれないけれど、開墾や種まきや収穫そして料理することのなかで、私たちが持っておかねばならない具体的な知恵が獲得されていくう。
 すぐに「学校で朝飯を」食べることは難しいかもしれない。でもどうすればそこに近づいていけるのか、先生も子どもも地域の人も一緒に頭をひねることが大切だと思う。どうすればできるのか、何が難しいのか、そして子供たちはどうしたいのか、地域の大人は親は、子どもをどうしたいのか、もっともっと語るようになれば、「学校で朝飯が」食えなくても、確実に地域の学校になっていくことだろう。 


                        安乗3 安乗漁港を眺める