改めて水俣の産廃を考える



左の矢筈山から右の水俣市街にいたる台地は、野川溶岩流と大滝溶岩流がつくった地形。
産廃処分場はこの台地に予定されている。

昨年の正月の夢物語として書いたモノを改めて読み返してみると、IWD東亜熊本が環境影響評価準備書を出す状況となっても、それほどずれた考え方ではないと自分では思っている。

そもそもこの相思社HP「職員のページ」は更新されないことが常態となってしまったが、これからはよもやまに考えたことや作成した文書を適宜アップしていこうと思っている。

プロローグ

 IWD東亜熊本の管理型産廃処分場建設を巡って、登場すべき役はほぼ出そろったが、水俣地域の産廃推進派が顔を見せていない。現在は産廃反対派も賛成派も市長選に力を注いでいる。それとは一線を画した地点から、水俣の産廃を巡る動きを見ておきたい。

 産廃反対運動がどれほどの絵を描けるかによって、その展開と結果は異なっている。市民多数派形成のシングル・イシューとしての、木臼野地区に産廃処分場を建設させないことと、その運動にどれほどの広さ・深さを持たせるかは別に考えておかなければならない。例えば水俣病事件史で告発(熊本)が果たした役割を、水俣病の社会化のコーディネーターとみなすことで、新しい切り口が見えてくる。

    
茂道湾 ここにある岩石は産廃処分場予定地同様の大滝溶岩

●起承転結の起(住民にとって「寝耳に水」の産廃問題登場)

2004年3月IWD東亜熊本による環境影響評価方法書縦覧が行われる。水俣では先年起きた宝川内大災害の余韻の中で、それはあまり注目されることなく縦覧期間が過ぎていった。そんな中でも、計画を危険に思った人々によって「水俣の命と水を守る市民の会」(以下「水を守る会」)が結成され反対運動が展開される。「水を守る会」は集会を開いてIWDの計画を広く報知したり・専門家を招いて学習会をしたり・現地の調査を行ったり・産廃反対の幟を市内全域に立てて精力的に活動を行ってきた。その後「水俣を憂う会」や「本願の会」などが反対を表明していった。

 ところが市内では「なんか運動が盛り上がらないね」「何をしたらいいか分からない」と、反対運動への共感は今いち高まっていかなかった。それには理由があったがなかなか気づかなかった。

この段階の反対運動は、「総論賛成・各論反対」「自分の庭では嫌だ(NIMBY not in my backyard)」と見なされていた。こうした主張は従来住民エゴと言われてきたが、実はここに大きな落とし穴があることを指摘して起きたい。この議論の前提に、狭い地域の利害より広い範囲=上位概念としての国の利害を優先することが公共性とされてきた。例えば新潟県巻町住民が選択した原発拒否を、とある代議士は「国のエネルギー政策を一握りの住民が左右することはいかがなものか」とのたまった。ここでの考え方は二つある。原発推進自体は問わないが、固有の場所の利害はその地域の住民の意志が優先するという考え方がある。もう一つは、国=公共性=全国民の利害という構図自体を疑う考え方である。公共性の名の下に行われてきた道路公団はどうだったのか、銀行救済の公費投入はどうだったのか、年金を管理していた社会保険庁は何をしていたのか等々。IWD東亜の小林は産廃処分場の社会的意義を訴えれば、その場所へ建設できると考えているが、あまりにも短絡的である。


水切りを楽しむ子どもたち グリーンスポーツ白戸海岸

●起承転結の承(住民が産廃問題に集中しないように拡散を図る人々の仕掛けた情報戦)

 前江口市長曰く「県知事が許可しなければ済むんであれば、私は反対したいと思います」(うむむむ、何の意味があるのだろうか?)「環境モデル都市を言わないんだったら、私も産廃に反対します」(環境モデル都市のどこに産廃受け入れが書いてあったのでしょう?)「私が『反対』と言って止まるんであれば、『反対』します」(熊本県にまだ申請もされていない事業を、「反対してもできてしまう」と宣伝する地元首長は珍しい存在だ)。

 吉永県議曰く「市長は反対なんです」(本人がそう言ったのですか? 「反対の中立」って日本語初めて聞きましたが、どういう意味でしょう)

 自民党市議団曰く「反対運動で処分場建設が止まったことは一度もありません」(いつから自民党市議団は中立になったのですか? 水俣の市議会は全会あげて産廃反対決議をしていませんでしたか?)

 最近の論点「某市議は初めから知っていたけど水俣市に報告しなかった」(百歩譲ってそれが事実としても、それがどうしたのでしょう? 為にする議論の見本)

 2005年11月9日、IWD東亜熊本による任意の住民説明会が行われる。しかしこの説明会は質疑応答もなく、IWDとそのコンサルのNPO環境技術協会による一方的な説明に終始した。IWDの小林社長は産廃処分場の一般的意義を強調し、田邊は埋立て終了後のビオトープ化や環境学習の拠点となる説明を延々としていた。水の会や本願の会等の人々は、せめてもの反抗として公開質問状を渡し抗議した。この説明会から見えてきたことは、IWD東亜熊本は、産廃処分場を力づくで建設しようとしていること、住民の理解や合意は必要がないということ、結果として全く誠意のない対応が基本であることが確認された。

 こうしたIWDおよび隠れ賛成派の仕掛けた情報戦の結果として、水俣では運動の盛り上がりが欠けているようにみえてきた。産廃処分場の本質的な議論(1.何故水俣病の傷が癒えぬ水俣に作るのか? 2.水俣市の水源地に、巨大な産廃処分場を作ることが適性なのか? 3.環境モデル都市づくりのもとで、ごみ分別に取り組んできた水俣にそれが必要なのか、4.当事者たる住民を無視して適法性だけでそれは語られるのか? 等々)が未だ始まっていない。

 こうした人々の第一の目的は、産廃処分場反対運動に住民の気持ちが集中していかないように水を差して、処分場がスムーズに建設されるように露払いをすること。第二には産廃処分場建設の要となる市長選挙で、中立を標榜している江口市長を当選させること。目的を実現させるためには、議論の意味や真偽は重要ではない。

真っ当にモノを考える人々にとっては、江口市長や自民党市議団の語る産廃処分場に関する話は、その場しのぎ・首尾一貫しない・意味不明に思えて、いっこうに要領を得ぬ不可解な見方だと考えるだろう。それが付け目なのだ。人々がそれによって迷ったり、「どっちもどっち」と思ったりすればこの情報戦は成功なのだ。こうした議論に囚われている限りは、産廃処分場建設は着々と進行していると考えるべきである。2005年の水俣は、こんな段階に終始した。 

 しかしこうした議論が今なお存在するということは、逆に住民の多数意見が産廃賛成かそれとも産廃反対に形成されるのか確定していないことを示している。こうしているうちに、彼らの情報戦が有利に展開していると見れば、次には産廃建設のメリットを宣伝してくるはずだ。いわばあめ玉を配るのだ。

 第二段階における反対運動の転換の萌芽は、産廃に反対する市長を選び出すことであろう。だがそれは産廃反対運動にとっては、一つの必要条件を生み出すに過ぎないことも自覚しておきたい。

2006年2月、産廃反対の宮本市長が誕生した。水俣市行政が産廃反対にシフトしたことは、心強いことではあるが必要十分条件ではない。基本的には「水俣の命と水を守る会」を運動の中心としながら、さまざまな組織・団体の個別性を活かしながら、水俣の将来を展望しながら、産廃反対運動を水俣の生活作りとして展開することが問われている。

    
水俣湾埋立地にある池 睡蓮が美しい        親水護岸で塩焚き。恋路島が見える

●起承転結の転(水俣の住民が産廃に向き合うそのきっかけ。水俣病の犠牲を無駄にしない地域づくり)

 産廃処分場反対運動の構造は三重構造をなす。これらが同時進行するばかりでなく起承転結も同時進行するという、入り乱れた状態を運動と呼ぶ。

第一の運動は、始まりとしての迷惑施設反対の意志を磨き上げて、どんな水俣を望んでいるのかを示すことで、産廃処分場を位置づけ直すことである。「何で水俣に産廃処分場なのか」があらゆる段階で問い直していくことになる。

第二の運動は、IWD東亜熊本の産廃施設を多角的に検討しその問題点を突いていくという、既存の制度のなかでの闘いとなる。その切り口は、水質、地質、交通、大気、動植物、工法、構造、材料、生活、歴史、水俣病、観光、農水産物、風景、産業、環境政策、住民協働、コミュニティー等々である。こうして産廃処分場計画を、環境影響評価ばかりでなく科学的かつ生活者的論点から検証していくことが必要となる。

第三の運動は、水俣らしい産廃処理の方法を考え提案するなかで、既存の産廃処分の方法を越えること。水俣には住民による資源ごみの分別がなされ、環境モデル都市づくりという目標もすでにある。はからずも江口市長が述べた「法を変えてください」に対応するような、水俣らしい環境政策の提言を、熊本県ばかりでなく国にまで行っていくことが問われている。

 水俣の産廃反対運動の現状は、述べてきた起承転結の「承」から「転」への転化を問われている段階と思われる。これは2006年1月の認識。2007年2月の段階で言えば「転」段階に突入しているが、その具体が遅れていると言えるだろう。市長選で反対派市長の誕生は一つのきっかけをなすにすぎない。

 このステージを創造してやっと、水俣の産廃処分場が水俣の住民にとっても、水俣に心を寄せる人にとっても、産廃処分場が社会的課題となる。産廃反対運動にとっては処分場阻止が戦略となる。しかし、水俣地域にとっての産廃処分場の位置づけは、住民自治の創造に基づく環境モデル都市づくり(水俣市の環境政策としてではなく、これも住民協働から再構築すべき概念として)を戦略として、産廃処分場はその中の一つの課題(戦術目標)としたい。


   
 不知火海芦北町女島あたりの海岸       杉本水産加工場で栄子さんの話を聞く


●起承転結の結(自分の住んでいる場所のことは自分たちで決める=住民自治を発動)

産廃処分場反対運動や水俣病50年を通じて、「50年後の水俣をどう想像するのかを自身の課題とした」30人の核を形成する組織課題を設定しておきたい。人口3万人の水俣で地域を動かしていくために、多様性を保ちながらも「水俣づくり」という一つの方向を向いたオピニオン・リーダーがいることになる。この30人をどうやって人材育成するのかが、古い世代の一つの課題となっている。

1990年代の環境創造みなまた推進事業によって、市役所内や地域にも多くの「自分の頭でものを考える」人材が浮かび上がってきたが、2000年以降共通の課題で仕事する機会が減少している。行政主導の水俣病50年事業の作業部会メンバーには私も入っているが、次世代を担う20代30代の層が主力となっていくためには違う仕掛けが必要となっている。水俣病50年事業のもやい部会「みなまた塾」や地域福祉部会の創作舞台に関わった人々の継続的な場創りの動きは、その受け皿作りとなっていくだろう。その中で行われた「みなまたの約束」は、コミュニティーづくとしてのもやい直しの一助となり、水俣病から産廃問題までを射程にいれたコミュニティーの原則となるだろう。この過程は別の角度からは、地域のことは地域住民が決める住民自治の思想の構築にもなっていく。

●エピローグ

 結局IWD東亜熊本は撤退して、水俣に産廃処分場はできなかった。しかしそれは私たちの物語の終わりを意味しない。水俣発の環境モデル国家づくりによって、日本の産業活動がそして水俣の暮らしがLCA(ライフ・サイクル・アセスメント)によって管理され産廃の発生がゼロになる日が、物語の終わりの日となる。それは同時に、水俣病を必然とした産業化社会から、生活文化と生産活動と環境がマッチした新しい社会を展望することにもなるだろう。企業の利潤優先の時代は終わりつつあるし、パラレルに私たちの生活文化もまた転換を問われている。

グリーンスポーツで魚を捌く。水俣で魚を捌いて食る。
環境学習と水俣病と暮らしの出会う場。