2007年6月9日
早稲田大学特別講義「記憶を語ることば」

「水俣、<語り部たち>の現在」

 ことばの力GPでの特別講義では全文を話すことはできませんでした。ここに全文を掲示しておきます。私が取り上げたかったテーマは「当事者」と「伝える」です。

水俣病センター相思社 遠藤邦夫

1.はじめに

 何年か前奈良県御所市柏原にある水平社博物館に行ったときのことです。ちょうどお昼だったので、博物館の前にあった食料品店でパンでも買おうと思って入ると、おばさんが「お昼ならカップ麺にお湯入れてあげるよ」というので、そうしたのです。そこにはちょっとした休憩スペースがあったのですが、茶髪の中学生の女の子が二人先にカップ麺を食べていたんです。「おっちゃんどっから来たん」「水俣から来た」「それどこ」、私はちょっとショックでした。小学校の5年の教科書に、水俣病のことはささやかながら説明されています。それなのにこの子たちは知らない。水俣を知らない人がいたわけです。

 あとで博物館の学芸員に聞くと、「うーんあの子たちならそうだろうね。学校にあまりいってないもんね」でした。ここにはさまざまな問題がありますが、私が言いたいのは水俣を知らない人がいることにショックを受けた私がいたことです。日頃から「全ては疑いうる」などとしたり顔しているにもかかわらず、「水俣病の水俣」を疑っていない私がいたんです。この子たちの最後の言葉は「まあおっちゃんがんばってや」でした。がんばります。

水平社博物館

2.自己紹介 

 話を始めるに際して、皆さんと私は初めて出会うわけですから、まずは皆さんにとって「遠藤とは誰」だと思います。自己紹介をいたします。

生まれた場所

 私は一九四九年九月、岡山県の南西部に位置する鴨方町六条院真止戸山(まつばさ)という、名前からも分かるように山間の二〇戸程の小さな集落に生まれました。子どもの頃には食べ過ぎで疫痢に罹って死にかけたり、ため池で泳いでいておぼれて気が付いたら家の縁側に寝かされていたり、スクーターにはねられてケガをしたり、まあその時代の子どもとしては一般的な経験してきました。

 日本の高度経済成長とちょうど一緒に育った私は、竹のザルがプラスティックになることに日本の発展を実感したり、テレビに映るアメリカのホームドラマにあこがれとコンプレックスを感じていました。なにしろ私の生まれた家には、電気は来ていましたが水道はなく、飲み水は井戸から汲んできて瓶に入れてありました。外風呂であったことはいうまでもありませんが、沢水を竹のトイで引いておりしばしばお湯の上には落ち葉が浮いていました。夏の昼食は決まって冷や麦、夕食だってナスやカボチャの煮物とキュウリの塩もみが毎日続くんです。それらの野菜は家の前の菜園でできたものです。肥料は便所の下肥を掛けます。お風呂の排水や小便をツボケという舛に貯めて、家の前の菜園の水やりに使います。自分が食べた物が排泄されて、その排泄物で野菜を育てて、その野菜が食卓に並ぶのです。今考えれば物質循環型の理想的な生活だったのですが、私はそれがたまらなく嫌だったんです。

 誰かの歌ではありませんが、「もうこんな村いやだ」という心境でした。さぞかし山奥の暮らしと思われるでしょうが、岡山県南部を通っている山陽線の駅から車で一〇分くらいのところだったんです。もちろん周りは田んぼと畑ばっかりで、遊ぶといっても集落の子ども全部がより集まって、山や小川や神社でひがな一日遊んでいたんです。高校生になってビートルズの歌を口ずさみながら帰っていると「いなげな歌をうとうとるのは国一郎さんとこの孫じゃが」と聞こえたわけではないのですが、なぜかみんなが私を知っているんです。徹底的に村社会だったんですね。

 小学校の時に、できたばかりの水島工業地帯の見学に行きました。みんな「岡山県も工業県になったんじゃ」と喜んでいたと思います。山陽線が電化された時には、クラスで選ばれた何人かの一人として電車に試乗させてもらいました。何も岡山県に限ったことではなく黒部第四ダムが完成した時には、たぶん日本中の人が「日本もこんな大きなダムが作れるようになったんだ」と素直に喜んだと思います。

 

 私今は、家族3人(妻と12歳の娘)で暮らしています。昔の観念ではプチブル的な生活とみなされ、社会変革を志すものとしてはあってはならない。全人民が幸せな状態にはないわけですから。でも自分が幸せだから人のことも考えられるし、どうすればみんな幸せになれるか考えます。とても即物的です。いいのか悪いのか分からないけど、毎日が楽しいなって感じです。水俣病関係の話をするというのに、あまりにも俗物的な幸せ論で申し訳ありません。

2007.3 阿蘇草千里にて

  
  昭和の初め(1932年頃)河道改修前


3.水俣と水俣病事件概略

 ほんとうは水俣病事件の解説しないで、この講義をやりたいなと思ってきたんです。それは私を呼んだ金井さんからすれば反則でしょう。それを押し通す自信がないので、おとなしく水俣病事件の簡単な解説をやります。

 

 1956年5月に「奇病」として確認された水俣病は、59年夏熊本大学水俣病研究班によって「チッソ水俣工場から排出されたメチル水銀が海水中の魚を汚染し、その魚を多食した人々がかかる」病気としてほぼ解明されます。しかし国によって公害と認定されるには、さらに無為なる9年が必要でした。更に被害者たちが適正な補償を得るには、苦難に満ちた裁判や自主交渉を経て、水俣病補償協定書が結ばれる73年までの5年間がありました。これでチッソの排水によって被害を受けた人々が、全て救われたわけではありませんでした。長い長い未認定患者たちの闘いは、ここが出発点となりました。補償協定の適用を受けるためには、県の認定審査会に認定申請し、偏見に満ちた医者たちの検診を受け、10人の審査会委員全員の同意が必要だったんです。未認定患者たちはチッソや県・国との交渉を求め、ありとあらゆる行政措置や司法に活路をみいだそうとしてきました。

 しかし1977年の環境庁による「後天性水俣病の判断条件」は、これ以上水俣病は認定しないという国の決意表明でした。にもかかわらず患者たちは闘い続けたが、多くの患者たちは1995年の政府解決策を受け入れ闘いの旗をおろしました。このときの水俣病患者たちの「高齢となった被害者はまったく救済を受けないままに死んでいくことになります。また、水俣市は新しい時代への脱皮を望んでいます。市民が水俣病被害者に理解を示してくれる今が、解決の時期としてもっともふさわしいと、私たちは考えました」は苦渋の選択と呼ばれていますが、まさに政治的選択であって人として被害者として納得したのではありません。力で言えばなお国は強大で、自分たちは弱小だった関係を認識したに過ぎないのです。


環境庁前抗議行動

 やや客観的な言い方をさせてもらえば、水俣病のような事件が起きたときに、国は被害者が納得するような解決策を出すことができず、資本の拡大再生産の原理を変えない程度の規制を打ち出すことしかできないこと。だからテーマは国の姿勢の是非ではなく、国の廃絶も含めてそのあり方を根底から考える段階に立ち至っていると思う。ここで留意しておくことは、私の問題意識からの国家の廃絶よりも、今やストリート・ファイトと化した市場経済=野放し資本主義が、統治機構としての国家を解体しつつあるということです。

 この説明の最後に大事なことを付け加えておきます。水俣病患者は水俣病と一生つきあっていくわけですが、そうではない私たちは選択的に水俣病と関わっているということです。まさに素材として関わっているのです。運動としての水俣病に関わっている人たちは、自戒も含めてですが往々にしてこの事実を忘れるのです。当たり前ですが水俣病患者は、水俣病闘争を闘うために生まれてきたのでも、国の水俣病認定基準を批判するために暮らしているのでもありません。そうしたことは彼らの人生のほんの一部でしかないのです。私は水俣病患者の日常とその言葉の中に、私の水俣病の課題を見つけたいと思っています。

 

4.水俣病を伝える 

 私が勤めている水俣病センター相思社の活動テーマの一つに、「水俣病を伝える」があります。分かったような分からないようなテーマです。これまでに分かったことは、正直なところ思ったほど伝わっていないということ。伝えたいことは水俣病の事実や歴史ではないと言うこと。それらは多くの書籍や研究がありますから、それを読めばいちおう理解できるはずです。水俣病の起きた水俣現地に暮らし活動しているものが、できる「伝え方」とはどんなものでしょうか。こういう問題設定のなかに既に回答を用意しているわけですから、初めから反則といえば反則なのです。しかし私は私に与えられた条件の中で、これまでの経験と思考の積み重ねで、問題設定するほかないわけです。ちょっとかっこつければハイデガー言うところの投企(Vorlaufen)といえますが、まあ他の選択肢はないわけです。特に年を取ってくると、自分の前に拡がる可能性はだんだんと狭まり、まあこれしかないなあと居直るんです。とんでもないハイデガー解釈ですが。

 話を戻すと「水俣病を伝える」です。では水俣病の何を、誰が誰に、どのように、どこで、何のために伝えるのでしょう。

 「誰WHOが」は私です。

 「WHEREどこで」は水俣に暮らしている事実がありますから水俣です。今話している私は水俣に足はついていて、たまたま身体が東京あたりをふらふらしているということです。ここからが少々難しくなります。

 「WHAT何を」は水俣病患者の物語です。これも多くの人や資料などで伝えられていますが、私なりに読み解いた物語りは私のオリジナルです。こういうと水俣病患者の人生を、自分の都合の良いようにねじ曲げているように聞こえますが、そうだったとしてもその行間に事実の重みを感じられると思います。物語りを生み出す力は、人をしてそれに惹き付け・自己を問うるつぼに投げ込む力だと思うのです。

 「WHO誰に」ですが、これは実はけっこう狭いんです。水俣に来た人や水俣病に関心を持つ人の全てではありません。少なくとも私と出会って、その出会いを自分の暮らしや人生の役に立てようと思った人です。役に立つかどうかは実はよく分からないんです。水俣病センター相思社では水俣案内を仕事としてやっていますから、お金を出せば誰でも案内はします。それはイコール「伝わる」にはなりません。そうはならないケースの方が多いかも知れません。そんなことは私の知ったことではありません。わざわざ水俣まで来て、お金を払って、貴重な時間を費やして、それを何らかのチャンスとして役立てようとする人だけに、私の水俣物語は伝わる可能性があります。たぶん大学の授業も同じではないでしょうか。ここで保留しておかなくてはいけないことは、役に立たない話は無意味なのかといえばそうではありません。今役に立たなくてもそのうち役に立つかもしれません。とても手に負えない話もありますし、その時は時間の無駄だったと思っていたけれど、後になって気が付くこともあります。

 「HOWどのように」ですが、これは人の五感をつかうほかありません。目で見る、耳で聞く、口で味わう、鼻で嗅ぐ、皮膚で触る、です。そこでは言葉はツールとして重要ですが、あたりまえですが全てではありません。最近相思社の案内は、「遊ぶ・食べる」を重視しています。この講座では「読む・話す・聞く・書く」のバランスが課題となっていますが、受け身と思われる「聞く」ことは意外と難しいんです。ヒトの話を「聞」いて、人それぞれあるんだなということで、自分の中の棚にとりあえず置いておくことになります。

 それを必要に応じて取り出すのですが、巷で流布している相対主義に陥ると、再度そこから取り出すことは不可能です。取り出す=選ぶ=差異を認める、という価値判断がそういった相対主義ではできないからです。誤解なきように言葉を足しておきますが、私の理解では相対化とは「お互い固有の存在であることを認め合う」ことを前提として自分自身の価値判断を下すことなのですが、どうも「あんたはあんた、俺は俺」という評価不能な絶対的判断に陥ることが相対化と思われているふしがあります。これはマルクスとマルクス主義が違うようなものです。そこでは絶対的な意味を持つ自分と、均質の意味しか持たない=固有の意味を持たない・自分でないものしかないことになります。嵯峨一郎さんは『他者との出会い』の中で、非自という概念を使いました。他者と了解するためには、自分とは違う価値観を持った同じ人間の存在を了解しなければなりませんが、自分でないモノ=非自に対してはその了解は不要です。話がそれていますが、私が「水俣という固有の場所の記憶を語る」ことは、みなさんの相対化にゆだねる他ないのです。

 「WHY何のために」にでしょう? 相思社の仕事だから、私の人生だから・・・水俣病の経験を活かした地域をつくりたいから、経験を活かして欲しいから・・・うーんどれも一部を言っているだけだなあ。ここで回答に窮していることは、私の当事者性と深く関わっています。少なくとも水俣病患者はこんな自問はしません。水俣病患者の物語は、その事実に意味が見いだせるからです。患者はその意味では自足しているのです。私にはこうした点で、固有の風土と暮らしの実感が欠けていることが気がかりです。これは直接的な当事者でないものの課題だと思います。


相思社集会等で小学生に語る杉本栄子さん

 「記憶を語ることば」ですが、事実からすれば私には水俣病と水俣に関わる記憶は、1987年以降の20年間しかありません。水俣病が公式に確認されてから51年、チッソが水銀を使い出してから75年、チッソが水俣に来てから99年、水俣にはいつから人が住んでいるのでしょう。多くの漁師たちが天草から海を渡って、石牟礼道子さんが描く「光り輝く都」に住み着いてから100年くらいでしょうか? 水俣病が語れるといえばウソになります。語れることは自分の経験と知識と人との出会いで分かったことです。

 昨今広島でも長崎でも課題となっていますが、被爆体験者が次々に亡くなりこのままでは原爆体験を伝え続けることができなくなります。ここで「当事者」とはだれかという「伝える」上では、重要なテーマがでてきます。水俣病では当事者とは水俣病患者と苦楽を共にしたであろうその家族です。広島や長崎では被爆者とその家族、沖縄では沖縄戦に巻き込まれた人でしょう。では私は誰でしょう? 水俣病患者でもなければその家族でもありません。もうちょっと拡げても水俣に長く暮らしてきた人ともいえません。つまりこの問題設定では、私は当事者ではないんです。それで長らく支援者と呼ばれてきました。しかし支援することが存在規定というのは、これまたしっくり来ません。水俣病が闘争だった時代には、闘争支援はけっこう普遍的な範囲指定だったのかもしれません。しかし闘争が終わった時代には、支援者はとても居心地の悪いことばになっています。少なくとも私には。でもそれに変わる言葉を生み出せていないので、あいかわらず当事者でもなければ支援者ではないという、鳥なき里のコウモリのような状態です。

 もう一つ当事者を語ることばに、「踏まれたものにしか踏まれた痛みは分からない」ということがあります。1970年頃までの被差別部落解放運動ではよく聞かされた言葉です。しかしこういってしまえば「踏まれたもの」「踏まれないもの」の距離は絶対的になり、この言葉の先に出会いはありません。出会いがなければ物語は「伝わり」ようがありません。この言葉は直接性を持つ当事者の、まあ最初にがつんとかましておこうというものですから、あまり真に受けるのは問題です。踏まれないものにも踏まれた痛みが想像できるんですから。もちろん同じ感覚ではありません。さきほどのハイデガーの言葉を用いれば、それぞれ固有の社会環境の中にいるわけですから、それは踏まれたモノ相互でも同じことです。

 これは仮説ですが私は当事者を、そのコトにご縁を結んだ人すべてに適用できると考えています。そうはいっても20年しか水俣病とのつきあいがありませんから、中途半端な当事者ではあります。広島や長崎や沖縄そして水俣とのご縁とそれを伝える意志さえあれば、とりあえず当事者として自己規定できると言っておきたいと思います。

 

5.水俣病事件が生み出した言葉。石牟礼道子と緒方正人の例から

 私は素材としての水俣病に関わってきたと考えています。イバン・イリイチの『HOと水』の副題は「素材(スタッフ)を歴史的に読む」です。ここでイリイチは水を物語や表象を産み出す力を持つ素材として考察しています。私のお話は、この「水」を「水俣病」に読み替えられるのではないかと思ってのことなのですが、はたして妥当かどうかは分かりません。

 素材としての水俣病という言い方は、闘争としての水俣病が全盛時代には許されない表現だったかもしれません。素材という言い方は水俣病を相対化しているわけですから、そんなスタンスは闘争の時代にはあり得ませんでした。患者か支援者かもしくはチッソか国か、あるのは敵・味方の二項対立の図式だけでした。だから私は今、闘争としての水俣病は終わっていると考えているということです。では闘争としての水俣病とは何だったのかといえば、それは国家にとって社会不安をもたらす紛争状態があり、別の言い方をすれば秩序化されていない状態です。




水俣湾埋立地に埋め込まれている汚染魚を閉じこめたドラム缶

 1973年以来の未認定患者運動は水俣病として認知させようとする運動であり、それが実現されることは認定制度を前提とすることになります。つまり未認定運動は認定制度との闘いであるとともに、それに認知されようとする逆説的な運動でした。運動が背負っていた課題は、水俣病の「名」付けと「実」を巡る補償要求の二つでした。私はこの二つの課題をもっていた認定制度への闘いにとしての未認定患者運動は、結局一部は実現し一部は敗北したと考えています。敗北したのは「名」を巡る闘いです。それは2004年の関西訴訟最高裁判決をもってしても、その事態は基本的に変わっていないと思っています。水俣病の運動はすでに秩序化しており、その中で解決可能となっています。つまり別の言い方をすれば水俣病患者たちの言葉は、国家によって解読可能な状態になったということです。誤解なきように言葉を足せば、私は認定制度が正しいと言っているのでも、秩序化が間違っているとも、水俣病の問題が解決したとも思っていません。闘争としての水俣病とは違った位相の、問題設定と展開が求められていると思っています。

 芦北町女島で漁師を生業としている緒方正人さんは、現在の5000人以上になる認定申請の動きに対して、「物語りを生み出す力はない」と語っています。それはメチル水銀の被害者ではないと言っているわけでも、被害者として不当な要求をしているというのではありません。この動きはそれなりの交渉や運動を経て、現状に相応しい解決を与えられていくだろう。ただそこには、水俣病が人間に問いかけたものを展開する可能性や、異なった意味での当事者性をつきつけていくことはないということです。物語りを生み出す力は、人をしてそれに惹き付け・自己を問うるつぼに投げ込む力だと思うのです。

 

 石牟礼道子『苦海浄土』の語りは、水俣病事件全史を貫く通奏低音のようにいつも聞こえている声というか、いつも帰っていく場所というか、よく分からない世界だけど気になる世界なのです。分からないけれど気になって無視できない。水俣に来るまでは唯物論者だった私にとって、石牟礼道子の世界は捨て去るべき世界であり、唾棄すべき近代以前の村社会にどっぷりつかった世界観に見えていました。

 しかし一方で近代以降の論理を持ってしても、水俣病の行く手が見えてこないような気がしたときに、石牟礼道子の世界はその回答じゃないけれど、逆に近代的な問題解決のロジックそのものの問題点を、指摘されているように考えました。近代を象徴するロジックは、損害をお金で補償するという仕組みが可能であるということです。

 あらゆる問題は解決できる→解決できない問題はない→だから、解決できない問題と共存することは思いもよらなかったんです。しかし水俣病事件で思い知らされたのは、解決できない問題があるということでした。死んだ人は戻ってこない。かかった病気は直らない。起きた悲しい事実は変えられないんです。

 

 『苦海浄土』の中にこんな文章があります。「この日はことにわたくしは自分が人間であることの嫌悪感に、耐えがたかった。釜鶴松のかなしげな山羊のような、魚のような瞳と流木じみた姿態と、決して往生できない魂魄は、この日から全部わたくしの中に移り住んだ」(同書「ゆき女きき書き 五月」p126。釜鶴松 明治36年8月28日生まれ 発病1959年6月中旬 1960年10月死亡)この解釈は私の手には余るので、後書きの「いわば近代以前の自然と意識が統一された世界は、石牟礼氏が作家として外からのぞきこんだ世界ではなく、彼女自身が生まれたときから属している世界、言い換えれば彼女の存在そのものであった。釜鶴松が彼女の中に移り住むことができたのは、彼女が彼とこういう存在感と官能とを共有していたからであった」(同書 p315 渡辺京二)を紹介するにとどめておきます。

 

 緒方正人さんが水俣病未認定運動に関わった動機は、「親の仇を討つ」でした。(緒方福松 明治31年1月25日生まれ 発病1959年9月25日 1959年11月27日死亡)。その緒方が、討つべきチッソと同質なモノを未認定患者運動の中で、自身の中に見いだしてしまったわけです。つまりその時点で、緒方の対象は加害者チッソではなく、人間そのものとなったわけです。そこに至る回路は、彼自身が述べているように「狂い」「破産を自白」「子どもの頃から慣れ親しんだ海や山やイオの世界に還ること」でした。ばりばりの運動家だった緒方は、キリを袋に入れたような闘い方を模索します。賠償金の請求では1円か1億円か、仕組みとしての法ではない人間としての責任を誰が取れるのか、そして自身の運動すらも仕組みを強化しただけではないのか。水俣病の補償を巡る闘争は、いわば経済要求なわけですから、要求が通ればとりあえず終わるわけです。でも運動の過程で問題にしたことは終わってないし、解決したわけではありません。そこに緒方さんは疑問を持ったのです。形式的な説明を加えれば、緒方さんは経済闘争を思想闘争にしまったわけです。

 1969年の水俣病第一次訴訟の原告は水俣病患者ですが、それを支えた人々の思いは多様でした。熊本告発は「義を見てせざるは勇なきなり」と言って、義勇兵(ボランティア)の決意から出発します。また当時の状況から、多くの大学生や労働者が支援活動に入って行きます。この人たちの意識は、水俣病患者を抑圧する大企業チッソや国家を撃つことだったと思います。だから水俣病事件の中には、患者の経済要求と資本主義批判・国家批判が共存しています。ただ緒方さんの辿った回路は少し違っていました。もちろん運動の中で共産主義思想に出会ったりもするのですが、緒方さんは自身の表現をマスとしての運動に求めなかったのです。1985年に未認定患者運動を離れるさいも、分派闘争としてではなく一人でだれも誘うことなく離れて行きます。なんでそうだったのか私はうまく理解できていませんがそうだったのです。この一人であることが、緒方さんの新しい出発点となります。

 

 月並みな話ですが、石牟礼と緒方に共通していることは、魂と言う言葉を語ることです。私は語れません。同書には「魂とは何ぞや」とありますが、結局魂の規定として語るのではなく、「魂とは何かを問うことが問われている」であり、魂はいのちの別名だから「いのちのふるさとを探す」ことを呼びかけています。これはテキストの40点くらいの読み方だと思うのですが、一つ確かなことは私たちの暮らしの中で「魂」という言葉はほとんど使われることがないということです。一方緒方の暮らしの中には「昔は子供の時分から魂ということばが、日常の中でよく使われていたし、私たちにもそういう話しかけがあったわけです」と書いているように、今ではあまり話されなくなった不思議な話(狐にだまされた話や人魂を見たこと)や魂の話も、頻繁に人の口に上っていました。このあたりに緒方正人の世界と、石牟礼道子の世界が交わっているような気がするのです。

 

6.名付けのこと 

「記憶ことば」の別の表現である、名付けの話しをしておきたいと思います。一つは水俣病という名前です。通常地名の付いた病名は風土病を表すことが多いと思いますが、ご存知のように水俣病はその地域固有の風土が原因の風土病ではなく、メチル水銀という化学物質中毒です。原因からすれば有機水銀中毒症でもよかっただろうし、川崎病のように初めてその病気に気が付いた医者の名前をとって細川病でもよかったわけです。1956年当時は奇病とよばれ、ブラブラ病、猫踊り病、水俣奇病とさまざまに呼ばれ、ついに1969年の厚生省の会議で水俣病が公式な名付けとされます。


水俣駅前大石環境庁長官への陳情

1972年水俣においては病名変更運動が起こります。水俣地域の人にとって、地名の付いた水俣病が居心地の悪い名前だったことは想像に難くありません。またそのことで出身地を名乗れないことにもつながるわけですから、「水俣病の名前を変えてくれ」は自然な要望だったと思います。問題はその流れの中ではなく、当時チッソに対して損害賠償裁判を行っていた患者互助会訴訟派の人々と特にチッソ本社前に座り込んでいた水俣病自主交渉派の人々にとってこの病名変更運動は、いわば自身の存在証明を突き崩しかねない反動的な運動に見えたことです。これらの人々は水俣病であることが闘いの前提だったわけですから、それが変わることは闘いの根拠が失われるに等しいと受け取りました。それは水俣病歴史考証館に展示されている、当時の新聞折り込みされたビラからも分かりです。これを今考えれば、水俣の住民が水俣病を背負うことができないという悲鳴でもあったと思う。しかし運動の側からは、「住民は背負いたくないのかもしれないが、患者は常にそれを背負い続けるしかない!」と糾弾したんです。長い間、水俣病患者運動ではチッソ・住民・地域は敵と規定していました。だから地域社会から水俣病を考える・捉えるという発想はなかったんです。

もう一つの話題は、水俣湾埋立地のことです。水俣病はそこに始まり、多くの生き物の命を奪いまた埋めた場所であり、どうしようもない水銀ヘドロを封じ込める以外には問題解決できなかった現場です。この地はエコパークと名づけられていますが、これこそ名づけによって場所の意味・力を奪い取るハカリゴトだと思います。映画「千と千尋の神隠し」の中で、千尋という名前を千という名前にすることによって、名を奪いすなわち名にまつわる記憶を奪い支配する湯婆婆がいます。例えばハクはセンとの出会いの中で、コハクガワという名を取り戻します。その名前を言ったとたんに、ハクは龍から人間の姿になります。天空の城ラピュタでも、「バルス」とラピュタ破滅の呪文をとなえると城が崩壊しますが、たぶん同じことではないでしょうか。

私は長くモノはその概念がすべてと考えてきたのですが、三島由紀夫は『討論三島由紀夫vs東大全共闘』(新潮社1969)で「ぼくが言いたいのは、観念に名前がつかなきゃ、観念は観念じゃないということ・・・・あなたと私との本質的な差は、結局名前があるかないかということなんです」と述べています。30年以上も前に読んだときには、三島の言葉は間違いだと思っていました。しかし最近読んでみると、全共闘の言葉より三島の言葉の方が、よっぽどリアリティを持っていると感じています。

 つまり魂という言葉はあるけれど口に出さないと、魂はなくなってしまうんです。たぶん「水俣病は終わらない」と語る人々は、それを口に出すことのこうした効果を考えているのではないでしょうか。あたりまえですが水俣病は終わったり終わらなかったりはしません。起きた事実は変わりようがありません。私は「水俣病は終わらない」という物言いは、長い間好きではありませんでした。でもそれを口に出さないと終わってしまうという観念があるということです。呪術的な考え方からすれば、人は言霊に囚われ易いのです。

 

7.相思社が水俣にあることの意味 場所の記憶

 相思社が水俣の地にあることの意味を、どのように作り上げるのか問われています。水俣病事件は水俣病五〇年チッソ一〇〇年の物語だ(緒方正人さんの言葉から)。私たちはこの物語を展開させてきた一方の力を近代化と考え、他方の力を水俣病患者に置こうとしてきました。だから「水俣病を伝える」ことは、水俣病の事実を列記・伝達することではなく、水俣病患者物語への共感を呼び起こす装置が必要なのだと思います。相思社はその装置の一つといいたいんです。また、この時代・この場所に相思社がある必然を、そこに住んでいる人々、行政、国等の関わりの中に見いだせなければ、相思社と地域というテーマはなく、物語を落ち着かせる場所もまた存在しません。

 水俣という場所は、否定的に考えれば水俣病という呪縛を逃れることができなかった場所であり、肯定的に考えれば水俣病から地域や国や近代化を眺めることができる場所です。水俣に住んでいる人々はこの間を翻弄されてきました。どちらかの立場が正しいのではなく、この現実こそが「対立のエネルギーを創造のエネルギーに転換させる」ことができる場所の力だと思います。

 相思社が呪縛を否定せず近代化を相対化できるならば、地域住民同士、住民と行政(市、県、国)およびその他の組織との接着剤の役割を、この世の利害にとらわれない立場から果たすことができると考えています。またそこでは、地域の自治的なつながりを創造することが浮かび上がってくると仮定しておきたいんです。自分たちの暮らしをお上や大きな企業に頼らず、自分たちで治めていくことが、何よりも地域にとって重要な水俣病の教訓です。

 水俣は40年間に渡って、患者は病気ばかりでなくチッソや国・県そして住民からの差別的まなざしに苦しみ、住民は自分の生まれた場所を名乗れないことに苦しみました。そして患者同士、患者と住民、支援者と住民、住民同士のあいだに水俣病の被害をめぐってギクシャクした関係が続いてきました。そればかりでなく魚介類やみかんやお茶まで汚染のイメージが張り付き、水俣産としては販売することができませんでした。たしかにチッソは被害者に補償金を支払い、国や県は水俣病関連の補助金をつぎ込んできました。しかしそれだけでは水俣は再出発することはできなかったんです。なによりも必要だったのは、水俣に暮らしている人々が自分たちことばを取り戻し、課題を引き受ける覚悟が必要だったんです。

 現在の相思社は、水俣病患者も含めて地域に暮らしている人々が、幸せに暮らせることを最大の目標として、マチ作りや産廃反対運動に関わっています。

 

8.水俣病が問いかけるもの

(1)ある漁師の庭先

 1961年、水俣湾の小さな漁港にある一軒の漁師の家の庭先

 メチル水銀濃度 11ppm。現在の基準は0.4ppm

 国も県も市もチッソも何もしなかった。彼らは何故食べ続けたのか。当時の食生活。

 逆説的ですが嬉しそうな顔をしています

 

(2)水俣地域の課題「もやい直し」


1955(昭和30)年 水俣市湯堂漁港のパネル

 もともと「もやい」は船をつなぐ綱の意味があり、また農村共同体では神社の掃除や修理を一緒に行うこと意味しています。「もやい直し」はそうした関係が壊れこんがらがった状態を、協働することから修復していこうとするものです。現在ではさらに積極的にもやい創りとして、さまざまな協働がはかられています。水俣病の社会的被害を人間関係や共同性の喪失と捉え、例えば水俣病患者への差別があることの批判するにとどまらず、水俣病患者と市民の出会いの場を設定したり、知らなかった苦しい経験を聞く機会を設けたり、作っているモノを交換して楽しんだりして、そうして差別や偏見が実生活のなかに意味をなさないようにしています。決して差別がなくなったとは言えませんが、逆に水俣病患者と知り合い水俣病を中心に据えたマチづくりが必要だという人々も増えています。

こうして酷い目にあった水俣の人々が、いま壊れた共同性の修復としてもやい直しを始めています。本当にできるかどうかなんて誰にも分からないし、できたらそれは凄いことだと思います。例えばイラクの戦争も、いつどんな形になるか分からないが必ず終わる。そして生きていくためには、敵と味方だった人々が、何かを共同して再生を展望する他はない。イラクは内戦というばかりでなく、新たな侵略形式としてのグローバリズムを錦の御旗とするアメリカを筆頭にした国際社会の干渉が大きいので、さらにこんがらがってくるけれど、イラクの人々も再生に着手すれば、殺し合いまでした事実を忘れたくなるに違いありません。または事あるごとに、過去の事実を巡って誰に責任があったのか、言い争い合いになることもあるでしょう。壊れた壷の上で踊るのか、それとも口を紐で縛って大事に使うのか、それとも直そうと持ってきた紐を「俺の首を絞めるつもりだろう」と新しいいさかいを始めるのか。

 水俣は地域のなかでこんな経験をしてきたんだと思います。そして壊れた壷を大事に使おうとすることが、すなわちもやい直しです。ただもやい直しが実行されるには、住民の気運が盛り上がるばかりでなく、ご飯が食べられるための産業展開も同時になされることが大切なんです。このもやい直しの意味が普遍化できれば、あらゆる対立の解決に使えます。大げさな物言いだと思うかも知れませんが、二項対立的図式から脱却した世の中は、世界のどこにもまだありません。

 

(3)運動としての水俣病から表現としての水俣病へ

2001水俣ハイヤ節パネルのパネル

 2000年12月2日、杉本栄子さんと荒馬座によって創り出された2001水俣ハイヤ節が水俣文化会館で披露されました。ハイヤ節は南方から伝わってきた海の民の踊りです。九州は牛深に上陸し牛深ハイヤとなり、周辺では薩摩ハイヤが生れ、リズムが海の道を流れていって佐渡オケサとなり、農耕の民によって阿波踊りとなっていきました。人はどんな時に踊るのでしょうか。踊りを披露するとはいったいどんな意味があるのでしょうか?

その後また交流会で地元の歌と踊りを見せられた時に、大げさに言えば電流が流れたように2001水俣ハイヤ節の意味が身体に流れ込んできました。「そうか、水俣病のあった水俣で、水俣病の患者が風土と暮らしと仕事を織り込んだ踊りを披露できるようになったんだ」と。そのままです。水俣病事件のコミュニケーション・レベルを変えたんだと思いました。水俣病と語らなくても、踊りを通じて水俣病の意味が伝わっていく段階を迎えたといえます。踊りという身体表現は怒っていてはできません。笑顔と笑いとそれへの共感が踊りを盛り上げるんです。どうすればいいのかと考えていた「対立のエネルギーを創造するエネルギーに転換」ができているではないか! 

9.今の時代 

 結論を述べる前に時代論を少し述べておきたいと思います。

2006年6月25日の西日本新聞に、姜尚中さんの「ジャパニーズ・マインドの終焉」というコラムがありました。そこに前から私が薄々そうじゃなかったのかなということが、はっきりと書いてありました。それはアラン・ブルームの『アメリカン・マインドの終焉』(みすず書房1988)を紹介していたのですが、「行き過ぎた自由と悪平等によって勇気づけられた大衆の俗物根性とその世論に隷従してしまった民主主義の荒廃・・・一切のモノが平準化され、模範や基準、権威が見失われてしまった社会の魂の貧困・・・価値相対主義の悪夢・・・。ブルームによれば、学生反乱、ヴェトナム反戦運動、黒人公民権運動・・・・は、実はそうした精神の荒廃を招き寄せた「張本人」にほかならない」(姜のことば)。このブルームという人はネオコンの始祖レオ・シュトラウスの弟子ですから、その内容をそのまま真に受けようとは思いません。「張本人」というなら世界の警察官としてヴェトナム戦争を始め、市場経済に全ての命を預ける結果になった1971年の金−ドル兌換停止を決定したアメリカ政府にほかなりません。従来の「規範や基準、権威」が疑われたことが問題ではなく、その収拾の仕方に問題があったのです。

とはいえ昨今の日本で起きている悲惨な出来事は、まさにこうした精神の退廃をそのまま形にしたモノだと思っています。つまり「規範や基準、権威」の再構築を自由経済にゆだねた結果が、現状を招いていると私は思っています。また日本の特殊性として、アメリカへの政治・経済・文化の追従を国是としているわけですが、アメリカといえども悪いことばかりではありませんが、何故か猿まねになってしまう日本ではアメリカの悪い側面ばかりが強調されることになるようです。うろ覚えで申し訳ありませんが、関曠野氏は「日本人は古来から、強いモノにはこびへつらい、弱いと見れば居丈高に傘にかかってしゃぶり尽くす」そんな国民性を持っているんだと述べていました。この心性は決して日本人に特有とは思えないのですが、そうした人間の本性を大和心や武士道や通俗道徳で抑えてきたのですが、今やその歯止めがなくなったということだと思います。さらにそこにアメリカのアフガン戦争やイラク戦争で、倫理的規範が一挙に崩壊したことを誰もが実感してしまったのです。まさに価値相対主義が世界を覆っているのです。

また関曠野氏は『資本主義』(1985影書房)でこんなことを予言しています。「貧富の差が拡大する中で、資産のない多くのホワイト・カラーは下層階級化し、この人々の子どもたちに到っては学校を出ても職がなく、わずかに残ったサービス産業のぱっとしない仕事口を求めて他人と争うことになるだろう」この予言は20年後の現在のことです。

 


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10.結論

 ル=グウインが書いた『ゲド戦記』を、我が家では寝る前に妻が子どもに読んでいたのですが、あまりにおもしろいので私も一緒に聞いていました。一巻「影との戦い」の最後のクライマックスでゲドが影と対峙するのですが、すっかり寝ていて聞き漏らしていました。これはながらく妻子からちくちく嫌みを言われました。このゲド戦記一巻の扉に「ことばは沈黙に 光は闇に 生は死の中にこそあるものなれ  飛翔せるタカの 虚空にこそ輝ける如くに エアの創造」とあります。「ことばは沈黙に」、それは分かってはいるんです。水俣病にしてもそれぞれの人に語られない・語れない領域があり、それを読み解くことが必要なんだと。話している限り人の話を聞くことはできません。沈黙しなければ自分のことばが頭の中でワンワン回っているだけです。

 私が「記憶を語ることば」を発することができる〈語り部〉と言ってしまうと、やはり何か違和感があります。水俣病患者が語り部として語ることには、たぶん誰も何らの違和感を覚えないと思います。何が違うのでしょう? 語らざるを得ないことと、意志を持って語ることの間にはたぶんものすごい断層があるのでしょう。アウシュビッツの真実を語ることができるのは、アウシュビッツで殺された人だけだという命題を立てたとすれば、誰もアウシュビッツの真実を語ることはできません。この先水俣病患者たちが鬼籍に入り、その家族も同じ運命をたどるわけですから、何十年か先には、いや実際には今もそうなのですが水俣病を語る人はとても少数になります。

語り部とひとつにまとめるのではなく、自分自身の身体で紡いできた事実を語る語り部と、その語り部たちの物語りを解析して伝えようとするストリーテラーとしての私のような、少なくとも二種類の役目があるんです。この「解析」と「伝え」ようとする部分は、もちろんあるがままの事実には即していますが、私の考え方によって操作されています。どんな大切なことも伝わらなければ意味がないと私は思うほかないし、それは一種の自己評価基準です。しかし水俣病患者にとっては伝わろうと伝わるまいと、事実は事実なのです。語られる事実をどれだけ受け止められるかは、聞き手しだいなのです。

水俣病を巡る当事者は、水俣病患者ばかりでなく、私のような伝えようとするストーリーテラーだけではなく、「その話を聞いてしまったり、その場所を感じてしまった」と思ったあなただと考えています。

 これで終わります。ありがとうございました。