6月9日 靖国神社
 |
 |
 |
| 靖国神社 |
大村益次郎の銅像 荒俣宏に よれば御霊(西郷)鎮めの銅像 |
靖国神社の門 大きな菊の紋章 |
靖国神社を初めて訪れた。目的は、靖国神社を見る・大村益次郎の銅像を見る・遊就館見学であった。九段下で地下鉄を降りて歩くと、左手に武道館を見ながら上る。靖国神社はかなり大きい神社であった。大村は長州藩士として幕府と戦い、その後明治政府として戊辰戦争の戦争指導を行った。おもしろいことに靖国神社には本殿に祀られていないものたちを祀る小さな社が、本殿の左手にひっそりと二棟たっていた。それは外国人や何らかの事情で合祀できない魂を祀ったものであったが、その存在は日本人の御霊信仰(恨みを残して亡くなったモノたちを祀らないと祟るということ)なしには理解ができないだろう。うーん靖国にしてもそうかと思った。インパールの遺骨収集で拾ってきた遺品などが外に展示されていたが、どんなスタンスで靖国神社がインパールを展示できるのか? 大馬鹿者の牟田口廉也がどんな顔をしてインパールで殺された兵隊に会おうというのか!遊就館を見学した。入り口ホールのは大砲とゼロ戦と機関車が置いてある。写真が写せるのはここだけだった。その後ドキュメント映画『私たちは忘れない!』― 感謝と祈りと誇りを ―日清日露の大戦から大東亜戦争に至るまで・・・。我が国近代史の戦争を、当時の貴重な映像で再現し、東京裁判で歪められた歴史の真実に迫るドキュメント映画。(時間 50分)企画制作 日本会議 英霊にこたえる会後援 靖国神社 靖国神社HP を見た。映っていることは全て事実(もちろん編集はされているのだが。この資料館の展示物もまたそうであるが)だが、それをつなぐ言葉や説明は納得できるものではなかったが、私は涙が止まらなかった。なんでこんなふうに殺されたのか、死ななければならなかったのか、遊就館が期待する涙とは全く違う涙であった。展示室は多数アリとてもゆっくり見る時間はなかったので、また訪れたい。花嫁人形などはどのように理解すれば良いのであろうか。多くの遺影(たぶん合祀されている人々の写真)が何室にもわたって展示されていた。土本さんの水俣病遺影展を思わせるが趣旨は違う。知覧の特攻記念館にも多くの遺影があるが、ここのはかなりソフィスティケートされた写真と感じた。しかしその数には驚かされた。靖国神社は、@無念を残して亡くなった魂を鎮める御霊神社であり(この見地からすれば、特に祟るかも知れないA級戦犯の分祀を認めるはずもない)、A大東亜戦争を伝える、この二つを目的としてここにあるのだろう。そして特に後者は、遊就館の展示などは目的に沿って作成されており成功していると思われる。修学旅行の生徒なども数多く訪れている。確かにお金をかけてはいるが、伝えようとする強い意志を見ることができる。内容には全く合意できないが、その手法や意志の明確さは学ぶべきものであろう。
 |
 |
 |
| 合祀されない人の神社? |
靖国祀られた人々の遺影 |
インパールの遺品 |
6月10日三里塚
 |
| 公団曰く騒音防止のためのフェンス。実は人を威圧するためのフェンス |
相川陽一君の案内で三里塚を巡った。相川君は早稲田大学の金井景子さんと一緒に何度か水俣を訪れたことがある。今年の高木基金助成で三里塚闘争の支援者たちの聞き取りを行っている。お家は両親・祖父母と陽一君の5人家族。ひいじいさんの代から、芝山町で農業を続けている。最大5町歩の田んぼを耕していた富農クラスだった。お父さんは元反対同盟の青年行動隊のメンバー熱田派所属だったが、芝山町会議員から現在は芝山町長。お母さんは辺田部落出身の少年行動隊だった。おじいさんの代から空港反対運動に関わってきた。あの時代には三里塚・西の水俣と言われていたが、北海道にいた私にとっては水俣は辺境のなんだかちょっと暗いイメージの闘争で、三里塚が光り輝いていた。二度ばかり現地のデモにいったことはあるがそれだけ。ちょっと畏れ多いほど闘っていた三里塚のイメージが強い。その三里塚を相川君の案内で見て回ることができるなどは、なんだかちょっと不思議な気分だった。 三里塚で回ったところは、三里塚ワンパックの出荷場・原田さん、島村さん(離陸する飛行機の真下でトラクターで畑を耕していた)、相川家、陽一君の田んぼと畑、東峰神社、東山さんのお墓、元辺田部落、空港・木の根ペンション(元木の根団結小屋)は空港敷地に入り込んだ形で残っている。東峰神社では、機動隊がやってくると聞かされていたが、雨が降っていたので残念ながらこなかった。 相川君のお家でお昼をごちそうになった。おばあさんがお家でとれた野菜を使った昼食を用意してくれていた(インゲン豆のあえもの、カボチャの煮物、ジャガイモの煮物、キュウリとフの和え物、キュウリの漬け物、奈良漬け、自家製ミソのみそ。汁写真を撮らなかったのが心残り)。とても食べきれない量だったが、おじいさんによれば「田んぼを起こすときはこれくらいたべなければ」ということ。戦前はカイコやお茶も作っていたとのこと。田起こしは人力の鍬でやった。牛や馬を使うやつは駄農と言い放った。でも馬は飼っていて堆肥作りに使った。子馬を育てて売った。おじいさんは子どもの頃には馬に乗って遊んでいた。
 |
 |
| 三里塚ワンパック作業場にて相川君 |
フェンスに取り囲まれた東峰神社 |
陽一君の田んぼをみせてもらった。この辺りは水はけが悪く、膝くらいまで埋まるとのこと。深いところでは太ももまでうまるらしい。それで牛や馬は使えなかったのではないか? 相川君はお家のたんぼ5反を借りてコシヒカリを作っている。無農薬で栽培しているので、草取りが追いつかないことが悩みのようだ。 成田闘争中に用水路が造られたが、闘争の切り崩しとしてそこからは水を引かず、青年行動対が川からポンプアップする施設を作り今も使っている。 最後に木の根ペンションを訪れた。幹線からの入り口にはガードマン、途中のゲートには車に乗ったガードマン、側の空港用地内には監視塔と厳重な警戒体制の中にある。二階からは成田空港が一望に見える。おおきな飛行機がペンションの前後ろを誘導されていくので、とてもうるさい。朝6時から夜11時まで飛ぶことになっている。今ここは地球的課題の実験村(野山の学校、ネットワークづくり、情報発信)が管理している。今は二人の男性が暮らしていて、農業の手伝いなどをやっているようだ。ここに「水のある風景 水俣」と「東部 風土と暮らし」の絵地図と、相思社で作成した「水俣の環境学習」パンフを置いてきた。まずは自分たちで地域にあるものを調べることから始めたらどうですかと提案した。
 |
 |
村ごとなくなった辺田部落 向こうには日添えの集落があったはず |
警察に虐殺された東山薫さんのお墓 |
相川君は一方で農業をやり、他方で三里塚を伝える活動などもやって行きたいと考えているが、実際にはその片方だけでも大変な仕事である。地域にどれほどの一緒に活動してくれる人を見いだせるのか。とくに成田闘争の展示は、行政などの協力なしには続けていくことは難しいと感じた。まだまだ熱い成田で、伝える活動を位置づけることはとても難しいと感じた。 相思社発行の機関誌ごんずい100号には次のような相川君の文章がある。「目的意識的になされる行為である社会運動は、行為者の自己選択によって終えることが可能だが、この地で生きていこうとする限り、誰しも開発問題としての「成田空港問題」と向き合うことからは逃れられない。その意味で、三里塚の空港問題は現在進行形であり、「終わり」がない。そして、「三里塚闘争」は、開発主義の相対化に向かうポテンシャル(潜勢力)を胚胎させながらも、「成田空港問題」については十分に議論を深化させることなく現在に至っている」
これは水俣でも同じ問題があり、水俣病を事件史として取り扱う人には理解されないばかりか、地域のエゴと誤解されている。
 |
 |
| 嬉しそうな相川君のたんぼ |
木の根ペンションを取り囲む監視体制 |
6月23日 「宇井さんに学ぶ会」の感想
 |
| 安田講堂という場所 |
会場からの発言 環境研究所の堀内さん
「この会合が安田講堂で開かれているのが不思議な気がしている。どういう理由でここを選んだのか」
小林和彦さん(東大教授)の回答
「ここが東大の中で一番大きい会場であったこと。他には考えなかった」
追加発言
「宇井さんが生前、こんど集会をやるなら安田講堂でやりたい」と述べていたと発言あり。当日のやりとりはこれだけです。私が後ほど聞いた話では、実行委員会では場所を巡る議論があったらしいですが、確かなことは分かりません。
経過の分析(=遠藤の想像とも言える)
- 小林さんの回答は堀内さんの後半への回答であって、堀内さんからすれば質問全体への回答ではなかったと思われる。
- 堀内さんの質問の前半については、何故不思議なのか説明されていない。これは堀内さんは自明のことと想定してのことと思われる。
- 一方小林さんはそれを自明としなかったので、まさに選んだ理由を説明しただけ。
- 安田講堂という場所の自明性とはなにか? 少なくとも堀内さんと小林さんの間では共有化されていない。
遠藤の疑問
それぞれ発言していることが「真」とすれば、何が問題なのか? とりあえず遠藤の安田講堂の認識は、やはり堀内さんと同じように「なんで安田講堂なのかな?」ととりあえず思った。それは私にとっての安田講堂と言えば、1969年1月18〜19日の安田講堂攻防戦(機動隊による封鎖解除)が思い出される。安田講堂についてはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』などを参照してもらいたいが、東大権力の象徴として全共闘が占拠したと理解している。そして機動隊による封鎖解除は、東大闘争の敗北と受け取った。もちろんまさに東大現場の事情はさまざまあろうが、遠くから眺めていたモノにはそう見えた。
その安田講堂で「宇井純さんを学ぶ会」が開かれることは、一種シニカルな選択と思えたが、それは宇井さんの発言を追い風とすることできない。宇井さんが生きていればどういうか分からないからだ。またその発言当時のバックグラウンドや文脈が分からないからだ。それ故、今生きている人間の選択と見なすべきだ。出てきた回答は、会場として一番適切だったからというものであった。イメージに縛られない率直な回答とも言えるが、質問者堀内さんにとっても少なくとも私にとっても不満足な回答であった。
展開
あの集会で出てきたキーワードは、宇井さんが残した言葉から「公害に第三者はいない」「現場」「市民科学」などであった。とりわけ「現場」という言葉が多用されながら、そのなかみは検証されることなく、自明なものとして扱われた。そのコトが起きた「現場」、その人がいる「現場」、そのモノがある「現場」等々、そしてそれぞれ「その」という固有性があることにこそ「現場」の意味がある。そうすれば安田講堂は単に広い会場ではなく、東大闘争の象徴としての意味が張り付いた「現場」に他ならない。
さらに曲解を重ねることになるのかもしれないが、東大の社会的地位が課題とされ、御用学者が問題とされ、東大で環境が語れるのかと言われながら、「広い会場だったから」と応えた小林さんは何らかのもくろみを持ってそう応えたと思わざるを得なくなる。どんなもくろみだったのか? これは決めつけになるが、科学技術の公平性・中立性を信仰しているように私は受け止めた。私の率直な感想は、この宇井純さんを学ぶ会の隠された目的は「東大によって宇井純を消毒すること」と受け止めた。
7月24日 広島
 |
| 本川小学校 平和資料館 |
家族3人で広島を歩いた。昨晩の広島風お好み焼き(もちろん広島では単なるお好み焼き)はボリューム満点でとてもおいしかった。
 |
 |
 |
| 広島のお好み焼き |
菅谷たたらの桂の木 春の芽吹き |
忌部神社の参道 |
7月の広島は暑いが、瀬戸内気候なのか水俣より湿気が少なくすごし易い感じがした。
今回の家族旅行の目的は1.出雲大社、2.広島平和公園、3.境港の水木ロード(その子にとってはこれが一番だったかもしれない)、4.私が幼稚園から小学校5年生まですごした米子市を訪れ家のあった場所に行ってみること、などであった。広島から松江に行く途中に、菅谷たたらに寄った。これはほとんど私の趣味であったが、何年か前に来たときに案内してくれた、たたらの仕事をしたことのある雨川さんは亡くなっていた。大きな高殿は印象的だが、たたら製鉄の本体はほとんどが地下にある。
米子市錦町にあった専売公社の社宅を探した。現在は社宅はなく用地のみであったが、確かにここだった。出雲大社は、その子が夏休みの宿題のガイドブック作りの素材とすることになっていた。ここも御霊(大国主の命)鎮めのための神社である。出雲大社ホームページでは否定しているが、お参りスタイルの4拍手やご神体が西向き(通常のご神体や神社の向きは東もしくは南向きである)であることはそれでは解けない。山陰での2泊3日をすごして、最後の目的地広島を訪れた。そうそうレ−ル&レンタカーで小型車を借りたが、あまり性能のよくないカーナビは付いていたが、CDもテープも聴けなかった。こんなのありか!
 |
 |
 |
| 米子の夜見が浜 |
境港の水木ロードにて |
出雲大社の怪しい社 |
広島の平和公園はよく知られているので、印象に残ったことだけ。
最初にとりあえず原爆ドームを訪れる。原爆投下地点はここよりやや東南寄りだが、ほとんどこの真上で炸裂した。私は原爆を投下して非戦闘員を殺したUSAの犯罪行為も許せないが、原爆が投下されるまで無謀な戦争を止めようとしなかった当時の戦争指導部の犯罪行為も忘れるべきではないと考えている。
原爆ドームは世界遺産になったこともあってか、修復・保存が行き届いている。あまり関係ないことかもしれないが、私はユネスコの世界遺産という発想もあまり許容できない。そういった演説は止めて、相生橋を渡って本川小学校の平和資料館を訪れた。爆心地から350メートルの本川小学校では、1945年8月6日に学校にいた400名は一瞬にして命を奪われた。本川小学校は当時には珍しいコンクリートの校舎だった。その校舎の一部を平和資料館としている。館内には当時の解けたガラス瓶や瓦や市内のジオラマ(たぶんこれは平和記念資料館に陳列されていたものと思う)があった。これらのモノは確かに衝撃的ではあるが、何よりもこの爆心地より350メートルの場所であることに驚いた。「(奇跡的に生き残った筒井さんは)学校は始業前で、あの時運動場でなん人か遊んでいた(その中に同級生の高木さんがおり、やけどで黒こげのようになっていた)と、友を思い浮かべる。運動場は爆心地からさえぎるものもなく、一瞬に熱線で焼かれたにちがいない」(同パンフレットより)。広島では1945年中に14万人が亡くなったと言われている。14万という数ににも驚くが、一人ひとり大事ないのちがあり・家族があり・友だちがあり、そうした14万人なのだ。少なくとも14万の亡くなった人々の物語りが、ここ広島ではどのように語られ・語られず・記憶され・忘れられているのか? さだまさしが唄った「精霊流し」は長崎の話だが、広島にも無数の同じ物語りがあるに違いない。
 |
本川小学校の掲示板に貼られていた詩「せみ」を見てびっくりした。これはすごい、どこにも広島も原爆という言葉もないけれど、間違いなくあの日亡くなったいのちを謳ったものだと確信した(ほんとかウソかわからないけど)。事務室で「あの詩は小学生が書いたモノですか?」と聞くと「いえあれは大人の詩です」と教えてくれた。違う場所でこの詩を見ても、この日の感慨は湧かなかっただろう。夏の広島という場所と、私がため込んだ広島のイメージが一緒になって、この詩を勝手に解釈したのかもしれないけれど。
|