地元学ネットワーク主宰
吉本哲郎
はじめに
東日本大震災はこれまで経験したことがない災害である。震災からの復興、被災した自治体の組織機能の回復、企業、NPOの力の活用、緊急を要する地域組織再生とその人材の確保、将来の展望など、いずれも困難なことばかりだ。大震災、大津波、原発事故による放射線被害と風評被害に立ち向かうときに必要なことは、正常でない異常事態における非常措置が必要であること、覚悟してことにあたること、それが大事なことを指摘しておきたい。
福島原発事故については、まずは、福島原発を安定的に停止し、被害を最小限に食い止め、早期に損害賠償することなどの実害対策を徹底してもらいたいが、風評被害については地元でできることもある。人の噂は止められないと覚悟し、本物のモノやマチをつくることだ。それは水俣の経験から言えることである。水俣での五〇年を超える、水俣病被害者への償いや風評被害に対する経験が役に立てばと思う。でも、水俣の経験が役に立つことがおきたことはつらいことだ。
*水俣は、一九五六年に公式に発見された水俣病で、四万人をはるかに越える人が健康を失い、中には命を失っただけでなく、偏見・差別にさらされ、市民も結婚や就職ができない、あるいは水俣の名前ではモノが売れなくなった。長い間、水俣病事件に正面から向き合うリーダーが出ず、また、その間市民の感情は野放しにされ、水俣病の教訓をもとにした町をつくる合意をつくらずにいた。でも、四〇年近くたって、これではいけないと市民も立ち上がり、行政・住民が協働して水俣病問題の解決と共存、水俣病の犠牲を無駄にしない環境都市づくりを進めてきた。今は、環境首都の称号を得、人前で水俣出身と胸を張って言えるようになり、水俣の名前で農産物も売れるようになってきた。
水俣の経験を元に、大震災の現場でおきていること、そこで考えたことを伝えたい
陸前高田市と宮城仙台市、石巻市、福島県相馬市に行った。
四月一九日に陸前高田をおとずれた。市街地は壊滅し、多くの人が亡くなっていた。役場も流され、職員も七〇名が亡くなっていて、高台にプレハブで作られた狭い仮設の役場で困難な仕事に携わっていた。避難所暮らしの人たちも多く、瓦礫の撤去、遺体探しと遺体確認が続いていた。復興プランを自分たちで作り、みんなで検討するどころではない状態が続いていた。避難所にいた知り合いに話を聞いた。すると「もと居た場所には戻れないのはわかっている。だけど戻りたい。なぜだろうな。これからどこに住むかわかっていない。見通しがないのが不安だ」という。
当面の課題は山積していた。飲み水の確保、下水道をどうするか、地盤沈下した海岸沿いの土地をどうするか、電気の復旧、仮設住宅作り、さらに、どこに新しい市街地をつくるのかの検討、法律や制度の見直し、行政機能の回復、自治会単位の自治機能の再組織化、回復、話し合いの場作り、住民意向の把握。なによりも、急ぐのは生活の再建に欠かせない仕事作り、住民意向を反映するNPOの設立、復興を仕事にすることなどである。
五月一五日、創業二〇〇年の八木澤商店の会長である河野和義氏から、復興に住民意見を反映する「NPO陸前高田創生ふるさと会議」を作ったと連絡があった。私も、顔の見える関係で応援していきたい。陸前高田を元気にしていくため、企業の力をいかし、仕事づくりを仲間で支援していきたい。
宮城県仙台市と松島市、石巻市を五月八日、九日に、福島県相馬市に一四日、被害状況を見に行った。どこも大変な状況だった。石巻市では市長が先頭に立ち困難な業務にたずさわっていた。北上川の河口に旧北上町がある。マチは壊滅していた。住民と北上支所にいた職員も二人をのぞき亡くなっていた。知り合いの結城登美雄さんが、あるばあ様に聞いたことを思い出した。「ここは海、山、川から次々と食べ物がやってくる。そんなにお金はなくても暮らしていける所だ、ここは私のデパートだ」と。実は、ここはそのばあ様のいたところだった。私の憧れの地が消えていた。
福島県相馬市は、地震・大津波にくわえて原発事故にともなう放射線被害と風評被害にあっていた。相馬市の磯部地区では五八,〇〇〇人の住民のうち四七〇人、避難を誘導した消防団員も一〇人亡くなっていた。海岸沿いの広大な干拓農地は地盤沈下し、満潮時には海になっていた。相馬市の農村はホッとするなつかしい日本だった。でも、相馬市、南相馬市などの浜通りは、東日本大震災と大津波により膨大な被害を受けていた。さらに福島原発事故による避難指示で、原発事故二〇km圏域内にある双葉町などは、全町移転で、復旧はおろか、住んでいるところにも入れない状況が続いていた。
相馬市長はがんばっていた。仮設住宅も個人の抽選ではなく、集落単位とし、人のつながりを大事にしていた。相馬市長は「未曾有の被害をうけたのは、ほとんどが旧相馬藩である。浜通りにある相馬市、南相馬市、浪江町、双葉町、飯館村などの広い地域をたばねていくためには旧相馬藩のつながりに頼るしかない」と語っていると聞いた。
第一七代藩主、相馬利胤公は一六一一年に経験した津波で城作りを軸にした都市計画を行い、商工業の進展につとめ復興にあたった。また一八三三年の天保の大飢饉のなか、一人の餓死者もださなかった藩主もいた。蓄えた財をはきだしたのだった。その子孫に相馬行胤氏がいる。彼は十勝に住みながらも、相馬で五〇人の従業員とともにシイタケ工場を営んでいた。
彼は語る。「復興の先頭に立ちたい。今、NPOを申請している。七月上旬にできる。できることは何でもしたい」「最初に住民意向を調査したい。安全かどうか、現状と将来。若い人を外に出して、落ち着いたら帰って来いというのか残れというのか。行政で判断できないときに民意を問いたい」「次に、相馬野馬追いという文化事業の継続」次に、「都市計画」「四番目に心のケアーだ」。
「私は、知識人を集めて方向性を示してもらい、人を動かすこととしたい」「復興プランについては、住民の意見を聞く。いろんな方の意見を聞いて、住民に問いかける」「相馬の復興プランをまとめる。国策で原発ができて、都を農で支えてきたが、風評被害でノーといわれた」「相馬は外貨に頼ってきた町。これからどう立ち向かうのか、ITか大学か、病院かわからないけれども強い相馬をつくることになる。そうしたい」
相馬氏の話を聞いて思ったことがある。
相馬の人たちが、自分たちのマチをよくしていくのに、相馬のものさしづくりがいる。
また、マチづくりに必要なことは、専門家のように、細かく分けて研究するのではなく、また、縦割り行政と批判されてきたようなやり方ではなく、つながってやること、地域(相馬)、哲学(考え方)、生活で集めて相馬をつくっていくこと、そのためには、人を動かす人の存在が大事なこと
復興プランは、相馬に合って、自分とみんなに合う新しいまちのプランであること。
そういうことなのだろうと理解した。
また、行胤さんは「原発に対抗する知恵が必要。相馬から新しいムーブメントを発信したい」と語る。懐かしい日本・相馬づくりだと理解した。エネルギーに関する提案がいると理解した。
志を持ち、天命だと思う若者がいた、すでにNPO組織をつくりだそうとしていた。期待したい動きがすでに始まっていた。なつかしい日本・相馬に新しい風が吹いていた。風は小さな種火を育てていた。
震災復興に大事なことは次のようなことかもしれない
- 自分たちでやりとげる力を身に付けること
- 地域の持っている力、住んでいる人の持っている力を引き出すこと
- 水俣では、学者がやってきて調べてくれたけど、住んでいる私たちはくわしくならなかった。わかったことがある。それは調べた人しかくわしくならないこと、当事者になりにくいことだった。だから下手でもいいから自分たちで調べて水俣づくりに行動してきた。相馬もそうしたほうがいいと思う。
- すると、マチごとに「生活文化研究所」のようなところも必要になる。
- また、仕事づくりも急がれる。マチの復興を仕事にする会社をつくりたいものだ。
- 住民の合意をつくるNPO法人があったほうがいい。
- 住民参加だけでなく、行政参加の考え方も取り入れ、ダイナミックに住民の力を発揮してもらいたい。
- これまで生きてきて大事にしてきたことを元にして、マチをつくってもらいたい。
- いい町の一〇の条件を参考にしてもらいたい。宮城仙台の民俗史家結城登美雄さんの言葉に付け加えたものだ。
- いい自然がある。
- いい仕事がある。
- いい習慣がある。
- 住んでいて気持ちがいい。
- 生活技術の学びの場がある。
- 三人の友だちがいる。
- いい自治がある。
- 地域の暮らしを楽しんでいる。
- おいしいうちごはんがある。
- このマチが大好きである。
- 再生可能なエネルギー導入
- これからをになう、志をもった若者の力をいかすこと、
- 企業の力をいかすこと
でもなんといっても
ここに生きる
ここで生きていく
勇気と希望をつくることだ。