機関紙「ごんずい」の特集を書くためにチッソの発電所の歴史を追っているなかで、これまであまり着目してこなかった、八代にあったチッソの鏡工場に関心を持ちました。鏡を作っていたのではありません。鏡村、現在の八代市鏡町という場所にあった工場です。
チッソは1908年に水俣工場で始まった肥料生産がようやく軌道に乗り始めたとき、さらに増産を進めようと、八代の鏡村というところに2万坪(≒22ha)の用地を取得し、第二工場をつくることになりました。(同時に電源として白河発電所・内大臣川発電所も建設)1914年に完成し、15年に増設。
時代は大戦景気下、水俣工場も敷地を拡張、増設し生産量を増やしますが、それでも1919年での比較ではどの製品も鏡工場のほうが生産量が上回っています。
鏡工場は水俣工場と同様にカーバイドに空気中の窒素を化合させる変性硫安を作っていたのですが、カザレー式のアンモニア合成法の技術が確立し、野口は変性硫安から、その半分程度のコストで出来る、アンモニアから作る合成硫安に切り替えることにします。
そのカザレー式は鏡工場に新設することに一度は決まりますが、「地元の農民、漁民と被害問題で紛糾した」ため、誘致の話は白紙になり、一転延岡に変更されてしまいます。
「九州ヘリテージ」というサイトによると、「鏡郷土誌」には、工場の排煙・排水などにより農水産業に被害があったらしく、農民や漁民からの苦情が絶えず賠償金でもめる事が多かったことが書かれているそうです。
ちなみに鏡工場では1918年に賃上げ闘争もありました。300人あまりが決起して工場事務所や社宅を襲撃したそうです。判断の背景にはそういったことも繋がっていたのかもしれません。
延岡でのカザレー式がきまったころ野口は1926年、信越窒素肥料(現在の信越化学工業)を創設し、新潟県直江津に工場をつくりました。鏡工場の設備はそこに運ばれ、技術者・労働者・事務関係者約200人が直江津に異動(?)になったそうです。世界最大の塩ビメーカーのルーツは鏡工場なんですね。
翌年、鏡工場は大日本人造肥料株式会社に売却されました。
さて、前述した「九州ヘリテージ」というサイトは、作者が古い地図や写真を注意深く検証し、現在の位置を推定しています。いろいろな逸話も載っていて興味深く読みました。
それを頼りに私も実際に行ってみました。
▲日窒時代のものかもしれない?倉庫跡が残っていた。鳥瞰図にも描かれている。