今日は何の日

1977年7月1日。溝口秋生先生のお母さん、溝口チエさんのお命日。

先生はいつもいつも、お母さんのお命日の話をしていた。お命日に、母の水俣病の審査の状況を聞くために熊本県に電話して、そのたびに県職員に冷たくあしらわれたと言った。先生から何年もかけて、何度も何度も聞いた話は、今は私の記憶になって、口から指から溢れ出す。

今日は4人の友人と、150人の東洋大の学生さんとが、この記憶を、私にとって忘れられない「7月1日」を聞いてくれた。

私の先生は農家でした。農薬を使わない実践を早くから始めた先生は、米は合鴨と一緒に作り、みかんも無農薬で育てました。そして安心して食べなさい、と周りの私たちに、みかんや米や、役目を終えた合鴨を配りました。有吉佐和子と石牟礼道子ちゃんが大好きで、道子ちゃんが病気になってからは、毎年山菜を贈りました。贈るための山菜を採るときの先生は、少年のようにほこほこしていました。

目の前に広がる海を愛して、行商さんが運んでくる季節の魚とビナを好んで食べました。

先生は、戦争を嫌って、暴力を嫌いました。それは、自分が体験した戦争と戦時中に受けた体罰からでした。

アイヌと沖縄の文化を愛しました。その理由を聞きそびれました。

死刑廃止論者でした。結核で寝たきりになったとき、キリスト教の本を読んだからだと言っていました。

先生は、勉強がしたくて先生になりかったけど、家が貧しかったから、家業の農家を継ぎました。何かを学び続けたいと思い、一番下手な「字」を選ぶことにしました。それで当時石牟礼道子さんたちの雑誌「暗河」の題字を書いていた書家で第一組合の渕上清園先生の元へ「弟子にしてくれ」とお願いに行きました。清園先生は断り続けたけれど、ついには根負けして、溝口先生を弟子にしました。若い溝口先生は、筆が買えないから、草で書を書きました。メキメキすごい字を書くようになったらしく、溝口先生は、袋地域の書道の先生になりました(ずっとあと、私はその教室の教え子になりました)。

その頃、先生のこどもが胎児性水俣病患者として生まれました。

その頃、先生のお父さんが狂い出しました。包丁を振り回したり、徘徊をしては危険な行動をするようになりました。水銀によって脳の神経細胞が破壊されたせいだと思われます。水俣病だと分かっていたけれど、お父さんはゴリゴリの自民党だったし、消防団長だったから、水俣病の申請を頑としてしなかった、と先生は言いました。

同じ頃から、お母さんはよだれを垂らし、手が震え、味噌汁の味がしないと先生の妻に訴えるようになりました。あんなに頑張り屋だったお袋が、ただ一日中、脱力して座っているようになった、と先生は言いました。そのことが一番悔しかったと。お父さんはそのうちに、弱って死んでしまいました。お父さんが亡くなったことで、水俣病の申請の壁が無くなり、先生は、近所のかかりつけ医にお母さんの認定申請のための診断書を書いてもらって申請をしました。

1974年のことでした。それから三年後、お母さんはたった一つ、四肢の感覚障害の検査のみを受けて、亡くなりました。1977年7月1日のことでした。

それから毎年7月1日、先生は熊本県に電話して、母の認定を求めました。毎年毎年、県職員は「生きてる人が先だから」と言って取り合うことをしませんでした。そして、生きている人たちがチッソと和解させられた1995年、先生のお母さんはいとも簡単に切り棄てられました。先生は、裁判を始めました。闘って闘って、闘っている間、熊本県職員は裁判中に被告席でガムを噛み、居眠りをし、「解剖すればよかったじゃないですか」と冷たく言い放ち、長い間の放置の末に主治医のカルテが残っていないことを「証拠がない」と言って突きつけました。先生は、その一つひとつに、人としての怒りをもって闘いました。

2003年に溝口先生の裁判の傍聴を始めた私は、2010年頃から耳の遠い先生の隣で、文字通訳をはじめました。先生の隣には弁護士先生が一人。対する熊本県職員は7−8人来ていたし、弁護士も同じくらいいました。私はいつも圧倒されたけど、先生と弁護士先生は毅然としていました。そのときにいた傍聴席の人たちの存在がどんなに心強かったか。

2013年、先生は、最高裁で勝訴判決を得ました。血の通わない、人間不在のその場所に、灯をともした先生。だけどそれで終わりではありませんでした。先生は、勝ちすぎたせいで、後の人たちが認定されないのではないかと、何度も何度も口にしました。

今日は何の日。1977年7月1日。溝口秋生先生のお母さんのお命日。

今日は何の日。1977年7月1日。1977年7月1日、国が「後天性水俣病の判断条件」、「52年判断条件」を打ち出し、認定の幅を狭めた日です。それにより現在まで訴訟や認定申請という形で患者たちの戦いは続いています。1977年7月1日、国は71年8月に設定した認定基準にはなかった5つの症状の組合せを認定の条件とし、感覚障害だけでは認定しないとしました。

この判断条件の設定を境にして棄却率が異常に高くなりました。

理由はいくつかあります。71年に新潟水俣病訴訟が、73年に水俣病第一次訴訟が患者側が勝訴で終了、水俣病認定申請者協議会が生まれ、それをきっかけに、認定申請者が急増します。73年以降、有明海や徳山湾や関川やで、次々と水俣病が発見されます。その幕引きのために、国は認定申請者を棄却しまくる必要がありました(現在、『技術の黙示録』という本で勉強中。難しく遅々として進まないけど楽しい)。

75年、チッソは補償金の支払いが困難になり、存続が危ぶまれました。打開策として、熊本県はチッソに県債を発行し支援します。この時点で申請者を水俣病と認定することは、熊本県の経済的負担につながり、「認定の問題は熊本県の問題」となり、熊本県は県民のためではなくチッソのために、さまざまな施策を考えるようになりました。

それで、先生のお母さんは、1974年から21年間も放置され、棄却され、それで裁判で13年も、先生は戦わないといけなかった。私は先生のことを、先生のお母さんのことを、52年判断条件のことを、誰にも彼にも伝えまくります。

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