不知火海
不知火海は干潮と満潮の差が大きく波が穏やかで、複雑に入り組んだ海岸線をもっています。魚や貝が卵を生むのに適した場所もたくさんあり、たくさんの種類の生き物が暮らしています。タチウオ、アコウ(キジハタ)、ボラ、ガラカブ(カサゴ)、クロ(メジナ)、チン(クロダイ)、アジなどの魚や、ビナ(アラレタマキビ)、フトヘナタリ、ヒザラガイなどの貝類、ヒライソガニやムラサキウニなどの海辺の生き物がよくみられます。
写真:水俣市魚市場に水揚げされた魚(相思社職員撮影、2019年5月4日)
食卓にならぶ魚
むかし、水俣の漁村に住む人たちの食事は、魚介類が中心でした。お刺身に、ゆでたシロゴ(シラス)、エビ、サザエやビナ(アラレタマキビ)などの貝類、タコや海藻の酢の物など。魚は、味噌汁や煮つけにもしました。このような海でとれるさまざまな魚介類が、漁師たちの毎日の食事の中心であり、彼らにとっては海が「米びつ」でした(米びつとは、毎日食べるお米を保管するための容器のことです)。水俣の漁師は、チッソが起こした海の汚染を「米びつに毒を混ぜられた」と表現しました。
写真:お客さんが来た日の食卓(相思社職員撮影、2017年3月19日)
えびすさん
不知火海沿岸に暮らす人々の生活は古くから海の恵みに支えられてきたため、自然に寄り添った豊かな生活文化が生み出されました。えびすさんもその一つで、この地方の漁村には必ずと言っていいほど、えびすさんの石像がみられます。「えびす様」は魚をもたらしてくれる神さまとして信仰され、漁師たちは年に2回は漁を休んで祭りをしました。こうした文化は、海とともに生きる人々の海に対する想いや尊敬の深さを表しています。
写真:湯堂漁港のえびすさん(相思社職員撮影、2022年)
曽木発電所
水俣病の原因となるメチル水銀を海に流したのは、化学肥料やプラスチックの原料を作っていたチッソという会社です。チッソはもともと1906(明治39)年に野口遵が設立した電力会社で、鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)にある曽木発電所で水力発電を行っていました。発電所が作られたのは、近くの鉱山で金を掘るときに使う電気が必要とされたためでしたが、たくさん作られた電気はあまりました。そこで野口は新たに会社を設立し、工場を作って、あまった電気をそこで活用しようと考えました。そのころ、発電所から30キロメートルほどはなれた水俣村(現在の水俣市)ではもともと塩を作るのに使われていた土地があまっていたので、ぜひ工場を水俣村に作ってほしいと野口にお願いをしました。このようなきっかけで、水俣にチッソ工場がやってくることになりました。
写真:曽木発電所遺構(相思社職員撮影、2009年11月24日)
チッソ旧工場
チッソは1908(明治41)年から、チッソ旧工場で化学肥料の製造を行いました。日本は外国と戦争をしていたため、外国から肥料を輸入することはとても難しく、肥料不足が起こっていました。このためチッソは製造した化学肥料を高い値段で売ることができました。お金をたくさんかせぐことができたチッソは、かせいだお金で新しい工場を建てるなど、会社をどんどん大きくしていきました。
写真:チッソ旧工場 (相思社職員撮影、2019年10月8日)
チッソ水俣工場
チッソ水俣工場ができて以来、それまで農業をしていた多くの人々が工場で働くようになりました。工場で働く人々は「会社行きさん」と呼ばれ、多くの市民にとって憧れの存在でした。会社が大きくなるにつれて働く人の数も増えていき、一番多いときには水俣市民の10人に1人がチッソに関係する会社で働いていました。チッソの工場長だった人が水俣市の市長になったこともあります。
チッソがあることによって、水俣には人が集まり、商店街もできて賑やかになりました。チッソは水俣の政治、経済の両方に大きな影響力を持っており、水俣の発展はチッソの発展と切っても切れない関係にありました。
写真:工場遠景(撮影年不明、写真資料ID 6641)
八幡残渣プール
水俣病が発生した当時、チッソはメチル水銀を含む水を百間排水口というところを通して水俣湾に捨てていました。しかし1958(昭和33)年から水を捨てる経路が変更され、八幡残渣プールを通して水俣川の河口に流されるようになりました。この当時水俣病の原因物質は明らかになっていませんでしたが、チッソの工場排水が原因として強く疑われていました。そこでチッソは、排水路を変更することで、濁ってしまった水俣湾の汚れが海底に沈んできれいな見た目になれば、会社への批判が止むと期待したのです。また、水俣川は不知火海に直接流れ込んでいます。そのためチッソは、水俣湾より大きな不知火海に排水を流せば、たとえ排水に水俣病の原因となる物質が含まれていたとしても、大量の海水で毒が薄められるのではないかと期待しました。このような考えのもとなされた排水路の変更でしたが、結果的に隣町の津奈木や芦北、対岸の天草にまで被害の範囲が広がることになりました。
写真:八幡残渣プール (1990年以前、写真資料ID 28966)
水俣病患者を支援する人たち
水俣病発生以来10年以上もの長い間、患者の立場にたって考え、患者を支援しようとする組織はいませんでした。患者たちはひっそりと暮らし、水俣病は忘れ去られようとしていました。しかし1968(昭和43)年、新潟水俣病の患者たちが水俣を訪問したことをきっかけに、水俣病市民会議ができました。これは水俣市民によって作られた、患者を支援するはじめての組織でした。市民会議ができたことで、患者たちは裁判にふみきることができました。
写真:水俣病市民会議の水俣駅前通りデモ(1970年代前半と推測、写真資料ID 2414)
裁判
1968(昭和43)年になってようやく水俣病は公害であるということが認められ、チッソの社長は患者たちに謝罪しました。その後チッソと患者は問題解決のための話し合いを行いましたが、お互いが納得するような結論は出せませんでした。そこで患者たちの一部はチッソを相手に裁判を起こし、数年間裁判が続いたあと、チッソは有罪となりました。排水を海に流す前に安全性を確認すべきであったということ、また安全でないことがわかったときにはすぐに排水を止めるべきだったのに、そうしなかったことなどが指摘されたのです。これを受け、水俣病患者たちには、つぐないとしてチッソからお金が支払われることになりました。
写真:裁判所に向かうバス(1969年-1973年と推測、写真資料ID 2565)、第一次訴訟判決日の熊本地裁前(1973年3月20日、写真資料ID 2270)
チッソとの直接交渉 1年9か月
患者の中にはチッソとの直接の話し合いで問題を解決しようとした人たちもいました。その人たちは、チッソは裁判(1次訴訟)に参加した患者だけでなく後から患者として認められた患者にもつぐないのお金を払うべきであると考え、チッソの会社や工場のまえで1971(昭和46)年から1年9ヶ月もの間座り込みを行い訴えました。しかし、水俣市長を含む多くの市民は、患者にお金を支払ったせいでチッソが倒産することをおそれ、チッソに味方しました。水俣市民の多くがチッソに関係する会社で働いており、もしチッソがなくなれば、自分たちの生活に悪い影響が出ると考えたからです。こうして患者の苦しみを理解する人は少なく、患者たちは地域のなかでますます助けがなくなっていきました。
水俣病の患者への支援
水俣病の患者を支援する輪は次第に広がっていき、集会や募金活動などが日本のさまざまな場所で行われました。水俣とは直接つながりのない都会の大学生や若者が、水俣病の映画を上映し、イベントを企画し、募金を集めました。チッソのまえの座り込みに参加する人や、長期休みには水俣を訪れて患者の生活を支援する人、中には水俣に移住して患者を支えた人々もいました。
写真:熊本市内の商店街(1969年-1973年と推測、写真資料ID 2289)
水俣病患者への補償
1973(昭和48)年に裁判が終わり、チッソの責任が認められて、患者に補償金(つぐないのお金)が支払われることが決定しました。その後、今まで水俣病であることを公表していなかったたくさんの患者たちも、自分を水俣病だと認めてほしいと声を上げ始めました。しかし、水俣病と認められるための基準は厳しく設定されており、実際には症状があるのに水俣病と認めてもらえない患者が多くいました。症状がある自分たちを水俣病と認めるようチッソと国(政府)、熊本県に求める人たちの運動や裁判が行われたのち、1995(平成7)年には政府から新たな解決策が発表されます。この解決策は、これらの人々を水俣病患者としては認めないものの、一定の感覚障害を有しているため、国や県などが代わりに医療費などを支払うというものでした。多くの患者たちは水俣病患者として認められることや、国や県の責任が明らかにされることを望んでいたため、この解決策は満足できるものではありませんでした。しかし患者の多くは高齢化し、残された時間と力はわずかであったため、この解決策を受け入れました。政府はこの解決策で水俣病事件に決着をつけるつもりでしたが、実際には解決策の対象外とされた患者や、時間が経ってから新たに名乗り出た患者たちがいました。そこで2009(平成21)年には新しい法律が作られ、これらの患者たちにも医療費などを支払うことが決められました。
写真:交渉のために東京を訪れた未認定患者たち(1988年7月26日、写真資料ID 15338)
百間排水口
チッソ工場が捨てたメチル水銀を含んだ排水は、主に百間排水口から海に流されました。百間排水口のそばには新潟水俣病で被害を受けた人々から水俣へ贈られたお地蔵さんが置かれています。新潟水俣病は、昭和電工という会社が阿賀野川にメチル水銀を流したことで発生しました。水俣病事件を決して忘れてはならないという想いが込められ、阿賀野川の石を使って作られました。水俣の人たちからはお返しとして、水俣川の石を使って作ったお地蔵さんが新潟の人たちへ贈られています。水俣の人々と新潟の人々は互いに支え合う交流を続けています。
写真:百間排水口(相思社職員撮影、2023年)
水俣湾の埋め立て工事
熊本県は1977(昭和52)年から1990(平成2)年の間、汚染された水俣湾を再生させるため、大規模な埋め立て工事を行いました。このとき、水銀を含む海底の泥を吸い上げ、水銀による汚染がひどかった場所に埋め立てました。また、水俣湾内を泳ぐ汚染された魚も捕らえて、吸い上げられた泥と一緒に埋め立て地に埋めました。
埋め立て地の壁(鋼矢板シェル)はとても重要で、もしこの壁が壊れてしまうと、埋められている水銀が再び海に流れ出してしまうかもしれません。そのためこれからも、壁に異常がないかどうか確認をし続ける必要があります。
仕切網
1974(昭和49)年には、水俣湾を仕切るための大きな網が取り付けられました。水俣の海辺には看板が立てられ、水俣湾の仕切網の内側にいる魚はメチル水銀で汚染されているため、とらないようにと呼びかけられました。
水俣湾に取り付けられた仕切網は網の目があまり細かくなかったため、大きい魚は網を通り抜けられませんが、小さい魚は通り抜けていくことができました。また、船の出入りのために仕切網があいている場所には、魚が近づくことを嫌がる装置が取り付けられましたが、その装置の周りには魚がたくさん集まっている様子も見られました。いちど汚してしまった海を完全に仕切ったり、水銀を取り込んだ魚を全部閉じ込めることは、人間の力では不可能なのです。
写真:水俣湾の水中写真 仕切網(写真資料ID 15996)、仕切網の開口部に置かれた魚が嫌がる音がでる装置(写真資料ID 33034)
水俣湾の魚
仕切網の内側を泳いでいた魚は水銀で汚染された魚であるとされ、水俣の漁師たちによってとられました。とられた魚はチッソによって買い上げられ、コンクリートと一緒にドラム缶に詰められて埋立地に埋められています。魚が詰められたドラム缶の数は、約2500本にものぼりました。これまで海や魚と強い結びつきを持って生きてきた漁師たちにとって、埋め立てるために魚をとるのはとても悲しいことでした。
1997(平成9)年には、仕切網内の魚に含まれる水銀の量が、3年連続で国が定めた基準よりも低くなったことが確認されました。そのため仕切網は撤去されて、水俣湾での漁業が再開しました。
水俣湾埋立地
1977(昭和52)年から1990(平成2)年にかけ、水俣湾の埋め立て工事が行われました。約13年の歳月と485億円の費用をかけて、水銀を含む海底の泥の吸い上げや、水銀による汚染がひどかった場所の埋め立てなどが行われました。これによって海底に溜まっている水銀がかきまぜられることになり、汚染が再び拡大してしまうのではないかと心配した人たちもいました。完成した埋め立て地は約58ヘクタールの広さで、地上には公園が整備されています。
現在、水俣湾の埋め立て地の上は「エコパーク水俣」と名前をつけられた公園になっています。そこには石で作ったたくさんのお地蔵さんや仏像などが置かれています。魂石と呼ばれているこの石像は、水俣湾埋立地は水俣病事件によってさまざまな生き物の命が失われた場所であることを忘れないために作られました。この場所が失われたすべての魂が還りつく場所になってほしいという祈りを込めて、患者やその関係者たちの手によって彫られたものです。
実生の森
エコパーク水俣(水俣湾埋立地)に「実生の森」という場所があります。この森は、患者や漁民を含めたさまざまな市民が共同で種から森づくりをすることを通し、もういちど良い関係を築いていこうという目的のもとで行われました。1997(平成9)年に植えた苗は、25年以上が経ち、大きくなっています。
写真:植えられた直後の実生の森の苗木(写真資料ID 23547)
慰霊式
水俣病の公式確認の日である1956(昭和31)年5月1日にちなんで、水俣市では毎年5月1日に「水俣病犠牲者慰霊式」が行われます。これは、水俣病の犠牲となって亡くなった方々に祈りを捧げるとともに、環境破壊に対して深く反省し、環境再生への誓いをあらためて行うことを目的としています。会場は水俣湾埋立地で、式典には犠牲になった方々の家族、患者やその家族だけでなく、環境大臣・熊本県知事・国(政府)や県の関係機関の代表・チッソ代表やさまざまな市民が参加します。
写真:水俣メモリアルで行われた慰霊式(1998年5月1日、写真資料ID 8106)、水俣湾埋立地で行われた慰霊式(2022年5月1日、相思社職員撮影)
慰霊祭
水俣病の犠牲者をまつる乙女塚では、水俣病の公式確認日である1956(昭和31)年5月1日にちなんで、毎年5月1日に慰霊祭を 開催しています。慰霊祭は患者の団体によって行われ、患者とその関係者が犠牲になった方々に祈りを捧げ、ひとときを共に過ごします。
写真:慰霊祭(相思社職員撮影、2006年5月1日)
チッソの現在
チッソは2011(平成23)年に新たにJNCという子会社を設立し、製品をつくる事業をすべてJNCに受け渡しました。現在チッソは患者たちへの補償金の支払いなど、水俣病に関連した業務のみを行っています。
みかん山
水俣病事件の影響によって海で漁をすることが困難になった漁師たちは、生活を続けていくために甘夏みかんを作り始めました。甘夏みかんの栽培を始めた人の中には、「水俣病の被害者が、畑に農薬をまくことで新たな加害者になってはいけない」と考え、農薬や化学肥料を全く使わなかったり、使う量をできるだけ少なくしようとしたりする人たちが現れました。水俣産の農産物は、水俣病のイメージによってあまり売れなかった時期もありました。しかし、水俣病の教訓を活かしたこれらの取り組みにより、安心・安全の「水俣ブランド」として認められてきました。
お茶
水俣市の広い部分は山が占めています。水俣の山間部の特産品はお茶です。水俣でのお茶づくりは100年以上前に始められていて、長い歴史を持っています。しかし、「水俣」という地名の持つ病気のイメージのせいで、作ったお茶を「水俣のお茶」として売り出すことは、長い間とても難しいことでした。今では、「公害の経験を持つ水俣のお茶だからこそ、自然にも人の健康にもやさしくありたい」と考えたお茶農家によって農薬や化学肥料を全く使わないお茶づくりも行われています。
写真:水俣の山間部にひろがる茶畑(相思社職員撮影)
サラダ玉ねぎ
水俣市とその隣の芦北町では、玉ねぎの栽培が盛んです。この地域の気候を生かして、他の生産地より早く収穫されます。サラダ玉ねぎはみずみずしくて辛みが少ないので、生でサラダとしておいしく食べられます。サラダ玉ねぎを育てるときに使用する化学肥料や農薬の量をできるだけ減らす取り組みを行っている農家が多くいます。このような取り組みは、水俣病という深刻な公害を経験したからこそ安全な作物を育てようという考えのもと行われていますが、以前あるテレビ番組がサラダ玉ねぎについて取り上げた際、産地が水俣市であることを隠して放送するという出来事がありました。一度ついてしまった公害のイメージを取り除くのは簡単ではありません。
写真:サラダ玉ねぎ(相思社職員撮影)
御所浦島
水俣の対岸には天草の島々があります。その一つが御所浦島で、日本最大級の肉食恐竜の化石がみつかったことから「恐竜の島」として知られています。水俣病が発生した当時は、御所浦島の人々も水俣の人々と同じで魚をたくさん食べる暮らしをしていました。また、御所浦島の漁師たちが船に乗って水俣にやってきたり、水俣の近くの海で漁をすることもよくありました。そのため、御所浦島に住む人々のなかにも、水銀で汚染された魚を食べて水俣病になった人がたくさんいます。熊本県は1960(昭和35)年から、不知火海の周りに住む人々の髪の毛に含まれる水銀の量(毛髪水銀量)を調査したのですが、このとき最も高い920ppm(ppmは水銀の量を表す単位)という数値は御所浦島の女性でした。当時、水俣病に注意が必要とされていた毛髪水銀量が50ppmですから、この女性の体内にはとてもたくさんの水銀が存在していたといえます。しかしながら、この検査のデータは活かされず、女性は水俣病であると知らされないまま亡くなりました。御所浦島は水俣から遠く離れているため、病気についての情報が広まったり、御所浦島にも患者がいることが明らかになったりするまでには長い時間がかかりました。
写真:水俣から見える御所浦島(相思社職員撮影)
恋路島
恋路島は水俣湾の入口に浮かぶタブノキの自然林に覆われた島で、水俣湾埋立地からすぐ近くの場所にあります 。1960(昭和35) 年頃までは人が住んでおり、キャンプや海水浴場に利用されていましたが、現在は無人島です。恋路島にはさまざまな動物がすんでいるほか、準絶滅危惧種に指定されている植物が生えているなど、貴重な自然が残っています。
写真:水俣湾埋立地(親水護岸)から見える恋路島(相思社職員撮影)
冷水水源
水俣は湧き水がたくさんあります。冷水水源は、シイやクスノキなどに覆われた、うっそうとした林の中にあります。この水源では1時間に約125トンもの水が湧きだしているといわれています。また、冷水水源の近くにある袋湾の海底には「ゆうひら」と呼ばれる真水が湧いているところもあります。むかしからこの地域に住む人々は、飲み水をくみ、田んぼや畑で作物を育てるのに利用し、冷水水源の水とともに生活をしてきました。この場所には水の神様がまつられています。
写真:冷水水源(相思社職員撮影)
袋湾
水俣市の南部に位置する袋湾は大きな巾着袋のような形をしています。海底から真水が湧く場所がたくさんあり、むかしは様々な動物や植物が生きていました。潮が引いたときには干潟が広がり、人々は貝を掘ったりカニを捕まえたりしました。袋湾に注ぐ水路では、ウナギやアナゴをとることもできました。袋湾の周辺には、農業と漁業が盛んだった湯堂という集落や、漁業が盛んだった茂道という集落があります。このあたりに住む人々は町の中心部に住む人々よりもよく魚を食べました。そのため水俣病が発生したはじめの頃に症状の重い患者が多く見つかったのはこれらの地域でした。
写真:みかん山から見た袋湾(相思社職員撮影)
茂道
茂道という集落は、鹿児島県出水市との県境に位置します。茂道は対岸の天草から移り住んできた人々が多く住む地域で、主に漁業を営みました。そのため魚を食べる量も多く、水俣病が発生したはじめの頃に症状の重い患者が多く見つかった地域の一つでもあります。
むかしこの付近の海岸には茂道松と呼ばれる松が植えられていました。人々は海岸に松を植えることで、海をより豊かにしようと考えたのです。松によって水面にできた日陰が魚たちの休憩や産卵に適した場所になり、松の落葉によって栄養豊富になった土の養分が海に流れ込むことで、魚がよく育つからです。地域の人々に大切にされてきた茂道松でしたが、今ではほとんど残っていません。
現在の茂道には、みかん畑がたくさんみられます。これは、水俣病事件によって海で漁をすることができなくなった人たちが、代わりに陸の傾いた土地を利用してみかん栽培を始めたことに由来します。
写真:茂道のみかん山、茂道沖の海藻の森(相思社職員撮影)
境川
水俣市茂道のはずれには境川という川が流れており、この川を越えると鹿児島県出水市です。水俣病はその病名に「水俣」という地名がついているので、熊本県の水俣市で起きた病気であるというイメージが強いですが、実際には海はつながっているため、水俣だけで発生した問題ではありません。また、水俣やその付近でとられた魚が県境を越えてえて取引されることも少なくありませんでした。現在水俣病の被害者として認められている人たちのうち、約4人に1人は鹿児島に住んでいます。実は鹿児島県にも水俣病になった人がたくさんいます。
写真:県境の漁港(相思社職員撮影)
明神
水俣病が起こり始めた頃の明神には家が4軒しかなく、畑が広がるのどかな場所で、海がとても近くにありました。水俣湾が埋め立てられたあと海岸が遠くなり明神の風景は大きく変わってしまいましたが、ほとんどむかしのままの自然海岸は今も残っており、多くの生き物がすんでいます。また、現在の明神には水俣市が運営する水俣病資料館なども建っています。
写真:玉ねぎ畑が広がる明神(2022年11月、相思社職員撮影)
寒川水源
水俣市の久木野寒川地区にある寒川水源では、標高902メートルの大関山の地下水が湧き出しています。水温は年間を通じて14度で、この冷たい水にちなんでこの場所は寒川と呼ばれるようになりました。地区の住民はこの湧き水を活用して、古くから棚田を守り棚田米を栽培してきました。この場所は真夏でも涼しいので、毎年多くの人が涼しさを求めて訪れます。また、水源のすぐそばで食べられる「そうめん流し」も有名で、水俣の人気観光地の一つです。
写真:寒川水源(相思社職員撮影)
SUP
現在の水俣の海では、SUPなどのマリンスポーツを楽しむ人々の姿があります。SUPとはスタンドアップパドルボードを省略した呼び方で、ボードの上に立って漕ぎます。水俣の海は1年を通して波が穏やかなので、SUPの初心者でもチャレンジしやすいといわれています。また、ボードには安定感があるので、車いすに乗ったままでも楽しむことができます。
水俣の海はダイビングをする人たちにも人気があり、タツノオトシゴなどの海の生き物の姿を間近で見ることができます。
写真:SUPを楽しむ人たち(からたち提供)
ごみ分別
水俣市では水俣病の反省を活かし、環境破壊をしない資源循環型社会を作るために、1992(平成4)年に「環境モデル都市づくり宣言」を行いました。特にごみの分別に力をいれており、分別の種類は全部で23あります。資源ごみの収集日は地域ごとに毎月1回設定されており、収集日には住民はその地区の資源物ステーションにゴミを持っていって、自分たちで分別します。市内の中学生が放課後、自分の地域の分別作業を手伝ったり、地域の人が分別作業にボランティアとして関わったりします。この活動は単にごみを収集するというだけでなく、地域に住む人々が毎月一度対面でのコミュニケーションをとる貴重な機会にもなっており、地域の活性化にも役立っています。
写真:ごみを分別する人(1990年代、写真資料ID 53562)
水俣病を伝える
水俣病事件によって人々は対立し、地域の人間関係は破壊されてしまいました。水俣では長い間、水俣病の話をすることさえ難しい状況がありました。しかし1990年代後半には、切れてしまった地域の絆を再び結び直そうという「もやい直し」の動きが、患者、地域住民、行政の間で始まりました。「もやい直し」という言葉は、漁師の言葉で船と船を結びつける綱のことを「もやい綱」と呼ぶことに由来しています。
このような動きの中で、患者の中には被害の経験を語りだす人も現れ、水俣市民どうしの対話の場も設けられました。現在では、水俣の経験に学ぼうとする人々が、患者の話を聞くために日本中、世界中からやってきます。水俣病事件の発生から長い年月が過ぎて患者が高齢化していくなかで、この経験をいかに次の世代に伝えていくのかが課題となっています。
写真:フィールドワークをする関東の大学生(2019年8月、相思社職員撮影)